ツンデレ上司|2ちゃん馴れ初め風エピソードまとめ【社畜・上司との馴れ初め】

この馴れ初め話は著作権フリーで改変も自由・YouTubeの素材やSNSでご使用いただいても問題はありません。ただ以下のリンクを張っていただけたら幸いです。
はっくなび

しかられて、気づいた

こんな俺が、怒られるのも当然だった

「仕事してるふりだけは、うまいんだよな、俺」

モニターの前でコーヒー片手にため息をついた。
IT部門の片隅、午後の光が斜めに入るデスクで、俺は今日も“なるべく目立たず”“できることだけ”をやっていた。PC操作は早い。Excelのショートカットも、ショートカットキーも、誰より知ってる。でも、報連相――あれだけは、どうも苦手だ。

ちょっとした不具合なら、正直スルーしてた。「たぶん動くし」と思ったまま、そのまま提出してしまう日々。
それがこの日、地獄の始まりだった。

登場人物を紹介しておく

俺:30手前、IT部門の一応中堅。PC操作は得意だが、責任感と報告力はゼロ。悪気はないが「気づいたら面倒から逃げている」性格。
嫁子:品質管理部門の鬼門。全社員の提出物を隅から隅までチェックする“鋼の針”の持ち主。怒らせたら最後、会議室に呼び出されて“秒で論破”される。
新人・河野:俺の後輩。22歳。優秀だがやや馴れ馴れしい。なぜか俺と嫁子の間に割って入ってくる不思議な後輩。
常務:営業出身の恐怖の上層部。結果以外は興味なし。冷たくて怖い。

いつもの朝、何かがズレてた

その日、俺はいつも通り出社して、メールチェック。
昨日仕上げたシステムのレポートを「なんとなく完成」と思って提出済み。細かいミスがあるかもしれなかったが、「どうせ誰かが気づくだろう」と思っていた。俺の悪い癖だった。

「先輩、おはようございます。昨日のレポート、ちゃんと出しました?」
「おう。出したよ。たぶん完璧」

河野が苦笑いした。

「“たぶん”って、それ一番ダメなやつっすよ」

その時だった。メールの通知が一気に5件以上来た。
全部、嫁子からだった。

【至急】提出レポートに致命的ミスあり。
【確認】誤ったデータで集計されています。
【通達】このまま提出したら顧客に損害が出ます。
【会議室】5分後、B2フロア会議室へ。
【命令】即刻対応せよ。でなければ報告義務違反。

俺の背中が冷たくなった。

「……終わった」

嫁子の怒り、初めて“直撃”

会議室に入ると、そこには嫁子が一人で待っていた。
彼女はスーツの襟をきっちりと立て、資料の束を机に置き、腕を組んで俺をにらんだ。

「あなた、あれが“提出物”だと思ってるの?」

声は静かだった。静かすぎて、逆に怖かった。

「いや……その……急いでたから、ちょっと確認が……」

「“ちょっと”で済ませて、顧客に出すの? “たぶん大丈夫”で、責任持てるの? あのデータ、基幹システムに影響出るところまでコピーされてたのよ?」

「……すみません」

「“すみません”じゃないのよ。恥を知りなさい」

その一言が、胸に刺さった。

「恥を知れ」

言われた瞬間、頭が真っ白になった。
目の奥が熱くなった。恥ずかしいし、悔しいし、情けなかった。

俺は、怒られ慣れてるはずだった。学生時代からずっと、成績もそこそこで、怒られても「ハイハイ」でやり過ごしてきた。
けど、今は違った。

「ここまで怒られるって、俺……本当にダメなやつなんじゃないか」

そう思った瞬間だった。

小さな声が、耳に残った

会議室を出ようとしたとき、嫁子が小さな声で言った。

「……でも、修正速度は早かったわね」

ドアを開けた俺の背中に、そっとかかるような声だった。

俺は振り返れなかった。ただ、その声だけが、ずっと耳に残った。
怒られたのに。怒られたはずなのに。

「……なんだ、あれ」

妙な胸のざわつきが、しばらく止まらなかった。


え?やさしいの?こわいんだけど

あの一言が、ずっと残ってる

あの日から、3日が経った。
嫁子の「恥を知れ」が、俺の脳内でリピート再生されていた。
けれど同時に、最後に放たれたあの小さな声――「でも、修正速度は早かったわね」が、ずっと引っかかっていた。

会社の廊下を歩いていると、自然と目で嫁子を探してしまう。
コピー機の前、給湯室の隅、会議室のガラス越し。
そのたびに「あ、いた」と心の中でつぶやいて、すぐに目を逸らす。バレたら死ぬ。

俺のことなんか、きっともう記憶から削除してるだろう――そう思っていた。

でも、その日、また違和感が生まれた。

嫁子が…俺を呼んだ?

昼下がり、俺のデスクに社内チャットが来た。

品管部:13:30からの資料チェック、あなたに任せます
品管部:修正済みのファイル、共有フォルダに上げておいて

名前は出ていない。でも、“あなた”という言い方。あれは明らかに俺に向けてだった。
なぜなら、その直後――

「先輩、品管から依頼来てます? 僕には来てないんですけど」

河野が不思議そうに言った。

「……俺にだけ、来てる」

俺はゆっくりと椅子を回転させて、自分のPC画面を指差した。
そこには、明らかに“俺にしかわからない形式”でメッセージが並んでいた。

「つまり……俺、指名された?」

資料のチェックを任されるなんて、普段なら絶対にないことだった。
俺は入力する手を止めて、息を整えた。心臓の音が、うるさい。

「……まさか、信頼された?」

河野が、妙なことを言い出す

その日の夕方、河野がふいに言った。

「先輩って、嫁子さんにだけ怒られてますよね」

「……いや、怒られるのは俺だけじゃないだろ」

「違うんすよ。他の人、怒られて終わりっすけど。先輩には“手間かけて怒ってる”感じあります」

「……おまえ、それ誉めてんの?」

「むしろ、特別扱いっすよ」

俺は笑い飛ばそうとした。でも、ふと浮かんだのは、会議室のあの光景だった。

嫁子はたしかに怒ってた。鋭かった。
でも、あれは“見捨てる”怒りじゃなかった気がする。

「まあ、期待されてる証拠じゃないすか。俺なら嬉しいですけどね」

そう言って、河野はペットボトルのフタを開けて一口飲んだ。
俺の心の中には、重くて温かい何かが落ちてきた。

始まった“共同作業”

資料のまとめは、意外と骨が折れた。
嫁子の提出基準は異様に厳しい。フォントも段落も指定がある。
でもその一方で、彼女からのフィードバックは明確で、速くて、わかりやすかった。

俺が少しでも疑問を投げると、すぐに返ってくる。

「表の5行目、数値の根拠を記して。前提条件が抜けてるわ」
「“大丈夫”じゃなく“検証済み”と記載して。品質管理では曖昧語は禁止」
「あと、資料のファイル名。スペースじゃなくてアンダーバーで。何度言ったら覚えるの?」

――けど、そのあとに、必ず付け足すように言ってくるのだ。

「……でも、レイアウトは見やすくなったわね」
「進歩してるわ。正直、前よりはマシ」
「これなら、ギリギリ通せるかも」

怒られてるのに、なんか、うれしかった。

上着のあたたかさと、あの一言

資料提出前夜、残業が長引いた。時計はすでに21時を回っていた。
会議室の白い灯りの中、ふたりで黙々と資料をチェックしていた。

俺は、ふと気づいたら――眠っていた。机に突っ伏して。

目を覚ましたのは、誰かの気配だった。
柔らかい布が、俺の背中にふわっとかかっていた。

それは、嫁子のジャケットだった。

椅子の背に掛けられていたやつ。間違いなく、彼女のもの。

「……はっ」

「起きた?」

小さな声が、耳元に落ちてきた。

「無理に起きなくていいわ。データ、あとでまとめとくから」

「……ごめんなさい。寝てしまって……」

「いいのよ。頑張ってたし」

あの“鋼の針”のような彼女が、今はまるで針を研ぎ終えたあとの、静かな金属のようだった。
俺は、言葉が止まらなかった。

「……やさしくしないでください」

「?」

「好きになっちゃうから」

しばらく沈黙があった。俺は目を閉じたままだった。
その沈黙の中、聞こえた彼女の声は――信じられないほど小さくて、あたたかかった。

「もう、なってるくせに」

バレたら終わると思ってた

会社って、ほんとよく見てる

翌朝、出社してすぐに感じた。
なんか、空気が違う。

「おはようございます」
「……お、おはようございます」

挨拶してくるのはいつも通りの後輩たち。
でも、視線が妙だ。すぐ逸らされる。
女子社員の誰かがヒソヒソと小声で話していた。

「……え、ほんとにあの人と?」
「まさか、あの嫁子さんが……?」
「いやいや、うそでしょ、絶対ないでしょ」
「……でもさ、昨日残ってたの、ふたりだけだったらしいよ?」

俺は背筋がゾワッとした。

「やっべ、バレた……?」

まだ付き合ってもない。
ただ、上着をかけてくれて、あんなセリフを言われて。
こっちはすでに100%落ちてるけど、嫁子の気持ちは……正直、よくわからなかった。

なのに、社内の空気だけが先に走っていた。

河野が爆笑してた

「先輩、聞きました? “鬼女が落ちた”って、朝から部内LINEが祭りっすよ」

「やめろ、鬼女とか言うな。失礼すぎるだろ」

「いや、でもすごくないですか? あの鉄の人が、誰かの上着をかけたって。それ、事件ですよ事件」

「見てたのかよ……」

「噂は、壁を超えます」

河野はニヤニヤ笑いながらコーヒーをすする。

「先輩、これもう付き合ってますよね?」

「……まだ」

「“まだ”ってことは、狙ってるんですね」

「……たぶん、もう好きだわ」

自分で言って驚いた。でも、間違いなかった。
あの夜の言葉。あの仕草。
思い出すたびに、心が痛くなるくらい嬉しかった。

でも、そのタイミングで来たのが――あの人だった。

常務、登場。空気が凍った

「きみ、ITの……」

低い声が後ろからかかった。
重くて冷たい声。誰もが背筋を伸ばす声。

「……はい。○○です」

「最近、品質管理と仲がいいらしいな」

え、なんで知ってるの? 誰が言った? やばい、終わった――
俺の顔から血の気が引いていくのが自分でもわかった。

「は、はい……その……資料を一緒に作成していただいて……」

常務はじっと俺を見ていた。表情は読めない。
そのまま、ポツリとこう言った。

「……あの鬼女が落ちるとはな」

その場にいた社員全員が一瞬フリーズした。

「じょ、常務……いま……」

誰かが小声でつぶやいた。

でも、常務は続けた。

「君、運がいい。彼女に認められたのなら、少しは信じてやろう」

それだけ言って、常務は去っていった。

ドアが閉まったあと、俺は河野の方を見た。

「……なにが今、起きた?」

「いやもう、なんか……社内の階級、変わりましたね。完全に“嫁子公認枠”っすよ」

「そんな枠、いらないわ……」

けれど、心の奥では、変なふるえが止まらなかった。

“あの嫁子に、認められた”

その言葉が、誇らしかった。

恥を知れ、から始まった俺たち

廊下ですれ違った時、嫁子が小さく言った。

「変な噂、流れてるわね」

「……うん。俺、否定しとくから」

「別に、否定する理由ないけど」

「……え?」

「私は、あの夜の言葉、聞き間違いじゃないと思ってるし」

息が詰まった。言葉が出なかった。

嫁子はいつものスーツ姿のまま、でもほんの少しだけ、目の端が笑っていた。

「恥は知って。ちゃんと、ね」

その言葉は、最初に言われたときとはまるで違う響きだった。
優しさと、からかいと、ちょっとだけ――期待が混ざったような、そんな声だった。


付き合うとか、どうすればいいんだ

あの人が笑ってた

それは月曜の朝だった。
いつも通り、俺はやる気のない顔でPCの電源を入れた。
でも――その日の俺には、少しだけ変化があった。

嫁子のデスクに、そっと置いてあった温かい缶コーヒー。
手紙とか、そんな気取ったもんじゃない。
でも、買ってきたのは俺だ。理由もない。ただ、何かしたかった。

その日、嫁子は何も言わなかった。
ただ、お昼休み――通路ですれ違ったとき、俺の顔を見て、ふっと笑った。

「……ありがとう。ブラックじゃなくてミルク入り、覚えてたのね」

それだけ言って、また行ってしまった。

その一瞬の笑顔が、なんかもう、反則だった。
鋼の針が、溶けた。そう思った。

会議室にふたりきり、ふたたび

午後、定例の打ち合わせ後。
会議室に忘れ物を取りに戻ったら、嫁子がいた。

ファイルを整えていた手が止まり、俺の存在に気づく。

「あら。……忘れ物?」

「うん。スマホ、椅子の下に落としてて」

「ほんと、気をつけて。なんで毎週のように何か落としてるの?」

「いや、嫁子がいたら緊張して、ポケットから物が飛び出す仕様なんだよね」

「……は?」

「あ。いや、冗談」

「……もう、なってるくせに」

嫁子が、前にも言ったあの言葉を、また繰り返した。
今度は、まっすぐな目で。笑わずに。
声が、真っ直ぐだった。

「……そうだよ。もう、とっくに好きだよ」

俺は、逃げなかった。

「最初、怒られて、恥かいて、でも、ちゃんと怒ってくれたのがあなただから、俺、変われたと思ってる」

嫁子は目を伏せた。少し、まぶしそうに。

「私、誰かに“好き”って言われるような人間じゃないわよ。怖いって言われ続けてるし。
怒るしか仕事がなくて、感情を殺してるだけ。正直、それでいいと思ってた」

「……でも、そんな人が誰かの背中に上着をかけるのか?」

沈黙。
その沈黙が、優しかった。

「好きになっちゃったんだから、仕方ないじゃない」

その一言が、爆弾みたいに心に落ちた。

恥を知って、向き合うようになった俺たち

その夜、帰り道は一緒だった。
人通りの少ない裏通りを、コンビニのビニール袋をぶら下げて歩いた。

「付き合う、ってことでいいのかな?」

「うん。いいけど」

「俺、不器用だし、まだ怒られると思う。でも……」

「でも?」

「怒られても、あなたになら、嬉しいかもしれない」

「はあ。変な人」

嫁子はそう言いながら、足取りを止めた。

「……でも、わかる」

少し風が吹いた。
スーツの裾が揺れて、髪が揺れて。
嫁子は、その場で小さく笑った。

「私もね、怒るの疲れてたのよ。
でも、あなたに怒るのは、ちょっと違った。どこかで、“この人、変わるかもしれない”って思ってたからかも」

「……俺、変わるよ。いや、変わるようにする」

「もう、変わってるじゃない」

その言葉は、あの会議室での「恥を知れ」と同じくらい強くて、まっすぐだった。
でも、今は、刺さらなかった。あたたかく、しみ込んだ。

河野、気づいてる

翌日。

「先輩……マジすか?」

「ん?」

「ついに、落としたんすね。“嫁子砦”、崩壊」

「……なんで知ってんだよ」

「空気が、違うんですよ。二人がしゃべるときだけ、やたら静かで、穏やかで……“この感じ、付き合ってる!”ってなるやつです」

「……よく見てんな、おまえ」

「だって、俺、ずっと先輩見てましたから」

「気持ち悪いなお前……でもありがとうな。お前のフォローがなかったら、資料も炎上したままだった」

「いや、俺なんもしてないっすよ。先輩が変わったんです」

言われた瞬間、なんかこみ上げるものがあった。
怒られて、泣きそうになって、それでも諦めなかった自分を、今だけは少しだけ誇れる気がした。


ばれた。でも、もう隠さなかった

社内って、ほんとに目ざとい

付き合い始めて1週間。
俺たちは、いちおう“秘密”のつもりだった。
一緒に出社しない、目も合わせすぎない、昼休みも別行動。
……でも、それが逆に怪しかったらしい。

「ねえ、○○くんと嫁子さんって、ケンカでもしたの?」

「え、逆でしょ。最近なんか……視線がやたら柔らかいんだよね」

「アイコンタクト、多くない? しかも、気づいてないフリしてるの、バレバレ」

「うちの部署の後輩が、エレベーターで見たらしいよ。
ふたり、夜のビル前でちょっと距離近かったって」

……完全に詰んでた。

俺が、空気読めない後輩・河野に相談すると、やっぱり笑っていた。

「いやー、隠すのが下手すぎるんですよ。
っていうか、嫁子さんが“隠す気ない”のがヤバいっすね。無言で守ってくれるタイプっす」

「守ってるというか、無言で“気づけ”って言ってる気がするんだけどな……」

そしてその日、事件は起きた

午後3時過ぎ。社内の会議室で、各部の資料まとめをしていたとき。
俺と嫁子、ふたりで並んで座っていた。
何気ない会話だった。

「ここの表、縦に長いと読みづらいな。見出しを折り返して……」
「うん、じゃあ、こっちで改行して……」

そのとき。

ガチャ――

ドアが開いた。

「失礼しまー……」

入ってきたのは営業部の先輩二人。
そして、目が合った瞬間――一瞬で黙る。

数秒後。

「……え、えっと、続けて。邪魔したわけじゃないんで。はい」

そそくさと出ていった。

その数時間後、社内のLINEグループが微妙にざわつき出す。

「さっき、会議室で“ふたりきり”だったらしい」
「付き合ってるってマジ? でもなんか納得かも……」
「でもあの嫁子さんが? ほんとに?」

午後のデスクがざわざわして、空気がソワソワして。
俺は頭を抱えた。

「……やべぇ」

「もういいんじゃない?」

嫁子はあくまで冷静だった。

「どうせ、そのうちバレるんだし」

「俺が社内で生き残れるかどうか、そこが問題なんだけど」

「じゃあ、少し強めに守ってあげる」

「……こわいわ、それ」

けど、なんかうれしかった。

そしてまた、常務が動いた

翌朝。呼び出された。
俺のPCに、見慣れない“内線番号”からの通知。
それは――常務室だった。

会議室ではなく、“あの”個室。
空気が張り詰めていた。

「○○くん、入って」

ドアを開けると、常務はデスクの後ろに座っていた。
表情は硬い。いや、いつも硬いが、今日は輪をかけて無表情だった。

「……はい。失礼します」

「聞いたよ。君と品質管理の○○さんが、“個人的に親しくしている”と」

ああ……終わった……。

俺は心の中で土下座の構えを取った。

「はい、あの……仕事で距離が近くなったのは確かで……でも私情を業務に持ち込んだりは――」

「……それで、入籍はいつだ?」

「…………えっ?」

「責任感を持って付き合うつもりがあるなら、むしろ評価する。
ただし、くだらない噂や影響が出る前に、けじめだけはつけろ。わかったな」

俺はそのまま、椅子に座り直してから返した。

「……考えています。真剣に」

常務はそれ以上何も言わなかった。ただ、書類に視線を戻しただけ。
でも――その目尻が、少しだけ、緩んだ気がした。

そして、あの日がやってきた

夕方、嫁子にその話をすると、意外にも静かに聞いていた。

「ふーん。あの人、あんなこと言ったのね」

「……俺、入籍、真剣に考えてるって言っちゃった」

「後戻り、できないわよ?」

「する気、ないよ」

しばらく沈黙が流れたあと、嫁子は視線を外したまま、小さな声で言った。

「私も……考えてる」

「ん?」

「最初の罵倒、撤回しておくわ」

「“恥を知れ”も?」

「それは、残す」

「……だよなあ」

笑いあった。
その瞬間、心の奥が、じんわりあたたかくなった。

もう、恥も、怒りも、全部、通り越していた。


結婚します、たぶんマジで

いつもどおりの朝だったのに

それは、いつもの朝だった。
通勤ラッシュに揉まれて、駅のエスカレーターで立ち止まって、会社のビルに着いて、ネクタイを緩めて……。

でも、会社のエレベーター前で、ふと振り返ったら――
嫁子がいた。小さなパン屋の紙袋を持って。

「……朝食、食べてないでしょ?」

「え?」

「昨日、深夜まで残ってたの知ってる。顔が死んでるわ」

「……ばれてたか」

紙袋の中には、小さなサンドイッチがひとつ。
それだけのことだったのに、胸の奥がきゅうっと締まるような感覚になった。

「こういうの、ずるい」

「なにが?」

「惚れるしかないじゃん、もう」

嫁子は顔をそらしたまま、小さく言った。

「……結婚する気がないなら、やめといてよね」

「ある。むしろ、今したい」

言ってから、自分でも驚いた。
でも、嘘じゃなかった。本心だった。

河野のやつ、泣きそうになってた

昼休み、会議室の端っこでパンを食べていたら、河野がひょこっと顔を出した。

「先輩、まさか……マジで?」

「うん、たぶん、結婚する」

「ちょっ……ちょちょちょ……早すぎっす!」

「俺も思った。けど、なんかもう、止まんないんだよな」

「嫁子さんが許してる時点で、それ正解です。
あの人、1ミリでも信頼できない相手には、絶対に“未来”を与えない人なんで」

「そんな見抜いてたのかよ」

「……俺、先輩の恋を最初から見てきたんで」

急に真面目になるなよ、って言いかけたけど、言えなかった。

「ちゃんと、嫁子さん守ってくださいよ。
怒られて泣いてた先輩を見て、“この人には足りないものがある”って思ってたけど……
今の先輩なら、もう大丈夫っすよ」

「……ありがとう」

不思議なことに、あの最初の怒鳴られた記憶が、今は笑い話になっていた。

式は挙げません、でも

夜、ビルの外。
コンビニの帰り道、ふたりで並んで歩く。

「結婚式、どうする?」

「挙げたくない。大げさなのは、苦手」

「だよな。俺も」

「でも、指輪だけは……買っておいて」

「え?」

「……ちゃんとした形が、ほしいの」

夜風が少し強くて、嫁子の髪が揺れた。

その横顔は、最初に出会った“鋼の針”なんかじゃなくて、
ちゃんと、やわらかくて、ちゃんと人間だった。

「誰かに怒って、誰かを守って、でも本当は、自分も守られたかった」

そんな声が、嫁子の背中から聞こえた気がした。

「わかった。絶対買う。……俺の分も、おそろいでいい?」

「当然でしょ。……バラバラだったら、殺すわよ?」

「お、おう」

笑い合って、ふたりで小さな道を歩いた。
会社帰りの帰宅路が、なんかもう、人生の道みたいに見えた。

常務からの、最後のひとこと

数日後、常務に報告した。

「……入籍のご報告を、と思いまして」

「そうか」

常務は何も言わずに、しばらく書類をめくっていた。
沈黙が重く、長かった。

「……まさか、あの品質管理の女が、落ちるとはな」

「……はい」

「人の心ってのは、案外、見えない部分で動いてるもんだ。
“怒る”ってのは、感情じゃなくて、信頼だ。わかるか?」

「はい」

「彼女に怒られて、君は変わった。
君に変わってもらって、彼女も変わった。……それなら、結婚に意味はある」

その言葉は、きっと常務なりの“祝福”だった。

俺は頭を下げた。深く、しっかりと。

「……ありがとうございます」

「その代わり、家庭でも報連相、徹底しろよ」

「……はい、善処します」

「“善処”じゃなくて“徹底”な」

「……はい」

最後の最後まで、上司だった。けど、悪くなかった。

入籍の日の朝

役所に提出する日、ふたりで並んで歩いた。
紙を持つ手が少し震えていた。

「なんか、緊張するね」

「わかる。契約書より重たい気がする」

「でも、変だな。
“怒られて泣いた会議室”から、こんなとこに来るなんて」

「私は、想定内」

「うそだろ」

「うそ」

俺たちは手をつないで、窓口に歩いた。

名前を書く手が、少しだけ震えていた。

けど、確かだった。

怒られて、恥をかいて、それでも逃げなかった先に、
こんなにあったかい場所があるなんて――知らなかった。


となりにいるのが、あたりまえになる

「結婚してるってだけで、空気が変わる」

入籍して初めて出社した朝、
正直、これまででいちばん緊張していたかもしれない。

特に「報告会」なんてないけど、社内全体にうっすら広まっている空気は、もう否定しようもなかった。

「おめでとうございますっ!」

最初に声をかけてきたのは、総務の女性だった。
いつも静かな人なのに、今日はテンションが高かった。

「ついに、ですね〜! いやー、ほんとに、あのふたりが……うん、納得というか、感無量というか!」

「……ありがとうございます」

照れくさくて、まともに返事もできなかったけど、
そのあとも、メール、社内チャット、口頭、会議のすき間に至るまで――

「結婚おめでとうございます」
「まさかあの嫁子さんが……いや、失礼、すごくお似合いです」
「バグだと思ってたけど、これが仕様だったんですね」

最後のは誰だ、表出ろ。

「報連相」、家庭内実施

夜。新居のアパート。
嫁子はちゃぶ台みたいなテーブルで書類を見ながら、俺に向かって言った。

「夕飯は、3つ候補あるけど」

「え、3つ?」

「魚の煮付け、オムライス、麻婆豆腐」

「なんだそのバリエーション……」

「どれも30分以内で作れる」

「……どれでも美味しそうなんだけど、たぶん“答えがあるやつ”でしょ?」

「正解はオムライス。卵が賞味期限ギリギリ」

「それはもう、“指示”じゃないの?」

「でも、選ばせたじゃない」

「こわ……」

言いながらも笑ってた。
“鋼の針”が、家庭内では“強火フライパン”になってた。

「先に言っとくけど、家庭内でも報連相は必須。
冷蔵庫の在庫、洗濯機のタイミング、ごみの分別、カレンダーへの予定記入」

「会社かよ」

「会社より大事でしょ」

たしかにそうだった。
一緒に暮らすって、そういうことなんだと思う。

「でも、俺が報連相してなかったら……また“恥を知れ”って言う?」

「言うわよ? なんならフォント変えて、冷蔵庫に貼ってやる」

「鬼嫁かよ……でも好きだわ」

「バカ」

ふとした拍子に、嫁子のほっぺが少しだけ緩んだ。

河野の“お祝い”が、やたらガチだった

数日後、会社の昼休みに河野に呼び出された。

「先輩、これ」

渡された封筒。中には――小さなレターセットと、Amazonギフト券。

「……なにこれ」

「結婚祝いです。レターセットは、けっこう考えて選んだんですよ。
嫁子さん、言葉にしないこと多いから。たまには“書いてもらう”のもいいかなって」

「……お前、泣くぞ? 俺、泣くぞ?」

「泣かないでください。
あと、ギフト券は正直迷ったけど、“指輪じゃないけど、なんか買ってください”ってやつです」

「お前、友達になってくれ」

「……ずっと先輩の部下です」

「いや、もう、部下超えたよ」

何でもないような昼休み。
でも、こうやって少しずつ祝福が積み重なっていくのが、本当に嬉しかった。

家で、初めてケンカした夜

その日の夜。
ふたりで晩ご飯を食べたあと、俺がソファに座って動画を見ていたら――

「明日、早番って言ってたでしょ? 洗濯機、回す時間決めたって言ったじゃない」

「……あ」

「報連相、忘れてたわね?」

「ごめん……」

嫁子は無言になった。
それが、一番つらかった。

でも、しばらくして、ふと俺の肩にタオルをかけてきた。

「明日は、5時半に起きなさい。
私が回すけど、あなたは干して。条件付き許可よ」

「……はい」

その夜。
寝る前に、嫁子がぽつりとつぶやいた。

「怒るのって、ほんとは疲れるのよ」

「……知ってる」

「でも、あなたが変わるって知ってるから、つい言っちゃうの。
そのぶん、わたしも“怒られない努力”する」

「……うん」

「だから、ちゃんと報告して。愛情も、仕事も」

「はい。毎日報告します。『好きです』って」

「バカ」

でもその声には、ちゃんと“甘さ”があった。

もう、針じゃなかった。


あたりまえが、うれしくなる

初めての“夫婦としての休日”

日曜日の朝。
嫁子の寝息がとなりから聞こえていた。

これが、“夫婦”ってやつか――と、ぼんやり思った。
休みの日に、隣で寝ている人がいて、特別なことは何もない。
だけど、それが幸せだった。

しばらくして、目を覚ました嫁子が言った。

「……朝ごはん、いる?」

「作るよ、俺が。冷蔵庫にパンあったろ?」

「……あなたが作ると、なぜか焦げるじゃない」

「今日は焦がさない。たぶん」

「“たぶん”禁止」

嫁子がそう言って笑う顔を見て、ふと思った。
最初に“怒られた日”の嫁子とは、もうまるで違う。
いや、違うんじゃない。本当は最初から、こういう人だったのかもしれない。

焦がさないように焼いたトーストを渡すと、彼女は少しだけ驚いたように目を丸くした。

「……今日、雨が降るかもしれない」

「うちの嫁を見くびるな。いつも焦がしてたのは、焦がすまで放置してただけだ」

「それを“焦がす”って言うのよ」

「でも、美味しい?」

「……合格」

その声は、少しだけ甘えていた。

「両親に挨拶、まだだったね」

昼すぎ、ふたりで近所の雑貨屋に出かけたときのこと。
何気ない会話の中で、ふと気づいた。

「そういえば、両親に挨拶してないんだよな。入籍は先にしたけど」

「……私も」

「緊張する?」

「したくない」

「でも、するんだよ」

「わかってる」

言いながら、嫁子は棚にあった花柄の小皿をじっと見つめていた。

「うちの母親、厳しいよ。嫁の料理とか、評価するタイプだから」

「ふーん。じゃあ、私が料理作って持っていけばいいの?」

「……戦争になるかもしれない」

「なら、なおさら行くべきね」

嫁子は、勝つ気満々だった。
たぶん、あの「恥を知れ」のときみたいな表情になるんだろうと思った。

でも、家族に紹介するというのは、たしかに“夫婦”としての、もうひとつの区切りだった。

「初対面の母親に、怒られた」

翌週末。
実家の玄関先で、緊張しているのは俺だった。

嫁子は、やたら落ち着いていた。

「お邪魔します」

「……まあまあ、どうぞ。あなたが……○○くんの奥さん?」

「はい、至らない点も多いと思いますが、よろしくお願いします」

礼儀正しい低姿勢の言葉に、うちの母親の目が鋭く光った。

「料理は?」

「好きです。手際は自信あります」

「掃除は?」

「汚れは見逃しません」

「息子の欠点は?」

「報連相が雑、何度言ってもエクセルのシート名が適当、あと靴下を裏返しに脱ぎます」

「正確すぎて、何も言えない」

……なんだこの問答。

最初は緊迫していたが、次第に母の表情が和らいでいった。

食後、帰り際。
玄関で靴を履こうとしたとき、母が嫁子にそっと言った。

「……この子、本当に手がかかるから。
でも、あなたなら大丈夫そうね」

「……はい。手はかかりますが、愛情もあるので」

「……あら、それは名言だわ」

ふたりが少し笑い合っていた。
家族が、ひとつ増えた瞬間だった。

「職場って、家族みたいだね」

週明けの昼休み。
俺のデスクに、ふと差し入れが置かれていた。

紙袋の中には、小さな焼き菓子と、メモ。

品管部一同より
ご入籍おめでとうございます。
今後も報告・連絡・相談・家庭内徹底をお願い申し上げます。

俺は笑いながら、その場でお礼のメールを送った。

「ありがとうございます。家庭内でも“チェックシート”導入予定です。
提出期限は……死ぬまでですかね」

数分後、嫁子から一言だけ返信が来た。

誤字がない。進歩したわね。

ふたりだけの、ちいさな会話。
でも、こんなやり取りが、もう日常になっていた。

ふたりで、夕暮れを見ていた

その日の帰り道。
ビルの前の歩道橋で、ふたりで夕焼けを見ていた。

「最初、あそこだったよな。怒鳴られたの」

「そうね。あの会議室、今でも通るとちょっと緊張する」

「でも……ありがとう。あそこで怒ってくれて」

「変な人。怒られたのに、感謝するなんて」

「でも、怒ってもらえなかったら、俺たぶん、何も変われなかった」

「……私も。誰かに伝えることを、やめかけてたから。
あのとき、“伝えたらちゃんと変わる人がいる”って知れて、嬉しかった」

「これからも、怒ってくれていいよ」

「怒るより、伝えたいの。
伝えるって、思ってるより……疲れるけど、報われることもあるから」

「……じゃあ、俺はちゃんと聞く」

「ちゃんと、“聞く”って、思ってるより大事よ」

夕日がゆっくり沈んでいった。
ふたりの影が、となりに伸びて、重なっていた。


はじまりは、怒られた日だった

怒られた日を、忘れてない

日曜の午後。
ベランダに洗濯物を干しながら、ふと思い出した。

あの日の会議室。
「恥を知れ」と言われた瞬間。
俺は、自分の情けなさに打ちのめされて、目の奥が熱くなった。

――けど、同時に。

「でも、修正速度は早かったわね」
あの言葉が、今も心に残っている。

嫁子は、そのときからきっと“伝える”ことを諦めていなかった。
俺は“叱られること”を、人生で初めてちゃんと受け止めた。

「ねぇ」

部屋の中から、嫁子の声がした。

「なに?」

「洗濯バサミの挟み方が雑。布が歪んでる」

「……はい。すみません」

「あと、Tシャツの裾を内側に折るの、やめなさい。乾きづらいから」

「……はい。徹底します」

「……でも、干す手際は早かったわね」

俺は吹き出しそうになった。

「それ、懐かしいな」

「最初に褒めたの、それだったから。覚えてる?」

「忘れるわけないだろ」

「ふふ、そう」

嫁子は、風に吹かれながらシャツの袖を留めていた。

その仕草を見ながら思った。

「ずっと、この人の隣にいたいな」

河野が“昇進”してた

翌月、社内で小さな人事異動があった。

俺の後輩――河野が、チームリーダーに昇進したのだ。

「マジか。すごいじゃん、お前」

「いや〜、たぶん先輩のおかげっすよ」

「俺、何かしたか?」

「“怒られても変わろうとした人”がすぐ近くにいたのって、
なんか背中押されたんですよね。ああ、俺も成長していいんだなって」

「……お前、やっぱり泣かせに来てるだろ」

「いや、先輩は泣かないでください。俺が泣きそうなんで」

二人でコーヒーを飲みながら笑った。
ふと気づいたら、嫁子が遠くからこちらを見ていた。

目が合うと、ほんの少しだけ、まぶたが動いた。

笑ってる。けど、やっぱり、ちょっとだけ鋭い。

「アイスコーヒー、糖分摂りすぎないように」

遠くから、そう言われた。

「……バレてるし」

「やっぱり、見てるんですね、嫁子さん」

「全部バレてるんだよ。あの人には」

でも、それが、安心だった。

日常は、積み重なっていく

ある夜。
ふたりで夕飯を食べ終えて、食器を洗って、コーヒーを淹れた。

テレビの音が小さく流れる中、ふたりで黙って座っていた。

「ねえ」

「ん?」

「幸せ?」

「うん」

即答だった。

「なんで?」

「怒られても、嫌じゃなかったから」

「……変な人」

「でも、ほんとに。
たぶん、俺は最初から“誰かに真剣に叱ってほしかった”んだと思う」

「私も。
誰かがちゃんと、怒りに向き合ってくれるって、思ってなかった」

ふたりの距離はもう近い。
言葉を選ばずに話せる距離になっていた。

「じゃあ、今がその答えだな」

「うん。
叱って、向き合って、歩み寄って、惚れて、結婚して……
そういう恋も、ありだったのね」

「“罵倒されて惚れました”って、あのとき言ったの、正しかったな」

「訂正する?」

「しない」

ふたりで笑った。
ソファの背にもたれながら、手を重ねた。

その温度が、安心だった。

未来の話、少しずつ

「子ども、欲しい?」

「急だな。……でも、いつかは」

「私、ちょっと心配」

「何が?」

「怒りすぎないかなって。
子どもにまで“恥を知れ”って言っちゃいそう」

「……それはちょっとまずいかも」

「でも、ちゃんと伝える自信はある。
伝えるって、大事だもんね」

「うん。伝えて、受け取って、変わっていくのが、人間だもんな」

「じゃあ、ちゃんと“伝える夫婦”になろうね」

「うん」

「もし、またあなたが報連相忘れたら――」

「“恥を知れ”、か?」

「当たり前よ」

笑いながら、ソファに並んで座った。

ふたりの間に流れる空気が、
もう怒りじゃなくて、優しさと信頼になっていた。

そして、ふたりはこれからも

俺たちの馴れ初めは、きれいなものじゃなかった。
失敗して、怒られて、泣きかけて、逃げそうになって、
でも――逃げなかった。

あの日、会議室で「恥を知れ」と言われたのが、すべてのはじまりだった。

あの言葉がなかったら、
俺はきっと、誰かの“本気”に気づけなかったと思う。

本気で叱ってくれる人。
本気で怒ってくれる人。
本気で向き合ってくれる人。

そんな人に、惚れた。
惚れた人と、結婚した。
これからの毎日を、一緒に生きていく。

――“怒られて惚れるなんて聞いてない”と思ってたけど。

今は、
「聞いてなかったけど、聞けてよかった」って、心から思う。