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はっくなび
「新しく入ってきた無口な子、ちょっと変?」
(登場人物紹介と出会いの導入。職場の空気、嫁子の第一印象、そして小さな“異変”まで)
開発部の片隅、誰も使わない古い窓際の席。そこが俺の定位置だった。パーテーションで区切られた自席から、音もなくコードを書き続ける日々。喋るのは、たまに来る営業のやつと、メールでのやり取りだけ。世間話? ランチの誘い? ない。
そんな俺の前に、「新人が来る」という話が持ち上がった。
「ちょっと変わった子らしいぞ。静かでさ、でも技術は確かなんだと」
最初にそう言ってきたのは後輩の前田だった。普段からSNSに張り付いてる奴で、誰かがカフェで何を食ったかまで把握してるようなやつ。俺とは正反対。
その「変わった子」が来たのは、6月のじめっとした火曜日。
地味な黒髪に大きめの眼鏡。まるで地味女子のテンプレそのものみたいな雰囲気。細い肩、スーツは新品っぽくて、ちょっとだけ丈が合ってない。顔を上げることも少なくて、目が合ってもすぐそらされる。
「新人の○○です、よろしくお願いします……」
「………………」
それだけ言って、あとは一言も発しなかった。上司の島田が「いろいろ教えてやってくれ」と言って俺のところに彼女を配置したのは、完全にミスだったと思う。
(俺だって、人と喋るのは得意じゃないんだぞ……)
でも、なぜか俺は、嫁子のことが少し気になった。
喋らないけど、すごく集中してコードを書いてる。資料の読み込みも速い。
そして──
「……あれ?」
ある日、嫁子が作った仕様書を確認していて、気づいた。
そこに書かれていたクラス名の一部が──
「Kirisame_Marisa」
(霧雨……魔理沙?)
(……おい、東方Projectのキャラ名じゃねーか)
間違いなく、意図して打ち込んだわけじゃない。変数名ミスだ。だけど、これがわかるってことは──
(この子、オタクか?)
気づけば、俺はちょっとだけ胸が騒いでいた。
「ミスですよね」って言ったら──
「……これ、ミスですよね。霧雨、魔理沙って」
俺は、なるべく柔らかくそう伝えた。周りに聞こえないよう、小さな声で。
嫁子は一瞬、肩を震わせたように見えた。
手が止まり、そして顔をゆっくりと、俺のほうに向けてきた。
「……見てたんですね」
その声は、本当に小さくて、でもどこか震えていた。
俺は急いで首を振る。
「いや、べつに責めてるわけじゃ……俺も好きだからさ、ああいうの」
(うわ、何言ってんだ俺)
けど、嫁子の顔がふわっと緩んだ。目の奥に、一瞬だけ光が見えたような気がした。
「……よかった……」
それからだ。嫁子が、俺にだけ少しずつ話しかけてくるようになったのは。
「この変数名、神ですよね……」と、まさかの笑顔
その日から、俺の開発席には変化が訪れた。
「このAPI……あの某ロボアニメの設定に似てません?」
「え、これって、そういうネタ入れてもいいんですか?」
「……あ、今のって、マミさんの最後みたいで……すみません、意味不明ですね……」
嫁子は無表情だけど、好きな話題になると急に喋りだす。そして、マニアックなところまでよく知っている。
(本当に、ただのオタク女子……それだけのはずなのに)
なぜか、隣でその話を聞いていると、俺の心はざわざわして仕方なかった。
「前田が言ってた“神レイヤー”って誰だろうな……この前のイベント、すごかったらしいよ」
ふと、後輩の前田が昼休みにそんなことを呟いた。
「ほら、この人。このポーズと造形、ガチじゃない?」
そのスマホ画面に映っていたのは──
(え……?)
──どう見ても、嫁子だった。
「あの写真、嫁子……だよな?」
(信じられない。でもどう見ても──。SNSに広がる衝撃の正体)
金曜の昼休み。食堂が混むのを避けて、自席でカップ麺をすする。
そんな俺の目の前で、後輩・前田がスマホを覗き込みながらニヤニヤしていた。
「先輩、これ見てくださいよ。マジで神ですから」
彼のスマホの画面には、都内某イベントの写真が並んでいた。ステージ前、光を受けてポーズを決めるレイヤー。衣装は軍服風で、金の装飾と白いマント。表情はクールで、まるで原作から抜け出したかのような完成度。
──だけど、顔をよく見ると……。
(……え、これ……)
「この人、ヤバくないっすか? “夜想のマリア”って名前で活動してるらしいですよ。今、界隈じゃ有名で、RTもバズってるんですよ。なんか、謎多き正体不明の人で……って、あれ? 先輩?」
俺は、その場に固まっていた。手にしていた割り箸がぽとっと落ちる。
思わずスマホを奪い取るように画面を拡大した。
(目元、口の形、鼻筋……間違いない。これ、嫁子だ)
地味で無表情で、声も小さくて、人と目を合わせるのすら苦手なあの嫁子が──
ステージの真ん中で、堂々と目を細めて観客を見下ろしてる。
(別人……じゃないよな……)
その日は仕事が手につかなかった。
「嫁子、あれ……本当にお前なのか?」
何日か迷った末、俺は思い切って本人に訊くことにした。
夕方の事務所。ほとんどの社員が帰ったあとの静かな時間。
パソコンを落としかけていた嫁子が、隣で静かに立ち上がる。
「……嫁子。ちょっと、話が」
彼女はきょとんとした顔で振り返る。
「な、なんですか……?」
「これ……見たんだ」
スマホをそっと差し出す。SNSの投稿、レイヤー“夜想のマリア”。
見覚えのあるその写真。
嫁子は、一瞬で顔を真っ赤に染めた。
「……っ……っ……」
そして──
「……見ました?」
絞り出すようなその声。目は泳ぎ、手が震えていた。
俺は急いでフォローを入れる。
「ごめん、責めてるんじゃない。ただ……すごいと思って」
(なんでこんなに緊張してんだ俺……)
でも、嫁子はぽつりと呟いた。
「会社では、黙ってようと思ってたんです」
「でも……生きてる実感、あれだけなんです」
しばらく黙った後、嫁子が話し出した。
「子どもの頃から、誰かに見られるのが怖くて。声が小さいのも、人と目を合わせないのも……嫌われるのが怖いからで……」
「でも……衣装を着て、カメラの前に立ってると……誰かになれるんです。世界に一人だけの“誰か”に。あの時間だけは、私……生きてるなって」
(胸に何かが突き刺さる)
「……それ、すごいことだと思う。俺にはそんなふうに、なれるものないからさ」
(思ってた以上に、強い人だったんだな……)
嫁子は黙って、俺の顔を見ていた。何か言いたげで、でも言えないまま。
「……言わないでくださいね。他の人には……絶対に」
「言うわけない」
(……俺だけが、知ってるんだ)
「仕事でミスしたあの時、俺は……」
(日常に起きた小さな事件。それが“守りたい”という感情を初めて突きつけてきた)
その週、開発部はちょっとした火の車だった。
取引先に提出した設計資料の一部に、誤解を招く文言があったとかで、営業部からクレームの嵐。責任者の島田部長は「すぐに確認して修正しろ!」と朝から声を荒げていた。
問題のファイルを開いて、仕様を確認して、影響範囲を調べて──
そんな作業を黙々とやっている中で、ふと見えたのは、隣の席で青ざめた顔をしている嫁子の横顔だった。
「……もしかして、あの仕様書、嫁子が?」
(いや、落ち着け。全部の責任をひとりに押しつけるな。ちゃんと確認しろ)
だが、確かにそのセクションの記述は嫁子が担当した部分だった。
彼女は肩を震わせながら、ノートPCの画面を睨んでいた。
目の奥には涙すら滲んでいた。
「……嫁子」
俺は、誰に聞かれるでもないよう小声で呼んだ。
「……すみません、私、たぶん……書き直すべきだったのに……あのまま出してしまって……」
「……正直、影響出てる。でも、嫁子だけのせいじゃない。レビューする俺の責任もある。だから、俺も一緒に謝る」
「えっ……」
「俺が責任者だって、言っとく。今回はそれで通す」
「どうして、そんなこと……」
昼過ぎ、取引先への説明を終えて社内に戻った俺に、嫁子がぽつりと尋ねた。
「……どうして、そんなことしてくれるんですか?」
(その目はまっすぐで、でもどこか怯えていて。拒まれることに慣れた人の目だった)
「……俺、わかる気がするんだ。声を出すのが怖いとか、人の前に出るのが苦手とか……。昔、俺もそうだったから」
「……今もじゃないですか」
「まぁな」
(思わず笑ってしまった。けど、それに合わせて嫁子が、少しだけ笑ったのを見た)
「……でも、そうやって、自分を隠して、守って、それでも何かに夢中になって……そうやって必死に生きてる人って、すげーと思うよ」
嫁子は黙っていた。でも、その目は、少しだけ潤んでいた。
「誰かに、見られて恥ずかしいって……」
その日の夜、俺はなぜか家に帰ってからも胸がざわざわして眠れなかった。
ただ庇っただけだ。仕事上の判断として当然のことをしたつもりだった。
でも、あの時の彼女の目、言葉、揺れる声が、ずっと頭から離れなかった。
そして翌朝。
出社すると、嫁子がいつものようにPCの前にいた。でも、俺の顔を見ると──ほんの少しだけ、照れたように目を逸らした。
「……昨日は、ありがとうございました」
「いや、気にすんな。俺もミスあったし」
「……あの、ちょっと変なこと言っていいですか?」
「なに?」
「……誰かに、見られて恥ずかしいって……初めて、思ったんです。昨日」
(それは、きっと──)
「今まで、誰に見られても何とも思わなかったのに。昨日だけは、恥ずかしかった。……情けないって思われたら、どうしようって……」
「思ってないよ」
「……はい。でも、そう思えたことが……すごく、不思議で……でも、嬉しかったです」
嫁子は、ゆっくりと、俺に向かって小さく微笑んだ。
(あの無表情の彼女が、笑った)
それは──本当に、綺麗な笑顔だった。
「イベント、一緒に来ますか?」
(休日に誘われた。いつもと違う“嫁子”の顔を、見に行く)
ある金曜の夕方。定時が近づき、空調の風が少しだけ涼しく感じた頃、嫁子がぽつりと俺の方を見た。
「……あの」
「ん?」
「日曜日……イベント、あるんです。ビッグサイトで。コミック系の……大きいやつ」
(ああ、例のやつか。前田が「今年の夏は地獄だ」って言ってたあれだな)
「私は、“夜想のマリア”として、出ます。……その、来てみますか?」
その声は、普段よりも少し高くて、どこか緊張していた。
言い終わったあと、自分の膝の上で指をこすり合わせているのが見える。
「……俺が行って、いいの?」
「……嫌だったら、いいんです。無理にとは」
(いや、そうじゃない。行きたい。見たい。ちゃんと、本人の目で)
「行くよ」
俺は、思わず即答していた。
「……っ。そ、そうですか。じゃあ……えっと、チケット、手配しておきます。……あ、あと、熱中症対策、ちゃんとしてきてくださいね。会場、地獄なんで」
「本当に、あの嫁子なのか……」
そして日曜日。
会場に着いたのは午前10時すぎ。駅からビッグサイトまで、汗だくの人波に流されて、ようやくたどり着いた。もう既に気温は30度を超えていた。
「うわ……マジで地獄じゃん……」
とても「休日のイベント」なんて言えるレベルじゃない。戦場。そう呼ぶ方が正しい。
スタッフの指示に従いながら列に並んで、ふらふらしながら企業ブースを抜けて、やっとコスプレエリアにたどり着いた。
そして──
「……っ、あれ……」
目を奪われた。
白い軍服。肩には黒と金のエポレット。美しい金髪のウィッグが、日差しに光っていた。片手にはレプリカの銃、もう片方は腰に軽く添えられていて、まるで本物の軍人のような立ち姿。
そして、その中心にいたのが──嫁子だった。
(……すごい。これが……あの、地味で、声もちっちゃくて、目も合わせなかった嫁子か?)
表情は鋭く、強く、美しく、堂々としていた。
周囲にはカメラを持った男たちが列を作り、次々にシャッターを切っていた。
「マリア様! こっち向いてくださーい!」
「ウィンク、ください!」
嫁子──いや、“夜想のマリア”は、流れるようにポーズを変えながら、冷静に、それでいて妖艶に視線を向けていた。
(……別人だ。まるで、本当に二重人格みたいだ)
だけど、ふとした瞬間に、視線が俺を捉えた。
そして、小さく、ほんの一瞬だけ、微笑んだ。
「見せたかったんです。これが……私の、居場所」
その後、少しだけコスプレ広場の裏手に案内され、日陰のベンチで休憩をとることになった。
汗だくで息も絶え絶えの俺の横で、嫁子は着替えもせず、軍服姿のままペットボトルを飲んでいた。表情は、仕事中の彼女とは全く違っていて、どこか安心したようだった。
「びっくりしましたか?」
「……うん。正直、別人かと思った」
「ふふっ……たまに言われます。でも、これが……本当の私、なんです」
「職場の時と、ぜんぜん違う」
「隠してるだけです。……会社では、出すと浮くし、怖いから。でも、こうして衣装を着て、名前も“マリア”になれば……怖くないんです」
嫁子は、汗を拭きながら続けた。
「誰かに求められて、誰かが写真を撮ってくれて……“ここにいていい”って、思えるんです」
(ああ、この人は、本当にこの場所で生きてるんだな)
「……俺、ちょっと羨ましいかも。そんな“居場所”があるのって」
「……でも、今日は……先輩が来てくれて、私……すごく嬉しかったです。誰かに見られて、認められて、それが……現実の人だったから」
(現実……か)
「……次も、来てくれますか?」
「もちろん」
その返事に、嫁子は──
また、小さく笑った。
「打ち上げで、あの子が俺の手を握った」
(イベント後の打ち上げ。少し酔った彼女が、ふと漏らした“現実”への想い)
イベント終了後、まだ着替えていない嫁子と一緒に、最寄りのファミレスに向かった。コスプレエリアではあれだけ堂々としていたのに、駅までの道すがらはずっと無言で、帽子を目深にかぶってうつむき気味だった。
「……ごめんなさい。なんか、恥ずかしくなってきました」
「いや、全然。むしろ、すごかったよ。……本当に、尊敬した」
そう言った俺に、嫁子はちらっとだけ視線を寄こして、また顔を伏せた。
「……そう言ってもらえるの、嬉しいです。たぶん、すごく」
「マリアじゃない自分は、何もないんです」
ファミレスは、イベント帰りの人たちで賑わっていた。
隣の席からも「撮影列、マジえぐかった」だの「コスプレエリアの地面が溶けてた」だの、そんな会話が聞こえてくる。
俺たちは端の席に座って、ウーロン茶とポテト、唐揚げを少しずつつまみながら、ぽつぽつと会話を続けていた。
「衣装、あんなに重そうなのに……全然バテてなかったよな」
「ふふ……慣れです。何度も倒れかけてますけど」
「カメラ、めっちゃ並んでたな。あれ、どれくらい時間かけてるんだ?」
「1人30秒とか……でも、3時間くらいは……。ただ、あの時間だけは……生きてるって、思えるんです」
嫁子は、グラスを両手で包み込みながら、小さく笑った。
「マリアじゃない私には、何もないんです。地味で、口下手で、人の顔見るのも苦手で……。だけど、カメラ越しなら、堂々とできる」
「それって、すごく強いことだよ」
「強くなんかないです。現実から逃げてるだけですから」
(そう言いながら、ちょっとだけ目が潤んでいた)
「……現実で好きになったの、初めてです」
その後、料理を一通り平らげてから、俺たちは追加でドリンクバーを何度も往復していた。
そして、何度目かのジュースを取りに行って戻った時、嫁子の頬がほんのり赤くなっていた。
「……あれ、飲んでないよな?」
「すみません……隣の席の人が、間違えて注文したカクテル、私にくれて……ちょっとだけ」
「大丈夫か? 顔、真っ赤だぞ」
「……熱中症もあります、多分。今日、ずっと暑かったから」
(まぁ、そうか。けど……なんか、ちょっと可愛いな)
嫁子は、テーブルの上に手を出していた。ふと、その手が、俺の手に触れた。
「……!」
慌てて引こうとした時──
嫁子が、そっと指を絡めてきた。
「……あの」
「……?」
「私……“現実で好きになった人”、今までいなかったんです。全部、画面の中か、物語の中で……。でも、今は……ちょっとだけ、違うかもしれません」
(息が止まるかと思った)
「俺……で、いいの?」
「……うん。現実って、こんなに怖いのに……。でも、先輩なら、怖くないって……そう思ってしまったんです」
(言葉が、出なかった)
ただ、俺は──
その手を、そっと握り返した。
「会社では地味、家では女神」
その日、俺たちは別々に帰った。
でも、駅の改札前で別れる時、嫁子が小さな声で言った。
「……明日からも、変わらずでいてくださいね。職場では、いつも通りで」
「もちろん。……俺も、今まで通り、黙ってるから」
「……ありがとうございます。私のこと、知ってくれてるの、先輩だけでいいです」
帰りの電車。人混みに揺られながら、俺はずっと、その手の感触を思い出していた。
「誰にも言えないけど、俺たち付き合ってます」
(職場では何も変わらず。けれど、目が合うたびに心が熱くなる──そんな毎日)
月曜日。冷房の効きすぎたオフィスに、いつものように「カタカタ…」というキーボード音だけが響く。
俺は席に着くなり、無言でPCを立ち上げ、コーヒーを一口。
(……変わらない、いつも通りの朝。だけど──)
視線を感じて横を見れば、嫁子がこちらをちらりと見て、すぐに画面に目を戻した。
その頬には、ほんのりと朱が差していた。
「……おはようございます」
「お、おう。……おはよう」
(なんだこの距離感……。昨日、あんな話したばかりなのに)
たった一晩挟んだだけで、嫁子との距離が、ほんの数センチだけ縮んでいるように感じた。いや、物理的な距離ではない。心の奥に、なにか繋がっているような、そんな不思議な感覚だった。
けれど──
それを誰かに見られるわけにはいかない。
「何か……あった?」
昼休み。
いつものように俺は自席で弁当を広げ、前田は相変わらずスマホでSNSをスクロールしていた。
「先輩、なんか……雰囲気違いますね」
「え?」
「いや、なんか……目の奥が光ってるっていうか、リア充臭っていうか……」
(何その雑な分析……)
「気のせいだろ」
「そうですか? ……でも、なんか最近、あの新人さんも柔らかくなった気がします。ほら、あの無口な……あれ? 名前なんでしたっけ」
「知らねぇよ、そんなもん」
「冷たっ!」
(……危なかった。ニブいのに、無駄に勘がいいんだよな、こいつ)
ちらっと視線をやると、嫁子もまた自席でおにぎりをかじっていた。
目が合った瞬間、そっと目を細めて──小さく、笑った。
(……今だけは、俺だけの秘密)
「付き合ってます、なんて言えるわけない」
それから数日。俺たちは何事もなかったように、業務をこなしていた。
だけど、些細なところで、それは現れていた。
ファイルのやりとりが、以前よりも少しだけ丁寧になったこと。
資料の引き渡し時に、手が触れてもすぐに離さないこと。
誰もいない給湯室で、たった5秒だけ目を合わせる瞬間。
言葉にはしない。しないけれど、それでも「付き合っている」という意識は、お互いに強くあった。
(この関係、いつまで隠し通せるかな)
不意にそんなことが頭をよぎる。でも──
(まだ、今は……この静けさの中に、浸っていたい)
嫁子もまた、たぶん同じように考えていた。
「俺たち、こういうの、得意じゃないから」
ある日、嫁子がこっそりとメモ用紙を差し出してきた。
そこには、小さな字でこう書かれていた。
『今度、またイベントがあるんです。よかったら、来ませんか? 今度は、もっと“私”を見てほしいです。』
(……“私”か)
その言葉に、何か込み上げるものを感じた。
「行くよ」と返すと、彼女は顔を真っ赤にして、そっとペンで“ありがとうございます”と書いて返してきた。
まるで学生のラブレターみたいだった。
だけど、俺はそれがたまらなく嬉しかった。
「もう少しだけ、こうしていたい」
俺たちは、会社の中では何も変わらず。
ただ、外の世界で、休日だけ──特別な時間を共有していた。
嫁子の新作コスプレは、前よりも洗練されていて、完成度も上がっていた。
観客の数も、撮影の列も長くなっていた。
でも、その中でたった一人だけ、彼女がまっすぐ目を合わせて微笑んでくれる相手──それが俺だった。
「……いつか、会社にも言えたらいいですね」
そう言った嫁子に、俺は「うん」とだけ返した。
だけど内心では、まだもう少しだけ、この“秘密”のぬくもりに浸っていたいと──
心の奥で、願っていた。
「ついにバレた、でも──」
(静かに続けていた関係。それが、ある日を境に“隠し通せなくなった”──)
事の発端は、たった一枚の写真だった。
「先輩先輩、これヤバくないっすか!? “夜想のマリア”、今度は完全に仕上げてきましたよ!」
昼休み、前田が騒ぎながらスマホを持って俺のデスクに駆け寄ってきた。
俺は内心(うわ……)と青ざめながら、動じないふりで画面を覗いた。
「この背景、どこだと思います? これ、〇〇公園の裏手っすよ! 俺、あそこよく行くからわかるんすよ!」
(ちょっと待て、それ……この前、俺が撮ったやつだよな……)
しかも──
「これ見てくださいよ、反射してる影。これ、男、映ってません?」
「………………」
前田の目がギラギラしていた。
「先輩、もしかして……」
「いや、違う」
即答した。でも、顔が引きつってたのは、自分でもわかった。
「……私、もう隠しきれないかも」
その日の夕方。定時が近づいて、部署内が静かになっていた。
俺の隣の席から、そっとメモ用紙が滑り込んできた。
『話、いいですか? 屋上で。』
俺は頷いて、そのメモをそっと胸ポケットにしまった。
冷たい風が吹き抜ける屋上。嫁子は制服の上着をぎゅっと掴みながら、俺の前に立っていた。
「……やっぱり、バレたみたいです」
「前田に?」
「はい。SNSも見られてたし、写真の反射で……それに、私があなたと並んで歩いてたの、見たって人も……」
(どうしてこんなに胸が苦しいんだ)
「もう、会社いられないかもしれません」
「バカ言うな」
俺は、思わず口調を強めてしまった。
「……お前がどんなふうに趣味を持ってようと、誰と付き合ってようと、それで仕事の成果が変わるわけじゃない。お前のコードが優秀なことは、みんなわかってる」
「……でも、私、笑われるの怖いんです。“地味な子がコスプレしてた”って、バカにされるのが」
「そんな奴、バカにさせておけばいい」
「……!」
俺は、ゆっくり言葉を継いだ。
「俺は、お前のこと、ちゃんと知ってる。コスプレしてる時も、地味に見える時も、どっちも“嫁子”だって」
「……やめてください。そんな言い方、ずるいです」
嫁子は目元を手で隠した。けれど、その頬には──涙が光っていた。
「守りたいって、本気で思った」
翌朝、社内の空気が少しだけざわついていた。
原因は、前田の口から広まった“噂”だった。
「開発の嫁子さんって、コスプレイヤーらしいっすよ。めっちゃ有名なやつ。マジ神レベル」
「へー、地味だから気づかなかった。けど、ああいう人ほど本気なのかもなー」
意外だったのは──誰も、笑わなかったこと。
「てか、コード書けて見た目も変幻自在とか、最強じゃん」「俺もレイヤーやろうかな」
そんな声すら上がっていた。
(……これが、今の時代なのか?)
少し前の自分だったら、こういう空気の変化に気づくことすらなかった。
でも今は──
「……お前のこと、守りたいって思ったの、人生で初めてだった」
昼休み。俺は給湯室で、嫁子にそう言った。
「……今まで誰かに“守られたい”と思ったことしか、なかったんですけど……先輩には、逆に甘えてほしいって、思ってしまうんです。不思議ですね」
「俺は、ずっと甘えっぱなしだったよ。お前に」
「……うそ」
「ほんと」
そう言い合って、ふたりで小さく笑った。
もう、“バレるかも”という不安はなかった。
「プロポーズのきっかけは、コスプレでした」
(イベントでのたった一枚の写真──それが、ふたりの未来を決める引き金になった)
秋の終わり、風が冷たくなってきた頃。
俺はまた、イベント会場の片隅に立っていた。
いつもより少し早めに現地入りした理由は、今日が特別な撮影日だったからだ。
「今回は……和装のキャラなんです」
嫁子はそう言って、やや照れくさそうに笑っていた。
「袴姿って、似合うかわからないんですけど……」
(似合うよ。絶対に)
そう言いたかったけど、俺はうまく言葉にできず、ただ頷いた。
それだけで、嫁子は安心したように微笑んだ。
「シャッターの先に、未来が写ってた」
撮影が始まった。
紅葉の残る木立の下、夕暮れの光が差し込む時間。
和装の衣装に身を包んだ嫁子は、誰よりも自然にその場に溶け込んでいた。
そのとき、俺の中で何かが決定的に“変わった”。
(この人と、ずっと一緒にいたい)
(趣味も、日常も、何もかも、分けずに)
一枚のシャッター音が響いた瞬間だった。
その写真には、夕日に照らされた嫁子が笑っている。
俺のことをまっすぐ見つめながら、優しく、柔らかく──
どこにも力みのない、素のままの笑顔だった。
(ああ……この瞬間が、永遠だったら)
その夜、嫁子と一緒に帰る道すがら。
俺は意を決して、言葉を口にした。
「……俺さ」
「……はい」
「ずっと、思ってた。お前が笑うたびに、“この笑顔が、自分だけのものだったら”って」
「……はい」
「もし、よかったら……結婚、しませんか」
一瞬、風が吹いた。
嫁子は目をぱちぱちとさせて──それから、唇を小さく震わせた。
「……っ、そんな、急に……」
「ごめん。でも、もう、止められないんだ。これ以上、“彼氏”って言葉で片付けたくなかった」
嫁子は、ぎゅっと手を握ってきた。
「……私、現実でこんなに嬉しいって思えたの、初めてです」
そして──
「はい。よろしくお願いします」
「会社では地味、家では女神」
それからというもの、俺たちは会社では相変わらずだった。
ただ、ひとつ違ったのは──左手薬指の小さな指輪。
誰も何も言わなかった。けど、何人かは気づいていたと思う。
それでも誰も触れなかったのは、たぶん──
「お前ら、なんだかんだで一番幸せそうだよな」
と、後輩の前田がふと呟いた一言が、すべてを物語っていた。
ある日、ふたりでスーパーに買い物に行った帰り道。
嫁子がぽつりと呟いた。
「職場での私は、たぶん、これからも地味なままです。変わりません」
「うん、わかってる」
「でも、家に帰ったら……私、“女神”になれてますか?」
「なれてるよ。俺にとっては、最初からずっと」
嫁子は、照れたように笑って、俺の袖をくいっと引っ張った。
「じゃあ、これからも……好きなキャラに化けるから、よろしくお願いしますね」
「もちろん。俺はお前が何に化けても、ずっと“中の人”が好きだから」
「……バカ」
その“バカ”が、俺の人生で一番、甘く響いた。
「俺と嫁子の、日常オタク夫婦ライフ」
(“地味な社員”と“カリスマレイヤー”が夫婦になったその後──静かで幸せな、ふたりの毎日)
結婚してからも、俺たちの生活は、ほとんど何も変わらなかった。
朝は無言のまま弁当を詰め合い、同じ電車に乗って、同じフロアで働いて──
昼休みも別々に過ごし、業務中は相変わらず「はい」「了解しました」「確認します」の短文だけ。
「職場では関係を出さない」
それが、嫁子の強い希望だった。
「だって……なんか、恥ずかしいです。みんなの前で、“夫婦”って感じ出すの」
「まぁ、俺も得意じゃないけどな。お互い地味だし」
「……でも、家では違いますよ?」
「へいへい」
(……正直、それがめちゃくちゃ嬉しい)
「家ではオタク全開ですけど、何か?」
家に帰れば、ふたりはもう隠さない。
居間には同人誌が積まれ、壁には公式イラストの複製サインが並び、リビングには撮影用のLEDライトと布背景まである。
夕飯を食べ終えると、嫁子は突然言い出す。
「ねえ、あのポーズ撮ってみてもいいですか? ほら、例の魔法少女の、あの腰の角度がきついやつ」
「はいはい、椅子持ってくるからな」
「カメラの設定もお願いしていいですか? F値下げて、ちょっとだけフレア残して」
(なんだこの夫婦……)
でも俺は、そんな時間が心から好きだった。
カメラのファインダー越しに、嫁子の“好き”がきらきらと映っていて。
それを、自分の手で切り取って、残してやれることが誇らしかった。
「静かで、うるさい、ふたりだけの生活」
たまに、ふたりでソファに座って、ただ無言でアニメを流してるだけの時間もある。
嫁子がひざ掛けにくるまりながら、俺の肩にちょこんと頭を乗せてくる。
「……ねえ」
「ん?」
「私、今が一番幸せかもしれません」
「そうか」
「でも、あなたがいなかったら……たぶん、私は、ずっとマリアのままだったと思います」
「マリアでもいいと思うけどな。かっこいいし、人気あるし」
「違うの。マリアは“誰かの理想”になれるけど、“私自身”じゃないから……」
「……」
「“私”として、誰かに愛されるなんて、夢のまた夢だったんです。だから、あなたがいてくれて、ほんとによかったです」
「こっちこそ」
ふたりとも地味で、口下手で、空気も読めないことが多いけど──
その分だけ、“素直”に生きていけた。
「この関係が、俺たちの最終形態」
休日、買い物帰りのスーパーの袋を両手に持って並んで歩いてる時、ふと思った。
(これが、俺たちの完成形なんだな)
SNSに映えるような派手さも、豪華なイベントもいらない。
ただ、嫁子が笑ってくれるなら、それでいい。
地味で、静かで、なんでもない日々。
でもその中には、たくさんの“好き”と“安心”が詰まっていた。
「なあ」
「ん?」
「来年の冬コミ、何やるか決めてる?」
「ふふ、もちろん。あなたと合わせでやりたいキャラ、もう決めてますよ?」
「そうか。じゃあ、俺も筋トレ始めるか……」
「……え、それいるんですか?」
「たぶんいる」
そう言って、ふたりで笑った。
静かで目立たない“地味な社員”と、誰もが憧れる“カリスマレイヤー”の嫁。
最初は他人同士、同じ空間で呼吸をしていただけの存在だったのに──
少しずつ、ゆっくり、丁寧に、心を通わせていって、いまでは同じ未来を歩いている。
この物語に、劇的な奇跡はなかったかもしれない。
けれど、それでも確かに、ふたりの人生は変わった。
会社では地味、家では女神。
そして今も、ふたりでオタクやってます。

