社内では“ザ・上司”だが、池袋ではアイドル|2ちゃん馴れ初め風エピソードまとめ【陰キャ上司と出会い】

社内では“ザ・上司”だが、池袋ではアイドル|2ちゃん馴れ初め風エピソードまとめ【陰キャ上司と出会い】

この馴れ初め話は著作権フリーで改変も自由・YouTubeの素材やSNSでご使用いただいても問題はありません。ただ以下のリンクを張っていただけたら幸いです。
はっくなび

「怒られたのに、なぜか気になる」

(文系総合職・入社6年目・人付き合い苦手・黒縁眼鏡)

「…この資料、前提条件がズレています。数字だけ揃えても、説得力はありません」

その一言で、俺の週明けは始まった。

会議室の空気が一瞬で変わる。

静まり返る中、ホワイトボードにプロジェクターで映された俺のパワポ。
そこに容赦なく入る、総務部長の指摘。

いつも通りの、無表情で、淡々とした声だった。

彼女——いや、嫁子は、総務部のトップでありながら、社内では別名「ザ・上司」と呼ばれている。

●感情が読めない
●声を荒げないのに怖い
●何を考えているかわからない

その全部にチェックが入る、そんな人だ。

俺はと言えば、その日も黒縁眼鏡をくいっと上げながら、なにも言えず「すみません」とだけ呟いた。

(またやっちまった……でも、なんで、あんなにちゃんと見てるんだ)

指摘は的確だった。正直、悔しいくらい。
ただ……その奥に、なにか別のものを感じた。

「あなたの、報告書のここ。言い回しが回りくどい。もっと結論から入って」

「……はい」

そのときふと思った。
この人、本当はどういう人なんだろう、と。

「清水さんのひとことが刺さる」

会議後、席に戻る途中で声をかけられた。

「また嫁子さんにやられてたね」

ニヤニヤしながら言ってきたのは、同じ総務部の清水さん。俺より年下だけど、社内の空気を読むのが上手い。

「でも、あれって本気で嫌いな人には言わないよ? ちゃんと見てる証拠だし」

「…そうなんですかね」

「うん。むしろ、あんたが気づいてないのがもどかしいよ、こっちから見てると」

何が言いたいのか、よくわからない。
でも、妙に引っかかる。

(まさか、あれが“期待”ってことなのか……?)

俺は「上司とは適度に距離を置く」が信条だった。
深入りしない、波風立てない。
ただそれだけ。

なのに、その日から、嫁子の一挙手一投足がやけに気になるようになった。

ランチ時に自販機で買っていたお茶。
会議資料を手でパンと揃える癖。
笑っているのを、社内では一度も見たことがないこと。

(この人、ほんとにロボットみたいだな……)

そう思ったとき、不意に脳裏に浮かんだのは、もしこの人が笑ったらどんな顔をするんだろう、ということだった。

「池袋の交差点で、ありえない再会」

週末。

俺は、趣味で参加している創作系イベントのスタッフ手伝いで池袋にいた。
とはいえ裏方。目立つことはない。
会場裏の搬入口で、出展者の列をさばいていたとき——

「すみません、このブース、どちらに並べば…」

その声に、手が止まった。

「……え」

思わず振り向くと、そこにいたのは——

(いや、待って、似てるだけだよな…!?)

どう見ても、嫁子だった。

ただし、社内で見る“総務部長”の彼女ではない。

鮮やかな衣装。金髪ウィッグ。鮮やかな笑顔。

明らかに“誰かのコスプレ”。
その彼女が、周囲のファンと笑顔で写真を撮っていた。

(なんで、こんなとこに…しかも、あんな顔するんだ…)

言葉を失う、というのはこういうことか。
裏方の作業手袋を外しもせず、俺は立ち尽くしていた。

「話しかけてみたら、まさかの言葉が」

数分後、勇気を振り絞って話しかけた。

「……あの」

「あ、えっと……え?」

明らかに、彼女も驚いていた。

「あ……見られてしまいましたか」

(“しまいました”? 自覚あるのか…)

「あの、職場のことは……」

「もちろん言いません。俺、黙ってます」

ほっとしたように、小さく笑う彼女。

(今の、笑顔……たぶん、俺しか見たことない)

「ここでは、自分でいられるんです。好きなものを好きって言えるし、好きな格好もできる。会社では、なかなか、そういうの難しいから」

その言葉が、不思議と胸に残った。

「……なんか、いいですね」

「はい?」

「本気でやってることって、かっこいいなって思いました。俺、そういうの……何もなくて」

嫁子は一瞬だけ驚いた顔をしたあと、静かに笑った。

「もしよければ、次のイベント……見に来ますか?」

(まさかそんな誘いがくるとは思わなかった)

「……行きます」

自然と、そう答えていた。

「LINEって、こんなに緊張するもんだったっけ」

その日の夜。俺のスマホが震えた。

画面を開くと、1件の通知。
「LINEで友だち追加されました」

(まさか、あの人から…?)

恐る恐るタップすると、やっぱりそうだった。

名前は本名じゃない。
アイコンは、昼間見たコスプレの姿。
笑顔でウィンクしてる。

そのギャップに、なんかもう頭がバグりそうになる。

「今日はびっくりさせてしまってすみません。言っていたイベントの詳細、よかったら送りますね」

きっちりと丁寧。
でも、社内で話すときのそれとは、なにか違う。
…少し、やわらかい。

俺も返信を打ちながら、気づいていた。

(あ、俺、ニヤけてるな)

家に帰ってきて、風呂も入って、寝る前の時間。
こんなふうに、誰かとLINEで何通もやり取りするなんて、何年ぶりだろう。

彼女のメッセージには、ほんの少しだけ顔文字がついていたりする。
(この人、こんな感じで誰かとLINEしてるんだ…)

それだけで、少し嬉しかった。

「社内では、なにもなかったように」

翌週。月曜。

会社のエントランスで、偶然彼女とすれ違った。

黒のスーツ。髪はきっちり結び。
無表情。冷静。いつもの“総務部長”。

「おはようございます」

「……おはようございます」

それだけで、すっと行ってしまう。

(……そりゃそうか)

この空気、この距離感。
社内では、あくまで“上司と部下”。

俺も、職場で変に意識するのはよそうと思った。

でも、昼休みにスマホを開くと——

「資料、よくまとめてましたね。プレゼン、頑張ってください」

LINEが来ていた。
誰にも見られないところでだけ、彼女は“あの顔”になる。

(これ、変な言い方だけど……ちょっと嬉しい)

彼女との距離感が、社内とLINEとでまるで別物で、
それが逆に心地よかった。

「イベントでの再会、そしてはじめての“名前”」

週末、再び池袋。

今回は、客として行った。
会場の喧騒、まばゆい照明、推しキャラのPOP。
その中で、嫁子のブースはひときわ目立っていた。

人が集まっていた。
サインを求める声。写真を撮るファン。

その中心に、彼女はいた。

キラキラした目。
堂々とした仕草。
何より、笑顔。

(社内でのあの人と、ほんとに同一人物か…?)

イベントがひと段落した頃、ブース裏で声をかけた。

「おつかれさまです」

「来てくださって、ありがとうございます」

コス衣装のまま、彼女は少し照れたように笑った。

「……変な感じしますか? この姿」

「いいえ。似合ってます。というか、正直……かっこいいです」

彼女は、ふっと目を細めた。

「ここでは、自分のこと、名前で呼ばれてるんです。下の名前で」

「……」

「でも、職場では“総務部長”とか“○○様”ばっかりで」

彼女が、ぽつりと呟いた。

「……たまには、あなたからも名前で呼ばれてみたいなって」

(言葉に詰まった。けど、心臓が跳ねた)

「……じゃあ、俺も名前で呼んでいいですか」

「はい。LINEでは、あなたのこと、下の名前で呼んでますし」

そのとき、ほんの少しだけ、彼女の頬が赤く染まった気がした。

(この人、こんな顔するんだ)

「距離の変化に、気づいた人」

週明け、職場にて。

俺と嫁子のあいだに、決してわかりやすい変化があったわけじゃない。

けど、人って些細な変化を見逃さない。

清水さんが、じっとこっちを見てきた。

「……ねぇ、最近ふたり、仲良くない?」

「な、なんで?」

「いやいや。見ればわかるよ。空気感が」

「別に……特に変わってないと思います」

「うそー。あたしの勘は鋭いんだよ」

そう言いながら、清水さんはコーヒーをすする。

「でも、根掘り葉掘り聞いたりはしないから。大丈夫」

(この人、見抜いてるのか……)

噂が立ったらどうしよう、なんて思ったけど、
それ以上のことは何も言ってこなかった。

ただ、週の後半、別部署の社員にこう言われた。

「最近、嫁子さん、ちょっとやわらかくなりましたよね」

(……ほんとに?)

もしかしたら、俺だけじゃなく、彼女にもなにかが変わってるのかもしれない。

彼女の中にも、職場とイベント、2つの自分がある。
それが、少しずつ混ざり合っていってる。

そして、俺も——

(あの人の笑顔を、もっと見たいって思ってる)

「イベントの帰り道、はじめての“素”」

イベントが終わった日の夜。

もうすっかり日が落ちた池袋の裏通りを、彼女とふたりで歩いていた。
人混みを避け、喧騒の少ない脇道を選んで。

「ふぅ、さすがに今日は足が痛いです」

コスプレ衣装のまま、でもジャケットを羽織って、スニーカーに履き替えてる彼女。
それでも、まだその姿は“職場の彼女”とは別の存在だった。

「ずっと立ちっぱなしでしたもんね」

「はい。でも、あの空間が好きなんです。……会社では、なかなか自分を出せないから」

その言葉には、ふだんの彼女の姿が透けて見えた。

「だから、この場所は私にとって逃げ場であり、戦う場所でもあります」

「戦う、ですか?」

「はい。好きなものを好きって言い切るって、結構勇気がいるんですよ」

(たしかに……)

会社では理詰めの完璧主義者。
でもここでは、好きなもののために笑って、話して、時には疲れて。

(あの人、ちゃんと“人間”なんだな)

「……俺も、そんな場所がほしいです」

「じゃあ、ここに来てください。私、案内します」

ふと、彼女が俺のほうを見た。

「次は一緒に出ましょうか? ペアコス、ってやつ」

「……え、それ俺が?」

「似合いそうなの、ありますよ」

(まじか……いや、でも、ちょっとやってみたいかも)

「じゃあ、そのときは……俺の名前、呼んでください」

「え?」

「俺も、あなたを名前で呼んでいいですか?」

「……はい」

そのとき、はっきり見えた。
彼女の顔が、恥ずかしそうに笑って、ほんの少しだけ、目をそらした。

その笑顔に、俺の胸の奥が、ぐっとあったかくなるのを感じた。

「清水さんの勘は、やっぱり鋭い」

翌週。社内。

いつも通りの月曜。
会議の準備でホールに向かおうとしていたら——

「ねぇ」

いきなり清水さんに呼び止められた。

「昨日、池袋いた?」

「……えっ」

「やっぱり。嫁子さんも、月曜なのに声が少し枯れててさ。いつも絶対そんなことないのに」

(な、なんでそんな観察力あるんだこの人)

「まさかとは思ったけど、あんたといたのかなって思って」

「……それ、誰かに言いますか」

「言わないよ。ただ、そうだったらいいなって思っただけ」

「……なんでですか?」

「嫁子さんが笑ってるとこ、見たことないから」

清水さんが言ったその一言に、俺はちょっとだけ息をのんだ。

「嫁子さんって、すごい人だと思う。でも、孤立してる感じもあったから」

「……」

「あなたといるとき、少しでも楽なら、そっちのほうがいいじゃん」

(…この人、たぶん全部わかってるんだな)

「応援してるよ。でも、気をつけなよ。社内って、案外そういうのに敏感だから」

「……ありがとうございます」

そのとき、ふと社内の空気が変わった気がした。
別に何か起きたわけじゃないけど、自分のなかに一本、芯ができたような。

俺、あの人をちゃんと守れるんだろうか。
……いや、守りたいと思ってる。

「距離の“すきま”に気づく日」

イベントのあと、LINEのやり取りは増えていた。

「今日の会議、うまく進められていましたね」
「例のパン屋さん、行ってみました。おすすめ通りでした!」
「……資料、ちょっと修正してもいいですか?」

相変わらず敬語だけど、そこには小さな気遣いや、笑いのニュアンスが混ざっていた。

職場では相変わらず名前は呼ばれない。
でも、目が合ったときのほんの一瞬、そこに“合図”があるようになった。

俺たちだけが知ってる、空気のやり取り。

それが、なんだかくすぐったい。

(…ただ、気づかれてないか、ちょっと不安にもなる)

ふと、俺の席の後ろで誰かが話していた。

「嫁子さん、最近ちょっと変わったよね」
「なんかさ、人間っぽくなったっていうか……」

(……それ、俺のせいか?)

でもそれなら、それでもいい。
だって、あの人が笑ってくれるなら。

それに、俺自身も変わってた。

毎日会社に来るのが、ちょっとだけ楽しみになってたから。

「見られてしまった、あの瞬間」

週末。
ふたりで出る約束をしていた同人イベントの当日。
俺は、彼女が指定してくれた衣装を着て——と言っても、派手すぎず、彼女の衣装に合わせた控えめなシャツとベスト——ブースの裏で待機していた。

「似合ってますよ」

その声に振り向くと、嫁子がいた。
ウィッグをつけて、鮮やかな衣装を纏って。
でも、俺を見た瞬間だけ、その頬が少し赤く染まった。

「……そっちこそ」

「初めてですよ、こんなにドキドキするの」

(俺だってだいぶ心臓が暴れてる)

ふたりでブースに立ち、簡単な頒布と案内をする。
俺は元々オタク気質だし、場の雰囲気には慣れていた。

だからこそ、彼女が自然に笑っている姿に驚いた。

「すみません、このポストカード、もう残ってませんか?」
「こちらですね、最後の1枚です。ありがとうございます!」

(え、声がこんなに柔らかい……)

そのときだった。

「すみませーん、裏方でちょっと搬入の確認を……あれ、あんた?」

聞き覚えのある声。

イベントスタッフの一人が、ふいに裏からやってきて、俺に声をかけた。

「あれ、うちの○○課の……まじか。おたくもここ来てたの?」

(終わった……)

横にいる嫁子が、一瞬固まった。
それでもすぐに表情を戻して、何事もなかったように対応を続けた。

けど俺の中では、冷や汗が止まらなかった。

「職場に広がる“さざ波”」

週明け。
明らかに、社内の空気が違った。

すれ違う人が、ちらっとこちらを見る。
いつも話さない隣の部署の男性が、なぜか俺にコーヒーを差し入れてきた。

「週末、お疲れ様っす」

(なんだその言い方は)

清水さんに至っては、完全に目で“問い詰め”てきた。

「ねえ……やっぱりあの人、嫁子さんだよね?」

「……ごめんなさい」

「謝ることじゃないけど……うわー、やっぱりバレたか」

その日の昼休み。
社内チャットでは何気ない顔をしながら、LINEにはメッセージが飛んできていた。

「誰かに何か言われましたか?」
「いえ、大丈夫です。むしろ俺の方が……」
「私も、覚悟はしてました」

その言葉が、俺には重く響いた。

(彼女は、自分が何かを背負ってるとわかってる。けど、逃げない)

「……俺も、逃げたくないです」
「……ありがとう」

その一言に、全部が詰まっていた。

「嫁子の“告白”と赤くなった顔」

その週の金曜日。
ふとしたきっかけで、清水さんと残業が一緒になった。

「ねえ」

「はい」

「もしあたしが、あんたらのこと誰かに聞かれても、なにも言わないって思ってくれる?」

「……はい、思ってます」

「よかった」

清水さんは、珍しく真面目な顔をして言った。

「嫁子さんさ、入社当初からずっと『弱みを見せると潰される』って思ってた人なの。昔、結構ひどい言い方されたことあるらしくて」

「……」

「でも今は、そんなあの人が、少し変わった。人に頼るようになった。あんたの前だけだけど」

俺は、言葉に詰まった。

「だから、応援してるんだよ。珍しくさ」

そのあと、清水さんはなにごともなかったようにデスクに戻っていった。

(……あの人、ほんとに全部見てたんだな)

次の日。
彼女と待ち合わせて、少しだけ遠出をした。

混雑を避けて、人気のない大きな公園。
並んで座るベンチ。
どこまでも静かな、風の音。

「ねえ、私のこと、どう思ってますか?」

急に言われて、言葉が出なかった。

「職場でもイベントでも、私……どっちも“演じてる”んです。完璧な上司、元気なアイドル」

「でも、あなたの前では……どちらでもない、素の私でいたいと思ってる」

(……)

「こんな私でも、そばにいてくれますか?」

俺は、彼女の手をそっと握った。

「全部ひっくるめて、俺はあなたがいいです」

彼女が、はじめて俺の名前を呼んだ。

小さな声で。
少し震えて。
でも、確かに。

「ありがとう……」

そのとき見せた彼女の顔は、赤くて、恥ずかしそうで、でも嬉しそうで。

今まで見たどんなコスプレより、どんな笑顔よりも、綺麗だった。

「“あなた”ができた生活」

それからの日々は、思いがけないほど穏やかだった。

会社ではいつも通り。
俺も嫁子も、変わらず丁寧に、言葉を交わす。
第三者から見れば、あくまで“上司と部下”。

けれど、昼休みのちょっとしたタイミングで、
俺のスマホがふるえる。

「今日の資料、いい構成でした」
「コーヒー、砂糖なしが合うかもですね」

まるで、ひとつのメモ帳をふたりで共有してるみたいだった。

LINEでは、互いに名前で呼び合っていた。
それだけのことが、毎日の気持ちを変えた。

俺は、いつのまにか嫁子の“感情”に気づけるようになっていた。

ほんの一秒だけ遅れた返事。
ファイルの綴じ方がいつもと違う日。
一言の語尾がちょっとだけ強いとき。

(なにか、あったのかな)

その“ささい”に、俺の心はちゃんと反応するようになっていた。
だから、自然と気づくようになった。
彼女が、「ひとりで無理してる」瞬間を。

「雨の中、ひとりで立ってた背中」

ある日の退勤後。
外は土砂降りだった。

俺は少し遅れて会社を出て、
駅に向かう道で、ふと見覚えのある姿を見た。

コンビニの明かりに照らされて、
傘もささずに、駅前のガード下に立ってる人影。

「……嫁子さん?」

声をかけると、彼女ははっとして振り返った。

「あっ……すみません、ちょっと考え事してて」

スーツの肩はすっかり濡れていた。

「風邪ひきますよ。駅まで一緒に行きませんか」

「……ありがとうございます」

俺が差し出した傘の中に、彼女がすっと入ってくる。

静かだった。

雨音と、ふたり分の足音。

そのなかで、彼女がぽつりと呟いた。

「私、何をしたいんでしょうね」

「え……?」

「完璧な上司をやって、笑顔のアイドルやって……でも、たまにわからなくなるんです。本当の自分って、どこにいるんだろうって」

俺は、傘を持つ手をぎゅっと強くした。

「それでも、あなたと話してると、全部がひとつになるような気がするんです」

(俺も……そう思ってる)

「嫁子さんは、いつも誰かのために自分を切り替えてる。けど、俺には、ちゃんと見えてますよ」

「……嬉しいです」

そのとき、俺はふと思った。

この人と一緒にいたい。
もっと、ちゃんと関係を名前で呼びたい。
“上司”とか“部下”とかじゃなくて。

「あの夜の、LINEじゃ伝えられないこと」

その夜、家に帰ってからも、ずっと考えていた。

自分の気持ち。
相手の表情。
これまでのやりとり。

(俺、もう決めてるじゃん)

スマホを手に取って、
LINEのトーク画面を開く。

けど、指が止まった。

「ちゃんと○○様と呼べなくて」
この言葉を伝えたくて、でも、それだけじゃ足りなくて。

(言葉にするなら、会って直接、だ)

俺は文字を打つのをやめた。

代わりに、週末の予定を聞いた。

「もし時間があれば、池袋のあの公園で少しだけ話せませんか」

すぐに返事が来た。

「はい。行きます」

その「行きます」に、ドキリとした。
きっと彼女も、なにかを察してる。

だからこそ、もう逃げたくなかった。

「ふたりきり、あの場所で」

週末。

あの日と同じ公園。
午後の光が少しずつ夕方に傾きはじめた頃。

彼女はいつも通り、時間きっかりに現れた。

今日はコスプレもスーツもない。
ゆったりした白いカーディガンに、淡いグレーのスカート。
髪もウィッグじゃなく、地毛をゆるくまとめていた。

(……こんな服も着るんだ)

ふたりで、ベンチに並んで座る。

「この間は、ありがとう」

「いえ、俺こそ……あの、ちょっと話したいことがあって」

「はい」

息を整えて、言葉を出す。

「俺……ちゃんと“あなたの名前”で呼びたくなって」

彼女の目が、一瞬だけ大きくなった。

「会社でも、イベントでもなくて……ちゃんとあなた個人と向き合いたいと思ったんです」

「……」

「だから、もし……俺と、一緒に“本気”でいてくれるなら……」

そこで言葉が詰まる。
心臓がうるさい。

でも、彼女はそっと口を開いた。

「私も、同じこと思ってました」

「……え?」

「名前で呼ばれるの、ずっと憧れてたんです。仕事でもなく、ファンでもなく、“誰か”に、そう呼ばれるのが」

彼女が、俺の名前を口にした。

震えていた。

でも、確かだった。

その声で名前を呼ばれて、俺はもう、戻れないと思った。

「名前で呼ぶ関係になった日」

「……じゃあ、呼びますね」

彼女が、そっと俺の名前を呼ぶ。

それは、これまで聞いてきたどんな言葉よりも、
柔らかくて、あたたかかった。

たったそれだけのやりとりが、
ふたりの関係を、はっきりと変えた気がした。

「……えっと、あの、私の名前も……」

「うん。呼ぶよ」

そのとき俺が彼女の名前を口にすると、
彼女はすっと目を伏せた。

「……すごく変な感じ。でも、嬉しい」

公園のベンチに座るふたり。
周囲の音がすべて遠ざかって、
まるでこの場所だけが時間から外れているみたいだった。

「ねぇ」

彼女が小さな声で言った。

「こういうのって、どこからが“付き合ってる”って言うんでしょうね」

その問いに、少しだけ笑ってしまった。

「今から、じゃない?」

「……え?」

「今日から。俺たちは“そういう関係”だよ」

彼女は驚いた顔をして、それから少しだけ口元を緩めた。

「……なら、ちゃんと告白してください」

(ああ、そういうの、大事にする人なんだな)

深く息を吸って、しっかりと目を見て言った。

「あなたが好きです。付き合ってください」

「……はい」

たったそれだけのやり取りだったのに、
俺の胸の奥に、じわっと何かが染み込んでいくのがわかった。

たぶん、それが「安心」ってやつだ。

「総務部の冷戦が、ようやく解ける」

月曜の朝。
俺たちは、特に何もなかったように出社した。

ふたりの間で交わす言葉は、あくまで業務的。

でも、空気は変わっていた。

距離の取り方。
言葉の選び方。
ふとしたタイミングで目が合う、その秒数。

そういう“空気のレイヤー”が、明らかに増えていた。

そして——

「なーんか最近、あのふたり、いい雰囲気よねぇ」

清水さんの言葉が、またしても後ろから刺さってきた。

「……なにか?」

「なにか? じゃないよ」

清水さんは腕を組んでにやりと笑った。

「嫁子さん、前よりちゃんと眠れてる顔してる。あれ、恋してる人の顔だよ」

「いや、そんなこと……」

「黙っててあげるから、代わりに今度ふたりでランチ連れてって?」

「……はい」

逃げ道が、完全になくなった瞬間だった。

でも、清水さんの目には、優しさがあった。

(ほんと、この人……なんでわかるんだ)

「次のイベント、決めちゃいました」

ある夜、彼女から届いたLINE。

「次のイベント、もしまた出るなら……ペア衣装、どうですか?」

すぐに返信した。

「出ます。全力で」

「嬉しいです。じゃあ、私がデザイン考えます」

「その代わり、お願いがあります」

「なんでしょう?」

「イベントの最後に、一緒に写真を撮ってください」

返事はすぐに来なかった。

既読がついたまま、30秒……1分……

(……ダメだったかな)

と思ったとき。

「はい、喜んで」

その言葉に、胸の奥がじわっと熱くなる。

「あと、もうひとつだけ」

「……なんですか?」

「俺がもし、イベントの場で“ちゃんとしたお願い”をしても……引きませんか?」

「……それは、どういう……」

「そのときが来たら、答えてください」

しばらく返事はなかったけれど、
10分後、ぽんと短い一言が来た。

「覚悟、しておきます」

その言葉で、俺の中にある「決意」が、
ひとつ、固まった。

「総務部長と、推しと、俺と」

イベント当日。
ふたりで準備をしながら、彼女がぽつりと言った。

「会社の人には見せたくない顔だけど……あなたには見せたいと思えました」

「こっちのあなたも、すごく好きです」

衣装は、彼女が考えてくれた“対”のデザイン。
配色も小物も、さりげなく合わせられている。

「ファンの子たち、嫉妬しますね」

「でも、あなたはファンじゃなくて……特別だから」

(その言葉、何回でも録音したい)

会場では、予想以上に多くの来場者が集まった。
ふたりのペア衣装に気づいた人が、次々と写真を求めてくる。

「お似合いですね!」
「夫婦みたい!」

その言葉に、彼女が少し赤くなる。

(……なら、いけるかもしれない)

そして、イベント終了後。
搬出作業が一段落し、すべてが落ち着いたころ。

俺は、手に隠し持っていた箱を、そっと差し出した。

「……これ、衣装に合わせて選びました。中、見てもらえますか」

彼女が開けると、中には小さな、でも綺麗な銀のリング。

装飾は控えめだけど、衣装と同じ配色の宝石がひとつ、埋め込まれていた。

「イベントって、好きな自分になれる場所でしょ?」
「はい」

「じゃあ、ここでプロポーズしても、嘘じゃないよね」

彼女は口元を手でおさえて、しばらく何も言わなかった。

でも、目は潤んでいて、そしてしっかりとうなずいた。

「……こんな場所で、泣かせないでください」

「ごめん。でも……笑ってくれるなら、何回でも言う」

「……お願いします。末永く」

「報告って、こんなに緊張するものなのか」

プロポーズから一週間。
彼女と俺は、会社での報告について話し合っていた。

「別に隠してるわけじゃないけど……やっぱり言うべきですよね」

「うん。社内で何か噂になってる以上は、ちゃんと伝えた方が」

「ですよね……でも、なんて言えば」

(……俺も、胃が痛い)

けれど、決めたことだった。
どちらかが何か言われる前に、きちんと、堂々と。

そして、金曜日の午後。
部署全体の定例連絡の場で、
彼女は静かに立ち上がった。

「ひとつ、私事のご報告があります」

会議室がすうっと静まり返る。

「私、総務部長と、○○課の○○さん——」

(俺だ)

「——と、このたび婚約いたしました」

空気が、止まった。
次の瞬間。

「……っはぁ!?」「えっ、うそ!?」「マジであのふたり!?」「あたし賭けてたわ!!」

会議室は軽くどよめきに包まれた。

(賭けられてたのか……)

そんな中、清水さんが一言。

「はい! やっぱりなって顔していいですか!」

「やっぱりな顔ってなんですか……」

その場に笑いが起きた。

彼女は少しだけ安心した顔をして、ゆっくりと腰を下ろした。

そのあと、同僚たちから一斉に声がかかった。

「いつから付き合ってたの?」「あのイベントってやっぱり!」「プロポーズどこで!?」「写真ある!?」

(なぜこうも質問が早い……)

俺はたじたじになりながらも、全部包み隠さず答えた。
イベントで知った素の彼女。
名前で呼び合うようになったこと。
プロポーズはイベント会場のあとだったこと——

言葉にしていくうちに、俺の中でも気持ちが整理されていった。

ああ、本当にこの人と一緒になったんだな、って。

「清水さんの“女の顔”が炸裂した日」

報告が終わったあと、
清水さんが俺のデスクにコーヒー片手にやってきた。

「なに? あたしに結婚報告する前にプロポーズしたってどういうこと?」

「え、ええと、タイミングが……」

「ずるいわー……いいなー……まさか嫁子さんが落ちるとは……」

「落ちたんじゃなくて……」

「はいはい。惚れたもん負けね。わかってる」

清水さんはニヤニヤしながら言った。

「でも、正直安心したよ」

「安心?」

「だってさ、あの人ずっと“無敵”だったじゃん。何言われても平気で、全部完璧にこなして。でもそれって、誰にも頼れなかったってことでもあるからさ」

「……」

「今は、ちゃんと人間になった顔してる」

「そう……見えますか?」

「うん。すごく、いい顔してる」

その言葉に、ちょっと胸が詰まった。
あの人の“無表情”を打ち崩せたのは、俺だけだったのかもしれない。

(それを、これからも守っていきたい)

「披露宴の話、まさかの展開」

「披露宴、どうします?」

その日の夜、ふたりで夕食を取っていたときに、俺がふと切り出した。

「うーん……最初は身内だけにしようかと思ってましたけど」

「でも……ファンの人たち、絶対見たがりますよね」

「ですよね」

彼女はちょっと困った顔で笑った。

「なら、思い切って両方やります?」

「え?」

「昼は会社関係の普通の披露宴、夜はコスプレ披露宴。……どうですか?」

(それ、最高にカオスだ)

「ありだと思う。会社の人もイベントの人も、それぞれにちゃんと感謝を伝えられるし」

「うん……私、あなたとだから、できるって思える」

俺は一瞬言葉をなくした。
けど、すぐに笑って言った。

「じゃあ、夜はまたあのペア衣装、着てくれますか」

「はい。今度はリングつけて」

そのときの彼女の笑顔は、
今まで見た中で、いちばん“素直”だった。

「スーツの顔、アイドルの顔、ふたつ並んで」

披露宴は、昼と夜の“二部構成”になった。

昼は会社・親族向け。
黒スーツの俺と、純白ドレス姿の彼女。

夜はイベント関係者・ファン向け。
彼女はいつもの推しキャラのコスプレ衣装。
俺も、そのペアデザインの衣装で登場した。

——ふたりの人生そのものみたいだった。
ふたつの顔。
どちらも、本物。

最初の披露宴。

大きな会場。
上司のスピーチ。
同僚たちの祝辞。

あの冷徹に思われていた総務部長が、
ドレス姿で少し緊張しながら笑ってるだけで、
会場はざわついていた。

「ほんとに笑うんだ……」
「いや、あの人綺麗すぎでしょ」
「○○くん、よく落としたな……」

(いや、俺が落ちたんだけど)

俺の黒縁眼鏡も、今日は外していた。
代わりに、新しいメタルフレーム。
きちんと選んだ。彼女の隣に立つための一本だった。

清水さんはというと、涙をこらえながらこう言ってきた。

「ねぇちょっと、泣いてないから。これメイクの粉飛んだだけだから」

(わかりやすすぎる)

彼女の「ご挨拶」では、会場の誰もが耳を傾けた。

「私は、これまで完璧でいることが当たり前でした。感情を表に出さないことが、信用だと思っていました。でも……それだけじゃ、人って生きていけないんですね」

「そんなとき、“名前”で呼んでくれる人に出会いました」

目を潤ませながら話すその姿は、
俺の知ってる“総務部長”ではなかった。

それが、嬉しかった。

「そして夜。もうひとつの“顔”で」

夕方をすぎ、会場は再セッティング。

夜の部、コスプレ披露宴。

集まってきたのは、彼女のファンたちと、イベント関係者。
その中には、あの日裏で俺たちを見かけたスタッフの姿もあった。

「まさかほんとに夫婦になるとはなー」
「嘘じゃない話だったんだな」
「このペア衣装、神デザインなんだが」

会場がざわつくなか、俺たちは登場した。

衣装は彼女が作った特注ペアデザイン。
前回のイベントから細部を調整したもので、
ちゃんと“夫婦”らしさがあるように、胸元に合わせの飾りがついていた。

「では、新郎新婦、ご入場です!」

MCの声に合わせて、
ライトがパッと彼女を照らす。

ステージ上の彼女は、もう完全に“アイドル”だった。
笑顔。手を振る仕草。決めポーズ。

(なのに、俺の方だけ見て、ちゃんと照れて笑う)

「皆さん、今日は来てくださってありがとうございます!」

「私、この衣装で……今日、世界で一番幸せです」

そして俺の番。

「えーっと……見ての通り、僕、普段は地味です」

「でも、彼女が自分らしくいられる場所に、俺も一緒にいたいと思いました」

「これからは、夫婦コスします。よろしくお願いします」

笑いと拍手と、泣き笑いの声が混ざる中、
会場の雰囲気はどんどん温かくなっていった。

「清水さん、夜の部で本領発揮」

まさかのことだった。

夜の部に、清水さんが来ていた。

「来ちゃった」

コスはしてないけど、イベントTシャツを着て、完全にノリノリ。

「これが見たかったんだよぉ……! 嫁子さんのアイドル顔、マジでレア!」

「なんなら一番笑ってませんか」

「そりゃそうでしょ、泣き笑いですよ、もう」

「泣いてないって言ってたじゃないですか」

「知らん! さっきの新郎の『夫婦コスします』でダメだった!」

(それ、言ってよかったのかな)

清水さんは俺の肩をバシバシ叩きながら、
「頼むから一回、その衣装で社内歩いてみて」と言ってきた。

「無理です」

でもそのやりとりも、どこか温かくて。
彼女の表情も、終始ずっと柔らかかった。

会場のあちこちで写真が撮られ、
俺たちの“ペア”がネットでも話題になったらしい。

でも——

「ねぇ、いちばん嬉しかったのはね」

「うん?」

「あなたと写真を撮ったあと、ファンの人たちが言ってくれたの」

「“幸せそうでよかった”って」

彼女は、その言葉を思い出しながら、少し泣きそうになっていた。

俺はそっと手を握り返して、言った。

「全部、本気だったから」

その夜、俺たちは“ふたり”になった。
イベントの衣装のまま。
名前で呼び合うまま。
嘘じゃない自分たちのままで。

「結婚しても、嘘の顔はやめなかった」

あれから半年が経った。

ふたりで暮らす部屋には、イベントで使った装飾の一部が飾られている。
玄関には、お揃いの靴。
冷蔵庫の上には、嫁子がイベント会場で買ったお気に入りのマグカップ。

仕事の朝は早く、目覚ましは2つ。

「……コーヒー、ブラックでよかった?」

「うん。でも、ちょっとだけ砂糖入れてくれる?」

「甘党になった?」

「最近は……あなたと暮らしてるからかも」

そう言って笑う嫁子は、結婚しても基本は変わらない。

完璧な仕事。
感情の少ない表情。
部下にはまだ“近寄りがたい”とよく言われる。

けれど、俺の知っている“嫁子”は、その裏にたくさんの表情を持っていた。

・朝のベッドで寝ぼけながら文句を言う顔
・洗濯物をたたみながら無意識に鼻歌を歌う顔
・イベント準備で徹夜して、床で寝落ちしてる顔

その全部が、俺だけの嫁子だった。

(結婚って、こういうことなんだな)

家の中では、彼女はすぐ笑う。
だけど、それを“外”に見せようとはしない。

「私、変わってないですかね」

ある夜、リビングで肩を寄せ合っていたときに、彼女がぽつりと聞いてきた。

「職場では相変わらず“ザ・上司”って言われてます」

「それでいいんじゃない?」

「……いいんですか?」

「だって、全部の顔を見せる必要なんてない」

「“あなたにだけ”見せてくれるなら、それでいい」

そう言うと、彼女はほんの少し泣きそうな顔をして、俺の手を握ってきた。

「そういうこと、ほんとにサラッと言うんですね」

「練習したんで」

「……何回?」

「夜通し」

俺たちは笑い合った。
変わらない日常が、今はとても愛おしかった。

「社内でも、イベントでも、夫婦でいられる距離」

結婚してからも、社内でのふたりは変わらなかった。

彼女は“総務部長”として、完璧に仕事をこなす。
俺は俺で、自分の部署で資料を作って、会議に臨む。

「この資料、句読点が多すぎます」

「はい……」

結婚していても、容赦はなかった。

けれど、誰もいない資料室でふたりきりになったとき——

「……今日の朝ごはん、おいしかったです」

「……それ、さっき言えばよかったのに」

「いま言いたかったんです」

そうやって、俺たちはバランスを保っていた。

イベントでは、ふたりとも顔を出すようになった。
彼女は衣装を自作し、俺はブース設営を手伝い、グッズの在庫チェックをする。

「あ、○○さん! またご一緒ですか?」
「はい、うちの担当マネージャーです」

冗談混じりの紹介にも、今ではもう動じない。

「でもほんとに、嫁子さんが一番笑ってるの、○○さんと話してるときですよ」

ファンの言葉に、俺はただ「そうなんです」としか返せなかった。

(俺だって、彼女が“アイドル”になる姿を見るのが、一番好きだ)

コスプレ衣装のまま、ステージ脇で水を飲んでいる彼女。
写真撮影のあと、疲れて俺の肩にもたれる嫁子。
イベントの夜、打ち上げ帰りにふたりで自販機の前でアイスを分け合う姿。

それ全部が、俺たちの日常になっていた。

「夫婦になっても、本気でいられること」

ある日、ふたりで小さな展示イベントに出て、帰ってくる道。
人通りの少ない公園のベンチに、自然と腰かけた。

ふと彼女が言った。

「結婚って、こんなふうに穏やかでいいんですね」

「うん。俺はもうちょっと修羅場があるのかと思ってた」

「たぶん、あなたが“私の全部”を見ようとしてくれたからだと思う」

「……俺が?」

「私はたぶん、一生完璧な人でいたがる。でも、あなたの前ではそれが崩れる」

「怖いけど、それが……幸せです」

俺は手を重ねて、こう返した。

「こっちだって、あんたがアイドルになって笑ってるの見るたび、泣きそうになるんだよ」

「……“あんた”って言った」

「すみません、つい」

「許します」

笑いながら彼女が顔を寄せて、俺の肩に頭を預けた。

「このまま、おじいちゃんおばあちゃんになっても、衣装作ってイベント出たいですね」

「そのときはコスプレじゃなくて、もう“普段着”になってるかも」

「そうかもしれませんね」

その夜、彼女は眠る前にこう呟いた。

「あなたが、名前で呼んでくれたあの日から……全部、変わったんですよ」

(俺も、そう思ってる)

「おやすみ」

「おやすみ」

そして、俺たちは眠りについた。
ふたりだけの、変わらない本気を抱えて。