マスクを外したら別人だった新入女子社員|胸キュン馴れ初めエピソード

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はっくなび

だれだっけ、この新入社員

すごく静かで、なんか気配だけの人

四月の空気は、ちょっとだけ花のにおいがした。

新入社員の研修が終わって、現場配属されてきた彼女の第一印象は、ひとことで言えば「おとなしい人」。いや、もう少し正確に言うと、「気配はあるけど印象が残らない人」だった。

グレーのスーツに、白いブラウス。よく見れば体つきも細い。でも、目立たない。マスクのせいか、表情もわからないし、髪も前に流れてて、顔が見えない。名札には名前が書いてあるけど、漢字が難しくて読めない。たしか「〇〇さん」だったような。

「よろしくお願いします」

その声も、聞き返さないと聞き取れないくらい小さかった。

(まぁ、仕事に慣れたらもうちょっと話すようになるだろ)

その程度にしか思ってなかった。というか、うちのチームに新入社員が配属されること自体が久々だったし、こっちも忙しくて、新人にかまってる余裕もなかった。毎朝の朝礼で一応顔を合わせるけど、彼女は俺と視線を合わせようとしない。パソコンの画面だけを見て、メモを取る手だけが動いてる。

「〇〇さん、書類の印刷は、右のプリンターでいいよ」

「…はい」

(え、聞こえた? 返事、小さっ)

話しかけたこっちが困るくらいの反応。

人見知りなのか、何かあったのか、あるいは…単にこういう性格なのか。

隣の席の女子社員、加藤さんがこっそり言ってきた。

「〇〇さん、話しかけるとフリーズしません? わたし、この前ちょっと質問したら5秒くらい固まってましたよ」

「あー…たしかに、そんな感じある」

「でも、仕事覚えるのは早いですよね。メモめっちゃ取ってるし」

「うん、まぁ、黙ってるけど手は早いな」

仕事はちゃんとする。受け答えも最低限だけど、ミスも少ない。だけど、感情が見えない。

──俺は、たぶん、興味がなかったんだと思う。

このときまでは。

雑談なんて存在しない職場の空気

うちの部署は、基本的に静かだ。

営業みたいに騒がしくもないし、開発みたいに夜中まで残ってるわけでもない。ただ、業務は多い。資料作成、各部署への調整、定例会議の段取り…。新入社員が来ても、最初のうちは“雑用”すら教えてる時間が惜しいくらい。

俺は、入社して8年目。30手前になって、ようやく少しだけ仕事を任されるようになってきた。

そんな俺が、この春から彼女の“教育係”みたいなポジションになっていた。

でも、正直やりにくかった。

質問しても、返事が小さい。顔を見ようとしても、彼女はいつも斜め下を見てる。たまに目が合っても、すぐそらされる。

(……まぁ、無理に近づこうとしなくていいか)

そう思って、必要最低限のやりとりだけをしてた。

でも──ひとつだけ、気になることがあった。

彼女は、俺が出すどんな指示にも、文句を言わない。

「これ、明日までにまとめて」

「はい」

「この資料、取引先用に修正してくれる?」

「…わかりました」

どんな内容でも、たとえ残業になっても、彼女は一度も嫌な顔をしなかった。

(おとなしいのは性格? それとも、何か抱えてる?)

そんなふうに考え始めてたのは、この時期からだった。

帰り道でも、やっぱり気配だけだった

彼女と帰りの時間がかぶることが、何度かあった。

「お先に失礼します」

小さくお辞儀をして、足音もなくオフィスを出ていく。俺もそのあと、なんとなく同じ時間にタイムカードを押す。

エレベーターが一緒になったこともあったけど、彼女はいつもスマホを見ていて、話しかける隙がない。

(…あんまり干渉されたくないタイプかな)

そう思って、こちらも気を使ってた。

電車の改札を抜けるときも、同じ駅の方向へ向かっていた。

(あ、同じ沿線なんだな)

それだけ。特に話すこともないし、隣を歩いていても、彼女はまるで空気のようだった。

──でも、その“空気”の存在が、ある日、ガラッと変わった。

ほんのちょっとした、日常のほころびから。

それが、すべてのきっかけだった。


帰りの電車、あの人の隣

電車の中で、急に声をかけられて

その日も、変わらず慌ただしい一日だった。

会議で使う資料を3種類作って、上司のチェックを受けて、クライアントに送って、さらに明日の予定を組んで…。時間が足りなくて昼飯もコンビニのパンで済ませた。やっとのことで終業時間。ふらふらの足取りで帰りの電車に乗り込んだ。

人が多くて、つり革に手を伸ばす気力もない。たまたま空いた座席に滑り込んだそのとき、となりから小さな声がした。

「それ、落としましたよ」

顔を上げると、俺の左手に書類が一枚乗っていた。スーツの内ポケットに突っ込んでいたつもりだった企画書。どうやら、座るときに落としたらしい。

「ありがとうございます…って、え?」

書類を拾ってくれた女性を見て、思わず言葉が詰まった。

目が合った。

その目だけが──見覚えのあるものだった。

(…いや、待て…これ…え?)

たしかに、職場で何度も見ていた目だった。だけど、顔が違う。

まず髪型が違う。ふわっと巻いてて、顔の輪郭がきれいに出てる。目元にはアイライン。リップも、自然に色づいてる。耳元には、きらりと光るピアス。

そして何より、マスクをしていなかった。

あまりに堂々とした表情に、思わずこちらが目を逸らしてしまった。

「……あ、バレました?」

彼女が、ちょっとだけ困ったように笑った。

(まじか…やっぱり、〇〇さん…)

会社ではほとんど無表情、無口、存在感すら薄かった彼女。その彼女が、目の前で、こんなにも表情豊かに笑っている。信じられなかった。

「え…あの……」

「はい、会社の人です。先輩ですよね?同じチームの」

「う、うん。あの、そうだけど…」

「いやー、こんなところでバッタリ会うなんて」

(テンションが高い…別人じゃないかこれ)

会社での彼女の印象とはまるで違って、喋り方も明るく、声も通る。口調もラフで、何よりリラックスしている。

「この辺、住んでるんですか?」

「……あ、うん。○○駅の近くで」

「うわ、じゃあほぼご近所じゃないですか! 私も同じ路線で、××駅までなんですよー」

「そ、そうなんだ…」

(なにこの会話…ぎこちないの俺だけか?)

どうしていいか分からず、顔が引きつるのが自分でも分かった。彼女の方は、にこにこと笑ってる。

「先輩って、しゃべると普通なんですね。職場では怖い人かと思ってました」

「え、マジで?」

「マジです。なんか、いつも無言でキーボード打ってて、ミスしたら怒られそうな雰囲気だなって」

「そんなつもりはないんだけどな…」

「まぁ、わたしも相当印象違うかもですけどね」

(それはもう…)

職場では、言葉を選ぶように喋り、視線も合わせず、物音すら立てないように動いていた彼女。今はどうだ。座ってる姿勢もゆるくて、肩の力も抜けてる。ふいに笑うと、頬に小さなえくぼができて、それがなんか──ずるいくらい可愛い。

「なんで…会社ではあんなに静かなんだ?」

「んー……疲れるんですよね、気を使うのが。あとは……あの場で“明るい自分”やってると、たぶん浮くし」

「でも、印象違いすぎて、正直驚いたよ」

「ふふ、ですよね。あ、これ言っちゃダメかもしれないけど──先輩、会社の女子にちょっとだけ怖がられてますよ」

「……うそ」

「ホント。まぁ、そのぶん仕事できるって思われてるっぽいですけど」

「なんかフォローされてるのか、されてないのか…」

彼女がくすくすと笑った。さっきまではしんどかったはずなのに、その笑い声を聞いたとたん、なぜか肩の力が抜けた。

(こんな顔、会社じゃ一度も見たことなかったな)

気づけば、電車はもう10駅近く進んでいた。

降り際に、ふっと見せた素の顔

「じゃ、わたしこっちなんで。お疲れさまでした!」

「うん、お疲れ」

立ち上がる前、彼女がふとマスクを取り出した。そして、もう一度こちらを見て、軽くウィンクするように片目をつぶった。

「会社では、内緒でお願いしますね。キャラが崩れるんで」

「……わかった。秘密にしとく」

「ありがと、先輩」

扉が開いて、彼女はさっと人ごみの中に消えていった。

(…あれ、本当に同じ人だったのか?)

電車のドアが閉まったあとも、しばらくその場から動けなかった。スマホの画面に目を落としながらも、ずっと彼女の顔が頭から離れなかった。

マスクの下には、あんな表情があったのか。

あんな声で、あんな目で、笑う人だったのか。

その日から──彼女のことが、気になって仕方がなくなった。


え、〇〇さん!?

職場では、また“地味”に戻っていた

翌朝、出社して最初に彼女を見たとき、思わず二度見しそうになった。

いつもの地味なグレーのスーツ。白いブラウス。マスクで顔の下半分は隠れていて、髪はまっすぐ、肩にそって落ちている。

(……あれだけ印象違う人が、同じ人間だなんて)

信じがたい気持ちで、彼女の背中を見ていた。

彼女は、朝礼で上司の話を黙って聞き、資料を静かに受け取り、端の席にちょこんと座った。挨拶は最低限。「おはようございます」と一言。昨日のあの表情の豊かさは、どこにもなかった。

(本当に同一人物なのか……?)

でも、目は同じだった。少し吊り上がった形と、まつ毛の影。昨日、電車の中で向けられた笑顔の奥に、見覚えがありすぎた。

「おい、おい」

斜め後ろの席の同僚、営業の田中が、ひじでつついてきた。

「どうした? なんかボーッとしてたけど」

「いや、ちょっと考えごと」

「今日、会議の資料まとめるんだっけ?」

「……あ、そうだった。〇〇さんにも伝えとこうかな」

そう言って立ち上がりかけたとき、彼女がすっと立ち上がり、俺の机のところへやってきた。

手には、進行表と付箋を挟んだクリップボード。無言で、俺の机にそっと置く。

「……これ、会議用の、集計済みです」

「ありがとう……って、すごいな、もう全部終わってたんだ」

「……はい」

(昨日のテンション、どこいった)

無表情、伏し目がち、声も小さい。電車でのあのやりとりが、まるで夢だったような錯覚すらする。

俺が何か言おうとすると、彼女はぺこりと一礼して、そのまま自分の席に戻っていった。

わざと話しかけないでいた

(どうするべきか)

すごく悩んだ。昨日、彼女は確かに「秘密にしてくださいね」と笑った。その笑顔が、妙にリアルで、胸に残っていた。

会社では“あの自分”を見せたくない。そう思ってるなら、俺が余計なことを言うのは、たぶんNGだ。

でも──どうしても気になる。

(あの明るい笑顔が、作り物じゃなかったってことは、声のトーンで分かる)

彼女の隣を通るとき、ちらりと目を合わせそうになるけど、やっぱり向こうは視線を合わせてこない。表情も固くて、完全に“会社用の顔”に戻っていた。

それでも、俺の中では何かが確実に変わっていた。

「〇〇さん、コピーお願いしてもいい?」

「はい」

「ここの数字、再計算必要かも。お願いできる?」

「わかりました」

彼女の返事はいつも通りだったけど──

(…いや、違うな)

ほんのわずかに、目が合うタイミングが増えた。前より早く反応が返ってくる。そして、ごくごくたまにだけど、口角がちょっとだけ上がっているようにも見えた。

もしかして、あれは…意識してる?

気のせいかもしれない。でも、昨日までとは違う空気が、確かに二人の間に流れていた。

加藤さんの鋭い一言

昼休み、コンビニに行こうと立ち上がったとき、加藤さんが小声で話しかけてきた。

「ねえ、あんた最近、〇〇さんのこと見る目、変わったよね?」

「……え?」

「気づかないとでも思った? あんた、前まで“気配しかない人”って言ってたのに、最近めっちゃ見てるじゃん」

「え、いや、そんなこと……」

「何かあったでしょ、正直に言ってごらん」

「……いや、まぁ、ちょっと話す機会があって」

「ふぅん? へぇ〜〜〜〜(にやにや)」

「な、なんだよその顔」

「いやいや、別に〜? ただ、あの子、すごいギャップあるよね」

「……加藤さん、知ってたの?」

「んー、ちょっとだけね。たまたま私、休みの日に駅前で見かけたんだよ。めっちゃ派手だった。最初気づかないくらい。んで、『あの子、会社では人違いレベルで静かすぎるよな〜』って思ってたところ」

「……だよな、俺もびっくりした」

「で、あんた……どうすんの?」

「どうって……」

どうしたいんだろう、俺は。

彼女ともっと話したい。でも会社ではあんなに壁を作ってる。職場とプライベートであそこまで顔を変える人に、どうやって近づけばいいのか分からなかった。

でも──昨日、電車で見せてくれたあの表情。あの笑い方。

もう一度、見たいと思ってしまっていた。


会社じゃ別人、また地味に戻る

黙ってるけど、ちょっとずつ変わってる

月曜の朝。

会議室の照明はいつもより少し暗く感じて、ホワイトボードの前に立つ上司の声がやけに遠くに聞こえる。そんな中、俺はチラチラと、部屋の隅の一角を気にしていた。

──彼女は、いつものように黙って座っていた。

白いマスク。前髪はきれいにそろっていて、目だけが少しだけ揺れていた。

(俺の視線に気づいてるか?)

たぶん気づいてる。でも、彼女は顔を向けない。

先週、帰りの電車であんなに楽しそうに話してくれた彼女と、今、俺の目の前にいるこの“仕事モード”の彼女は、別人のようだった。というか、実際に“別人”みたいに分けてるんだと思う。自分の中で。

(こっちも、うかつに話しかけない方がいいか)

なんとなくそう思って、俺は意識的に距離を取っていた。

だが──そんな日が、数日続いたある日の夕方。

俺の机の上に、付箋が一枚だけ貼られていた。

>「17時からのミーティング、A会議室に変更です」
>──〇〇

(……手書きか)

パソコンでも連絡できる内容なのに、わざわざ手書きの付箋。

その文字を見て、思わず口元が緩んだ。

(こういうこと、今までなかったな)

少しだけ、彼女がこちらに歩み寄ってきてくれた気がした。

「おいおい、にやけてどうしたよ。恋でもしてんのか」

後ろから田中が茶化してきたが、俺は聞こえないふりをした。

夕方、エレベーターの中で

その日の帰り、タイムカードを押してオフィスを出ようとしたとき、ちょうどエレベーターのドアが開いた。

中には、彼女が立っていた。

(……気まずいな)

少しだけ躊躇したが、次の便まで待つほどでもないと思い、俺はそのままエレベーターに乗った。

ドアが閉まる。静かな箱の中。

沈黙。誰も話さない。機械音だけが響く。

「……」

彼女はスマホを見ているふりをしていたけど、指は動いていなかった。

俺も何か言おうかと迷っていた。

──そのとき。

「……この前は、黙っててくれてありがとうございました」

ぽつりと彼女が言った。

マスク越しの声だったけど、しっかりと耳に届いた。

(ああ、ちゃんと気づいてたんだ)

「うん、別に秘密にしろって言われたし」

「……はい。でも、ちょっと恥ずかしかったから」

「……なんで?」

「仕事の自分って、本当の自分じゃないんです。誰にも見せたくないって思ってるわけじゃないんですけど……バランス取るのに、ああしてるだけで」

(バランスか)

「じゃあ、あの電車でのあなたが“本当のあなた”なの?」

「……どっちも本当です。どっちも、私です」

そう言って、彼女はふっと目をそらした。

エレベーターが1階に到着する少し前、彼女がぼそっと続けた。

「……電車で話したの、楽しかったです」

「……俺も」

その言葉を残して、彼女は足早にエントランスの外へ出て行った。

見送る俺の胸に、ほんのわずかだけ、温かいものが灯っていた。

加藤さんの鋭さは今日も健在

翌日、加藤さんが俺に言ってきた。

「ねぇ、あんたたち、何かあった?」

「な、なにが」

「いや〜、〇〇さん、ちょっと変わってきた気がするんだよね。なんか、目つきとか。柔らかくなったっていうか」

「……そう?」

「ふぅん、図星か」

「違うって」

「まぁ、そういうとこがまた怪しいんだけどさ。私は応援するけどね?」

そう言って去っていく加藤さんは、たぶん半分以上見抜いているんだろう。

でも、今はまだ何も始まっていない。ただの小さな、ほんの小さな“変化”があっただけ。

(でも、変わってきてる。それは間違いない)

俺の中での彼女の存在が、確実に“気配”から“意識”に変わっていた。


たまたまエレベーター、二人きり

夜のオフィスに、ふたりだけの音

木曜の夜。外はもう真っ暗だった。

上司の指示で急遽差し替えになった資料作りに追われて、気づけば20時を回っていた。周囲のデスクはすでに無人。天井の蛍光灯が半分だけ点いていて、どこか心細い明かりの中、キーボードを打つ音だけが静かに響いていた。

「……ふぅ」

体をのけぞらせて椅子の背もたれに預けたとき、パーティション越しに、カサ…という紙の音が聞こえた。

(……まだ、いるのか)

そっと立ち上がって見渡すと、少し離れた席に彼女がいた。うつむきながら、ノートに何かを書いていた。マスク越しの表情は読めないが、真剣な目つき。

俺は、声をかけるかどうか、一瞬だけ迷った。

(今までの彼女なら、この時間にはもう帰ってたはずだ)

それでも、何かが引っかかった。

「……〇〇さん、まだ残ってたんだ」

すると、彼女が顔を上げ、ちょっとだけ目を丸くしてから、すぐにマスクの奥で小さく笑った気がした。

「はい、明日の朝イチの資料、今のうちに確認しておきたくて」

「真面目だなあ。体壊すぞ」

「……先輩もですよ」

その言い方がやわらかくて、少しだけ心がふわっと緩んだ。

「……じゃ、一緒に帰るか?」

言ったあとで、しまったと思った。

でも、彼女は少しだけ迷ったように間を置いてから、うなずいた。

「……はい」

エレベーターに乗り込んだ瞬間

エントランスホールの照明は、時間指定で既に半分消えていた。警備員の姿もなく、夜の社屋はしんと静まり返っていた。

「……この時間、誰もいないですね」

「うん。たまに残ってると、ビルが自分だけの空間に見える」

「……ちょっとわかります、それ」

俺たちは、並んでエレベーターの前に立ち、到着音とともに乗り込んだ。

中は、外よりもさらに静かだった。

(ふたりきり、か)

あの日以来だ。あの電車で偶然隣に座った日。

同じように、話すべきか、黙っていたほうがいいのか。選ぶ時間すら、短い。

「……この前、ありがとうございます」

「え?」

「電車のあと、ちゃんと黙っててくれたこと。ああいうの、意外とすぐバレるから……」

「いや、別に言う必要ないし。俺もびっくりしたけど、嫌じゃなかったよ」

「……それ、変ですよ」

「変か?」

「ふつう、引かれますよ。“あの地味なやつが、急に別人みたいに明るくなってる”って、怖がられてもおかしくないと思ってて」

「でも、俺は……」

一瞬、言葉が詰まった。

でも彼女は、静かにこちらを見ていた。マスクをしていても、その目の奥にはちゃんと感情が見える。気づけば、彼女の目をまっすぐに見返していた。

「俺は、あのときの方が……いいと思ったよ」

「え……?」

「いや、もちろん、会社の姿も立派だと思う。でも、電車の中で笑ってた君を見て──なんか……ドキッとした」

言ってしまってから、心臓がドクンと跳ねた。

彼女は驚いたように、しばらく目を見開いていた。でも次の瞬間、ふっと肩の力が抜けたように小さく笑った。

「……そんなふうに言われたの、はじめてかもしれません」

(なんか……報われた気がした)

照明の白い光の中、彼女の目がやわらかくゆるんでいくのが分かった。

エレベーターの表示が「1」を示し、軽い揺れと共に扉が開く。

「……ありがとう、先輩」

その一言が、今夜一番心に響いた。

駅までの道を、並んで歩いた

外はまだ冷え込んでいて、風がコートの裾を揺らしていた。

歩道の上を、俺たちは自然と歩幅を合わせて並んで歩いていた。会話はなかったが、不思議と居心地の悪さはなかった。

途中、自販機の前で、彼女が足を止めた。

「先輩、コーヒー飲みますか?」

「あ、うん。ブラックで」

彼女は缶コーヒーを2本買って、片方を俺に差し出してくれた。

「いつもありがとうございます。これ、感謝のつもりで」

「……俺、何もしてないけどな」

「してますよ。ちゃんと見てくれてるって、分かるんです」

そう言って、缶を自分のコートのポケットにしまった彼女の顔には、会社では見せない笑顔があった。

その顔が、駅の明かりに照らされて、ほんの一瞬、宝石みたいに見えた。

(この人のこと、もっと知りたい)

その気持ちが、もう胸の中で確信に変わっていた。


週末の偶然、また“素の彼女”と

たまたま入った家電量販店で

週末の昼下がり。

目的もなく街を歩いていた。休日にしては寒く、うっすらと曇っている空の下を、重いコートに身を包んだまま、駅ビルの家電量販店にふらりと入った。

(最近、掃除機の吸引力が落ちてきたんだよな……)

特に買うつもりもなかったけど、掃除機コーナーの前で立ち止まって、どれがどれだか分からないカタログ値を眺めていたそのとき。

「先輩……ですか?」

背後から、聞き覚えのある声がした。

振り返った瞬間、またしても、思考が一瞬止まった。

(……また、“あっちの顔”だ)

アイメイクは自然だけどきちんと整っていて、髪は緩く巻かれている。くすんだピンクのコートに、白いニット。小ぶりのイヤリングが揺れていて、ほんのりベージュ系のリップがやけに似合っていた。

「……お、おう。偶然だな」

「ホントですね。びっくりしました」

彼女は、前に見た“電車の彼女”よりも、さらにナチュラルだった。

笑顔も柔らかく、声もよく通る。自然体というか、緊張がまるでない感じ。

「何してたんですか?」

「掃除機、買い替えようかと思って。最近、うちのやつ吸わないからさ」

「わかります。うちのも、たまにしかゴミ吸ってくれません。……あ、でも“吸引仕事率”って見た目より大事ですよ。単位は“W”で……」

「詳しいな」

「前にバイトしてたんですよ。家電売り場。洗濯機と掃除機は得意です」

「へぇ……」

俺は、少しだけ立ち位置を彼女の横に移動して、並んで掃除機を見た。

「……あの、変ですか? 会社とギャップありすぎですよね、やっぱり」

「うーん、変ではない。びっくりはするけど、こっちの方が“合ってる”気がする」

「……ふふ、ありがとうございます」

彼女の笑顔は、心をふっと軽くする力があった。

「じゃあ、このまま説明していきますね。これがコードレス式で、軽量タイプ。で、こっちはダイソン系で吸引力特化型……」

彼女は、自分の元バイト時代の経験を生かして、冗談交じりにプレゼンを始めた。

俺は、それを聞きながら、笑いをかみ殺すのに苦労した。

(本当に、誰なんだろうこの人……)

でも、確かに──この人を、もっと知りたいと思っていた。

フードコートで、ゆるく話す

「じゃ、せっかくなので、コーヒーでもどうですか? あっちにドトールありますよ」

「……いいの?」

「はい。こっちも、誰かと話したかったので」

ショッピングモールのフードコート。混み合う時間帯を少し外していたから、空席もぽつぽつと空いていた。

温かいカフェラテを受け取って、向かい合って座る。

彼女は、手元のカップを軽く回しながら、ぽつりと話し出した。

「私、たぶん……職場で誤解されてますよね」

「うん……まぁ、正直、“静かすぎる”って思ってた」

「怖かったですか?」

「怖いというか……壁が厚いな、とは思った」

「……自分でも、壁作ってる自覚はあるんです。でも、それじゃ誰も私のこと見てくれないって分かってても、仕事場ではあれが一番ラクなんです」

「無理しないで済むから?」

「はい。私、人と関わるの、すごく気を使っちゃって。でも、疲れるのが怖いだけで、本当は誰かと話すの、嫌いじゃないんです」

そう言って、目を伏せる彼女の仕草が、少しだけ切なかった。

「じゃあ、今は?」

「今?」

「今、俺とこうやって喋ってるのは……」

少し間があってから、彼女は、またこっちを見て笑った。

「今は、けっこう楽しいです」

その答えに、俺は内心でガッツポーズしていた。

(よかった……あの時、電車で話しかけられて)

あれがなければ、たぶん、彼女は今も“気配だけ”の存在だった。

「……俺さ」

「はい?」

「もっと、こうやって話したいと思ってる」

彼女の手が、カップのフチで止まった。

「職場じゃああいう感じだけど……たまにでいいから、“こっち”の〇〇さんと話せたら、嬉しいって思う」

しばらく黙っていた彼女は、最後にひとつ、深くうなずいた。

「……わかりました。じゃあ、週に一回くらい、“マスク外した日”作ります」

「マジで?」

「マジです。だから……先輩も、たまには素を見せてくださいね?」

そのとき、なぜだか胸が少しだけ苦しくなった。

不思議と──泣きそうなくらい、嬉しかった。


仕事は変わらず無言、でも

言葉は少ない。でも、やりとりはある

「おはようございます」

週明けの月曜日。

オフィスの空気はいつもと同じだった。プリンターの音、電話の着信、誰かがキーボードを叩く音。

そんな中、彼女のその一言は、きわめて普通の“朝の挨拶”だった。けれど、俺にとっては、それが妙に嬉しかった。

彼女は今日もグレーのスーツに、白いマスク。前髪は整えてあるけど、視線は下。ぱっと見た限り、職場の誰も彼女の変化には気づいていないだろう。

でも俺には分かる。

(声のトーンが、ちょっとだけ違う)

会社に入ってから半年。毎日聞いてきたからこそ分かる、小さな変化。

「ああ、おはよう」

自然と返事が出た。

すると彼女は、ほんのわずか──目だけで笑った。

その日から、俺たちの間には“言葉以外のやりとり”が増えていった。

たとえば、昼前。

俺の机の横に、メモが一枚。

>「11時の提出、先方に送っておきました」

言葉ではない。でも、これも立派な会話だった。

翌日にはこうだった。

>「会議室、B→Cに変更になったそうです」

>「了解です。ありがとう」

返事は、俺の字でそのメモの横に書いた。

付箋で交わされる無言のやりとり。それが、なぜか心地よかった。

まるで、手紙を交換するみたいだった。

気づけば、メモが習慣になってた

木曜日の午後。

彼女は俺の机に、また一枚のメモを置いた。

>「先輩、明日のクライアント名、”菱野産業”ではなく”日野産業”だそうです。資料、直せますか?」

(……危なかった)

思わず小さくうなずいて、すぐに修正作業に入った。

「助かった。ありがとう」

声に出して言ったけど、彼女は俺を見ずに、ふわっと手だけ振って自分の席に戻っていった。

でも、見ていた。

そのとき、彼女のマスクの下の頬が、少しだけ膨らんだのを。

(たぶん、笑ったな)

翌朝、今度は俺が先手で置いた。

>「日野産業、修正完了。資料は共有フォルダに入れておきました」

すると、その下に彼女の字でこう書いてあった。

>「素早い対応、さすがです」

なんだこれ。報告書のやりとりかよ、って思いながら、俺は顔がニヤけるのを必死でこらえていた。

(こんなことで嬉しくなるなんてな)

でも、ほんとうに、それだけで嬉しかった。

誰かと、こんなふうに言葉を交わさず、気持ちを通わせる日がくるなんて思ってなかった。

しかも、それが職場の“地味すぎる新人”だと認識していた彼女との間に起こるとは、夢にも思わなかった。

いや──“地味すぎる新人”なんて、もうとっくに思ってないけど。

加藤さんの目が、また鋭い

「ふたりって、付き合ってるの?」

ある日、後ろの席の加藤さんが、PCのモニター越しにいきなり聞いてきた。

「いや、ちょ、なに急に」

「だって最近のあんた、〇〇さんとメモ交換してるでしょ。前は“気配だけ”って言ってたのに、今じゃ“文通か”ってレベルじゃん」

「それは、業務連絡だって」

「ふーん、じゃあその“業務連絡”に顔がニヤつくのは何でかな〜?」

図星すぎて、反論できなかった。

「でも、いいと思うよ? 〇〇さん、あんたにだけちょっとだけ、表情違うし」

「……やっぱ分かる?」

「うん。私、観察力だけはあるから」

彼女はそう言って、いたずらっぽく笑った。

(見られてるんだな)

でも、それでもいいと思った。

彼女が俺にだけ見せてくれるちょっとした変化を、誰かが気づくほどに、彼女が“この場所に馴染んできた”ということだから。

それは、ほんの少しだけど──誇らしかった。

マスクの下にある気持ち

週末の夕方。

タイムカードを押してエレベーターに向かうと、彼女がちょうど待っていた。

「……お疲れさまです」

「お疲れ。今日も頑張ってたね」

「いえ、先輩こそ。来週の報告書、大変そうですね」

「まぁ、な。でも、君がメモでいろいろ助けてくれてるおかげだよ」

「……そう言ってもらえると、嬉しいです」

言葉は短いけど、通じている。

それが分かるだけで、今日の疲れが吹き飛んだ。

ふたりで乗ったエレベーターの中、沈黙が流れても不思議と居心地が悪くなかった。

ふいに、彼女が言った。

「……また、“マスクを外す日”作ってもいいですか?」

「え?」

「今度の日曜、映画とか……観ませんか?」

心臓が跳ねた。

「……行こう。俺も、見たい映画ちょうどあった」

「よかった……じゃあ、駅前の映画館で」

その瞬間、マスクの下で彼女がほんの少しだけ口角を上げたのが分かった。

言葉は少ない。でも──確かに、彼女との距離が近づいている。


送別会、マスクを外して乾杯

会議室じゃなく、居酒屋での彼女

年度末のある金曜日。

定例プロジェクトが無事に完了し、部内で小さな送別会が開かれることになった。場所は駅前の居酒屋。普段は静かなオフィスの面々が、夜の街に繰り出すとあって、空気はどこか浮ついていた。

俺はなんとなく、彼女が来るかどうか不安だった。

(こういう集まり、苦手そうだし……)

けれど、店ののれんをくぐって奥の席に視線を移した瞬間、その不安は一気に裏切られた。

(……来てる)

それだけじゃない。

彼女は──マスクを、していなかった。

ゆるく巻いた髪に、白いニット。シンプルなピアスが揺れていて、笑ったときに見える歯並びが、ほんの少しだけ照れくさそうだった。

席の端に座っていた彼女が、俺と目が合うと、軽く会釈した。

(マスクを外すって、そういう意味だったんだ)

“マスクを外す日”──この約束は、映画だけじゃなかったのかもしれない。

「よう、お前。早かったな」

「……ん、まぁ。席どこ?」

「そのへんでいいだろ。〇〇さんの向かい、空いてるぞ」

誘導するように田中が指差した先。俺は、彼女の正面の席に腰を下ろした。

「こんばんは」

「こんばんは。……なんか、変な感じですね、職場の人とこういうの」

「確かに。でも……その服、似合ってる」

「……ありがとうございます。頑張りました、これでも」

少しだけ頬を染めた彼女の反応が、場のにぎやかさの中で、やけに眩しく見えた。

乾杯のあと、自然に交わる視線

「それじゃ、プロジェクトの成功と、送別される皆さんに──乾杯!」

一斉にジョッキの音がぶつかり合う。俺はビール、彼女はカルピスサワー。氷の音が、かすかに響いた。

(緊張してるかな)

ふと視線をやると、彼女はジョッキを両手で持ったまま、小さく笑っていた。

「……なんか不思議ですね。職場の人たちが、こんなふうに騒いでるの」

「うん。でも、たまにはこういうのもいいよな」

「そうですね。……ちょっと緊張しますけど」

「それでも、来てくれて嬉しかったよ」

「……ほんとに?」

「本気で」

彼女は少し目を伏せて、それからコップに口をつけた。

(こんな距離で、素顔の彼女を見られるのって、あの電車以来かもしれない)

周囲の話し声が徐々に大きくなっていく中、俺たちだけが別の時間を過ごしているようだった。

ときおり他のメンバーが話しかけてきて、彼女も笑顔で返していた。まだ少しぎこちないが、それでも確実に“社内の空気”の中に馴染んでいた。

「〇〇さん、笑うと意外と愛嬌あるよねー!」

「え、そうですか? わ、私……あまり喋らないから」

「いやいや、今日のほうが全然イメージ良いよ!」

「……よかったです」

そんなやりとりを聞きながら、俺はふと、言葉が口をついて出た。

「……こっちのほうが、好きだな」

「え?」

彼女が驚いたように、目を見開いた。

「……今日の〇〇さん。マスクしてない方が、いいと思う」

「……そんな、急に……」

「いや、ほんとに。なんか、自然で。すごく似合ってる」

その言葉に、彼女は目を伏せて頬を赤らめた。

「……ずるいですね、そういうの」

「なんで」

「そう言われたら、また“素の顔”見せたくなっちゃうじゃないですか」

彼女の視線が、そっと俺を射抜くように重なった。

冗談っぽく、でも少しだけ本気のトーン。

それが、また胸の奥をくすぐるようだった。

解散のあと、すこしだけ長く

送別会が終わる頃には、時計の針はもう22時を回っていた。

駅に向かって歩く人の群れのなかで、彼女と俺は、少し遅れて歩いていた。

「楽しかったです」

「そっか」

「……緊張もしたけど。でも、先輩がいてくれたから、ちょっと安心しました」

「俺も、君が来てくれて助かったよ。……隣で飲めて、嬉しかった」

歩幅が、自然と揃っていた。

交差点の手前、信号待ちで立ち止まったとき、彼女がふとつぶやいた。

「……また、こうやって話せる日があったらいいなって、思いました」

「あるよ。これからも」

「……ほんとですか?」

「ほんとに。だって、君のこと、もっと知りたいから」

そのとき、彼女はふっと笑って──

「……ずるいな、先輩は」

ぽつりと呟いた。

マスクは、今日一度もつけられることはなかった。

あのとき話しかけてくれて、ありがとう

「マスクなし」が日常になるまで

春が近づいていた。

あの日の送別会から、もうすぐ1ヶ月。社内では新年度の準備が始まり、人の動きがばたつき始めていた。そんな中で、彼女との関係は──なんというか、穏やかに続いていた。

出社すれば、「おはようございます」と彼女が挨拶してくれる。その声は、以前よりも少しだけ大きい。昼にはメモが机の上に置かれ、夕方にはちょっとした雑談を交わすようになった。

そして──彼女は、ときどきマスクを外すようになっていた。

それは、誰かに見せつけるような“宣言”じゃない。あくまで、自然なタイミングで、自然な表情で。朝のデスクで、昼のミーティングで、帰り道の駅のホームで。

最初は俺だけに見せていた「素顔」が、少しずつ、他の人にも向けられていることに気づいた。

「〇〇さん、最近柔らかい雰囲気になったねー」

「ほんと、話しやすくなった気がするよ」

同僚たちのそんな声に、彼女は最初びっくりしたような顔をしていたけど──だんだん、素直に受け止められるようになってきた。

(嬉しいな)

でも、ほんとうに嬉しかったのは──

「先輩。今日、帰りに寄り道しません?」

彼女のほうから、そう言ってくれるようになったことだった。

もう“特別なイベント”じゃない。

マスクのない会話が、俺たちの“日常”になっていた。

ある雨の日に

春を告げるような雨が降っていた日。

職場の窓の外には、傘の列ができていた。会議が長引いて、退勤時間を大きく過ぎたころ、俺はそっと隣のデスクを見た。

彼女は、まだいた。

「帰ろうか」

「……はい。今日、降ってますね」

「うん、傘ある?」

「一応ありますけど……風、強そうです」

「じゃあ、駅まで一緒に」

オフィスを出て、エレベーターを降りて、エントランスを抜ける。ビルの前で俺が傘を広げたとき、彼女が少し迷ったように立ち止まった。

「……ご一緒してもいいですか?」

「もちろん」

傘の下、肩が触れるくらいの距離。少しだけ彼女の髪が揺れて、雨の匂いに混じって、柔らかい香りがした。

「雨の日って、昔から好きだったんです」

「へえ、意外」

「ちょっと景色が変わるじゃないですか。みんな足早で、ちょっとだけ不機嫌そうで。でも、なんか素直になるっていうか……」

「……分かる気がする」

「今日も、なんだか……話したくなりました」

「なにを?」

「最初に、先輩とちゃんと話した、あの日のこと」

俺たちは、信号の下で足を止めた。

「電車の中で、声をかけたのは、ちょっと勇気がいったんです。でも──もしあのとき、話しかけなかったら、きっとこのまま“空気のまま”終わってた」

「……俺も、あの時のこと、ずっと思ってた」

「ふふ、同じですね」

そして、信号が青に変わった。

交差点を渡りながら、彼女がぽつりとつぶやいた。

「……話しかけてよかったです。ほんとうに」

その言葉に、俺の胸がぎゅっとなった。

(ありがとうって、俺のほうこそだよ)

駅の自販機の前で

駅の改札の手前。自販機の前で、ふたり並んで立ち止まった。

前にもこんなことがあった──そう思い出していたら、彼女がぽつりと笑った。

「先輩、あのとき、ブラック飲んでましたよね」

「うん。なんで覚えてる?」

「なんとなく。……それ、あのときの、はじまりだったなって」

彼女は、同じブラックの缶を押した。そして俺のぶんも。

「……覚えててくれて、ありがとう」

「ううん。忘れられるわけないです」

缶コーヒーを受け取りながら、俺は静かに彼女を見つめた。

マスクはしていない。視線をそらさず、まっすぐ俺の目を見てくれる。

(この人と、出会えてよかった)

その想いが、心の底から溢れていた。

今、となりで笑う人へ

あれから、数ヶ月が過ぎた。

季節は完全に春になって、駅前の桜が満開を迎えていた。

今日は休みの日。少し早起きして、待ち合わせのカフェに向かうと、彼女が先に席に座っていた。

「おはようございます」

「おはよう。今日も早いね」

「先輩が寝坊しないように、祈ってました」

「……失礼なやつだな」

「ふふ、でも起きてきてくれてよかった」

彼女は、今日もマスクをしていない。

もう、ずっとしていない。

「最近、変わったって言われます」

「うん、そうだろうな」

「でも、私は何も変わってないんです。ただ……自分を、見てもらえるようになっただけです」

(その“きっかけ”になれたのなら、俺は幸せだ)

俺は、コーヒーをひと口すすって、そして言った。

「ありがとう」

「……え?」

「電車で話しかけてくれて、ありがとう。もし君があのとき黙っていたら、俺はたぶん、ずっと君の“気配”にすら気づけなかった」

「……うん」

「でも、今こうして君が隣にいる。マスクを外して、笑ってる。それが……ほんとうに、嬉しい」

彼女は、少しだけ涙ぐんで笑った。

「先輩こそ、ありがとう。最初に、受け止めてくれて」

「当たり前だろ。そんな魅力、気づかないわけがない」

「……また、ずるいこと言う」

「これからも、いっぱい言うつもりだよ」

ふたりの時間が、ゆっくりと流れていく。

あの日、マスクの奥にあった素顔。

今、それはもう“特別な瞬間”ではない。

となりで笑う、毎日の景色。

そのすべてが、愛おしい──そう思えるようになっていた。


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