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はっくなび
「会社に住んでるんですか?」って聞かれたことある
俺は、残業が多い。というか、ほぼ毎日してる。
32歳、独身。家に帰っても誰もいないし、晩飯を作るのも面倒で、結局コンビニで済ませて、それならもう仕事してた方がマシって思ってる。
職場は大きくもなく、小さくもなく。ちょっと古いビルの5階。照明は少しだけ黄色っぽくて、20時を過ぎると人がまばらになって、コピー機の音がやけに響く。
課の中でも、俺は「一番遅くまでいる人」ってポジションだ。
「会社に住んでるんですか?」って、前に後輩に冗談で言われたことがある。冗談でも何でも、別に気にしない。正直、会社にいる方が落ち着く。家に帰って、誰とも喋らずに飯食って寝るのが、もうしんどくて。
そんな俺のことを、吉井課長は特に何も言わない。
「無理してないか?」とか、「働きすぎるなよ」とか、そういうことを言ってくるタイプでもない。ただ、遠くから見てる。静かに、観察してるみたいに。
そんな日常に、あの日、変化が起きた。
その日も、いつもと同じように、俺は自分のデスクで報告書を打ってた。時計を見たら20時45分。静かだ。
ただ、その静寂を破るように――「えぐっ…」って、誰かのすすり泣く声が聞こえた。
(ん?)
俺は音のする方へ耳をすませた。…会議室の方だ。誰か残ってたか?と、立ち上がってそっちへ歩いていく。会議室のドアは、少しだけ開いてた。
そっと覗くと――そこには、会議室の片隅で小さくしゃがみこんでる、子どもがいた。男の子だ。ちっちゃい。たぶん、まだ2歳とか、それくらい。
泣いてる。目をこすって、顔がくしゃくしゃだ。
何かをこらえてるような、我慢してるような、でももう限界って顔。
「…おい」
声をかけると、びくっとして顔を上げた。目が真っ赤だ。鼻水も出てる。
その瞬間、背後のドアが開いて――女の人が飛び込んできた。
「…すみませんっ!」
新しく入った女の子だった。営業部の新人で、最近ちょこちょこ見かけてた。顔はよく覚えてなかったけど、あの、どこか余裕なさそうな雰囲気の。
「迎え、間に合わなくて…、それで、連れてきたんですけど、ちょっと資料まとめが終わらなくて…、ごめんなさい」
(謝る必要なんてないのに)
そう思ったけど、何も言えなかった。ただ、子どもを見つめたまま、ぽかんとしてた。
「この子…ここでずっと?」
「ええ…ちょっとだけ…つもりが、泣かせちゃって」
女の子は、子どもの頭を撫でながら、すごく申し訳なさそうにしてた。
でも俺は、なぜか――その姿を見て、懐かしいような、胸がじんとするような気持ちになった。
「…人見知り、ですか?」
そう聞くと、彼女は少しだけ微笑んだ。
「すっごく、人見知りです。でも…あれ?」
彼女が不思議そうに言った。
子どもが、俺の方をじっと見てる。さっきまで泣いてたのに、目をぱちぱちさせて、それから――にこって、笑った。
「…笑った」
「…え?」
「この子、会社の人に笑ったの初めてかも…」
(なんでだろう…嬉しい)
その笑顔が、すごく嬉しかった。誰にも必要とされてないと思ってた俺が、こんな小さな子どもに、笑いかけられた。
彼女は、深く頭を下げて言った。
「ほんとに…助かりました。ありがとうございます」
「別に、何もしてないです」
(でも、胸があったかい)
俺は、会議室を出てデスクに戻ったけど、さっきの子どもの笑顔がずっと離れなかった。
ごはん、誰かと食べたのいつぶりだろう
あれから二日経った。
特に何かが大きく変わったわけじゃない。でも、俺の中で少しだけ空気が違った。
デスクに座って、いつものようにキーボードを打ってると、ふと会議室の方を見てしまう。誰もいないのは分かってる。でも、あの子がいた光景が、脳裏に焼きついてる。
あんな笑顔、最近見たことなかった。
いや、そもそも人の笑顔をまともに受け止めたのが、いつ以来だろう。
その日も気がつけば21時を過ぎていた。会社の照明が少し暗くなってきて、エアコンの音がやけに大きく聞こえる。
「…あれ?」
俺の耳が音を拾った。
小さな笑い声。
しかも、あの子の声に似ていた。
まさかと思いながら会議室の方に歩くと、また、いた。
母親の膝の上に座って、何かを読んでもらっていた。
「…また来てたんですか?」
俺が声をかけると、嫁子がびくっとして振り向いた。
(あ、名前で呼んじゃいけないんだったな…)
「す、すみません…今夜もどうしても終わらなくて…」
「……いいですよ。会議室、俺の持ち物じゃないですし」
(本当は…ちょっと、また会えて嬉しい)
俺は会議室のドアにもたれて、その親子を見ていた。
子どもが、俺に気づいてまた笑った。口を大きく開けて、体を少し乗り出してくる。
「…また、笑ってる」
嫁子は、ちょっと目を丸くして、それから小さく笑った。
「…ほんとに不思議ですね。あなたにだけ、笑う」
「そんなことないでしょう」
「いえ、保育園でも…人と距離があるって、先生に言われてて」
俺はしゃがんで子どもの目線に合わせてみた。
すると子どもが、俺の指を小さな手でぎゅっと握った。
(ああ…なんだこれ…胸が痛い)
「…ごはん、食べました?」
俺がふと聞いた。
「え?あ、いえ…まだで。帰ったら食べようと思ってたんですけど、この子も眠そうで…」
「…じゃあ、一緒にどうですか。コンビニで、ちょっと何か買ってきます。会議室なら、使えますし」
俺の申し出に、彼女はちょっと戸惑った顔をした。でも――
「…じゃあ、甘えさせてもらってもいいですか?」
少しして、俺は会社の近くのコンビニで、3つ分の弁当を買った。
親子の分と、俺の分。普段なら、一人でカップ麺で済ませるけど、今夜は、ちょっといい弁当にした。
会社に戻ると、会議室のテーブルに3つ並べて置いた。子どもは椅子に座って、嬉しそうに箸を握ってる。
「わあ…!これ、からあげだ!」
嫁子が笑った。
「すみません、ほんとに…ありがとうございます」
「別に、そんな大したことしてないですよ」
(でも…これが誰かと食べる“夜ごはん”なのか…)
俺はからあげを口に運びながら、横目で子どもの様子を見る。
頬をいっぱいにふくらませて、もぐもぐ食べてる。その姿が、なんともあったかくて。
「この子、ごはんのとき、こんなに静かなんです。おうちだと、落ち着きなくて」
「うち…って、今は?」
「実家に…間借りしてます。子ども連れて一人暮らしは難しくて」
「ご両親、協力的なんですか?」
「…実は、あまり…」
(あ、踏み込んだか)
「…すみません。余計なこと聞いて」
「いえ…もう慣れました。迷惑かけてるって、毎日感じながら生活してるんで」
子どもはからあげを頬張りながら、俺にニコニコしてる。
「ぱぱ!」
その一言に、空気が止まった。
「…っ、あっ…ち、ちがうの、ごめんなさい!」
嫁子が顔を真っ赤にして手を振った。
「保育園で、“パパが来たら”とか“パパはこれ食べる”とか、よく言われてるから、混同しちゃって…ほんと、ごめんなさい」
「いや、いいですよ。なんか…変な気がしない」
(“パパ”って言われて、なぜか涙が出そうになった)
「…この子、あなたのこと、すごく好きみたいです」
俺は、答えなかった。うまく返せる言葉が見つからなかった。
ただ、子どもの手が俺の服のすそをちょこんと握ってて、それがなぜか、胸にしみた。
食事を終えたあと、嫁子は深々と頭を下げた。
「今夜は…ほんとうに、ありがとうございました」
「…また、残業ですか?」
「たぶん…終わらないと思います」
「じゃあ、またここで会うかもしれないですね」
そう言ったとき、嫁子が一瞬、顔を上げて――ちょっとだけ、微笑んだ。
「…はい。そうですね」
会社にいた時間より、家みたいだった
あれから、何日か過ぎた。
残業中の会議室に、親子の姿が見えるようになったのは、いつからかもう思い出せない。
自然とそうなった。
俺が声をかけて、嫁子が「すみません」って言って、子どもが俺に笑いかける。
そして、3人でコンビニ飯を囲む――それが、当たり前になっていた。
変な話だが、あの時間だけは、会社が家みたいだった。
その日、少し早めに資料提出が終わった。
俺は自分のデスクにいるのが落ち着かなくなって、会議室のドアをノックした。
「…こんばんは」
「こんばんは。今日、早いですね」
会議室では、嫁子がラップトップを開きながら資料を整理していた。横には、あの子がちょこんと座って絵本を見ている。
「今日、課長いないんですか?」
「定時で上がりました。…珍しいですね」
「…ふふ、確かに」
(俺たちは、定時なんてもう“幻の言葉”みたいなもんだ)
「ごはん、買ってきました」
「え?また…」
「この子、俺のからあげ弁当、気に入ってたでしょ」
子どもがうれしそうに手を叩いた。
「ぱっぱ!からあげ!」
嫁子が苦笑いしながら俺を見た。
「…だから、ほんとに“パパ”って呼ばないで…ややこしくなるって」
「でも嬉しいですよ。正直」
(この声、この空間、この笑い――なぜこんなに落ち着くんだろう)
その日の食卓は、焼き魚弁当とおにぎりと、ミニプリン。
「この子ね、保育園で“プリンの人”って呼ばれてるらしいです」
「俺、どんだけプリン買ってるんですか」
「…もう先生にもバレてますよ」
(それでも、悪くない。知られるのも、悪くない)
嫁子は、少しだけ柔らかい顔でプリンをスプーンで救い、子どもに食べさせる。
その顔を見ながら、俺は静かに箸を動かす。
会議室の蛍光灯は少し暗くて、だからかもしれないけど、まるで家のダイニングみたいだった。
その翌日、思いもよらぬ人に声をかけられた。
昼休み、給湯室で水をくんでいたとき、後ろからひょいと現れたのは、吉井課長だった。
「あー…おまえさ、最近さ」
「…はい?」
「夜、会議室に親子いるだろ」
(見てたんだ…)
「文句とか、そういうんじゃねぇよ。…ただ、少し、やわらかくなったな、おまえ」
「…は?」
「顔が、前より。いい意味でさ」
吉井課長は、それだけ言ってペットボトルの蓋を閉めて、さっさと自分の席に戻っていった。
(…見てないようで、見てるんだな、この人)
その夜も、変わらず会議室には明かりが灯っていた。
「課長に、顔が柔らかくなったって言われました」
「え…そんな、前はどんな顔してたんですか?」
「…死んだ魚の目、ってやつですかね」
「ふふっ。…じゃあ、この子が少し、役に立ったんですね」
子どもは、そんなことも知らずに、「プリン!ぷりん!」とはしゃいでる。
「保育園の先生に、言われたんです。最近、息子さん、よく笑うようになったって」
嫁子の声が、少しだけ震えていた。
「…あの子、生まれてから、ずっと男の人と関わってなくて。だから、パパって言葉も、実感がないはずなのに」
「…」
「でも、あなたにだけ、笑う。話す。ごはんも、全部食べる。…この子の人生の中で、“男の人”って、あなたが初めてなんです」
俺は、言葉が出なかった。
(そんな重い意味、俺なんかが、背負っていいのか)
「…だから、ありがとうございます」
「いや…俺のほうこそ、です」
静かな夜の会社で、残業中の会議室で――誰よりも社内にいるはずだった“俺たち”が、
誰よりも“家庭らしい時間”を持っていた。
「ちょっとだけ、見ててもらえますか?」が心に残った
その日は、少し違っていた。
いつものように俺は残業に入っていたが、会議室の明かりがまだ点いていない。時計を見ると19時半。いつもなら、そろそろあの親子が現れる時間だった。
(今日は、来ないのかな…)
そう思っていた矢先、バタバタとした足音と、控えめに開く会議室のドアの音が聞こえた。振り向くと、嫁子が子どもを抱えて急いで入ってきた。
「す、すみません…」
額に汗を浮かべながら、俺に頭を下げる。
「今夜、急ぎの資料出しがあって…でもこの子、保育園で熱出したから、先に引き取って、それでも提出しなきゃいけなくて…」
(体調悪いのに、ここまで…)
「無理しないでくださいって言いたいけど…言えないな、俺には」
「…あの、ちょっとだけ。10分だけでいいので、この子のこと、見ててもらえませんか?」
「…え?」
「今すぐ送らなきゃいけない書類があって。会議室の端でパソコン開くから…声だけでも聞かせてくれたら、この子、安心すると思うんです」
(“声だけでも聞かせて”って、俺の声が、ってことか?)
一瞬だけ戸惑った。でも、うなずいた。
「…もちろん」
それから10分…のはずが、気づけば1時間が経っていた。
子どもは俺の膝の上にちょこんと座って、プリンを食べている。
「…元気、じゃん」
「ぷりん、うまー」
「熱、ほんとにあったの?」
「せんせい、びっくりしてたー」
「そうか…でも、俺の方がびっくりだよ」
(こんなふうに、ひとりで子どもと向き合うなんて…俺の人生になかった)
膝の上の小さな体。プリンをすくう小さな手。俺のシャツの裾を掴む指。
その全部が、俺の胸を温めていた。
嫁子は、端の方でパソコンに集中していたけど、何度もこちらを振り返っては、安心したように微笑んだ。
その笑顔は、前よりも柔らかくて――なんていうか、“母親”の顔だった。
「…あの子、あなたがいるとほんとに落ち着くんです」
「…俺、子どもなんて、今まで怖かったです」
「怖い…?」
「どう接していいか分からなくて。泣かれたらパニックになるし、話しかけるのも苦手で…でも、この子は、違った」
(あのとき、会議室の片隅で泣いてたのが、この子じゃなかったら…)
俺の人生に、こんなふうに“人”が入ってくることなんて、なかったかもしれない。
その夜、嫁子は先に会議室を出た。
子どもは俺の肩に頭を乗せたまま、すーすーと寝息を立てていた。
「…うちの子、あなたのこと、待ってるみたいです。会社に来るのも、残業も、全部、あなたとごはん食べたくて、って」
俺は何も言えなかった。
ただ、小さな手が俺の指を握って離さない。それが、全部の答えに思えた。
「ありがとう」
その一言が、会議室のドア越しに聞こえた。
俺は目を閉じて、小さく頷いた。
「家庭って、どういうものですか?」って聞かれた夜
その日、残業は少し落ち着いていた。
会社全体が静かで、エレベーターも音を立てずに上下している。時計は20時を回っていたが、珍しく俺の手元には資料がなかった。
(この感じ、ひさしぶりだな)
ゆっくり背伸びをして、席を立つ。
誰もいないフロアを歩いて、エレベーターホールの脇にある鉄のドアを開けた。屋上だ。
ビルの屋上は、ほこりっぽくて、ちょっと油の匂いがして、でも風が気持ちいい。夜の風が首元をなでていった。
「……あれ?」
先客がいた。嫁子だ。
パーカーのフードをかぶって、手すりに背を預けて空を見ていた。手には紙コップのコーヒー。
「…こんばんは」
「……あ、こんばんは」
(なんでだろう、照れる)
「ここ、誰も来ないから…たまに、ぼーっとしに来るんです」
「俺も、たまに来ます。誰にも見られず、さぼれる場所」
「ふふ、たしかに」
俺は隣に立って、同じ空を見上げた。
月は半分だけで、遠くのビルの屋上に看板が光っていた。
「…家、ないんです」
不意に、彼女が口を開いた。
「え?」
「自分の“家”って呼べる場所、ずっと、ないなって」
静かだった。
「実家も、帰れば溜息をつかれて。母には“子どもを産むなら計画しろ”って、父には“男を見る目がない”って…ずっと、言われてて」
「……」
「でも、あなたと…あの子と、ごはん食べてるときだけ、ふと思うんです。あ、これ、“家”かも、って」
俺は、返す言葉が見つからなかった。
(たしかに…俺も同じことを感じてた)
「家庭って、どういうものですか?」
そう、問われた。
「家庭……」
夜風の音が、しばらく答えを持って行った。
「…帰っていい場所、かなって。疲れてても、黙って座って、ごはんが出てきて。なんにも言わなくても、そばに人がいる、そういう場所」
俺は、知らないはずなのに、口が勝手にそう言ってた。
「……帰っていい場所」
嫁子が、その言葉をくり返した。
そして、ふっと笑って言った。
「…あの子に、そういう場所を作りたかった」
「…作れてますよ。きっと」
「あなたも、です」
視線が合った。
でもすぐに、彼女は目をそらした。
恥ずかしそうに、小さく笑って、コーヒーを飲んだ。
その夜、会議室に戻って、俺は子どもに声をかけた。
「ただいま」
「…たっだいま!」
満面の笑みで、子どもが返してくれた。
それが、胸に刺さった。
会社の中なのに――「ただいま」って言える相手がいる。
(人生に、家ができた)
心の奥が、ふっと温かくなる音がした。
会えないって、こんなに寂しいんだな
その日の会議室は、静かだった。
照明はいつもと同じ。俺の残業もいつもと変わらない。だけど――音が違った。
(あの子の声が、聞こえない)
プリンを食べて「うまっ」って言う声。
ごはん中に椅子をくるくる回して怒られてる声。
俺の服を引っ張りながら「パパー」って笑う声。
それが、ない。
会議室のドアを一度だけ見たけど、誰も来なかった。
20時を過ぎても、21時を回っても。
俺は、自分のデスクでずっと落ち着かずにいた。
(こんなに寂しいんだな、会えないって)
まるで、急に暖房が切れたみたいだった。冷え込んだ社内より、俺の胸のほうが寒かった。
21時半。嫁子からLINEが来た。
「ごめんなさい、今日、息子が熱出しちゃって…会社は休ませてもらいました。明日は大丈夫だと思います」
それだけの短い文なのに、画面を3回も見返していた。
(そっか…風邪か…大丈夫だといいけど)
俺は返事を打った。
「大変ですね。ゆっくり休んでください。プリン買っておきます」
すぐに「ありがとう」と返ってきたあと、既読がつかなくなった。
子どもを寝かしつけたんだろう。そう思った。
次の日も、会えなかった。
さすがに我慢できなくなって、昼休みに俺はコンビニで、のど飴とゼリーと、あの子が好きなプリンを買っていた。
(このまま渡さずに帰るくらいなら…)
俺は住所を思い出す。前に提出された社員連絡リストに載っていた“実家”の住所――同じ区内だった。
思いきって足を向ける。ちょっと古びた団地の一室。
ピンポンと鳴らすと、中から不機嫌そうな女性の声が聞こえた。
「…誰?」
「…すみません、会社の者です。少しだけ…お見舞いに」
扉が開いた。
そこには嫁子の母親が立っていた。見た目は若々しいけど、目元の険しさが印象に残る。
「何の用。娘は寝てるけど」
「お子さんの…お見舞いに。ちょっとだけ」
嫁子の母は、俺の手に持ったコンビニ袋を見て、鼻で笑った。
「…男の人に、そんなもの持って来させて。ほんと世話焼かせる子だよ」
その言い方に、何かが引っかかった。
「すみません。俺が勝手に…来たので」
「…あんた、あの子とどういう関係?」
「…ただの同僚です。でも、俺は…あの子に救われてます。ほんとに」
母親は、一瞬だけ目を細めた。
「…まぁ、上がってく?息子、起きてるかもしれないし」
俺は驚きつつ、玄関をまたいだ。
薄暗い廊下を抜けた先の部屋――そこに、あの子はいた。
「……ぱ、ぱ?」
ベッドからむくりと起きたあの子が、俺を見て笑った。
熱で顔は赤いのに、笑ってた。
「プリン、持ってきたよ」
「ぷ、りん…!」
俺が差し出すと、あの子は手を伸ばしてきた。
そばで見ていた嫁子は、目を見開いて、ぽろりと涙をこぼした。
「……ありがとう、ほんとに…来てくれて」
その声は、ずっと無理を重ねてきた人の声だった。
「俺も、会えなくて寂しかったです」
そう言ったとき、彼女は手で口を覆った。
何も言わずに、ただ泣いてた。
その夜、帰り際に俺は言った。
「…また、“ただいま”って言える日、楽しみにしてます」
「…はい。必ず」
扉が閉まったあと、廊下で俺はしばらく立ち止まっていた。
(この気持ち、なんなんだろうな…)
俺は、会社の会議室じゃなく、あの団地の扉の向こうに、“家”を感じていた。
「あのふたり、なんかあるよね」って、言われた朝
その日、いつも通り出勤すると――空気が違った。
俺がエレベーターを降りると、数人の社員がヒソヒソと話していた。
すれ違うときに、ちらっと視線が向く。あれ?と思って立ち止まったとき、耳に入ってきた。
「…なんかさ、最近あの残業コンビ、よく一緒にいない?」
「うん。あの営業の新人さんと、ほら、経理の地味な…あの人」
「え、地味って言うなよ。けど、分かる。あの人、あの子の子どもと仲いいって聞いた」
「保育園にも送って行ったらしいよ?」
(……誰がそんなことを)
ざわざわと、胸が波立った。
別に悪いことをしてるわけじゃない。でも、“善意”や“関係”が他人の好奇心に変わったとき、こんなにも苦くなるのかと知った。
デスクに戻った俺のもとに、珍しく吉井課長がふらっとやってきた。
珈琲片手に、無言で俺の隣に立ち、しばらく黙っていた。
「……あのさ」
「はい」
「おまえら、何か、あるの?」
「……ないです。たぶん、まだ」
「“まだ”?」
俺は、ほんの少しだけ笑った。
「はい。“まだ”です。気づいたら、この関係が、自分にとって大きくなってました。でも、言葉にはしてないです。ちゃんと」
吉井課長は、しばらく黙っていた。
俺は、怒られると思っていた。
けれど、課長の口から出たのは――
「…なら、大切にしろ。どう思われるかより、どう育てるかだ」
「…え?」
「家庭も、恋愛も、育てるもんだ。育ち方が綺麗なら、誰も文句言えない。そういうもんだ」
(この人…昔、何かあったのか?)
課長はそれだけ言うと、去っていった。
背中越しに見えたのは、どこか少し、切なげな肩だった。
昼休み。俺は屋上にいた。
風が強くて、少し埃っぽいが、静かだった。
少しして、エレベータの音がして、嫁子が現れた。
いつものスーツじゃなく、薄手のカーディガンに私服のパンツ。
「休暇取れたんですか?」
「はい。子どもの風邪もほぼ治ったので。顔出そうかなって」
「…それ、正解ですよ。誰かが変なこと言ってます。俺たちのこと」
嫁子の顔が、一瞬だけ曇った。
「…やっぱり、出てますか」
「気にしてます?」
「気に、しないわけにはいかないですよね。…子どもがいるってだけでも、いろいろ言われるのに」
俺は、風に舞う髪を見ながら、言葉を選んだ。
「でも俺は、あなたと子どもと過ごしたあの会議室が、一番“家庭”っぽかったです。誰に何を言われようが、それは俺にとって真実です」
嫁子は、その言葉に目を見開いて、それから小さくうなずいた。
「…そうですね。私も、同じです。あそこが、最初の“家”だった」
(ああ、やっぱり、俺たちは同じ景色を見てたんだ)
その日、ふたりで少しだけ散歩をした。
昼間の街はにぎやかで、子ども連れの母親や、学生たちの笑い声が響いていた。
途中、公園の前で立ち止まった。
「…いずれ、こんなとこに一緒に来れたらいいですね」
「…“一緒に”って」
「…言っていいのか迷ったけど、俺はもう、あの子にとって“家の一部”でありたいって、思ってます」
嫁子は、唇を噛んで目を伏せた。
「…そんなふうに、誰かに言ってもらえる日が来るなんて、思ってなかった」
その目に、涙がたまっていた。
それでも、泣かずに彼女は微笑んだ。
夕方。会社に戻ると、会議室にはあの子がいた。
復帰したその日も、やっぱり、会議室で「ぱぱー」と笑っていた。
「ただいま」
「たっだいま!」
その言葉の響きが、今日ほど嬉しかった日はなかった。
「名前で呼んでいいですか?」って、聞いたら泣かれた
その夜も、残業の空気だった。
でも、不思議と、心が軽かった。
俺は資料を早めに片づけ、コンビニで例のプリンと、ちょっと高めのデザートを買った。今日は、なんとなくそんな気分だった。
会議室に入ると、ふたりはもういた。
「こんばんは」
「こんばんは。お疲れさまです」
「ぷりんー!」
子どもが手を伸ばして、俺の袋を見てぴょんぴょん跳ねてた。
その姿だけで、1日の疲れが吹っ飛んだ気がした。
3人で並んで食べる食卓――いや、会議室のテーブル。
「今日、すごい良いことがあって」
嫁子が嬉しそうに話す。
「保育園の先生に、“息子くん、すごく表情が豊かになったね”って褒められて」
「そっか…」
「あと、“最近、すごく安心してる顔してる”って…」
俺は子どもを見る。
その小さな顔が、もぐもぐと口を動かしていて、時折こちらを見ては笑う。
(こんなに誰かに笑いかけられること、俺の人生であったか…?)
食事が終わり、コップの水を飲みながら俺は静かに言った。
「…名前で、呼んでもいいですか?」
「…え?」
「“あなた”とか“君”とかじゃなくて。…名前で。呼びたいなって」
嫁子は一瞬、目を伏せた。
それから、何かをこらえるように小さく頷いた。
「…どうぞ」
「……ありがとう」
「…なんで、名前で呼びたいと思ったんですか?」
「たぶん…家族になりたいと思ったから、です」
その言葉を言ったとき、俺の心臓はバクバク鳴っていた。
言った瞬間、自分でも驚いた。でも、それが嘘じゃないとすぐに分かった。
嫁子は、息を飲んで俺を見つめていた。
そして――ぽろぽろと涙をこぼした。
「…そんなふうに言ってもらえるなんて、夢にも思ってなかった」
「…俺は、君と、君の子どもと、“家”になりたいです」
子どもが不思議そうに、ふたりを見ていた。
その顔に、涙がこぼれそうになる。
「今はまだ、“お父さん”じゃないけど…それでも、“一緒にいたい人”でいたい」
嫁子は、頷いた。涙をぬぐいながら、笑って。
「…はい。こちらこそ、お願いします」
その夜、会議室からふたりきりで外に出た。
子どもは俺の腕の中で眠っていた。
ビルの外の空気はひんやりしていて、夜風が心地よかった。
「…初めてですね」
「何が?」
「あなたの腕の中で寝たの。…この子、なかなか人には身体預けないんです」
「…そうなんだ」
「きっと、わかってるんですよ。あなたのこと、大好きだって」
俺は、何も言えなかった。
胸が、もういっぱいで。
嫁子が言った。
「…これから、“ただいま”って、毎日言えるようになったらいいですね」
「…俺もそう願ってます」
俺はその夜、家のベッドに入っても、なかなか眠れなかった。
子どもの寝顔、嫁子の笑顔、そして「家族になりたい」と言った自分の声。
全部が、はっきりと、心に残っていた。
「ただいま」が言える夜が、ほんとに来た
時が流れた。
あの会議室の灯りは、もう毎日ついてはいない。
俺の残業も、だいぶ減った。
…というか、“帰る場所”ができたからだ。
会社に長くいることが、自分の価値だと思ってた俺が、今は定時のチャイムを聞いた瞬間、パソコンを閉じるようになった。
理由は、簡単だった。
あの子が、玄関で「ぱぱ!」と両手を広げて待っているからだ。
籍を入れたのは、去年の秋だった。
披露宴もなく、写真も簡単なものだけ。
でも、俺たちにはそれで十分だった。
“家”ができた。
ただそれだけで、人生がまるごと変わった気がした。
会社では最初、少しざわついた。
けど、吉井課長が会議の後、ぽそっと言った。
「…ちゃんと育てたな、おまえら」
それを聞いて、俺は初めて、胸を張って「はい」と答えられた気がした。
嫁子も仕事を続けている。
子どもは保育園から幼稚園に進んだ。
最近では「ぱぱ、字、かけるんだよ」なんて自慢までしてくる。
あの子の笑顔が、俺の人生の支えだ。
その夜、俺は久しぶりに残業をしていた。
急ぎの資料が飛び込んできて、21時を過ぎてしまった。
スマホを覗くと、嫁子からメッセージ。
「たまには、あの場所で待ってます」
思わず、笑ってしまった。
会議室を開けると、そこには――
あの日と同じテーブル、あの日と同じコンビニの袋。
そして、あの日と同じ、ふたりがいた。
子どもが俺を見て、叫んだ。
「ぱぱー!おかえりー!」
俺は、笑いながら言った。
「…ただいま」
その瞬間、胸の奥がぐっと熱くなった。
ああ、これだ。これが、俺が欲しかったものだ。
「ごはん、できてますよ」
嫁子が言う。
その手には、おにぎりとからあげと、プリン。
「…豪華だな」
「久しぶりですから」
子どもが俺の腕に抱きついてくる。
その小さな体が、俺の胸にすっぽり収まった。
「ぱぱ、きょうね、ようちえんでおはしつかった!」
「ほんと?じゃあ、おうちでも使おうな」
「うん!」
嫁子が、そのやりとりを見て、静かに微笑んでいる。
その笑顔が、俺の全部だった。
会議室の照明は、相変わらずちょっと黄色くて、少しだけ暗い。
でも今夜は、心の中が明るかった。
あの頃、誰もいなかった会議室で泣いていたあの子が――
今、笑いながら「ぱぱ」と呼んでくれる。
「ただいま」と言える場所が、会社の外にできた。
でも、こうして――
「ただいま」が、あの会議室にも響く夜が、たまにあってもいい。
最後のプリンを3人で分けながら、俺は思った。
(人生に“家”ができるって、こういうことだったんだな)
何か特別なことをしなくても、
誰かに必要とされること。
誰かを迎えに行くこと。
そして、「おかえり」と「ただいま」が自然に言えること。
それだけで、世界がまるごと優しく見える。
俺の人生を変えたのは、あの夜、会議室の片隅で泣いていた小さな声だった。
そして今――
その声は笑って、「ぱぱ!」と俺を呼んでくれる。
「…ごちそうさま。また、明日も“家”で食べような」
「うん!ぜったい!」
嫁子が、静かにうなずく。
「はい。おかえりなさい」