生活のために結婚したいと言った彼女|2ちゃん馴れ初め風エピソードまとめ【結婚相談所編】

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はっくなび

「結婚は、生活を守るためでいいんです」って言われて、少しだけ泣きそうになった

「35にもなって、彼女なし、結婚歴なし、友達付き合いほぼゼロって、やっぱヤバいのかな」

そんなことを思ったのは、上司の送別会で「奥さんがさ〜」って話が止まらなかった時だった。
俺は、メーカー勤務の設計職。安定してはいるが、毎日パソコンとCADと向き合っていて、会話の相手といえば機械と自分の内心だけ。気づけば職場でも「静かだけど真面目」って言われるだけの存在になっていた。

(たしかに、結婚なんて向いてないかもしれないな)

そう思ってた。いや、諦めてた。

でもその夜、ふとアパートに戻って、いつものようにコンビニ弁当のフィルムを剥がしながら思った。

(このまま誰とも一緒にならず、誰にも自分の最後を見送ってもらえない人生って、怖くないか?)

冷めた唐揚げを口に運びながら、スマホを開いた。たまたま広告に出てきた「結婚相談所」の文字が、異様に目に刺さった。
そしてそのまま、相談所の資料を取り寄せていた。


俺のスペックは、たぶん悪くない方だ。年収600万ちょっと、都内勤務、35歳、身長は平均以上。持病もなく借金もない。でも問題は、「人と打ち解けるのが極端に遅い」ってこと。

プロフィール作成も悩みに悩んだ。趣味は? 特技は? 理想の結婚生活?
うまく書けず、結局「真面目で穏やかな性格。料理は苦手ですが、掃除洗濯はします。信頼関係を大切にしたいです」とだけ書いた。

(誰がこんな面白みもないプロフィールに、申し込んでくれるんだろう)

半ば自嘲しながら登録を終えると、2日後、マッチング通知が来た。


その人のプロフィールを開いた瞬間、目に止まった一文があった。

「生活の安定が一番の希望です。愛とか理想は二の次でも、信頼関係があれば大丈夫です。」

(……え?)

見間違いかと思って何度も読み返した。正直、ちょっと動揺した。
なんて正直で、現実的な人なんだろうと思った。いや、どこか痛々しいほどに率直だった。

名前は「嫁子」さん、30歳。派遣社員。都内在住。趣味は散歩と音楽鑑賞。写真は控えめに笑った、どこか疲れたような顔だった。でも、目が真っ直ぐだった。

俺は迷わず「会ってみたい」と申し込みを送った。


翌週の日曜、相談所の応接室で初めて会った。

「はじめまして」
「はじめまして」

俺は慣れないスーツで緊張していたし、向かいに座った彼女も、表情は固かった。でも、会話が進むうちに、彼女の口からまたもや強烈な一言が飛び出した。

「愛とか理想とかは……後でもいいんです。まず、安心できる人といたいです。結婚って生活ですから」

(その時、なぜか分からないけど、胸がぎゅっと締めつけられた)

普通なら、もっと夢を語っていい年齢のはずなのに。そんなことよりも「安心」を選ぶ彼女の姿に、俺は一気に惹かれていた。


登場人物紹介

俺(35歳・設計職)
・都内のメーカー勤務
・収入は安定しているが、家事はからっきし
・人付き合いが苦手で恋愛経験も少なめ
・趣味は読書とプラモデル(人には言ってない)

嫁子(30歳・派遣社員)
・夢だった仕事を諦めて、生活のために働く日々
・堅実で現実的、だけど言葉はまっすぐ
・料理が得意で、節約も好き
・理想よりも「一緒に生活できる人」を優先して結婚を考えている


「まずは一緒に住んでみますか?」って、そんなの聞いたことない

初対面の印象は、「まっすぐで、ちょっと冷たい人」だった。
でもそれは、冷たいんじゃなくて“無駄を言わない人”だったのかもしれない。


面談当日、30分ほどの会話が続いた。俺は緊張で汗ばんだ手を膝に押しつけてたが、嫁子は終始、静かに、けれどはっきりと話す。

「私、理想とか…うまく言えないんですけど、“一緒に生活できる人”っていうのが、一番大事で」
「はい……(うん、俺も正直それが一番だと思う)」
「別に、ドキドキする相手じゃなくていいんです。派遣って不安定だから、支え合える形がいいです」
「……支え合える、ですね」
「たとえば、家計とか。お互い得意不得意ありますよね? 料理できないなら、私がやります」
「えっ」
「でも、掃除とか洗濯とかは、できるって書いてましたよね?」
「い、一応……(たまにしかしないけど)」
「なら、分担すればいいです。そういう意味で、信頼できるかどうかが一番大事です」
「…………(なんだろう、この人)」

俺は、その瞬間、初めて「結婚って“こういう人”とするべきなのかもしれない」と思った。


たしかに、彼女の言ってることはすごく現実的だった。愛とか、運命とか、そういう甘い言葉は一切出てこない。

でも、だからこそ信頼できる気がした。俺の料理下手も、「それなら私がやればいいですし」ってあっさり言い切った時の、あの顔。
驚くほど自然で、責めるようなニュアンスは一切なかった。

(俺のこと、“できない人”って思わないんだ)

それだけで、なんだか安心した。
こんな風に人と向き合うの、久しぶりだった。


「で、どうしますか?」
「え?」

コーヒーを口に運びながら、嫁子がふいに言った。

「私、試しに数週間、一緒に住んでみるのもありだと思ってて」
「……はい?」(思わず声が裏返った)

「いきなり結婚は難しいけど、共同生活してみたら、相手の生活スタイルも見えるし、向いてるかも分かるじゃないですか」
「え、えっと……」
「もちろん、変な意味じゃなくて。相談所のルールもありますし」
「そ、それは……その……」(うまく言葉が出てこない)

「部屋、ありますか? ひとり暮らしって聞いてたけど」
「え、あ、あります。1LDKで」
「なら、条件はいいですね。私が布団持ち込めば、問題ないです」

(ちょっと待ってくれ。展開、早すぎじゃないか……?)


でも、嫌じゃなかった。

むしろ、心のどこかがざわめいた。
(この人、俺のことを本気で“生活のパートナー”として見てるんだな)

それが分かった瞬間、怖さよりも嬉しさが勝っていた。


数日後、俺の部屋に嫁子がやってきた。

「意外と、綺麗にしてるんですね」
「え、いや、昨日めちゃくちゃ掃除しました」
「ふふ、ですよね。靴箱、ピカピカです」
「(見てた……!)」

嫁子は小さなスーツケースと大きな布団を抱えて、まるで引っ越し屋みたいに玄関先に立っていた。
俺は慌てて迎え入れ、空いてる部屋を案内する。

「ここで寝てもらって……生活スペースは一緒に使ってくれたら」
「ありがとうございます。台所は、自由に使っていいですか?」
「あ、もちろん。というか、あんまり使ってなくて……」
「うん、冷蔵庫、何もないですね。コンビニ弁当ばっかり?」

「……すみません」(何か、恥ずかしくなってきた)

「いえ。そういう人、いると思ってましたから。だから、“いてあげられる”って思ったんです」
「え?」(今、なんて?)

「あなたみたいな人、私、支えられるって思ったんです。だから、申し込み受けたんですよ」

その言葉に、俺は息をのんだ。

(……俺、今、肯定されたんだ)

心の奥が、あったかくなった気がした。


その夜、嫁子が初めて作った夕飯は、豚汁と卵焼きと、焼き魚。

「……うまい」
「よかった。ちょっと薄味にしたんですけど」
「うん、すごくちょうどいいです」

あったかい味噌汁をすするたび、体がほぐれていく感じがした。

(食事って、こんなに人を安心させるのか)

食べ終えた頃には、部屋の空気がすっかり変わっていた。
それは俺の部屋じゃなく、「ふたりの居場所」になりつつあった。


共同生活初日。

ぎこちないながらも、俺たちはちゃんと向き合えていた。
少なくとも、“お試し”とは思えないくらいに、自然に笑い合っていた。

嫁子は一言、「今日は“合格”ですね」と笑った。

俺は、こっそりと、その日から目覚ましを10分早めた。
朝、一緒に過ごす時間を、少しでも長くしたくなったからだ。


「この家、あったかいですね」って言われて、なぜか泣きそうになった

共同生活が始まって、最初の1週間。
俺の生活は、まるで別人みたいに変わった。


朝、目覚ましが鳴ると、すでに台所から「トントントン…」と包丁の音が聞こえる。
ふとんから抜け出すと、嫁子がエプロン姿で、湯気の立つ鍋の前に立っていた。

「おはようございます」
「お、おはよう……」
「味噌汁と、卵焼きと、昨日の残りのほうれん草のお浸し。あと、冷凍の焼き鮭焼いてます」

「……(俺、何も言ってないのに……)」

まだ寝ぼけてる頭で、ダイニングの椅子に座ると、コップに注がれた冷たい麦茶が目の前に置かれる。

「……麦茶、懐かしいな」
「昔、お母さんが出してくれました?」
「うん……たぶん、そうだったと思う」

そう言った瞬間、自分の中で何かがじわっとあふれそうになって、慌ててコップを口に運んだ。


夜も、同じだった。
俺が仕事から帰ると、リビングは明るく、部屋にはいい匂いが満ちている。

「おかえりなさい。今日は肉じゃがにしてみました」
「……あの、毎日、無理しなくていいですよ?」
「無理してませんよ。むしろ、こうやって“家”でご飯作れるの、幸せです」

「…………(そんなふうに思える人、いるんだ……)」


最初は、ただ驚きだった。
それが次第に、「心地いい」に変わり、やがて「この空気を壊したくない」と願うようになった。

嫁子は、家事を完璧にこなす。でもそれだけじゃなかった。

洗濯物のたたみ方が、俺の好みに合わせて少しずつ変わっていたり。
風呂場のシャンプーの種類を、俺の使ってるやつに合わせてくれていたり。

俺が仕事で落ち込んでいた日も、何も聞かず、ただ「お疲れさま」とだけ言って、温かいスープを出してくれた。

(言葉って、いらないこともあるんだな)


ある日、仕事で少し遅くなった。

夜9時を過ぎて、家に帰ると、ダイニングの照明だけがぽつんと灯っていた。
嫁子は、ソファで本を読んでいたが、俺の顔を見るなり立ち上がる。

「おかえりなさい。遅かったですね」
「うん、会議が長引いて……夕飯、食べました?」
「食べてません。いっしょに食べようと思って、残してあります」

「……ありがとう」

そう言って、席に着くと、すぐに温かい味噌汁と、白ごはん、鶏の照り焼きが運ばれてくる。
気づけば、俺の目の奥がじんわりと熱くなっていた。

(なんだこれ……俺、泣きそうになってる)


食べ終えたあと、ふたりでお茶を飲みながら、静かにテレビを見ていた。

そのとき、ふいに嫁子がつぶやいた。

「……この家、あったかいですね」
「……うん」
「なんか、落ち着きます。ほんと、普通の家だけど」

「(普通の家……そうだな)」

俺はその言葉が、なぜか胸に深く刺さった。

「こういう場所、ずっとほしかったんです」
「え?」
「ご飯があって、電気がついてて、ただ帰ってこれる場所……それがずっと、夢でした」

「…………」

彼女の目が、少し潤んでいた。


そのあと、ふたりともしばらく黙っていた。

俺は、何か言葉を探していた。でも、何を言っても、軽くなりそうで怖かった。

ふいに、俺は立ち上がって、台所に向かった。
冷蔵庫からプリンをふたつ取り出して、小さなスプーンを添えてテーブルに置いた。

「食べますか」
「……ふふ。こういうとこ、やさしいですよね」
「いや、さっきの言葉聞いて、俺が泣きそうになったんで、ちょっと気をそらしたくて」

「……そっか」

嫁子はプリンのふたを静かに開けて、ひとくち食べたあと、少しだけ笑った。

「美味しいです。ありがとう」
「うん、俺も……うまい」


ふたりの生活は、決して派手ではない。

でも、そこには確かに「あたたかさ」があった。
ただいまと言える相手がいて、おかえりと返してくれる人がいて、食卓をはさんで笑い合える時間がある。

それだけで、十分に“幸せ”だと思えた。


翌朝、俺は目覚ましより早く目を覚ました。
リビングに行くと、まだ嫁子は起きていなかった。

キッチンに立って、炊飯器のふたを開けた。あたたかいごはんの香りが立ち上がる。

(たまには、俺が作ってみるか)

そう思って、冷蔵庫を開け、卵を取り出した。
初めての卵焼き。うまく巻けなかったけど、それでもなんとか形になった。

嫁子がリビングに現れて、驚いた顔をした。

「え、朝ごはん……?」
「うん、試しに作ってみた。たぶん、味は保証できないけど」

「……うれしいです」
「ほんと?」
「はい。“一緒に”って感じがします」

その一言が、なによりも心に響いた。


「こういう家がほしかった」って泣かれた夜、俺は決めたんだ

ある夜のことだった。
その日は平日で、俺も嫁子も仕事からの帰りが少し遅かった。

駅からの道をふたり並んで歩くと、夜風が少し冷たくて、街灯の下を歩く影が静かに揺れていた。

「今日、疲れましたね」
「うん……打ち合わせ、二時間立ちっぱなしで」
「わかります。私も今日は、派遣先で急なデータ入力頼まれて」
「お疲れさま」
「……ありがとうございます」

たわいない会話なのに、どこか心がじんわりする。

(こんな風に、誰かと一緒に“ただいま”って言い合う日が来るとはな……)

そんなことを考えながら、家の鍵を開ける。部屋の中は、いつもの匂いがして、灯りが優しく迎えてくれた。


その日の晩ごはんは、冷蔵庫にあった野菜で嫁子が作ってくれた野菜炒めと、わかめスープ。

「ご飯炊けてる間に、洗濯物、たたみますね」
「俺、やりますよ」
「いいですよ。私、洗濯物、たたむの好きなんです」

(好きって……俺、そんな感情で洗濯物たたんだことないな)

嫁子は、ソファに座り、テレビもつけずに黙々とタオルやシャツをたたんでいく。
その指先が丁寧で、なんだか見とれてしまった。


夕飯を食べ終わって、ふたりで食器を洗って、リビングでほっと一息。

その時だった。

ふいに、嫁子が、ぽつんと小さな声で言った。

「……こういう家が、ほしかったんです」

「え?」

その言葉が、すごく静かに響いた。

俺が隣を向くと、嫁子は正面を向いたまま、まばたきもしないでいた。

「……電気がついてて、あたたかいご飯があって、誰かが“おかえり”って言ってくれる家」
「…………」
「実家は、あんまり会話がない家だったんです。母はいつも疲れてて、父は無口で」
「……うん」
「だから、自分の居場所って、どこにもなかったんです。学校も、仕事先も、帰ってきても真っ暗な部屋しかなくて」
「…………」
「でも今、こうして誰かと一緒にご飯食べて、テレビ見て、笑ったりしてると、“ここにいていい”って思えるんです」

その時、俺は見た。

嫁子の目から、ぽろりと涙がこぼれていた。

「あ……ごめんなさい。なんでだろ……なんか……泣けてきて……」

(なんで、俺まで泣きそうになってんだよ……)

俺は、何も言えなかった。
ただ黙って、となりに座って、彼女の手をそっと握った。

彼女はその手をぎゅっと握り返して、顔を少しだけそらした。


その夜、俺は眠れなかった。

布団に入っても、さっきの嫁子の涙が、頭から離れなかった。

(あの涙は……たぶん、希望なんだ)

きっと、これまで何度も傷ついて、信じることができなくなって、それでも誰かを信じたいと思って。

(俺が、それに応えられるだろうか)

そんな風に悩みながらも、俺の中で何かが決まり始めていた。


翌朝。

俺は、いつもより早く起きて、洗面所で髭を剃りながら、鏡の自分に言った。

「……決めるなら、今だな」

そうつぶやいて、心の中でひとつ、大きな覚悟を決めた。


その日の夜。

いつものように、ふたりで夕飯を食べ、片付けが終わったあと、俺はソファに座っていた嫁子の隣に腰を下ろした。

「ねえ、ちょっと話したいことがあるんだけど」
「……はい?」

「もし……もし俺が、“結婚”を真剣に考えてるって言ったら、どう思う?」
「……え……」

嫁子の目が大きく見開かれた。
その顔を見て、俺は少し笑ってしまった。

「びっくりするよね。でも、俺、この生活がすごく心地よくて、正直……毎日が変わったんだ」
「…………」
「君がいてくれると、ここが“家”になる。仕事から帰ってくる理由ができた。朝、起きるのも、夜、寝るのも、全部変わった」

「……わたしも、同じです」

嫁子の声が震えていた。

「私も、あなたといると、“帰ってきていい場所”があるって思えたんです。安心できて、自分の存在が消えない場所」
「……なら、一緒にいてほしい。これからも。俺の帰る場所になってください」
「……はい」

嫁子の目に、また涙が浮かんでいた。
でも今度の涙は、悲しみじゃなくて、希望のにじんだ涙だった。


その夜、ふたりで並んで、入籍の手続きについて話した。
現実的なこと、名字のこと、住民票のこと。

嫁子はいつものように現実的で、ひとつひとつ丁寧に確認していった。

「式とか、どうします?」
「……正直、俺はふたりで“ただ家に帰る生活”ができれば、それだけでいいと思ってる」
「……私もです。写真とかは、あとでも撮れますし」

「(うん、やっぱりこの人となら、うまくやっていける)」

俺は確信した。


入籍しても“変わらない”はずだったのに、嫁子が少しずつ“笑うようになった”

入籍したのは、思ったよりもあっけない日だった。
役所に提出した書類は、準備しておいたから滞りなく、窓口の女性職員に「おめでとうございます」と言われたとき、ふたりして変な顔をしてしまった。

「……もう、これで、夫婦なんですね」
「うん、たぶん、紙の上では」

その帰り道、近所のファミレスに寄って、地味な結婚記念ランチを食べた。

「記念日とか、苦手ですか?」
「正直……ちょっと気恥ずかしいです」
「ふふ、私も。なんか、“浮かれてます!”って感じ、どうにも慣れなくて」

それでも、ファミレスのナポリタンはちゃんと美味しかったし、嫁子が珍しくチーズケーキを頼んだのを見て、俺はひそかに嬉しかった。

(ああ、この人、少しだけ“余裕”ができてきたんだな)


入籍しても、生活のリズムは大きく変わらなかった。

朝は嫁子が先に起きて朝食を作り、俺がテーブルを拭いて皿を並べる。
出勤は別々だけど、帰ってくる時間はだいたい似ていて、夕飯は一緒に食べる。

そんな日々の中で、ひとつだけ変わったことがある。

嫁子が、笑うようになった。

しかも、声を出して笑うようになった。


ある夜、俺が洗濯を干しているとき、ベランダから部屋に向かって「ねえ」と呼ばれた。

「ん?」
「これ見てください。広告の間取り図、めちゃくちゃなんですよ」
「どれどれ……あ、ほんとだ。トイレと風呂がドア1枚でつながってるって、無理だろ」
「しかも、リビングよりベランダが広いって、どういうことですか」
「これは……住む前に心が折れそう」

ふたりでソファに座って、スマホの広告写真を見ながら爆笑した。

嫁子が、こんなに笑う人だって、知らなかった。


「笑い声、かわいいですよね」
「えっ」
「いや、ふと、思って」

「……やめてくださいよ」
「なんで」
「そういうの……急に言われると、照れるじゃないですか」

(ほんとに、照れてるんだな)

嫁子は、口元に手を当てて、それでもうっすら笑っていた。


職場でも、変化はあった。

同僚の鈴木が、ある日、俺の肩をぽんと叩いた。

「なあ、最近なんか……お前、変わったよな」
「変わった?」
「うん。なんていうか、表情? 前はちょっと怖いくらい無口だったのに、最近はよく話すし、声に張りがあるっていうか」

「……気のせいじゃないかな」
「いや、結婚したって聞いて、納得したよ。ああ、なるほど、嫁さんがちゃんとしてる人なんだなって」

「(“ちゃんとしてる”って言葉、俺の中では褒め言葉の最上位かもしれない)」

それを嫁子に話すと、彼女は少し首をかしげたあとで言った。

「私、何かしましたかね?」
「いや、いてくれてるだけで、たぶん俺の空気が変わったんだと思う」
「……それなら、私もうれしいです」


ある土曜、ふたりで近所のスーパーに行った帰り道。
嫁子が、ふいにこんなことを言った。

「ねえ、“夢”って、まだ見ていいと思いますか?」

「え?」

「現実だけを考えてきたんです。派遣の契約も、いつ切られるか分からないし、親も頼れないし、“自立すること”だけ考えて生きてきたから」

「うん」

「でも、こうして生活が安定して、毎日ちゃんと眠れて、ちゃんと食べられて、少しずつ余裕が出てきたら……ちょっとだけ、“夢”を思い出したんです」

「……どんな夢?」

嫁子は少し歩みを止めて、小さな声で言った。

「自分の店をやってみたいなって。小さくていいから。手作りのお弁当とか、惣菜を売るような店。お年寄りとか、働く人に届けられるような」

「…………」

俺は、その時、なぜかすごく嬉しくて、胸が熱くなった。

「いいじゃん。それ、絶対いいと思う」
「……ほんとに?」
「うん。絶対、向いてると思うよ。だって、俺、君の料理に何度も救われたから」

「……ありがとう」

嫁子の笑顔は、そのとき、今までで一番柔らかかった。


結婚は、生活のためだったかもしれない。
でも、生活の中で見つかる“希望”って、思っていたよりもずっと温かい。

嫁子の中で芽生えたその夢を、俺は守りたいと思った。
現実の中で出会った、たったひとつの“本物の夢”として。


「なんで相談してくれなかったの」って言った俺に、彼女は小さく謝った

夢を口にした日から、嫁子の中に、確かに変化があった。

夜、食後のテレビの時間が減って、嫁子はキッチンテーブルにノートとペンを出すようになった。
静かに、でも真剣に、何かを書き込んでいる姿はまるで学生のようで、俺は少し離れた場所から、彼女の横顔をぼんやりと眺めていた。


「何してるの?」
「……レシピ、まとめてるんです」
「ふだん作ってくれてるやつ?」
「はい。お惣菜屋さんとかで出せるようなものを、ちゃんと分量から試しておきたくて」

「(夢って、こうやって動き出すんだな)」

そう思った。
ただの理想や空想じゃなくて、嫁子は“現実の中でできること”を着実に積み重ねている。

その背中が、誇らしかった。


ところがある日、俺はちょっとした違和感を覚えた。

「そういえば、今週末の土曜さ、昼ご飯どっか食べに行かない? たまには外で」

「えっと……ごめんなさい、その日は外出の予定があって……」

「(あれ、言ってなかったっけ、みたいな言い方だな……)」

「予定って、どこか行くの?」
「……はい。ちょっと、知り合いの方に会いに」

「知り合い?」

「……前に、派遣で働いてた職場のパートさんなんです。その人、今小さなお弁当屋さんで働いてるらしくて」

「(ああ……そういうことか)」

俺は、それ以上なにも聞かなかった。
でも、ほんの少しだけ、胸に引っかかりが残った。


そして土曜日。

昼過ぎにひとりで部屋にいると、いつもより空気が静かに感じられた。
テレビをつけても、コップに水を入れても、なんだか音が響きすぎる。

(……俺、こんなにこの人の存在に甘えてたんだな)

そう思いながら、無意識にスマホを見ていた。

その時、ふと画面に浮かんだ写真。

嫁子が、エプロン姿でお弁当を見て笑っている。
背景には、古い商店街の小さな店舗らしきシャッターと、手書きの「手作り弁当あります」の貼り紙。

(……誰が撮ったんだろう)

考えたくはなかったけど、正直に言えば少しもやもやした。


夕方、嫁子が帰ってきた。

「ただいま。ごめんなさい、遅くなって」
「おかえり」

靴を脱いで、上着を脱いで、手を洗いながら、嫁子は少し浮かれているように見えた。
笑顔は柔らかく、でもどこか“遠い”。

(この数時間、俺の知らない時間が、君の中にあったんだな)

「今日、どうだったの?」
「すごく参考になりました。小さいお店なんですけど、お客さんが本当に常連さんばかりで」
「……うん」
「レジも手書きの伝票でやってて、でもそれがまた味があるというか……」

(楽しそうだな。……なのに、なんでだろう)


俺は、つい言ってしまった。

「なんで、相談してくれなかったの?」

嫁子の動きが止まった。
キッチンのシンク前で手を拭いていたタオルが、静かに沈黙を纏った。

「……ごめんなさい」

「いや、責めたいわけじゃないんだ。ただ、俺……一緒に夢を応援したいって、思ってたんだよ」
「……うん」
「でも、なんか今日、“外の顔”の君を初めて見た気がして……ちょっと、戸惑ってる」

嫁子は、ゆっくりとこちらを向いた。

「……たぶん、怖かったんです」

「え?」

「夢を口にした時点で、現実から浮いてしまう気がして……あなたにとって、それが重荷になったら嫌だなって」

「……そんなふうに考えてたの?」

「はい。私は、生活の安定のために結婚したのに……もし夢を見て、あなたにとって“違う人間”になってしまったらって、少しだけ怖かった」


俺は言葉を失った。

ずっと、現実だけを見て生きてきた人だからこそ、夢を口にすることが“裏切り”に思えたのかもしれない。

でも俺は、ただ一つ、まっすぐに答えた。

「君が夢を見ることを、俺が否定するわけない。むしろ……応援したいと思ってる。だって、君が一番君らしくなれる時間なんだから」

嫁子は、ゆっくりと息を吸って、小さく笑った。

「ありがとう。……そう言ってもらえて、ほっとしました」


その晩、ふたりでカレーを食べた。

ルウの辛さがちょっと強すぎて、嫁子が「からっ!」と笑って水を一気に飲んだ。

「ねえ、今度いっしょに“味見”してくれませんか?」
「うん。俺、味音痴だけど大丈夫?」
「大丈夫。あなたが“おいしい”って言ってくれるなら、それで正解です」

(……こんなに嬉しいこと、あるか?)

俺たちは、たぶんまだまだ“家族の途中”なのかもしれない。

でもその途中が、こんなにあたたかいなら、それで十分だと思えた。


「夢って、現実を背負っても、捨てなくていいんですね」って言った嫁子の目は、まっすぐだった

ある朝のことだった。
いつものように朝食を終え、洗い物を分担していると、嫁子が静かに切り出した。

「実は、商店街の小さなお店、間借りできそうなんです」

「え?」

「この前の、お弁当屋さん……そこに相談したら、隣の空きスペースを月曜と木曜だけ貸してもいいって。午前中だけだけど、厨房も使えるって」

「……それ、すごいじゃん」
「でも、ちゃんと保健所の手続きもしないとだし、材料費も、自分で出す必要があって……怖いけど、やってみたいです」

その表情には、迷いと覚悟が同居していた。

(それだけ真剣に考えてくれてたんだ)

俺は深く頷いて言った。

「やろう。応援する。必要なもの、全部リストアップして。一緒に準備しよう」

「……本当に、ありがとう」

嫁子は、少しだけうつむいて、でも顔を上げた時にはもう、目が真っすぐだった。


翌週から、夜の食後の時間は一変した。

ノートと電卓、買い出しリストとレシピの試作。
俺の机は完全に「小さな起業」の作戦本部になった。

「このお惣菜、どう思います?」
「うまい。けど……ちょっと味が濃いかな」
「そう思いました? やっぱり男性向けすぎるか……うーん、難しいですね」

「(すごいな……俺、何も知らない世界が、目の前で生きてる)」

正直、俺には分からないことばかりだった。
衛生管理のチェックリスト、食品表示義務、簡易包装のコスト計算。すべてが現実の壁だ。

でも嫁子は、調べて、相談して、書いて、また書いて。
決して“勢い”じゃなかった。夢を夢のままにせず、「地に足の着いた希望」に変えようとしていた。


そんなある日。

俺の通帳残高を見て、ひとつ、心に決めた。

「……ちょっと、貯金切り崩すか」

まとまった額じゃない。でも、俺のこれまでの生活で積み上げてきた“余白”を、いま使うときなんじゃないかと思った。


その夜、嫁子がレシートをノートに貼りながら、ぽつりとつぶやいた。

「夢って、現実を背負っても……捨てなくていいんですね」

「うん」

「生活と夢って、別物だと思ってたんです。どっちか選ばないといけないって。でも、こうしてちゃんと食べて、寝て、安心して……それでも何かを始めようって思えるなんて、私、ちょっと信じられないです」

「君が頑張ってるからだよ」
「でも、あなたが一緒にいてくれたからです」

嫁子は、俺の方を見て、まっすぐにそう言った。


プレオープンの日。
商店街の一角、貸し出しスペースに、白いのぼりと手書きのメニューを掲げて、嫁子は小さな惣菜販売を始めた。

俺はその日、有給を取って一日中、後方支援に徹した。
お釣りの準備、買い出し、段ボールの処理、呼び込みの手伝い。

緊張した顔で並ぶパックを見て、ふと不安になった俺に、嫁子が言った。

「売れなくても、いいです。ここに“出す”ことが、大事なんです」

「……そうだね」

午前中の3時間で、売れたのは15パック。
目標には届かなかったけど、ひとつ売れるごとに嫁子の目がきらっと光って、それがすべてだった。

帰り道。
嫁子は、余ったお惣菜をふたりで食べながら笑った。

「これ、今日一番売れ残ったやつです」
「うまいけどな」
「ですよね。でも、パッケージがダサかったんです。たぶんそれです」
「じゃあ、次回はデザイン担当させてください」
「ほんとに? じゃあ、“ださいけど味は本物”って書きますね」

「やめてくれ」

ふたりで笑いながら、遅くなった夜道を歩いた。


その晩、寝る前にふたり並んで歯を磨いているとき、鏡越しに嫁子がふいに言った。

「ねえ、今が一番“夢を見てる”気がする」

「そう?」

「うん。夢の途中って、こういう感じなんですね。地味で、ちょっと怖くて、でもすごく楽しい」

「俺も、一緒に見させてもらってるよ」

鏡の中で目が合って、ふたりとも恥ずかしそうに笑った。


「あんまり無理しないでって言ったら、初めて“甘えていいですか”って返ってきた」

プレオープンから二週間が経った。

週2日の惣菜販売。
仕事と並行しながらの準備、仕込み、販売、帳簿管理。

嫁子の生活は、目に見えて慌ただしくなっていた。


「今日も売り切れですか?」
「ううん、残りました。でも、来てくれたおばあちゃんが“また買いに来るね”って言ってくれて」

「(その顔が、ほんとにうれしそうだった)」

でも、ふと気づいた。
食事の量が減った。
眠るのが遅くなった。
朝、声のトーンが少しだけ低くなった。


ある日曜の朝、俺が目を覚ますと、嫁子はまだベッドの中で横になっていた。

(珍しいな……)

「……おはよう、大丈夫?」
「……うん、ちょっとだけ、頭痛がしてて……」
「熱、あるかも」
「……たぶん、寝不足かな」

計ってみると、37.9度。
体が熱いのに、手は冷たくて、無理してたのがすぐにわかった。


「今日はもう、何もせず寝てて」
「でも、買い出しが……」
「俺が行く」
「仕込みの確認もしなきゃ……」
「いいから、寝てて」

そう言った俺の声が、少し強めになっていたのかもしれない。
嫁子が、少し驚いた顔をして、黙ってうなずいた。

そして、そのあと、初めて聞いた言葉を口にした。

「……じゃあ、ちょっとだけ、甘えてもいいですか?」

(今、なんて……?)


嫁子は、ずっと“自立”していた。
誰にも頼らず、誰にも重荷にならず、自分の力で“生活”を守ってきた人だ。

そんな彼女が、「甘えてもいい」と言った。

その言葉が、たまらなく愛おしかった。


昼間、スーパーに買い物に行って、洗濯をして、夕飯の下ごしらえをして。

俺は初めて、「嫁子の1日」を一通りなぞった。
その大変さが、肌でわかった。

(これを、当たり前に毎日やってたのか……)

家に戻ると、嫁子は静かに寝息を立てていた。
髪が少し乱れて、額にうっすら汗。顔色はまだ優れない。

でも、その寝顔はどこか安心していた。


夕飯時、熱は少し下がっていた。
おかゆと、出汁を利かせた卵スープ。

「これ……あなたが?」
「うん。味見は適当だったけど」
「……すごくやさしい味です」

「無理しすぎないで」
「……わかってたつもりだったんです。でも、やっぱり……全部背負い込んじゃう癖が抜けなくて」

「俺がいる。ふたりなんだから、分ければいい」

「…………ありがとう」

その時の“ありがとう”は、これまでのどの言葉よりも深くて、重くて、やさしかった。


その夜、ふたり並んでリビングでテレビを見ながら、嫁子がぽつりとつぶやいた。

「私、夢を持ったことで、あなたの負担になってたらどうしようって、正直怖かったんです」

「なってないよ。むしろ俺、君の夢のおかげで……初めて、自分が“家族になれた”って思えてる」

「……家族?」

「うん。生活だけじゃなくて、“誰かと生きる”って、こういうことなんだって、今思ってる」

嫁子は、驚いたように俺の顔を見てから、笑った。

「それ……すごく、うれしいです」


少しずつ、生活はまた動き出した。

俺は早朝の仕込みを手伝うようになった。
店番も、週1で交代して立った。

自分の手で惣菜パックを並べるとき、「これが家族の仕事なんだ」と思えるようになった。

惣菜はまだ大ヒットにはなってない。
でも、毎週少しずつ常連が増えている。
「お兄ちゃんも奥さんも、がんばってるね」と言われた日、俺は少し照れた。


ある晩、食後にふたりで片付けをしていたとき、嫁子がふいに言った。

「ねえ……結婚して、よかったです」

「俺も」

「生活のために始めたはずなのに……こんなに“満たされる”とは思ってませんでした」

「……俺も、同じ」

「私、もう少しだけ夢見ていいですか?」

「もちろん」

その言葉は、まるで“誓い”みたいに、静かで、力強く響いた。


「現実の中で見つけた、俺の最高のパートナーです」って、今ならちゃんと言える

春が終わり、商店街の店先に、冷やし中華の幟が立ち始めるころ。

嫁子の惣菜屋は、少しずつ「町にある空気」みたいな存在になっていた。


月曜と木曜だけの、小さな間借り店。
それでも、いつもの常連が来て、弁当をふたつ買っていく親子がいて、おばあちゃんが「この切り干し大根、やっぱりうまい」と言ってくれる。

俺は、変わらず勤め先で設計の仕事をして、週末や休日は、仕込みや会計補助をしている。

ふたりの生活は、目に見えて忙しくなった。
けれど、不思議と疲れなかった。


ある日の夜。

いつもより遅く、店の片付けが終わって帰ってきた日。
嫁子がエプロンを外しながら言った。

「ねえ、最近、お客さんに“ふたり、夫婦って感じしますね”って言われたんですよ」
「……夫婦なんだけどな」
「そう。でも、ああいう“空気が似てきた”って意味の“夫婦”って、すごく嬉しくないですか?」

「……うん、わかる」

嫁子は、以前よりよく笑うようになった。

それは、表面的な明るさじゃなくて、自分の場所を持てた人の“深い安心”からくる笑顔だった。


夜、寝る前に。

「お店の看板、ちゃんとしたのに変えようかなと思ってて……」
「どんなの?」
「“ごはんのいる場所”っていう名前にしようかと」

「……いいね。あったかくて、ふたりらしい」
「“嫁子の店”って思われるの、ちょっと違うなって。ふたりで作ってる家の“延長”みたいにしたくて」

「……そっか」

嫁子の手が、俺の手を握る。

ふたりで作る家。
ふたりで守る生活。
ふたりで見つけた、小さな夢の続き。

それがもう、「生活のため」だけじゃなくなっていた。


会社でも、俺の変化はよく言われるようになった。

「なんか、最近よく笑うな」
「前はもっと無口だったのに」
「奥さん、しっかりしてるんだろうなあ」

言われるたびに、照れくさいけど、どこか誇らしい気持ちになる。

(そうなんだよ。俺の嫁子は、すごいんだよ)

そう思いながらも、口に出すことはない。
でも、帰り道に惣菜を手伝ってる自分は、たしかに「自分で選んだ人生」の中にいると感じられていた。


ある晩。

嫁子が、アルバムを見ながらつぶやいた。

「ねえ、最初に会った日のこと、覚えてますか?」

「もちろん。“愛は後でいいです。信頼があれば”って言われて、びっくりした」

「ふふ、あの頃、いっぱいいっぱいでしたから」

「でも……俺、あの言葉に救われたんだ」

「え?」

「“好き”じゃなくても、“安心できる”っていう関係が、こんなに心を温めるんだって、あの日初めて知った」

「……ありがとう」

嫁子の目が、また少し潤んでいた。


そして、俺は、ふいに口にした。

「君は……現実の中で見つけた、俺の最高のパートナーです」

それは、決して派手でも詩的でもない。
でも、俺の本音の言葉だった。

嫁子は、口元にそっと手を添えて、静かに笑った。

「私もです。生活から始まって……気づいたら、ちゃんと“生きる”ことが楽しくなってました」


もう、“生活のため”だけじゃない。

ふたりで生きていくことそのものが、俺にとって“幸せ”だった。

愛はあとからでも、間に合う。
むしろ、信頼の土台があるからこそ、育つものなんだとわかった。


これからも、大変なことはあるだろう。
商売もうまくいくとは限らないし、仕事だって安泰とは言えない。

でもそれでも――

「君となら、大丈夫だと思う」

そう思える根拠のない確信が、今の俺を支えている。


ある日の夕方。

店先でふたり並んで、手書きの看板を見ながら、嫁子が言った。

「“ごはんのいる場所”、しっくりきますね」
「うん。“誰かが待ってる家”って意味にもなる」
「そう。私たちが最初にほしかったのって、きっと、そういう場所だったんですよね」

「……そうだな」

夕焼けのオレンジ色が、店のシャッターを温かく染めていた。

その横顔を見て、俺は改めて思った。

(君に出会えて、ほんとによかった)


― 終 ―

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