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はっくなび
「相談所で初めて会ったけど…なんか、疲れてる人だった」
「はじめまして。よろしくお願いします」
そう言った彼女の声は、小さく、けれどやけに芯があった。相談所の面談ブース、ガラス張りの向こうにある窓から差し込む午後の日差しが、彼女の顔を照らしていた。けど俺は、その姿を見てまず一言――(あれ……だいぶ疲れてないか?)と、心の中で思った。
目の下にはうっすらとクマ。化粧は薄く、髪はやや乱れ気味。服装は清潔感こそあるものの、どこか「余裕がない人」という印象を強く感じさせた。
俺は38歳、某商社の営業職。年中全国を飛び回り、家にいる時間は正味、寝るためだけの数時間。朝は早く、夜は終電、土日は疲れて寝る。そんな生活をもう10年以上続けている。
だから――結婚相談所に登録した時も、「そんな時間で出会いなんかあるわけない」と、どこか自分自身に呆れながら、淡々とプロフィールだけを書き込んだ。身長、年収、趣味、休日の過ごし方……全部「ふつう」か「仕事」で埋めた。
家事はゼロ。料理も掃除も洗濯もしたことがない。コンビニと外食に命を支えられてきた独身男。
「俺には家庭は無理なんだろうな」そう思っていた――彼女に出会うまでは。
目の前にいる女性。名前は言わなかった(相談所のルールでフルネームは禁止だった)けど、仮に“嫁子”と呼ばせてもらう。
年齢は俺より2つ下の36歳。趣味は「料理、手芸、朝のラジオ体操」って書いてあったけど、いま目の前にいる彼女は、そのプロフィールとはちょっと違った。疲れている、というより……“やつれてる”という方が近かった。
「すみません……今日は、夜勤明けで……。ちょっと、テンポが遅いかもです……」
そう言って、薄く笑う。
(夜勤? でも役所勤務じゃなかったか?)と一瞬思ったが、たぶんパートでもシフト制なのかもしれない。最近の市民課や福祉関係の窓口は夜間も開いてるところがあると聞いた。
「じゃあ、自己紹介を順に、ですね」
相談所の仲人さんが笑顔で言う。形式的な面談。けれど、彼女はどこか所在なさげにうつむいて、頷くだけだった。
「俺は商社で営業やってます。いろんな地方を回っていて、まあ……まとまった休みは取りづらいですが、人と話すのは好きです。仕事は好きですね。家事は……正直、あまり得意じゃないです」
(得意どころか、何もできないんだけどな)
「……そうなんですね。忙しいお仕事ですね……」
そう返した彼女の声は、どこかしら眠たそうだった。
「私は……えっと……市役所で……パートとして、窓口業務をしています。高齢者の方や、生活保護関連の……相談窓口にいます。ちょっと……今月は、すこし、夜勤もあって……」
そこで彼女は、ひと呼吸。
「すみません、今日はちゃんと準備してこられなくて……。次の面談のときには、もっと元気にお会いできたらと思います」
その言葉と同時に、彼女は少し目を伏せた。俺は――(あ、もう帰るのかな)と思った。そして、やっぱりそうだった。
「本当に、すみません。今日はこれで……」
頭を下げると、彼女は立ち上がり、申し訳なさそうに、仲人さんに挨拶してブースを後にした。
「……あれで終わりか」
(そっけない、というより、完全に余裕がなかった)
俺はぼんやりと、空になった椅子を見つめた。初対面。普通なら、ちょっと緊張感があって、どこか取り繕うところもあるはず。けれど、彼女は違った。良く言えば“素”。悪く言えば“ぼろぼろ”。
「印象、どうでした?」
仲人さんが聞いてきたとき、俺は言葉に詰まった。
「……疲れてる人、でしたね。すごく」
それしか言えなかった。
でも、そのとき――不思議と悪い印象ではなかったのだ。可哀想とか、暗いとか、そんなふうには思わなかった。どちらかというと、(あの人、頑張って生きてるな)と、そんな風に見えたのだった。
数日後、仲人さんから連絡がきた。
「前回の方、もう一度だけお会いしませんか? ちゃんとお弁当まで作ってきてくださったみたいです」
(……え? 弁当?)俺は首をかしげた。
けれど――次に会ったとき、彼女が見せたものは、俺の印象を大きく塗り替えることになる。
「“余ったおかず”が、信じられないほど美味しかった」
その日も、商社の出張帰りでスーツのまま相談所に向かった。新幹線からタクシー、そして面談ルーム。俺の生活は基本、いつも“移動”でできている。
ドアを開けると、前回の彼女――嫁子が、先に座っていた。
「あ、こんにちは……先日は、すみませんでした……」
「いえ、全然……。大変でしたね、夜勤」
(この前よりは、だいぶ顔色がよくなってるな)
目の下のクマも薄くなっていて、髪も整っていた。けどやっぱり、どこか緊張している。そんな空気を察してか、仲人さんが少し冗談を交えながら場を和ませた。
「今日はですね……前回のお詫びというか……あの、職場でお弁当作って、余ったおかずがあって……」
そう言って、彼女が紙袋から出したのは、シンプルなタッパーだった。冷めても美味しそうな唐揚げ、卵焼き、煮物、きんぴら――どれも手作り感があって、丁寧だった。
「え……これ、全部作ったんですか?」
「はい……冷凍食品は、あんまり使わないです。食べるの、よかったら……無理にじゃなくて、もし……」
(いや、めちゃくちゃ食べたい……!)
でもそんなことは言わず、「ありがとうございます」とだけ言って、箸を取った。
まず、唐揚げを一口。
サクッ、ジュワッと。冷めているのに、下味がしっかりしてて旨味が濃い。なんだこれ、うますぎる。
続けて卵焼き。甘すぎず、でも優しい味。ふわふわ。
きんぴらは細く刻まれていて、歯ごたえがちょうどいい。味の濃さのバランスが絶妙。
そして、最後の煮物。これがまた、すごい。
「……うまい、ですね、全部……」
「……よかった……口に合うか不安で……」
そう言って、彼女はやっと少し笑った。
「すごいですね、これ。毎日、こんなの作ってるんですか?」
「はい……まあ、趣味、というか……ストレス発散で」
「えっ、発散……?」
「怒鳴られたり、文句言われたりした日ほど、逆に作りたくなるんです。丁寧に、ゆっくり……包丁握ってると、落ち着くというか……」
(……なるほど、料理が癒しなんだ)
「でも、それでこんなにうまくなるもんなんですかね?」
「慣れ、です。母も料理好きだったので……」
(家事ゼロの俺とは正反対だな)
「俺、料理は……まったくダメなんです。包丁、使えないです。自炊も、したことなくて……」
「えっ、そうなんですか? ごはんは……?」
「コンビニか、出張先の外食ですね」
「うわぁ……胃、疲れませんか?」
「そうかもですね。でも慣れちゃってるんで……」
そこで彼女は、少し真剣な顔をした。
「……慣れって、怖いですね」
その言葉に、思わず手が止まった。
(確かに……俺の生活、ほんとに“慣れてるだけ”だな)
「たまには、ちゃんと作ったごはん……食べません?」
その提案に、心のどこかが揺れた。初対面のときは“疲れてる人”だった。けど今目の前にいる彼女は、ちゃんと笑っていて、そしてすごく“普通”で“丁寧”な人だった。
なんか……安心する。
「……お願いします。もっと食べたいです」
「ふふっ、じゃあ……今度、また作ってきますね」
そうして、2回目の面談はあっという間に終わった。
仲人さんが帰り際に言った。
「いい感じですね。次は、二人だけで話してみませんか?」
そして、俺は初めて――自分から連絡を取ることになる。
「次、土曜日空いてますか?」
そのLINEに、すぐに「お昼なら!」と返事が返ってきた。
「『また食べたい』って思ったのは、はじめてだった」
その週の土曜日。待ち合わせは、市役所の裏にある小さな公園だった。彼女の希望だった。
「ここ、子ども連れも多いけど、ベンチ空いてるから落ち着いて話せるかなって……」
嫁子はそう言って、にこりと笑った。その笑顔は、1回目に会ったときとはまるで別人みたいに穏やかだった。
持ってきてくれたのは、またもや手作り弁当だった。
「今日は、ちょっと春っぽくしてみました」
タッパーを開けると、桜色のちらし寿司、菜の花のおひたし、鶏団子のあんかけ、桜餅――見た目も華やかで、思わず感嘆の声が漏れた。
「うわ……これ、全部作ったんですか? 朝から?」
「いえ、前の日の夜にある程度仕込んでおいて。朝はちょっと詰めただけです」
「いや、でも……すごいですよ。これ」
実際、すごかった。味も、彩りも、気遣いも。俺は感動しながら口に運んだ。
「……やっぱ、うまいなぁ」
(ほんと、体に染みる味ってこういうのだ)
「ありがとうございます。……なんか、食べてもらえるって嬉しいですね。こんなふうに、ちゃんと“味わって”くれる人に渡せると、作ってよかったって思えます」
「味わって、って……普段は?」
「職場の人は、弁当見ても“ふーん”とか、“また作ってんの?”とか。誰もちゃんと見ないし、食べる人もいないから」
そのとき、彼女の目が少し寂しそうに揺れた。
(……俺は、こんな美味いもん、ちゃんと味わってない人たちの代わりに、全部食いたいと思った)
「……じゃあさ」
「はい?」
「また、作ってくれませんか? 俺、すげぇ嬉しいです。こんな手間のかかった弁当、人生で初めてなんで」
「……ほんとに、そう言ってくれるんですね?」
「ほんとに。嘘だったら俺、商社やってられないです」
彼女は、ふっと笑った。その笑い方が、今までより少し深かった。
「……すみません、なんか、お弁当の人になってますね、私」
「なってますね」
「えっ!」
「でも、めっちゃいい意味でです。料理ってさ、なんか伝わりますよね。ちゃんと考えてる人の味っていうか」
「……よかった。そう言ってもらえると、作り甲斐あります」
(この人、本当に丁寧なんだな)
食べ終わったあと、ふたりでベンチに座って、日差しの中を飛ぶ鳩をぼんやりと眺めた。
「……俺、家に帰っても、電子レンジと冷蔵庫しか話し相手いないんですよ」
「ふふ、それは寂しい」
「でも今日、弁当と喋った気がします。『もっと食ってくれ』って言われた気がしました」
「……あはは、変な人ですね」
彼女が笑うと、その横顔が急に綺麗に見えた。化粧っ気はないけど、肌も髪もきれいで、何より、目がちゃんと笑ってる。
俺は、その瞬間に気づいた。
(あ、この人、いいな。疲れてるとか、そういう表面的な印象、もうどうでもいいな)
「……俺、次も会いたいです」
「えっ」
「いや、なんか、今日のこれ食べたら、次も楽しみで」
「……弁当目当てですか?」
「違います。……いや、ちょっとはそうかも。でも、それだけじゃないです」
彼女が少し目を伏せて、また顔を上げた。
「……私も。会えて、よかったです」
その言葉が、妙に嬉しかった。
別れ際、ベンチの下に小さな袋があった。
「忘れ物?」
「……あ、それ、今日のおかずの残りです。冷蔵で大丈夫だから、よかったら持って帰って、夜ごはんにどうぞ」
「えっ、いいの?」
「はい。あ、でも、お酒とかと合わせないでくださいね。味、分からなくなるから」
(……なんだこの、気遣いのかたまりみたいな人)
「了解です。白米でいただきます」
そう言って別れた帰り道、俺は袋の中身を見て、思わずニヤけた。
冷たいけど、なんかあったかい。味噌風味の鶏団子、切干大根、春キャベツの浅漬け。どれもきれいにラップされて、持ち運び用にきちんと詰められてた。
(やばいな……胃袋掴まれたって、こういうことか)
家に帰って一人で食べながら、俺は何度も「うまいなぁ……」と呟いた。
「気づいたら、俺の方から連絡してた」
日曜の朝。俺は目覚めてすぐにスマホを手に取った。
(……連絡、してみようかな)
昨夜食べた弁当の“残り”が、あまりに美味かった。いつもの冷凍ごはんやレトルト味噌汁じゃなくて、ひと口ごとに“ちゃんと人が作った味”がする。咀嚼のたびに思い出す、あの春キャベツの甘みや煮汁の染みた切干大根。目を閉じると、あのベンチの嫁子の横顔まで浮かんできた。
気づけば、LINEを開いていた。
「昨日のおかず、マジでうまかったです。特にキャベツ、プロですね」
10分後、返信がきた。
「わぁ、よかった。春キャベツは、塩もみして半日寝かせてから、昆布で味出してます」
(……うわ、手が込んでる)
「次は、何が食べたいですか?」
そう訊かれて、迷わず答えた。
「なんでもいいです。あなたが作ったものなら」
数秒間、既読がついたまま動かなくて、ちょっと焦ったが――
「……じゃあ、今度は和風ハンバーグにしますね。大根おろし付きで」
その返事と一緒に、にっこりマークの絵文字がついていた。
(やばい。完全に、俺がハマってる)
それから数日間、俺たちは毎晩LINEを交わすようになった。仕事で大阪や福岡を回っている間も、移動の合間をぬってスマホに目を落とす癖がついた。
「今日はクレーム対応で3件、怒鳴られました……」
「お疲れ様。そんな日は、甘いおやつ食べてください」
「今日はバナナケーキ焼きました」
「職場の差し入れにしたら、みんな驚かれました」
「俺にもください。常備しておきたいです」
「ふふっ、じゃあお疲れ弁当セット、考えますね」
毎日、なんてことないやりとり。だけど、彼女の一言ひとことが俺の生活に“静かな彩り”を足していった。
移動ばかりの俺。味気ないホテルの部屋。乾いた空気。インスタント味噌汁。無音の朝。
そんな日々に、彼女の声が混じるだけで、どこか体の芯があたたかくなる気がした。
三回目に会ったのは、俺の提案だった。
「今週末、東京戻るんで……もしよかったら」
「じゃあ、お昼だけなら。お弁当、持っていきますね」
「……いや、今回は外食しません? たまには楽してください」
「え? あ……あの、私、あんまり外食慣れてなくて……」
「大丈夫です。俺も、最近は“人の手料理”に慣れてきてますから」
そんな会話の末、俺たちは東京駅近くの小さな和食屋に行くことになった。
当日、待ち合わせ場所で彼女を見たとき、思わず「おっ」と声が漏れた。
柔らかなベージュのブラウスに、落ち着いた紺のスカート。髪もちゃんと結い上げられていて、ナチュラルメイクがよく似合っていた。
「おぉ、なんか今日は……すごく、明るい感じですね」
「え……あ、ほんとですか? これ……ちょっと頑張りました」
頬を赤らめながらうつむくその仕草が、何というか、すごく“かわいかった”。
小さな和食屋で並んで座る。昼の定食を注文して、出てくるまでの時間も、何を話そうか困ることはなかった。
「……最近、弁当があるから職場でも話しかけられるようになって」
「料理って、無言でも語る力ありますよね」
「でも不思議です。職場の人に褒められても、あまり嬉しくなかったのに……あなたに美味しいって言われると、すごく心に残ります」
(……それ、反則だって)
「……じゃあ、俺も正直に言います。こんなに人の料理が楽しみになるなんて、初めてです」
彼女は、少し泣きそうな顔で笑った。
食事のあと、店の外のベンチに腰掛けて、アイスコーヒーを飲みながら少し話した。
「……私、なんでこの人に料理をあげたくなるんだろうって、ちょっと考えたんです」
「うん」
「たぶん……“ありがとう”って言葉を、ちゃんと返してくれるからです」
「え?」
「あなた、毎回、ひと口ごとに“うまい”とか“しみる”とか、ちゃんと感じたまま言ってくれるでしょ。私、あれがすごく……救われてるんです」
彼女の横顔が、まぶしかった。
その日、別れ際に彼女がぽつりと呟いた。
「……こんなに話すようになると思ってなかったです。最初は、あまり印象よくなかったですよね」
「うん。正直、疲れてそうで、“大丈夫か?”って思いました」
「……ですよね。でも、こうやってまた会えて、ほんとに……嬉しいです」
彼女の目にうっすら涙が浮かんでいたのを、俺は気づかないふりをした。
(本当に、また会えてよかったよ)
「料理じゃなくて“人”に惚れてるかもしれない」
日曜日の夜、ホテルのベッドに寝転びながら、俺はスマホの画面を眺めていた。
「今日もありがとう、美味しかったです」
「いえいえ、こちらこそありがとうございました。次は何を食べたいですか?」
いつものようなやりとり。けど、今日はその一言が、妙に刺さった。
(……なんだろう、この感覚。楽しみっていうか、会えないと寂しいっていうか……)
ずっと俺は、“嫁子の弁当”に惚れていると思っていた。手作りの味、栄養のバランス、気遣いの言葉――どれも、あったかくて、沁みて、毎日の疲れを癒してくれる。
でも今日の食事中、ふと思ったんだ。
(――いや、俺が惚れてるのって、もしかして“料理”じゃなくて、“人”の方かもしれない)
会話のテンポがいいわけでもない。ノリがいいわけでも、派手な話題があるわけでもない。
けれど、ひとつひとつの言葉がやけに響く。
「職場で、誰にも感謝されなくても、自分で“ありがとう”って言いながら詰めてるんです」
「誰かの“疲れた”って言葉を聞くたびに、“じゃあ美味しいもの食べてください”って思うんです」
そう話す彼女の言葉に、どれだけ救われたか分からない。
営業先で怒鳴られた日も、部下の尻拭いで夜中になった日も、思い出すのは――彼女の「味」だった。
その週は大阪出張があった。
夜、ホテルの部屋でひとり、無音の中でコンビニ飯を食べながら、ふとメッセージを送った。
「今日の夜ごはんは、チキンカツ弁当でした。寂しい」
すぐに返ってきた。
「今週末、豚汁作りますね。疲れが飛ぶやつです」
その一文に、心がじんわり温かくなる。
(もう、完全に俺……やられてるな)
金曜の夜、東京に戻る新幹線の中で、LINEを開いた。
「今度、弁当じゃなくて、料理を教えてもらえませんか?」
「え? 本気ですか?」
「本気です。俺、もうちょっとちゃんと生きたいです」
「……ふふ。じゃあ、簡単な和食から、いきましょうか」
「はい、弟子入りします」
彼女の返信には、小さな鍋とおたまの絵文字が並んでいた。
日曜の昼、彼女の家の近くの料理教室スペースを借りて、“はじめての家庭料理講座”が始まった。
エプロン姿の彼女は、やっぱりよく笑っていた。
「まず、だしをとります。昆布と鰹節で。顆粒は、使いませんよ?」
「はいっ(ド緊張)」
「野菜は、切るときに“美味しくなれ〜”って思いながら」
「それ、ほんとですか」
「ほんとです。味、変わります」
「……じゃあ、俺もやります。美味しくなれ〜って、念じながら」
「あはは、声に出してる!」
教室のあとのごはん。
味噌汁が、やけにうまかった。自分で切った大根と、彼女が仕込んだ出汁で、沁みる味になった。
「……俺、なんか変わってきたかもしれない」
「変わりましたよ。だって、包丁持ってる姿、ちゃんとサマになってました」
「じゃあ……これからも、ちょっとずつ教えてくれますか?」
「……はい。よければ、ずっと」
その言葉を聞いたとき、俺は決めた。
(この人と一緒に、ちゃんと“生活”してみたい)
「“もう頑張るの疲れました”って言われた日」
その日もいつも通り、仕事帰りに彼女の家に寄った。といっても、正式に付き合っているとか、そんな言葉はまだ交わしていなかった。ただ、彼女が「今夜は肉じゃがです」とLINEをくれると、俺は自動的に吸い寄せられるように向かってしまう。それだけだった。
けれど、俺の中では、すでに答えは出ていた。
(この人の隣にいたい。このご飯を、毎日食べたい。この笑顔を、ちゃんと守りたい)
そう思っていた――あの日までは。
玄関を開けたとき、彼女はエプロンのまま、キッチンの床に座り込んでいた。
「……あれ?」
いつもは「いらっしゃい」と言って笑ってくれるのに、その日は違った。俺を見ても、微動だにせず、目の焦点がどこか遠くに飛んでいる。
「……おい、大丈夫か?」
そっと肩に手を置くと、彼女はびくっと震えた。
「あ、ごめんなさい……今日、疲れちゃって……」
「……今日は、なんかあった?」
「……うん。職場で、住民票の手続きのことで、怒鳴られちゃって……“こんな非効率なシステムで給料もらって恥ずかしくないのか”って……何回も、何回も」
俺は言葉を失った。今にも泣きそうな声だった。けれど彼女は涙をこぼさなかった。何度も経験して、もう出てこないんだろう。
「それで……帰ってきてから、料理しようとしたけど……包丁握っても、何にも浮かばなくて」
ぽつりぽつりと、彼女は言葉をつないだ。
「いつもだったら、“これ食べたら元気になってくれるかな”って思えるんです。でも今日は……誰の顔も、浮かばなくて」
「……」
「私、もう……頑張るの、ちょっと疲れました」
その言葉は、真っ直ぐで、痛かった。
俺はしゃがみ込んで、彼女の顔をのぞきこんだ。
「……じゃあ、もう頑張らなくていいです」
「……え?」
「あなたは、俺の家を……楽にしてください」
「……え、どういう……?」
「俺、あなたのご飯に救われたし、あなたの存在に救われた。だから、これからは俺が頑張る。家事も、料理も、ちゃんと覚えるから。少しずつでいい。あなたが“ただ楽しく生きてくれる”だけで、俺は十分です」
彼女はぽかんとした顔で、俺を見ていた。
「だから、うち来てください。もう俺の家、冷たいコンビニ弁当じゃなくて、あったかい味噌汁の匂いがする家にしたいんです」
「……それって」
「一緒に暮らしましょう。……結婚、前提で」
その言葉を口にしたとき、俺の心臓は破裂しそうだった。けど、彼女は、ふっと肩の力を抜いて、そして――泣いた。
静かに、静かに。長く、長く。キッチンの隅で、しぼり出すように。
「……ありがとう、ございます……」
「こちらこそ。ほんとに、ありがとう」
「こんな、何にもできない私なのに……」
「何言ってるんですか。あなたは、俺にとって……世界一の料理人で、世界一の味方です」
そのあと、ふたりで床に座ったまま、冷めた味噌汁を飲んだ。けど、味は全然、悪くなかった。
それから一週間後、俺たちは一緒に役所に行って、婚姻届を出した。
窓口の人が彼女の知り合いで、少し驚かれてたけど、最後にはにこやかに「おめでとうございます」と言ってくれた。
彼女はそのときも、泣きそうな顔で「ありがとうございます」と小さく答えた。
俺は――その背中を、誇らしく思った。
「結婚してから、嫁子がどんどん明るくなった」
結婚して、彼女――いや、嫁子と正式に暮らし始めてから、俺の生活は激変した。
まず、朝が変わった。
以前の俺は、スマホのアラームを3回止めてから無理やり起きて、無言のままシャワーを浴び、コンビニのパンをかじりながら家を出るのが常だった。
でも今は、台所から味噌汁の匂いが漂ってくる。
ご飯が炊ける音、玉子焼きが焼ける音。
その音と香りに起こされる朝になった。
「おはようございます、今日は鮭にしました」
「……うわ、いい匂い(幸せすぎるだろ)」
食卓には湯気の立った味噌汁、色鮮やかな小鉢、焼き鮭、ご飯。そして、嫁子の柔らかい笑顔。
「朝ご飯、しっかり食べるようになったら、顔色良くなりましたね」
「そうかな?」
「はい。職場で“最近、若返った?”って言われたんです。妻の飯パワーですね」
嫁子は照れくさそうに笑った。
「……そんな、私なんて、まだまだ全然」
「いやいや。俺の中では、世界一の料理人ですよ。あと、世界一優しい奥さんです」
「……もう、調子よすぎ」
そう言いながらも、嫁子の顔はどんどん柔らかく、明るくなっていった。
そして、嫁子にも変化があった。
「料理の記録、残してみようかなって思って……」
「え、何? 日記?」
「ううん、ブログです。レシピと、日々のちょっとしたことを」
「え、すごいじゃん。名前は?」
「“ふたりごはん帖”って……どうですかね、ちょっと恥ずかしいけど」
「最高じゃん。それ、俺も見るし、拡散するし、毎朝の元気になるよ」
「……ふふ、じゃあ、がんばります」
その日から、嫁子は日々の料理を写真に撮り、言葉を添えてアップしはじめた。
そこに綴られる文章は、彼女らしくて、優しくて、丁寧だった。
例えばこんな投稿。
「今日のごはんは、鮭の塩焼きとほうれん草のおひたし。
夫が“この味噌汁、実家よりうまい”と言ってくれて、ちょっと泣きそうになった。
料理は、気持ちで味が変わると信じてる。」
(やばい。読んでるだけでこっちが泣きそう)
彼女のブログは、少しずつ読者を増やしていった。
コメント欄には、「あたたかい」「ほっとする」「真似して作りました」といった声が並ぶ。
「……びっくりです。誰かが、私の料理で癒されたって言ってくれるなんて」
「それ、俺が最初に言ったからな」
「ふふっ、そうでしたね」
彼女の笑顔は、今まで見たどの笑顔よりも、明るかった。
一緒に暮らして、初めて知ることもたくさんあった。
嫁子は、洗濯のたたみ方にこだわりがある。
出汁は毎朝とる。顆粒は“たまに”しか使わない。
掃除機は、夜ではなく朝にかける主義。
寝る前には必ず、翌日の味噌汁の材料を冷蔵庫から出しておく。
(……すごい。生活って、こんなに丁寧にできるんだ)
そんな彼女の姿を見るたびに、俺は決意した。
(この人の時間を、できるだけ守りたい。
この人の“疲れた”を、俺が引き受けていきたい)
夜の食卓。
テレビもつけずに、ふたりでご飯を食べる時間。
あれが、俺の人生でいちばん好きな時間になった。
「今日のきんぴら、ピリ辛だったね」
「ちょっと鷹の爪、多かったかも。明日は甘めにしますね」
「……その調整がすごいんだよなぁ」
「ふふ。あなたの“うまい”って顔が、私の指標です」
(本気で、俺、人生でいちばん幸せかもしれない)
「“ありがとう”と“いただきます”のある毎日に」
「いただきます」
「今日も、ありがとう」
俺たちの朝は、いつもこの二つの言葉から始まる。
以前は無音の朝。
黙ってシャワーを浴びて、黙って出ていく――ただそれだけの空っぽな時間だった。
でも今は違う。
あったかい味噌汁の匂い、ふたりで並んで座る食卓、そしてこの何気ないやり取りがある。
「今日の味噌汁、具だくさんですね」
「冷蔵庫の整理も兼ねて、にんじんと油揚げ、えのき……いろいろ入れちゃいました」
「いやもう、毎回“今日が最高”を更新してくるよね」
「ふふ、それは……あなたの“おいしい顔”のおかげです」
「ありがとう」と「いただきます」。
たったそれだけの言葉なのに、なぜこんなにも、あったかいんだろう。
なぜ、これだけで「今日も頑張れる」と思えるんだろう。
嫁子は、食卓にすべてを詰め込む。
疲れた日も、眠い朝も、気持ちが沈むときでさえ――彼女は手を抜かない。
だけど、決して無理をしてるわけじゃない。
「料理は、感情を入れすぎないのがコツです。自分の機嫌に巻き込まないこと」
「え……どういうこと?」
「たとえばイライラして作ると、味がきつくなるし、無理して“感動させよう”って思うと、変に気合い入って空回りしちゃう。だから“ふつう”に、“いつも通り”を大事にするんです」
(……この人は、ほんとうに強い)
ある日、帰宅した俺に、嫁子が小さな紙包みを差し出した。
「はい、これ」
「ん? なんだこれ?」
開けると、そこには手作りの箸置きが二つ。
「陶芸体験で作ってきたんです。“朝の箸置き”と“夜の箸置き”。朝はちょっと元気出そうな形で、夜は落ち着く形にしてみました」
「これ……全部、自分で?」
「はい。でも、ちょっと不恰好です」
「いやいや、最高だよ。世界一だわ、これ」
俺はさっそく、夕食の箸の下にその“夜の箸置き”を置いた。
小さな幸せが、また一つ、増えた気がした。
「ねぇ、あなたって、前はどんな人だったんですか?」
夕食のあと、ふたりで茶碗を片付けながら、ふと嫁子が聞いてきた。
「え? どういう意味?」
「なんかこう……いまみたいに、“おいしい”って言う人じゃなかったんじゃないかって」
「……うん、確かに。前は、ほとんど何も感じないで食べてたかも」
「ですよね。最初は、表情少なかったし」
「それ、結構ショックだな……」
「ふふ、でもね」
「ん?」
「今は、毎日、“おいしい”って言ってくれるあなたの顔が、私のいちばんのご褒美なんです」
その言葉が、あまりにもまっすぐで、俺は不意に泣きそうになった。
ありがとう。
ほんとうにありがとう。
誰かが俺のために料理をしてくれて、俺がその味にちゃんと反応して、
「ありがとう」と言葉を返す。
「いただきます」で始まり、「ごちそうさま」で締める。
たったそれだけの循環が、どれだけ人を救うのかを、俺は彼女に教わった。
夜、眠る前。
ふたりで横に並んで寝るベッドの中で、俺はそっと言った。
「俺、ちゃんと生きてるって思えるんだ、今」
「うん……私もです」
彼女の手が、そっと俺の手を握った。
「俺の人生で、一番温かい“ごはん”だった」
ある晩、仕事が珍しく早く終わった。
俺は急いで家に帰り、まだ灯りがついていない玄関の前で、鍵を差した手を一瞬止めた。
(この扉の向こうに、あの人がいるんだよな……)
そう思うだけで、胸がじんわり熱くなった。
「ただいま」
「おかえりなさい。今日は早いですね!」
嫁子がキッチンから顔を出し、嬉しそうに笑った。
エプロン姿。髪はひとつに束ねられていて、頬がうっすら赤い。
部屋の中には、ほのかに出汁と醤油の匂い。俺の“帰る場所”は、ちゃんとここになった。
「今日ね、あなたが好きなやつ……あれ作ったんです」
「えっ、あれ?」
「……きんぴらと、あの甘めの卵焼き。それと、前に“これが一番沁みる”って言ってくれた筑前煮も」
「ああ……覚えてたんだ」
「当たり前です。“あなたの好き”を忘れるわけないじゃないですか」
(なんでだろうな。たったそれだけの会話で、涙腺がゆるむ)
「ありがとう。本当に、ありがとう」
食卓に座ると、茶碗と汁椀がちゃんと揃えられていて、箸置きは“夜用”の落ち着いた形のやつだった。
その小さな陶器にも、彼女の優しさが染みついている気がする。
「……なあ、ちょっと聞いていい?」
「はい?」
「お前、なんで俺なんかと結婚してくれたの?」
「えっ……な、なんですか、急に……」
「いや、ほんとに。俺、家事ゼロ、料理ゼロ、ひとりで生きてたし、正直、無口で不器用で……最初の印象だって、“疲れてる人だな”って思ってたし」
「ふふ、私も、あなたの第一印象、“感情なさそうな人だな”って思ってましたよ」
「うっ……マジか」
「でもね」
「……うん」
「お弁当を食べてくれて、“おいしい”って、心から言ってくれた。あのとき、ああ、この人なら大丈夫かもしれないって、少しだけ思ったんです」
「毎日、頑張るの疲れてて……でも、あなたの“ありがとう”が、私を生かしてくれたんです。だから……一緒にいたいって思った。あなたの“疲れ”も、“ありがとう”も、受け取りたくなったんです」
静かに、彼女はそう言った。
そのとき俺は、箸を置いた。
深く息を吐いて、手を伸ばして、彼女の手を握った。
「……お前の作るごはんが、俺の人生を変えたよ。俺、ほんとに、生き返った」
「……ありがとう」
「いや、違うんだよな」
彼女は首をかしげた。俺は少し照れながらも、まっすぐ目を見て言った。
「お前のごはんは、俺の人生で――一番、温かかった」
その夜、眠る前に嫁子がぽつりと呟いた。
「私ね、“ふつう”って言葉が、昔は嫌いだったんです。“ふつうの人間”って、何も特別じゃなくて、何の価値もない気がして。でも……今は、好きです。あなたと暮らすこの“ふつう”の毎日が、大好きです」
「俺も。“ふつう”で生きることが、こんなにありがたいなんて、知らなかった」
ふたりの手は、自然と重なっていた。
特別なドラマも、大きな事件もない。けれど、心が満ちる毎日。
「なあ、明日の朝ごはんって……」
「ふふ、もう聞くんですか?」
「気になっちゃってさ。だって、“今日の最高”を、また更新したいんだよ」
「……じゃあ、明日は……ちょっと豪華に、出汁巻きと、焼き鯖と、白和え、どうですか?」
「最高」
そう言って、ふたりは小さく笑い合った。
そして今も、毎日。
「いただきます」と「ありがとう」がある。
「また食べたい」と「また笑いたい」がある。
嫁子のごはんは、俺にとっての救いだった。
そして今では、俺の生きる理由になっている。
この人生で、一番温かい“ごはん”。
それは、ただの料理じゃなかった。――“一緒に生きる”っていう、心そのものだった。
――完――