マッチングアプリで女上司|2ちゃん馴れ初め風エピソードまとめ【全てが別人だった】

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はっくなび

なんとなく始めたアプリに、“癒し”がいた

なんか毎日がつまらなかった

俺は、いわゆる陰キャというやつだ。
中学も高校も、部活に入ったことはない。大学でも友達はほとんどできず、卒業後、運よく滑り込んだ今の会社でも、存在感は限りなくゼロに近い。

「最近どうよ? 飲みに行こうぜ!」
「……すみません、ちょっと予定が」

(いつも誘ってくる山田には悪いが、正直、会社の人と飲みに行くのは気が重い)
話を合わせるのもしんどいし、なにより俺は人の目が気になりすぎて、飲みの場では何を言っても空回る。笑いも取れないし、気まずい空気が残るのが怖い。

そんな俺の癒しは、2ちゃんのスレを読むことだった。特に「陰キャが人生で唯一モテた話」とか、「職場の女に無視されてたのに、なぜか告白された」とか、妄想か現実かわからないような創作スレを読むのが好きだった。

(現実に期待してない。でも、たまに…たまにでいいから、そういう奇跡が俺にも起きないかって思うことはある)

そんなある夜、2ちゃんのネタスレで「マッチングアプリでガチ恋した陰キャの話」というのを読んだ。
そのスレ主は、顔を出さずに文章だけで相手とやり取りして、互いに本音を言い合ううちに、人生で初めて誰かに“好き”って思われたらしい。

(……まあ、ないよな、俺には)

そう思いながらも、スマホにインストールだけしてみた。「プロフィールを埋めるだけで気分が上がる!」なんてレビューがついていたが、正直半信半疑だった。

テキトーに始めたら、やたら話が合うやつがいた

プロフィールは適当に書いた。「会社員/趣味:ネットとゲーム」とだけ入力し、顔写真は貼らなかった。
メッセージが来ることはないだろうと思ってた。が、数日後、1通の通知が来た。

『はじめまして。ネット好きって書いてありましたけど、どんな掲示板見るんですか?』

(……え、ガチで来るの?)

送り主は、“読書好きのアラサー女”。プロフィール写真は風景で、自己紹介欄には「夜に小説を読むのが日課」「好きな作家は村上春樹と太宰治」と書いてあった。
正直、俺とはまったく住む世界が違うと思った。けど、そのメッセージには、なぜか気取った感じがなかった。

『2ちゃん……見てます。ROM専ですけど、創作スレとか大好きで……』

(読書好きの女が2ちゃん見るのか? 本気か?)

でも、気になった。
こっちも思い切って、素直に返してみた。

「俺も創作スレ好きです。“泣いた”ってレスばっかりのやつとか、いいですよね」
『わかります。人間の本音って、ああいう場所でしか出ない気がして』

そこから、やり取りが始まった。

メッセージのやり取りが、毎日の楽しみになった

不思議なもんで、顔も知らない相手との会話の方が、本音を出せた。
「仕事でしんどかったこと」も「職場の人間関係が苦手なこと」も、「人といると疲れる理由」も、全部素直に話せた。

『会社では明るく振る舞ってるけど、ほんとはあまり人に興味持てない自分がいて…』
「わかります。それ、めちゃくちゃわかります」
『なんでみんな、あんなに器用に生きられるんでしょうね』

(この人、会社で明るいのか…うまくやってるように見えて、裏では苦しんでるのかもしれない)

相手の名前は、アプリ内では「ことり」。本名は聞いていないし、俺も名乗っていない。
ただ、ことりさんの文章は、どこか優しかった。
たとえば「今日は雨でしたね」なんて他愛もない話題でも、

『駅までの道、びしょびしょになってしまった。でも空が泣いてるみたいで、少しだけ気持ちが楽になったんです』

みたいなことを書く。

(変な人だなって思うけど……なんか、いいな。やさしい世界に触れてる気がする)

その日から、毎日アプリを開くようになった。

ついに「会ってみませんか?」の言葉が来た

やり取りが始まって3週間。
俺の生活に、変化が起きていた。

朝起きると、まずメッセージを確認する。昼休みも返信する。夜は寝る前まで会話してる。
会社でもぼんやりスマホの通知を気にしてしまう。

「お前さ、最近スマホばっかじゃね?」
「あ、すみません……」(山田、うるさい)

そんなある日、ことりさんから、こんなメッセージが来た。

『お話しするの、毎日楽しみにしてました。もしよかったら……一度お茶でもしませんか?』

(来た……ついに来た……)

でも、正直、怖かった。
俺のことを、現実で見たらガッカリするんじゃないか?
顔も地味、服もユニクロ、喋りは下手。せっかく築いたこの関係が、壊れる気がして。

でも──。

(会ってみたい。この人と……リアルで話してみたい)

俺は、勇気を出して返信した。

「……俺も、そう思ってました。ぜひ、お会いしたいです」

指定されたカフェ。そして、現れたのは…

待ち合わせは、日曜の昼。駅近くの静かなカフェ。
俺は緊張しすぎて、30分前に着いてしまった。
鏡を見て、髪型を直し、服のシワを伸ばし、深呼吸を何度も繰り返す。

そして、待ち合わせの時間。扉が開いた。

「……っ!」

俺は、目を疑った。

(え、うそ……なんで……)

そこにいたのは、職場の上司だった。
バリバリの仕事人間で、部下に対して一切の甘えを許さないあの人──俺が一番苦手としていた、“あの女上司”だった。

けれど、その顔には、いつもの鋭さはなかった。
ふわっとしたワンピースに、力の抜けた表情。
彼女は、俺を見て、ぽつりと呟いた。

「……やっぱり、そうだったんですね」

(ことり、さん……? まさか……)

そして次の瞬間、彼女はほんの少しだけ、寂しそうに笑った。

「……お仕事中のあなたと、全然違いますね」


職場の“怖い上司”と、癒しのことりさんが同一人物だった日

逃げたい。でも逃げられない

目の前に座るのは、俺の直属の上司だった。
いつもスーツ姿で冷たく、部下には絶対にプライベートを見せないあの人。

けれど今は──
落ち着いたカフェの席に座り、レモンティーを口にしている。
シンプルなワンピースに、緩めにまとめた髪。
柔らかい声で、「こんにちは」と俺に微笑んだ。

「……本当に、あなたなんですね」
「……はい。まさか、ことりさんが……」

(どうしよう。混乱してる。逃げたい。いや、これは夢か?)

目の前にいるのは、俺が心を許した“癒しのことりさん”。
だけど、それと同時に──
職場で一番怖くて、一番近寄りたくなかった“あの上司”。

「驚かせてしまって、ごめんなさい」
「い、いえ……あの……その……」(どうすればいいんだ)

どうして、あんな優しい文章が書けるのか

「お仕事中のあなたと、メッセージのあなたは、まるで別人ですね」
「……それは、そちらもです」

彼女──嫁子(もう“嫁子”と呼ぶしかない)が笑った。
あの、鋭い目つきも強い言葉もない。
だけど、俺は戸惑いを隠せないでいた。

「職場では……その、ちょっと怖いというか……」
「ええ、自覚はあります。嫌われてるって思ってますよ」
「……俺、正直、苦手でした」
「正直でいいですね。そういうところ、好きですよ」

(好きって……冗談だよな? いや、でも……)

「なんで、アプリで……あんな、優しい感じなんですか?」
「職場では、弱さを見せられないからです。ずっと、そうやって生きてきたので」
「でも、俺……救われてました。毎日、ことりさんと話すの、楽しみで……」
「私もです。本当に。あなたとの会話が、心の拠り所だったんです」

(この人、こんな風に話すんだ……)

仕事中には見たことのない表情。
人と目を合わせるのが苦手で、けれどまっすぐ言葉を届けようとしてくれる。

もしかして、俺と同じように、職場という空間で“演じて”いたんじゃないか。
そう思うと、すこしだけ、親近感がわいた。

職場で再会。世界の空気が変わった

月曜日。
出社してデスクにつくと、数人の同僚が話していた。

「課長、今日もピリついてるな」
「昨日なにかあったのかも」
(……俺には、分かる)

嫁子は、いつも通りだった。
むしろ、いつも以上に冷静で、指示も簡潔だった。

(あれが昨日、俺とカフェで……?)

正直、まだ信じられなかった。
でも、俺の視線に気づいたのか、彼女がふとこちらを見た。

目が合った──ほんの一瞬だけ。
でも、その目は、少しだけ柔らかかった気がした。

「……(やっぱり、本物だ。夢じゃなかったんだ)」

「おい、なにボーッとしてんだよ」
同期の山田が俺の肩を叩いてきた。
「ん、なんでもない」
「もしかして、彼女できた? 最近スマホばっかだったし」
「……違うよ」(いや、ある意味違わないけど)

嫁子という人間を、知りたくなってきた

その日から、俺は不思議な感情を抱えたまま過ごした。
仕事中の彼女と、メッセージでの“ことり”は、まるで違う。

でも、どちらも“本当の彼女”なんじゃないかって、思えてきた。
強くあろうとする姿と、弱さを認める姿。
どちらも、彼女が背負っているものなんじゃないかって。

「あなたと会って、よかったです」
夜、アプリに届いた一通のメッセージ。
『こんな形で再会するとは思ってなかったけど、私は嬉しかったです』

(……俺も、です)

素直にそう思えた。

「また、話せますか? 仕事とは関係なく」

『もちろん。むしろ、そっちの方が本音で話せますから』

(なんでだろう。会社では怖かったのに、今は……知りたくてたまらない)

この人のことを、もっと知りたい。
怖がっていたのは、ただ一面だけを見ていたからかもしれない。

職場で起きた、ひとつの事件

それから数日後。
突然、職場で大きなトラブルが起きた。
重要な案件のデータが、一部消えていたのだ。

「これ、誰が管理してたんだ?!」
「バックアップも、ちゃんと取ってなかったんですか!?」
社内がざわつく中、俺は黙っていた。

(……俺の担当だった。あのデータは)

思わず画面を見つめる。ミスの原因は、俺が設定を一部間違えたせいだった。

(やばい。終わったかもしれない)

そのとき、嫁子がすっと前に出て、落ち着いた声で言った。

「この件は、私が預かります。皆さん、作業に戻ってください」
「えっ……?」
「詳細は後で説明します。今は、これ以上の混乱を避けましょう」

(なぜ……庇ってくれる?)

会議室に呼ばれ、ふたりきりになった。
俺は、正直にミスを報告した。

「すみません……僕の設定ミスです。責任は……全部俺に……」
「確認不足だったのは、私の責任です」
「でも……!」
「あなたひとりのせいにしたら、チーム全体の空気が壊れる。だから、私が受け持ちます」

彼女のその言葉に、俺は初めて──心の奥が震えた。

(この人……ただ怖いだけじゃなかったんだ。責任を取るって、こういうことなんだ)


職場のピンチを救った“上司”に、初めて尊敬の気持ちが芽生えた日

「責任を取る」って、こういうことだったんだ

あの夜、会議室で見た嫁子の背中。
それは、俺が今まで抱いていたイメージとはまるで違っていた。

「責任を取るって、言葉だけじゃダメなんです」
「……はい」
「あなたが失敗したのは事実。でも、それを一人で抱えさせてしまった私の責任でもある」
「……(そんなふうに、言ってくれるんだ)」

どんなに厳しくても、どんなに冷たく見えても、
この人は、自分の背中で“守る”ということを実行していた。

(……あれが、ことりさんなんだよな)

スマホ越しの優しい文章。
静かなカフェで見せた、ふわっとした笑顔。
そして今、目の前で黙々と対応している“上司の顔”。

全部同じ人なのに、こんなにも違うのが不思議だった。
けど、どれも嘘じゃない気がした。全部、彼女自身なんだと思った。

ミカの言葉が刺さった

事件のあと、なんとかチーム全体でデータを復旧させた。
トラブルは最小限に収まったけど、俺はずっと引きずっていた。
同時に──彼女のことが、気になって仕方がなかった。

「ねえ、あの課長って、昔からああなの?」
昼休み、ミカが俺の隣にきて話しかけてきた。

「どう、って?」
「怖いし、無表情だし。正直、近寄りがたいよね」
「……まあ、そうだね。でも、意外と……優しいとこあると思う」
「え? あの人に?」
「うん。ちゃんと、部下のこと見てる気がする。たぶん……孤独なんじゃないかなって」

ミカは、きょとんとした顔で俺を見た。

「……あんた、変わったね」
「え?」
「前は、あの人のこと“ロボットみたい”って言ってたのに」
「……(たしかに、俺、そう言ってたっけ)」

「ま、でも……なんかわかる気もする。あの人、私が一回資料ミスったときも、黙って直してくれてたんだよね。何も言わずに」
「……そうなんだ」
「誰にも気づかれないように、こっそりやってるんだよね。たぶん、そういうの、ずっとやってきた人なんだと思う」

(……知らなかった。そういう顔があったなんて)

気づけば、俺の中にあった“怖い上司”というレッテルが、音もなく剥がれ始めていた。

メッセージににじむ“孤独”

その夜。
いつものように、アプリに「ことりさん」からメッセージが届いた。

『今日は、お疲れさまでした。あなたが頑張ってくれたおかげで、助かりました』

「……こっちこそ、ありがとうございます。あんな風に守ってもらえるなんて、思ってなかったです」

『……仕事って、不思議ですよね。自分の中ではちゃんと頑張ってるつもりでも、それが伝わらないことの方が多い』

『でも、あなたが気づいてくれて、うれしかったです』

(こんな文章……誰にも見せたことないんだろうな。職場では見せない顔)

言葉の節々から、彼女の“本音”がにじんでいた。
「一人で強くあろうとする」その姿の裏に、ずっと溜め込んでいた寂しさがあった。

『……ずっとひとりで、責任取るのが当たり前だと思ってた。でも、今日は少し違いました。ありがとう』

(ありがとうって言われるようなこと……したのかな)

けど、なんか胸が熱くなった。
俺は、スマホを強く握りながら、返事を打った。

「俺……ことりさんに出会えて、よかったです」
『……また、どこかで会えますか?』

「はい。次は……できれば、会社じゃない場所で」

再会のカフェ。あの日とは違う気持ちで

土曜日の午後。
前と同じ駅近くのカフェで、俺は彼女を待っていた。

今回は、緊張よりも、少しだけ嬉しさが勝っていた。

「……待ちました?」
「いえ、ちょうどです」

現れた彼女は、やっぱり“あの上司”じゃなかった。
ナチュラルな白のシャツに、落ち着いたベージュのスカート。
目の下のクマもなく、なんとなく表情も柔らかく見えた。

「……前より、リラックスしてますね」
「たぶん、あなたのおかげです」

それだけ言って、彼女はメニューをめくった。

「今日、何食べます?」
「……ことりさん、甘いのとか、好きなんですか?」
「ええ。実は、チョコ系はほとんど制覇しました」

「……意外です」
「そうですか?」
「もっと、なんというか……甘いものとか、無縁かと」

「職場では、ね。ああいう自分を保たないと、潰れてしまいそうだったから」
「……わかる気がします。俺も、たぶん似たようなとこあります」
「でしょうね。あなた、無理に笑うとき、声が出てないですもん」

「えっ、気づいてました?」
「ことりさんですから。あなたの全部、わかるつもりでいますよ」

(この人、やっぱり……ずるいな)

俺の中で、何かが変わり始めていた

帰り道、カフェを出た俺たちは、自然と駅前のベンチに座った。
風が少し冷たくなってきた夕方。
駅から漏れるアナウンスと、遠くで子供が笑う声。

「ことりさんって……寂しがりやですよね」
「よく言われます。でも、それを見せたら負けな気がして」
「もう、見えてますけどね。だいぶ、ダダ漏れです」
「……ひどいですね」
「でも、それが……好きです」

言ってしまった。
でも、彼女は驚いたようにこちらを見たあと、静かに目を伏せた。

「……私も、同じです。ずっと、言いたかった」

(この気持ちが、恋なんだって。ようやく、わかった)


デートを重ねるうちに、“俺”が変わっていった

人と会うのが、楽しみになってきた

(また、土曜が来た)

俺はその朝、起きるなりスニーカーを磨いた。
前なら休日は家から出ずに、寝間着のまま昼過ぎまでスマホをいじってたのに。今は違う。

ことりさん──いや、嫁子とのデートが、毎週の楽しみになっていた。
喫茶店、美術館、駅ビルの屋上ガーデン。
派手な場所じゃない。でも、どこに行っても、彼女といるだけで、不思議と落ち着いた。

「今日、早起きしたんですよ」
「何時に?」
「7時」
「……それで早起き?」
「俺的には、奇跡なんです」

(こんな会話ひとつが、嬉しい)

昔の俺だったら、誰かと出かけるために努力するなんて、考えられなかった。
今は、彼女の前で“だらしない自分”を見せたくないと思っている。
それは見栄じゃなくて、「自分自身を変えたい」って思い始めたからだった。

職場でも、少しずつ変わったこと

「お前、最近ちょっと丸くなったな」
「……え? 太ったってことですか」
「いやいや、そうじゃなくて。雰囲気が柔らかくなったって意味」

山田が、珍しく真面目な顔で言った。

「俺、気づいてたんだよ。お前、最近さ……ミカとも普通に喋るようになったし、会議でも前より発言してるし」
「……ああ、まあ、そうかも」
「なんかあった? 彼女とか?」

一瞬、ことりさんの顔が頭をよぎった。

「……まあ、そんなとこかな」
「マジか!? お前が!? えっ、だれ!? え、まさか……社外!?」
「……うん。たぶん“社外”かもな」

(そう答えるしかない。まさか、嫁子だなんて言えるわけがない)

「なんか、お前がちゃんと“人”になってく感じ、面白いな」
「おい、それはどういう意味だ」
「いや、褒めてんだよ。まじで」

(俺は今、ようやく“自分”として生き始めたのかもしれない)

ミカと嫁子の距離も少しずつ

そんなある日、昼休みにミカが珍しく真面目な顔で俺に話しかけてきた。

「課長、最近変わったと思わない?」
「……え?」
「前は冷たかったけど、今はちょっとだけ、優しいっていうか」
「……たしかに、そうかも」
「この前、私が会議で意見言ったら、“よく気づきましたね”って言ってくれたんだよ?」

「それはすごい。ミカ、頑張ってるもんな」
「うん。……なんか、あの人も人間なんだって、思えた」

(そう。あの人はちゃんと“人間”だったんだ。俺が気づく前から、ずっと)

ミカの目が、まっすぐだった。
前は嫁子のことを“鉄仮面”とか“鬼軍曹”とか呼んでいたくせに、今は憧れの眼差しになっていた。

(彼女が変わったんじゃない。俺たちが“ちゃんと見よう”としたんだ)

二人だけの、秘密の呼び名

夜。メッセージはもう“ことり”という名前ではなくなっていた。
LINEに切り替え、名前の欄には「……ことりさん(仮)」と、冗談交じりに入れていた。

『あれ、まだ仮ですか?』
「だって、会社じゃ“課長”だし」
『ひどいなぁ』
「じゃあ……○○さん、って呼べばいいんですか?」
『それよりも、もっと呼びやすいやつがいいな』

「じゃあ……ことりんで」
『小学生みたいですね』
「でも、似合ってるかも」
『そう言うと、ちょっと嬉しいかも』

(こんなやりとりも、恋なんだな)

画面の向こうにいる“誰か”と、こんなに心が近づくなんて思っていなかった。
リアルとネットの境界は、いつの間にか消えていた。

彼女は会社では上司で、外ではことりさんで。
でも、俺にとっては“同じ人”になっていた。

はじめて手を繋いだ日

次の週末、商店街の裏路地にある小さな洋食屋でランチをしたあと、川沿いの遊歩道を歩いた。
季節は秋に差しかかり、風が少し冷たい。

「……手、冷たいですね」
「あなたの方が温かいですね」

その言葉のあと、自然に彼女が俺の手に指を添えてきた。
一瞬、心臓が跳ねた。

(これが……“好き”っていう感情か)

彼女の手は、思ったより小さくて、でも芯があるような指先だった。
冷たい風の中で、手だけが温かく、世界から切り離されたような静けさだった。

「……こうして歩くの、夢みたいです」
「俺もです。ずっと、夢だったのかも」

彼女が、そっと目を細めてうなずいた。
そして、まるで思い出すようにこう呟いた。

「私、昔から誰かと歩くのが苦手だったんです。合わせるのが下手で、気を遣いすぎてしまって」
「……いまは?」
「いまは、あなたに合わせたいと思えるから、不思議です」

(……この人を、もっと知りたい)

恋は一方通行じゃない。
こうして、誰かと向き合うことなんだと、少しだけ分かった気がした。


好きになった人が、誰より孤独だったと知った日

冬が近づくと、人恋しくなる

手をつないだあの日から、季節はゆっくりと進み、街にはイルミネーションが灯り始めていた。
年末が近づくと、どこも人でにぎわっていて、いつもは孤独が怖くなるはずの時期だった。

けど、今年は違った。
俺には、会いたい人がいた。

「……イルミネーション、きれいですね」
「うん。でも、あなたの方がずっときれいに見える」

(自分でも何を言ってるんだろうって思うけど、本気だった)

嫁子──ことりさん──は少し照れたようにうつむいた。

「……仕事中にこんなこと言ったら、即セクハラですよ?」
「仕事中には言いませんって」
「ふふ……なら、よし」

冬の風は冷たいはずなのに、彼女の笑顔はあたたかかった。

彼女の部屋。無音の空間と本の匂い

その日、はじめて彼女の部屋に行った。

シンプルな1LDKの部屋。白を基調にしたインテリア。
棚にはずらりと並んだ本。村上春樹、太宰治、夏目漱石、川端康成。
そして、観葉植物が窓際に静かに呼吸していた。

「……静かですね」
「うるさいの、苦手なんです」
「……なんか、落ち着きます」

彼女は、紅茶をいれてくれた。
音楽もテレビもつけず、ただ湯気の立つカップがふたつ、並んでいた。

「ここで……いつも一人だったんですね?」
「……はい」

(その“はい”に、少し寂しさがにじんだ気がした)

「寂しくなかったですか?」
「寂しいと思うと、負けだと思ってたんです。でも……最近は、違います」

(ことりさん……)

「あなたに会って、やっと誰かと“沈黙を共有できる”って思えた」
「沈黙……?」
「誰かと一緒にいて、喋らなくても平気な関係って、あこがれてたんです」

(ああ、俺も、そう思ってた)

誰かと一緒にいても、無理して笑ったり、話題を探したりしなくていい。
そういう関係が、どれだけ貴重で、難しいか。

彼女は、それをずっと望んでたんだ。

“強くならざるを得なかった”過去

ふと、本棚に置かれた1枚の写真が目に入った。
学生時代らしい、若い彼女の姿と、年配の女性。
彼女の母親かもしれなかった。

「……お母さん?」
「……ええ。もう、いませんけど」

(しまった。聞くべきじゃなかったか)

「ごめんなさい」
「いいんです。……母が亡くなったとき、会社で上司に“泣くな”って言われて、それ以来、感情を表に出すのが怖くなったんです」

「……そんなこと……」

「“女だからって泣くな”“感情を持ち込むな”って。だから、私は“感情のない人間”にならなきゃって思ってた」

俺は言葉を失った。

あの冷たい顔も、厳しい口調も、
すべて“守るため”の仮面だったんだ。
感情を見せたら、壊れてしまいそうだったから。

「でも、あなたは……感情を出しても、そばにいてくれる気がして」

彼女が、カップを両手で包んで、そっと言った。

「……そばに、いてくれますか?」

その一言が、胸に深く刺さった。

「もちろん。どこにも行きません。絶対に」

(俺は、ずっと逃げてばかりだったけど、今だけは逃げないって決めた)

彼女の寂しさを埋めたいとか、救いたいとか、そんな綺麗ごとじゃない。
ただ、隣にいたいと思った。

それだけだった。

彼女の涙を、はじめて見た

そのあと、映画を見ていたとき、
ことりさんがふいに目をこすった。

「……泣いてます?」
「ちょっとだけ」
「へえ……課長が泣くんだ」
「言わないでください。レアなんですから」

(こんなに普通の表情で泣く人だったんだ)

映画の内容なんてほとんど覚えていない。
俺の目は、ずっと彼女の横顔を追っていた。

そして思った。

(この人を、幸せにしたい。自分でも驚くくらい、そう思ってる)

仕事中に感じていた圧も、厳しさも、全部を知った今でも、
いや、知ったからこそ、もっと彼女を好きになった。


リアルとネットの境界が、完全に消えたとき

ただの“上司”でも“ことり”でもなくなっていた

もう、「ことりさん」と呼ぶのは違和感があった。
会社では“課長”として振る舞う彼女が、
休日になると、俺の隣で笑いながらクレープを頬張っている。

「甘すぎ……でも、うまい」
「課長って、ほんとは甘党でしたっけ?」
「会社では絶対言いません。舐められますから」
「じゃあ、俺だけの特権ですね」

(その表情が、俺だけに向いてると思うと……胸があったかくなる)

俺にとって彼女はもう、“職場の人”じゃなかった。
ネットで出会った“ことりさん”でもなかった。
一人の女性として、特別な存在になっていた。

それに、俺自身も変わっていた。

人の目ばかり気にしていた俺が、
人と過ごす時間を「心地いい」と思えるようになっていた。

お互いの癖を、当たり前のように覚えていた

ある夜。俺の部屋で鍋をしていたとき、彼女がふと、箸の持ち方を直してくれた。

「こう。指、ここに添えるの」
「あ、すみません」
「別に悪いってわけじゃないけど、ずっと気になってて」
「……いつから気づいてたんですか」
「最初にカフェ行ったときから」

(あの日から、もうそんなに経ってたのか)

「じゃあ俺も……言っていいですか?」
「どうぞ」
「課長、辛いもの苦手ですよね」
「……バレてました?」
「キムチチャーハン食べてたとき、水3杯飲んでたじゃないですか」
「くっ……見てたのか……」

(こうして、お互いの“素”を知っていくのが、こんなに嬉しいなんて)

恋人っていうのは、こういう時間の積み重ねなんだと思った。

好きとか、嫌いとかじゃなくて、
日常のなかに溶けていくように、相手の存在が当たり前になること。

それが「一緒にいる」ということなんだと、はじめて実感した。

職場での彼女との“目配せ”に、意味が変わった

ある日、社内で少し大きなプレゼンがあった。
俺にとっては大きな場で、資料作りにも何日も費やした。

「……大丈夫だ。大丈夫……」

緊張しながら会議室の扉を開けたとき、
すっと視線が合った。──嫁子だった。

ほんの一瞬、彼女が微かにうなずいた。

(あのうなずきひとつで、心が落ち着いた)

何も言葉はいらなかった。
声をかけなくても、彼女は見てくれている。
それだけで、十分だった。

プレゼンが終わったあと、帰り際のエレベーター。
ふたりきりになった数秒間。

「……よく頑張ってました」
「ありがとうございます」

それだけ。誰も見ていない、小さなやりとり。
でもそれが、なによりも嬉しかった。

ネットとリアルの「境界」がなくなった夜

冬の終わり、寒さが少し緩んできた夜。
彼女の部屋で、ふたりでお酒を飲んでいた。

「ねえ、あなたってさ……最初から私だって気づいてた?」
「いや、まったく。まさか課長が“ことりさん”だなんて」
「こっちは、途中で気づいたよ。文章の癖で」
「え、そんな……」
「あなた、句読点の位置が独特だから」

「……恥ずかしいな、それ」
「でも、それがあなたらしいって思って、ますます好きになったの」

その言葉を聞いた瞬間、
俺のなかにあった、最後の“壁”が静かに消えた。

彼女は、最初から“上司”じゃなかった。
ネットのなかの“ことりさん”でもなかった。

ただ、「彼女」だった。

強がりで、でも寂しがりで、
誰よりも真面目で、繊細で、
そして、俺を一番に見てくれる、ひとりの女性。

「……俺、もう怖くないです」
「なにが?」
「誰かに、自分を見せるのが」

彼女が、優しく俺の手をとって言った。

「じゃあ、もっと見せて?」

(この人となら、どこまでもいける気がした)


彼女と過ごす日常が、“未来”に変わった瞬間

同棲してるわけじゃないのに、生活が重なってきた

「そっちの歯ブラシ、俺の?」
「ええ。左のやつ。コップの向き、変えました」

(いつの間に……)

ことりさんの家に通うようになって、自然と“俺の物”が増えていた。
歯ブラシ、部屋着、シャンプー、そして冷蔵庫の中には俺の好物のヨーグルト。

「最近、うちにいる時間の方が長いんじゃないですか?」
「それ、俺が言いたいセリフですよ」

彼女が笑って紅茶を差し出す。
もう何度目になるかわからない、見慣れたマグカップの模様。
俺が来ると、必ずそれを出してくれる。

(これは、ただの恋人同士じゃない。たぶん……“家族”に近い)

何かを決めたわけじゃない。
けれど、少しずつ日常が重なって、境界が薄れていく感覚。

“未来”という言葉が、現実味を持って心に浮かぶようになっていた。

会社の飲み会で、“嫁子”の過去を知る

その週、会社の歓送迎会があった。
嫁子は当然ながら幹部席にいたが、俺の席は同期の山田、ミカたちと同じテーブル。

「……課長、今日めちゃくちゃ飲まされてたな」
「無表情で日本酒あおってた……あれ、怖いわ」
「でも、昔はもっとキツかったらしいよ?」
「え、そうなの?」

ミカがコソッと話してくれた。

「課長、入社してすぐの頃、直属の上司が相当パワハラ気質だったって噂でさ」
「……」
「それで、全部ひとりで抱えてたらしくて、体壊しかけたって」

(……そうだったのか)

「それかららしいよ。感情、表に出さなくなったの」

(あの冷たさは、そういう“盾”だったんだ)

「でも、今は違うよね。部下の名前もちゃんと呼ぶし。ミスにも前より柔らかくなったし」
「……ほんと、変わったと思う」
「……なんか、あの人のそばに誰かいるのかなって、最近ちょっと思ってた」

(……“いる”よ。ここに)

俺は黙ってコップを持ち上げた。
ミカや山田の視線を避けるように、一口、ビールを飲んだ。

(この人を、誰よりも近くで見てきたのは、たぶん……俺だ)

「家族」って言葉に、戸惑いと憧れ

週末の夜。
ことりさんの家でいつものように夕食をとっていたときのこと。

「そういえば、来週うちの母がこっちに来るんです」
「……お母さん? えっ、それって」
「挨拶とかじゃなくて。たまたま予定があって。……でも、あなたの話、少ししてしまってて」
「……俺の?」

(なんでそんな重大な話を、サラッと……)

「“最近、一緒にごはんを食べる人ができた”って話したら、“あんたがそんなこと言うなんて”って驚かれました」
「……そりゃ驚くでしょうね」

「……まだ、“紹介したい”ってほどじゃないかもしれませんけど」
「……」

「でも、私は……家族になってもいいって、思ってます」

その言葉が、静かに部屋の空気を変えた。

テレビの音も止まっている。
温かい湯気が立つ鍋の匂いと、彼女の柔らかい視線だけが、そこにあった。

「俺も……それ、考えてました」
「本当ですか?」
「あなたとなら、たぶん、ちゃんと生きていける気がして」

(こんな風に思える相手が現れるなんて、夢にも思ってなかった)

彼女は箸を置き、俺の手を取った。

「……ありがとう。そう言ってくれて」

(その言葉が、心に深く染みた)

“日常”が“未来”になった日

数日後の夜。
彼女が寝静まったあと、リビングのソファで一人、スマホをいじっていた。

かつて暇つぶしに入れた、マッチングアプリ。
俺たちが出会った、あの場所。

「もう、必要ないな」

そっと、アプリをアンインストールした。
ひとつのページが、静かに閉じた。

けれど、不思議な寂しさはなかった。

(あの頃の俺は、孤独の“隙間”を埋めるように人を探してた)

でも今は、隣に誰かがいて、
その人と「これから」を考えている。

“俺”も、“彼女”も、変わったんだ。

もう、ネットとリアルの区別なんて意味がない。
俺たちは現実の中で出会い、素で向き合って、確かに愛し合っている。


結婚を意識したとき、“名前”で呼びたくなった

「ことりさん」じゃ、もう距離がある

冬が終わり、春の気配がちらつき始めたころ。
ふたりの関係はすっかり落ち着いて、週末はどちらかの家で過ごすのが当たり前になっていた。

「今日の夜、何食べたいですか?」
「カレー。あなたの作るやつ、好きです」
「わかりました、“課長”」

「……やめてください、それ」
「じゃあ、“ことりさん”」
「……まだ、それ?」

(自分でも思う。なぜ、まだ名前で呼べないんだろう)

彼女の下の名前は、LINEの表示名で知っていた。
でも、一度も口にしたことがなかった。

彼女も、それを察しているようだった。

「……名前、呼んでくれてもいいんですよ?」
「……恥ずかしいです」
「恥ずかしい、ですか」
「……はい」
「それって、“この関係はまだ仮”ってことなんですか?」

そう言われたとき、胸に小さな痛みが走った。

(違う。違うんだ。むしろ逆なんだ)

名前で呼ぶって、俺にとっては大きすぎる一歩だった。
それは、“友達”とか“恋人”とかの枠を超えて、
「この人を生涯呼び続けたい」って覚悟の現れだから。

でも、黙っていても伝わらない。

だから、言った。

「……呼ばせてください。ちゃんと」

彼女は、すこし驚いたように笑った。

「じゃあ、いま呼んで」
「……」
「ほら。聞かせて?」
「……○○」

(そのとき初めて、彼女が“手の届く存在”になった気がした)

彼女が、そっと手を握り返してくる。

「……うれしいです。ありがとう」
「……なんか、すごく緊張しました」
「でも、今の呼び方、私、好きです」

名前。それだけのことなのに、
呼び合える関係になるって、こんなに胸が熱くなるものなんだ。

ミカに、“なんかあったでしょ”ってバレた

週明け、会社に行くと、いつものように朝礼が始まった。
嫁子はいつも通り淡々と進行し、淡々と着席する。

ただ、俺はと言えば──

(……名前、呼んじゃったんだよな)

顔を見ると、なんかちょっと照れる。
目が合うだけで、昨日の記憶が蘇る。

そんな俺の様子を、ミカが見逃すわけがなかった。

「なんかあったでしょ」
「なにが」
「なんかあったでしょ。課長と」
「な……なんのことですか」
「目が合ったときの、あの顔」

(バレたか……?)

「いや、なんか……課長、最近やたら柔らかいしさ。お前の方が逆に不自然なんだよ」
「……別に、何もないよ」
「うーそ。まあ、いいけど」

(……ミカ、するどいな)

でもそれでいい。
バレたっていい。
もう隠したい気持ちは、どこにもなかった。

“この人となら”って思える日常

金曜の夜。
ふたりでスーパーに行って、野菜と鶏肉を買って、鍋を作って食べる。

「白菜って、洗う前に切る派ですか?」
「それは洗ってからでしょ」
「論争ですね」
「論争じゃないです」

食後、食器を洗って、ソファに並んでテレビを見て、
眠くなったらそのまま彼女の肩に頭を預ける。

(これが幸せなんだろうな)

旅行とか、高級ディナーとか、そういう派手なことは何もない。
でも、毎日の“安心”がここにはある。

その夜、彼女がぽつりと呟いた。

「……もし、このままの関係がずっと続いたら、私、幸せです」
「……俺も」
「……でも、“このまま”って、意外と続かないものですよね」

彼女の目は、どこか寂しそうだった。
たぶん、“終わり”を考えたことがあるから、こんなことを言うんだ。

(俺は、終わらせたくない)

そのとき、心が決まった。

(……この人と、生きていきたい)

今まで逃げてきた。人とも、自分とも、未来という言葉からも。
でも、彼女のそばにいて初めて、
「変わっていい」と思えた。

「……ちゃんと、伝えます。俺の気持ち」

彼女は、不思議そうな顔をしたあと、小さくうなずいた。

「……待ってます。いつまでもじゃなくて、できれば、近いうちに」


ネットで出会った上司に、“結婚してください”と言った日

プロポーズは、飾らない場所がいい

(どこで言おうか、何を着て、どう渡せばいいか……)

いろんなサイトを見たり、スレを読み漁ったりもしたけど、
結局、俺は「特別なことをしたい」よりも「ふたりらしい瞬間で伝えたい」と思った。

なにせ、きっかけはマッチングアプリ。
お互い“素”じゃない状態から、ゆっくり剥がして、
最後に見えたのが、本当の姿だった。

だからこそ、“普通”の時間のなかで、
さりげなく、それでいて確かに伝えたかった。

「土曜日、いつもの公園、行きませんか」
「お弁当、つくっていきますね」

そんな流れで、自然にデートの予定が決まった。
彼女が手作りしてくれたお弁当には、俺の好物ばかりが詰まっていて、
ピクニックシートの上で、ふたり並んで座って笑った。

「春、好きなんです。過ごしやすいし、なんとなく前向きな気分になるから」
「俺は、あなたといる時間があれば、どの季節でもいいです」

彼女が少し顔を赤らめて、目をそらす。
その仕草が愛しくて、俺は深呼吸を一つ、胸の奥まで吸い込んだ。

そして、ポケットに入れていた小さな箱を取り出す。

「──俺と、結婚してください」

沈黙のあと、初めて見る涙

一瞬、彼女の動きが止まった。

そして、ゆっくりと顔を上げた。

目元が、赤く滲んでいた。

「……本当に、言ってくれるんですね」

「本気です。最初は、ネットで出会って。まさか上司で。気まずくて。でも、あなたが“ことりさん”だったから、俺は今、ここにいます」

「……私も、あなたが“あなただから”、本当の自分でいられました」

彼女は、震える手でリングの箱に触れた。

「……夢みたいです」
「俺も、まだ夢の中にいる気分です。でも、夢じゃないですよね?」

「ええ、現実です……こんなに、泣いてるんですから」

彼女の涙が、春の風に揺れて光っていた。
会社では見せなかった表情。
“ことりさん”としても見たことのない、ありのままの、素の顔。

そのすべてを、愛しいと思った。

「あなたとなら、もう、孤独にならない気がします」
「俺も……もう、ひとりじゃないって思えたんです」

(怖がってた。誰かに踏み込まれること。誰かを信じること)

けど、彼女の隣で、それが少しずつ変わった。
不器用な俺と、不器用な彼女が、出会って、すれ違って、それでも向き合って──
いま、こうして「夫婦」になろうとしている。

彼女は、そっと指輪を手に取った。
そして、小さく、でも確かな声で言った。

「……はい。よろこんで、お願いします」

同僚たちの反応と、変わった世界の色

結婚の報告は、時期を見て会社に伝えた。
直属の部下と上司の結婚。ある意味、噂にはなった。

「うそだろ!? 課長と!? ……まじで!?」
「っていうか、よくあの鉄仮面口説いたな、お前……」
「いや、最近あの人、やたら優しくなってたの、そういうこと……?」

「正直、うらやましい……!」

山田は肩を叩きながらニヤニヤしてたし、ミカは号泣していた。

「マジかー……なんか、信じらんない。でも……お似合いだと思います!」

会社の空気も、変わった。

嫁子──もう俺の“妻”となった彼女は、少し柔らかく笑うようになり、
職場の人間関係も、少しだけ近くなった気がする。

俺自身も変わった。
陰キャで、コミュ障で、人と目を合わせるのが怖かった俺が、
今では、同僚と雑談もできるし、資料の説明も堂々とこなせる。

変わったというより、“変わらせてくれた”んだと思う。
あの人が、俺に“信じる”という体験をくれたから。

いま、そばにいるこの人が、全部だった

夜。並んで歯を磨きながら、彼女が言った。

「ネットで出会って、こんな結末になるなんて、思ってなかった」
「冷やかし半分でしたからね、俺」
「私は、本気半分でした」
「どっちにしろ、“嘘から始まった関係”ですよね」

「……でも、それが現実になった」

ふたりで、ふと笑う。

「あなたがくれた言葉が、今でも心に残ってます」
「どれですか」
「“ことりさんに出会えて、よかったです”ってやつ」
「……それ、プロポーズより前じゃないですか」
「でも、それが始まりだったんですよ。私があなたを信じようと思えたのは」

彼女が寄り添ってきたので、腕を回して、軽く抱いた。
部屋は静かで、心地いい暖かさが漂っている。

「じゃあ……もう一度言います」
「えっ?」
「出会えて、よかったです。あなたに」
「……ずるい。私も言おうと思ってたのに」
「じゃあ、ふたりで同時に言いますか」
「うん」

「──出会えて、よかったです」