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はっくなび
「うちの子が泥団子で泣いた日」
(俺の視点から語られる、自己紹介と現在の生活、そしてある日保育園で起きた事件まで)
「……おかえり」
俺はその日、保育園のお迎え時間にいつもより少し遅れていた。残業が長引いたわけじゃない。単純に、息子が泣いてるって電話があって、焦ってタクシー飛ばしてきたのだ。息子は、園庭のすみにある砂場で、泥だらけの顔のまま泣いていた。
「どうした、何があった?」
保育士の飯田先生が、困ったように俺に声をかけた。
「すみません、ちょっとトラブルがありまして……○○ちゃんと泥団子を取り合っちゃって。息子くん、すごく大事にしてたみたいで」
そう言って、俺に頭を下げてきたのは――見知らぬ女の人だった。年は、俺と同じか少し下くらいだろうか。痩せていて、髪は一つにまとめている。おしゃれはしていないけど、妙に整っていて、すっとして見える人だった。
「あの、すみません……うちの子が……」
「いや、うちのも、泣いてるってことは意地になってたと思いますし……」
(正直、この“子ども同士のケンカの仲裁”が、まさか人生を変える出会いになるなんて、その時は想像すらしてなかった)
俺は34歳。
中堅のシステムエンジニアだが、バリバリ働くタイプではない。むしろ、子どもが生まれてから仕事のギアは一段下げた。というのも、俺は今、ひとりで息子を育てている。
4年前、息子が生まれた。
その1年後、妻に浮気された。しかも2度目だった。1度目の時は俺も「俺にも悪いとこがあった」と思って許した。でも2度目は――息子の写真をスマホで見ながら知らない男と連絡を取り合ってたときは、もう何かが切れた。
離婚は、裁判までいったが、親権は俺がとった。向こうが「母親をやる資格がない」って泣いて引いたからだ。息子は俺に懐いていたし、むしろ「男手ひとつで育てる」って覚悟を決めるのに、そこまで時間はかからなかった。
飯田先生とは、もう2年の付き合いになる。
保育園の先生としては、フランクで、でもしっかり子どものことを見ていてくれる。俺がシングルファザーだってことも理解してくれてて、「今日の息子くん、めっちゃがんばってましたよ」とか「泥団子、3個作ってました」とか、さりげなく声をかけてくれる。
でも、今日の泥団子事件は――正直、俺の方が動揺してた。
「すみません、うちの子も、ちょっと……私が朝、イライラしてて……」
「いえ、子ども同士のことですし。謝らないでください」
そう言ってお互い、微妙に頭を下げ合ったまま、なんとも言えない空気が流れた。
「疲れた顔の女の人」
彼女――つまり、泥団子を一緒に作っていた○○ちゃんの母親は、いつも疲れてるような顔をしていた。
よく見ると、目の下にクマがあるし、手には洗剤か何かのしみが残ってる。朝の送りのときも、どこか必死で、「ギリギリ間に合いました」みたいな感じで園に駆け込んでくる姿を何度か見たことがあった。
「……大変ですね、朝の準備とか」
思わず、俺がそう言った。
「はい……最近ちょっと、仕事もバタバタで」
「娘さん、うちのと仲いいみたいで……今日のはびっくりしましたけど」
「こっちこそ……ごめんなさい、泥団子って、なんか、こだわる子なんです」
「うちのもです……3個目が“完成品”なんだって言ってて、家でも乾かして飾ってます」
(なんだこれ、まるで小学生同士の会話だ。でも……少し笑った彼女の顔は、ちゃんと人の顔をしていた)
その日は、息子を連れて早めに帰った。
帰り道、泣き止んだ息子がポツリと言った。
「○○ちゃん、俺の泥団子、ぐしゃってした」
「……うん」
「でもさ……そのあと、なんか泣いてた」
(ああ、やっぱりあの子も後悔してたんだろうな。そりゃ、泥団子ひとつで――いや、されど、か)
俺は家に帰ると、息子の手を洗い、風呂を沸かし、ご飯を出した。
一人親ってのは、やることが多い。料理、洗濯、掃除、保育園の準備。すべてを完璧にできるわけじゃないが、息子が笑ってくれるだけで、なんとかなる気がする。
それにしても……あの人の「ごめんなさい」には、どこか、切実な響きがあった。
(また会うだろうな。保育園だから、避けようにも避けられないし……)
息子が眠ったあと、ふと頭をよぎったのは、あの少し笑った横顔だった。
(変な言い方だけど……俺と、似てるのかもしれないな。疲れてるのに、誰にも頼れないところ)
「ぎこちない朝のあいさつと、子どもたちの絆」
翌朝、保育園の門をくぐると、少しだけ足が止まった。
(昨日の彼女、来てるかもしれないな……)
あの、娘さんと一緒に泥団子を取り合った母親。俺と同じく、疲れた顔をしていた。でも、最後に見せたあの小さな笑顔が、妙に気になっていた。
「おはようございます」
先に声をかけてくれたのは、保育士の飯田先生だった。
「おはようございます。昨日は、ありがとうございました……」
「いえいえ。○○ちゃんも息子くんも、今日は仲良くしてましたよ」
「そうなんですね……(よかった、今日は大丈夫そうか)」
そのときだった。
「……おはようございます」
少し小さめの声で、後ろから女性の声が聞こえた。
振り向くと、彼女がいた。
無地の白いシャツに、くたびれたベージュのカーディガン。髪はひとつに結ばれたままで、今日もやっぱり、ちょっと疲れた顔をしていた。けど――どこか、昨日よりは目が合いやすかった。
「……おはようございます」
「……あの、昨日は、本当にすみませんでした」
「いえ……うちの息子も……」
(また同じ会話の繰り返しみたいだけど、でも……昨日と違って、今日は少しだけ、自然に話せた気がする)
彼女の娘――○○ちゃんは、俺の息子の手を引いて、園庭の奥に駆け出していった。
ふたりとも笑ってる。昨日あんなに泣いていたのが、まるで嘘みたいだった。
「……なんだか、子どもってすごいですよね。ケンカしたのに、次の日にはケロッとして」
「ほんとに……羨ましいくらい、気持ちの切り替え早いですよね」
(そう口に出しながら、ふと、今のこの空気のことを思った。“気持ちの切り替え”って、大人にも必要なんだよな)
「名前を聞きそびれたまま」
それから、しばらく沈黙があった。
俺は何か言おうとしたが、何を話せばいいのかも分からず、結局、黙って彼女の横に立っていた。
「……あ、じゃあ、私そろそろ……仕事、ちょっと遅れそうで……」
「あっ、はい。俺も……じゃあ、また」
「……はい」
そして、俺たちは別々に園を出た。
(……名前、聞きそびれたな)
それが、俺の朝の小さな後悔だった。
夜――
息子と夕飯を食べながら、ふと話題に出した。
「○○ちゃんと、今日は仲直りできたの?」
「うん! いっしょに、また泥団子つくった! 今日は、ぐしゃってしないって約束した!」
「そっか、それはよかったな」
「でね、○○ちゃん、ほんとにおうちでも泥団子つくってるんだって! 紙のおさらにのせてるんだって!」
(……やっぱり、あの娘さんも、泥団子に思い入れがあったんだな)
「○○ちゃんのおうち、行ってみたいなぁ……ごはん、いっしょにたべたいなぁ……」
「え、ごはん?」
「うん! ○○ちゃん、カレーたべたいっていってた!」
子どもの会話って、本当にストレートだ。
驚きながらも、心の中でちょっと笑ってしまった。
(まだ、親同士の名前も知らないのに、子どもたちはもう“友だち”なんだな)
「送り迎えの時間が重なるように」
数日後――
朝と夕方、保育園の送り迎えが少しずつ重なるようになっていった。
「あ、おはようございます」
「お疲れさまです……今日はちょっと早かったですね」
最初のころのぎこちなさは、ほんの少しずつ、薄れていた。
互いの名前はまだ聞いていない。でも、「○○ちゃんママ」とか「息子くんのパパ」とか、飯田先生が呼ぶのを聞きながら、なんとなく認識しあっている感じだった。
園庭では、息子と娘が今日も一緒に遊んでいた。
泥団子は卒業し、最近は木の枝を使って「魔法使いごっこ」らしい。いつのまにか“パーティ”らしく、2人で「魔法の杖はこっち!」と叫んでいた。
「ふたり、ほんとに仲良くなりましたね」
「ですね……(ほんと、驚くくらい)」
「うちの子、あんまり人見知りなんですけど……息子くんの前では笑ってるから、なんか嬉しくて」
(そう言って微笑んだ彼女を見て、ふと――名前を、聞きたくなった)
「……あの、すみません。名前、聞いてもいいですか?」
「えっ……あっ、はい。わたし、○○です。下の名前は、あまり使わないので……苗字だけで」
「○○さん、ですね。俺は……まあ、息子の送り迎え担当の、ただの父親です」
「ふふ、なんか変な自己紹介ですね」
(ちょっと笑ってくれてよかった。こうやって、少しずつでも距離が近づいてるのが、わかる気がした)
「○○ちゃんちでご飯食べたい、って言われた」
「パパ、○○ちゃんち行きたい」
夕食の支度をしていた時、息子がぽつりとそう言った。
手に持っていたじゃがいもを落としそうになった。
「え?」
「○○ちゃんが言ってた。ママのカレー、おいしいって。パパも食べたらって」
(いやいや、なにその急展開。子どもたち、そんなに仲良かったのか……)
俺は驚きながらも、息子の真剣な目を見て、ふと少し考えた。
確かに、最近、○○ちゃんと息子は毎日一緒に遊んでいる。
迎えの時間になると、ふたりは並んで絵本を読んでいたり、おもちゃの片付けを手伝っていたり、まるで兄妹みたいに見えることもある。
でも――ご飯って、それはつまり「家に上がる」ってことだ。
(彼女とそんなに話してないし、こっちから頼むのも気が引けるし……)
「○○ちゃんちのご飯かぁ……行けたらいいね。でも、ご飯はおうちで食べような」
「えー……○○ちゃん、ほんとに食べてって言ってたもん」
息子は、あからさまにふくれっ面になった。
(……マジで言ったのか?)
翌朝。保育園の門前で。
俺は、昨日のことが少し気になっていた。
息子がどこまで本気で言っていたのか。○○ちゃんの言葉が本当なら、あの子は親に何て言っているんだろう――
すると、その彼女が、娘と一緒に現れた。
「おはようございます」
「おはようございます……あの、すみません、ちょっと……お聞きしてもいいですか?」
「あ、はい?」
(正直、この時点でもう心臓バクバクだった。何をどう切り出せばいいのか全然分からなかった)
「……うちの息子がですね、○○ちゃんちでご飯が食べたいって言ってて……」
「あっ……あはは、それ、ほんとに言ってたんですか、あの子」
「え、じゃあ……冗談じゃなく?」
「いえ、本気で。『ママのカレーは世界一おいしいから、息子くんに食べてもらいたい』って昨日ずっと言ってて……」
彼女は、少し照れたように笑っていた。
髪を耳にかける仕草が、どこか恥ずかしそうで、でも――嬉しそうでもあった。
「……ご迷惑じゃなければ、うち、今夜ちょっと多めに作りますので。もし、よかったら……」
(この人、すごいな。自分も忙しいはずなのに、こんなふうに受け入れてくれるなんて)
「ほんとに、いいんですか? 無理してないです?」
「無理はしてますけど……最近、娘があんなに嬉しそうなの、久しぶりなんです。正直、疲れてて笑うことすら忘れてたんですけど、息子くんと一緒にいると、娘が明るくなるんですよね」
(この言葉、なんか、すごく刺さった)
「じゃあ、……今夜、お言葉に甘えてもいいですか?」
「はい、ぜひ」
(この時点で、俺はちょっとテンパってた。でもそれ以上に、なんか、心があったかくなった)
「手料理の匂いと、初めての訪問」
夕方、保育園の帰りにそのまま○○ちゃんの家に向かった。
マンションの一室。エレベーターを降りると、すでに廊下にカレーの匂いが漂っていた。
「どうぞ、あんまり広くないですけど……」
部屋に入ると、そこには“暮らし”があった。
干しかけの洗濯物、小さなカウンターに積まれた仕事の書類、娘の描いた絵が冷蔵庫に貼ってある。
「すみません、片付いてなくて」
「いえ、うちも似たようなもんです。うちは、干しっぱなしの靴下がアートになります」
「ふふ……それ、ちょっと見たいかも」
(なんだろう、こうやって笑ってくれるの、すごく嬉しい)
テーブルに出されたカレーは、たしかに“普通”の見た目だった。
でも、ひと口食べてみて、俺は素直に言った。
「……これ、うまいですね。ほんとに」
「よかった……いつも娘が『またカレー?』って文句言うので……」
「うちの息子も、“カレー3日連続事件”で泣いたことありますよ」
笑い合って、子どもたちの様子を見ながら、ご飯を食べた。
ふたりは黙々と食べていて、時々カレーの中の人参の大きさで揉めていた。
「ありがとうって言われた夜」
帰り道、息子を抱えてマンションを出た時、彼女が見送りに出てきた。
「今日は、ほんとにありがとうございました。ごちそうさまでした」
「こちらこそ。……なんか、久しぶりにちゃんと“誰か”とご飯食べた気がして」
「俺もです。息子とふたりだと、会話が“仮面ライダー”一択なんで」
「わかります、うちは“プリキュアかカレー”です」
しばらく沈黙があって――
「……ありがとう、来てくれて」
「こちらこそ。誘ってくれて、ありがとうございます」
(この時、心のどこかで、“もう一度、来たい”って思ってしまっていた)
「雨の日の傘が、ひとつだけだった」
その日の夕方、空は朝から怪しかった。
曇り空はどんよりとしていて、風も少し強くて、今にも降り出しそうな重たさを感じさせていた。
(やばいな……傘、持ってきてなかったな)
駅を出たとき、ポツリと大粒の雨が落ちてきた。
俺はジャケットのポケットをまさぐったが、折りたたみ傘なんてもちろん入ってない。
(……俺らしいな、こういうときの準備のなさ)
息子の着替えとタオルは一応持ってきてるけど、それでどうにかなるわけでもない。
早足で保育園の門にたどり着いたとき、彼女――○○ちゃんの母親が、すでに園舎の軒下で娘を抱きかかえるようにして待っていた。
「あ……」
「あっ……こんばんは」
彼女の肩には、小さな紺色の折りたたみ傘が乗っていた。
でも、よく見るとその傘、完全にひとり用で、子どもとふたりでもちょっときついくらい。
「……降ってきちゃいましたね」
「はい……傘、あります?」
「……ないんですよ。天気予報、見逃してて」
「わたしも、ちっちゃいのしか持ってきてなくて……でも」
彼女は傘を少し持ち上げて、俺に向けて差し出した。
「これで、4人、いけるかな……?」
(傘の下で、4人? 無理に決まってる。……でも)
俺は無言でうなずいた。
「肩と肩が、くっついてた」
結局、俺が傘を持ち、子どもたちを前に、俺と彼女がその後ろにかがむようにして歩くことになった。
道路の端を、そろりそろりと進む。雨は次第に強くなり、傘の上を叩く音がうるさいくらいになった。
「……ごめんなさい、私のせいで濡れちゃいますよね」
「いえ、むしろ俺のせいです。忘れてきたの、こっちなんで」
(近い。肩と肩が、こんなに近くなるのって……何年ぶりだろう)
傘の下で、彼女の髪からは雨の匂いと、微かにシャンプーの香りが混ざっていた。
それがなんだか、妙に落ち着く匂いだった。
「こういうの、なんか……修学旅行みたいですね」
「……ああ、ありましたね。雨の中、傘忘れて誰かとくっついて歩くやつ」
「私、男子と相合傘なんて、中学以来かもしれません」
(それを言うなら俺もそうだ。相合傘なんて、浮気される前の元嫁とだって、ほとんどなかった)
子どもたちは、途中から「雨すごーい!」とか言ってはしゃぎ始め、泥の跳ねた道をぴょんぴょん跳ねていた。
「……あーあ、洗濯物、また増える……」
彼女が呟いた言葉に、俺は思わず吹き出してしまった。
「まったくです。せめて今日は、泥団子じゃなくてよかった」
「ふふ……」
傘の下で、ふたりの笑い声が、雨音に混ざった。
「限界、なんです」
マンションの下まで着いた頃には、雨は土砂降りになっていた。
傘の縁からは水が滴り、俺の背中はすっかり濡れていた。
「ほんと、助かりました……濡れちゃいましたね、すみません」
「大丈夫です。……でも、ほんと、すごい雨ですね」
「……はい」
彼女は、少し黙ったあとで――ぽつりと、呟いた。
「……職場が、もう限界なんです」
「え……?」
思わず、聞き返してしまった。
「ごめんなさい、変なこと言って……でも、なんか……今日、家出るとき、娘が“今日のママ、泣いてる顔だよ”って言ってきて……」
「……」
「今の職場、事務なんですけど、正社員じゃないし、急に呼び出されたり、休み取りにくかったりで……。子どものために働いてるはずなのに、なんでこんなに罪悪感ばっかり感じてるのか、わかんなくなっちゃって」
彼女の声は、かすかに震えていた。
娘がまだ横にいることを気にしてか、涙は見せなかったけど――その顔には、ずっと我慢していた何かがにじんでいた。
俺は、息子の手を握ったまま、小さく深呼吸した。
「……履歴書、添削しますよ」
「えっ……?」
「元々、うちの部署って採用関係のシステムもやってて、履歴書とか職務経歴書、見る機会多くて……。俺でよければ、相談乗ります」
彼女は、少し目を見開いたあと、ふっと笑った。
「……頼って、いいんですか?」
「もちろん。俺も……頼りたいくらいなんで」
(それは、本音だった)
「履歴書見ますよ、って言ったら連絡先をくれた」
あの雨の日の夜、息子を風呂に入れたあとも、俺の頭はずっと、彼女の表情が離れなかった。
(“職場が限界”って言葉、他人事に思えなかった)
うちも、似たようなもんだ。
子どもが熱を出して早退したら、うっすら舌打ちされたこともある。
「おまえだけが親じゃないんだぞ」なんて言われたことも、笑って受け流したけど、今でもふと胸に残ってる。
でも――彼女は、それを笑わずに、ちゃんと「限界」って言った。
その正直さに、逆に救われたような気がした。
翌朝の保育園。
俺は思いきって、声をかけた。
「昨日の話、履歴書の件……本気で言いましたよ」
「……本気だったんですか?」
「むしろ、職業病みたいなもんで。データの整形とレイアウトのこだわりだけはうるさいですよ、俺」
「ふふ……そういうの、嫌いじゃないです」
彼女は、少し迷ったようにして、それでも決意した顔で言った。
「じゃあ、LINEとか……交換してもいいですか?」
「もちろんです。……えっと、じゃあQR出しますね」
俺のスマホを差し出すと、彼女は自分のスマホを取り出して、無言でスキャンした。
ほんの数秒、沈黙があった。でも、不思議と嫌な感じじゃなかった。
「……送信しました。名前だけじゃ誰かわかりにくいかもなので、“泥団子の人”ってメモしてください」
「了解、“泥団子母”で登録します」
「ちょっと、それ、やめてくださいよ……!」
ふたりして笑ったあと、彼女がぽつりと呟いた。
「……ありがとう。本当に」
(こっちこそ。たぶん、ありがとうを言いたいのは、俺の方だった)
「履歴書に書けないことばかりで」
数日後の夜、LINEにPDFファイルが届いた。
《履歴書、やっと書きました……内容、薄いと思いますが……》
ファイルを開いた俺は、まず目を通しながら、ふっと息を吐いた。
(いやいや、全然薄くなんかない。むしろ、仕事の合間に子育てしながらこれを書いたのか、って思うと、もうそれだけで凄い)
内容自体は、派遣での事務経験が数年。スキルはWord・Excelが中心で、他に特筆すべき資格はなし。
でも、ところどころに入っている“人間味”のある言葉――たとえば「来客対応を笑顔で行うよう心がけた」「定時退社を徹底するために、業務改善の提案を小さく行った」――その言葉が、彼女の“生きてきた時間”を感じさせた。
俺は赤ペンを持つような気持ちで、アドバイスを書いた。
「この部分を数字で表現すると、もっと伝わります」「笑顔というワード、もう一度使ってみませんか?」
添削したファイルを返信しながら、つけ加えた。
《履歴書って、書類だけど、“生きてきたこと”を伝える紙だと思ってます。とても、良い履歴書だと思いますよ》
しばらくして、返信が届いた。
《……ちょっと泣きました。そんなふうに言われたの、初めてです》
そのあと、スタンプで泥団子の絵文字が送られてきて、俺は吹き出してしまった。
(なんかもう、どこまで真面目で、どこまでふざけていいのか、わからないな。でも、嬉しい)
「“家族ごっこ”の絵に、泣きそうになった」
週明け、保育園から連絡帳にこう書かれていた。
「○○ちゃんと息子くんが、共同で絵を描きました。ぜひご覧ください」
お迎えの時間、壁に貼られていた絵を見て、俺は思わず立ち止まった。
そこには、子どもが描いた4人の人物が並んでいた。
真ん中にふたりの子ども。その隣に、俺と彼女。
それぞれの頭には“パパ”と“ママ”の文字が書かれていた。
「……これは、家族ごっこですか?」
俺が小さく呟くと、横から彼女が顔を出した。
「みたいですね。昨日、“ごっこ”したらしいです。私は“ママ役”、そちらは“パパ役”」
「役って……」
「……でも、役じゃなかったらって、ちょっとだけ、思ってしまった自分がいて」
(俺も、思った。まったく同じことを)
彼女の目は、ほんの少し赤くなっていた。
「……子どもって、すごいですね。遠回しなことしないから、逆にストレートで」
「そうですね。言葉より、絵の方が、本音かも」
壁に貼られたその絵を、ふたりでじっと見つめた。
誰も、何も、言わなかった。
でも――その時間は、とても静かで、優しかった。
「このままごっこじゃなくて、家族になれたら」
保育園の壁に貼られた、子どもたちの絵。
そこに描かれていた“パパ”と“ママ”の文字を見てからというもの、俺の心はずっと、ざわついていた。
(たかが子どもの落書き、されど――)
その絵には、誰が見ても“家族”がいた。
丸い顔、笑った目、大きな手。4人が肩を並べて、まるでひとつの風景の中にいるようだった。
(俺は……)
いつからか、ひとりでいることが当たり前になっていた。
息子のためなら、それが正解だと信じてきた。
でも、あの絵を見たとき、俺の中で何かが崩れた。
「……帰ろうか」
保育園の門を出ると、彼女と○○ちゃんがすぐ後ろを歩いていた。
子どもたちは並んでしゃべっている。今日のおやつがどうだったとか、魔法使いごっこの新しい技とか。
その姿はまるで、本当に兄妹だった。
「ちょっと、寄り道しません?」
彼女が不意に言った。
「コンビニですか?」
「ううん……公園。夕暮れがきれいで、時々行くんです」
「夕焼けと、缶コーヒー」
近くの小さな公園に着いた。
ブランコに乗る子どもたちを見守りながら、俺たちは並んでベンチに座った。
彼女がコンビニで買ってきた缶コーヒーを手渡してくれた。
「……甘いのしかなかったです。ごめんなさい」
「いや、最近こういうの飲んでなかったので、逆に新鮮です」
夕焼けが、街をオレンジに染めていた。
彼女の頬にあたる光がやわらかくて、その横顔を、俺はしばらく黙って見つめていた。
「……怖くなったこと、ありますか?」
「え?」
「誰かと、また家族になること」
彼女は、小さな声でそう言った。
その目は夕日じゃなく、地面の方を見ていた。
「私は……一度、失敗してるから。誰かを信じるのが怖くて。生活を崩されるのも怖くて……」
「俺も……似たようなもんです」
俺は静かに返した。
「浮気されて、信じるのがバカらしくなって。でも、息子のことは裏切れなくて、ただ毎日生きてるだけで……」
「私も。○○の前では笑うけど、寝る前に毎晩“これでよかったのかな”って考えてしまうんです」
「……でも」
俺は、ゆっくりと、言葉を絞り出した。
「このまま“ごっこ”じゃなくて、ちゃんと“家族”になれたらって――そう思ってしまったんです」
彼女が、息を飲んだ音が聞こえた。
夕焼けが、さっきより少し赤くなった気がした。
「それって……」
「プロポーズとか、そういう立派なもんじゃないです。まだ俺自身が不安だらけで、ちゃんと全部支えきれるか自信もないし。でも……この関係を“いつか終わるごっこ遊び”で終わらせたくないんです」
彼女は、ゆっくりと、俺の顔を見た。
その目は、驚きでも拒絶でもなく――涙をこらえている、そんな目だった。
「……うれしいです。それ、すごく、うれしいです」
「……」
「でも、私も同じです。自信はない。何度もダメかもしれないって思う。でも、そう言ってくれる人がいるってだけで、また1日頑張れそうな気がするんです」
(なんだろう、この気持ち。緊張でもなく、安心でもなく――)
「ありがとう。そう言ってくれて」
「……こちらこそ、ありがとう」
俺たちは、言葉を交わしながら、子どもたちの遊ぶ声を聞いていた。
ブランコがきい、きい、と軋む音の中で、二人の心が少しずつ近づいていくのを、確かに感じていた。
「“家族になるって、どうするの?”って聞かれた」
それは、土曜の午後のことだった。
俺の部屋に○○ちゃんが遊びに来ていた。
嫁子――いや、もう俺の中では彼女をそう呼ぶべきか迷うようになっていたその人――がどうしても外せない仕事があり、うちで娘を預かることになったのだ。
「○○ちゃん、アンパンマン観る?」
「うーん……プリキュアがいい」
「……ですよね」
息子と○○ちゃんは、リビングで並んでお絵かきを始めた。
その間、俺は台所でカレーを煮込みながら、横目でふたりの様子を見守っていた。
「パパー!」
息子が呼ぶ声に振り向くと、ふたりで描いた絵を掲げていた。
「また絵か?」
「うん! 今度はね、けっこんしき!」
(……けっこんしき?)
「こどもたちが描いた“けっこんしき”」
紙には、大きなハートが描かれていた。
その中に、俺と嫁子、そして子どもたち。
嫁子は白いドレス、俺はタキシードらしき黒い何か。
笑って手をつないでいる。
「これ……ふたりで描いたのか?」
「うん! ○○ちゃんがね、“ママもドレス着たい”って」
「……そっか」
それを見ていた○○ちゃんが、ふいに言った。
「ねぇ、家族になるって、どうするの?」
その瞬間、俺は少し固まってしまった。
息子も、その質問の意味を考えるように、黙って俺の顔を見上げてきた。
「え、あー……」
(なんて答えればいい? “大人になって結婚したら”とか、“手続きがあって”とか? いや違う。違うだろ)
「家族になるのは……いっしょにいたいって思って、ちゃんと“そうしよう”って約束することかな」
「やくそく?」
「そう。ずっといっしょにいようって、約束」
「じゃあ、もうなってる?」
「え?」
「○○ちゃんと、いっしょにいるの、もういっぱい約束してるよ?」
「……」
(ああ、やっぱり子どもって、本質ついてくるな)
俺は笑って、ふたりの頭を撫でた。
「うん、じゃあもう、家族みたいなもんだな」
「みたい、じゃなくてほんとだよ?」
(息子のその言葉が、やけにまっすぐ響いてきた)
「わたしも、そう思った」
夕方、嫁子が迎えに来た。
カレーの匂いが残る部屋に、彼女が静かに立っていた。
「……ありがとう。ご飯まで出してもらって」
「いえ、うちもカレーだったので」
「うちもですよ……いつもカレーですね、私たち」
「泥団子とカレーで始まった仲ですから」
ふたりで笑って、そのまま玄関まで子どもたちを見送った。
靴を履かせている間に、息子が突然言った。
「ママ、パパとけっこんしたら?」
「えっ……?」
「○○ちゃんが言ってた。みんなでいっしょに住めばいいって」
その言葉に、嫁子はフリーズした。
俺も、どう反応していいかわからず、立ったまま固まってしまった。
でも、彼女は――すぐに笑った。
「それはね、ママとパパが、もっともっと仲良くなってからだよ」
「ふーん……じゃあ、いっぱいあそぼうね!」
子どもたちが先に玄関を飛び出したあと、俺と彼女は顔を見合わせた。
「……正直、ちょっとドキッとしました」
「……俺もです」
「でも、さっきLINEで絵を送ってもらって、思ったんです」
「え?」
「“もう家族なんじゃない?”って……わたしも、そう思ったんです」
俺は何も言わず、ただうなずいた。
そして、そっと彼女の手に触れた。
彼女も、それを握り返してくれた。
「ふたりの答えを、子どもたちに伝える日」
それは、思っていたよりもずっと静かな日だった。
朝から雲ひとつない晴天で、風もなくて、ただ穏やかに時間が流れていた。
俺の部屋では、鍋の中でルウのないスープカレーがコトコト煮えていた。
(今日は、ふつうのカレーじゃないやつで行こう)
息子は絵本を読んでいた。
その横で、○○ちゃんが折り紙を折っていた。
そして、玄関がノックされた。
「こんにちはー」
彼女が、ちょっと照れた顔でドアを開けた。
エコバッグに入った野菜や果物が見えている。
俺と目が合うと、なんとも言えない、あたたかい笑顔を見せてくれた。
「……来てくれて、ありがとう」
「こちらこそ。あの……今日、話、してもいいですか?」
「“もう、家族になっていい?”って」
ご飯を食べ終わったあと、リビングの空気が、少し変わった。
子どもたちはテレビの前で小さく笑っていたが、俺たちは目配せをして、うなずいた。
「ねぇ、○○ちゃん。息子くん」
彼女が、やわらかい声でふたりを呼ぶと、ふたりは振り返った。
「このあいだ、“けっこんしき”の絵、描いてくれたよね」
「うん! あれね、“ままはしろいふく、ぱぱはくろいふく”」
「うん、それそれ!」
息子がうれしそうに声を上げる。
「……あのね、ママとパパ、ほんとに“いっしょになる”ことにしたの」
「……いっしょ?」
「そう。ごっこじゃなくて、ほんとに“家族になる”って、決めたよ」
ふたりの目がまんまるになって、次の瞬間、息子が叫んだ。
「やったーーーっ!!」
○○ちゃんも、声を上げた。
「ほんとに!? ほんとのほんと!?」
「うん、ほんとのほんと」
彼女が言うと、ふたりの子どもは、なぜかその場で手をつないでぐるぐる回り出した。
「やった!やった!カレー家族だーっ!!」
「泥だんご家族だーっ!」
(……なんだその呼び名)
俺と彼女は思わず顔を見合わせて、笑った。
「子どもたちが先に、覚悟を決めてた」
その夜、子どもたちは並んで布団に入っていた。
今日だけ、という約束で俺の家に泊まることにしていた。
ふたりでゴロゴロと笑いながら、「家族会議」なるものをしているらしい。
「パパとママ、どっちが料理するー?」
「どっちもー!」
「じゃあ洗いものは?」
「……じーちゃん!」
「呼んでねぇよ」
そんな会話にくすくす笑っていた俺たちも、やがて言葉少なになった。
彼女は、子どもたちの寝息を聞きながら、小さな声で言った。
「……きっと、子どもたちの方が、先に覚悟してたんですね」
「……ああ、ほんとに」
「親の私たちが、どうしようどうしようって、ぐるぐるしてる間に……あの子たちは、“もうそうなってる”って思ってたんだなって」
俺は、彼女の手をそっと握った。
「でも、間に合ってよかった。逃げずに、ちゃんと踏み出せてよかった」
「はい……ありがとう。あなたのおかげです」
彼女は、俺の肩に少し寄りかかった。
その重さが、妙に心地よかった。
「プロポーズ、なんてできなかったけど」
実を言うと、俺はちゃんとしたプロポーズの言葉なんて用意してなかった。
指輪も買ってないし、花もない。
でも、それでも彼女は俺を選んでくれた。
そして俺も、彼女を選びたいと思った。
「ねぇ……」
彼女が、ぽつりと囁く。
「なに?」
「もし、あのとき……泥団子のケンカがなかったら、今こうなってなかったかもしれないですね」
「ほんとだな。……ありがとう、息子よ」
「○○にも、ありがとうって言わなきゃですね」
「うん。……今度、泥団子記念日、作るか?」
「なにそれ……ふふ、いいかも」
「泥団子記念日、って呼ぶことにした」
それからの日々は、急ぐようなものではなかった。
けれど、確実に何かが変わっていった。
たとえば、朝の保育園への送りが“交互”になったこと。
夕飯を“別々で食べる理由”がどんどん薄れていったこと。
洗濯物を“いっしょに干す”ようになったこと。
誰かの「生活」に、自分の「生活」が混ざっていく――
その変化を、俺たちはひとつひとつ噛みしめながら受け入れていった。
「ふたり分が、四人分になっただけ」
ある日曜日、彼女と子どもたちといっしょにスーパーへ買い物に行った。
「カート押して!」と張り切る息子と、レタスを握りしめて離さない○○ちゃん。
「ちょっと、レタスはあとで選ぼうって言ったでしょ」
「でもこの子、すごくしゃっきりしてるよ?」
「子どもが“しゃっきり”言う……?」
俺はふたりを笑いながら見守っていた。
その横で彼女がこっそり耳打ちしてきた。
「最近、スーパー来るのが楽しくなりました」
「前は?」
「“自分が食べるもの”しか買わなかった。栄養と値段だけ見て。でも今は……“誰かが食べる顔”を思い浮かべながら、買ってるから」
(ああ、俺も同じだ)
「ふたり分が、四人分になっただけ。それだけで、毎日が違うんですね」
「うん……ほんとに」
「みんなで泥団子を、もう一回」
そして――ある晴れた土曜、あの日と同じ保育園の園庭に、俺たちは立っていた。
「せっかくだから、あのときの“泥団子”、またやりたいって子どもたちが」
「ほんと、覚えてますね……でも、わたしも少し、やりたくなってました」
大人も子どもも、スコップとバケツを持って泥に向き合う。
水を加えて、手でこねて、丸くして。
どれだけ丁寧に扱っても、ちょっと力を入れすぎると崩れてしまう。
「……あのとき、壊れた泥団子のせいで、始まったんですね」
「うん。でも、壊れてくれたから、気づけたのかもしれない」
彼女の手の中に、まんまるな泥団子が乗っていた。
それを俺が、そっと両手で包み込む。
「次は、壊さないように、大事に育てましょうね」
「はい……わたしたちの“家族”も」
「そして、今日が“記念日”になった」
夜、4人で食卓を囲んで、息子がふと思い出したように言った。
「ねぇ、パパ、ママ」
「ん?」
「けっこんした日は、“けっこんきねんび”でしょ?」
「うん、そうだな」
「じゃあさ、“みんなのきねんび”っているよね?」
「みんなの……?」
○○ちゃんが手を挙げる。
「じゃあさ、“どろだんごきねんび”でいいじゃん!」
「それだっ!!」
「天才! ○○ちゃん天才!!」
ふたりでテーブルをばんばん叩いて盛り上がる子どもたち。
俺と彼女は、顔を見合わせて、同時に笑った。
「じゃあ……今日は“泥団子記念日”ってことで」
「はい、“うちの家族が始まった日”ですね」
その夜、手帳に、俺はこう書いた。
『6月○日 泥団子記念日。
家族が、“ごっこ”じゃなくなった日。』
「家族、ってこういうことかもしれない」
家族って、なにか特別なことをする集まりじゃない。
日々の洗濯をしながら、夕飯をつくりながら、靴を揃えながら、
ときどきイライラして、すぐ仲直りして、
そして気づいたら――その人がいない生活なんて想像できない。
そんなふうに、じわじわと沁みていく関係なのかもしれない。
俺たちは、泥だんごみたいな形から始まって、
すこしずつ、ちゃんと、固まっていった。
それは決して、華やかでも完璧でもなかったけれど――
「世界で一番、うれしい記念日」が、そこにあった。
完