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はっくなび
会議室にふたりきり
「この人、なんでずっと怖い顔してんだろ」
冷房が効きすぎた会議室。その中で、俺と嫁子は向かい合って座っていた。
企画部から届いた分厚いプレゼン資料の束。それをめくる俺の手は、微妙に震えていた。理由は寒さじゃない。目の前の女が、あまりに怖かったからだ。
「ページめくる音、うるさいです。もっと静かにできません?」
低いトーンで、でも鋭く突き刺すように。まるでレーザー。
「す、すみません…」
俺は思わず小声で返す。逃げ出したい。なんで俺が、こんな女とふたりきりの会議室で資料チェックなんて…。
ことの始まりは、昨日の昼休みだった。
「お前がやれ、普通だから」
「おい、あの件な。嫁子のプレゼン資料、チェックしてやれ」
俺のデスクにやってきた島田部長は、開口一番そう言った。
「は?俺がですか? いや、俺ってそういうの得意じゃ…」
「知ってる。だからお前にやらせんだよ。お前は“普通”だからな。ミスもしないし、やるのも早い。でも余計なことも言わない。最適だろ」
“普通”…あの一言で、ぐうの音も出なかった。結局俺は、企画部の鬼チーフと呼ばれる“嫁子”と、毎日夕方からの二時間を会議室で過ごすことになった。
「嫁子」ってどんな人?
社内で「嫁子」と呼ばれているのは、企画部の中でも超有名人だ。あだ名の由来は不明。誰も本名で呼ばないし、本人も怒らない。なぜかその名前だけは許されている。
とにかく仕事に厳しく、プレゼンに関してはプロ中のプロ。
ただ、口調がとにかくキツい。
「なぜこの数字の根拠が書いてないの? ねえ、普通に考えればわかるでしょ?」
「この色使い、本当に見やすいと思ってます? 自分で見て、恥ずかしくない?」
一言一言が、ナイフみたいに突き刺さる。しかもそれを淡々と言う。
噂によれば、かつて部長ですら泣かせたことがあるらしい。
無言の会議室、そして突然の一言
今日も、黙って資料をめくっていた。何十ページもあるのに、音を立てると睨まれる。沈黙。咳払いも怖くてできない。
そんな時だった。
「…あなたって、他人の目を気にしないのね」
ふいに言われた。
「え?」
思わず顔を上げると、嫁子がじっとこっちを見ていた。
「こんな密室で、ずっと黙って座ってるのに、まったく動揺しない。普通、少しはビビるでしょ?」
俺は思わず口元が緩んだ。いや、笑ったら殺されるかも。でも、どうしても笑ってしまった。
「気にしてたら、2ちゃんなんかやってません」
すると──。
嫁子が、ふっと笑った。
小さく、ほんの少し、でも確かに笑った。
「この人、壊れてないかもしれない」
それが初めてだった。
嫁子が笑ったのを見たのは。
正直、俺の中では「仕事の鬼」「怖い人」「目を合わせると凍る」くらいの印象しかなかった。でもあの一瞬、ちょっとだけ、普通の人に見えた。
「意外ね。2ちゃんとか見るタイプに見えないけど」
「悪口見るの、好きなんです。自分のこと書かれてないと安心します」
「へえ」
嫁子はまた資料に目を戻した。でも、空気が少し変わっていた。
今までピリピリだったのが、ちょっとだけ…柔らかい。
登場人物の紹介(ここまでの整理)
● 俺
入社5年目。仕事は早いが「可もなく不可もなく」と言われ続ける存在。常に「定時で帰りたい」が口癖。
● 嫁子
企画部チーフ。プレゼン資料の精度とクオリティに命を懸ける女。鬼のような口調で恐れられているが、実力はピカイチ。
● 島田部長
無駄に声が大きいタイプの上司。パワハラではないが、「お前ならいける」みたいな丸投げが多い。嫁子にはやや押され気味。
● ミカ(同期)
同じ年入社の噂好き社員。昼休みになると情報収集に走る。嫁子と俺の“変化”をいち早く察知する天才。
ちょっとだけ、何かが変わった初日
資料はまだまだ残っている。正直、何日かかるかわからない。けど、あの一瞬の笑いで、少しだけ気持ちが軽くなった。
「じゃ、今日はここまで。……明日、またここでね」
「はい。あの…ありがとうございました」
嫁子は小さく頷いて、資料を持って出ていった。
俺は一人残って、会議室の冷気の中で思った。
(なんか、怖い人だと思ってたけど……ちょっとだけ、人間だったな)
「話しかけなくても、ちょっと笑ったら平和になる」
次の日の会議室は、なんだか少し違っていた。
冷房は相変わらず効きすぎている。資料の厚みも相変わらず。けれど空気だけは──少しだけ、やわらかくなっていた。
嫁子は相変わらず表情を崩さない。けれど、資料を渡すときの手つきが、前より少しだけ、雑じゃなくなった気がする。
「昨日のここの数字、修正入ってたから最新版に差し替えて」
「はい、ありがとうございます」
俺が受け取った資料をペラペラめくると、嫁子は黙ってペンを回していた。
そのうち、ぽつんと。
「……家、どこなの?」
「え?」
不意を突かれた。
「いや、別に聞きたくなっただけ。毎日定時で帰るから、近いのかと思って」
「あー……高円寺っす。電車15分くらい」
「へえ。じゃあ早く帰れるんだ」
「え、ちょ、ちょっと待ってください。“定時で帰る=仕事してない”って意味じゃないですよね?」
「……言ってないでしょ?」
嫁子は表情を変えずに言った。でも、ほんの少しだけ口の端が上がった気がした。
少しずつ、沈黙の中に会話が生まれる
それから、日を追うごとに、ふたりきりの会議室にも変化が出てきた。
最初の頃は、嫁子が一方的に話して、俺が「はい」「すみません」「了解です」しか言わなかった。でも今は──。
「このグラフ、前のよりちょっと優しく見えますね」
「そう? 色味を少し抑えてみた。強調したいとこだけ赤にしたの」
「なるほど、これなら営業部も文句言わなそう」
「うん、あの人たち、視認性でうるさいから」
いつの間にか、自然と会話になっていた。嫁子は仕事に対して厳しいままだ。でも、たまに笑う。いや、「笑いそうになる」の方が正確かもしれない。
俺はそれが嬉しかった。怖かった存在が、ちょっとずつ人間らしくなっていくのが、どこか不思議で、心地よかった。
そして事件が起きた
「これ……数字、ズレてる」
嫁子の声が低く響いた。
俺は慌てて手元の資料を見る。──しまった。差し替えたページに、前回の古いデータが混ざっていた。
「すみません! 俺が……前のファイルを上書きしちゃってて、多分そのまま……」
嫁子は何も言わず、眉間にしわを寄せて資料を見直していた。
俺の心臓がバクバクしていた。やばい。今度こそ、切られるかもしれない。怒鳴られるかも。
でも──。
「……私がやったって言うから、大丈夫」
「え?」
「これ、私のチェック漏れってことにする。上にはそう伝える」
「ちょ、ちょっと待ってください、それ俺の……」
「静かにして。今はそれが一番いい」
そう言って、嫁子は資料を抱えて出て行った。
俺は呆然とその背中を見送るしかなかった。
「不器用でも、裏切らない人ね」
その日の夜、嫁子から初めてLINEが来た。
会議室、まだ開いてるから。少しだけ来てもらえる?
俺は急いで会社に戻った。会議室のドアを開けると、そこにいたのは──一人、資料をテーブルに並べている嫁子だった。
「来てくれてありがとう」
「いや、こっちこそ、さっきはすみませんでした。俺のミスで……」
「ねえ」
嫁子が、唐突に言った。
「……あなたって、不器用だけど、裏切らない人ね」
「え?」
「さっき、自分のミスだって言おうとしてたでしょ。普通、ああいうときは黙ってるものよ。責任押し付けられても、文句言わずに引き受ける。そういうとこ、嫌いじゃない」
「いや、でも、俺……」
「怖い人だと思ってた?」
「……はい。今もちょっと怖いです」
それを聞いて、嫁子は──今度こそ、はっきり笑った。
小さく、小さく、でも間違いなく笑った。
「まあ、ちょっとだけ怖いくらいで、ちょうどいいのよ。私の性格には」
この瞬間、何かが変わった
ふたりきりの会議室。
ずっと冷たかった空気が、いまはほんのり温かい。
あれほど怖かった存在が、笑った。
俺はその表情を、どこか不器用に、でも大事に心にしまい込んだ。
「“支えてくれたのは、この人です”がずるすぎる」
あの日を境に、俺と嫁子の関係は静かに、でも確かに変わっていった。
会議室での共同作業は、あと数日を残すのみ。プレゼン本番が近づくにつれて、緊張感も増していったけど──それでも、あの“笑い”を挟んだ後の空気は柔らかく、優しかった。
今日も会議室に入ると、嫁子はもう資料を広げていた。
「お疲れさま。今日、ちょっとリハーサルやるから、その前に最終チェックする」
「了解です」
俺が腰を下ろすと、嫁子は一枚のスライドを指さした。
「このページ、あなたのアイデア、反映した。グラフの色と、キャッチコピーの位置。こっちの方がいいって言ってたでしょ?」
「え、マジで? 採用されたんですか?」
「うん。地味だけど、説得力が増した。そういう小さな配慮が大事なの」
嬉しかった。ただ、それだけで。
いざ本番、緊張のプレゼン開始
午後三時。全体会議室。社内の重役たちが並ぶ中、プロジェクターにプレゼン資料が映し出されていく。
嫁子は前に立ち、ゆっくりと、けれど堂々と話し始めた。
「今回の新規提案に関して、我々企画部では、ターゲット層の意識変化を踏まえた内容に仕上げました──」
俺は会議室の端で、プロジェクターの操作係として座っていた。嫁子がスライドを進めるたび、俺がクリックする。
嫁子は相変わらずすごかった。声も、間も、視線も、完璧だった。
そして終盤。
まさかの一言が、彼女の口から飛び出した。
「この人が、支えてくれました」
「なお、今回のプレゼン資料は、私ひとりではここまでの完成度に届きませんでした」
会議室がざわつく。
「……日々、黙々と内容を整理し、数字を追い、修正を繰り返してくれた人がいます」
その視線が──俺の方に向いた。
「この人が、支えてくれました」
会場が、またざわついた。
俺は、言葉を失っていた。
そんなの、聞いてない。
ざわつく会場、そしてそのあとの“噂”
会議終了後、会議室の外では社員たちがひそひそと話していた。
「え? あのふたり、なんかあるの?」
「え、まさか、あの鬼チーフがあんなこと言うなんて……」
「ありえないでしょ、あの子が男に感謝とか、ねえ?」
中でも、一番目立ったのは──ミカだった。
「やっぱりね~~~!」
俺の肩を掴んで言った。
「絶対、なんかあると思ってた! だって最近、会議室から出てくるとき、嫁子さん、ちょっと顔がやわらかいもん!」
「いやいや、ないですから、ほんとに。マジで」
「うっそだぁ~~! あたしの目はごまかせないぞ!」
ミカは大げさに言いながら、何度も肘で俺を小突いてきた。
ふたりで静かに、資料を片づける時間
プレゼンが終わった翌日。いつもの会議室。俺と嫁子は、使用済みの資料やプロジェクター、アンケート結果などを片づけていた。
「昨日の……あれ、ちょっとびっくりしました」
「なにが?」
「俺の名前、出したじゃないですか。あんな大勢の前で」
「あれくらい、普通でしょ。感謝してるし」
「いや、普通じゃないです。俺、あんなセリフ、言われたことないですよ。“この人が支えてくれました”とか……ズルいですよ」
嫁子は、資料の束を閉じながら少し考えて、それから小さな声で。
「……じゃあ、取り消してあげる。支えてくれたの、無し」
「いや、それはちょっと寂しいです」
ふたりとも笑った。
「あの瞬間、たぶん誰よりも、嬉しかった」
嫁子と俺。
この関係が、何なのかはまだよくわからなかった。けれど、あのプレゼンの瞬間、俺は確かに思っていた。
(支えてきたって、言ってくれてよかった)
その気持ちは、言葉にできないほど、強かった。
そして──。
数日後、また小さな事件が起こる。
「ある日、うちに弁当が届いたらそれは終わりの始まりだった」
あれから数日経ったある日の夜。俺は定時に仕事を終えて、ふつうに家に帰った。
いつもの高円寺。駅前のスーパーで半額の惣菜でも買って、ビールと一緒に片づけよう──そう思っていた。
でも、家のドアの前で、俺は固まった。
足元に、置き配のような包み。
赤い布の包みの中に入っていたのは──、手作りの弁当箱だった。
白米、卵焼き、ブロッコリー、ウインナー。彩りも栄養もバランスばっちりの、俺の手料理とは比べものにならないちゃんとした弁当。
中には、小さな付箋が貼ってあった。
「今日もお疲れさま。ちゃんと食べなさい」
──字は、嫁子のだった。
嫁子が俺の家に来た日
「ちょっと、ご飯作りすぎちゃってさ。あんた絶対、夕飯カップラーメンとかでしょ」
次の日、会社のエレベーターでふたりになったとき、嫁子がさらっと言った。
「え、なんで知ってるんですか」
「顔に出てる。あと、疲れてるときはスーツの袖のアイロンが甘くなる」
「細か……」
「細かいのが、私の取り柄だから」
その日は、なんでもない日だった。仕事の予定もなく、時間も空いていた。
「帰り……ちょっと寄っていい?」
「え?」
「ちゃんと食べてるか確認するだけ。別に長居はしないから」
「……まじですか」
「文句ある?」
「ないです」
俺の部屋はワンルーム。狭いし、生活感丸出しだ。洗濯物も畳めてない。けど──嫁子は文句ひとつ言わなかった。
「ふうん……けっこう、きれいにしてるんだね」
「え? ああ、いや、さっき急いで掃除しました」
「バレバレ」
ふたりで食べた、最初の夜ごはん
テーブルに並んだのは、嫁子が作ってくれた“作りすぎた”ご飯。
「おかわりあるから。遠慮しないで」
「……いただきます」
正直、泣きそうだった。味噌汁が染みた。焼き鮭がちゃんと香ばしかった。家でこんなに“あったかいご飯”を食べたの、何年ぶりだろう。
「なんか、変な感じっすね。会議室じゃないのに、こうして向かい合ってるの」
「そう? 私はこっちの方が話しやすいけど」
「え、マジで? 俺、今でもちょっと緊張してるんですけど」
「ふふっ」
嫁子が笑う。その笑い方が、ほんとに普通で、やさしくて、俺は心底びっくりしていた。
「うち、帰るのめんどくさいな」
ご飯を食べ終えて、片づけも一緒にしたあと。
嫁子は、ぽつんとつぶやいた。
「……うち、帰るのめんどくさいな」
「え?」
「ここ、静かでいいし。わたしの部屋、上の住人がうるさくてさ、深夜でもドスドス歩くの。疲れる」
「泊まって……く?」
「え?」
「いや、ちょ、いや、違う、いやいや、変な意味じゃなくてですね!? ほんと、ソファとかでいいんで、泊まってくれても、っていうか」
「……別に、いいけど」
「え?」
「泊まる。今日は。明日は朝イチ会議だし、ちょうどいい」
そう言って、嫁子は俺のベッドにぽん、と座った。
俺はフリーズした。
“鬼の嫁子”が、眠ってる
夜中、トイレに起きた俺は、ふとリビングの様子を見に行った。
ソファに寝てると思っていた嫁子は、ちゃんと布団を敷いて、丸くなって眠っていた。
仕事のときと違って、眉間にしわもない。口元は少し緩んでる。
いつもは誰にも気を許さない嫁子が、今、俺の布団で眠ってる──その事実が、なんだか信じられなかった。
俺はそっと明かりを消した。
「……おやすみ」
小さくつぶやいたその声は、眠ってる彼女には届いていなかったと思う。でも、自分の中で何かが変わった気がした。
そのまま始まる、ふたりの“生活”
それから嫁子は、何度か俺の部屋に来るようになった。
ご飯を作りに、あるいは作りすぎたからと言って置いていくだけの日もあった。
別に「付き合ってる」とか、そんな話はしてない。でも、ふたりの距離は、確実に近づいていた。
そしてある日──ミカが爆弾を投下してくる。
「ミカの“やっぱりね”が、全部に火をつけた」
「やっぱりね〜〜〜!!」
朝、社内のエントランス。俺と嫁子が、ほぼ同じタイミングで会社に入ったその瞬間だった。
目ざとく現れたのは、同期のミカだった。
「あんたたち、最近“時間差で会社来てた”のに、ついに一緒に来ちゃったね! もう、バレバレ!」
「ちょ、ちょっとミカ、声がでかい」
「はぁ!? なに照れてんの!? ってか、嫁子さん泊まってたでしょ。目、ぜったいスッピン明けの顔だったもん」
「おい、やめろ」
「わたし、同期の幸せ、全力で応援するタイプだからね。みんなにも言っとくから! あ、社内報のネタにもなるじゃん?」
「やめろって言ってんだろ!!!」
思わず声を荒げた俺に、ミカは少し驚いた顔をした。そして、小さくニヤリ。
「へぇ……じゃあ、ほんとに好きなんだ」
言われた瞬間、頭の中が真っ白になった。
(好き? 俺が……?)
ふいに、隣を見ると──
嫁子は、いつも通りの無表情。でも、頬が、ほんのり赤く見えた。
「否定、しないんだね」
その日の夕方。仕事帰りに、また俺の部屋に来た嫁子は、鞄を置いてすぐに言った。
「……さっきの、ミカさんの話。否定しなかったんだね」
「いや、なんていうか……否定したら、それこそ変な感じかなって」
「ふうん」
「でもまあ、嘘じゃないですし」
「……え?」
「好きですよ。たぶん」
沈黙。
嫁子は、しばらく黙ってから冷蔵庫を開けた。
「お味噌汁、作るけど、豆腐でいい?」
「……はい」
味噌汁を作りながら、嫁子はぽつりとつぶやいた。
「わたし、人に“好き”って言われたの、たぶん3年ぶりくらいかも」
「前の彼氏とか?」
「うん。長く付き合ってたけど、最後は、“お前は仕事しか見てない”って言われて、振られた」
「……」
「だから、ちょっと怖かった。職場でまた誰かと関わって、失敗したらどうしようって」
鍋の味噌を溶かすその手が、ほんの少しだけ震えていた。
「今の方が、全然こわくない」
「でも、今の方が、全然こわくない」
嫁子が振り向いて言った。
「あなたといると、ちゃんと“人間”でいられる感じがする。会議室で黙ってても、変な気まずさとかないし」
「俺、空気なんで」
「そこがいいのよ」
「え、それ褒めてます?」
「最大級の褒め言葉」
ふたりで笑った。
味噌汁が煮立つ音だけが、部屋に静かに響いていた。
同棲、というかもう暮らしてる
その日から、俺の部屋に嫁子が来ない日はなくなった。
最初は「作りすぎたから」だったのが、「こっちのが寝やすい」に変わり、やがて「歯ブラシ置いていい?」になって、最終的に──
「洗濯機、一緒に回していい?」
気づけば、同棲していた。
「私の部屋、もうほとんど空になったわ」
「家賃、どうします?」
「折半で。生活費と分けて計算するから」
「さすが…」
「当たり前でしょ」
嫁子は、プライベートでも仕事同様、段取りが完璧だった。
でも、夜になると俺のシャツをたたんだり、味噌汁の味を聞いてきたり、そんなところはすごく普通で、かわいかった。
島田部長の爆弾発言
ある日、昼休みに呼び出された会議室。
「おい、お前ら。社内で噂になってるぞ。『あの鬼チーフがデレてる』ってな」
「……」
「……」
「ま、別に禁止じゃないしな。ちゃんと結果出してるし。ただ──」
島田部長は、タバコをくゆらせながら言った。
「逃げるなよ。どっちかが折れて終わり、ってのが一番つまんねぇからな」
「……折れませんよ」
嫁子が、きっぱり言った。
「こいつ、意外と強いんで」
「へえ。ならいい」
部長は、それ以上何も言わなかった。
その背中を見ながら、俺は、ふと気づいた。
(……あれ? 俺、今、なんか幸せなんじゃね?)
「社内報に“社内婚おめでとうございます”って載る日は、ほんとに来たらしい」
ある日、総務からのメールが俺のところに届いた。
件名:【ご確認ください】社内報・結婚報告ページについて
内容を開くと──
「このたびはご結婚、誠におめでとうございます! 社内報10月号に掲載予定です。お写真、コメント、相手の部署名・お名前の掲載許可について、下記フォームよりご返信ください」
──何かの間違いかと思った。
けど、すぐに思い出した。あの、総務の佐藤さん。先週の帰り際、「嫁子さんと、結婚とか……あるの?♡」なんて冗談めかして聞かれて、「いやぁ……まあ、そうなったら面白いですよねぇ」と言ってしまったあれが、今のこれに繋がっている。
まさか、送るか? メール。公式で。
「ま、いっか。載せようか」
「社内報、どうする? 掲載拒否できるらしいけど」
俺がプリントアウトしたメールを差し出すと、嫁子はふつうに味噌汁をかき混ぜながら言った。
「ま、いっか。載せようか。どうせもうバレてるし」
「え、抵抗ないの?」
「ない。嘘つくの、疲れるし」
「じゃあコメントは、“この人の味噌汁が好きです”とかにしていいですか?」
「そういうふざけ方、社内報でやる?」
「すみませんでした」
「まあ、こっちで書いておく。あなたは、ちゃんと笑顔の写真を探して」
「笑顔の写真なんて……あっ」
「なに?」
「この前、会議室で資料修正してたとき。ふと嫁子が笑った瞬間、あれ撮ってた……気がする」
「いつのまに撮ったの」
「いや、なんか、奇跡の一枚だったから」
「……気持ちはわかるけど、無断はだめ」
「すみません。でもその写真、まじで好きです」
「バカ」
笑いながら、嫁子が味噌汁を器に注ぐ。その横顔を見ながら、俺はふと思った。
(この人と、ちゃんと一緒になれたんだな)
「“鬼嫁”じゃない、“嫁子”が好きだった」
社内報の10月号。
そこには、白黒だけど並んだ写真が載っていた。
俺と嫁子。笑っている。
コメントはシンプルだった。
「社内で出会い、会議室で過ごした時間が、少しずつふたりを近づけてくれました。これからもお互いを支え合って、がんばっていきます」
そして、下に小さく──
新郎コメント:「最初は正直、こわかったです。でも、味噌汁がうまかったんで、たぶん一生ついていきます」
社内はざわついた。
「ついに鬼嫁が結婚かよ!」
「え、嫁子さん、実はデレる人だったの!?」
「ていうか、味噌汁が決め手なの?」
そんな声が飛び交う中──ミカは満足げに拍手をしていた。
「やっぱりね〜〜! ぜったいそうなると思った!」
俺がスレに書き込んだ、最後のひとこと
結婚式は、身内だけのこぢんまりしたものにした。
式のあと、ふたりで帰った夜、俺はいつもの癖でスマホを開いた。
2ちゃんねるの、とあるスレッド。
【社内の鬼上司と関わって人生詰みかけた俺だけど】
久しぶりに書き込んだ。
まさか、鬼嫁上司と結婚するとはな……
味噌汁、最高。
しばらくして、誰かのレスがついた。
なんだよ、羨ましい人生歩んでんじゃねえか。おめでとう。
画面を見ながら、俺は笑った。
会議室に、ふたりの影がもうない日
結婚してからも、仕事は変わらない。
ただ、もう“会議室にふたりきり”になることはない。共同作業は、新人たちに譲ることになった。
「……ちょっと、寂しいね」
ある日、会議室の前を通りかかった嫁子が、ポツンと言った。
「そうですね。ここ、いろいろありましたから」
「最初、あなたのこと、“空気以下”って思ってた」
「おい」
「でも、いちばん、安心できた」
静かに笑った嫁子は、今でもちょっとだけこわい。でも──それが、いい。
そして俺は、この場所が俺たちの始まりだったことを、きっと一生忘れない。
「結婚生活って、戦争かも。でも平和かも」
結婚生活が始まってから──
仕事は相変わらず忙しい。嫁子も変わらずバリバリ働いてる。でも、朝起きて、横に誰かがいる日々は、なんというか、思ったよりもずっと心地よかった。
「洗濯、干しておいてって言ったよね?」
「えっ、いや、あの、干したんだけど、雨が降るとは……」
「じゃあ取り込むくらいはして」
「はい……」
「味噌汁は?」
「いま、出汁とってます……」
「そう」
……結婚って、戦争かも。
けど、味噌汁を一緒に飲んで、「うん、うまい」って言い合ってるときの嫁子は、誰よりも優しい。
たまに、思い出したように手を握ってくる夜もある。
それは──きっと、俺たちにしかわからない形の“平和”だ。
「ふたりで暮らすって、まじでむずい」
「ねえ」
「はい」
「なんで靴下、裏返したまま洗濯機に入れるの?」
「すみません……クセで……」
「そういうのが積もってくと、家庭が崩壊するのよ」
「おおごとだな……」
結婚すると、ひとつ屋根の下に“性格”が並ぶ。
嫁子は「片付け」「段取り」「効率」に命を懸ける人で、俺は「まぁいいか」「そのうちやる」「なんとかなる」人だった。
「この前もさ、買い物リスト渡したでしょ? なぜ“にんじん”だけ抜ける?」
「なんか……買った気がしてたんですよ」
「もう、馬鹿なの?」
「はい」
でも、ちゃんと“ごめん”って言うと、嫁子はいつも許してくれる。
そんなふたりの生活は、まるで綱引き。でも、誰もロープを放さないから、不思議と成り立ってる。
仕事場でも“嫁子”、でもそれでいい
「はい、ここ数字間違ってます。見直して」
「……うっす」
社内でも嫁子は変わらない。鬼チーフのまま。
「ねえ、奥さん、怖くない?」
「うん、まあ……家でもわりと鬼かな。でも、味噌汁はうまいよ」
「なんだその評価基準」
でも、正直に言う。
あの仕事の鬼モードも、俺はけっこう好きだ。
媚びず、妥協せず、ちゃんと正面からぶつかってくる嫁子は、信頼できるし、背中で引っ張ってくれる。
たぶん、俺ひとりだったら、会社で「空気」以上にはなれなかった。
嫁子と出会って、俺はちゃんと“誰かの前で、誰かとして存在する”ようになったんだ。
「帰り道に待ってる人がいるだけで、会社って頑張れる」
ある雨の日、遅くまで残業してた帰り。
最寄り駅を出たところに、傘を持って立ってる人影が見えた。
「……嫁子?」
「傘、持って行ってなかったでしょ」
「でもLINE……」
「見てなかった。だから、先に来た」
そのまま、黙って並んで歩いた。高円寺の夜。濡れたアスファルトの匂い。
「今日、どうだった?」
「うーん、部長の圧がすごかった。でも、乗り切った」
「よかった」
他愛ない会話だけど、それがなによりのご褒美だった。
俺は知った。
“帰り道に誰かが待ってる”って、それだけで人間は、すげえ頑張れる。
たぶん、もう「ふたりきり」が怖くない
最初の頃の「ふたりきり」は、正直めっちゃ怖かった。
何を言えばいいかも、どう座ればいいかもわからなかった。
でもいまは、ふたりきりの時間がいちばん安心できる。
会議室じゃなくて、狭いリビングでも。
パソコンの前じゃなくて、並んで歯を磨く洗面所でも。
ふたりでいる空間そのものが、たぶん“帰る場所”なんだと思う。
嫁子がそこにいてくれるなら、それだけで十分だった。
「ふたりで迎えた記念日。あの日、会議室で始まった物語」
あの日からちょうど1年──
プレゼン資料をふたりで黙って作っていた、あの“会議室での初日”から、1年が経った。
6月の終わり、ちょっと蒸し暑い夜。
嫁子が、冷たいお茶を淹れながら言った。
「ねえ、覚えてる? 今日、何の日か」
「え? 今日?」
「1年前、会議室にふたりで押し込まれた日」
「あ、マジか……あれ、6月の終わりだったのか」
「忘れてた?」
「……ごめん、ちょっとだけ」
「まあ、想定内だけど」
でも、嫁子の声には、とげはなかった。
ただ、笑っていた。
「あのときは、こわかった?」
「……あのとき、わたしのこと、どう思ってた?」
「うーん……“めちゃくちゃこわい人”でした」
「でしょうね」
「でも……きれいな人だな、とも思ってた」
「え?」
「いや、まじで。資料に真剣な顔とか、なんかこっち見てるときの眼とか。ピシッとしてて」
「……今も怖い?」
「うーん……ちょっとだけ。でも、慣れました」
「バカ」
ふたりで笑った。
夕飯は、嫁子の手作りだった。
炊き込みご飯に、焼き鮭と味噌汁。最初に家に持ってきてくれた“弁当の味”に似てた。
「思い出してくれたんだ」
「味覚記憶って、正確でしょ」
「すげぇな」
「そりゃ、鬼チーフですから」
「プレゼントとか、いらないけど」
夕食のあと、嫁子がぽつりとこぼした。
「別に、プレゼントとかいらないけど……」
「……なにか欲しかった?」
「んーん、ただ、ちょっとだけ、言葉とか……あったら、嬉しかったかも」
言葉、か。
俺は少しだけ考えてから、座ったまま、ちゃんと顔を見て言った。
「……この1年、俺、けっこう頑張ったと思う」
「うん、知ってる」
「でも、それ以上に、あなたが俺を引っ張ってくれた。仕事でも、生活でも。たぶん、あなたがいなかったら、いまも“空気のまま”だったと思う」
嫁子は、黙って聞いていた。
「それに、味噌汁が……ほんとにうまかった。そこから、たぶん俺、惚れた」
笑った。嫁子が、声を出して笑った。
「ほんと、バカだね……でも、ありがとう」
会議室での“あの瞬間”が、すべてだった
ふたりで過ごす時間の中で、ふとした瞬間に、あの会議室を思い出す。
冷たい空気。カリカリとペンの音。無言の沈黙。
そして──
「気にしてたら、2ちゃんなんかやってません」
「ふふっ」
あのとき、嫁子が初めて“笑った”。
たったそれだけの出来事が、いまの全部に繋がってるなんて、誰が思っただろう。
運命なんて言葉は、信じてなかった。でもいまは、少しだけ思う。
「あの密室で、仮面が剥がれたとき、俺たちの物語が始まったんだな」って。
「来年も、この日を思い出そうね」
「……来年も、この日、思い出そうね」
そう言った嫁子の表情は、柔らかくて、でもどこかちょっと照れていた。
「じゃあ、来年は俺が、味噌汁をつくります」
「ちゃんと、出汁からね」
「ハードル高っ」
「……でも、期待してる」
こんなふうに、ふたりで過ごす時間が、あと何年続くかなんてわからない。
でも俺は──
この人の笑い顔を、できるだけ多く見ていたいと思った。
「そして、いまもふたりで“味噌汁”を飲んでいる」
日曜日の朝。ゆっくりと目を覚ました俺は、リビングの方から味噌と出汁の匂いが漂ってくるのを感じた。
ふわっとした湯気の中、キッチンに立つ嫁子の後ろ姿が、なんだか妙に馴染んで見えた。
「……おはよう」
「うん、おはよう。あと10分でできる」
「今日は何味?」
「合わせ味噌。わかめと豆腐」
「最高」
朝の光がカーテン越しに差し込んで、部屋の中がほんのり明るくなる。
味噌汁が湯気を立てながらテーブルに置かれ、俺はそれを手に取り、すすった。
──いつも通り。
だけど、それが一番の幸せなんだと思った。
「会議室から始まった夫婦って、まあまあ変だよな」
「さあ、今週もまた仕事か」
日曜の午後、洗濯物を畳みながら俺が言うと、嫁子は笑った。
「月曜が憂鬱って思ってたけど、いまはちょっと違う」
「なんで?」
「あなたが職場にいるから。っていうか、“いるのが当たり前”になってるから」
「……それ、けっこう嬉しいかも」
「ふふ、調子乗らないで」
「はい」
嫁子と同じ会社、同じ空間、同じ空気。会議室で無言で座ってたあの日から考えると、ほんとに不思議だ。
「会議室から始まった夫婦って、まあまあ変だよな」
「でも悪くないでしょ?」
「うん、悪くない。むしろ──かなり、いい」
「“仮面”を剥がしてくれたのは、あなただった」
俺は今でも、嫁子に頭が上がらない。
仕事ではビシバシ怒られるし、家でもルール多め。でも、不思議と心地いい。
「最初、仮面みたいだったじゃん。いつも真顔で、怖くて」
「自分でもわかってた。笑うと、仕事がナメられるんじゃないかって思ってた」
「でも、笑ったじゃん。あのとき、“ふふっ”って」
「……あなたが、変なこと言ったからでしょ」
「でも、それがすべてだった気がする。仮面が剥がれた瞬間、初めて“あ、この人、ちゃんといるんだ”って思った」
「私も、思った。“この人、怖がってるくせに、変なこと言うな”って」
ふたりで笑った。
その笑いは、どこまでも自然だった。
結局、人は“誰と一緒に味噌汁を飲むか”なんだと思う
人生って、思ってるよりシンプルかもしれない。
どれだけ立派な資料を作ったって、すごいプレゼンをしたって──
最後に帰ってくる場所で、ちゃんと「ただいま」って言える相手がいるかどうか。
朝、味噌汁を一緒にすすって、「今日もがんばろうね」って言えるかどうか。
そんな、当たり前のことができる毎日が、いちばん贅沢なんだと思う。
「そして、今日もふたりで味噌汁をすすってる」
夕方、いつものようにふたりでスーパーへ行く。
かごには、豆腐とねぎ、味噌、そして安売りの鮭。
「今夜も味噌汁?」
「うん、毎日違う味にしてあげる」
「じゃあ、俺もチャレンジしてみようかな。“俺味噌汁”」
「やめて。地獄になりそう」
「ひどっ」
ふたりで笑いながら歩く帰り道。
1年前、俺たちはたった二人きりで、冷たい会議室の中に座っていた。
今、こうしてぬるい夕暮れの中を並んで歩いている。
そして、今日もふたりで──
あたたかい味噌汁をすすっている。
(完)