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はっくなび
「静かな出会い、土の匂いとともに」
登場人物の紹介
俺(30代前半)
小さな村で家族と共に代々続く農家を営んでいる。田んぼと畑を三枚ずつ持っていて、主にキャベツとじゃがいも、それから季節の葉物を育てている。村のJA直売所に毎朝、採れたて野菜を運び込むのが日課。人づきあいは得意じゃないが、黙々と働くことにかけては誰にも負けない自負がある。口癖は「ま、野菜は嘘つかねぇしな」。
嫁子(年齢不詳、20代後半か)
ある秋の日、直売所の臨時アルバイトとして突然現れた女。細身で小柄。首筋のあたりに疲労がにじむ。無表情で、黙って品出し作業をこなす。目に生気がなく、誰とも口をきかずに働いている。化粧気はまったくない。だが、野菜を触る指先だけは妙にやさしい。
久子さん(50代後半)
直売所のまとめ役。地元の名物おばさんで、しゃべり出したら止まらない。常に割烹着姿で、「男なんてのは、野菜と同じ、根っこで育てるもんなのよ」が持論。俺のことを「〇〇ちゃん」と呼ぶが、本名ではなく勝手につけたニックネーム。嫁子のことも何かと気にかけている。
田中さん(40代後半)
運送業のトラックドライバー。JAの農産物流を担当していて、農家との連絡も密に取っている。見た目はいかついが、お人好しで涙もろい。嫁子にも何度か声をかけるが、返事はあまりない。
出会いの朝
季節は秋。朝霧の残る直売所の開店前、俺はトラックの荷台からキャベツのコンテナをゆっくりと下ろしていた。土がまだ乾ききっていない。朝露に濡れたコンテナの底が、足元のコンクリートに「ぐしゃ」と濡れた音を立てる。
「おはよー!今日も甘そうねぇ、そのキャベツ!」
久子さんが、店先から手を振ってくる。俺は無言で会釈して、次のコンテナを手に取った。今日も、言葉より野菜が雄弁だった。
そのとき、ふと視線の先に見慣れぬ女が立っているのに気づいた。
控えめな紺色の帽子を深くかぶっていて、目元しか見えない。グレーのパーカーに黒いパンツ。服は地味だが、どこか都会の空気をまとっていた。腰をかがめて、丁寧にトマトを並べている。
「……誰?」
俺の声は、自分でも驚くほど小さかった。
「今日からバイトに来た子よ。嫁子ちゃん。よろしくねって、まだ誰にも言えてないけど」
久子さんが、俺の耳元でささやくように言った。
「なんか、東京から逃げてきたって。詳しくは聞かないけど、ね。ほら、顔見てみなさいよ。……光がないでしょ、あの目」
俺はふたたびコンテナを持ち上げ、無言で直売所の裏手へ向かった。だけど、その背中にまとわりつくような視線を感じた。振り返ると、彼女――嫁子は、こちらをじっと見ていた。怯えるようでもあり、何かを探しているような、そんな瞳だった。
無言の朝時間
その日から、俺たちはほぼ毎朝顔を合わせるようになった。
俺は運び屋。嫁子は品出し。ふたりとも、口をきかない。ただ、仕事は真面目にこなす。キャベツを積み上げる俺の横で、嫁子がそれを並べる。スムーズだった。呼吸が合っていた。
「……このキャベツ、柔らかくて、甘い」
ある日、俺が何気なく置いたキャベツに、ぽつりと声が落ちた。驚いて顔を向けると、嫁子が、ほんの少しだけ口角を上げていた。
「……噛んだら、泣きそうになる味」
たぶん、今まででいちばん多くの言葉を聞いた瞬間だった。
俺はそのとき、何も言えなかった。ただ、帽子のつばを指で少し下げた。
久子さんのひとこと
昼休憩、久子さんが手ぬぐいで汗をぬぐいながら言った。
「あの子ね、夜もバイトしてるんだって。パン工場。寝てない顔してるもん。あんた、たまには声かけてやんなさいよ。野菜のことなら話せるんじゃない?」
俺は首を横に振った。
「無理に話すことはねえよ。人は、黙ってりゃいい時もある」
「……あんたは、ほんとに土臭い男だねぇ。でも、あの子も似たような匂いがするわよ。東京で、心まで干からびた子って、こっち来ると呼吸が戻るのよ。……土の匂いがするからね」
久子さんのその言葉が、俺の胸の奥で、ゆっくりと沁みていった。
「おにぎりの時間と、はじめての言葉」
ゆっくり近づく昼休み
10月も後半に入り、空気は乾いているのに、直売所の中は人の熱気でほんのり暖かい。
けれど、昼休みだけは少し静かになる。
カゴ台車が止まり、レジの機械音も落ち着いて、全員が一斉に各々の持ち場から離れていく。
嫁子はいつも店裏の資材置き場で、小さくなっておにぎりを食べていた。
水筒の蓋を開け、ぬるくなったお茶をすすりながら、誰とも目を合わせない。
俺がいつもその場に野菜箱を洗いに来ることは知っているはずだが、視線を合わせることはなかった。
だけど、その日だけは少し違っていた。
「……それ、つけものですか」
俺がキャベツの外葉をコンテナからはがしていたとき、不意に声が降ってきた。
振り返ると、嫁子の手のひらに、おにぎりが一つ、きれいな三角のまま乗っていた。
横には、タッパーに詰められた何か――それは、俺が今朝、畑で抜いたばかりの大根の葉を炒めて漬けた自家製の菜っ葉だった。
「うん、自分ちで作ったやつ。葉っぱとごま油だけ。塩は控えめにしてある」
「……ごはんが進む味、ですね」
嫁子はそう言って、ぽつんと笑った。
口角はほんのわずか、でも確かに上がっていた。
おにぎりを半分
それから数日、昼になると俺は、洗い物を終えたあと、嫁子の座っている近くに腰を下ろすようになった。
言葉はなくても、同じ時間を過ごしているという安心感があった。
ある日、嫁子は自分の弁当箱を差し出した。
「……これ、食べきれないので。良かったら」
開けると、卵焼きがひとつ、真ん中に入っていた。
焼き色がちょっと薄くて、形も少しだけ崩れていた。でも、不思議とやさしい香りがした。
「東京じゃ、こんな弁当食べられなかったな。コンビニか、パンばっかりで……」
初めて、嫁子が自分の過去に触れた。
「職場の冷蔵庫に、自分の名前書いて弁当入れてたら、それだけで陰口言われたんです。“あの人、まだ自炊してんの?”って」
嫁子は、そのときは笑っていた。でも、その笑いには棘があった。
「誰にも期待されないって、楽だけど悲しいですね」
静かな声。少し、震えていた。
俺の返事
「……俺の野菜は、期待されて育ったわけじゃねえけど、なんか美味くなった」
そう言ったとき、俺自身も気づいていなかった。
ただ黙って、土を耕し、水をやり、虫を避けて、季節に従ってきただけの毎日。
その中で、何かが少しずつ変わっていたのだ。
俺の野菜が、誰かの心に届いていた。
嫁子は黙ったまま、またおにぎりをひとくちかじった。
そして、小さな声でぽつり。
「……あなたの野菜、噛むと胸がきゅうってなる味がします」
俺はその言葉が、どんな褒め言葉よりも重く、あたたかいものだと知った。
トラックの音と田中さんの視線
その日の帰り道、田中さんが俺の肩をぽんと叩いてきた。
「おう、〇〇(名前略)! 最近、ちょっと顔がやわらかくなったんじゃねえの?」
「……何が言いたいんだよ」
「いやなに、昼にあの子と並んで座ってる姿がな。ほら、こっちが恥ずかしくなるくらい、穏やかでよ」
田中さんは冗談めかして笑ったが、俺はその視線から目を逸らした。
知らないうちに、何かが動き出している――そんな予感がしていた。
「風邪と、野菜と、涙の味」
冬のはじまりと、ぽっかり空いた場所
朝の空気が急に冷たくなった。
霜が降りるようになった朝、いつものようにコンテナをトラックから降ろしながら、俺は違和感を覚えていた。
品出し台の前――いつもなら、黙ってキャベツを並べていた嫁子の姿が、ない。
最初は「休みかな」と思った。けれど、久子さんの表情が、やけに渋い。
「……あの子、昨日から来てないのよ」
「……何かあったのか」
俺は自然に、そう聞いていた。
久子さんは頷いたあと、ふと視線を落とした。
「風邪。熱が出たらしいの。…でも、病院にも行ってないって。ひとりで部屋にこもってるって、大家さんが言ってた」
俺は、黙ってキャベツを並べ続けた。けれど、手の動きがどこか雑だった。
俺の手が震えるときなんて、めったにない。けれど、今日は違った。
トラックの荷台で、野菜を選ぶ
その日の午後、俺は直売所の裏に回って、自分のトラックの荷台を開けた。
キャベツをひと玉。外葉を丁寧に剥いで、きれいな芯巻きのやつを選んだ。
じゃがいもも、形のいいのを五つ。土付きのままにした。
それから、朝採りのほうれん草と、小ぶりの人参を数本。
「……あいつ、これ食えるかな」
トラックの横で煙草を吸っていた田中さんが、俺の手元を覗き込んだ。
「お、野菜のお見舞い? やるじゃん、気が利くねぇ。ま、あの子、きっと喜ぶよ」
「別に……そういうんじゃねえ」
だけど、俺の声に力がなかったことを、田中さんは気づいていたかもしれない。
はじめての訪問
その日の夕方、俺は野菜を紙袋に詰め、嫁子が住んでいると聞いたアパートの一室を訪ねた。
駅から少し離れた場所。二階建ての古びた木造アパートで、外廊下を歩くたびに床が「ギシ」と軋んだ。
202号室。呼び鈴を押しても、反応はなかった。
けれど、中からかすかな咳の音が聞こえた。
「……俺だけど。野菜、持ってきた」
沈黙。数秒後、ゆっくりと扉が開いた。
マスク姿の嫁子が、そこにいた。顔色が悪い。頬がこけ、目の下にくっきりとした影ができていた。
「……どうして」
「久子さんが言ってた。風邪で休んでるって」
俺は袋を手渡そうとしたが、嫁子はそれをじっと見つめるだけだった。
「……あなたが作ったもの、食べたいです」
その声は、かすれていた。
そして、嫁子の目が、ほんの少し潤んでいた。マスクの上、赤くなったまぶたが震えていた。
ひとりのごはんと、ふたりの空気
「……キッチン、使っていい?」
俺がそう尋ねると、嫁子は小さく頷いた。
アパートの中は、最低限の家具だけ。冷蔵庫とポット、ちゃぶ台。
だけど、流し台は綺麗に磨かれていた。
俺はキャベツを刻み、ほうれん草を茹で、じゃがいもと人参を塩だけで煮た。
コンロの火をつける音が、部屋に小さな安心感を与えた。
「……この匂い、懐かしい」
嫁子が、そうぽつりとつぶやいた。
ベッドの端で毛布にくるまりながら、台所の方をじっと見ていた。
俺は、手を止めずに答えた。
「土の匂いか? ……俺の服、まだ畑のまんまだからな」
「……ううん。そういうんじゃなくて」
小さく笑って、嫁子は言った。
「人が、自分のために火を使ってくれる音。たぶん、それが懐かしいんです」
食卓と、沈黙の会話
できあがったスープを茶碗によそって、ちゃぶ台に並べた。
嫁子はゆっくりと起き上がり、手を合わせた。
「……いただきます」
その言葉は、たった五文字。だけど、涙ぐんでいた。
一口目を食べて、目を閉じる。そして、ぽろぽろと、涙が落ちた。
「なんで……こんなに優しい味なんだろう」
「たぶん、冷蔵庫で忘れられてないからだ」
「……え?」
「畑で、誰かが待ってると思ってたら、野菜も気張るんだよ。たぶん」
嫁子は顔をふせた。
だけどその肩が、すこし震えていたのを、俺は見逃さなかった。
「ここに、いたいという気持ち」
冬の土と、乾いた風
年末が近づくころ、村の空はどこか遠く高くなり、風は乾いていて、葉の落ちた木々の枝が空を引っかくように揺れていた。
だけど畑の土はまだ生きている。キャベツはしっかりと締まり、根菜たちは甘みを増す。
嫁子が風邪をひいてから数日、彼女は直売所に戻ってきた。
いつも通りの帽子、けれどほんの少し顔色がよくなっていて、目元にうっすらと赤みが差していた。
たぶん、少しだけ、栄養が戻ったのだ。
「……ありがとうございました。あの夜、来てくれて」
俺は何も言わなかった。ただ一瞬、頷いただけ。
嫁子はもう、それ以上聞かなかった。
年始の直売所
1月の直売所は、それなりに忙しい。
帰省客、正月明けのまとめ買い、そして地元の人たちの野菜補充。
だけど、どこか空気がゆるい。
常連の客は顔なじみばかりで、嫁子の存在にも、少しずつ慣れはじめていた。
「最近、あの子笑うようになったねぇ」
久子さんが、笑顔でつぶやく。
「おにぎりの具、何か毎日変わってるのよ。今日は、梅干しと大根の葉っぱだったわよ」
「……それ、俺んとこの葉っぱだ」
「ふふ、あんた、良い嫁さん候補見つけたねぇ~。土付きで」
俺はまたしても答えなかったが、頬がわずかに熱くなっていた。
「土の匂いが落ち着く」
立春を過ぎたころだった。嫁子がふと、ぽつりと言った。
「……ここに、住んでいたいと思うようになってきました」
直売所の裏手、午前の仕事が終わったあと、ふたりで段ボールをまとめているときだった。
「ここって、この村のことか」
「はい。……朝、空気が冷たくて、畑から湯気が上がってるのを見ると、すぅっとするんです。
東京にいたときは、起きるたびに胸がぎゅうっとなって……起きたくなかった。
でもここでは、土の匂いを吸うと、ちょっとだけ呼吸が深くなる」
俺は、黙って段ボールを縛った。
「……変ですね。たぶん、逃げてきただけの場所だったのに」
嫁子は、自分の指先を見つめながらつぶやいた。
「でも、土って……どこまでも深くて、あったかい。そんな気がするんです。
誰も、言葉で追い詰めてこないし……野菜だけは、正直だし」
その言葉に、俺は思わず笑った。
「俺もそう思ってる。だから農家やってんだろうな」
「……はい」
嫁子は笑って、またほんの少しだけ、頬を赤くした。
春のはじまり
3月、雪解け水が畑にしみ込み、芽吹きの気配が土の中で脈打っている。
嫁子はもう、直売所の一員だった。
久子さんにも認められ、常連のおばちゃんからも「東京から来た子」として可愛がられていた。
「東京って言っても、たいしたもんじゃないですよ。電車で揉まれてただけです」
そう言って、たまに笑うようになった。
昼休み、おにぎりをふたりで分け合う時間が、習慣になっていた。
「……今日は、あんたの大根。めちゃくちゃ甘かった」
「霜が降りて甘くなったんだ。畑も、あったかくなる前にもう一回頑張るんだよ」
「畑も、ひとみたいですね」
「……ああ。ちゃんと見てりゃ、気持ちは分かる」
静かに、だけど確実に、ふたりの間に流れる空気はやわらかくなっていた。
「春の音と、誰かの隣にいるということ」
春の陽と、畑の音
3月下旬。
畑では春植えの準備がはじまり、肥料の匂いが風にのって漂いはじめる。
俺はトラックの荷台に、腐葉土や苗箱を積みながら、朝の直売所に立ち寄った。
いつもと同じように、嫁子が品出しの準備をしている。
けれど今日は、少しだけそわそわしていた。帽子の下で、前髪を何度も直す仕草。
「どうした、なんか目が泳いでんぞ」
俺が声をかけると、嫁子は小さく笑って、
「……今日、仕事終わったら見せてもらえませんか。畑のこと、もっと知りたくて」
その言葉に、俺はわずかに手を止めた。
「……いいよ。帰りに寄ってけ。夕方なら、光も柔らかい」
嫁子は少しだけ、目を見開いて、それからコクリと頷いた。
畑の夕暮れ
その日の夕方、嫁子は俺の軽トラの助手席に乗って、はじめて畑へとやってきた。
砂利道をゆっくり走り、俺の祖父の代から使っている畑へと着く。
夕陽が西の山に沈みかけ、畝(うね)の間に、長く細い影を落としていた。
「ここが俺んちの畑。向こうに見えるのが、田んぼ。今はまだ水張ってないけど、来月には田植え始まる」
嫁子は無言で、その風景をじっと見つめていた。
そして、足元の土をそっと指先で触れた。
「……やわらかい」
「冬の間に寝かせてたからな。耕すときは力が要るけど、今がいちばん“素直”な時期だ」
「素直、か……」
嫁子の声は、小さく震えていた。
「東京にいたとき、こんな空の色、気づきもしなかった」
そう言いながら、ふと視線を上げる。
山の端が金色に染まり、空には薄い朱が広がっていた。
「……ここに来てよかったって、はじめて思いました」
嫁子の横顔は、どこか安心しきった子どものようで、俺は思わず、手を伸ばしたくなった。
でも、何もせずにポケットの中で手を握った。
「おまえさ」
「……はい?」
「もう、東京に戻らねえのか」
一瞬の間。そして、
「……戻りません。だって、私……ここで息できてますから」
村の春まつりと久子さんの勘
4月初旬。村の小さな神社で、春の祈願祭があった。
直売所の常連たちも顔を出し、餅まきや野菜の直売、炊き出しが並ぶ。
嫁子も、エプロン姿で焼きそば係を手伝っていた。
けれど、明らかに緊張していて、返事が少し固い。
「まあまあまあ、お嫁さん修行みたいなもんよ!」
と、隣で久子さんが豪快に笑った。
俺が米を炊きながらその光景を横目に見ていると、久子さんがすっと近づいてきて、小声で言った。
「……ねぇ、もうちょっと気ぃ回しなさいな。あの子、がんばって村に馴染もうとしてるのよ。
“俺は喋らなくていい”って思ってるみたいだけど、違うでしょ? 女は、気持ち、聞きたいのよ」
俺は、何も言えなかった。
久子さんの言葉は、いつも的を射ている。俺の心の奥に、静かに差し込んでくる。
春の夜、ふたりきり
祭りのあと、帰り道。
嫁子を送っていくトラックの中、ふたりは黙ったままだった。
でも、助手席からふいに声がした。
「……あの、お祭り、すごく楽しかったです。
たぶん、人生で初めて、“ここに居ていい”って思えました」
俺は、ハンドルを握りながらふっと息をついた。
「居ていいんじゃなくて、居ろよ」
沈黙。
「……え?」
「ここで、暮らしていけ。もう、どこにも行くな」
その言葉は、たぶん俺にしては、精一杯の告白だった。
嫁子はしばらく黙っていた。
そして――俺の袖口を、そっとつかんだ。
「……はい。私、居たいです。あなたのそばで、畑の匂いの中で」
「土の上の暮らし、ふたりの毎日」
ふたりの朝
5月。
田植えを控え、畑はもっとも忙しい時期に入った。朝は早く、夜も遅い。けれど、ふたりの時間はそのなかでもしっかりと存在していた。
嫁子は、村の外れにある空き家に引っ越してきた。
久子さんが「よし、こっちで段取りしといたから」と言って、元民宿の小屋を借りてくれたのだ。
風通しがよくて、古い木の匂いがして、軒先にはツバメが巣を作りかけていた。
「……朝の鳥の声が、目覚まし代わりですね」
そう言って、嫁子は笑った。
東京にいたころ、目覚ましは5分おきに3台使っていたらしい。
「うるさいだけで、起きる気にはならなかったです。
でも今は、鳥の声も風の音も、ちゃんと“聞こう”って思える」
そんな嫁子の言葉を聞くたびに、俺は内心、胸のどこかがあたたかくなるのを感じていた。
嫁子の仕事と、直売所の風景
嫁子は直売所のパートを続けながら、週に何度か俺の畑の手伝いにも入るようになった。
俺は最初、「無理すんなよ」と言ったが、嫁子は首を振って、
「手を動かしてると、心が静かになるんです。むしろ、休みたくないくらいです」
と笑った。
最初はぎこちなかった鍬の扱いも、今ではだいぶ様になってきた。
根を切らずに苗を移す手つきは、どこか野菜に話しかけているような柔らかさがあった。
久子さんは、それを見てにやりと笑っていた。
「やっぱりねぇ。“あの子、野菜に向いてるわ”って最初から思ってたのよ。
人間より、素直な相手のほうが合ってるタイプだもん、あんたたち」
俺たちは、顔を見合わせて、少し照れくさそうに笑った。
夜の食卓、土の香りと音
ある夜、嫁子が俺の家に夕飯を持ってきた。
炊きたてのごはんと、大根とにんじんの味噌汁。
俺が育てたほうれん草のおひたしも、白い器にきれいに盛られていた。
「……これ、全部、あなたの野菜です」
「ほぉ。見た目も味も、文句なしだな」
「……ほんとは、ちょっとだけ、料理勉強してたんです。こっそり。
ここで暮らせるようになったら、ちゃんと“誰かのためにご飯を作る”ってこと、やってみたくて」
俺は、箸を止めて、まじまじと嫁子を見た。
「……最初、あんなにやつれてたのに。今は、なんか……すげえ元気そうだ」
「はい。…たぶん、土のせいです」
そう言って嫁子は、味噌汁をすするふりをして、顔を隠した。
村の人たちと嫁子
村の人たちも、嫁子の存在に少しずつ慣れていった。
「東京の子かと思ってたけど、よう働くなあ」
「ほうれん草の並べ方、きれいだったわよ」
「おにぎりの話、また聞かせて」
誰かに認められるたびに、嫁子の背筋はまっすぐになっていった。
「……期待されるの、こわいと思ってたけど、今は、ちょっと嬉しいです」
そう言った日の夜、嫁子は縁側で、俺の母がくれた古い浴衣を直していた。
ほどいた糸くずが、風に乗って舞い上がる。
俺は何も言わず、その様子を見ていた。
この暮らしが、この光景が、ずっと続けばいいと――初めて、強く願った。
「嫁、土臭いけど、可愛い」
初夏の風と田んぼの音
6月、村の田んぼに水が張られる季節。
日が昇ると同時にカエルの鳴き声が始まり、夜になるとその合唱は一層強くなる。
水面に空が映り、風が走るたびに波紋がひろがる――そんな、静かで忙しい時期。
嫁子はもう完全に、俺の畑と暮らしに馴染んでいた。
朝、弁当を手にして軽トラに乗り込み、夕方、土まみれで帰る。
「東京での生活が夢みたいだ」と、ふとした瞬間につぶやく。
直売所では、「〇〇さんとこの奥さん?」と声をかけられることも増えた。
嫁子はそのたびに、「え、あ、まだ……」と困ったように笑っていた。
俺もまた、否定しなかった。
小さな「事件」
ある日、畑の奥で嫁子が小さく叫んだ。
「……わ、うわっ」
何かと思って駆け寄ると、手のひらにミミズを乗せて固まっている嫁子がいた。
表情は完全に「動けない」の一点張り。
「……なんで手ぇ乗せた」
「間引きしてたら、にょろっと…! わたし、まだミミズはレベル高いです」
俺は無言で、そっとミミズを土に戻した。
そのあとも嫁子は、しばらくふるふると肩を震わせていた。
「ごめんなさい、こんなんで“農家の嫁”って言えるのかなあ……」
「言えるさ。土に触って逃げねえだけ、もう十分だ」
「でも、くさいでしょ、土」
「……お前は、土臭いけど、可愛い」
自分で言って、すぐ後悔した。
けれど嫁子は、その言葉を聞いて、ふいに笑いながら、畝にうつぶせになった。
「……もう、なんですかそれ。ずるい」
夕陽が、その背中を照らしていた。
結婚を決めた夜
夏が近づき、夜の空気がぬるくなってきたころ。
嫁子が、夕飯のあと、庭に椅子を出して空を見ていた。
俺も隣に腰かけ、ビール缶を一本渡した。
星がぽつぽつと出始め、田んぼからカエルの声が聞こえてくる。
「……このまま、ここにいていいですか。
ずっと。毎日、あなたの隣にいても、いいですか」
その言葉は、静かだったけれど、強かった。
「……俺も、それを言おうと思ってた。
ほかに誰がいても、俺は、たぶんお前を選ぶ」
「……ミミズに驚いても?」
「関係ねぇ。そういうの込みで、“うちの嫁”になるなら、問題ねぇ」
嫁子は黙って、俺の袖をつまんだ。
そして、小さな声で、
「……ありがとう。生きてて、よかった」
そう言った。
久子さんの反応
翌朝、直売所の休憩所で、久子さんに報告した。
「……結婚することになった。村で、籍入れる」
久子さんは、おでこに手を当てて、「あらまぁ」と一言。
「やっと、口にしたのね。
あの子、昨日の夕方、泣きながら“ありがとう”って言ってたのよ。
“土と、人と、味噌汁と、未来と――それ全部があったかい”って」
俺は黙ってうなずいた。
その日から、「〇〇さんとこの嫁子さん」は、完全に「村の嫁」になった。
「ふたりの結婚式、畑のまんなかで」
特別じゃないけど、大切な日
結婚式らしいことは、しなかった。
ドレスもケーキもなかったし、チャペルも司祭もいなかった。
俺たちが選んだのは、「今日も野菜を運ぶ」という、いつもの日。
ただ、ひとつ違ったのは――
朝、嫁子が白いシャツを着ていたこと。
「……特別な服なんて持ってないから、これくらいしか…」
そう言いながら、少しだけ緊張してた。
けど、その白は土に映えて、すごく似合ってた。
久子さんが、店の一角に「祝♡ご成婚」の手書きポップを立てた。
マジックの太字で、にこにこマークまで描かれていた。
「式なんてやんなくていいのよ。
この村じゃ、“嫁が野菜並べてる”ってだけで、充分式だから」
そう言って久子さんは、炊き込みご飯を大鍋で炊いてくれていた。
村の人たちの祝福
正午すぎ、直売所の裏にいつものメンツが集まっていた。
田中さんは紙パックの甘酒を持ってきて、
「はいはい、祝いの一杯。トラック運転あるから酒はダメだけど、気分だけでもな!」
と言いながら、俺の背中をどんと叩いた。
「おまえ、ようやく人並みになったなぁ。
このまま一生、畑に話しかけて生きるんじゃないかと思ってたぜ?」
俺は甘酒を受け取りながら、嫁子のほうを見た。
小さな紙コップを手にして、誰かの言葉に「ありがとうございます」と何度も頭を下げていた。
その姿は、少し照れくさそうで、でも、しっかりと地面に立っていた。
「……この村の人、やさしいですね」
嫁子がそう言ったとき、俺はそっと答えた。
「そう見えるのは、たぶん、お前がやさしいからだ」
「……やっぱりずるい。そういう言い方」
「農家は、野菜だけじゃなく、人も育てるんだよ。
……俺の言葉、土と同じで、ちょっと時間かけて効くからな」
嫁子は、笑って、目尻をぬぐった。
畑のまんなかで
夕方、人が少し引いたころ。
俺は、嫁子を畑の真ん中へ連れていった。
「……ここが、一番きれいに土が寝てる場所」
嫁子は、しゃがみこんで土を触った。
ゆっくりと、その感触を確かめるように。
「ここが、“うちの畑”になるんですか?」
「おう。お前と一緒に植える場所。
まずは秋大根からだな。けっこう体力いるぞ」
「……大丈夫です。ここでなら、踏ん張れそうな気がする」
土の匂いが、夕暮れの風に乗って、やわらかく漂っていた。
「……嫁、土臭いけど、やっぱり可愛いな」
そう言ったら、嫁子は土をすくった指で俺の腕をちょんと突いてきた。
「……それ、式のとき言うセリフですか?」
「俺らの式には、それがちょうどいい」
ふたりの間に、やわらかい風が吹いた。
翌朝
翌日も、何も変わらない朝が来た。
朝露の残るキャベツを積んで、トラックに乗り込む。
助手席には、今日も嫁子が弁当を抱えて座っている。
「今日も一日、よろしくお願いします」
「おう、嫁。出荷遅れると久子さんに叱られるぞ」
「はい、農家の嫁として頑張ります」
ふたりの声が交差するたびに、畑の向こうに、夏の気配が近づいてきた。
「土と、ふたりと、これからと」
いつもどおりの朝
夏が来た。
陽ざしが強くなり、草の匂いが濃くなる季節。
畑のキャベツはもう収穫を終え、今はトマトとナスが実をつけ始めていた。
直売所の朝は相変わらず忙しい。
嫁子はもう完全に「村の人」。
誰も彼女を「東京から来た子」なんて呼ばなくなった。
「ほら嫁子ちゃん、そのナス、形いいねぇ」
「こないだの漬物、おいしかったよ。あんたの味だねぇ」
久子さんや常連のおばちゃんたちに囲まれて笑う姿は、もうすっかりこの土地の空気をまとっていた。
俺はそれを、いつもの位置から見ている。
静かに、けれど心の底から満ち足りた気持ちで。
おなかに、小さな命
ある日の夕方。
畑からの帰り道、軽トラの助手席で、嫁子がぽつりと言った。
「……あのね、ちょっと、確認してほしいことがあって」
差し出されたのは、産婦人科の診察カード。
小さな丸がひとつ、名前の欄に光っていた。
「……できたのか」
「うん。まだ小さいけど、ちゃんと“生きてます”って言ってた」
俺は言葉が出なかった。
ただ、ハンドルを握る手に力が入りすぎていた。
「……大丈夫? なんか、すっごく静かだけど」
「……いや、すげえ、嬉しい。
けど、なんか、どうしていいか分からねえ」
「それ、言葉に出してくれてよかった。私も同じだから」
そう言って、嫁子は窓の外を見た。
夕暮れの空に、鳥が一羽、まっすぐ飛んでいった。
はじめての胎動
季節は秋へと変わり、稲穂が金色に染まるころ。
嫁子のおなかはふんわりと丸くなり、俺の母が昔使っていた妊婦用の割烹着が引き出しから出された。
夜、湯たんぽを準備していたら、嫁子が手を止めて言った。
「……今、動いた。中で」
俺は咄嗟に手を伸ばし、おなかにそっと触れた。
なにか、たしかに、そこに“生きている”感じがした。
「……すげえな。おまえの中で、育ってんのか」
「うん。あなたの野菜と、あなたの言葉と……
それでできてる、小さな誰か」
嫁子の声は、ふるえていた。
「この子も、土の匂いを好きになってくれるかな」
「たぶん。だって、おまえの子だし」
俺は、その夜、はじめて自分の家族を“未来”として想像した。
冬が来る前に
冬のはじまり、初霜が降りた朝。
俺はいつも通り、コンテナを積みながら嫁子を見た。
ニット帽を深くかぶって、ふっくらしたおなかを抱えながら、慎重に歩く姿。
それを久子さんがさりげなく支えている。
田中さんは、俺に缶コーヒーを投げてよこして、
「ほれ、もうすぐ“親父”だぞ。気張れよ、農夫」
と言って、トラックのエンジンをふかして去っていった。
俺はその背中を見送りながら、嫁子の方に歩いていった。
「今日も、うまくいきそうか?」
「うん。……この子、たぶん、キャベツの匂いで目が覚める子になる」
「そいつは、いい子に育つな」
ふたりは笑って、手をつないだ。
冷たい空気のなか、ぬくもりだけが確かだった。
土の匂いは、愛の匂い
俺たちの出会いは、言葉のないところから始まった。
野菜と、土と、まっすぐなまなざし。
「期待されない人生が楽だけど、寂しい」
そう言った嫁子は、今、小さな命を抱えて笑っている。
「お前は、土臭いけど、可愛い」
その言葉は、冗談でもなんでもなく、今の俺たちを全部あらわしてる。
畑には、また次の芽が出ている。
俺たちの暮らしも、これからもっと育っていく。
――誰かと一緒に生きるということは、
言葉より、静かな日々の積み重ねで語られるものなのかもしれない。
そう思いながら、俺は今日も、朝の土を踏みしめている。