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はっくなび
昼の屋上、俺と誰かがいた話
人付き合いゼロの俺と、無口な新入り
昼休みの屋上は、たいてい誰もいない。
ビルの裏側にある古びた階段を上がって、開けっぱなしのドアを押し開けた先の、コンクリートがむき出しの場所。
高層じゃない中小企業のビルだから、屋上って言っても景色がいいわけじゃないし、風が吹き抜ける分、夏は暑くて冬は地獄だ。
だからこそ、俺はそこを選んでいた。
俺は、会社では完全に“空気”の存在。
部署はシステム開発部、いわゆるSE。34歳独身。友達ゼロ。結婚歴も恋人歴もなし。
昼は誰とも目を合わせず、コンビニの冷やしうどんを流し込んだあと、一本の煙草を吸いに屋上へ行く。それが日課だった。
そんな俺の静かなルーティンに、ある日、変化が起きた。
いつものように屋上のドアを開けたとき。
先客がいた。スーツ姿の女が、無言で煙草を咥えて、金属の手すりにもたれていた。
新入社員――嫁子。
社内でも話題になってた。
面接で子持ちだってのを隠して入社してきた女。
入社2週間目にして、早退3回、有給申請2回。
部長の橋口が「人間じゃない」とか言い放ってたのを、俺は昼休みに2ちゃんで見た。あの無神経なやつ、部下の悪口を自分でスレ立てしてたからな。
(…まぁ、俺には関係ない)
そう思って、そっとドアを閉めようとした。
けどその時。
「……吸いますか?」
低くて、ちょっと掠れた声が聞こえた。
思わず動きを止めて、もう一度屋上に顔を出すと、嫁子がこっちを見ずに煙草に火を点けていた。
「……すみません。邪魔だったら、どきます」
表情は無。声も低い。けど、少しだけ――少しだけ、声が震えてた。
「いや、別に」
(俺も誰かと喋る気なんてなかったけどな)
そう返して、俺は端っこのほうに移動して自分の煙草に火をつけた。
風の音と、二人分の喫煙音だけが流れる屋上。
不思議と居心地は悪くなかった。
嫁子は、派手じゃないけど目を引く顔をしていた。
髪は後ろで一本にまとめていて、アイロンで伸ばしたままのシャツの袖を、肘までたくし上げていた。
その手の甲には、古い火傷の跡があった。
(ああ…育児、大変だったんだな)
そんなことを思いながら、煙を吐いた。
「会社、嫌いですか?」
急に嫁子がそう聞いた。
(不意打ちだった)
「……まぁ、好きじゃない」
そう返した俺の声に、嫁子が少しだけ口角を上げたように見えた。
「ですよね。みんな、言葉が雑だし」
(確かに)
その言葉が、少しだけ心に引っかかった。
気がつけば、煙草一本分の時間を、無言じゃなく過ごしていた。
そんなことは、ここ数年なかった。
この日を境に、昼の屋上には、二人分の足音が響くようになった。
無口な女と、しゃべるようになった理由
なんでこの人、煙草吸うんだろうと思った
それから、昼の屋上は二人のものになった。
毎日が会話ってわけじゃない。
でも、嫁子は来る。俺も来る。タイミングが同じになるように、なんとなく昼の時間を調整してる自分がいた。
誰かと昼を合わせるなんて、生きてきて初めてのことだった。
今日も、階段を一段飛ばしで登った先の屋上にいた。
嫁子は、すでにフェンス際で煙草に火を点けていた。
「あ」
俺が一言、声にならない声を漏らすと、彼女はちょっとだけこっちを向いた。
「……吸います?」
俺は頷いて、ポケットから煙草を取り出し、彼女の隣に立った。いつも通り。会話はない。けど、それが落ち着く。
「……なんで、吸ってるんですか?」
俺の方から言った。聞きたかったわけじゃない。ただ、口が勝手に動いた。
「……?」
嫁子は、煙を細く吐きながら俺を見た。
「……タバコ。子供いるのに、って…言われない?」
「言われます」
それだけ答えて、彼女はまた前を向いた。
(終わりかな、って思った)
けど、数秒後。
「……妊娠したときに、辞めたんです。一回」
「ああ」
「でも、復職して……無理でした」
その声に、嘘はなかった。弱さでも、言い訳でもなかった。
ただ事実を述べた、って感じ。
(無理でした、って、いい言葉だな)
「うちの母は、これ見るたび怒りますけど」
煙草の箱を軽く振って、嫁子は苦笑いをした。
その顔が、少しだけ年相応に見えた。まだ若いのに、母親ってだけで年老いて見えてたけど、今は違った。
「うちの母親もそうだったよ。煙草見つけるたび怒鳴ってた」
「そうなんですか」
「……見つかるように置いてたけどな、たぶん」
「ふふっ」
小さく笑った声に、俺はちょっと驚いた。
(笑うんだ、この人)
その声は、乾いてるけど、あたたかかった。
息子にもこんなふうに笑ってんのかな、と思った。
「……育児、どう?」
「……失敗ばっかです」
嫁子はフェンスにもたれながら、空を見た。
今日の空は青いくせに、やたら風が冷たい。
「子どもって、どうすれば泣かないんですかね」
「泣くんだ、やっぱ」
「……すぐ泣きます。帰りが遅いだけで泣くし、ごはんがカレーじゃないと泣くし、寝るときに違う毛布出すと怒ります」
「ワガママだな」
「……可愛いですけど」
声が、少しだけ柔らかくなった。
その“けど”の後に、いろんなことが詰まってる気がした。
「……俺、子ども苦手なんだよな」
「知ってます。顔に書いてあります」
「……書いてた?」
「書いてました」
はっきりと言い切るその声に、なんだか少しだけ救われた。
(ああ、この人、ちゃんと見てる)
会話って、こんなもんでいいんだなって思った。
「……部長とか、ほんと無理です」
ポロっと、嫁子がこぼした。
「無理って?」
「この前の会議で、“こんな資料、小学生でも作れる”って言われて、資料、私が作ったやつだったんですけど」
「マジかよ…」
「“女が作った資料は字が丸いから読めない”って。なんの理屈か、さっぱりです」
「理屈じゃねえな、それ」
「……あの人が人間じゃないの、たぶん本当です」
初めて笑った顔が、ちょっとイタズラっぽく見えた。
その表情に、俺はちょっとだけ胸の奥がざわついた。
これが“気になる”ってやつか? なんか違うような気もする。
でも、「また会いたい」と思う感情は、明確にあった。
煙草が最後まで燃え尽きた。
俺たちはいつものように、何も言わずにフィルターを潰して、足元の灰皿に捨てた。
「じゃ、戻ります」
「うん」
短いやりとりのあと、彼女は階段を降りていった。
その背中を見送りながら、俺は胸ポケットに煙草をしまった。
(……また、明日)
心の中でだけ呟いたその言葉が、自分でも不思議なくらい自然だった。
子どもに、優しくなれない
本当は、怒りたくない。でも、怒ってしまう
「……寝不足で目が霞むのって、限界来てるってことですかね」
昼の屋上に、また二人きり。
風が強い日だった。嫁子の髪が顔にかかって、彼女は指で耳にかけながら、ポケットから煙草を出していた。
「限界って?」
「昨夜、3時に起こされました。『毛布が違う』って」
「それで起こすの?」
「起きますよ。めちゃくちゃ泣きながら、叩いてくるんです。『これじゃない!』って」
「……すげえな」
「そうなんです。すごいんです。こっちは2時間しか寝てないのに」
煙草に火をつけながら、嫁子の目元にうっすらクマが見えた。
ファンデで隠そうとしてるのが、かえって痛々しかった。
「……怒った?」
「怒りました。泣き声に被せるように、怒鳴ってしまって」
「……」
「で、朝、保育園に送ったとき……無言でした」
嫁子は、そこで煙草を一口吸った。
火種が赤くなるその瞬間、なんとなく表情が強張ったように見えた。
「……本当は、怒りたくないんです」
「うん」
「可愛いし、泣き顔も、抱っこしてるときの手の小ささも、全部大事なんです」
「うん」
「でも……うまくいかないんです。寝不足だと余裕ないし、ミスが続くと焦るし、焦ると余計に口調がきつくなって……」
(俺、何て言えばいいんだろ)
相づち以外の言葉が出てこなかった。
「……たぶん、あの子に、ずっと“怒ってる母親”って記憶されるのかなって思うと……」
嫁子は言葉を止めた。
目線を落として、爪の先で煙草のフィルターをくるくると回している。
「……俺、小さい頃に怒鳴られたこと、いまだに覚えてる」
「え?」
「母親に。こたつの角でコップ割っただけなんだけど、“バカ!”って言われて、泣いた」
「……覚えてるもんなんですね」
「たぶん、あの時“バカ”って言われたのが、初めてだったから。衝撃で」
嫁子は小さく頷いた。
「……私も、昨日“うるさい!”って言ってしまって」
「うん」
「夜中の3時に、“うるさい”って怒鳴ったら、泣き止むどころか、逆に大泣きされて。そりゃそうだって思うのに、言った瞬間もう止められなかった」
「……」
「だから朝、保育園の門で、いつも“行ってらっしゃい”って言うのに、それもできなかった」
その時のことを思い出しているのか、嫁子は手すりをぎゅっと握っていた。
(ああ、責めてるんじゃない、自分を)
「……帰りたいです。時間巻き戻して、寝かしつけからやり直したいです」
「……そうだな」
「でも、時間戻らないし。今日も帰ったらまた、“ごめんね”から始めないといけないし」
その目は、泣いてはいないのに、泣いたあとの目みたいだった。
俺は、言葉を選んだ。
選んで、考えて、噛み締めて、口を開いた。
「……俺さ、子ども苦手って言ったけど、怒ってる母親って、嫌いじゃない」
「……え?」
「怒るって、向き合ってるってことだと思うから」
「……向き合ってる、ですか」
「向き合ってる人しか、怒らないと思う。無関心だったら、たぶん怒りもしない」
「……」
「怒って、それで悩んでるなら、たぶんちゃんと母親してるってことだと思う」
それは俺自身が、昔から欲しかった“親”のイメージだった。
無関心な親じゃなくて、ちゃんと見てくれる人。
「……でも、子どもはそれを覚えてるかもしれないですよ?」
「覚えてる。でも、フォローされたら、それも一緒に覚えてる」
「……」
「“バカ”って怒られて、でも夜に“ごめんね”って言われたら、“ごめんね”も覚える」
俺の言葉に、嫁子は黙っていた。
長いまつ毛が、風に揺れていた。
そして、ぽつりと。
「……すごい、ですね。あなた」
「いや、俺は何もしてないよ」
「……でも、なんか、安心します。屋上来ると」
「俺もだよ」
そのとき、ちょっとだけ、目が合った。
笑った顔じゃなかったけど、確かに“伝わった”という感触があった。
煙草の火が尽きるまで、今日は、少しだけ時間が長く感じた。
息子が俺の袖を引っ張った日
偶然じゃなかったのかもしれない
その日、俺は定時で仕事を終えて、会社の近くにある郵便局に立ち寄っていた。
ネットで買ったマザーボードが初期不良で返品手続き。人生で何度もない地味で面倒な用事。
局から出たところで、背後から声が聞こえた。
「……あれ、会社の……」
振り返ると、嫁子がいた。
黒いカーディガンに、スニーカー。仕事のときよりずっとくだけた格好。
そして、その手には小さな男の子の手が繋がれていた。
(あ…)
言葉が出なかった。
男の子は、俺をじーっと見上げていた。黒目がちで、まつ毛が長くて、嫁子に似ていた。
「こんばんは……」
「……おう、こんばんは」
(変な挨拶になった)
「郵便局、使います?」
「うん、ちょっと返品で……」
「……お疲れ様です」
それだけで会話は止まりかけた。けど、俺がチラッと子どもを見た時、そいつがぽつんと聞いてきた。
「この人、だれ?」
嫁子は一瞬黙って、それから答えた。
「ママのおしごとの人」
子どもはまた俺をじっと見てから、こう言った。
「ふーん、ママがこっそり笑ってるときのひと?」
俺は思わず、口を開けたまま固まった。
嫁子も、動きを止めた。顔が赤くなるのが、遠目にもわかった。
「え、ちょっと、違……違う、それは……」
「あ、ごめん」
子どもは気にすることなく、俺に近づいてきて、スニーカーのつま先で地面を軽く蹴った。
「ねぇ、あそぼ」
「……え?」
「だっこでもいいよ?」
「いや、初対面だぞ俺」
「でもママ、毎日その人と一緒にタバコ吸ってる」
(見られてたのか…!)
嫁子は顔を真っ赤にして、肩をすくめた。
「……ごめんなさい、最近、保育園の帰りにここ寄ることが多くて……見られてたみたいで……」
「いや、全然。俺の方が不審者っぽいし」
そう言いながら、俺はなんとなくしゃがんで、子どもと目線を合わせてみた。
「名前は?」
「いっちゃん」
「いっちゃんか。いい名前だな」
「パパの名前じゃない」
「……ああ、そうか」
「でもパパ、いないから。いっちゃんだけの名前」
その言い方が、大人びていて驚いた。
「……ママ、ひとりでがんばってるから。いっちゃん、さびしいときあるけど……」
「……」
「でもママが、タバコのあとちょっとだけ笑ってると、いっちゃんもうれしい」
(……何この子)
俺は、感情が押し寄せてくるのを必死に抑えていた。
子どもって、こういう時、ズルいぐらい正直だ。
「……ありがとうな。教えてくれて」
いっちゃんは照れくさそうに笑った。
「いっちゃん、やっぱだっこしていいよ?」
「おい、早いな」
「ほら、こうやって……」
いっちゃんは俺の手を引っ張った。
俺は戸惑いながらも、自然とその小さな体を抱き上げていた。
軽かった。あまりにも軽くて、その分だけ、重たいものを背負っているような気がした。
「……ごめんなさい、調子乗ってますこの子」
「いや、大丈夫。俺、だっこって言われたの人生で初めてかも」
「え……?」
「いや、マジで。俺、子ども嫌いだったんだよ」
「……うそ」
「うん。でも、今は……なんか、悪くないかも」
そう言った俺を、嫁子がほんの少しだけ、見上げた。
その目は、ほんの少しだけ潤んでいたように見えた。
「……優しいんですね」
「いや、優しくない。こういうの、向いてないと思ってた」
「……でも、いっちゃん、あなたのこと好きみたい」
「ありがたいっすね」
ぎこちない返しに、嫁子が、少しだけ笑った。
「……明日も、屋上にいますか?」
「たぶん」
「じゃあ……いっちゃん、またそのときにだっこ頼みたいって言うかもです」
「望むところ」
帰り道、いっちゃんは俺の袖をずっと握っていた。
その小さな指の感触が、消えそうで消えなくて。
俺の中で、何かが変わり始めていた。
シングルの頭じゃ無理って、誰が決めた
俺は黙っていられなかった
会議室の中は、重い空気だった。
朝からどこか殺伐としていたが、原因は明確だった。
今週の営業資料――クライアント提出前にデータの整合性が取れていなかった。
一部のグラフがズレており、数字の説明と一致していない。
それに気づいたのは、社長クラスの人間からの指摘。つまり、大問題。
その資料を作ったのは――嫁子だった。
「……これは、ちょっと笑えないよなぁ」
橋口部長の声が、会議室中に響く。
悪びれもせず、余裕のある笑みを浮かべていた。
「このグラフの軸、明らかにズレてるよね? ねぇ、みんな? これさ、“うち”のレベルで提出していいもの? 本気で言ってんの?」
静まり返る空気の中で、嫁子は硬直したように下を向いていた。
その手は震えていた。声も、息も、なかった。
「……この資料、誰が作ったの?」
誰も答えなかった。知っていても、口をつぐんでいた。
だが、橋口はわかっていた。わかってて聞いていた。
「君か? ああ、そうか、やっぱり。うん、うん……いやさ、別に君を責めたいわけじゃないよ?」
(嘘つけ)
心の中で、俺は吐き捨てるように思った。
「でもね……どうしても思っちゃうよね。“どうせ”って。ね? “どうせ、シングルの頭じゃ無理だろう”って」
空気が凍った。
(は?)
何を言った?
聞き間違いか? いや――聞き間違いじゃなかった。
「……おい、ちょっと待てよ」
俺の声が、出ていた。
自分でも驚いた。いつも空気みたいに存在感を消していた俺の声が、会議室に響いた。
橋口が、俺を見る。
「ん? 何か?」
「この資料、俺も見てた」
「は?」
「最終確認、俺がしてた。だから、責任は俺にもある」
嘘だった。
俺は最終確認なんてしていない。けど、構わなかった。
「数字とグラフのズレに気づけなかったのは、俺の確認不足です」
「いや、でもさ」
「彼女だけの責任にするのは筋違いです。ましてや、“シングルの頭じゃ無理”なんて言葉、聞き捨てならないです」
嫁子がこちらを見た。
その目は震えていた。信じられない、というように。
橋口は明らかに動揺した。
「……まぁ、言葉の綾だよ」
「綾でも、言っていいことと悪いことがある」
そのあとは上司たちのフォローが入り、会議は空中分解のまま終了。
俺は会議室を出たあと、すぐに階段を上がって屋上へ向かった。
いつもより強く、扉を開けて、煙草に火をつけた。
(何やってんだ、俺)
手が震えていた。
怒っていたのか、情けなかったのか、わからない。
ただ――守りたかった。それだけだった。
数分後、足音が聞こえた。
「……あの」
嫁子だった。
少し赤くなった目をして、両手をぎゅっと握っていた。
「……ありがとう、ございます」
「……いや」
「……初めてです。あんなふうに、誰かがかばってくれたの」
俺は煙を吐いて、静かに頷いた。
「……びっくりしました。怒った顔、初めて見ました」
「俺もだよ」
「……あの人、本当に、あんなこと平気で言うんですね」
「うん。でも、俺は許さない」
嫁子が目を伏せた。
「……あなた、信用していいですか?」
その言葉に、俺は言葉を返せなかった。
(信用って、重い。けど、逃げたくない)
黙って、うなずいた。
嫁子は小さく「……よかった」とつぶやき、俺の隣に立った。
「……タバコ、あります?」
「……あるよ」
無言のまま一本差し出すと、嫁子が震える指でそれを受け取った。
火を点ける手が、少しずつ落ち着いていくのが見えた。
二人で吸う煙草は、今日も変わらない味がした。
だけど、心のどこかが確実に変わっていた。
迎えに、来てくれますか
俺の番号に、初めて電話が鳴った
その日、仕事中にスマホが震えた。
取引先の名前でもなければ、営業からの内線でもない。
表示されたのは、登録していない番号。
(誰だ……?)
一瞬ためらってから、出た。
「……もしもし」
「……あの、俺さん、ですか?」
息を呑んだ。
聞き覚えのある、でも普段は滅多に聞けない、少し掠れた声。
嫁子だった。
「……どうした?」
「……ごめんなさい……息子が、保育園で熱を出して……」
「え?」
「38.9度あって、今、保育園から呼び出されてて……でも、私、今どうしても抜けられないんです……あと1時間……いや、30分だけでも……」
その声は、極限まで押さえ込んだ涙の匂いがした。
「で、でも、迎えの候補、みんな……実家もダメで……」
「……俺が行く」
自然とそう言っていた。
嫁子が息を呑んだ気配が、受話器越しに伝わった。
「え……?」
「俺が迎えに行く。どこの保育園だ?」
「……ほんとに、いいんですか……?」
「住所言え。今すぐ出る」
俺は席を立ち、PCをスリープにして、スマホを握ったまま会社を出た。
橋口が声をかけようとしてきたが、無視した。
(いっちゃんが、待ってる)
タクシーを捕まえ、嫁子が伝えた住所を告げた。
ナビで検索しながら、運転手が苦笑した。
「この時間、迎え多いんですよね」
「……そうなんですか」
「はい。よく泣いてる声が外まで聞こえてきてね。お母さん遅いと、不安で泣いちゃうんですよ、子どもって」
その言葉に、胸が詰まった。
(泣いてるかもしれない。いっちゃん、泣いてるかもしれない)
到着すると、保育園の門の外に職員がいた。
「いっちゃんくんの、保護者の方ですか?」
「ちょっと違いますが、母親の職場から代理で」
「連絡、聞いてます。ご協力ありがとうございます」
通された一室で、彼は、毛布にくるまっていた。
顔は火照っていて、呼吸も浅い。けど、俺の顔を見ると――
「……おじさん……」
小さな声だった。でも、はっきり聞こえた。
「迎えに……来てくれたの……?」
(ああ、そうだ。来たぞ)
「おう、来たよ。がんばったな、いっちゃん」
「……さみしかった……」
俺は無言で、毛布ごと抱き上げた。
その体は、信じられないほど熱くて軽かった。
「大丈夫。もう、大丈夫だ」
「ママ……おそいの?」
「ママも、がんばってる。だから俺が来た。ママの代わりだ」
いっちゃんの小さな手が、俺の首に回る。
その感触に、俺は息を呑んだ。
(こんな小さな人が、毎日不安と戦ってるんだ)
(こんな小さな人を、あの女はずっと、ひとりで守ってきたんだ)
「……帰ろうか。うちまで、タクシーでいい?」
「うち、せまいけど……」
「いいって言われたら、行くよ」
すると、いっちゃんが小さくつぶやいた。
「じゃあ、きて」
俺は頷いた。
30分後、嫁子が慌てて家に戻ってきた。
「すみません! 遅くなって……」
息を切らして玄関に飛び込んできたその顔は、目が真っ赤だった。
でも、そこにいたのは、安らかに眠るいっちゃんと、その隣で黙って座っていた俺。
「……寝ました」
「……ありがとうございます、ほんとに……ほんとに、すみません」
「大丈夫。あいつ、強い子だな」
嫁子はキッチンに立って、冷たい麦茶を出してくれた。
手が、まだ震えていた。
「……本当は、今日、心が折れそうでした」
「……」
「電話、出てくれなかったら、どうしようってずっと震えてて……でも、出てくれて、駆けつけてくれて……」
「……」
「……あなた、本当に……うちに、来ますか?」
その声は小さく、でも確かに届いた。
俺は、答えなかった。
けど――無言で頷いた。
その瞬間、嫁子は、ほっとしたように目を閉じた。
ただ、そこにいてくれるということ
家って、帰りたくなる場所のことだったんだな
嫁子の家は、駅からバスで15分ほど。
間取りは1LDK。古い団地をリフォームした、こぢんまりとした造り。
玄関を上がると、すぐに小さなキッチンとリビングがあって、奥に布団が一枚敷かれていた。
「散らかっててすみません……」
「全然。うちよりマシ」
「一人暮らし、ですか?」
「うん。ワンルームの。寝るだけの部屋」
「じゃあ、今夜は……」
嫁子は、リビングの隅に置かれたクッションを手に取りながら言った。
「よかったら、ソファ使ってください。あ、でもちょっと狭いかも……」
「平気。なんなら床でも寝られるタイプだから」
「……ありがとうございます」
その夜、俺は初めて“家族の暮らし”というものを目の前にした。
夕飯は冷凍庫の焼きおにぎりと、インスタントの味噌汁。
でも、嫁子がいっちゃんの頭を撫でながら、「あついからふーふーしてね」と言っている声は、どこか、すごく、ちゃんとしていた。
「……おじさん、今日もここでねるの?」
「うん、いいかな?」
「うん! うれしい」
いっちゃんが笑った瞬間、嫁子がそっと目を伏せたのを見逃さなかった。
その横顔には、言葉にならない安心の色が滲んでいた。
(俺でいいのか、なんて、考えても意味ないのかもな)
目の前にあるものが現実なら、今はただ、受け止めようと思った。
翌朝、俺はリビングで目を覚ました。
台所からは、カチャカチャと食器の音。
カーテンの隙間から朝日が差し込んでいて、ほのかに焼けたパンの匂いがしていた。
「……おはようございます」
嫁子が、キッチン越しにそっと声をかけてくれた。
「……ああ、おはよう」
「コーヒー、飲めますか?」
「うん、ブラックで」
マグカップを両手で包みながら、俺は、ゆっくりと湯気を吸い込んだ。
(なんだろう……この、落ち着く感じ)
「今日は、いっちゃん、熱下がったので保育園行きます」
「よかったな」
「……ありがとうございます。昨日、ほんとに、感謝してます」
「……何もしてないよ。俺は、ただ来ただけ」
「でも、あれだけで、どれだけ救われたか……」
言いかけた嫁子は、ふと目をそらした。
「……実は、昨日、母に電話したんです」
「お母さんに?」
「はい。お願いしてみたんです、“代わりに迎えに行って”って。でも……“あんたの責任でしょ”って切られました」
言葉の端に、怒りではなく諦めが混ざっていた。
「昔からそうで。私が困ったって言うと、“自分で選んだんでしょ”って返ってくる」
「……」
「だから、助けてって言うの、すごく怖くて」
(それでも俺には、電話してくれたんだな)
「……俺、あのとき、助けてって言われたの、たぶん初めてだった」
「え?」
「誰かに、“お願い”されることなんてなかったから」
沈黙が流れる。
でも、その沈黙は、前とは違った。
静かで、温かくて、どこか満ちていた。
いっちゃんがパジャマ姿で起きてきた。
「おじさん、おはよー」
「おはよ、いっちゃん」
「きょう、ほいくえんいきたくないー」
「でも熱下がったからなー」
「えー、さむいー、さみしいー」
「ほら、おじさんが迎えに行くって言ってるぞ」
「ほんと!?」
「ほんと。行ってやるよ」
いっちゃんが笑った。嫁子も笑った。
俺も、たぶん笑ってた。
この笑顔のある場所が、“家”と呼ばれるものなんだろう。
そう思った。
「本当にこの人でいいの?」と聞かれた日
嫁子の母は、まっすぐだった。そして冷たかった
土曜の午後。
天気はいいのに、心がざわついていた。
「……今日、母が来ます」
その一言を嫁子から聞いたのは、昨晩。
いっちゃんを寝かせたあと、ふたりでお茶を飲んでいた時だった。
「来る、って……なんで?」
「先週、“迎えに来て”って電話したこと、責められました。で、“そんな男を家に上げてるなんて、信じられない”って」
「……そっか」
「だから、直接話すって言って……止められなかった」
俺は「わかった」としか言えなかった。
内心は正直、逃げたかった。でも――
(ここで引いたら、きっと後悔する)
そう思って、今日は休日にもかかわらず朝から身なりを整えて、昼すぎには嫁子の家に向かった。
ピンポーン、とチャイムが鳴ったのは14時少し前。
玄関から聞こえてくる、コツコツというヒールの音。
そして、乾いた声。
「おじゃまします」
入ってきたのは、50代前半ほどの女性。
嫁子とよく似た顔立ち。目元だけが違った。鋭く、冷たい。
「あなたが……あの、煙草の人?」
「はい、あの……俺と申します」
「名前は聞いていません。聞くつもりもないけど」
その時点で、すでに空気が張り詰めていた。
「ちょっと、いっちゃんを寝室に連れていってくる」
そう言って嫁子がいっちゃんを連れ、部屋を離れた。
リビングには俺と、嫁子の母だけ。
ソファの向かい側に座った彼女は、じっとこちらを見据えた。
「……何が目的ですか?」
「目的、ですか?」
「“シングルマザーが寂しそうだったから支えてやりたかった”なんて、都合のいい話、私は信じません。あなたに、何か得があるからここにいるんでしょう?」
「……得、なんて……」
「責任が取れますか?」
その言葉が、鋭く突き刺さった。
「私は、この子があの子を育てる姿をずっと見てきました。夜泣きで立ち上がり、保育園の連絡帳に目を通し、ミルクが足りない日には自分が食べないで子どもに回してきた」
「……」
「“母親”という役割が、どれだけ過酷か、あなたはわかっていますか?」
答えられなかった。
自分は、まだ“隣にいただけ”だった。
嫁子がしてきたような覚悟も、痛みも、俺は経験していない。
それでも――
「……それでも、今の俺は、いっちゃんが風邪で寝込んでたら迎えに行きますし、嫁子が泣いてたら話を聞きます。それを“責任”とは言えないのかもしれませんが……それでも、逃げません」
嫁子の母は、眉を寄せた。
「甘いですね。人は、いざとなると逃げます。あなたのようなタイプは特に」
「……そうかもしれません」
「じゃあ、なぜ、関わろうとする?」
言葉を選んだ。慎重に、けれど、まっすぐに。
「……誰かと一緒にいたい、と思ったのが初めてだったからです」
「それは、恋?」
「わかりません。でも、安心しました。初めて、誰かの隣が居心地いいと感じた。誰かに“頼ってもらえる”のが、こんなに嬉しいって知ったからです」
沈黙。
嫁子の母は、深く息を吐いた。
「……あの子は、あんたに泣き顔を見せたんでしょう?」
「……はい」
「なら、信じるしかないわね」
その言葉は、予想よりずっとあっさりしていた。
「……信じる、って……」
「親としてはね、いつまでも子どもを守りたい。でもそれがもう叶わないとき、自分よりも先に、“その子を見てくれる誰か”に託すしかないの」
俺は言葉が出なかった。
「もしあの子が、あなたとなら……と思ってるなら、私は黙るわ」
立ち上がった母親は、玄関で靴を履きながら、こう言った。
「でも、“責任”は一生よ。覚悟しなさい」
そして、去っていった。
玄関が閉まったあと、しばらくして嫁子が出てきた。
「……何、言われました?」
「いろいろ。でも、大丈夫」
嫁子は、俺の目をまっすぐ見た。
「……わたし、あなたといると、自分を許せる気がするんです」
その言葉が、胸の奥まで染み込んだ。
(ああ、これが――)
(一緒に生きるってことなのかもしれない)
一緒にいると、自分を許せる
だから、隣にいてほしいと思った
季節が、少しだけ変わり始めていた。
朝晩の風に秋の匂いが混ざるようになって、
嫁子の家の近くにある小さな公園では、いっちゃんが落ち葉を蹴って遊んでいた。
「見てー! きいろの葉っぱ、まるい!」
「ほんとだな。なんかおにぎりっぽいな」
「えー、たべられないよー?」
そんな声が響く午後、俺はベンチに座りながら、手のひらに包んだ小さな箱を、何度も握り直していた。
(こういうのって、いつ言えばいいんだ)
(でももう、答えは出てる)
視線の先で、嫁子がしゃがんでいっちゃんの上着の袖を直していた。
風に髪が揺れて、それを耳にかけながら、いつものように静かに笑っていた。
あの日、屋上で出会った彼女が、ここにいる。
「……寒くなってきましたね」
「だな」
「煙草も、そろそろ外じゃ吸えないかも」
「家で吸っていいって言ってたけど、いっちゃんいるから我慢してた」
「えらい」
「……褒められた」
ふたりとも笑った。
静かで、あたたかくて、でも確かに“何か”が始まってる。
そう思えた。
だから、俺は口を開いた。
「……ちょっと、話がある」
嫁子が、まっすぐ俺を見た。
「話……?」
「いや、その……あのさ」
言葉がうまく出てこなかった。
でも、彼女は少しも急かさなかった。
ただ、待ってくれていた。
俺は、ポケットの中の小さな箱を取り出して、差し出した。
「……一緒にいてほしい。これからも」
嫁子は、目を見開いた。
でもすぐに、目を伏せて、深く息を吐いた。
そして、小さく笑った。
「……私で、いいんですか」
「うん。お前じゃなきゃだめだと思った」
「……子ども、いますよ」
「知ってる。ていうか、むしろそれが、いい」
「……怒りますよ、すぐ」
「たぶん俺も怒る」
「……朝、弱いです」
「俺も」
「……夜泣き、すごいですよ?」
「一緒に起きる」
「……じゃあ」
言葉が止まる。
でもそのあと、そっと――
「じゃあ……私も、ちゃんと、“一緒に”って言っていいですか?」
その声に、俺は強くうなずいた。
(こんな気持ち、今まで知らなかった)
(誰かに選ばれるって、こんなにもあったかいんだ)
数週間後、役所で簡単に届けを出して、俺たちは夫婦になった。
指輪は、必要最低限の安いやつ。
式も挙げなかった。
でも、いっちゃんが手描きで「けっこんおめでとう」の絵をくれて、俺は泣きそうになった。
「これ、ママとおじさんと、いっちゃん!」
「3人じゃん。家族じゃん、これ」
「そうだよー。かぞくだよー」
笑ってるいっちゃんを見て、俺は思った。
(俺たち、ちゃんと家族になったんだな)
夜、眠る前。
布団の中で、嫁子がぽつりと言った。
「……あの時、屋上で、あなたに会わなかったら……たぶん、私は誰にも頼れないままでした」
「……」
「あなたに“かばってもらった日”、初めて、“誰かが味方になる”って感覚を知ったんです」
「……」
「だから、あなたと一緒にいると、自分を、ちょっとだけ許せるんです」
俺は、そっと彼女の手を握った。
「……俺もだよ」
その手は、あたたかくて、少しだけ乾いていて。
でも、確かに“いまを生きてる”手だった。
もう誰も、ひとりじゃなかった。
おわりに
人生は、たまたまの連続でできている。
あの日、屋上に行かなければ。
あの声に、耳を傾けなければ。
でも、今は思う。
あの“たまたま”が、俺たちの始まりだったんだ。
だから今、胸を張って言える。
――昼休みに煙草を吸いに行った先にいた女が、俺の嫁です。