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はっくなび
なんで俺が見合いなんかに
ずっと一人で生きてきた俺の話
三十四年間、俺は人と深く関わらずに生きてきた。
小学校の頃は、クラスの隅で机に突っ伏していた。
中学では、話しかけられるのを避けていた。
高校では、いないものとして扱われていた。
大学では、なるべく人のいない講義を選び、空いた席に座り、誰とも話さずに卒業した。
そして今、都内の印刷会社で働いている。仕事は真面目にやってる。ただ、人付き合いは避けている。
会社の飲み会には一度も出ていない。休憩時間も一人で弁当を食べる。連絡先を交換している同僚もいない。
休日は好きな本を読んで、静かな音楽を流して、窓辺の観葉植物に水をやる。それだけで、十分だった。
人に気を遣わない。人に合わせない。人に期待しない。
それが俺の「普通」だった。
だけど——
ある日、伯母からの電話で、それが崩れた。
伯母の「善意」はいつも一方的だ
「いい子を紹介するから、来なさい」
それが電話の第一声だった。
俺の返事なんて聞かずに、伯母は勝手に日取りを決めた。
和食の個室、昼の十二時。場所まで一方的に言って、通話は勝手に終わった。
伯母は母の姉で、昔からとにかく声が大きくて押しが強い。
人の話を聞かず、自分が正しいと信じ込むタイプだ。
小さいころはよく可愛がってくれたけど、大人になってからはその強引さが苦手になった。
「三十代半ばで結婚してないのは異常だ」
「一度くらい人と向き合ってみなさい」
「このまま孤独死しても、誰も泣かないわよ?」
そんな言葉を何度も投げつけられた。
心の中で「放っておいてくれ」と何度もつぶやきながらも、結局は流されて、俺はその日、店へ向かった。
和食の店。静かすぎて息が詰まりそうだった
小さな和食屋だった。表通りから一本入った、落ち着いた店構え。
予約されていた個室に通され、畳のにおいがやけに鼻をついた。
座布団の上に座り、目の前の湯飲みに視線を落としたまま、俺はただ呼吸を整えていた。
手のひらは汗で濡れていた。久しぶりにネクタイを締めたせいで、首元が詰まっている気がした。
緊張で喉が乾いていたけど、何も口にできなかった。
そもそも、俺は何を話せばいいんだ。
初対面の人間に、自分の何をさらけ出せばいいんだ。
そんなふうに頭の中がぐるぐるしているところで、襖がすっと開いた。
彼女が入ってきた瞬間、空気が変わった
スリッパの音も立てずに静かに入ってきた彼女は、淡い色のワンピースを着ていた。
控えめな雰囲気、細い体つき。真っ直ぐに伸びた黒髪が肩にかかっていた。
顔を上げて、俺を見た。
けれど、その目は、どこか遠くを見ていた。
「……はじめまして」
小さな声だった。けれど、その一言に、俺は思わず背筋を伸ばしていた。
彼女の言葉には、無理に繕った愛想がなかった。嘘っぽい笑顔もなかった。
ただ、ちゃんと向き合おうとしているのが、伝わった。
「はじめまして。今日は……ありがとうございます」
それだけ言って、また沈黙が落ちた。
沈黙に耐える二人の時間
俺は、何か話さなきゃと焦った。でも、頭が真っ白だった。
趣味の話? 仕事の話? いや、そんなこと聞いても続かない。
自分が何を聞かれたいかもわからなかった。
彼女も、同じように黙っていた。
姿勢はきちんとしていて、両手を膝の上に置いたまま、目線はずっと湯飲みのふちを見ていた。
空気は重い。でも、不思議と苦しくはなかった。
それはきっと、彼女の存在そのものが、俺に似ていたからだ。
話さなくても、何となくわかる。
この人も、俺と同じ「タイプ」だ。
何かを話す必要はない、そう思った瞬間——
彼女が、俺のカバンをじっと見つめて、ぽつりとつぶやいた。
「……昔も、そんなの、持ってましたよね?」
教室のすみで泣いてた子のこと
小さな声で、世界が変わった
「……昔も、そんなの、持ってましたよね?」
彼女の声は静かで、小さかった。でも、俺にははっきりと届いた。
まるで、水面に落ちた小石みたいに、その一言が心の底に波紋を広げた。
彼女の目は、俺のカバンの脇についている色あせたキーホルダーを見ていた。
それは、十年以上前、小学生のときに買ったキャラクターグッズだった。
安っぽくて、今の年齢に似合ってるとは思っていなかった。けど、なぜか捨てられなかった。
誰にも気づかれたことなんて、これまで一度もなかった。
けれど目の前のこの女性は、まっすぐそれを見て、「昔も」と言った。
心臓が、ひとつ大きく跳ねた。
蘇った記憶。誰にも話したことがない教室の隅
「あのとき……」
俺は、言いかけて口を閉じた。何を思い出しかけているのか、自分でも整理がつかなかった。
だけど、彼女はその続きをくれた。
「小学校のとき、私……教室のすみで、いつも泣いてました。あまりにも、居場所がなかったから」
その言葉で、すべてがつながった。
教室の窓側の一番後ろの席。みんなの輪から離れた場所。
休み時間になると、机にうつ伏せて、ひっそりと泣いていた小さな女の子がいた。
俺は、その姿が他人事に思えなかった。
「……俺も、そのとき一人だった」
自然に口から出た言葉だった。誰にも言ったことはなかった。
俺自身も、いつも一人だった。
昼休みは教科書を読んでるふりをして、机に伏せて、誰にも見られないように時間をやりすごしてた。
あの頃、俺は何も持ってなかった。でも、ポケットの中に貼っていたシールだけが、小さな宝物だった。
「……シール、あげましたよね?」
彼女がまた口を開いた。
「あなた、何も言わずに……私の机の角に、そっと貼ってくれたんです。あのキャラのシールを。あれ、今も、引き出しにあります」
俺は言葉を失った。
覚えてくれていた。
俺が、誰にも気づかれずに、ひっそりとした優しさでやったことを——
ずっと、覚えていてくれた。
心が少し、ほどけた気がした
「……すごいね。よく、覚えてたね」
震える声でそう言うと、彼女は少しだけうなずいた。
「そのとき、あなたが唯一、声をかけてくれたから。『俺も、ぼっちだから』って、言ってくれて」
笑っているわけじゃない。
泣いているわけでもない。
でも、その横顔には確かにあの時と同じ静けさがあった。
悲しさでも、嬉しさでもなく、ただ…懐かしさだけが、ふたりの間を埋めていた。
会話が自然に続いた。沈黙が怖くなかった
その後の会話は、不思議と途切れなかった。
仕事の話。趣味の話。苦手なこと。家族との距離。
何もかもが、大げさじゃなく、穏やかに出てきた。
「うちの会社、社内行事が多くて…正直、全部逃げてます」
「……私もです。飲み会とか、あれ、苦痛でしかないです」
似ていた。驚くほど、俺と彼女は似ていた。
人混みが苦手。
誰かのテンションに合わせられない。
気づかれないように、目立たないように、空気みたいに過ごしてきた。
だからこそ、目の前の彼女の存在が、やけに自然に感じられた。
呼吸を合わせる必要もなく、無理に笑う必要もない。
ただ、そこにいてくれるだけで、安心できる——そんな感覚。
襖のすき間から、また伯母が顔を出した
「うまくやってるみたいじゃない」
伯母がにゅっと顔を出してきた。
俺が慌てて首をすくめると、彼女も一瞬だけ目を見開いて、クスッと小さく笑った。
「もう少し静かにしてくれって、言ったのにな…」
「……でも、いい伯母さんですね。気にかけてくれるって、簡単じゃない」
「いや、それは……ありがたいけど、しんどいよ、わりと」
そんな風に軽く言えるようになっている自分が、不思議だった。
いつもの俺なら、こんなふうに誰かと笑い合うことなんてなかった。
それが今は、目の前の彼女となら、できている。
店を出る前に、彼女がスマホを取り出した
「……あの、もし、迷惑じゃなかったら。連絡先、聞いてもいいですか?」
はじめて、彼女のほうから何かを聞いてくれた。
俺は、即答した。
「うん。俺のほうこそ、また話したいって思った」
スマホを取り出して、QRコードを表示する。
彼女がそれを静かに読み取る間、心臓が少しだけ早くなった。
けれど、それは不安じゃなかった。
むしろ、久しぶりに「人と何かが始まりそうな感覚」があった。
店を出たあと、並んで歩いた道。
肩が触れるほど近くはないけど、遠すぎもしない距離。
その間に流れる空気が、心地よかった。
LINEの通知が、やけに嬉しかった日
帰り道、手元がそわそわしていた
その日の帰り道、電車に揺られながら、俺は何度もスマホを手に取った。
LINEの画面。彼女の名前。まだ何もやりとりはしていない。
だけど、そこに「つながり」があるだけで、心が落ち着かなくて——いや、逆か。そわそわして、落ち着かなかった。
普段は通知が来ないことに安心していた。
誰からも連絡が来ない静けさが、何より心地よかった。
でも今日は違った。
画面が光るたびに、彼女かな、と反射的に思っていた。
そして、駅のホームで電車を待っているときだった。
バイブが鳴った。
「今日はありがとうございました。話せてよかったです」
短い。絵文字もない。
でも、俺はその文章を何度も読んだ。
読めば読むほど、心が温かくなった。
すぐに返信を書いた。何度も打ち直して、結局、こうなった。
「こちらこそ。懐かしい話ができて、びっくりしました。あのシール、まだ持っててくれてたなんて」
送信ボタンを押す手が少し震えた。
それをポケットにしまいながら、俺ははじめて、帰り道が短く感じた。
1日1通のやりとり。でも、毎日が変わった
次の日、また彼女から返信が来た。
「本当は、ずっと誰だったんだろうって、たまに思い出してました」
「今日、つながって嬉しかったです」
俺はもう、「今日は仕事どうでした?」とか「この間話してた本、読んでみました」みたいな、何でもない言葉を自然に送り返すようになっていた。
派手なやりとりじゃない。
毎日、ほんの数通。
だけど、それだけで一日が変わった。
会社の空気も、昼休みの時間も、帰り道の風も、なにもかもがほんの少しだけ、優しくなっていた。
誰かが自分を見てくれている。
話しかけてくれる。
返してくれる。
それだけで、生きていく感覚が変わるんだと思った。
はじめての「じゃあ、会いますか?」
一ヶ月くらい経った頃だった。
彼女から、こんなメッセージが来た。
「近くに、静かなカフェがあるんです。もし、よければ今度…」
俺はすぐに「ぜひ」と返した。
その指先が、変に熱かったのを覚えてる。
何を話そうとか、どんな服を着ようとか、そんなことを考えたのはいつ以来だったろう。
カフェで会ったときの彼女は、前よりやわらかくなってた
土曜日の昼。待ち合わせたカフェは、外観も内装も木が多く使われた、あたたかみのある店だった。
予約なんてしてなかったけど、ちょうど二人がけの席が空いていて、そこに案内された。
彼女は前と同じように静かだったけど、どこか、表情がやわらかくなっていた。
ほんの少しだけ笑っていた。
その笑顔が、妙に記憶に焼きついた。
「ここ、よく来るんですか?」
「たまに。ひとりでも入りやすいから」
「わかります。静かで落ち着くとこって、貴重ですよね」
「……うるさいと、息が苦しくなるので」
俺もだった。
いつも人が多いところは避けてたし、カフェに入るときも、騒がしい場所には座らなかった。
そういう話が、当たり前みたいに続いた。
「分かる」と言ってもらえることが、こんなに嬉しいとは思わなかった。
雨が降っていた。その帰り道
カフェを出たとき、空が灰色に染まっていた。
ポツポツと小さな雨粒が落ちてくる。
彼女はカバンから折りたたみ傘を出した。
俺は傘を持ってきていなかった。
「入りますか?」
彼女は、自然にそう言った。
恥ずかしいけど、断る理由がなかった。
「……じゃあ、すみません」
小さな傘に、二人の肩がぎりぎり入る。
距離は近いけど、不思議と緊張はしなかった。
むしろ、息が合っていた。
「今日、会えてよかったです」
「うん。俺も、来てよかった」
雨の音が、遠くに街の喧騒を閉じ込めてくれた気がした。
傘の下の空間だけが、別の場所みたいに感じた。
あの頃と今の俺たちはちがうけど
二回目の約束が、こんなに自然だったなんて
傘の下で肩を並べて歩いた帰り道のあと、俺たちはまたLINEを続けていた。
いつものように短い文章だったけど、やりとりの数は前よりも増えていった。
彼女からこんなメッセージが来た。
「また、会いたいです」
たったそれだけなのに、心臓が跳ねた。画面を見て固まっていた俺に、体温が戻るまで少しかかった。
すぐに「もちろん」と返したあと、手帳を開いた。予定はほとんど空いていた。
彼女も同じだったらしく、すぐに日付と場所が決まった。
「今度は公園とか、歩きながらがいいかも」
そう言ってくれたのは彼女のほうだった。
正直、どんな景色でもよかった。彼女と話せれば、それで十分だった。
人の少ない広い公園で
次に会ったのは、街のはずれの大きな公園だった。
平日の午前、ほとんど人がいなかった。ベンチも空いていて、子どもたちの声も遠くにしか聞こえなかった。
彼女はゆっくりと歩きながら、木の枝に目を向けていた。
「葉っぱが重くなると、枝が下がるんですね」
そんなことをぽつりと言った。
「風もなくて、音が静かだね」
「……こういう場所、落ち着きます。心の音だけ、聞こえるから」
俺も、そう思った。人がいない広い場所。ふたりで歩いていても、無理に話さなくても、空気がやさしい。
言葉を探さなくていい。
彼女も、俺も、それだけで十分だった。
小学生だった自分たちの話をした
「覚えてるんです。あなたが、静かにしてたの。誰とも話さないで、いつも窓の外を見てました」
彼女がそう言ったとき、俺は少しだけ顔を伏せた。
「たぶん、周りの音を消したかったんだと思う」
「私もそうでした。耳を塞がなくても、心を閉じると、聞こえなくなりますよね」
「……うん。机の中に頭を入れたみたいに、世界が消えてた」
「でも、あのシールだけは、見えてました」
彼女がそう続けた瞬間、俺の中にあった時間が一気に巻き戻された。
教室の床、鉛筆の削りカス、誰かの笑い声——全部ぼやけていく中で、ただ一つ、あの子の涙だけが強く残っている。
「ほんとは、声をかけたかったんです。もっと。でも、怖くて」
「……充分でした。あのシールで、何かが変わったから」
あのときの涙の意味が、今なら分かる
彼女の横顔を見ながら、俺は思った。
あの頃の自分は、自分を守ることだけで精一杯だった。
他人に優しくする余裕なんて、なかったはずだ。
でも、それでも、あの子の涙に触れたとき、何かがうずいた。
「なんで俺、シールなんか貼ったんだろうな…」
ぽつりと言うと、彼女は少しだけ笑った。
「あなた、目を合わせてくれなかったんですよ。ずっと、下向いてた。でも……机の横にそっと置いて、何も言わずに離れていった」
「恥ずかしかったんだと思う」
「……でも、すごく嬉しかった」
その笑顔は、あの時の涙の裏側にあったものかもしれない。
誰かの小さな行動が、どれほど大きく人を救うのか。
それを彼女が、何十年も覚えていてくれたことに、俺は言葉を失っていた。
公園のベンチに座って、少しだけ距離が近くなった
歩き疲れて、ベンチに座った。
肩が少し近くなる距離。
空を見上げると、雲がゆっくり流れていた。
「こういう時間、持てると思わなかったです」
「俺も。ずっと一人でいいと思ってた」
「……でも、人がいてくれるって、安心しますね。言葉にしなくても、そばにいるだけで」
「無理に強がらなくていいって思える」
ふたりとも、言葉にしながら、自分自身にそれを教え直している気がした。
それほどまでに、人と話すこと、人と時間を過ごすことに慣れていなかった。
でも、それでも今、少しずつ変わっている。
最後に、彼女が静かに言った
「また、会ってもいいですか?」
まっすぐな視線じゃなかった。少し伏せ気味で、声も小さかった。
でも、はっきりと届いた。俺は即答した。
「うん。俺も、また会いたい」
その日の空気は、夕方の風が混ざっていて、やけに静かだった。
でも、心の中は騒がしかった。
何かが確実に、ゆっくりと動き出していた。
あの頃と、同じ雨が降っていた
三回目の再会は、ぽつぽつ雨の日だった
次に会った日は、雨が降っていた。朝から空は重く、しとしとと静かな雨音が街を包んでいた。
俺は約束の時間より少し早く、駅前の喫茶店に着いた。
ガラス越しに見える通りには、人の傘がゆっくりと動いていた。
その中で、小さな傘を持って、彼女が現れた。
彼女は濡れた髪を指で整えながら、俺の正面に座った。
何も言わずに、お互いの湯気の立つカップに目を落とした。
会話は、自然に始まった。
「雨、けっこう好きかも」
「……わかります。音が、他の音を消してくれるから」
「そうそう。静かなんだけど、何も言わなくてもごまかせる感じ、あるよね」
彼女はほんの少し笑った。
その笑顔は、前よりも自然だった。ぎこちなさが減っていた。
俺も、肩の力を抜いて座れていた。
たわいない話が、妙に楽しかった
「最近、昔読んでた絵本を思い出したんです」
「どんなの?」
「森の中に、誰にも見えない動物が住んでるって話。人が泣いてると、その動物がそっと寄り添うんです」
「優しいね、それ。そういうの、子ども向けって感じがしないな」
「……うん。子どもの時は、ただの話だと思ってたけど、大人になると意味が違って見えますね」
「俺、その動物になりたいかも」
「……なれますよ。もう、なってましたよね。昔」
彼女のその言葉に、俺はまた黙ってしまった。
褒められ慣れていない自分には、どう返せばいいか分からなかった。
でも、心はあたたかかった。
ちゃんと見てくれていたことが、何よりうれしかった。
会うたび、距離が少しずつ変わっていく
三回目の再会。
言葉の量はそれほど変わらない。
だけど、目を合わせる時間が少しずつ長くなっていた。
話していないときでも、沈黙が怖くなくなっていた。
「今日は、来てくれてありがとう」
「……こっちこそ」
「会うの、変じゃない? 無理してない?」
「ううん。むしろ……落ち着きます。誰かといて、こんなに静かでいられるの、初めてです」
彼女の言葉は、俺の内側にしみ込んだ。
無理して笑う必要がない。頑張って会話を繋がなくていい。
そういう関係は、俺にとって夢みたいだった。
傘の下、彼女の横顔が昔と重なった
店を出ると、雨はまだ降っていた。
彼女は自分の傘をまた開き、俺の方をちらりと見た。
「……入りませんか?」
「いいの? また肩濡らしちゃうよ?」
「……平気です。ふたりなら」
傘の下、狭い空間。
歩幅が自然と合う。
途中、道端にある水たまりをよけるように、お互い無言で足を止めたりする。
ふと、俺は思い出していた。
あの頃の教室。
窓際の席。
小さく泣いていた子の肩が、少しだけ震えていた。
俺は何もできなかったけど、あの子の机の端に、シールを一枚そっと置いた。
あの時の小さな背中が、今、隣を歩いている彼女の横顔と重なった。
家の前まで送って、ふたりとも黙って立ってた
「ここです。ありがとうございました」
彼女の家の前。狭い路地の奥。
玄関の明かりが、やわらかく足元を照らしていた。
「……今日は、来てくれてよかった」
「うん。……また、会ってもいいですか?」
「もちろん。……なんなら、もっと話してもいい」
「……少しずつ、ゆっくりで」
「うん。無理は、しない。しなくていいから」
そのまま数秒、ふたりとも動かなかった。
けれど、言葉はなくても、気持ちは通っていた。
雨の音が、傘を打つリズムで、静かに続いていた。
はじめての「寂しい」が言えた日
会わない日にも、彼女のことを考えていた
週末に会って、次に会うのは来週。
ただそれだけのことなのに、ふとした瞬間、彼女のことを考えていた。
朝の電車で、隣に座った女性の香水が似ていたとき。
帰り道に、あのときのカフェの前を通ったとき。
LINEの通知が鳴らなくても、彼女のことばかり浮かんでくる。
そんなある日、彼女からぽつんとこんなメッセージが届いた。
「……今、少しだけ、寂しいです」
その文面を見た瞬間、俺の胸の奥がじわっと熱くなった。
彼女は、そんなことを言える人じゃなかった。
むしろ、言葉にする前に飲み込む人だった。
「俺も。会いたい」
気づけば、俺の指はその一文を打っていた。
絵文字も、装飾もない。
でも、それだけで全部伝わると思った。
その日の夜、急きょ、彼女の最寄り駅で会った
夜8時すぎ、彼女の駅に着いた。
駅前のロータリーは、人がまばらだった。
改札から出てきた彼女は、いつもよりも少し不安そうな顔をしていた。
でも、俺の顔を見て、ほんの少し口元がゆるんだ。
「来てくれて、ありがとうございます」
「こっちこそ、呼んでくれて嬉しかった」
そのまま歩いた。商店街の灯りがぽつぽつと残っていて、静かだった。
コンビニで温かい缶コーヒーを買って、ベンチに並んで座った。
会話は少なかった。でも、沈黙が怖くなかった
「……なんか、今日はすごく人の声がつらくて。会社で、ずっと誰かが話してて」
「うん。そういう日、あるよね。声って、ただの音に聞こえなくなるときがある」
「そう。音じゃなくて、重さになります」
「……わかる。耳じゃなくて、胸にぶつかってくる感じ」
そう言うと、彼女は少し驚いた顔でこちらを見た。
「……ほんとに、そういうの分かるんですね」
「俺も、そうだったから」
少しの会話。ほんの数語。
でもそれが、どれほど心を軽くしてくれるか、知っていた。
俺たちは、どちらも「言葉が苦手なほう」だった。
だけど、必要なことは、少しずつでも伝え合えると、今は思える。
缶コーヒーを持つ手が、少しだけ震えていた
「……寒くない?」
「平気です。熱、残ってるから」
彼女は缶コーヒーを両手で包むように持っていた。
その手が、ほんの少しだけ震えていた。
気温のせいじゃない気がした。
俺はそっと、自分の缶を彼女の手の上に重ねてみた。
彼女は驚いたように一度こっちを見たけど、何も言わなかった。
ただ、目を閉じて、ほんの少しだけ頷いた。
それだけで、俺の手も少しだけ震えた。
「昔、私、あなたに助けられたけど…」
ぽつりと彼女が言った。
「昔、私、あなたに助けられたけど……今、私、ちゃんと返せてるのかな」
「……助けようとしてたわけじゃない。勝手にやっただけ」
「でも、私は、あのシールだけで、世界がちょっと優しくなったんです」
「今、十分返してもらってる。こうして、隣にいてくれるだけで」
その言葉を、ちゃんと届けたかった。
声が震えないように、まっすぐ前を見たまま言った。
彼女も、うつむいたまま、小さく何度も頷いていた。
別れ際、彼女が初めてこちらに手を伸ばした
「……ありがとう。また、会ってもいいですか?」
「もちろん。俺は、いつでも会いたいと思ってる」
「……また、連絡しますね」
そう言って、彼女は小さく手を出した。
俺の指先に、彼女の手が触れた。
その手は冷たかったけど、確かに温かかった。
そしてそのまま、何も言わずに、彼女は改札の中に消えていった。
俺は立ち尽くしたまま、しばらくその場を動けなかった。
この人の隣が、自分の居場所だと思った
それから、会う回数が自然と増えていった
彼女と会う回数は、週1だったのが、気づけば週2になっていた。
連絡を取るペースも、以前よりずっと増えていた。
無理しているわけじゃない。自然と、そうなっていた。
「今、どこにいますか?」
「コンビニ。これから帰るところ」
「……駅、寄ってもいいですか?」
「うん。待ってる」
そんなやりとりが当たり前になっていた。
予定を合わせるでもなく、時間を合わせるでもなく、ただ「少し会いたい」という気持ちだけで会う。
誰かとこんな関係を築ける日が来るなんて、以前の俺には想像もできなかった。
自販機の前で立ち話するだけの夜
その日も、駅前で待ち合わせた。
あいかわらず彼女は表情が薄い。
でも、それが俺には心地よかった。
「今日、寒くない?」
「……寒いけど、外の空気のほうが、気持ちが静かになります」
「俺も、家より外にいたい日、ある」
「誰にも声かけられないって、安心しますよね。こういう時間」
駅裏の駐輪場の脇にある自販機。
買った缶コーヒーを持って、並んで立っているだけ。
でも、気持ちは落ち着いていた。
それだけで、充分だった。
話さなくても、同じ空気を吸っているだけで
彼女はたまに俺の顔を見る。
そしてまた、ゆっくり視線を外す。
俺もそれに合わせて、遠くの信号や、人影の消える方向を見つめる。
「この前、あなたが送ってくれた本。読んでみました」
「どうだった?」
「……主人公が、人に何も期待してないところ、すごく分かりました。誰にも期待しなければ、傷つかないし」
「そう。俺もそこ、好きだった」
「でも、途中から、少しずつ人を信じたくなる気持ちが、出てきて…」
「うん。あそこから、物語が変わるよね」
「……ああいうの、今まで苦手だったんですけど。今なら、少し分かる気がして」
彼女がそう言ったとき、俺は心の中で思った。
——それって、今のあなた自身のことじゃないか、と。
俺の中の“過去の俺”が、少しずつ静かになっていく
昔の俺は、何も信じられなかった。
人に話しかけられれば警戒して、関わりを避けて、沈黙で逃げるのが常だった。
でも今、こうして隣に誰かがいて、気を許して、同じ缶コーヒーを持って、話ができている。
それは、過去の自分からすれば、信じがたい変化だった。
「……ねえ」
彼女のほうから、ぽつりと声が漏れた。
「いつから、こうして話せるようになったんでしょうね。お互い、人と話すの苦手だったのに」
「俺も分からない。でも、君と話すのは、苦じゃない。むしろ……落ち着く」
「私も……あなたと話すときだけ、緊張しないんです」
沈黙が、うれしかった。
沈黙が、怖くなかった。
沈黙が、むしろ居心地よかった。
「この人なら、大丈夫かもしれない」と思えた
人を信じるなんて、ずっとできなかった。
でも、今のこの空気なら、それができるかもしれない。
彼女も、きっと同じように思ってくれている気がした。
「……俺さ」
言葉を選ぶ時間が、長くなった。
「もし、こういう日々がずっと続くなら、俺……」
彼女は目を伏せたまま、静かに耳を傾けていた。
「ずっと、そばにいてほしいって思ってる」
それを言ってしまったら、何かが変わると思った。
でも、言わずにはいられなかった。
彼女は少しだけうなずいて、ほとんど聞こえない声で言った。
「……私も、そう思ってました」
その夜、俺は家に帰ってもずっと、手の中の空気を確かめていた。
彼女の隣にいた時間のぬくもりが、まだ手のひらに残っていた。
この人と、ちゃんと生きていきたいと思った
あの夜から、言葉が変わった
「そばにいてほしい」
あの言葉を交わした夜から、俺たちのLINEは少しずつ変わっていった。
やりとりの言葉が、やさしくなった。
頻度も増えたけど、それ以上に、文の最後に「。」が減った。
「今日は寒いですね」
「風、気をつけてくださいね」
そんな短い文章の中に、あたたかさが混じっていた。
俺も、自然に「またすぐ会いたい」と書けるようになっていた。
彼女はそれに、「私も、同じです」と返してくる。
それだけで、十分だった。
初めて、彼女の家に行くことになった
「うち、狭いけど……よかったら来ませんか?」
彼女のほうから言ってくれた。
驚いたけれど、うれしかった。
彼女にとって、“自分の部屋”は、誰にも見せたくない場所だったはずだ。
俺もそうだからわかる。
だから、それを見せてくれるということは、
心の中の何かを、ちゃんと渡してくれるということだと思った。
静かな部屋に、彼女の時間が流れていた
玄関を開けた瞬間、彼女の香りがした。
洗剤の匂いと、ほんのりとした紅茶の香り。
部屋はきれいに片づいていた。
棚に並ぶ本、観葉植物、小さな加湿器。
無駄なものがなくて、でも冷たくなかった。
それはまるで、彼女自身のようだった。
「……ここが、私のすべてです」
そう言って、彼女はそっと笑った。
その笑顔は、これまでで一番やわらかかった。
俺は黙ってうなずいた。
「好きなとこ、座ってください。飲み物、淹れますね」
キッチンに立つ彼女の背中を見ながら、俺は不思議な気持ちになっていた。
ここに自分がいることが、不自然じゃなかった。
当たり前みたいに感じていた。
ソファに並んで座って、テレビをつけた
リモコンを渡されて、俺はテレビをつけた。
でも、特に番組に集中することもなく、ただ彼女と並んで座っていた。
「こういう時間、なんか……夢みたいです」
「俺も。人と並んで、テレビ観てるのに緊張してないの、初めてかも」
「……一緒にいるのに、無理しなくていいのって、安心ですね」
「そうだね。何も言わなくても、大丈夫って感じがする」
俺たちはそのまま、しばらく言葉もなく、画面を眺めていた。
けれど、沈黙はまったく重くなかった。
むしろ、音のないところに安心があった。
ふいに、彼女がつぶやいた
「昔……一度だけ、本気で“消えたい”って思ったことがあるんです」
俺は、視線をテレビから外した。
彼女はまっすぐ前を向いたまま、続けた。
「中学のとき。誰とも話せなくて、誰も気づいてくれなくて。でも、そのとき、あなたのことを思い出しました」
「……俺のこと?」
「うん。小学校のときに、シールをくれた男の子のこと。顔も名前も忘れてたけど、“あのとき誰かが優しくしてくれた”って思えたから」
彼女の目は、ほんの少し潤んでいた。
でも、泣いてはいなかった。
「……だから、今日こうしてまた、ちゃんと話せてることが……」
俺は、言葉を見つけられなかった。
でも、彼女の手を、そっと握った。
手はあたたかくて、指先が少し震えていた。
「……ちゃんと一緒にいたいです」と言ってくれた
そのまましばらく、俺たちは何も言わずにいた。
部屋の時計の音だけが、やけに大きく聞こえた。
彼女が、静かに口を開いた。
「……私、ちゃんと一緒にいたいです。中途半端じゃなくて」
「……俺も。これからも、あなたと一緒に生きたいと思ってる」
それは、決意というほど堅くもなく、でも本気だった。
気づけば、心の中の不安はすっと消えていた。
あの日、教室の隅で泣いていた子が、
今、俺の手を握って、前を見ていた。
教室のすみにいたふたりが、今ここにいる
「入籍、しようか」
その言葉は、ある晴れた午後の、何気ないカフェの窓際で出た。
彼女はカップを両手で包みながら、まっすぐ俺の目を見た。
「……入籍、しようか」
声は小さかった。
でも、その一言で、周りの音がすべて消えた気がした。
俺は一瞬だけ固まって、それからうなずいた。
「うん。……そうしよう」
返事をしたあと、少しだけ笑った。
すると彼女も、頬をほんの少しだけ緩めた。
たぶん俺たちの笑顔は、周りから見れば控えめすぎて伝わらない。
でも、ふたりの間ではそれが“最大の喜び”だった。
結婚式はしなかった。でも、それでよかった
入籍だけをした。
親戚には挨拶したけれど、式も披露宴もやらなかった。
ふたりとも、人前に立つのが苦手で、それは最初から決めていた。
役所に書類を出す日も、特別な服は着ていなかった。
いつものように、歩幅を揃えて役所まで歩いて、
順番を待って、淡々と手続きをした。
それでも、その帰り道に彼女がふとつぶやいた。
「……なんか、教室から帰るみたいですね」
「え?」
「小学生のときみたいに、一緒に下校してる感じ。今日は“婚姻届”っていう宿題を出しただけ、みたいな」
俺は吹き出した。
そんなふうに思える彼女が、やっぱり好きだった。
「じゃあ俺は、ランドセル代わりに、このカバン持って歩くわ」
「……そのキーホルダー、まだついてるんですね」
彼女が指差した先には、あの色あせたキャラが揺れていた。
「外せないよ。だってこれ、始まりの証拠だもん」
夜、ふたりでカーテンを開けて空を見た
その夜、引っ越したばかりの部屋で、ふたり並んでソファに座った。
まだ家具もそろっていなくて、部屋の隅には段ボールが積まれていた。
テレビはつけなかった。
カーテンを開けて、窓の外の空をふたりで見上げた。
「……ここが、わたしの教室だったのかな」
「え?」
「小学校の教室じゃなくて。本当は、ここで初めて、ちゃんと安心できた気がするから」
俺は何も言えなかった。
代わりに、彼女の肩をそっと抱いた。
細い肩が、すっと力を抜いた。
時々、あの頃の夢を見る
俺は時々、あの教室の夢を見る。
誰もいない放課後の教室。
陽が差して、机に影が落ちてる。
窓の外では、風が木々を揺らしている。
俺は、自分の机の横に立って、誰かを探している。
そして、その隅に——彼女が、泣いている。
夢の中の俺は、その机に近づいていく。
言葉はない。ただそっと、手の中にあったシールを置く。
彼女は顔を上げないまま、机の角に貼られたそれを、じっと見つめる。
夢はそこまでだ。
でも、それだけで、十分だと思う。
今、ふたりで生きている
朝起きて、彼女が台所に立ってる音で目を覚ます。
「おはよう」と言うと、「おはようございます」と返ってくる。
休みの日には、二人で図書館に行ったり、公園を歩いたり。
変わったことはしない。
でも、毎日が静かで、やわらかくて、ちゃんと生きていると思える。
「……生きててよかったですね」
彼女がふと、そんなことを言った。
「うん。生きてたから、会えたね」
「たぶん、ずっと前から、会う約束してたんですね。教室のすみで」
俺はうなずいた。
この人の隣なら、きっと、どんな時間も大丈夫だ。
もう、あのときみたいに、泣かせない。
誰にも気づかれなかったあの子を、
今度は、ちゃんと笑わせていきたいと思う。
【完】