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はっくなび
【営業同行で知った“母親の顔”】
はじめまして、辞めそうな新人と地味社員です
梅雨明けの空が、やけに白くてまぶしい日だった。
その日の朝、俺はいつものように会社の古い給湯室でインスタントのコーヒーをいれていた。38歳、営業歴15年。社内では「クレーム処理専門」と言われ、呼び出されるのはいつも「何かあったとき」ばかり。スーツは地味、ネクタイも地味、顔もたぶん地味。華やかさの対極にあるような男だ。
(今日もまた、謝りに行くのか……)
と、溜息を吐いていたところに、ドアをバンと開けて入ってきたのが、派手なアイメイクに金髪ポニーテール、ピンヒールをコツコツ鳴らす新人・嫁子だった。
「おはようございまーすっ!」
(なんだこのテンションの差……)
彼女はまだ入社して3か月目。配属されたばかりで、正直「なんでうちに来た?」と誰もが思ったタイプだった。見た目はまるっきりギャル落ちした元ヤン。爪はピンク、鞄はルイヴィトン、喋り方はちょっと崩れてて、口ぐせは「ヤバい」。でも、意外にも毎朝出社は一番乗り。営業日報も誰より丁寧に書く。数字はまだだが、真面目にやろうとしてるのは伝わってきてた。
「今日、私も同行ですよね? よろしくお願いしますっ」
「……ああ、よろしく(正直、足手まといだろうな)」
営業同行とは、いわば“新人に仕事を見せる”ための同伴出張。でも今回は少し特別だった。行き先は、俺が十年以上担当してきた大手の建材会社。課長の上野さんというお得意様がいて、ちょっとしたトラブルのフォローに向かう必要があった。
俺は心配していた。
――こいつ、大丈夫か?
そしてその不安は、出発して1時間もしないうちに現実になる。
取引先で、最悪の初手
「うっす、こんにちはっす!」
「……」
重い空気が、応接室に流れた。
(おい、いきなり“うっす”ってなんだよ……)
上野課長は、黙ってソファに座っていた。手元の名刺を見て、眉をひそめた。
「……名刺、ないの?」
「あっ……ヤバ……あ、すみません、忘れてきちゃって……!」
その瞬間、空気が一変した。目の前でバチンと上野さんが机を叩く。
「社会人が名刺忘れるって、どういうこと? 君、営業って何だかわかってんの?」
嫁子の顔が真っ青になった。目を泳がせ、唇をかみ、何か言おうとしても声が出ない。俺はとっさに間に入る。
「申し訳ありません。新人でして、今日は研修も兼ねての同行ですので、全ての責任は私に……」
「そういう問題じゃないよね? 客先に敬意が足りないって話なんだよ。形だけじゃなく、意識の話だよ!」
(そりゃ正論だ。でも……)
横で、嫁子の指が震えていた。
泣きそうな横顔と、静かな帰り道
帰りの車内、彼女は一言も喋らなかった。助手席でずっと手を握り、唇を引き結び、車窓の外を見ていた。
(あれが“怒られ慣れてない”やつの顔だ)
職場で強気な子ほど、叱られると壊れそうになる。そのギャップを見てしまった俺は、変に口を開くことができず、無言で運転していた。
でも、沈黙が続いた高速のパーキングで、ふいに彼女がぽつりと漏らした。
「……すみません、私、会社辞める気でいます」
「……そっか(やっぱりな)」
俺は静かに缶コーヒーを手渡した。彼女は一瞬きょとんとして、受け取り、ぷしゅっと開けて、ちょっとだけ笑った。
「……あんま驚かないんですね」
「辞めるのは、いつでもできるからな(本音を言えば、もったいないと思った)」
「はあ……でも、今日のは……結構、効きました。マジで……すみませんでした」
「俺が謝ってんの、今日だけじゃねえから」
その言葉に、彼女が吹き出す。
「えっ、何それ……ヤバい、泣きそうなのに笑っちゃったじゃん……!」
頬に光る涙を拭いながら、彼女が初めてこっちをまっすぐ見た。
「……私、ちゃんとやりたいです。今はまだ全然だけど、辞める前に、ちょっとだけ頑張ってみてもいいですか?」
その目を見て、俺は小さくうなずいた。
見た目と中身のギャップ
次の日からの彼女は、変わった。いや、元からあった“芯”が、前に出るようになった。
敬語の練習をして、名刺の渡し方を何度も俺に聞いてきた。自宅で作った手書きの業界用語ノートをこっそり見せてきて、赤面しながら言った。
「字、汚いんですけど……見ます?」
「(字が汚くても)お前、ちゃんと考えてんだな」
「うわ、なにそれ……なんか泣きそうなんですけど……」
そう言って本当に泣きそうな顔をして笑った。
ギャルっぽい見た目に、真面目な性格。そのギャップは、だんだん会社でも評判になってきた。初対面の印象を覆す努力を、彼女は黙々と続けていた。
そして、あの“怒った”上野課長に再訪する日が来る。
怒られた相手に、もう一度会いに行く
再訪の日、心臓の音がうるさい朝
再び、あの建材会社へ行く日が来た。
朝の会議が終わったあと、俺のデスクの隣に立った嫁子は、資料の入ったバインダーを両手で抱えて、小さく深呼吸していた。
「……今日、ちゃんとした格好で行きます」
(普段どんだけ“ちゃんとしてない”と思われてんだよ)
でも確かに、彼女の髪は控えめに巻かれ、メイクも落ち着いていた。爪も短く整えられ、服装は黒のパンツスーツ。ややオーバーサイズの肩が、逆に小さく見えた。
「緊張してる?」
「ヤバいです、吐きそう」
「吐くなよ、車汚れるから」
「そこ!? いやでも、ほんとに……怒られるの、覚悟してます」
助手席で、彼女は何度もバインダーを開いては、名刺の位置を確認し、営業資料の順番を整え直していた。
(たった一度の失敗が、ここまで尾を引くなんてな)
けれど俺は、ちょっとだけ期待していた。
――この子は、きっとやり返す。ちゃんとした“挽回”ってやつを。
上野課長、まさかの言葉
取引先の応接室に通されると、以前と同じ重たい空気が流れた。椅子に座っていた上野課長が、嫁子を見るなり、静かに目を細める。
「……あの時の、派手な子か」
「はい……また、お時間いただいてありがとうございますっ」
(ちゃんとした挨拶、できたな)
俺は黙って隣に座る。資料を取り出す嫁子の手が、かすかに震えているのが見えた。でも、彼女は止まらなかった。
「先日、お渡しし忘れていたご提案書と、新しい価格表になります。前回いただいたご指摘をもとに、社内で再度検討しまして……」
丁寧な口調、正確な数字、要点をおさえた話し方。まだ拙いが、真剣さは誰が見てもわかるものだった。
上野課長は、黙って資料に目を通し、しばらく沈黙のあと――
「……見違えたな。お前の指導か?」
(えっ……俺?)
とっさに言葉が出なかった俺は、ちょっと笑って首を振った。
「いや、あの子の地力です。俺は、せいぜい横で見てただけです」
嫁子が驚いたようにこちらを見る。目が、少し潤んでいた。
帰り道、ひとつの告白
会社への帰り道、助手席の彼女はずっと静かだった。だけど車が社屋近くの交差点に差しかかった時、ふいに口を開いた。
「……あの時、辞めなくてよかったです」
「そうか」
「でも……」
「でも?」
「まだ、怖いです。怒られるの、嫌いで。怒鳴られると、昔のこと思い出して……変なこと、言ってたらすみません」
「……」
(“昔のこと”?)
俺は問い返さなかった。ただ、静かにハザードを焚いて、彼女の言葉を待った。
「……うち、母親いなくて。父親、すぐキレる人で。失敗すると怒鳴られるだけで、話も聞いてもらえなかったから……」
言葉が小さくなっていく。だけど、消えずに続いた。
「だから、最初に上野さんに怒られたとき……もう無理かもって思って。でも、あなたが間に入ってくれて……なんか、それだけで違ったんです」
俺は、言葉を選んだ。
「……怒るのと、叱るのは違うよ。お前は、たぶんちゃんと“叱られた”んだ。今日みたいに、受け止められるのは、もう前とは違うからだろ」
嫁子が、静かにうなずく。
「……自分でも、ちょっとだけ、そう思います」
はじめて知った、母親の顔
数日後。
ある日、資料作成のために俺の家に立ち寄ることになった嫁子は、玄関でちょっと戸惑ったように立ち止まった。
「……ほんとに、お邪魔していいんですか?」
「うちは子どもいるから、多少騒がしいけど、まあ気にすんな」
リビングに通すと、5歳になる俺の娘がソファで寝ていた。保育園の帰り道、すっかり疲れてしまったらしく、タオルケットに包まってすやすや寝息を立てている。
嫁子は、驚いたようにその寝顔を見つめていた。
「……かわいいですね。私も……娘、います」
「……」
それまで一度も言わなかった。聞いたこともなかった。
「名前、言ってもいいですか?」
「もちろん」
「“ひなた”です。ひらがなで、ひなた。5歳です」
俺は頷いた。
「じゃあ、うちのと同じ歳だな」
「……そうなんですね」
その瞬間、娘が寝言でぼそりと呟いた。
「ママ……しあわせ?」
その声に、嫁子がぴたりと動きを止めた。しばらくして、唇をかみ、うつむいたままぽろぽろと涙をこぼした。
「……ごめんね。ママ、まだ……上手じゃないんだ。ちゃんとしなきゃね……」
俺は黙ってそばに座った。
「こんな仕事、こんな人間に、家庭を持てると思ってなかった。ちゃんとした母親になれるとも、思ってなかった。……でも、ちゃんとしたいです。今からでも」
「俺もだよ」
「え?」
「俺も、父親として胸張れる自信なんてない。でも……似た者同士、じゃだめか?」
嫁子は、涙の中で、少しだけ笑った。
「……ヤバ、今の、ちょっと反則でした」
あのふたり、夫婦ですか?
営業同行、その後の噂
社内で、妙な噂が立ちはじめたのは、上野課長の「見違えたな」事件の数日後からだった。
「え、あの新人の子、クレーム処理の人とずっと同行してるんでしょ?」
「毎日一緒に車で出かけてるって……なんか、特別扱い?」
「まさか、あのふたり、付き合ってんじゃ……?」
(やれやれ、こうなるとは思ってたけど)
正直、彼女の変化は目を見張るものがあった。受け答え、資料の作り方、客先へのメール文面。すべてが「ちょっと背伸びした新人」の域を超えて、すでに「信頼できる営業担当」になりつつあった。
でも、そうなってくれば来るほど、俺のほうが気まずくなる。
――俺の方が、どっちかというと“頼ってる側”なんじゃないか?
ある日、社内で嫁子とすれ違った女性社員がヒソヒソと囁いた。
「ねえねえ、やっぱ“あの人”のこと、好きなのかな?」
「えー、地味だし年も離れてるのに?」
(聞こえてんだぞ……)
俺はそそくさと自席に戻ったが、その夜、嫁子から思いがけずLINEが届いた。
「俺と嫁子って、変に見えるか?」
【嫁子】
……なんか、変な噂、たってますよね? ごめんなさい、私のせいで……
【俺】
気にすんな。俺なんて社内に十年以上いるのに、誰にも噂すらされなかったぞ
【嫁子】
えっ、なんかそれも悲しいじゃないですか……(笑)
【俺】
むしろ感謝してる。お前が来て、なんか毎日がちょっと違う
【嫁子】
……そういうの、ダメですって。ヤバい、そういうの、ズルいです
俺は、スマホを見ながらリビングのソファに沈み込んだ。画面越しの彼女の“間”が、まるで目の前にいるようで。
【嫁子】
……娘、また聞いたんです。「ママ、あの人のこと好きなの?」って
【俺】
……どう答えた?
【嫁子】
……「まだわかんないけど、好きになってもいい人かも」って言いました
(ああ、そういうの、ズルいのは俺のほうだ)
まさかの勘違い
ある雨の日。俺と嫁子は、またも取引先である建材会社の新製品説明会に顔を出していた。
懇親の名目で軽食と名刺交換が行われるその場で、嫁子は堂々と顧客たちの前に立ち、簡単なプレゼンもこなしていた。
「こちらの商材については、実際の施工現場での使用事例も含めて……」
彼女の声は、もうあの日の震える新人ではなかった。隣に立っていて、胸を張りたくなるような姿だった。
ふいに、ひとりの営業マンが俺に近づき、囁くように聞いてきた。
「いや〜、奥さん、仕事できますね〜。正直びっくりしましたよ」
「え?」
「……え、あ、違うんですか? すみません、てっきりご夫婦かと……」
(夫婦……?)
思わず吹き出しそうになった俺を、少し離れたところにいた嫁子が不思議そうに見ていた。
「どうかしました?」
「いや……“夫婦ですか?”って、聞かれた」
「……!」
彼女は、耳まで真っ赤になって、それでも視線を逸らさなかった。
「……まだですけど、まあ、近いです。って答えちゃダメですか?」
(それはもう、告白だろ)
俺は答えられなかった。ただ、心臓がうるさいほど鳴っていた。
夜のファミレス、ふたりで話したこと
その日の夜、仕事終わりに嫁子とファミレスに寄った。仕事のことでも、噂のことでもなく、ただ“今日の気持ち”を話したかった。
隅の席に座り、ふたりでパフェをつつくような不思議な時間。
「……今日の私、変じゃなかったですか?」
「よくやってた。誇っていいよ」
「うわ……なんかもう、それ言われると……泣くやつ……」
そして、彼女は小さな声で言った。
「……娘、また言ったんですよ。“ママ、しあわせ?”って」
「……どう答えた?」
「“もうすぐ、なるよ”って」
その瞬間、なぜか俺の目の奥も熱くなった。涙が出そうだった。こんな気持ち、何年ぶりだろう。
嫁子は、頬杖をついて俺を見た。
「……本当は、言いたいです。“今、しあわせだよ”って。でもまだ、あなたに言ってもいいか、わからないから」
俺は、テーブルの下でそっと彼女の手に触れた。
「俺はもう、言えるよ。“今、しあわせだ”って」
一歩ずつ、でも確実に
その夜、ふたりで帰る道すがら、雨はすっかりあがっていた。濡れたアスファルトに街灯が揺れて、どこか眩しい夜だった。
彼女がふと、空を見上げた。
「なんか……今だけ、時間が止まればいいのに、って思っちゃいます」
「俺も」
「でも、時間が止まったら、あなたの手、離せないままだな……」
「それでもいい」
嫁子が笑った。その笑顔は、どこか“母親”の顔にも見えた。そして“女”の顔でもあった。
ママとパパになった日
迷いのないペンの音
ある日、役所のロビー。
壁際の長椅子に並んで座る俺と嫁子の手には、一枚の用紙。
――婚姻届。
そこに並ぶ自分の名前と、嫁子の名前。隣には「届出人」の欄。何の飾り気もない罫線と文字だけの書類なのに、手の中でじんわりと重く感じる。
「……本当に、いいんですか? まだ、お試し期間とか……必要じゃないですか?」
嫁子が冗談めかして言う。だが、指先は震えている。その震えが、どれほど彼女の中に不安と覚悟が同居しているかを、俺は知っていた。
「俺はもう決めた。お試しなんて、あの上野課長に“あの子の地力です”って言った時に、終わってたんだと思う」
「……ずるい。そゆこと、ちゃんと言うの、反則」
彼女は照れくさそうに笑いながら、ボールペンを握り直した。
そして――カチッという音とともに、ペン先が紙を走る。
文字は力強く、まっすぐだった。
俺もその隣に、自分の名前を書く。
何の演出もない。花も音楽もない。
でもこの瞬間は、俺にとって人生で一番、鮮やかで、意味のある「手書き」だった。
「ママとパパになった?」
夜、我が家。
新しい“家族”として、はじめて一緒に過ごす夕食の時間だった。俺の娘も、嫁子の娘――ひなたも、小さなテーブルを挟んで並んで座っていた。
カレーライスを頬張るふたりの子どもの間に、目立たない形で置かれた折り紙のバラが一輪。
「結婚おめでとう、って保育園で作ったの」と照れながら渡してくれた、ひなたの贈り物だった。
「……うち、こんな静かな夜、初めてかも」
ふと、嫁子が漏らす。
「いつも、テレビかスマホの音が鳴ってた。でも今日は、静かだけど、全然寂しくない」
俺はうなずいた。
「騒がしいほうが、寂しいってこともあるよな」
ひなたが、突然口を開く。
「ねぇ、ママ」
「ん?」
「ママとパパになったの?」
……沈黙。
俺も嫁子も、一瞬止まった。
「そうだよ」
先に声を出したのは、俺だった。
「今日から、俺がパパで、ママがママ。……それで、いいかな?」
ひなたは少しだけ首をかしげて、俺の顔をじっと見た。
「パパは……おこらない?」
「怒るときは怒る。でも、ちゃんと理由は言う」
「すぐいなくならない?」
「絶対に、いなくならない」
ひなたは、そっと嫁子の袖を引っ張って、小さな声で言った。
「じゃあ……ママ、しあわせ?」
嫁子は、何度か瞬きをしたあと、小さな声で答えた。
「うん。ママ、すごく、しあわせ」
似た者同士、でよかった
寝静まった子どもたちを布団に運び、リビングでふたりきりになった俺と嫁子。
キッチンの明かりだけが灯っている空間で、嫁子はぽつりと口を開いた。
「今日、実家の母に連絡したんです。……“結婚しました”って。久しぶりに話した」
「なんて言ってた?」
「“おめでとう”って。……本当は、ずっと怒ってると思ってたけど、違ってた。あっちはあっちで、私のことずっと心配してたみたい」
嫁子はカップを持ちながら、笑った。
「……でも、私、やっぱり家庭って、苦手で。怖くて」
「俺も」
「えっ」
「俺も、離婚してるし、家庭って聞くと身構える。子どもには申し訳ないことしたし……」
「でも、あなたの娘さん、笑ってましたよ? 今日、ひなたに“あの子、かわいいでしょ”って自慢してた」
嫁子の声に、俺は笑ってしまった。
「……似た者同士、じゃだめか?」
「だめじゃない。たぶん、いちばん合ってる」
ふたりで笑った。その笑い声が、家の中に静かに響いた。
しあわせの定義、書き換える夜
時計はもう、夜の11時をまわっていた。
「……こんな夜に、誰かが家にいるって、不思議ですね」
「今日から、ずっとだぞ?」
「……実感、わかんない」
「でも、ほら。名前、書いたから」
俺は、役所で記入した婚姻届の控えを見せた。
「証拠、あるからな」
嫁子はその紙をまじまじと見つめたあと、くすっと笑った。
「じゃあ、私も証拠……つくります」
「証拠?」
「“しあわせです”って、自分で書く。紙に。毎日書いたら、実感わきそうじゃないですか?」
「日記?」
「うん。“ママしあわせノート”。そのうち、“パパしあわせノート”も出るかも」
俺は心の中で思った。
――こんな夜が続くなら、俺はきっと、誰かの“パパ”でいられる。
ふたりで背負うって、こういうことだった
社内に戻って、最初の月曜日
月曜の朝。
出社時刻ちょうどに会社の自動ドアが開き、俺と嫁子が並んで中に入った。特に何も言わず、いつも通り。それが俺たちの“普通”になった。
だが、受付の佐々木さんが目を丸くしたのは、ほんの一瞬のこと。
「……あら、ふたり、今日も一緒?」
「あ、はい。たまたま通勤ルートが重なったんで」
嫁子がそう言って軽く会釈すると、佐々木さんはニヤリと笑ってみせた。
「へぇ~、いいわねぇ。夫婦の通勤って、ちょっと憧れるわぁ」
(バレてるな、これは)
社員の誰かが直接聞いてきたわけじゃない。けれど、ちょっとした噂の中にあった“あのふたり、実は…”が、静かに確信へと変わっていくのを感じた。
でも、嫁子はそれを恥ずかしがるわけでも、変に意識するわけでもなく、あっけらかんとしていた。
「……あたし、もうバレてるのかなって思って、緊張してたけど……なんか、大丈夫そうですね?」
「気にするな。堂々としてれば、誰も変なこと言わない」
「……うわ、それ今のめっちゃ支えられました。ヤバい、泣きそう」
(ほんと、すぐ泣くようになったよな、お前)
取引先の変化、そして“紹介”
月末。大口の見積りが通ったとき、ふたりで向かったのは、またあの建材会社の上野課長のところだった。
俺たちの顔を見るなり、上野さんは書類を受け取りながら、目を細めた。
「最近の君たち、評判いいよ。前みたいに“おたくの若いのが……”なんて苦情、まったく聞かなくなった。むしろ“あの子に担当変えてくれ”って話すらある」
「……ありがとうございますっ!」
嫁子はぴしっと背筋を伸ばして頭を下げた。
「……で?」
「はい?」
「そろそろ教えてくれてもいいんじゃないの?」
「……な、なにを……?」
「とぼけるな。社外でも噂になってるぞ。“あの地味営業とギャル営業、夫婦になったらしい”ってな」
「え、そっちにまで……!?」
「ま、俺は最初からそんな気してたけどな。最初に名刺忘れたとき、泣きそうになってたお前の顔、今でも覚えてるよ」
嫁子は顔を真っ赤にしながら、かろうじて笑った。
「……おかげさまで、あれが原点です」
上野課長はふっと笑って、俺を見た。
「……しっかし、あんたも地味な顔して、いいもん拾ったな」
「いや、俺の方が拾われた方です」
「はっ、素直かよ……まあ、仲良くやれ。家庭も営業も、似たようなもんだ。言い合いしても、最後まで一緒に帰るのが大事だ」
(この人、ほんとに情のある人だよな)
俺は心の中で、静かに頭を下げた。
親と再会するということ
数日後。
嫁子の母親が、俺たちの住む団地を訪ねてきた。保育園での“祖父母参観”に付き添うためだった。
俺は緊張していた。どんな母親なのか――そして、自分のことをどう見るのか。
だが、玄関のチャイムが鳴き、現れた女性は、驚くほど小柄で、柔らかな笑みを浮かべていた。
「……あなたが、“パパさん”ね」
「……はい。あの、はじめまして」
「噂は聞いてるわ。娘から。最初は“あの人、真面目すぎて逆に不安”って言ってたけど、最近は“真面目なとこが好きかも”に変わってた」
嫁子が顔を覆った。
「やだもう……ママ、やめてよ……」
「何よ、照れちゃって。……ありがとうね、この子とひなたを、ちゃんと守ってくれて」
その声は、ただの礼ではなかった。彼女もまた、“母親”としての責任と後悔を抱えてきたんだろう。
俺は頭を下げた。
「……未熟ですが、ふたりの人生に、責任を持たせてもらいます」
「それが聞けたら、十分です」
それだけで、嫁子の母はにっこりと笑った。
家の中が、“帰る場所”になっていく
夜、ひなたが寝たあと、嫁子が俺の隣に座って言った。
「……ママね、ああ見えて厳しいんですよ。昔はずっと冷たくて、家でもあんまり話せなかった」
「……今日の感じからは想像つかないな」
「私もです。でも、たぶん“家族”になったから、やっと本音を見せてくれたのかも……そう思ったら、なんかちょっと泣けてきて」
彼女の指が、そっと俺の手を探ってくる。
「……あなたがいてくれて、よかった」
「お前が、隣にいてくれてよかったよ」
ソファの上、並んだ体温。テレビは消えていて、ただ静かに、生活の音だけがあった。
ああ、これが“帰る場所”ってやつなんだな、と。今さらながら実感した。
仕事も家庭も、投げ出したくなった夜
トラブルの報告電話
その日、俺は珍しく夕方に早く帰宅できた。ひなたの保育園のお迎えも済ませて、風呂まで終わっていた。嫁子は遅めの会議で帰宅は21時過ぎになる予定だった。
(たまにはこういう日も悪くない)
冷蔵庫を開けて、簡単に夕飯の準備を始めようとしたとき、スマホが震えた。
――社用携帯、嫁子からだった。
「もしもし?」
「……ごめんなさい。やらかしました」
「どうした?」
「さっき、A社の仕様書送ったやつ……フォーマット、古いやつでした。しかも、今日中の納品指定……」
(あれか……今日“送る前に確認してもらえますか”って言ってたやつ)
「すぐ対応できる?」
「……正直、今からじゃ無理です。私、今会議室に缶詰で……抜けるタイミングもなくて……」
電話越しに声が揺れている。
「誰かに助けてもらえ」
「……言えないです。部長に、“もう失敗許されない”ってさっき言われたばっかで……」
言葉の先に、かすかなすすり泣きが聞こえた。
(――やっぱり、ギリギリだったんだな)
俺は、キッチンの火を止めて言った。
「いいよ。こっちでやる。データ、送れるな?」
「え……でも、ひなたちゃんが……」
「寝かしつけてからで間に合う。お前は仕事、落ち着け。こっちは任せろ」
「……ありがとうございます。ほんとに……ありがとう」
父親業と、裏方業の夜
20時半、ひなたを寝かしつけて、ようやく俺はパソコンに向かった。
(今どき、家庭用PCで仕事するとは思わなかったな)
データは嫁子のメールから添付で届いていた。たしかに旧フォーマットだった。説明欄も抜けがあり、細かな数値も違う。
(全部直すには……2時間はかかるか)
キッチンで入れたコーヒーをすすりながら、キーボードを叩く。
リビングの隅では、ひなたの小さな寝息が聞こえていた。
誰も見ていない、評価されない、感謝されるとも限らない作業。
でも――俺には、十分だった。
これは“父親としての仕事”であり、“夫としての支え”だった。
ドアの音と、ほっとした顔
23時すぎ。ようやく資料を作り終えて、提出メールも送った頃、玄関のドアが静かに開いた。
そっと入ってきた嫁子は、靴を脱ぎながら「ただいま……」と小さくつぶやいた。
俺はソファに沈んだまま、コーヒーを差し出した。
「お疲れ」
「……え? もうできてるんですか? あの資料……」
「ああ。送っておいた。フォーマットと数値、全部修正済み。説明欄も入れてる」
嫁子は数秒間、呆然としていた。そして、突然しゃがみこんで、俺の足元に顔をうずめた。
「……もう、泣いていいですか?」
「いいけど、コーヒー倒すなよ」
「ううっ……優しすぎて、逆に心折れる……」
そのまま肩を震わせて泣く彼女の背を、俺は静かにさすった。
「いいじゃん、たまにはミスしても。俺が拾うよ」
「……それが一番泣けるんですよ……!」
弱さを見せられる場所
しばらくして、落ち着いた嫁子がぽつりとつぶやいた。
「……私ね、昔から“女だから”って言われるの、すごくイヤだった」
「……うん」
「感情的とか、すぐ泣くとか、体力ないとか、子どもがいるから任せられないとか。いろんな“だから”がついてきた。でも、あなただけは……“だから”じゃなくて、“そうか”って言ってくれる」
「それって、そんなに特別か?」
「私には、特別すぎます」
彼女の目が、じっとこちらを見た。
「……たぶんね、昔の私だったら、今日のことで仕事辞めてたと思う。でも、今は……ちゃんと、戻りたいと思える場所があるから、頑張れるんです」
(それを“家庭”って呼んでいいんだろうか)
「……俺も、昔は家庭って怖かった。期待されてる気がして、ちゃんとできないことが怖かった。でも、今は……お前とひなたがいるなら、やっていける気がする」
ふたりの手が、テーブルの下で静かに重なった。
「……ごめんなさい。全部、甘えちゃって」
「それが夫婦だろ。どっちかが倒れたら、もう一人が支えればいい」
「ねぇ、パパとママ、けんかしない?」
翌朝。
いつもより少し早く目を覚ましたひなたが、寝室の戸を開けてリビングに出てきた。
パジャマのまま、寝ぼけ眼でソファにいる俺たちを見て、ぽつりと言った。
「……ねぇ、パパとママ、けんかしないの?」
嫁子が驚いたように目を見開いた。
「えっ、どうして?」
「……おともだちのママとパパ、よくけんかしてるって言ってたから……」
嫁子は、少しだけ考えてから、こう答えた。
「……けんか、するかもしれない。でもね、ちゃんと“仲直り”するんだよ。だから大丈夫」
「ふーん……じゃあ、けんかしても、ママとパパは、やっぱりママとパパ?」
「うん。ずっと、そうだよ」
ひなたは満足そうにうなずいて、またふとんに戻っていった。
その背中を見ながら、俺と嫁子は顔を見合わせた。
「……そうか。あいつ、ちゃんと見てんだな、俺たちのこと」
「……うん。だから、ちゃんとしたいね」
この子の未来に、ちゃんと誇れるように
保育参観の日、ぎこちない父と、慣れてる母
「パパ、こっちだよ!」
朝の保育園。
今日は年に一度の保育参観の日だった。
俺は手を引かれながら園庭に入り、周囲を見渡した。
予想通り、ほとんどが母親。父親らしき姿はちらほら。俺のようなスーツ姿は、むしろ浮いていた。
(……やっぱ場違いだよな)
ところが、嫁子はまるで慣れた様子で他のママたちに挨拶を交わし、ニコニコとひなたをなだめながら教室に入っていった。
その背中を見て、思わず見とれてしまった。
(なんか……すげぇな)
参観では、子どもたちが普段やっている“お仕事”や“お歌”を披露する。
中には、親の前で泣き出してしまう子もいる中で、ひなたはぴしっと立って元気に歌っていた。
「♪パパもママも だいすき〜〜〜〜」
俺の隣で、嫁子が鼻をすすっていた。
「……ヤバ、泣く……」
「はやいよ」
「うっさい、今だけ許して」
手を握られた。
その手が、あったかくて、震えていた。
子どもの言葉は、まっすぐすぎて痛い
昼前、クラスが解散し、親子で帰れる子は先に帰ってもよくなる時間。
玄関で靴を履かせながら、ひなたが急にぽつりと呟いた。
「……ねぇ、パパ。なんでいままで、いなかったの?」
俺は固まった。
隣で嫁子も目を丸くした。
「それって、何のこと……?」
「だって、おともだちは、ちっちゃいときからパパいたって言ってた。ひなたは、パパ、いなかった」
(そっか。そうだよな)
俺はしゃがんで、ひなたと目線を合わせた。
「……ひなたが赤ちゃんのとき、パパはまだ、ひなたのこと知らなかったんだ。でもね、会えたとき、すごくうれしかったよ。ひなたに“パパ”って呼んでもらえて、パパになれたの、うれしかったんだよ」
ひなたは少し黙って、それからポツリと。
「そっか……じゃあ、これからはずっと、いてくれる?」
「ずっと、いるよ。どんなにイヤなことがあっても、絶対いなくならない」
「……じゃあいい」
そのあとで、ちょこんと抱きついてきた小さな体が、俺の心の真ん中にずしんと入ってきた。
(この子の未来に、ちゃんと誇れる“パパ”でいたい)
子どもの“見てる目”に恥ずかしくないように
その日の夜、リビングで嫁子と並んで洗濯物をたたみながら、あの言葉が頭から離れなかった。
「……ねぇ、ひなたの“なんで今までいなかったの”ってやつ……ちょっと効いたね」
「俺も……何も言えなかったよ、最初」
「私ね、ずっと“男なんていなくても育てられる”って意地張ってた。けど、ひなたがあんなふうに聞くってことは、ちゃんと寂しかったんだよね」
「……そうかもな」
「だから、ちゃんと家族になってよかったと思った。あなたがいて、ひなたが笑ってる。それだけで、今までの全部、報われた気がする」
「報われた、か」
俺は洗い立てのタオルをたたみながら、小さく頷いた。
「……会社じゃ“地味なやつ”って言われて、誰の記憶にも残らない毎日だったけどさ、家に帰ってきたら、あの子が“パパ”って呼んでくれる。……もうそれでいいや、って思えた」
嫁子は黙って、俺の手からタオルを取り上げた。そして、小さく言った。
「……じゃあ、明日からも頼むね、“地味パパ”」
「うん、“派手ママ”」
ふたりで笑った。
それは、どこにでもあるようで、俺たちにとっては唯一の、家族の笑いだった。
「あなたのところの社員さん、いい人だったよ」
翌週、会社の電話が鳴った。
相手は、最近新規で取引を始めたA社の担当者だった。
「……あのですね、ちょっと伝えたいことがあってお電話しました」
「はい?」
「御社の、例の“ギャルっぽいけど仕事できる若い女性”、嫁子さん。あの人、すごく丁寧で、質問にもきちんと答えてくれて……最後に、“わからないことは上司に確認します”って言ったんです。変な見栄を張らないで、誠実だなって思いました」
俺はしばらく、電話口で黙っていた。
「……それは、ありがとうございます」
「いやいや、本当に、ひさびさに“信用していい若手”って思えたんで」
電話を切ったあと、しばらく手帳を見つめていた。
隣の席では、嫁子が集中してキーボードを叩いている。
(この会社に、入ってよかったな)
そう思えたのは、初めてだった。
過去の場所に行ってみたら、泣いて笑ってまた前を向けた
ひなたが「行ってみたい」と言った場所
週末。天気は快晴。
俺たち家族3人は、駅のベンチに並んで座っていた。目的地は、少しだけ遠出になる“とある公園”。
ひなたが、ある日ぽつんと「行ってみたいな」と言った。
「ちっちゃいとき、ママとよく行った公園があってね。ブランコがすっごい高くて、ママ、こわいこわいって言ってたの」
「……ああ、あそこかも」
嫁子が、少し遠い目でつぶやいた。
「昔住んでたアパートの近くだよね。……よく泣きながら抱っこしてたなあ」
「ママ、泣いてたの?」
「……うん。パパいなかったから、ちょっとだけ、しんどい時期だった」
「じゃあ今日は、パパも一緒だから、大丈夫だよね!」
(……その一言で全部、救われるんだよ)
電車の窓から流れる景色はどこまでも続いていて、それを嫁子とひなたが並んで見ていた。ふたりの後ろ姿が、ずっとこのままであってほしいと、自然に思えた。
昔の家の前で、ふたりきり
公園に行く前、少しだけ寄り道をした。
かつて嫁子とひなたが住んでいたというアパートの前に、足を止めた。
「……あそこ、あたしたちが住んでた部屋。2階の一番端」
古びた建物。塗装の剥がれた外壁。エアコンの室外機が少し傾いていた。
「……なんか、思ったよりボロいね」
「そりゃあね。でも、ここがスタートだったから」
嫁子の目が、どこか濡れていた。
「雨漏りもしたし、夜中にひなたが熱出したときは、救急車呼ぼうか本気で悩んだりして……正直、泣きたくなるような日もいっぱいあった」
「泣かなかったのか?」
「……泣いてたよ。でも、ひなたが起きないように、トイレで」
そのとき、嫁子の手を握った。俺が何か言うより早く、嫁子がぽつりと言った。
「……でも、あのとき“それでもやってやる”って決めたの。ママとして、ちゃんと立つって」
「今のお前は、たぶん昔の自分が見たら泣くと思うぞ。ちゃんとやってるから」
「……泣かせに来てる? ヤバい、もう涙腺持たない」
彼女は苦笑しながら涙を拭いた。
公園で見つけた、変わらないもの
ひなたが駆け出した。目的の公園は、アパートから数分の場所。
すべり台は新しくなっていたけど、ブランコは昔のままだったらしい。
「ここー! ここ、ママがこわいって言ってたブランコ!」
「こ、怖くないよ! ちょっと……勢いありすぎただけ……!」
「じゃあ乗ってみて!」
「えっ」
「ほらほら〜、パパも!」
俺と嫁子、ふたりで並んでブランコに乗る羽目になった。
隣ではひなたが笑い転げている。
「ふたりとも! しっかり持っててねー! しんぱいだよー!」
嫁子が笑った。
「……あの頃、このブランコ見て“いつかふたりで乗れたらいいな”って思ってた」
「乗ってみて、どうだ?」
「……重い。あなたが」
「そっちかよ」
「でも……思ってたより、しあわせ」
夕陽が差し込む中で、ブランコが揺れる。その揺れがまるで、これまでの時間のようで、ゆっくりでも、確かに前に進んでいると感じさせてくれた。
変わらない“願い”があるなら
帰り道、ひなたがベビーカーに乗せられていた頃に通った道を、今は手をつないで歩いている。
「あのとき、どんなに必死に歩いてたか、思い出すなぁ」
「泣きながら?」
「……うん。で、途中でひなたが寝ちゃって、買い物袋が片手にあって、“もー無理!”って叫びながら歩いてた」
「想像できるな、それ」
「そのときもね、“誰か一緒に歩いてくれたらいいのに”って、思ってた」
「じゃあ、今は?」
「今は、叶ってる。ちょっと遅かったけど、叶った」
手をつなぐ俺の手を、嫁子がぎゅっと握る。
「だから、これからも、願うよ。“ずっと、この人たちと歩けますように”って」
「願うだけじゃなく、俺も守るよ。お前と、ひなたのこと」
「……言ったね?」
「うん、言った」
嫁子は目を細めて、うなずいた。
「……じゃあ、信じる」
その言葉は、すごく静かで、でも誰よりも重かった。
ひなたの小さな告白
帰りの電車の中。
ひなたは眠たそうに俺の腕に頭を預けながら、ぽそっと言った。
「……きょうね、いちばんたのしかったのは、ブランコでも、おべんとうでもなくて……」
「なにが?」
「ママとパパが、ずっとわらってたこと」
俺と嫁子は、顔を見合わせて、同時に笑った。
「……ねぇ、パパ」
「ん?」
「ひなた、大きくなったら、パパとけっこんする!」
「おっ、ライバル現れた」
「は? 負けないから!」
嫁子があきれた顔で笑いながら、ひなたの頭をなでた。
「じゃあ、ママとパパ、もっともっと仲良くしてなきゃね。負けちゃうもんね」
「うん!」
夕陽の差す車内で、家族3人の笑い声が、静かに揺れていた。
これからも、ここで「おかえり」って言いたい
ふたりで決めた、これからの歩き方
日曜の夜。
洗い終わった食器をふたりで並んで拭きながら、嫁子がふと、何の前触れもなく言った。
「……ねぇ、あたし、仕事続けていきたい」
「……うん?」
「ちゃんと“営業”として一人前になりたい。子どもがいるからって甘えないで、信頼される人になりたい」
その表情には、かつて見た“ひなたをひとりで育てようと決めた女”の顔があった。でも、今のそれは、孤独じゃない決意だった。
「もちろん、あなたに甘えたいときもある。子育ても、あなたに頼りたい。……でも“働く母親”として、胸張って生きていきたいの」
「お前がやりたいことなら、全部応援するよ」
「……ほんとに?」
「本気だよ。俺は、あの時からずっとお前の味方だ。名刺忘れて怒られた日から、ずっと」
「うっわ……言い方が地味なのに泣けるの、なんなん……」
ふたりで笑った。
静かな台所、聞こえるのは食器の音と、小さな息遣いだけ。
でも、そこにあるものは、もう不安や孤独じゃなくて、“生活”だった。
お迎えに行くときの、小さな幸せ
それからの日々は、急に何かが変わったわけじゃない。
でも、少しずつ、確かに何かが「馴染んで」いった。
朝はバタバタしながら弁当を詰め、俺と嫁子は時間差で出社。
夕方にはどちらかがひなたを迎えに行き、夕飯を3人で囲む。
「ねぇパパ、今日ね、ブランコ10回こげた!」
「おっ、じゃあもう風になる日も近いな」
「かぜになるの?」
「そう。こぐと、ほんとに風になるんだぞ」
嫁子がくすっと笑いながら、味噌汁をよそう。
「……あなた、昔よりしゃべるようになったよね。前は“うん”と“そっか”しか言わなかったくせに」
「家ではしゃべるんだよ、俺は」
「そっか。じゃあ、家だね、ちゃんと」
たったそれだけの会話が、なぜか心にしみた。
ひなたの“おたより帳”の一文
ある日、保育園から渡された“おたより帳”に、こんな記録があった。
きょうの ひなたちゃんの ひとこと:
「ママは まいにち かっこいい おしごと! パパは まいにち やさしい パパ! ひなたは、えがおのおしごと!」
その文字を読んで、嫁子が泣いた。
「なにこれ……一番やばいやつ……!」
「俺も、たぶん泣きそう」
「てか泣いてるし! まじか……こんなことで泣くようになるとは……」
「成長だな」
「違うよ……これは……幸せってやつのせい……」
涙をぬぐいながら、嫁子は笑った。
その笑顔は、営業マンでも、元ギャルでも、母親でもなくて、ただの“嫁子”だった。
「おかえり」を言える場所が、あるということ
夜。
全ての灯りを落としたあと、ベランダにふたりで出て夜風を感じていた。
「……前、こういう時間、ただ不安だった」
「今は?」
「今はね、“明日も来るな”って思える。明日もこの人たちがいて、ちゃんと生活があるって、思える」
「それが、“おかえり”の意味なんだろうな」
「……何それ、名言?」
「俺にしては、がんばった」
「やっぱり地味だけど、いいよ」
ふたりの間に流れる風が、なんとも言えない静けさを運んでくる。
それはたぶん、「これからも大丈夫だよ」って言ってるみたいな、音のない言葉だった。
そして、ふたりは
数ヶ月後。
ある朝の、何でもない食卓。
ひなたが牛乳をこぼして嫁子が慌てて拭いて、俺はパンを焦がして苦笑いしていた。
でも、ふと思った。
――今が、いちばん幸せかもしれない。
あの日、名刺を忘れたギャルがいて。
俺はただのクレーム処理担当で。
会話も噛み合わなかったふたりが、
今では家の鍵を共有し、食卓を囲み、子どもの寝顔を一緒に見ている。
「ねぇ、パパ。あしたも、おしごと?」
「ああ、行くよ。でも、帰ってくるよ」
「じゃあ、ママとふたりで“おかえり”って言うね」
嫁子が微笑んだ。
「……いいな、それ。ちゃんと、毎日言おう」
それは、誓いとか約束とか、そういう言葉にしなくてもいい“ふつうのこと”だった。
でも――その“ふつう”が、いちばん尊くて、いちばんしあわせだった。
終わり