この馴れ初め話は著作権フリーで改変も自由・YouTubeの素材やSNSでご使用いただいても問題はありません。ただ以下のリンクを張っていただけたら幸いです。
はっくなび
はじめましての人が、なぜか特別だった
登場人物と、私のこと
(これは、私が“慎重すぎて損をしてきた人生”の、ちょっとだけ変わるまでのお話です)
私、36歳。調剤薬局の受付で働いています。職場は地域密着型の小さな薬局で、患者さんとは顔見知りが多く、忙しさはあるけれど人間関係には恵まれています。ただ、恋愛のこととなると、昔からどうにも不器用で…。
人に言わせれば、私は「丁寧すぎる」のだそうです。文章も、行動も、気持ちの表現も。確かに、マッチングアプリを始めてからも、メッセージの返信に毎回何時間も悩んでしまって、何日も放置してしまうことが多くて。たぶん、好意があっても、それをうまく伝えられないタイプなんだと思います。
職場と家の往復だけの毎日が長く続いていました。誰にも特別に思われないまま、ただ日々が過ぎていくような。そんな中で、ふと始めたのが、マッチングアプリでした。
最初は本当に気軽な気持ちで。真剣というより、誰かとメッセージのやりとりでもできれば、くらいに思っていたんです。プロフィールも最小限、写真も加工なし、趣味も特にこれといって目立つものはなし。
そんな私に「いいね」をくれた人が、彼でした。
彼は38歳。広告関係のデザイナーで、プロフィールは短文ばかり。「静かに本が読めるカフェが好き」とだけ書いてあって、正直、少しも派手さがない人。…でも、なぜか気になったんです。
彼の顔写真は、明るいところで微笑んでいるものだったのに、どこか陰があるように見えて。表情は柔らかいのに、目元にだけ少し、寂しさみたいなものが滲んでいて──。
(なんだろう、この人)
気になって、初めて「ありがとう」を返して、そのままマッチング。そこから、私たちの3通だけのやりとりが始まりました。
一通目の「はじめまして」
その一言が、やけに静かだった
メッセージが来たのは、マッチング成立の翌日。開いた画面に、たった一文だけが表示されていました。
「はじめまして。ご挨拶だけでも失礼します」
シンプルな文面。絵文字もなし。よくあるテンプレートじゃなくて、きっとこの人自身の言葉なんだな、と思いました。
けれど、すぐに返信することができなかった。
(なんて返せばいいんだろう…)
相手の言葉が丁寧すぎて、逆に緊張してしまったのです。軽く返すには、なんだかもったいない。ちゃんとした返事をしたくて、でも“ちゃんと”が何かわからなくて、そのままアプリを閉じてしまいました。
夜になって、ようやく文章を考えはじめる。でも、いざ打ち込んでみると、どうしても長くなってしまって…結局、こう書きました。
「はじめまして。ご丁寧にありがとうございます。まだアプリに慣れていなくて、ゆっくりのお返事になるかもしれませんが、よければ少しずつお話できたら嬉しいです」
(どうかな。重すぎる? でも、正直な気持ちを書いたほうがいいよね)
送信ボタンを押すまでに、さらに5分かかりました。心臓がどくんどくんと鳴って、スマホを置いた手が少し汗ばんでいました。
「既読」がつかないだけで不安になる夜
次の日、仕事から帰ってアプリを開いたけれど、「既読」にはなっていなくて。
(まだ読んでないだけ、忙しいのかも)
頭ではそう思いながら、何度も通知をチェックしてしまう自分がいました。情けないほど、自分の中で彼の存在が大きくなっていることに気づきました。
やっと「既読」がついたのは、その翌日。だけど、返事は来なかった。
──それでも、なぜかその静けさが嫌じゃなかった。
返事がない=拒否、ではない気がしたんです。ゆっくりなテンポでも、ちゃんと受け取ってくれている、そんな感じ。
それから、さらに一日。ようやく彼から2通目のメッセージが届きました。
二通目の『お好きな香りありますか?』
意外な質問に、すぐ返せなかった
彼からのメッセージは、またもやとても静かで、でも少しだけ角度を変えたものでした。
「お好きな香りって、ありますか?」
それだけ。たった一文。
でも、その短い言葉に、私は思わず息を止めたんです。
(香り…?)
恋愛アプリの会話って、「お休みの日は何してますか」とか「好きな食べ物は何ですか」とか、そういう無難なやり取りが定番じゃないですか。なのに、彼は“香り”っていう、なんだか少し個人的で、感覚的な質問をしてきた。
まるで、心の奥を軽くノックされたような気がしました。
(なんでそんなこと、聞いてくるんだろう)
その夜、仕事の後にふとアロマディフューザーを点けた時、ラベンダーの香りが部屋に広がって。
(ああ、私、この香りが好きだ)
いつも疲れて帰ってくるから、部屋にこの香りが漂うと、なんだか自分が戻ってきた気がする。張っていた気持ちがふっとほどけて、眠る前の世界にゆっくり沈んでいけるような──そんな感覚。
彼の質問は、私に「自分が何に安心して、何に癒されるのか」を静かに思い出させてくれた気がしました。
でも、だからこそ、簡単に「ラベンダーです」とだけ答えるのが惜しかった。
(せっかく聞いてくれたから、もう少し…ちゃんと伝えたい)
3日間、香りの話だけを考えていた
職場で患者さんに渡す湿布の匂いにさえ、私は反応するようになっていました。
「あ、これはユーカリ?」「メントールが強めですね」なんて、同僚の薬剤師さんに思わず話しかけて、「急にどうしたんですか」と不思議そうにされてしまったほど。
それくらい、私は彼の質問が気になってしまっていたんです。
けれど、どう返せば伝わるのか分からず、悩んだ末にようやく書いた返信が、これでした。
「ラベンダーの香りが好きです。帰ってきたときに部屋にその香りがすると、ちゃんと自分に戻れる気がして…。お香やアロマも少しずつ試していて、ジャスミンやヒノキも好きです。香りって、ふいに記憶を呼び起こしたりしますよね」
ちょっと長くなってしまったけど、それでも思い切って送信しました。
(変に思われないといいけど…)
彼の返事が、また優しかった
2日後、彼からの返信が来ました。
「ラベンダー、いいですね。落ち着きます。自分も昔、香水の仕事を少ししてたことがあって、香りの話を聞くのは好きです。ジャスミンもヒノキも、想像できます。言葉で香りを伝えられる人って、すごいと思います」
(…なんて、やわらかい返し方なんだろう)
彼の文章は短い。でも、読み返すたびにじんわりと温かくなる。
言葉数が少ないのに、こんなに心に届く人がいるなんて。私は少し驚いていました。
もっと話したい気持ちはあったけれど、その後の私からの返事は、なかなか送れなかった。なにかを求められているわけでもないのに、自分の中で、言葉を選びすぎてしまって。
(彼みたいに、自然に話せたらいいのに)
そう思いながら、メッセージ画面を開いては閉じ、開いては閉じ…。その間に、彼からの3通目が届いてしまったのです。
三通目の『よかったらまた』
優しいおわり方に、なにも言えなかった
彼からの3通目のメッセージは、あっさりしていて、やっぱり少し寂しげなものでした。
「お話できて嬉しかったです。よかったら、また」
たったそれだけ。
句点も絵文字もない。その代わり、押しつけがましさも一切ない。引き留めるような言葉も、期待を込めた雰囲気もなかった。ただ、そっとドアの前に立って、「じゃあ、また」と静かに手を振るみたいな、そんな雰囲気。
(ああ……)
私はそのメッセージを見た瞬間、なにも打てなくなってしまった。
既読をつけるのも、怖かった。
彼の言葉の向こうには、やさしい諦めがあった。返事が来なくても、もうそれ以上を求めない、静かな線引きみたいな。
私が今まで送ってきた“遅い返信”が、彼の中で「話す気がないのかもしれない」という結論になったとしても、それは責められない。
だって、私は実際、言葉にできていなかったのだから。
画面越しに、謝ることしかできなかった
スマホを持ったまま、私はベッドの上でずっと天井を見ていた。
「また」と言ってくれたのに、「また」は来なかった。
ただのメッセージのやりとり。それだけなのに、まるで誰かにフラれたみたいな気持ちになってしまって、自分でも驚いた。
「今、仕事が忙しくて」「返信遅くてごめんなさい」とか、「話したい気持ちはあるんです」とか、いくらでも言い訳は浮かぶ。でも、それを全部並べて送ったところで、きっと彼を困らせるだけだと思った。
それに、彼の「よかったら、また」には、“無理をさせたくない”という気持ちがにじんでいて、それがますます私を縛った。
(優しい人なんだな、この人…)
そう思えば思うほど、返事を送れなくなって、画面だけを見つめていた。
そして、時間はそのまま流れていった。
未送信メッセージと、流れていく日常
私はその後、何度もアプリを開いては、未送信のままメッセージを書いては消した。
「またって、言ってくれて嬉しかったです」
「実は、すごく丁寧に読んでいました」
「ただ、どう返していいか分からなくて」
何十通も頭の中でやりとりをして、でも、実際には一文字も送らなかった。
やがて、アプリの通知が来なくなって、やりとりの画面もタイムラインの下の方へと沈んでいった。
それでも私の中では、彼との3通のやりとりが、妙に残っていた。
言葉のやさしさとか、沈黙の安心感とか。派手さも刺激もなかったけど、なぜかあの3通は、他の誰よりも鮮やかに記憶に残っていた。
それでも現実は進む。
私の仕事は毎日変わらず忙しく、受付で処方箋を受け取り、保険証の確認をし、会計をして──気がつけば、季節は春から梅雨へ、そして夏へと変わっていた。
彼とのやりとりは、気がつけば3か月以上も前のことになっていた。
ふいに、通知が届いた日
それは、ある土曜日の午後だった。薬局のシフトが早番で、珍しく明るいうちに帰宅して、洗濯物を取り込んでいた時。
スマホに、ひとつの通知が届いた。
「○○さんを知っていますか? 知り合いかもしれません」
マッチングアプリからの再通知だった。私は何の気なしに画面をタップして、その“知り合いかも”の顔写真を見た。
そこに、あの人がいた。
あの、短い言葉で心を揺らした彼が──また、スマホの中に戻ってきた。
(嘘……)
信じられなくて、思わずスマホを落としそうになった。
けれど、顔写真はたしかに彼だった。
目元の陰り。ほのかに笑った口元。静かだけど、やっぱり優しいあの雰囲気。
半年近く経っているのに、私は一瞬で彼のことを思い出した。
しかも、彼のプロフィールには新しい一文が追加されていた。
「返信、遅い人でも、全然気にしません」
──それを見た瞬間、私は笑ってしまった。
笑いながら、涙が出た。
彼が、私のことを覚えていてくれたのかはわからない。でも、この一文が、まるで自分への再招待状のように思えて仕方なかった。
半年後の再通知
あの人が、もう一度スマホに現れた日
その日、私は洗濯物を取り込みながら、なんとなく心が軽かった。午後の光がカーテンを透かして、部屋の中が白っぽくなっていたのを覚えている。
何も特別な予定はなかったけれど、久しぶりに自分の時間が持てて、ふうっと息を抜いていた。そんな時、スマホが軽く振動して、「知り合いかも?」という通知が届いた。
(また、誰かの広告みたいなやつかな…)
そう思いながら、何気なく開いた。
でも、そこに出てきた名前と写真を見た瞬間、心臓が一度止まったような気がした。
あの人だった。
3通だけで終わった、でも忘れられなかった彼の顔が、画面の中にいた。
(え、なんで……)
言葉が出なかった。まさか、こんなふうに再び彼の姿を見るなんて、思っていなかった。
プロフィールの新しい一文が、胸に刺さった
彼のプロフィール文には、新しくひとことだけが足されていた。
「返信、遅い人でも、全然気にしません」
──それが、私の心のど真ん中に、すうっと刺さった。
たったこれだけの言葉なのに、どうしてこんなに響くんだろう。
この半年、私は時々彼のことを思い出していた。ラベンダーの香りをかいだとき、カフェでメニューを選んでいるとき、静かな夜にスマホの画面を見つめていたとき。
返事をしなかったこと、いや、できなかったこと。あの「よかったら、また」という言葉の優しさに、何ひとつ返せなかったことが、ずっと胸に引っかかっていた。
でも、彼はもう一度、ここに現れた。そして、私みたいな“遅い人”を、受け入れると宣言してくれていた。
(……もう一度、話してみたい)
そう思ったときには、もう指が動いていた。
「いいね」だけじゃ足りなかった
私は彼のプロフィールに、静かに「いいね」を返した。正直、手が震えていた。返信がくるかどうかなんて、まったく分からない。でも、待っているだけじゃ何も変わらないことを、あのとき痛いほど知った。
送信ボタンを押してから、私はリビングに戻って座り込んだ。
テレビをつけても内容が頭に入ってこない。時計の針の音が、やけに大きく感じる。
そして10分後。
「マッチングしました」
通知が、静かに画面を照らした。
(え……?)
信じられなくて、二度見した。でも、間違いなかった。彼が、すぐに「ありがとう」を押してくれていた。
胸の奥がじわっと熱くなって、でも、手が冷たくて。どうしていいか分からず、私はスマホを胸に抱えて、目を閉じた。
しばらく、動けなかった。
でも、最初のメッセージは、彼からじゃなかった
マッチング後、しばらくはどちらも何も送らなかった。静かなままの画面。まるで、お互いに“次の一手”を考えているみたいだった。
(きっと、彼も私がどう出るか待ってる…)
そう思った私は、珍しく自分からメッセージを打ち始めた。震える指で、何度も書き直しながら。
「以前、少しだけお話していたこと、覚えていますか?」
送信した瞬間、心臓が喉まで来るような気がした。
後悔はなかった。でも、怖かった。もしも彼が「覚えていません」と返してきたら、もしも、もう別の誰かとやりとりしていたら。
だけど、その返事は想像以上に早く、そして温かかった。
「もちろん。覚えてますよ」
たったその一文が、画面の中に表示された。
(あ……)
その瞬間、半年分の時間が、すうっと溶けた。
彼の言葉はやっぱり短くて、でも、変わらず優しかった。装飾も飾り気もない、でも、ちゃんと伝わる。
彼の中にも、あのときのやりとりが少しでも残っていたことが嬉しくて、私は画面を見ながら微笑んでいた。
言葉が少なくても、わかってくれる人がいる。そんな気持ちを、私は初めて知ったのかもしれない。
そして、私たちはまた、少しずつ話を始めた。
ゆっくり、慎重に。でも今度は、もう“終わりにしない”と心に決めながら。
カフェの入り口で立ち止まる私
行きつけのカフェ、偶然の再会
再びやりとりを始めてから、私たちは今度こそ“少しずつ”を大切にした。お互いに言葉は多くなかったけれど、そのぶん、1通1通がていねいだった。
「今日は雨ですね。ラベンダーの香りが似合いそうな日です」
「雨の音、昔から落ち着きます」
そんな、ちょっと詩みたいなメッセージがやりとりされるようになって、それだけで心が温まるのが不思議だった。
でも、実際に会おうという話にはならなかった。
たぶん、お互いにまだ少し怖かったんだと思う。
文章だけの距離感。それが居心地よかった。でも、ある日突然、その距離が一気に縮まる出来事が起きた。
「どこかで見たことある背中」に、胸が高鳴った
その日、私は職場の昼休みにひとりで近所のカフェに立ち寄った。
いつものカウンター席が空いていて、ほっとしながらドアに手をかけた──その瞬間だった。
入口のガラス越しに見えた背中に、心臓が跳ねた。
(え…?)
白いシャツに黒縁の眼鏡。猫背気味で、ノートPCを前に無言で画面を見つめている男性。
その肩のラインも、首の傾け方も、どこかで見たことがあった。
(まさか…でも…いや、似てるだけ)
自分に言い聞かせながら、私はドアに手をかけたまま動けなくなった。
心臓の音が大きくなる。手汗がにじむ。頭の中では、何度も彼のプロフィール写真がぐるぐると回っていた。
(声、かけるべき…? いや、でも本当に本人かどうか…)
そんなふうに迷っている間に、後ろから別のお客さんが入ってきて、私は仕方なく一歩店内に入った。
静かな空気の中、目が合った
彼はこちらに気づいていなかった。イヤホンを片耳だけにつけて、画面の上でなにかを作っているようだった。
カフェの中は静かで、BGMはゆるやかなジャズ。コーヒーを淹れる音と、小さな食器の触れ合う音だけが聞こえる。
私は心を決めて、そっと彼の方へ近づいた。
「……あの、すみません」
声が出た。震えていたけど、それでもはっきり聞こえた。
彼がゆっくりと顔を上げた。
目が合った。その瞬間、私は確信した。
──彼だ。
表情が少しだけ驚いて、それから、彼の目尻がすうっと和らいだ。
「……あ」
その一言は、とても静かで、でもどこか嬉しそうだった。
(覚えてるんだ)
私は、喉の奥がぎゅっとなるのを感じながら、なんとか笑顔を作った。
なにげない偶然が、特別になる瞬間
「……こんにちは、職場が近いんです。ここのカフェ、よく来るんですか?」
「はい。……毎週、ここで少しだけ仕事してます」
「そうなんですね……偶然、ですね」
そんな会話のあと、彼が「どうぞ」と手で隣の席を示した。
私は頷いて、ゆっくり椅子に腰を下ろした。
距離が近い。想像より、ずっと。
(こんなに、静かな人だったんだ)
そう思った。彼は目を合わせるのが少し苦手そうで、でも会話を投げ出さないでいてくれた。
コーヒーの香り。外は小雨。大きな窓の向こうで傘を差す人たちが行き交っている。
すべてが、なぜか映画のワンシーンのように感じられた。
わたしの心が、少しずつひらく
「……ここ、ラベンダーのブレンドありますよ」
彼がそう教えてくれた。
「え、ほんとですか?」
「はい。好きって、言ってましたよね」
(ちゃんと覚えてくれてたんだ…)
私は言葉が出なくて、ただ頷いた。
「じゃあ、それにします」
そう言った声が、わずかに震えていたのを、彼は気づいたかもしれない。でも、なにも言わなかった。ただ静かに、微笑んでくれた。
たった30分の、静かな時間
その日、私たちは30分ほどだけ同じ時間を過ごした。
特別な話題があったわけじゃない。仕事のこと、好きな本のこと、あと少しだけ、香りの話。
でも、その30分は、私の中では今まででいちばん密度の濃い時間だった。
静かに心がほどけていく感覚。誰かと一緒にいることで、安心できる感覚。
なにも言葉にしなくても、伝わるものがある。そんなふうに思えたのは、生まれて初めてだった。
そして帰り際、私は心にひとつの決意をしていた。
『あの…覚えてますか?』
人生でいちばんの冒険
その日の夜、帰宅してシャワーを浴びてからも、私は心のどこかが熱を持ったままだった。
(話しかけてよかったんだろうか)
そんな不安と、同じくらいの高揚が交互に押し寄せて、眠れそうになかった。
だけど、確かなことがひとつだけあった。
──私、ちゃんと声をかけた。
これまでの私だったら、きっと見て見ぬふりをしていただろう。遠くから「あ、似てるな」って思って、それで終わってた。そうやって、何度も何度も、自分から人との縁を閉ざしてきた。
でも今回は違った。
たとえ声が震えていたとしても。たとえ笑顔がぎこちなかったとしても。
私はあのカフェで、自分の足で近づいて、自分の言葉で話しかけた。
「……あの、覚えてますか?」
たったそれだけ。でも、あの一言が、私の人生のドアを静かに開いた気がした。
彼の目に映った“私”
次の日、彼からアプリを通じて連絡がきた。
「昨日は、声をかけてくださってありがとうございます」
(“くださって”……やっぱり丁寧な人だ)
そのあと、もう一文だけ。
「すごく、嬉しかったです」
私はスマホを見ながら、知らずに胸元をぎゅっと押さえていた。心臓が、文字通り鳴っていた。
嬉しかったのは、きっと私の方だ。あのとき、彼が笑ってくれなかったら、うまく受け止めてくれなかったら、私はまた自分の殻に引きこもってしまったかもしれない。
でも、彼は静かに、でもたしかに、私の「一歩」を受け止めてくれた。
(こんなに、誰かに肯定されるって、嬉しいんだな)
自分の言葉が、誰かの記憶の中に残っていたというだけで、人はこんなに満たされるんだって初めて知った。
少しずつ距離を詰める、無言のメッセージ
それから私たちは、また少しだけ頻度を上げてやりとりを始めた。
と言っても、LINEでのやりとりではない。あくまで、あのアプリ内で。
誰かのプロフィールに「メッセージはアプリでしかやりとりしません」と書かれているのを見たとき、以前は“慎重な人だな”と思っていた。でも、今なら少しだけその気持ちが分かる気がした。
「今日、またカフェ行きます。お仕事お疲れさまでした」
「雨降るみたいですね。ラベンダーより、今日はミントかも」
文字にするとそれだけ。でも、そこには“あなたにしか送っていない”という想いが確かにあって、それが何よりもあたたかかった。
“次”を口にしたのは、私だった
そして次の週末。
私はもう一度、あのカフェを訪れた。彼がいつも座る席をちらりと見ると、やっぱりいた。コーヒーと、開きっぱなしのノートPC。そして、窓の外を見ていた横顔。
今度は、迷わず声をかけた。
「……こんにちは、また会えましたね」
彼は少しだけ驚いた表情で顔を上げ、それから、目尻に小さな皺を浮かべて頷いた。
「はい。……ありがとうございます」
(こっちこそ)
その言葉を胸の中でつぶやきながら、私は今度も、彼の隣に腰かけた。
30分だけの、静かなコーヒータイム。語ったのは、好きな街の話と、最近読んだ小説のこと。話題は相変わらず地味だったけれど、それでも、どこか世界が明るく見えた。
そして、帰り際。
カバンを肩にかけながら、私はふと立ち止まり、口を開いた。
「……また、会っていいですか?」
自分から“次”を口にしたのは、生まれて初めてだった。
彼は少しだけ目を見開いて、それから頷いた。
「……もちろんです」
その答えを聞いて、私は初めて、自分が恋をしていたことに気づいた。
「また、会っていいですか?」
初めて、自分から言った「また」
その日、あのカフェからの帰り道。雨が上がったばかりの歩道がまだ濡れていて、街灯の光をやわらかく反射していた。
駅に向かう途中、私は小さく深呼吸をした。
(ちゃんと言えた)
「また、会っていいですか?」
自分の声で、ちゃんと。ちゃんと彼に届くように。
これまで私は、誰かにお願いすることが苦手だった。待ってばかりだった。自分の気持ちを伝えたら、重いって思われるかもしれないって、そればかりを気にして。
でも、あのときの私は違っていた。
彼の横に座って、静かに過ごした時間が、私の中にあったいくつもの怖さを、少しずつとかしてくれていた。
“こんな私でも、誰かと一緒にいていいのかもしれない”
そう思わせてくれる存在が、目の前にいる。それが、なによりの希望だった。
彼からの「次」は、ゆっくりだったけど確かだった
翌日、彼からアプリに届いたメッセージは、とても短かった。
「来週の同じ時間、同じ場所で、よければ」
(“よければ”)
その一言が彼らしくて、また胸がぎゅっとなった。
強引じゃない。押しつけでもない。私の選択を、ちゃんと残してくれる提案。そこには、私を信じてくれている静かな肯定があった。
「もちろん。行きます」
今度は迷わずに、そう返した。
それだけのことなのに、スマホの画面を閉じたあと、私はほっと深く息を吐いた。
小さな“また”が、私たちのリズムになっていった
週に一度、決まった時間、決まったカフェで。
私たちは何度も「また」を繰り返した。
相変わらず会話は多くなかった。派手なデートもしなかった。写真を撮ったり、SNSに載せたりなんてこともなかった。
でも、その時間が近づくと、私は自然と選ぶ服に迷っていたし、髪も少しだけ丁寧にまとめていた。
(今日はどんな顔で会えるかな)
そんなふうに思える相手が、いるだけで毎日がほんの少し、色を変えた。
初めて、無言が嬉しかった
3回目の「また」の日、彼が珍しく、ノートPCを閉じていた。
「今日は、お休みなんですか?」
「はい。……たまには、仕事抜きで会いたくて」
(……!)
その言葉の意味を考えるより先に、胸が温かくなった。
彼は、きっと私と同じように思ってくれている。
それだけで、カップの中のコーヒーが特別な味に感じられた。
その日、話した内容はほとんど覚えていない。ただ、気づけばふたりとも無言で窓の外を眺めていた時間が、やけに長かったことだけは覚えている。
でも、その沈黙が、まったく苦しくなかった。
“話さなくても、ここにいられる”
そんな安心感が、私の胸を静かに満たしていた。
手を伸ばしたくなった、でも触れられなかった
ふと、彼がカップを置いた手の甲に視線をやった。
細くて、でもしっかりした指。絵を描く人らしい、少し硬そうな手。
(あの手に触れてみたい)
そう思った。だけど、触れなかった。
この空気を壊したくなかったし、なにより、まだ私は“怖がり”だったから。
けれど、そんな私の気持ちを、彼は見透かしていたのかもしれない。
帰り際、店の前でふたり並んで立っていたとき。
「……駅、こっちですか?」
「はい、あの坂を上がった先です」
「じゃあ、一緒に。少しだけ」
彼のその一言は、私の背中をそっと押してくれるものだった。
ふたり並んで歩いた坂道。途中、彼がふいに足を止めて、空を見上げた。
「……あ。星、出てますね」
「ほんとだ……この辺じゃ珍しいですね」
「……次、晴れてたら、どこか夜に行きませんか」
(……!)
その瞬間、心の奥が、カタンと鳴った。
それは“恋が動き出した”音だった。
プロポーズは、返信不要だった
言葉じゃなくても、伝わるものがある
「……次、晴れてたら、どこか夜に行きませんか」
その言葉があった日の夜、私は布団の中で、何度もその一文を思い返していた。
(夜に、どこか──って)
直接的な誘いじゃないのに、なぜだか胸がどきどきして、少しも眠れなかった。彼の言葉って、いつもそうだ。静かで、淡々としていて、でもちゃんと「私にだけ」投げてくれてるのが分かる。
言葉じゃなくても、そこに気持ちがあるのが、なぜだか分かってしまう。
たぶん、きっと、私はもう恋に落ちていた。
“答えのいらない問いかけ”が増えていった
それからも、私たちは相変わらず「週に一度のカフェ」で会い続けた。
話す内容は他愛ない。でも、ほんの少しずつ、彼は変わっていった。
たとえば、こんなふうに。
「ここ、夜は星がきれいですよ。……今度、見に行きませんか」
「今日の服、似合ってます。……あ、急に言ってごめんなさい」
「話すことがない日でも、僕は、隣にいてもらえるだけで落ち着くんです」
どれも、まるで“問いかけ”のようで、“答えを求めていない”言葉たちだった。
でもそれが、私にとっては、どんな告白よりも深くて、どんなラブレターよりも真剣だった。
(この人は、私に何も強要しない)
(でも、そのぶんすごく、大切にしてくれている)
そう思えるからこそ、私は少しずつ、心の鍵を彼に渡していった。
ある夜、ふたりで夜景を見に行った
春が終わって、夏がはじまる少し前のことだった。
久しぶりに週末の天気がよくて、彼の車で少し遠くの展望台まで夜景を見に行った。
助手席に座るのはぎこちなくて、でもどこかくすぐったいような、嬉しい緊張があった。
展望台はほとんど人がいなくて、空にはちいさな星がぽつぽつと浮かんでいた。
「……都会の空って、あんまり星見えないですね」
「そうですね。でも、見えた分だけ、なんか嬉しくなります」
ふたりして、黙ってその星を見ていた。
会話はすぐに終わって、でも沈黙が心地よかった。むしろ、その“何も話さない時間”こそが、私たちにとっていちばん大切だった気がする。
そのとき、彼がポケットから小さな箱を出した。
返事はいらない。その指輪は、ただそこにあった
「……これ、渡そうかどうか、ずっと迷ってました」
彼は箱を開けなかった。ただ手のひらに乗せたまま、私の前に差し出した。
「開けてみても、見なくても、どっちでも大丈夫です」
「……?」
「無理に答えなくてもいいです。……このまま、静かに隣にいてくれるだけで、十分です」
(……)
私は言葉が出なかった。
プロポーズだった。だけど、それはこれまで見たどんなドラマとも違う、あまりにも静かなプロポーズだった。
“答えがいらない”なんて、そんな告白ある?
でも、彼の表情を見たら、それが本気だと分かった。
私はそっと、箱を受け取った。
中を開けた。中には、シンプルな、でも少しだけ光る銀のリング。
──涙が出た。
声に出せなかった。でも、彼の手に、そっと自分の手を重ねた。
その手の上に、何も言わず、ただ指輪の箱を置いた。
私の「はい」は、言葉じゃなくて、手だった
夜風が少し冷たかった。星が、先ほどより多くなっていた。
「……ありがとう」
やっとの思いでそう言った。彼は、なにも返さなかった。ただ、微笑んでくれた。
その笑顔に、全部が詰まっていた。
私たちの恋は、3通で終わったはずだった。それでも、終わらなかった。
半年の時間を超えて、無言のあいだを何度も超えて、ここに辿り着いた。
言葉が下手な私と、言葉を急がない彼。そんなふたりだからこそ、選んだかたちだった。
返信のないまま結婚したふたり
話さない日も、ふたりでいられる
プロポーズの翌日、私は彼に「はい」と正式に返事をすることはなかった。
けれどそれは、必要のないことだった。
あの夜、指輪の箱を受け取り、手を重ねた。その時間に、言葉以上のすべてがあった。
ふたりで展望台をあとにしてからも、私たちは特別な会話を交わしたわけではなかった。帰りの車内では、彼が選んだジャズのプレイリストが小さく流れていて、私はそれを静かに聴いていた。
途中、赤信号で止まったとき、彼がちらっとこちらを見て、
「……落ち着いてますね」
そう言って微笑んだ。
私は小さく頷いただけ。でもそれで十分だった。私たちは、もうそれ以上を必要としていなかった。
結婚は、静かに始まった
入籍は、役所の平日休みを合わせて、ふたりでこっそり行った。
誰にも報告しないまま、紙を一枚出しただけの、小さな始まり。
でも私たちらしくて、私はそのことがなんだかとても誇らしく感じた。
名字が変わって、保険証を変えて、印鑑登録をして。日常が少しずつ“ふたりの形”に変わっていくのが、楽しかった。
住む場所も変えた。彼の部屋に、私が少しずつ物を運び込んで。ラベンダーの香りのディフューザーを置いて、ベッドカバーを新しくして。そうやって、小さな「私」を「ふたり」の空間に混ぜていった。
何もかもが急ぎ足じゃなかった。全部、ひとつずつ。
返信を急がない彼と、慎重すぎて言葉を飲み込む私。
そのリズムが、暮らしになると驚くほどちょうどよかった。
静かな毎日が、私を救ってくれた
結婚して数か月。何気ない日常の中で、私は変わっていった。
以前は、ひとりの夜が不安だった。明かりの消えた部屋に帰るたびに、取り残されたような気がしていた。
でも今は違う。
「ただいま」と言わなくても、玄関に靴が二足あるだけで安心できる。
ふたりでいるのに、テレビをつけずに過ごす時間もある。
でも、その静けさが苦ではなくて。むしろ、そこに安心感があって。言葉がなくても通じ合える時間があることが、私にとっては奇跡みたいだった。
洗濯物を干しているとき、ふと彼が「これ、たたみ方変わってるね」と言った。
「実家ではこうしてたんです」
「……じゃあ、うちもそれにしましょうか」
たったそれだけの会話なのに、なぜだか胸がきゅっとなった。
“うち”って言ってくれた。私たちのことを、ちゃんと「ふたりの家」って思ってくれてるんだ。
「3通で終わったはず」が、人生になった
マッチングアプリの記録を久しぶりに見返した。
「はじめまして」
「お好きな香りありますか?」
「よかったら、また」
たった3通。たったそれだけのやりとりで、一度は終わった縁。
でも、そこに確かにあった「気持ち」は、静かに時間を超えて、また私たちをめぐり合わせてくれた。
恋愛って、情熱的で派手で、ドラマみたいな展開ばかりじゃない。
静かに、言葉少なに。それでも確かに育っていく、そんな恋もある。
「返事がなくてもいいよ」
「また会っていい?」
「このままで、隣にいてくれるだけで」
そんな言葉たちが、今の私をつくってくれた。
だから、私は今日も
彼がいつものようにリビングでノートPCを開いている。
私は隣のソファで、湯気の立つカップを持って、それをただ見つめている。
「コーヒー、変えてみました」
「うん、ちょっと酸味ありますね」
「でも、後味は好きです」
「……僕も」
そんな会話をして、また静かになる。
窓の外では雨。音だけが、ふたりのあいだを満たしている。
私は思う。
この人とだから、この沈黙が好きだと。
そして今日も、言葉にせずに伝わるものを、そっと胸にしまって生きている。