この馴れ初め話は著作権フリーで改変も自由・YouTubeの素材やSNSでご使用いただいても問題はありません。ただ以下のリンクを張っていただけたら幸いです。
はっくなび
傘を貸しただけの関係だったのに
「営業帰り、駅前で見かけた女の人」
(駅に着いたときには、空が真っ黒だった)
梅雨入りしたばかりの金曜の夜。
俺は都内の中堅商社で営業をやってる、どこにでもいるようなサラリーマンだ。
営業帰りに立ち寄った取引先での商談が押して、予定より30分も遅れての帰社途中だった。
駅まであと少しってとこで、ポツポツと音がしたと思ったら、
あっという間に、バケツをひっくり返したような土砂降りに変わった。
(うわ、やべえ……)
鞄から折りたたみ傘を取り出しながら、ダッシュで駅の改札へ向かおうとしたそのときだった。
駅前の広場の花壇の脇で、ひとり、傘もささずに立ち尽くしている女の人がいた。
年齢は、たぶん俺と同じくらいか少し下。
黒いワンピースが雨に貼り付いてて、前髪からぽたぽたと水が落ちていた。
足元にはA4サイズのファイルと、大きなトートバッグ。
(やべえ、どっかで見た顔な気が……でも思い出せねえ)
目が合った。でも、相手はすぐに視線をそらした。
あきらかに困ってる顔だった。というか、泣き出しそうだった。
一瞬、通り過ぎようとして、足を止めた。
(……いや、ほっとけねえだろ、あれ)
「どうぞ、これ、使ってください」
俺は自分の折りたたみ傘を開いて、無言で女の人の頭の上に差し出した。
「えっ……?」
女の人はびっくりした顔をして、顔を上げた。
近くで見たら、思ったより若い。目がうるうるしてる。
「このままじゃ風邪ひきますよ。駅まで……走ります?」
「……あ、ありがとうございます。でも……いいんですか?」
(正直、俺も濡れるの嫌だけど、まあ今日はスーツ古いし……)
「気にしないでください。俺、駅すぐなんで。じゃ、行ってらっしゃい」
「え、ちょ、ちょっと……!」
相手が言い終わる前に、俺は走り出した。
走りながら、背中に聞こえたのは、かすれた声での「ありがとうございます!」だった。
(……ま、困ってる人助けただけだしな。俺もたまには良いことするじゃん)
そのときは、それだけの話だと思ってた。
「まさかの再会。あの人が、会社に来た」
週が明けた月曜、会社のエレベーター前で。
総務の吉田さんが、わりとテンション高めに話していた。
「今日、中途で入った子がさ、隣の部署に配属されてるらしいよ。すごい美人らしいよ~」
(へえ、そうなんだ)
俺のいる営業三課の隣は、営業一課。
あんまり接点がない。人の出入りも気にしてなかったけど。
昼前、共有の給湯室で水を汲んでたら、
ドアが開いて、誰かが入ってきた。
「……あっ!」
目が合った瞬間、向こうが声を上げた。
(えっ……)
そこに立ってたのは――
あの日、俺が傘を貸したあの女の人だった。
「あ、あのときの……!」
「……あ、ああ、えっと、傘の……」
お互い、微妙な笑いになった。
「まさか……同じ会社だったんですね」
「いや、俺もビックリです。あの後、大丈夫でした?」
「……はい。あの傘、すごく助かりました」
(ちゃんと覚えててくれたんだ……ていうか、俺の顔、ちゃんと見てたんだ)
彼女は小さく笑って言った。
「実は、あの日……あの傘がなかったら、面接行くの諦めてたかもしれません」
「えっ?」
「実は、あのときこの会社の中途採用面接受けに来てて……大雨で電車も遅れて、髪もぐしゃぐしゃで、もう無理かもって思ってて……でも、傘、貸してもらって、すごく気持ちが落ち着いて……だから、ちゃんと話せたんです」
(……そうだったんだ。あの一瞬のことが、そこまでの意味を持ってたなんて)
「ありがとうございます、本当に……助けられました」
「……いえ、俺は、なんか、ただ……放っとけなかっただけです」
「ふふ、そういうとこ、優しいんですね」
(その笑い方、ずるいだろ……)
「じゃあ、また……社内でお会いすると思うので、よろしくお願いします」
「こっちこそ」
彼女は、最後にもう一度ペコッと頭を下げて、部屋を出て行った。
(なんだろう……この、ふわっとした感じ)
雨の日に、ちょっとだけ差し出した傘。
それが、こんな再会になるなんて――
物語の始まりなんて、いつも突然なんだなって思った。
次回、「少しずつ増える、雑談の時間」。
2人の距離が、少しずつ近づいていきます。
続きを順次投稿してまいります。
ありがとうございます。
続けて第3話を投稿いたします。
これまでの関係を受けて、日常のなかで少しずつ近づいていくふたりの様子を、情景・感情・会話描写を豊かに描写していきます。
「少しずつ増える、雑談の時間」
それからの俺たちは、週に何度か、給湯室やエレベーターで顔を合わせるようになった。
あいさつ程度だった会話が、少しずつ、日常の雑談に変わっていった。
「あっ、また会いましたね」
「ですね。なんか、給湯室でよく会いますね」
「ここ、冷水おいしいんです」
(そんな理由か……なんか、ちょっと可愛いと思ってしまった)
彼女は、いつも薄いメイクで、口数も多くないけど、笑うと少しだけ目が下がって、柔らかい印象になる。
服装も落ち着いていて、浮ついた感じがまったくない。
静かだけど、なんというか、芯が強そうで。
「ところで……あの傘、まだ使ってます」
「え?」
「返すタイミング逃しちゃって……しかも、勝手に使っててすみません」
「全然。あれ、もうだいぶ古かったし。むしろ、役立ってくれてよかったです」
(……ていうか、持っててくれたんだ。あの日のこと、ちゃんと覚えてくれてるんだ)
「でも、色が気に入ってて。落ち着いたネイビーって、意外と女性用では少なくて」
「へえ……」
「傘って、なんか心が落ち着く道具だなって、最近思ってて」
(なんか……この人、言葉の選び方がやわらかくて、いいな)
それをきっかけに、ふと立ち話が長くなることも増えた。
あくまで“たまたま”を装って、給湯室で水をくむ時間を、少し遅らせたりして。
ある日、ふとした雑談の流れで彼女が言った。
「実は、まだこの会社のこと、ちょっと怖くて」
「怖い?」
「前の職場がちょっと、人間関係きつくて……派閥とかあって。だから、こうして普通に話せるの、ありがたいんです」
(……それを俺に言ってくれるってことは、少しは安心してくれてるのか)
「この会社、そこまでドロドロはしてないですよ。たぶん。まあ、一部には濃い人いますけど」
「ふふ、なんとなく察してます。隣の課にも……ね」
(あ、誰のことかわかってる……俺もそう思ってるから)
くだらない会話のなかに、少しずつ、彼女の素の部分が顔を出していく。
気づけば、仕事の合間に彼女の姿を目で追ってる自分がいた。
ただの“傘の人”だった関係が、いつの間にか“気になる存在”に変わっていた。
「ランチに誘えない理由と、小さな勇気」
その日も、昼休みにエレベーターで彼女とばったり会った。
中でふたりきりになって、なんとなく沈黙が続く。
(今がチャンスじゃないか?昼、誘ってみようか……)
「……あの、昼飯とか、もう食べました?」
「まだです。今日はなんか、バタバタしてて」
(よし、いけるか?)
「よかったら、一緒に行きません?近くに、わりと美味い蕎麦屋があって」
「……!」
彼女の目が少し大きくなった。
「そ、そっか。あの……気持ちはうれしいんですけど、ちょっと今日、午後に大事な会議があって」
「あ、そっか。すみません、急に」
「いえいえ!ほんとに、うれしいです。でも、また今度でもいいですか?」
(断られた……けど、笑顔だった。たぶん、社交辞令じゃない)
「もちろん。またタイミング合えば」
「はい、ぜひ」
彼女がエレベーターを降りたあと、俺はひとり、ちょっとだけ顔がにやけていた。
(やばいな……本気で、好きになり始めてるかもしれない)
「彼女の心の奥にあるもの」
その日は金曜。午後から全社での会議があり、部署の空気もピリついていた。
俺は発表担当じゃなかったが、資料確認やら何やらでなんとなく落ち着かない。
夕方、会議が終わって気が抜けたように席に戻ると、廊下の窓際で彼女がひとり、スマホを見つめて立っていた。
(あれ……なんか、表情が硬いな)
声をかけるかどうか、一瞬迷ったけど――
結局、足が勝手にそっちへ向かっていた。
「お疲れさまです。……何かあった?」
彼女は、ふと顔を上げた。
普段はあまり見せない、素のままの、不安そうな顔だった。
「あ、すみません……仕事中にこんなとこで」
「いや、別にいいよ。……顔が、ちょっとつらそうだったから」
彼女はしばらく黙って、それからぽつりと言った。
「……家のことで、ちょっと」
「うん」
「実家の母から連絡があって……父の具合があまり良くないみたいで。前から悪かったんですけど、急に、病院から呼び出されて」
「……そうだったんだ。大丈夫?」
「……どうしていいか分からなくて。仕事、始めたばっかりなのに、もう実家に戻らなきゃいけないかもって考えたら……」
(その声は震えていた。でも、泣いてはいなかった)
「休んでも、いいんじゃない?今はそのほうが、大事でしょ」
「……ありがとうございます。そう言ってもらえるだけで、ちょっと……」
「……うん」
彼女の手が、まだスマホを強く握りしめていた。
その指の節々に、無理をしてる気持ちが出てるようで、胸が少し痛くなった。
「前の職場では、こういうこと言えなかったんです。何でも“自己責任”で片付けられて……」
「ここは、そんなに冷たくないよ。たぶん」
「……はい。そう思えてるから、まだ辞めたくないって思えます」
(それは、俺に対しても、会社に対しても……少しずつ心を開こうとしてる言葉だと思えた)
「何かできることがあれば、俺にも言ってください」
「……じゃあ、少しだけ……このまま、ここにいてもいいですか?」
「うん。全然」
それからしばらく、ふたりで黙って、窓の外の薄曇りの空を見ていた。
その時間が、言葉よりも深く、彼女の本音を伝えてくれる気がした。
(こんな風に、誰かの不安を受け止めたいって思ったのは、初めてかもしれない)
「傘、まだ使ってるんですか?」
週が明けた月曜。
彼女は少し疲れていたが、明るい顔で出社してきた。
「父、少し落ち着いたみたいで。病院のスタッフさんが、当分は大丈夫って言ってくれました」
「よかった……ほんとによかったよ」
「ありがとうございます。あの日、話を聞いてくれてなかったら、たぶん気持ちが潰れてました」
「……俺も、ああして話せてよかったって思ってる」
給湯室に向かう途中、俺はふと思い出して聞いてみた。
「……そういえば、あの傘。まだ持ってるんですか?」
すると彼女は、少し恥ずかしそうに笑った。
「……はい。使ってます。なんか、お守りみたいになってて」
「お守り?」
「……あのとき、気持ちが折れそうだったから。あの傘がなかったら、この会社に来れてなかったし、あなたと話すこともなかったから」
「……」
(それは、俺の方も同じだ)
「新しい傘、買おうかなって思ったときもあったんです。でも、なんか捨てられなくて」
「……大事に使ってくれて、ありがとう」
「こちらこそ……ありがとう、です」
その日は雨が降っていた。
でも、彼女は会社のロッカーに“あの傘”をかけたまま、少し濡れながら歩いていた。
(なんか、傘よりも、自分の足でちゃんと歩いてみたいって気持ちだったのかな)
それを見て、胸がぎゅっとした。
俺は、彼女が持ってる傘の“持ち主”じゃない。
でも、それをずっと、大事に思ってくれているという事実が、なにより心を動かしていた。
「ふたりで歩いた雨の帰り道」
その日、午後から降り出した雨は、夜になっても止まなかった。
俺は残業を終えて、駅に向かって歩いていた。
すると、会社のビルの正面で、見慣れた人影がひとつ――傘を持たずに、スマホをいじりながら立っていた。
(あれ……彼女?)
「……まだ帰ってなかったんですか?」
「うわっ、びっくりした……はい、ちょっとバス待ちです。でも、雨がひどくて……」
「傘、今日も持ってないんですね」
「……あの傘、壊れちゃったんです。強風で、骨が折れてしまって」
「ああ……そっか。残念」
「でも、ちゃんと部屋に置いてあります。捨てられなくて」
「……それ、なんかうれしいな」
俺は、スーツの内ポケットから折りたたみ傘を取り出した。
前回の反省を活かして、今は常に持ち歩くようにしている。
「よかったら、一緒に駅までどうですか?バス、どうせ遅れてるし」
彼女は一瞬だけ驚いた顔をして――
すぐに小さく笑った。
「……はい。ありがとうございます」
並んで歩き出すと、傘の下は少しだけ狭く感じた。
互いの肩が、ぎりぎり触れないくらいの距離。
雨音と靴音が重なって、小さな世界ができあがっていた。
「……ほんとは、あの傘が壊れたとき、すごくショックでした」
「うん」
「でも、それで、なんか……ふたりで傘に入る理由ができたって思ったら、少しだけ、うれしかったです」
(……その言葉、やばいくらい刺さった)
「そっか……それなら、壊れてくれてよかったかも」
「ふふっ」
「前の職場、つらかったって言ってたじゃないですか。今の仕事、どうですか?」
「大変です。でも、ここでは……自分の話をちゃんと聞いてくれる人がいるから、頑張れてます」
(その“人”に、俺も含まれてるなら、もう何もいらないって思った)
彼女の横顔は、雨粒に濡れて少し光っていた。
「……不思議ですよね。ただ傘を貸しただけだったのに、こんなふうに一緒に歩いてるなんて」
「ほんとだよね。あのとき俺、ただ通りすぎてたら、何もなかったかもしれないのに」
「でも……通りすぎなかったんですよね。見ず知らずの私に、傘を差し出してくれた」
「……あれは、ほんとになんとなく、というか……なんか、気になって仕方なくて」
「うれしかったですよ」
ふたりとも、足を止めた。
駅前のロータリーの光が、雨に濡れたアスファルトに反射して、にじんで見えた。
「……このまま、もっと話したいなって思ってしまうんですけど」
彼女が、少し俯きながら言った。
「……俺も、思ってるよ」
「……じゃあ、もう少しだけ、一緒に歩きませんか?別にどこって決めてないけど」
「いいよ。時間、気にしなくていいし」
傘の下の距離が、ほんの少しだけ近くなった気がした。
小さな雨音と、ゆっくり歩くふたりの足音だけが、静かに夜を満たしていく。
「壊れた傘と、気持ちの整理」
翌週、彼女は小さな紙袋を手に持って、昼休みに俺の席の近くに現れた。
「これ……」
「え?」
「この前、壊れたって言ってた傘。家に置いてあったの、ちゃんと乾かして、拭いて……返したいなって」
(……あの傘。もう使えないくらい曲がってるのに)
「ありがとう。でも、壊れてるし、持ってても仕方ないんじゃ……?」
「……なんか、これを持ってたままだと、前に進めない気がして」
彼女は、真っ直ぐな目で俺を見た。
「ずっと、思い出のなかに“助けてもらった自分”として、立ち止まってた気がするんです。今までは、それが心の支えでもあったけど……でも、これからは、“隣を歩く自分”になりたいと思って」
「……」
「だから、あのときの傘は、ちゃんと返したいです。気持ちの整理、というか……けじめ、みたいな感じで」
(その言葉が、胸に突き刺さった)
俺は、そっと紙袋を受け取った。
重さはほとんどないはずなのに、なんだかずっしりと重く感じた。
「ありがとう。……じゃあ、これは受け取ります」
「はい」
それから、ふたりで給湯室に行って、何気ない会話をしながらコーヒーを飲んだ。
でも、その日は、お互いどこか意識しすぎて、うまく目を合わせられなかった。
午後、席に戻っても集中できず、気がついたらその傘を紙袋ごと引き出しにしまっていた。
(……あれは、ただの傘じゃなかった)
彼女にとっても、俺にとっても、あの傘は出会いそのものだった。
それを「返す」と言った彼女の決意が、今でも胸に残っている。
その日の終業チャイムのあと。
彼女からメッセージが届いた。
あの、もしよかったら、明日のお休み、一緒にどこか行きませんか?
ちゃんと、向き合って話したいことがあります。
画面の文字を見ながら、気づけば顔が熱くなっていた。
(……今度は、俺の番だ)
あの雨の日に傘を差し出したように。
今度は、俺の気持ちを差し出す番なんだと、そう思った。
「あの傘がくれたもの」
翌日、待ち合わせ場所に現れた彼女は、ベージュのコートを着ていた。
手には、新しいネイビーの傘――俺が貸した色に似た、でも少しだけ明るい色のやつ。
「おはようございます」
「……その傘、新しいやつ?」
「はい。昨日の帰りに、似てる色を探して、買いました」
「そっか……似合ってる」
「ありがとうございます。これからは、自分で選んだものをちゃんと持って歩こうと思って」
(その言葉は、まるで“これからの人生”を語っているようだった)
「今日は、どこ行こうか?」
「……特別どこって決めてなかったんです。話したかったのは、昨日の続きで」
「うん」
彼女は、一呼吸置いてから、言葉を続けた。
「私……ようやく、前に進める気がしてます。だから……もし、あなたがよかったら、隣にいてもらえませんか?」
「……もちろん。もう、ずっとそうしたかった」
「よかった……」
俺たちは並んで歩き始めた。
雨は降っていなかったが、彼女は傘を閉じずに、くるくると指で回していた。
「……この傘、晴れの日も持ち歩いていいですか?」
「うん。そうして。きっと、これからもいろんなことあるだろうし……でも、その傘があれば、きっと大丈夫」
「あなたが最初にくれた傘みたいに?」
「そう。あれは、たまたまだったけど……これはもう、選んでくれた傘だから」
「ふふ……そうですね」
空は少しだけ曇っていたけれど、足元にはちゃんと日差しが落ちていた。
あの日貸した傘がくれた出会いは、
時間をかけて、ちゃんと“ふたりの未来”に変わっていった。