この馴れ初め話は著作権フリーで改変も自由・YouTubeの素材やSNSでご使用いただいても問題はありません。ただ以下のリンクを張っていただけたら幸いです。
はっくなび
しゃべらない女と、しゃべられない男
いつも端っこにいるふたりの話
会社の経理部って、たいてい静かだ。
でも、うちの経理は特に静かだと思う。
パソコンのキーボードを叩く音と、誰かがペットボトルのフタを開ける音。
それが、昼休みのBGMだった。
俺は今、34歳。経理に異動して4年目。
営業や総務に比べて目立たないし、付き合いの飲み会も「下戸なんで」でスルーしてきた。
存在感は薄い。自分でもわかってる。でも、だから居心地がいい。誰も俺を追いかけない。
そんな部署に、ある日、新人が入ってきた。
名前は――いや、ここでは仮に「嫁子」としよう。
見た目は、地味。ほんとうに地味。
肩まであるストレートの黒髪、グレーのカーディガン、ペンケースに無駄な装飾ゼロ。
喋るときは小声で、ほとんど「はい」「あの、これ…」しか言わない。
俺と同じだった。目立たない、声も出さない、存在感がうすい。
(……なんか、親近感)
俺はそう思っていた。
でも、話しかけるには勇気がいる。
黙ってる人に話しかけるのって、すごく体力いる。しかも、同じように黙ってる自分からってのが、また難しい。
同期の伊藤の冷やかし
「なーなー、お前さ、あの新人と波長合うんじゃね?」
昼休み、同期の伊藤がニヤついた顔でこっちにきた。
彼は営業出身で、口が達者。部内の誰ともすぐに仲良くなる。
でも、からかいも多い。そういうやつだ。
「何がだよ」
「いや、ほら、お前も無口だし。あの子、まじで静かだろ?俺ですら3秒で沈黙したもん」
「お前が沈黙するとか相当だな」
「いやマジで。あれは鉄壁の無反応。あ、でも、顔は可愛いぞ、よーく見れば。そういうタイプだよ、たぶん」
伊藤はケタケタ笑ってる。
俺は苦笑いして、そっとお茶をすすった。
でも、伊藤の言葉が気になった。
「よーく見れば、可愛い」
確かに。たまにふと顔をあげたときの、伏し目がちな目元。
化粧っ気はないけど、整った輪郭。
それを「隠してる」ようにすら思えた。
(なんで隠すんだろう)
そう思った。
無表情な人の、ほんとの顔って?
週末、俺は会社帰りにコンビニに寄った。
夜の11時過ぎ。残業帰り。
レジで冷やしうどんと缶コーヒーを買って、外に出ると、ベンチが見えた。
そして、そのベンチに……奇妙な光景。
「ぎゃはははっ!うっそー!やばーい、まじそれ死ぬ~っ」
笑い声。大きい。
髪はくるくるに巻いて、つけまバチバチ。
ミニスカートに厚底サンダル。明るいピンクのカーディガン。
隣の友達と大声で笑ってる、見慣れない女性。
(若いな…酔ってる?)
その女性が、缶チューハイを振りかざした瞬間――
こっちを振り向いた。その一瞬。
目が合った。
(……え?)
目だけが、見覚えあった。
あれは、絶対に――嫁子だった。
でも、違う。
まったく違う人間に見える。
会社の地味な彼女と、目の前のギャル風の女性。
でも、目だけは同じだった。
(見間違い……だよな)
俺は混乱したまま、うどんを片手に家に帰った。
目を合わせない月曜日
週明けの月曜日。
俺は無意識に嫁子の席を見た。
彼女は、相変わらず地味な姿で、パソコンに向かっている。
でも、明らかに――俺と目を合わせない。
いや、俺から目を逸らしている。
(あれはやっぱり、本人だったのか)
考えれば考えるほど、確信に変わる。
でも、どうしていいかわからない。
本人に聞くわけにもいかない。
なのに、俺の口が勝手に動いた。
「……昨日、体調とか、大丈夫でした?」
「……っ!」
嫁子はビクッと肩を震わせた。
そして、ゆっくりこっちを見て、小さな声で――
「すみません……黙っててください」
その目は、泣きそうだった。
俺はうなずくしかなかった。
(ああ、秘密にしてほしいんだ)
でも、なんだろう。
そのときの嫁子の表情が、ちょっとだけ「素」に見えた。
会社での仮面がはがれた、ほんとの顔。
それを見た気がした。
ちょっとだけ話すようになった日
きっかけは、小さなミスだった
「すみません……この書類、どこに提出すればいいかって……」
その日の昼下がり、俺のデスクにそっと差し出されたのは、週報の控えだった。
声は相変わらず小さく、目線は書類の角に落ちてる。
「経理課長に…そのまま出していいと思いますよ。印鑑、ここ押してあれば」
(ちゃんと確認してる。字も綺麗だし、抜けもない。慎重な性格なんだな)
俺が説明すると、彼女は軽くうなずいて「ありがとうございます」と言って戻っていった。
それだけの、ほんの一瞬のやり取り。
だけど、その日から、嫁子はときどき俺のところに小さな質問を持ってくるようになった。
「これ、先月の分とファイルまとめたほうがいいですか?」
「ミス、あったらすみません……」
「この書式、変わってますよね? 去年のとちょっと違ってて」
彼女の言葉は毎回小さい。でも、少しずつ滑らかになっていく。
返す俺の言葉も、いつしか自然になっていた。
(不思議と、居心地が悪くなかった)
誰にも話しかけられないままいるのって、苦しくなる。
それを、彼女も感じていたのかもしれない。
帰り道、同じ方向だった
「……あの」
夕方、帰り支度をしていた俺の肩を、そっと叩く人がいた。
振り返ると、嫁子だった。
「○○線って……乗られてますか?」
俺は驚いた。まさか話しかけられるとは思ってなかった。
あの嫁子から、プライベートに近いことを聞かれるなんて。
「あ、はい。○○駅で乗ってます。もしかして……」
「私もです。あの、電車、けっこう混みますよね。特にこの時間」
(会話……してる。普通の)
「そうですね。俺、いつも乗り換えで負けて座れないです」
「わかります……。私も、毎回立ってます」
それだけの会話だったけど、なんだか、すごく印象に残った。
会社じゃ見せない、ちょっとだけリラックスした嫁子の顔。
そのあと、一緒に駅まで歩いた。たまたま、同じ方向だっただけ。
でも、俺はその“たまたま”を、なぜかうれしく感じてた。
警備のおじさんが見ていたもの
「おう、あんたら、仲ええなぁ」
会社の入口で、いつもの警備のおじさんが声をかけてきた。
60代くらいで、にこにこしてるけど目が鋭い。
社内の誰がいつ残業してて、誰と誰が喧嘩してるか全部知ってる。
「いや、そんな……」
俺が苦笑いしてると、おじさんは目を細めて言った。
「新人ちゃんなぁ。見た目おとなしいけど、根は気ぃ遣いな子やで。声、ちっちゃいけどな、ちゃんと見とるし、人の仕事よう手伝っとるわ」
(……見てる人は、見てるんだ)
俺はその言葉が、妙に心に残った。
会社での「地味」って、たいていスルーされる。
でも、ちゃんと誰かが見ててくれるなら――。
本当の顔は、どれだろう
夜、帰りの電車で隣に立った嫁子が、ぽつりと言った。
「……あのとき、すみませんでした」
「ん?」
「コンビニの前で……。あれ、見られてたの、ほんと恥ずかしくて。ごめんなさい」
(やっぱり、あれは本人だった)
「いや、謝ることじゃないですよ」
「でも、あれ、ほんとの私なんです。演じてない私。たまに、疲れて……ああなる」
「……俺も似たようなもんです。ネットとかじゃ、けっこうしゃべります。リアルじゃ無理ですけど」
「ふふ……」
嫁子が、小さく笑った。
(はじめて、笑った顔を見た気がする)
「人間って、演じてないと働けないんですよ」
「そうかもしれないですね」
「でも、あなたと話してると、少しだけ……楽です」
そのとき、電車のアナウンスが流れた。
「次は○○駅」
ふたりとも、降りる駅だった。
(なんだか、まだ話していたかった)
でも、言葉にはできなかった。
酔うと泣くんです
予想外の「飲みに行きませんか?」
「今日、ちょっとだけ……飲みに行きませんか?」
金曜日の帰り際、いつものように一緒に駅まで歩いていたとき。
嫁子が突然そう言った。
俺は一瞬、聞き間違いかと思った。
(あの嫁子が……俺を?)
言い方は、ほんとに小さくて、おそるおそるという感じだった。
でも、その目はまっすぐで、どこか決意すら感じた。
「いいですよ」
俺の口からは、意外とすぐに言葉が出た。
飲めないくせに、断る理由が思い浮かばなかった。
(たぶん、断っちゃいけない気がした)
居酒屋、和風、カウンター席
嫁子が選んだのは、小さな和風居酒屋だった。
のれんをくぐると、カウンター席が数席と、奥に小さなテーブル。
渋い選択に驚く。
(ギャル風だった日のイメージと全然違う)
「あ、ここ……よく行くんです」
「へぇ、意外」
「ひとりで飲むこと、多いので」
(あのコンビニの夜も、そうだったのかも)
「お酒、飲めましたっけ?」
「俺、弱いです。たぶん、すぐ顔真っ赤になります」
「じゃあ、今日は私が酔ってる方で、許してくださいね」
そう言って、彼女は梅酒のロックを頼んだ。
俺はノンアルの柚子ソーダ。
(なんだ、このバランスの悪さ)
でも、不思議と緊張はしなかった。
ぽつり、ぽつりとこぼれる本音
「職場って、しんどいですね」
「……そうですね」
「私、ずっと“ちゃんとしてる人”って思われたくて、演じてきたんです」
「真面目で、丁寧で、静かで」
梅酒を少し飲んだあと、嫁子は箸袋を指でくるくるいじりながら続けた。
「でも、ほんとは人と話すの、苦手なんです。特に“いい人”の仮面つけてると、家で爆発しそうになる」
(わかる……)
「前の職場では、陰で“地味だけど裏で遊んでる”って言われてました」
「たまたま会社帰りに飲んでたら見られてて、それからずっと…居づらくなって」
(あの日のコンビニのこと……あれも、そういう流れの延長だったんだ)
「会社では、誰も本当の私なんて知らない。知ってほしくない。でも……」
そこで嫁子は、ぽつりと言った。
「あなたは、見たでしょ。全部」
「……」
「それでも、黙っててくれて、普通にしてくれて、助けてくれて……」
嫁子の目が、うっすら潤んでいた。
「だから、今日、ちゃんと話したかったんです」
(俺なんて、何もしてない。でも)
そのとき、初めて言えた。
「俺も……似たようなもんです」
2ちゃんと匿名と「俺」の居場所
「ネットの掲示板でだけは、すごい口が回るんですよ」
「そうなんですか?」
「2ちゃんの時代からいるんです。匿名だから、何でも書けるし、強がれるし、時には叩かれるし」
「私も、匿名の場所だけが……息抜きでした」
(あ、同じだ)
俺は自然に笑っていた。
嫁子も、ちょっとだけ口角を上げた。
「なんででしょうね。素って、見せるの怖いのに、知らない人には平気で見せられる」
「顔を知られてないと、強くなれる気がするからですかね」
「……あなたには、顔を見せてるのに、怖くないのが不思議」
そこで、嫁子は、ぽろっと泣いた。
涙が、するりと落ちて、テーブルに落ちた。
「酔うと、泣くんです。すみません」
「いえ」
俺は、その言葉に何も返せなかった。
ただ、黙って紙ナプキンを差し出した。
彼女はそれを受け取り、うつむいたまま「ありがとう」と言った。
(俺、この人と、もっと話したい)
酒は飲めない。
でも、心のなかは、ちょっと酔ってた。
帰り道が、あたたかかった
泣いたあとの、駅までの道
店を出たのは、22時過ぎ。
夏の夜風が、ほんの少しだけ肌寒い。
通りに出ると、人もまばらで、嫁子はずっと俯いていた。
「……すみません、なんか、泣いて」
「いえ、あの……俺、酔ってなくても泣きそうでした」
「ふふ……」
ほんの少し笑ったあと、嫁子は横に並んで歩き出した。
カツン、カツン、と彼女のヒールがアスファルトを叩く音。
それだけが響く夜道だった。
沈黙はあったけど、不思議と気まずくない。
言葉がなくても伝わる感覚というか、
「しゃべらなくても、大丈夫」という安心感があった。
(演じなくていい沈黙って、こういうことかも)
信号待ちのとき、嫁子がぽつりとつぶやいた。
「帰るときって、いつも寂しくて。酔ってても、誰も隣にいないから」
「俺もです。家、静かすぎて、テレビつけっぱなしです」
「でも今日は……少しだけ、あったかいです」
(……俺も)
そう言いかけて、言えなかった。
でも、顔が勝手に緩んでるのがわかった。
すれ違ってたはずなのに、重なっていく
電車の中。
帰りのホーム、同じ車両。
昼間の混雑とは違い、席も空いていて、二人並んで座る。
無言のまま、並んで外の景色を見ていた。
「私、今まで、男の人って怖かったんです」
「え……?」
「前に、ちょっとだけ付き合った人がいて。職場恋愛だったんですけど、バレたら、全部噂になって、最後は“あいつ、男にだらしない”って」
(……また誰かに、裏切られたんだ)
「だから、もう職場では二度と本音出すまいって、思ってたんです」
「なのに……なんで、あなたには話せるんだろ」
「……俺が、地味だからじゃないですかね」
「それ、大事なんですよ」
嫁子が笑った。
さっき泣いてたのが嘘みたいに、穏やかな顔だった。
「“地味な人”って、目立たないけど、ちゃんと見てくれてる」
「それって、すごい才能です」
「……そんなこと言われたの、初めてです」
「私も、“演じなくていいかも”って思ったの、初めてです」
言葉は、ぽつりぽつりと、ゆっくり出てくる。
でも、そのぶん、ひとつひとつの言葉が、心に刺さる。
(この人となら、もう少しちゃんと、生きていけるかもしれない)
そんなことを考えていた。
おかえりの代わりに
電車を降りて、駅前のロータリー。
もうタクシーも数台しか止まってない時間だった。
「こっちですよね?」
「はい、すぐです。歩いて5分くらい」
「……じゃあ、また月曜」
「……はい」
別れ際、嫁子が、急に立ち止まった。
「今日、話せてよかったです」
「俺も」
「……また、飲みに行ってくれますか?」
「……もちろん」
少しだけ照れたような顔で、嫁子は手を振った。
その手が、すごく小さく見えたけど、不思議と印象に残った。
俺も、軽く手を振り返す。
「気をつけて」
「……はい、“おかえり”って言ってくれてるみたいですね」
「……うん、そうかも」
(じゃあ次は、ちゃんと“おかえり”って言えるようにしよう)
帰り道、ひとり歩きながらそう思った。
秘密のままでいたい気持ち
社内で目が合う、その一瞬だけ
月曜の朝、会社の空気は、いつも通りに冷たかった。
パソコンの起動音、書類のすれる音、誰かの小さな咳払い。
目立たないように、目立たないふりをして、皆がそれぞれの仮面をつけている。
そのなかで――
嫁子と目が合った。
一瞬だけ。ほんの、0.5秒くらい。
でも、その一瞬に、全部が詰まっていた。
彼女は、俺にだけ小さくうなずいた。
それはまるで、「昨日のこと、ちゃんと覚えてるよ」と言ってるようだった。
(俺も……覚えてる)
顔はいつも通り、無表情。声も聞こえない。
でも、お互いに“知ってる”という秘密を共有していた。
(なんか、悪くないな)
そう思っていた――そのときまでは。
伊藤の目が光る
「お前、最近、あの新人と仲良くね?」
昼休み。
パンをかじっていた俺の前に、例のごとく伊藤がどかっと座ってきた。
この男は勘が鋭い。そして、口も軽い。
「……そうか?」
「そうだよ。だってこの前なんか、あの子、お前と目が合ったときだけ笑ってたぞ?俺には無視だったのに」
(見られてた……)
「別に。たまたまだろ」
「ふ~ん、じゃあさ」
伊藤が、わざとらしくニヤニヤしながら身を乗り出してきた。
「お前さ、あの子がこの前、駅前のコンビニ前で爆笑してたの、見たことある?」
「っ!」
反射的に息が止まった。
「え、マジで?それ、知ってるの?」
「……いや、知らんけど」
「俺の知り合いが見たって言っててさ。すっごいギャルみたいだったらしい。信じられねーって言ってたわ」
(ああ、これだ。この噂が、あの子を壊したんだ)
「そうなんだ」
俺は平静を装って、パンを飲み込んだ。
伊藤はそれ以上は深掘りしてこなかったけど、目はまだ何かを探っていた。
「誰にも言わないでください」の重さ
その日の夕方。
いつもより早く退勤した嫁子が、俺のデスクにメモを置いていった。
「帰り、5分だけ、お話いいですか?」
(また、なにかあったのか?)
ロッカー前で合流すると、嫁子は人目を避けるようにして、小声で言った。
「誰かに、見られてました。……私、笑ってたって」
「……伊藤が言ってた。噂になってるって」
「……やっぱり」
俯いて、ギュッとカバンの持ち手を握りしめていた。
「でも、俺は何も言ってないから」
「はい……信じてます」
少し沈黙が流れた後、嫁子がぽつりと続けた。
「私、もう会社でバレたら、また辞めたくなるかもです」
「前も、そうだったから。みんなが私のことを勝手に知った気になって、陰で笑って」
「……」
「だから、お願いです。“あの私”のことは……誰にも言わないでください」
(そんなの、言うわけない)
でも、それだけじゃ足りない気がした。
「俺も、言わないし、忘れたりもしません」
「あなたのこと、“会社の顔”だけで見てたわけじゃないから」
嫁子は、驚いた顔をした。
それから――少しだけ、目を潤ませた。
「そんなふうに言ってくれたの……初めてです」
その言葉が、俺の胸を焼いた。
秘密の共有、それは距離の証
駅の改札前。
一緒に歩いていたのに、なぜか別れ際の空気が重かった。
「じゃあ……また明日」
「うん。また」
言葉は淡々としていた。
でも、そのあと、嫁子がふっと言った。
「……ほんとは、もっと話したいです。でも、誰かに見られるのが、こわい」
「大丈夫。俺も、地味だから」
「……地味って、いいですね」
そのとき、彼女は少し笑った。
ほんのり灯る、夜の改札の光の中で――
それは、誰にも見せない顔だった。
ふたりの、帰り道だけの世界
社内では話さない。でも、それでいい
噂は、ゆっくりと、しかし確実に広がっていった。
「経理の新人って、ギャルだったって本当?」
「コンビニで爆笑してたの、あれマジで彼女なの?」
「つけまとか巻き髪とか、想像つかないよなー」
どこから始まったのかは分からないけど、火のないところに煙は立たない。
そしてその煙は、静かに社内を包み込んでいった。
嫁子は、何も言わなかった。
表情も、変えなかった。
ただ、いつもより、少し背中が丸くなっていた気がする。
(ああ……あの背中は、耐えてるんだ)
俺は何もできなかった。
話しかけることすらできない。
昼休みも、通りすがりも、全部“知らないふり”を通した。
でも、それでよかった。
俺たちは、それを選んだ。
そして、終業のチャイムが鳴ったあと――
俺たちは、自然に同じタイミングで帰り支度をしていた。
沈黙でも、隣にいるだけで
帰り道。
駅までの道は、いつものように並んで歩く。
でも、その日はお互いほとんど喋らなかった。
「……」
「……」
沈黙が、重いわけじゃなかった。
逆に、安心だった。
言葉を探さなくてもいい。
なにかを無理に話さなくても、隣にいるだけで大丈夫。
(この空気が……たぶん、心地いいってことだ)
俺は、わざといつもよりゆっくり歩いた。
信号の青も、ぎりぎりまで渡らずに待った。
すると、嫁子がぽつりとつぶやいた。
「あなたといると、安心します。たぶん、理由はわかりません」
「……俺もです」
「話してなくても、心の中に、言葉がある気がするんです」
(ああ、同じことを思ってた)
その瞬間、ほんの一瞬だけ、指が触れた。
どちらからも握らなかった。
でも、それだけで、何かが伝わった気がした。
警備のおじさんの“まっすぐな目”
会社の入口。
警備のおじさんが、ちょうど交代の時間だったのか、ベンチに座っていた。
「おう、おかえり」
いつも通り、柔らかい口調。
「……ただいまです」
俺が返すと、おじさんは、ふたりを交互に見て、言った。
「噂はな、風といっしょや。吹きはじめたら止められん。でも、風が止んだら、残るのは“見てた人の目”だけや」
「……?」
「その目が、どんなふうに見てたかで、その人のことがほんまにわかる」
俺も嫁子も、黙って聞いていた。
すると、おじさんは少し笑って続けた。
「わしは、ふたりとも、ちゃんと見とる。ええ目ぇしとる。だから、大丈夫や。胸張って歩き」
「……ありがとうございます」
嫁子が、ほんの少しだけ会釈した。
それは、会社では見たことないくらい、やさしい表情だった。
(ちゃんと見てる人が、ここにもいる)
そう思えた瞬間だった。
心だけ、つながっている感じ
電車を降りるとき、俺が先に立ち上がった。
そのあとに、嫁子が立ち上がる。
「また、明日」
「……はい」
言葉は、必要最低限。
でも、駅を出て、別れるとき。
彼女が、そっと言った。
「“演じてない自分”を、見られてるって……怖いけど、うれしいです」
「俺は……うれしいだけです」
「ずるいですね」
「……たまには、ずるくてもいいですよね」
嫁子は、はにかんだように笑った。
(ああ、この笑顔、誰にも見せないやつだ)
俺だけが知っている顔。
それが、今ここにある。
きっとこの人は、大丈夫だと思った
ある日の午後、俺のほうが沈んでた
その週の水曜、午後。
小さなミスが重なって、課長に地味に怒られた。
「これ、数字の集計、先月のままだよ。確認した?」
「すみません……見落としてました」
「次はちゃんとやって」
その一言が、ずしんと響いた。
声を荒げられたわけじゃない。
でも、「信頼」が剥がれていく感じ。地味で、静かで、でもじわじわ痛い。
(はあ……やっちまったな)
俺はモニターを見ながら、気持ちを切り替えようとしたけど、ダメだった。
エクセルの画面が、いつもよりまぶしくて、目にしみた。
そのとき。
「……大丈夫ですか?」
小さな声で、横から嫁子が話しかけてきた。
今までなら、絶対に言ってこなかったタイミングで。
「え?」
「さっき……課長に、怒られてたの、見てて……」
「うん、まぁ、やっちまった」
「……私、前の職場、怒鳴られてばかりだったんで、少しだけ気持ちわかる気がして」
俺は思わず、嫁子の顔を見た。
(そんな過去、聞いたことなかった)
彼女は、いつも通りの無表情。だけど、その目だけは、俺のことをまっすぐに見ていた。
「ありがとうございます。……なんか、救われます」
「いいえ。……私、逆だったので。今まで、誰にも“大丈夫?”って聞いてもらえなかったから」
「じゃあ、今日は俺が聞きます。大丈夫?」
「……うん。ありがとう」
ちょっとだけ、泣きそうな顔をしたのは、俺のほうだった。
支えてるつもりが、支えられてた
その日の帰り。
俺は自然に、嫁子と歩いていた。
「……なんか、最近、俺のほうが弱ってるかも」
「それでいいと思います」
「どうして?」
「人間って、ずっと“支える側”だと、壊れます」
「……そうかも」
「あなたは、“聞く側”に慣れすぎてる。でも、ちゃんと“話す側”にもなってください」
その言葉が、妙に胸に刺さった。
(俺、ずっと受け止めてばっかりだったのかもしれない)
「きっとこの人は、大丈夫だと思ったんです」
嫁子が言ったその一言は、どこか告白みたいだった。
「俺は……強くないけど」
「だからです。強がってない人のほうが、ちゃんと隣に立てるから」
(そうか……この人、俺のことを“ちゃんと見てくれてる”)
この会社にいて、こんなふうに思ったのは、初めてだった。
はじめての「ありがとう」
駅に着く直前、俺は立ち止まった。
「今日……ありがとう」
「え?」
「本気で、助けられた。ちょっと泣きそうになってた」
嫁子は、ほんの一瞬だけ黙って、こう言った。
「……じゃあ、今日は私の勝ちですね」
「勝負だったの?」
「支える量、です」
そう言って、少しだけ肩を寄せてきた。
歩幅が合う。
呼吸が合う。
沈黙が、怖くない。
それだけで、こんなにも温かい。
演じなくていい日が、増えていった
会社の中でも、自然になっていく
俺と嫁子の関係は、相変わらず“誰にも知られていない”。
でも、少しずつ変わっていったのは、俺たち自身の態度だった。
昼休み、同じタイミングで自販機に立ったり、
業務連絡でのやり取りが、他の社員よりもスムーズだったり。
「この書類、あの件とリンクしてますよね」
「はい、なので、数字はこっちにまとめました」
そのやり取りに、伊藤がニヤつきながら言った。
「なんか、やたら連携取れてんな、お前ら。以心伝心?」
「たまたまだろ」
「たまたまにしちゃ、スムーズすぎんだよな〜」
軽い冗談。
でも、昔の俺だったら、うろたえてた。
今は、ニヤリとしながら受け流せる。
(多分、それは俺がもう、“自分”を演じてないからだ)
嫁子も同じだった。
声は小さいままだが、必要な場面ではちゃんと主張できるようになった。
課長に「この方式、非効率です」と提案しているのを見たときは、正直、驚いた。
(あの嫁子が、こんなふうに話すなんて)
終業後、エレベーターを降りるとき、俺はつい言ってしまった。
「今日、すごかったな。課長、ちょっと黙ってたよね」
「……そうですか?」
「俺は拍手しそうだったけど」
「ふふ……ちょっとだけ、“演じるのやめてみた”だけです」
その言葉が、何よりもうれしかった。
過去の話と、心の扉
その夜。
帰り道の途中、嫁子がぽつりと言った。
「……私、大学のとき、家庭が崩壊してて」
「……うん?」
「母親が失踪して、父親が病んで。兄が家を出て……ひとりで家計支えてたんです」
その声は、いつもより落ち着いていて、でも遠くを見ていた。
「だから、“ちゃんとしてる子”を演じるしかなかった。誰にも迷惑かけないように、期待されるように、信頼されるように」
(だから、仮面をつけていたのか)
「でも……演じ続けると、自分がどこにいるか、わかんなくなるんですよね」
「……うん」
「あなたといるときだけ、自分に戻れる気がします」
その瞬間、俺は思った。
(この人を、もっと知りたい)
それは恋とかより、もっと素直な、ひとりの人間としての感情だった。
「……もしさ、」
「うん?」
「もし、一緒に住んだらどうなると思いますか?」
その質問は、唐突だったけど、妙に自然だった。
「朝、会話ゼロでおにぎり食べると思う」
「……それ、けっこう幸せかも」
笑いながらそう言った嫁子の横顔は、
あの“コンビニの前のギャル”でも、“会社の仮面の女”でもなかった。
ただの、等身大の彼女だった。
無言のおやすみが、特別だった
その夜、別れ際に、特別なことは言わなかった。
「じゃあ、また明日」
「うん、おやすみ」
「……おやすみなさい」
それだけ。
でも、そのときの空気は、
なぜか――“一緒に生きていくかもしれない”未来の匂いがした。
あなたなら、演じなくていいかも
あの日と同じ、コンビニの前で
金曜日の夜、仕事帰り。
なんとなく、あの日と同じ道を歩いていた。
俺の手には、おでんと温かいお茶。
懐かしい香りのする風が吹いていた。
ベンチが見える。
あの夜、嫁子が缶チューハイ片手に笑ってた、あの場所。
そこに、同じように、彼女はいた。
でも、今日は――
巻き髪じゃない。つけまつげも、ギャルメイクもない。
仕事終わりのままの姿。
でも、何よりも自然だった。
「来ると思ってました」
「……俺も、来るかなって思ってました」
缶の梅酒を持った手が、小さく震えてた。
でも、その指先が、俺の心を、確かにノックした。
ふたりの告白は、問いかけだった
「私、変わりたいんです」
「演じなくて、暮らせるように」
「……俺も、変わりたいです」
「無理して強がるの、やめたい」
沈黙。
だけど、怖くなかった。
「私ね、あなたといると、自分を責めないでいられるんです」
「ちょっとヘマしても、泣いても、黙ってても」
「俺も……そう。あなたとなら、失敗しても、大丈夫な気がする」
嫁子は缶をゆっくり置いた。
そして、俺の方を見て――
「じゃあ、ちゃんと言いますね」
「うん」
「私、あなたと――一緒に、普通に、生きていきたいです」
「……」
「派手な人生とか、理想の家庭とか、望んでないです」
「でも、隣で静かにごはん食べて、夜にくだらない話して、お互いに“今日もよく頑張ったね”って言えるような、そういう暮らしが、欲しいです」
俺は、ずっと言葉を探していたけど、なにも見つからなくて。
でも、ただひとつだけ、自然に出た。
「……それ、俺も、望んでた」
その瞬間、嫁子の目から、ぽろっと涙が落ちた。
「ああ、また泣いちゃった……」
「酔ってるの?」
「少しだけ」
「じゃあ、俺が責任取ります」
「……どういう意味ですか?」
「意味は……一緒に暮らすって意味です。俺と」
嫁子は、笑いながら泣いてた。
その顔は、どの顔よりも美しかった。
ふたりの“これから”は、静かに始まる
結婚の言葉なんて、なかった。
指輪もプロポーズも、なかった。
だけど――
一緒にアパートを探して、
買い出しに行って、
ふたりで冷蔵庫の中を見て「今日何作る?」って聞き合って、
仕事の帰りに、「おかえり」を言い合って。
そのすべてが、ちゃんとした“約束”だった。
ある夜、嫁子がつぶやいた。
「ねぇ、もしも、また昔みたいに演じなきゃってなったら、どうしたらいいですか?」
「演じてもいい。だけど、帰ってきたら、全部脱いでいい」
「……あなた、そういうとこ、ずるいです」
「そう? 俺は、真面目に言ってるんだけど」
「じゃあ、いいです。あなたの前では、演じません」
「うん。俺も」
缶チューハイとおにぎり。
ごはんと味噌汁。
無言の沈黙と、くだらない笑い話。
それが、俺たちの“しあわせ”だった。
普通に生きることが、一番むずかしくて、あたたかかった
誰もが、“ちゃんとした人間”を演じながら生きてる。
でも――
その仮面をそっと下ろしても、「大丈夫だよ」って言える相手がいるだけで、人生はきっと変わる。
嫁子は、演じなくていい場所を見つけた。
俺は、誰かの仮面をそっと受け止められるようになった。
それだけで、十分だった。
「あなたなら、演じなくていいかも」
そう言ってくれた、その人と一緒に生きていく日々を、
俺は、ずっと大事にしている。
