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はっくなび
はじめに。誰にも言えなかったこと
恥ずかしくて、ずっと隠していたこと
(私は、35歳。グラフィックデザイナーとして、東京の片隅で静かに暮らしている)
朝は7時に起きて、家でコーヒーを淹れて、駅まで10分歩いて、電車に揺られてオフィスに着く。昼休みはたいていスマホをいじって終わる。夜は、帰宅して、夕飯はスーパーのサラダとパン、あるいはカップスープ。洗濯をして、お風呂に入って、寝る前にスマホを見る。それが、私の1日。
何かが足りない、と気づいたのは、もう何年も前だった。
仕事は、嫌いじゃない。でも、情熱を燃やせるわけでもない。ただ、淡々と過ぎていく。そんな日々の中で、私にはひとつだけ、誰にも言えない「秘密」がある。
——詩を、書いている。
小学生の頃から、なぜか心に浮かぶ言葉があった。たとえば、「ひとりぼっちの影が、夜に溶ける音」とか、「誰にも見つからないまま、咲いた花の話」とか。友達に話したら変な顔をされた。先生に見せたら「よくできました」と言われたけど、それきりだった。
だから、それ以降は誰にも見せなかった。ただ、ノートに書いて、机の引き出しにしまっておいた。大学生になってからはパソコンに、社会人になってからはスマホのメモ帳に。それだけが、私の中で生きている私だった。
SNSという“仮面”
三年前。ある日、ふと思いついて、SNSに詩を投稿してみた。匿名で、顔も名前も年齢も分からないアカウント。フォロワーは、たった8人。投稿しても「いいね」はゼロ。たまに1つつくと、「間違えて押したのかな」と思ってしまうほど。
でも、消せなかった。誰にも読まれなくても、なぜか、そこに書くと少しだけ心が楽になった。誰にも見せられなかった詩が、そこにはあった。
誰かに届けたいわけじゃない。ただ、「いる」ことを確かめたいだけ。そう思って続けていた。
だけど本当は、心のどこかで、誰か——たった一人でもいい、読んでくれる人がいたらいいのに、と思っていた。
そして、それが叶う日が来るとは、思っていなかった。
登場人物紹介
私(35歳・デザイナー)
都内のデザイン会社に勤務。派手さはなく、職場でも目立たない存在。恋愛経験はゼロ。学生時代から人付き合いが苦手で、自分に自信が持てない。夜な夜なSNSに詩を投稿するのが唯一の癒しだが、リアルでは誰にもその趣味を話せずにいる。言葉にすることで心を救ってきたけれど、言葉で人とつながったことは一度もない。
旦那くん(33歳・司書)
地方の小さな町にある図書館で働く男性。穏やかで物静か、本と静寂を愛する人。ある日、偶然見つけた詩アカウントに心を惹かれ、毎日のようにコメントを残すようになる。言葉の繊細さに敏感で、詩を通じて誰かの心に触れることに喜びを感じるタイプ。直接的な表現はしないが、文章や本の引用を使って気持ちを伝えるのが得意。
誰にも届かない詩
「こんなもの、誰も読まないよね」って、思ってた
夜、23時過ぎ。
部屋の灯りはスタンドライトだけ。ノートパソコンの画面が、私の顔を青白く照らしていた。
「今日は、投稿、やめとこうかな……」
(いや、でも……書いたんだから、出しとこう)
迷って、でも指が勝手に動いた。タイピングはもう癖になっていて、誰に見られるわけでもないのに、句読点の位置にもこだわってしまう。
《誰にも拾われなかった涙が、
夜の隅っこで、ひとりで光っていた。
それだけで、朝を待っていい気がした。》
打ち込んで、投稿ボタンを押す。
シュッと、青い投稿バーが進み、ツイート完了の表示が出た。
スマホでも確認して、そっと電源を切った。
(ああ……どうせ、また何もつかないんだろうな)
それが、いつもの夜だった。
なぜ書くのか、自分でもわからなかった
詩を書く理由は、いまだによくわからない。
別に文芸賞を狙ってるわけでもない。プロの詩人になりたいわけでもない。ただ、書かないと、自分が消えてしまいそうだった。
(……今日、あの会議、やっぱり私の意見、無視されたな)
(でも言い返せない自分が、悔しいような、どうでもいいような)
(あの時の空気、誰かにわかってほしい。できれば、ちゃんと、言葉で)
詩は、誰かと話せなかった分の“残り”だった。
現実では言えなかった想いを、文字の中でだけ生き延びさせる。
でも、それを読んでくれる人は、誰もいなかった。
ずっと、そう思っていた。
ひとつの「いいね」に、心が凍った
翌朝。通勤電車の中でスマホを開いて、思わず止まった。
(……え?)
通知に、「♡1」。
「いいね」が、ひとつ。
思い違いじゃないかと何度も更新した。でも、確かにそこにある。
そしてその下に——
「沁みました。」
たったそれだけのリプライ。
でも、私の心は、背中をぞくっとするほどの衝撃で満ちた。
(……誰?)
リプライ元のアカウントに飛ぶ。
名前も顔も出ていない、アイコンは淡い色の本棚の写真。
自己紹介欄には、こう書いてあった。
「図書館勤務。ことばの余韻を追いかける日々。」
フォロワー数、38。投稿は少なく、本や詩の引用がぽつぽつある。
穏やかで、でもなんだか、芯がある印象。
(この人……読んでくれたの?)
心が、ざわついた。
たった一言、「沁みました」。それだけで、昨日までの「誰にも届かない詩」が、まるで違うものに見えてくる。
反応が怖くて、でも見たくて
その日1日、私はスマホを何度も見返した。
仕事中も、昼休みも、帰りの電車でも。
他にリプはない。でも、その「沁みました」の一言だけが、何度見ても胸に響く。
(何が“沁みた”んだろう。どの言葉? 意味、ちゃんと伝わったのかな……)
(……いや、でも、嬉しい。嬉しい……)
恥ずかしいような、でも温かいような、混ざり合った感情。
この人は、私の言葉を“読んでくれた”のだ。流し読みじゃなくて、きっと、ちゃんと。
夜。私はまた詩を投稿した。
《わたしの声は、耳元じゃなく
胸の奥に届くように作ってある。
だから静かに読んでくれる人が好き。》
投稿後、しばらくスマホを見つめる。
通知が来るわけじゃない。でも、なぜか心はざわざわと揺れていた。
「また、読んでくれるかな」なんて、初めて思った
それまでの私にはなかった感情だった。
投稿しても、誰かが読んでくれるかどうかなんて、考えたことなかった。むしろ「読まれたら恥ずかしい」って思ってた。
でも今は——
(読んでくれると、いいな)
名前も知らない、顔も声もわからない誰かのことを、考えていた。
そしてその夜、返信が来た。
「“胸の奥に届くように作ってある”。
この一行、好きです。
とても静かで、でも力がありますね。」
……まるで、心の中にそっと手を差し入れて、柔らかい部分をそっと撫でられたような気がした。
(……ありがとう、って、言いたい)
だけど、なんて返せばいいか、わからなかった。
私はただ、また、静かに詩を書いた。
一人だけのコメント
繰り返される、たった一人との会話
(また、来てくれた……)
投稿してから1時間ほど経った頃、スマホに手が伸びる。
仕事帰りの電車の中、人混みに押されながらも、私の視線はスマホの小さな画面に釘付けだった。
そこにあったのは、彼のアカウント名と、また一言だけのコメント。
「今夜の詩、とてもやさしかったです。
“誰にもわかってほしくないけど、誰かに見つけてほしい”って、そんな気持ち、ありますよね。」
(……なんでそんなに、わかるの?)
胸の奥にあったはずの言葉を、他人の指がそっと撫でていく感覚。怖い。でも、それ以上に嬉しい。
私の詩を、わかってくれている人が、ここにいる。
まるで世界にひとつだけ浮かんだ小舟に、自分以外の誰かが乗ってきてくれたような気がした。
私の心が、勝手に動き出す
「沁みました」
「静かで、力強い」
「やさしかったです」
彼のコメントは、どれも短い。でも、どれもあたたかい。
一言一言が、私の詩を通り抜けて、私自身に届いてくる。
(……これまで、誰にも読まれないと思ってたのに)
嬉しさと同時に、怖さもあった。
私が書いた詩は、心の奥から引き出した、本当の自分だったから。
それを知らない誰かに読まれるのは、本来なら震えるほど恥ずかしいことだ。
でも——
(この人になら、読まれてもいいかも)
そう、思ってしまった。
確かめたくなる“あの人”の存在
朝、目覚めたとき。
仕事の昼休み。
夜、ベッドに入る前。
スマホを見る。
新しいコメントがないか、彼のアカウントが静かに浮かんでいるか、ついチェックしてしまう。
(また、読んでくれてるかな)
(今日の詩、どう思ったかな)
(変じゃなかったかな)
まるで中学生の頃に好きだった人の顔色をうかがっていた頃のように、私は今、彼の反応ひとつで心を動かされていた。
だけど、これは「恋」なのか、わからなかった。
ただ、彼のコメントを読むと、心がほぐれる。
1日が、少しだけやさしくなる。
そんな存在になっていた。
何も知らない。でも、わかる気がする
名前も、年齢も、顔も、住んでいる場所も、知らない。
彼が書く言葉以外、何ひとつ知らないのに、不思議と近くに感じていた。
彼のアカウントは、静かだった。
たまに、本の感想。
たまに、詩の引用。
たまに、図書館の窓から見えた夕焼けの写真。
どれも控えめで、主張がない。でも、その中に“ちゃんとした人”の雰囲気があった。
(この人は、たぶん、誰にでも優しいんだろうな)
(そして、少しだけ寂しい人かもしれない)
そう感じたのは、彼の言葉の選び方だった。
言い過ぎない。
押しつけない。
ただ、そっと触れる。
それは私が、ずっと欲しかった「関わり方」だった。
返信の代わりに、詩を書く
私は彼に返信をしなかった。
というより、できなかった。
「ありがとうございます」
「読んでくれてうれしいです」
「どの部分がよかったですか?」
そういった言葉を打っては消して、結局、DMもリプライも返さなかった。
(でも、私には詩がある)
だから私は、彼のコメントを読んだ後、その気持ちに応えるように新しい詩を書くことにした。
それが、私にできる唯一の“返事”だった。
《あなたが言葉を置いた場所に
私の心が静かに戻っていく。
ひとりでいたのに、誰かがいた。》
投稿後、スマホを伏せた。
心臓が、妙に高鳴っていた。
画面の向こうの読者は、もう“誰か”ではなかった
その夜、彼からリプライが来た。
「“あなたが言葉を置いた場所に”。
今日も、静かに沁みました。
ありがとう。」
(……ありがとう、って、言ってくれた)
ありがとう——その言葉をもらったのは、どれくらいぶりだろう。
心からの「ありがとう」を、ちゃんと誰かに伝えられたのは。
目頭が熱くなる。
でも泣くにはまだ早い。
もっと、ちゃんと、言葉を伝えたい。
そう思って、私はまた次の詩を考えていた。
毎日届く返信
ことばだけで、会話をしていた
「今日の詩も、染みました。」
「“目に見えない優しさが、風みたいに吹いた”——この一行、好きです。」
「まるで、水の底に落ちた光みたいでした。」
彼からのコメントは、毎日届いた。
それは、朝の始まりや、夜の静けさと同じくらい自然に、当たり前のように続いた。
(会ったこともない、顔も知らない。なのに、どうしてこんなに……)
彼の言葉は、誰よりも私の“中”を見てくれる。
それは怖いことでもあったけれど、それ以上に嬉しかった。
私たちは、詩だけで話していた。
「こんばんは」も、「今日は寒いですね」もなく、ただ詩を通して、感情のやりとりをしていた。
毎日、詩を書く理由ができた
「また、読んでくれるかな」
その気持ちが、今の私の原動力だった。
以前の私は、気まぐれに、ぽつぽつとしか投稿しなかった。
でも今は、毎日、彼が読んでくれることを前提に、詩を“届ける”ように書いていた。
まるで手紙のように。
《あなたが読むことを前提に、
選びました。
やさしすぎない言葉を。
近づきすぎない距離を。
それでも、あなたに届くように。》
投稿すると、数時間後には返信があった。
「まるで自分の心が、
静かな図書館に並べられているような気持ちになります。
言葉の選び方、とても好きです。」
(図書館……やっぱり、本当にそういう人なんだ)
はじめて、彼の“日常”が見えた気がした。
静かで、落ち着いていて、本に囲まれて、淡々とした仕事。
(……見てみたいな、その場所)
そう思ったとき、自分の中で何かが動き始めていることに気づいた。
そっと滲む、彼という人
彼のアカウントを改めて見返す。
フォローしているのは、本屋さん、詩人、文学好きの人たちばかり。
プロフィールに貼られたリンクは、小さな町の図書館の公式ページ。
(ここにいるのかな……)
ページの中には、スタッフの紹介も、建物の写真もない。
でも、想像が広がった。
午前中の柔らかな光の中で、本を棚に戻している彼。
窓辺で、ふと立ち止まって、遠くを眺めている彼。
カウンターの内側で、黙々と貸出処理をしている彼。
——静かだけど、優しい眼差し。
——話しかけたら、驚いたように笑ってくれる人。
そんな人が、この詩を、毎日読んでくれている。
(……すごく、不思議だ)
でも、心があたたかくなる。
知らない誰かじゃない。“この人”だから、嬉しい。
画面の向こうで育っていくもの
周囲の人間関係は、変わらなかった。
職場の人とも、いつものように淡々と接するだけ。
「お疲れ様です」
「この案件、期限明日でしたよね?」
「すみません、直しておきます」
会話はあっても、感情のやりとりはない。
でも、SNSの中だけは違った。
投稿を押すとき、私は彼の顔を思い浮かべていた。
(“沁みた”って、また言ってくれるかな)
(“今日の一行、好き”って思ってくれるかな)
期待しすぎないようにしながらも、心は彼を待っていた。
毎晩、小さな青い通知ランプが点滅するたび、
私は何度も画面を開いてしまう。
気づけば“特別な読者”になっていた
ある日、職場で突然ランチに誘われた。同期の女性が、何気なく聞いてきた。
「最近、楽しみとかあるの? なんか元気そうだね」
思わず言いかけて、口をつぐんだ。
(SNSで、毎日詩を読んでくれる人がいて……)
そんなこと、言えるわけがなかった。
私はただ、笑って誤魔化した。
「ううん、特にないよ」
でも内心ではこう思っていた。
(……あるよ。たった一人だけの、読者がいる)
声も知らないのに、安心できる不思議
彼のリプライには、どこか“安心感”があった。
無理に褒めない。
でも、ちゃんと感じてくれている。
「この詩、読みながら雨の音が聞こえてきました。」
「なんだか、心がほどけるような時間になりました。」
どれも詩的で、でも過剰じゃない。
静かな場所で、静かに読んで、静かに返してくれる——そんな律儀さ。
(……この人と話したら、どんな声なんだろう)
(本当に、存在してるのかな)
(この人に、会ってみたい……)
思ってはいけないことを、つい心に浮かべてしまう。
でも、それはまだ早い。
今はただ、詩のやりとりだけで十分だった。
十分なはずだった——。
DMが届いた日
通知の“1”が、心臓を強く叩いた
その夜も、私は詩を投稿していた。
タイトルはつけず、ただ、短い3行だけ。
《静かに落ちた夜の中、
返事のない空を見上げてたら、
いつの間にか、誰かがいた。》
投稿してスマホを伏せる。
いつもなら、そこで深呼吸してベッドに入るのに、
なぜかその日は、もう一度だけ画面を見たくなった。
(……あれ?)
DMの通知。未読メッセージがひとつ。
差出人は、彼だった。
「直接、お礼を伝えたくて。」
その文面を見た瞬間、心臓が喉の奥まで上がってきたような気がした。
言葉が、出ない。指先が、冷たくなる。
(……DM?)
初めて、詩じゃない“ことば”が来た。
それだけで、世界が揺らいだ。
開くべきか、閉じるべきか
スマホを握ったまま、しばらく動けなかった。
(どうしよう……開くべき? でも、なに話すの?)
今まで、彼とは詩だけでつながっていた。
匿名の、名前のない、距離のある関係。
でもDMは、違う。
直接の言葉。
心の奥に、ぐっと踏み込んでくるやりとり。
(……けど、無視したくない)
震える指で、ゆっくりとDMを開く。
はじめての“詩じゃない会話”
「こんばんは。突然すみません。
ずっと、詩を読ませていただいていました。
毎日、ほんとうに沁みていて……
いつか、直接お礼を伝えたくて。
急に失礼だとは思ったんですが、どうしても。」
丁寧で、慎重な言葉。
読みながら、何度もまばたきをしてしまう。
(本当に、この人が書いたんだ……)
詩と同じ。
無理がなくて、やさしくて、でも“本気”の温度が伝わってくる。
——どうする? 返事、する?
不安と嬉しさが交錯しながら、私はスマホを握りしめた。
震えながら返した言葉
(ここで、ちゃんと返さなきゃ、きっと後悔する)
(でも……変じゃないかな、私……)
指が、迷いながらも動いた。
「読んでくださってたんですね。
コメントも、毎回とても励みになってました。
本当に、ありがとうございます。
返すのが怖くて、今まで何も言えませんでした。
でも、読んでもらえてすごく嬉しかったです。」
送信ボタンを押す瞬間、手が汗ばんでいた。
(やっちゃった……変だったかな……)
でもすぐに、返事が来た。
言葉が、あたたかくつながった
「いえ、こちらこそ、勝手に読んで勝手に励まされてて……
あなたの詩、たぶん、今の僕にとっては
本よりも正直に、心に入ってくるんです。」
「図書館で、本に囲まれてるのに、
たまに、何を読んでも心に届かない日があって。
そんなとき、スマホであなたの詩を読むと、
不思議と安心できたんです。」
(そんなふうに思ってくれてたんだ……)
スマホの画面が、じんわり滲んで見えた。
目が熱くなっていることに気づく。
(誰かに、そんなふうに言ってもらえる日が来るなんて)
今までずっと、心の奥で丸めてしまっていた“私”の存在を、
彼はまっすぐに受け止めてくれていた。
一歩、近づいた夜
それから、DMはぽつぽつと続いた。
短くて、やりとりもゆっくり。
でも、ひとつひとつが深かった。
「よかったら、お気に入りの詩を教えてもらえませんか?」
「最近、詩を書く時間ってありますか?」
「僕は、“静けさ”がテーマの詩が特に好きです。」
私は、少しずつ言葉を返す。
「お気に入り……難しいけど、“雨の重さ”ってやつかも。」
「最近は、あなたのコメントがあると書きやすくなってます。」
「“静けさ”は、私もずっとテーマにしてます。」
まるで、音のしない小さなボートで並んで漕いでいるような会話。
風が吹けば寄り添い、止まれば向き合う。そんな感じだった。
初めて知る“彼”のかたち
彼の文面から、少しずつ“彼という人”の輪郭が見えてきた。
・読書好き、でも静かな詩の方が好き
・毎日図書館に出勤して、閉館後の静けさが好き
・SNSは使わないけど、詩だけは読みたくてこのアカウントを作った
・自分では書かないけど、読むのが得意
そのどれもが、私の想像を裏切らず、でもさらに深くて優しかった。
(……この人に、会ってみたい)
(でも……そんなこと、言えるわけない)
心の奥で、その気持ちが膨らんでいくのを、私はまだ黙って見つめていた。
互いの本棚の話
「好きな本、ありますか?」
そのメッセージは、なんでもないように見えた。
「もしよければ……好きな本ってありますか?」
でも、それは私にとって、思っていた以上に深く刺さる問いだった。
まるで、胸の中の奥深くに積んであった“まだ誰にも触られたくなかった箱”に、そっと手を伸ばされたような。
私は数分間、スマホを見つめて言葉を探した。
(好きな本、なんて言えばいい?)
(格好いい作品名? 誰でも知ってる名作? それとも、ほんとのやつ?)
迷った末、素直に打ち込んだ。
「“夜と霧”が好きです。
読んだ後、言葉が出なかったけど、心の中で静かに何かが立ち上がった気がして……」
送った直後、少し後悔した。
(重すぎたかな……話しづらい人だと思われるかも)
だけど彼の返信は、すぐに届いた。
「わかります。
あの本、読んだ後は、日常の小さな言葉が急に透明になりますよね。
僕も、しばらく図書館の仕事が手につかなかったです。」
(……この人、本当に、私と似てる)
心の奥で、静かに、でも確実に“安心”が芽吹いた。
本があれば、心は繋がれる
それから、やりとりは“本の話”に花が咲いた。
「村上春樹の“海辺のカフカ”はどう思いましたか?」
「“冷静と情熱のあいだ”、私は最後の2ページで泣きました」
「“蜂蜜と遠雷”は、詩のリズムを思い出させてくれる気がします」
彼も、同じようにたくさんの本を挙げてくれた。
「“海辺のカフカ”、あの静けさと狂気の間が好きでした」
「“冷静と情熱”の最後、あれはずるいですよね。あのタイミングであの言葉……」
「“蜂蜜と遠雷”は、音を読む感覚が詩に似てますね」
まるで、文字の中に棲んでいた日々が、重なっていく。
読んだ場所、感じたこと、記憶に残る一行——
そんな些細なことを話すだけで、心が近づいていくのを感じた。
過去の自分を、少しだけ話したくなる
「いつから詩を書いてたんですか?」
ふいに、彼からそう聞かれた。
(……どうしよう、答えていいかな)
でも、彼には話してもいい気がした。
「たぶん、小学生のときからです。
最初は作文が苦手で……
でも、短くていいなら、言いたいこと書けるかもって思ったのが始まりでした」
「友達に見せたら“変わってる”って言われて、ずっと誰にも言えなくなって。
SNSの詩も、最初は誰にも見られないつもりで投稿してました」
彼は、しばらくしてから、こう返してくれた。
「言葉って、時に刃にもなるけど、
たぶん一番先に、誰かの奥まで届く手段でもあると思ってます」
「あなたの詩は、誰にも見せたくなかったぶん、誰よりも深い。
だから、届いたんだと思います」
(……そんなふうに言われたの、初めてだ)
胸の奥に、じわっと温かいものが染みた。
私はスマホを握りしめたまま、しばらく動けなかった。
心が、柔らかくなる
それからの私は、どんどん変わっていった。
会社での時間は同じなのに、帰宅後にスマホを開くと心がほっとする。
彼のメッセージがそこにあるだけで、孤独が薄れていく。
誰にも言えなかった過去の話。
好きな本。
詩を書くときに思うこと。
日常で感じたささやかな寂しさ。
それを、やわらかく包むように聞いてくれる人がいる——
その事実だけで、生きることが少しだけ優しくなった。
本棚が似ていると、心も似る
「最近、図書館で“あなたの好きそうな詩集”を見つけました」
「“夜を言葉にするには、昼を捨てる覚悟が要る”って一節があって。
あなたの詩にも、似た香りを感じたんです」
私は、その一文を何度も読み返した。
(……そうか。昼を捨てる、か)
彼が言う“香り”が、自分の詩から伝わっていたなんて。
まるで、自分の姿を鏡越しに初めて見たような気がした。
「その一節、すごく好きです。
昼よりも、夜のほうが自分をさらけ出しやすいから、かもしれません」
「それ、図書館で見かけた本のタイトル、教えてもらえませんか?」
「もちろん。明日確認してきますね。」
そんなやりとりが、愛おしくてたまらなかった。
「会いませんか」
ふいに届いた、たった一文
その日は、風の強い夜だった。
窓の外では、乾いた枝が音を立て、カーテンが少し揺れていた。
パソコンを閉じて、ベッドに腰を下ろした私は、
いつものようにスマホを手に取った。
彼からのメッセージが、そっと届いていた。
「……会いませんか?」
たったそれだけ。
でもその一文が、心臓に直接指を差し込まれたように、ドクンと脈を打たせた。
(……会う? 彼と?)
画面を見つめながら、呼吸が浅くなる。
手が震えていた。
期待と、不安と、逃げたい気持ちと
(会いたい、と思ってたのは私だ)
(でも、実際に“会おう”って言われると……どうすればいい?)
スマホを持ったまま、部屋を歩き回った。
冷たい床が足の裏に沁みる。
(会ったら、幻滅されるかもしれない)
(詩だけの私の方が、良かったって思われるかもしれない)
(会話、ちゃんとできるかな……)
(変な人って思われないかな)
でも、もう一つの声が胸の奥でささやく。
(……会いたい)
(この人に、ちゃんと“ありがとう”を言いたい)
(言葉だけじゃなくて、ちゃんと、私の声で)
しばらく考えて、
やっとの思いで、返事を書いた。
ぎこちなくて、でも本音の返事
「驚きました。
正直、すごく怖いです。
でも、それ以上に、お話したい気持ちがあります。」
「会って、変だと思われてもいいから、
詩じゃなくて、ちゃんと伝えたいことが、たくさんあるんです。」
送信ボタンを押すとき、深呼吸をした。
(もう、戻れないかもしれない)
でも、それでよかった。
現実の中に差し込む、やさしい光
返信はすぐに届いた。
「……ありがとうございます。
僕も、詩だけでつながってるのが心地よくて、
でも、それだけじゃ届かないことがある気がして。
ちゃんと、あなたの声で聞いてみたいと思いました。」
「無理にとは言いません。
でも、気持ちが同じなら、嬉しいです。」
(同じ……同じだ)
この人は、やっぱり誠実だ。
ゆっくり、優しく、でも嘘のない人。
その言葉に、背中を押された。
会うなら、どこで
「場所は、あなたの行きやすい場所で大丈夫です。
もしよければ、僕の職場近くの図書館でも。」
「あ……もちろん、来てって意味ではなくて。
駅のカフェとかでも。ご都合に合わせます。」
「……図書館、ちょっと覗いてみたいかもです」
「あの静かな空間、少しだけ覗いて、
それからカフェで、少しだけ話しませんか?」
自分でも驚くほど、スムーズにそう書いていた。
(図書館——彼がいる場所。
彼が、毎日詩を読んでくれていた場所)
なんだか、その空気に触れてみたかった。
「じゃあ、駅の改札出てすぐのところにある喫茶店で待ち合わせしましょうか」
「その日、僕は午後まで勤務なので、16時くらいには行けます」
「わかりました。……ドキドキしますね」
「僕もです。
もし会ったら、最初に“沁みました”って言いますね」
思わず、笑ってしまった。
(そんなの、反則でしょ……)
会う日が決まった
次の日から、私は毎日、落ち着かなかった。
服を何度も見直し、
髪を少し整えてみたり、
鏡の前で、笑顔を練習してみたり。
それまでずっと、詩を通して“見られていなかった私”が、
急に現実の光の中に出ていく。
(……大丈夫かな)
でも、どこかで確信もあった。
(この人なら、私の“言葉”を読んでくれた人なら、
きっと、私の中身を見てくれる)
その日が来るまで、私はあと三つだけ詩を投稿しようと決めた。
これまでの“私”として、最後に残す詩。
その1つ目には、こう書いた。
《顔も知らなかったのに、
あなたは私の内側を知ってくれた。
だから、外側で会うことが、ちょっとだけ怖い。》
図書館の片隅で出会った人
駅までの道、心臓の音がうるさかった
約束の午後4時。
私は、予定より30分早く駅に着いていた。
ホームのベンチに腰を下ろしても、心臓がずっと早足だった。
スマホの画面には、彼からの最後のメッセージ。
「16時ぴったりくらいには、喫茶店にいます。
緊張しすぎて飲み物すぐ飲み干しちゃうかもです(笑)」
(……わたしのほうが緊張してるよ)
でも、どこかその文面のユーモアに救われた。
外は初夏の風。
シャツの袖口から風が入り、冷たさが肌を撫でてくる。
そのたびに、自分が“現実”にいることを思い出す。
(いよいよだ。会うんだ……)
喫茶店の扉の前で、いったん深呼吸をした。
扉の向こうに、静かな人がいた
ガラス越しに、彼の姿が見えた。
白シャツに、柔らかそうな黒のカーディガン。
手元には文庫本。
そして、眼鏡の奥で、ゆるやかにまばたきをしていた。
私は一歩、店に入った。
「……あの」
声が出るまでに、少し時間がかかった。
彼が顔を上げて、目が合った瞬間。
私の時間が、一瞬止まった。
優しい目だった。
穏やかで、思っていたよりも静かな表情。
それでも、しっかりとこちらを見ていた。
「……沁みました」
その一言で、私の緊張の糸が切れた。
思っていたよりも、あたたかかった
「よく……来てくれました」
彼が、ほんの少し声を震わせながら言った。
(想像よりも、低くてやさしい声)
「こちらこそ……ずっと、お礼が言いたかったんです」
(自分の声が、妙に上ずっていた)
店員さんが水を持ってきてくれる間も、私たちは何も話さなかった。
でも、沈黙が苦しくなかった。
目の前にいるのは、確かに“あの人”だった。
詩にコメントをくれていた人。
私の心の奥まで、毎晩そっと触れてくれていた人。
話すことが、怖くなくなる瞬間
「実際に会って、驚かれませんでしたか……?」
私が聞くと、彼はすぐに首を振った。
「いえ。むしろ、落ち着きました。
文章の雰囲気、そのままだったので。」
「……よかった」
(本当に、よかった)
「でも、僕のほうが驚かれると思ってました。
なんていうか、見た目、想像より“普通”で……」
「普通でいいんです」
私は、笑って言った。
「特別すぎるより、“普通”のほうが信じられる気がするから」
彼も、ふっと口元をゆるめた。
その笑顔が、想像以上にあたたかくて、胸がじんわり熱くなった。
図書館に、寄ってみませんか?
カフェで1時間ほど話したあと、彼が少しだけ迷いながら切り出した。
「もし……迷惑じゃなければ、
図書館、ちょっとだけ、寄ってみますか?」
「……行ってみたいです」
私は、即答した。
それは、彼の“日常”であり、
私が何度も想像してきた風景のはずだった。
歩きながら、私たちは並んでいたけれど、ほんの少し距離があった。
でもその距離が、今はちょうどよかった。
道中は、静かだった。
でも、言葉がなくても平気だった。
図書館の建物が見えたとき、私は少しだけ息を呑んだ。
(……この場所で、私の詩を読んでくれていたんだ)
図書館の窓際、あの席に
「よく、ここに座ってました」
彼は、窓際の一角を指差した。
木製の机。小さな観葉植物。
陽の光がうっすら差し込んでいて、空気に静かな厚みがある。
「ここで、あなたの詩を読んで、
小さくうなずいたり、感情を噛み締めたりしてました」
「……なんだか、想像してた通りです」
私は、空席を見つめながら呟いた。
静かで、やさしくて、ちょっとだけ寂しい空間。
でも、だからこそ誰かの詩を心に迎え入れられる。
「ここで読んでくれてたこと、思い出として、ずっと大事にします」
彼が、ゆっくりと目を伏せたあと、こう言った。
「……あなたの詩を読む時間が、
僕の中では、日常になってたんです。
詩を読む前と後で、世界の色が変わるような。
だから今、こうして隣にいることが、まだ信じられないくらいです」
(……わたしも)
だけど、たしかに、隣にいた。
読者から、支えへ
詩だけじゃない“私”を、見てくれる人
あの日、図書館の帰り道で交わした会話は、
これまでの詩のやりとりよりも、ずっと少なかった。
でも、なぜか心の奥に深く残った。
「今日はありがとうございました」
「こちらこそ……現実で会えて、本当に嬉しかったです」
「また、会ってくれますか?」
「……もちろんです」
その「もちろん」が、あたたかかった。
軽くなくて、重すぎなくて、ちゃんと心の温度で届いた。
それからの私たちは、“会う”という選択肢を持つようになった。
日常に、彼が入り込んできた
それは、最初は月に一度の頻度だった。
待ち合わせて、喫茶店で話す。
本の話、詩の話、季節の話。
たまに沈黙。でも、それすら心地よかった。
ある日、仕事帰りの私が疲れ果てて、返信を返せなかったとき。
スマホには、彼からの短い一文があった。
「今日は、言葉が静かに休んでる日ですね。
ゆっくり眠れますように。」
(……わかってくれてる)
その一文だけで、涙がにじんだ。
何かを求めるでもなく、ただ“静かに寄り添う”という行為。
ああ、私が欲しかったのは、これなんだ。
はじめて、詩を書けなかった日
ある週末、どうしても詩が書けなくなった。
言葉が降りてこない。
紙に向かっても、指が止まる。
(なぜ書けないの? 彼が見てるのに)
(期待されてるのに、私、もう出せないの?)
焦りと自己嫌悪で、心がざわつく。
そんな夜、彼にだけは正直に言えた。
「……今日は、書けませんでした。
言葉がどこかに隠れてしまったみたいで。」
すると、彼からこう返ってきた。
「それも詩の一部じゃないでしょうか。
書けない時間も、言葉の準備期間かもしれません。
あなたは、急がなくていいです。」
「詩は、あなたの心が動いたときに自然に生まれるものですから。」
(……そう言ってもらえるのが、どれだけ救いになるか)
詩を「作品」としてではなく、
私の「呼吸」として受け止めてくれる人。
そんな人は、今まで誰一人いなかった。
彼の存在が、詩を変えていった
それからの私の詩には、微かに“彼”が映るようになった。
直接名前を書かない。
でも、言葉の端々に、彼が読んだらわかるような痕跡を残した。
《風の音が優しかったのは、
誰かが隣にいた証拠。
ひとりぼっちの世界に、足音が混ざった日。》
彼からのコメント。
「“足音が混ざった日”、今日の詩は、
読みながら心がじわっとほどけました」
「あなたの書く“孤独”は、
誰かが寄り添ったときに、より一層美しくなる気がします」
そんなふうに言ってくれる人が、ただの“読者”でいられるわけがなかった。
「詩だけの関係」ではなくなっていた
次に会ったとき、私はつい、ポロリと言ってしまった。
「私……詩を書くことが怖くなるときがあるんです」
「書いても、誰にも届かないかもしれないって」
「書いたら、拒まれるかもしれないって」
彼は、驚くほどまっすぐな目で私を見た。
「でも、届いてます。
少なくとも、僕には、ずっと届いてきました」
「誰に届くかなんて、あなたが選べないことだから」
「でも、書くという行為を、あなたが信じられなくなったときは——」
「僕が代わりに、信じます」
(代わりに、信じる)
その言葉は、雷のようだった。
私はそれまでずっと、“信じる”という作業を独りでしてきた。
届くかもわからない場所へ言葉を投げ続ける日々。
でも今、信じることを“誰かと分け合える”という感覚に、初めて触れた。
(この人は、もう“読者”じゃない)
(……私の“支え”になってる)
詩に書かれたプロポーズ
小さな詩集が、そっと差し出された
ある雨の夕方だった。
待ち合わせよりも早く着いた私に、彼は喫茶店の席で手渡してくれた。
表紙は、淡い灰色。まるで霧がかった早朝の空のような色だった。
厚みはなく、ほんの20ページほど。
「……何これ?」
(心がざわざわする。これは、何かを“預けられる”ときの気配)
彼は、少し照れくさそうに、でも真剣な目で言った。
「僕の“初めての詩”です。
あなたの詩を、読んできたからこそ、書けたものなんです」
(……彼が、詩を?)
私はページを開いた。
そこには、彼らしい、静かで、でも確かに熱を帯びた言葉たちが並んでいた。
一つ一つの詩が、わたしを辿っていた
《あなたの書いた言葉の隙間に、
僕は毎晩そっと寝転んでいた。
気づかれないように、
でも、見つけてもらいたくて。》
(……これは、私の詩を読んでいた頃のことだ)
《誰にも言えなかった優しさが、
あなたの中には、
音のしない水面のように、広がっていた。》
(やめてよ、泣いちゃう……)
彼の書いた詩は、どれも“わたしの存在”を包み込むようだった。
私がひとりで書いていたつもりだった言葉たちを、
ちゃんと誰かが受け止めて、返してくれていたんだと知った。
そして、最後のページに——
ページをめくる手が、止まった。
最終ページ。
他の詩とは違って、そこにはたった一行だけが、静かに書かれていた。
《これからは、あなたの隣で詩を読みたい。
結婚してください。》
一瞬、時間が止まった。
(……うそ)
目を見開いたまま、私はそのページを見つめていた。
言葉の意味はすぐにわかったのに、心が追いつかない。
「……それ、本気ですか?」
声がかすれていた。
彼は、まっすぐうなずいた。
「本気です。
ずっと、あなたの言葉に救われてきました。
でも、いつからか、救われるだけじゃ足りなくなって。
一緒に“明日”を読んでいきたいと思うようになったんです」
私の返事も、言葉で
私は、小さく息を吸った。
涙がこみ上げていたけど、
泣く前に、どうしても伝えたかった。
私は自分のスマホを取り出し、メモアプリを開いて、
短い詩を、たった今、その場で書いた。
《夜にしか咲けなかった言葉が、
朝日で初めて色を持った。
あなたの隣で、やっと声になれた。》
そして、その下にこう添えた。
「はい、よろしくお願いします」
彼はその画面を見て、目を見開いたあと、ふっと息をこぼした。
そして静かに、でも確かに、私の手を握ってくれた。
言葉で始まった、言葉で結ばれた恋
誰にも見せられなかった詩。
ひとりで書いて、ひとりで飲み込んでいた日々。
その“ことば”を、たった一人の人が読んでくれた。
毎日、ひとつずつ。
詩を通して、私を知ってくれた。
“私という存在”を、大事に受け取ってくれた。
——そして、愛してくれた。
私たちは、特別な言葉を交わさなくても、
ちゃんと“伝えたいこと”を知っている。
これからは、詩だけじゃなくて、
日常の、ささいな言葉でも、
互いを支え合っていけると、そう信じている。
終章のあとに
彼と結婚してからも、私は詩を書き続けている。
だけど、少しだけ変わった。
前は、誰にも届かなくていいと思っていた。
今は、彼に読んでもらいたくて、書いている。
そして、たまに彼も、私の隣で詩を書くようになった。
静かに、並んで座りながら、
ひとつの窓の外を見て、
同じ空気を吸って、
同じ時間の重みを感じながら。
言葉だけじゃ、足りなかった日々。
でも、言葉から始まった恋が、今、私たちの世界を支えている。
完