休日出勤に子供を連れてきた女上司と付き合う事に|馴れ初め風エピソード

休日出勤に子供を連れてきた女上司と付き合う事に

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はっくなび

休みの日なのに出社、ほんとやめてほしい

休日の会社って、空気が冷たい

土曜日の朝、普段より重い足取りで会社のビルに入った。

「……はぁ」

深いため息が、自動ドアの開く音にかき消された。

(なんで俺が、休日出勤なんか……)

理由は、例のプロジェクト。納期前倒し。資料の再構成。あり得ない工程を組んだ張本人が、あの人――営業部の鬼、嫁子だった。

名前を出すのも嫌になる。年下なのに、言葉にトゲがありすぎて、俺なんかは一言で凍るタイプ。会議中に「これ、意味あります?」と無表情で言われたときの心のダメージは、今も消えない。

エレベーターの中、ふと天井のミラーを見上げたら、情けない顔の自分と目が合った。

(……これが休日の俺の顔かよ)

会社に着いて、照明の落ちたフロアに足音だけが響く。誰もいないオフィス。だけど、どこかに絶対、彼女がいる。

いやだな……。

この時点では、俺はただ、苦手な人と過ごす休日が嫌で仕方なかった。けれど、その日の出来事が、俺の全部を変えるなんて、まだ知る由もなかった。


俺の自己紹介(地味で逃げ腰な社員)

俺は開発部の平社員。30代前半、独身。職場ではほとんど目立たないタイプ。声も小さめで、会議で発言するのは苦手だ。

それでも、コツコツ資料を作ったり、議事録をまとめたり、目立たない仕事を丁寧にこなすことで、何とか生き残っている。

上司や同僚からは「真面目だけど空気」とか「無害」とか言われる。悪口じゃないんだろうけど、褒め言葉でもない。

特に、嫁子には完全に「いてもいなくても変わらない」扱いをされている。話しかけても返事が簡潔すぎるし、説明しても「はい」で終わる。

(あれが本気で人間に興味ないタイプなんだと思ってた)


彼女の紹介(鬼のような上司)

彼女――嫁子は、営業部のやり手。俺より2つ年下で、見た目は地味なのに、仕事の鬼だ。

感情を見せない、というより、そもそも人間の感情がないみたいな態度。目を合わせるのが怖くなるタイプ。

「資料、甘いです」
「数値の根拠、これだけですか?」
「説明に説得力がありません」

淡々と、容赦なく、切り捨ててくる。怒ってるわけじゃないのが逆に怖い。

それでも、営業数字は常にトップ。取引先からの評価も高い。社内の誰もが「仕事はできるけど関わりたくない」と思ってるはず。

もちろん俺も、その一人だった。


嫌な予感がする朝の気配

エレベーターが7階に着いて扉が開いた瞬間――俺の胸に不思議な違和感が走った。

「……なんだ、今の音」

カツ、カツ、と不規則な小さな音。ヒールじゃない。子供の靴? いや、空耳だろうか。

俺は自分の席に向かいながら、やたらと静かなフロアに妙な不安を感じていた。空調の音が妙に大きく感じる。

そのとき、ふと会議室の前で立ち止まった。扉が少しだけ開いていて、誰かの気配がある。

(え、誰かいる……?)

音を立てないように近づいて、そっと中を覗く。

――そこにいたのは、信じられない光景だった。


会議室の中で見た「ありえない光景」

嫁子が、子供を膝の上に乗せて、資料を読みながら話していた。

「静かにしてなさい。ママはお仕事中」

その声は、いつもの無機質なトーンだった。けれど――

(なんだ、この光景……)

小さな男の子が、彼女の髪の毛をいじりながら「ママ、お腹すいた〜」と甘えた声を出していた。

それに対して、「お昼になったらコンビニ行くから」と、さらっと返す。

嫁子が、ママ?

鬼のように仕事に厳しい、あの冷徹な上司が、子供をあやしている。

ありえない。けど、目の前で確かにそれは起きていた。


「……ただの上司」じゃなかった瞬間

彼女の表情に、大きな変化があるわけじゃない。いつもの、無表情に近い横顔だった。

けど、子供の体温を受け止めるように腕をまわして、時おり書類に視線を落とすとき、眉がほんの少しだけ緩む。

(……なんでこんな表情、俺、初めて見てるんだろう)

まるで、別人を見てる気がした。嫁子じゃない、“彼女”の顔だった。

しかもその顔は、あまりに自然で、優しくて、でも口調はあくまで冷静で……。

心がざわついた。胸の中で何かが騒ぎ始めた。

(これは……どういう気持ちなんだ?)

この瞬間から、俺は、嫁子のことを“苦手な上司”とだけは思えなくなった。


ちいさい音がして、なんか変だった

土曜のオフィスに、似合わない音

コツ、コツ……と、フロアに似合わない音がしていた。

(誰かの……靴音?)

それは、大人の足音とは違った。軽くて、音の高さもバラバラで。小走りみたいな感じだった。

休日出勤のオフィスは、空気が止まったみたいに静かになる。それが常だった。だからこそ、そんな音が妙に気になった。

フロアの隅にある会議室。その扉が、なぜか少しだけ開いていた。

いつもピタッと閉まってるのに。少しだけ、隙間がある。

なんとなく――胸騒ぎがした。

(まさか、あの人が?)

そう思いながら近づいて、俺はそっと覗いた。


あの人と、子ども

彼女が、椅子に座っていた。

資料を机に並べ、ペンを持って、真剣な目で何かを書いている。その膝には、小さな男の子が座っていた。

年齢はたぶん、3〜4歳くらいだろうか。ぱっつん前髪に、シャツが少し大きめで、膝に乗せたまま体をくねくねと動かしている。

「ママ〜、これなにー?」

「グラフ」

「ぐらふってなにー?」

「……数字を絵にしたやつ」

「ふ〜ん……むずかし〜」

淡々と答える彼女。でも、嫌そうではなかった。

むしろ、そのやり取りが、日常なんだろうとすぐわかるくらい、自然だった。


その姿に、声が出なかった

俺は、固まった。

息をするのも忘れそうになるほど、驚いていた。

(……え? 子ども? え、彼女の?)

彼女が誰かの母親だなんて、今まで想像したこともなかった。

あまりに仕事の鬼。いつもピリピリしてて、冷静で、情なんて一ミリも見えない。

そんな人が、子どもを抱いてる。

しかも――優しかった。

「じーって見ない。目が悪くなる」

「やーだ! ママの顔みてるの」

「……そう」

子どもが頬をすり寄せると、彼女は無言のまま、そっと体を抱き直した。

(こんな人だったんだ……)

脳が処理できなかった。まるで、違う人物を見ているようだった。


立ち尽くしてた俺に、声をかけたのは……

「おじちゃーん!」

突然、男の子が俺を見つけて、元気よく手を振った。

(……おじちゃん!?)

「おじちゃん、なにしてんのー?」

「え、あ、いや、あの、その……(やばい、見つかった……)」

嫁子が、顔を上げた。

俺と目が合った。

その瞬間、空気がピキッと凍る。

……と思いきや、彼女はほんの一拍遅れて、スッと目を逸らした。

「……勤務時間中です。廊下で立ち止まらないでください」

(やっぱり怖い……)

でもそのとき、子どもが言った。

「ママ、この人、ママと話してるのに笑ってるー!」

それを聞いた嫁子が、俺に目を戻して――

少しだけ、唇の端が動いた。

それは「笑った」というにはあまりにも小さな動きだった。

でも、たしかに――表情が緩んでいた。


その表情を、初めて見た

そのときの彼女は、少しだけ柔らかく見えた。

「……うるさい」

と、子どもに向かって呟いた声も、今まで聞いた中で一番、感情がこもっていた気がした。

(なんだろう、この気持ち)

心がざわざわした。いつもの冷たい彼女じゃない。

母親としての顔。そして、少しだけ照れたような表情。

それを、俺が見てしまった。

(見ちゃいけなかった気がする)

けど、目が離せなかった。

心臓が妙にうるさくて、自分の鼓動で頭がぼーっとする。

こんな感覚、久しぶりだった。


そのまま、何も言えずに

俺は何も言えなかった。

会釈するのが精一杯で、そそくさと自分の席に戻った。

でも、パソコンを開いても、手が止まる。

(……子ども、いたんだな)

(……しかも、あんなに優しい顔、できるんだ)

いつも距離を置いていた彼女のことが、急に近く感じられた。

いや、近づいたのは距離じゃなくて、温度かもしれない。

冷たい鉄のようだった彼女が、人間だったことに、驚いている。

しかも、「母親」という、想像もしなかった面を持っていた。

俺は、今まで何を見てたんだろうと思った。


子どもの声が、また聞こえた

「ねぇママ〜、おじちゃんってなにしてるひと〜?」

「……仕事してる人」

「ふ〜ん。やさしそうなかおしてたよ」

「……そう?」

「またおしゃべりしたい〜」

「……」

会議室から漏れてくるそんな声に、俺の顔は思わず綻んでいた。

(……あれ? 俺、今、笑ったか?)

いつも苦手だった嫁子に向けて、そんな風に笑うなんて――

今日という日は、確実に何かが変わり始めていた。


あの人が“お母さん”だった

頭から、離れなかった姿

仕事を始めようとしたものの、キーボードに指が置かれたまま、動かなかった。

(……あの表情、なんだったんだろう)

さっきの、会議室の彼女。
いつも冷たく、声も目も、まるでスイッチの入っていない機械のような印象だった人が、
あんなにも自然に、子どもを抱いていた。

感情を押し殺してるわけでもない。
むしろ、“それが彼女の本当の姿”のように見えた。

(俺、何を知ってたつもりだったんだろ)

彼女のこと、ずっと苦手だと思ってた。怖くて、無口で、他人に興味のない人だって。
でも、それは仕事での顔でしかなかったんじゃないか。

パソコンの画面がぼやけて、文字列が読み取れない。

仕事にならなかった。


母親としての「声」

数十分後、資料を届けるついでに、また会議室の前を通った。

扉は閉まっていたけど、内側から、子どもの声がした。

「ママ〜、おなかすいたよ〜」

「……お昼までもうちょっと。あと10分、頑張って」

「ぐーってなった〜」

「音は聞こえてないから大丈夫」

淡々としているようで、どこか穏やかだった。
彼女の声に、はじめて“温度”を感じた気がした。

(これが……母親の声なんだな)

少しだけ、胸が温かくなるような、不思議な感覚だった。


仕事の鬼にも、柔らかい時間があった

それから小一時間、彼女は会議室で仕事を続けていた。

途中でコンビニに行って戻ってくるのを見かけた。
子どもが手にしたパンを、にこにこしながら見せてきた。

「ねーねー、おじちゃんもパンたべる〜?」

「い、いや……ありがとう。でも仕事中だから……(子どもに話しかけられるの、慣れてない……)」

彼女はその様子を無言で見ていたが、子どもが去ったあと、ひとこと呟いた。

「……なつきやすいんです、この子」

それだけだった。

でもその一言に、妙なリアルさがあった。
どこか誇らしげで、でも少しだけ、申し訳なさそうなトーン。

(なんか、いいな……)

彼女の中に、母親としての「自覚」と「愛情」が確かにあった。

そのことが、なぜか俺には――嬉しかった。


想像してなかった「過去」が見えた気がした

(そういえば、彼女のプライベートって……何も知らなかった)

既婚かどうかも聞いたことがない。離婚してるのか、そもそも未婚なのか。
ただ、あの子のことを「ママ」と呼んでいたということは、少なくとも、母親であるのは間違いない。

(じゃあ、普段はどうしてるんだろう)

保育園? 一時預かり? 祖父母?
この日だけ、どうしても預けられなかったのか。

そんなことを考えている自分が、不思議だった。
いつもなら、「他人の事情なんてどうでもいい」と思っていたはずなのに。

でも、気になった。

彼女がどんな日々を過ごしてるのか、知りたくなっていた。


まさかの展開、また会議室で

午後、上司から「資料まとめて、あの人に渡しておいて」と指示された。

(……あの人って、嫁子さん?)

俺は資料をファイルに入れて、会議室へ向かった。

ノックをすると、すぐに「どうぞ」という声が返ってきた。
冷たいけれど、どこかいつもより軽い。

扉を開けた瞬間、また、俺の想像を超える光景があった。

彼女が、子どもを腕に抱いたまま、ウトウトしていたのだ。

資料を持ったまま、俺は凍りついた。


すぐに戻った「いつもの嫁子」

彼女はハッと目を覚まして、すぐに姿勢を正した。

「……すみません」

「い、いえ。あの、これ……資料です」

「……ありがとうございます。確認します」

完全に“仕事モード”の彼女が戻っていた。

でも、さっきまで子どもを抱いていたせいか、まだ頬がほんのり赤かった。

(寝顔、可愛かった……って何考えてんだ俺)

子どもは俺に気づいて、満面の笑みを向けてくる。

「おじちゃ〜ん!」

「うわ、元気だね……(慣れって怖いな)」

彼女は子どもを膝から下ろしながら、チラッとこちらを見た。

「……迷惑、かけてませんか?」

(え、そんなこと気にするタイプだったんだ……)

「いえ、全然。あの……癒されてます、むしろ」

その言葉が、俺の口から自然に出たのが、自分でも驚きだった。


少しだけ、空気が変わった

彼女は何も言わなかったが、そのあと一瞬だけ、微笑んだように見えた。

目の錯覚だったのかもしれない。

でも、確かにその瞬間だけ、あの無表情な彼女が、
“誰かのお母さん”として微笑んだ気がした。

会議室を出て、自分の席に戻ると、妙に頭が熱くなっていた。

(なんだこれ……これが、惚れるってやつなのか?)

まだ自分でも整理がつかなかった。

けれど、少なくとも俺の心の中で、何かが大きく変わっていたのは間違いなかった。


俺に向けた、最初の笑い

午後の静かな社内で

休日の午後、フロアはますます静かだった。

電話も鳴らない。コピー機の音もない。
パソコンのキーを叩く音だけが、遠慮がちに響いている。

俺は、昼休憩から戻ったばかりだった。

(今日は……なんか、変な日だな)

心が落ち着かない。

自分の中で、彼女――嫁子の印象がガラリと変わってしまったことに、まだ戸惑っていた。

(あんな顔、見てしまったから)

そしてまた、足音が近づいてきた。


小さな足音が、俺の席に来た

「おじちゃーん」

あの男の子だった。

満面の笑みで、俺の席の横にぺたんと座り込む。

「え、ど、どうしたの?」

「ママが、ちょっとだけって」

(……え、また来たの!?)

遠くから、嫁子がこっちを見ていた。

書類を片手に、相変わらずの無表情。

けど、何も言わずに、軽く会釈をしてきた。

(……あれ? 今、会釈した?)

驚いて、俺も反射的に頭を下げた。


子どもとの会話って、むずかしい

「ねーねー、おじちゃん、なにしてるの?」

「おじちゃんはね……このグラフ作ってるんだよ」

「グラフってなに?」

「えーと、さっきママに聞いてたやつだよ。数字を絵にして、みんなに見せるやつ」

「ふーん。なんで絵にするの?」

「……見やすいから……かな?」

「見やすいってなに?」

「……えーと……(無限に続くぞこれ……)」

隣に座るちっちゃい来訪者は、まるで小さな探偵のようだった。

質問が止まらない。でも、なんか楽しかった。

彼の声には毒がなくて、まっすぐで、柔らかい。

(こんな感じで毎日話してるのか……嫁子さん、すごいな)


突然の発言と、その影響

子どもが、ふいに立ち上がった。

「ママ〜、この人、おじちゃん、たのしいー!」

突然の大声に、彼女がこちらを向いた。

その瞬間だった。

「あ、ママ、笑ってる!」

俺が見ても――たしかに、彼女の頬が少し緩んでいた。

ほんの一瞬だけど、間違いなく“笑った”のだ。

今まで見たことのない、やわらかな笑顔。

(あ……この人、笑うんだ)

心臓がドクン、と大きな音を立てた気がした。


「……うるさい」が、うれしかった

彼女は、すぐに表情を戻して、子どもに言った。

「……うるさい」

でも、それは怒ってる言い方じゃなかった。

声に棘がなくて、どこか照れてるようにも聞こえた。

(ああ……この人、ちょっと恥ずかしいんだ)

それが、なぜかたまらなく嬉しかった。

今まで冷たくされてばかりだったからこそ、
そんな“普通の反応”が、俺には宝物みたいに思えた。


俺の中で、何かが変わりはじめた

あの「うるさい」が、ずっと頭から離れなかった。

言葉自体は、冷たい。けど、心の中ではずっとリフレインしてた。

(俺、たぶん……気になってるんだ、この人のこと)

そう気づいた瞬間、画面の中の資料がまったく頭に入ってこなくなった。

彼女の笑顔。
子どもを抱いていたあの表情。
「……うるさい」と呟いたあのトーン。

全部が、何度も脳内で再生されていた。


子どもから学ぶ距離の詰め方

「ねーねー、おじちゃん、あしたもあそべるー?」

「え、あしたは日曜日だよ。会社ないよ」

「じゃあ、またこんどー?」

「……そうだね。また今度」

「やったー!」

子どもは無邪気に笑って、会議室へ戻っていった。

俺は、しばらく動けなかった。

こんなに簡単に距離を詰めて、心の中に入ってくる存在があるなんて、思ってもみなかった。

彼女じゃなければ、俺はこの子とも関わってなかった。

(そう考えると……出会えてよかったのかもしれないな)

そう思った。


その日、俺の歩き方が変わった

定時前。

嫁子が子どもを連れて、早めに帰っていった。

俺はその背中を、無意識に目で追っていた。

(子どもの靴、白くて汚れてたな)

(髪の毛が寝癖で立ってたな)

(あの人、朝からすごく忙しかったんだろうな……)

そんなことを考えてる自分が、不思議だった。

エレベーターが閉まる寸前、彼女がこちらをチラッと見て、小さく会釈をした。

それだけで、心臓が跳ねた。

(……ああ、俺、完全に落ちてるな)

その日の帰り道。

俺は、いつもより姿勢がまっすぐだった。背筋が伸びて、足取りが少しだけ軽かった。


なぜか、それが嬉しかった

週明け、いつもの職場に戻ったはずなのに

月曜日。
会社のフロアは、いつもの雑音で満ちていた。

コピー機のガチャガチャいう音。電話のベル。誰かの打鍵音。
いつもと同じ風景。いつもと同じ空気。

……のはずだったのに。

(なんか、違う)

俺の中で、確実に何かが変わっていた。

椅子に座っても、資料を見ても、彼女の顔がちらつく。

──あの、少しだけ笑った表情。

──子どもを抱いたままウトウトしていた姿。

──「……うるさい」と照れたように目をそらしたあの声。

(あれが嬉しかったのか……俺)

ようやく、はっきり言葉にできた。

俺は、あの「うるさい」が、嬉しかったんだ。


苦手だったはずの彼女に、心が動いてる

嫁子のことが、苦手だったのは事実だ。
正直に言うと、避けていた。話しかけられたくなかった。

でも、今は――声を聞きたいと思っている。

(なんでだよ……)

俺は頭を抱えた。

会議中、隣に座った彼女の横顔が気になって仕方なかった。

前はその無表情が怖かったのに、今は違う。
何を考えてるのか、知りたくてたまらない。

資料に赤を入れるペン先。
眉間に少しだけ寄るしわ。
下を向いているときの、控えめなまつげ。

全部、気になる。

どうしちまったんだ俺。


子どもの笑い声が頭に残ってる

不思議なことに、彼女よりも、最初に思い出すのは子どもの声だった。

「ママー! このひと、たのしー!」

「おじちゃーん、またあそぼー!」

その声が、耳にこびりついて離れない。

純粋で、まっすぐで、嬉しそうで――

(あいつ、すごいな……あっという間に距離詰めてくる)

俺は、人との距離を詰めるのが苦手だ。

でも、子どもってすごい。
ただ隣に座って、会話して、笑っただけで、もう“友達”扱いだ。

(……あんなふうに、俺もなれたらな)

それは、心の底から出た本音だった。


ひとつの「ありがとう」で、また動いた心

昼休み、偶然、給湯室で嫁子と出くわした。

「……あ」

「……どうも」

微妙な空気が流れる。

(何か、話さなきゃ。でも、何を?)

「あの、先週……」

「……はい?」

「お子さん……元気そうで、よかったです」

(何言ってんだ俺!?)

彼女は一瞬だけポカンとした顔になったあと、小さく笑った。

「……ご迷惑をおかけしました」

「いえ、むしろ……癒されました」

言ってから、またやってしまったと思ったけど――

「そう言ってもらえると、助かります」

彼女の声が、いつもよりほんの少しだけ柔らかかった。

心臓がまた、妙な音を立てた。


ひとりの女性として、見ている自分に気づく

(この人、母親なんだよな)

そればかりが頭の中を巡る。

誰よりも冷静で、怖いと思っていた存在が、
ひとりの子どもを抱えて、休日出勤していた。

生活感があるとか、そういうレベルじゃなかった。

仕事中も子どものことを考えてるんだろうか。
保育園のお迎えとか、家での宿題とか、晩ごはんのこととか。

そういう日常の中で、彼女は“上司”をやってるんだ。

……それが、すごくかっこよく思えた。

(俺、今までこの人のこと、全然見てなかったな)

彼女の大変さを、ほんの少しだけ、想像できるようになった気がした。

そして――それが、嬉しかった。


ほんの小さな変化だけど

その日の夕方、退勤前の会議で彼女と話すタイミングがあった。

いつもなら、必要最低限のやり取りで終わっていたところだったけれど、
彼女の方から、ぽつりと呟いた。

「……今日は、預けられたので、普通に仕事ができました」

(……ああ、そういうことを言う人なんだ)

「お子さん、元気でした?」

「……朝から、トミカで壁を壊してました」

「……ははっ、それは大変だ……(けっこうやんちゃなんだな)」

「……はい。でも、元気でいてくれるだけで」

最後の言葉は、小さすぎて、聞き取れなかった。

でも――その言い方が、優しかった。

そのやり取りだけで、俺はその日一日、ずっと機嫌が良かった。


気づいたら、目で追っていた

彼女の存在が、気になるようになっていた。

打ち合わせに向かう後ろ姿。資料を読むときの指の動き。
ふとしたときの、まばたきの間。

全部、目で追ってしまう。

(……もう、完全に気になってるんだな)

それを認めた瞬間、少しだけ楽になった気がした。

そして同時に、不安も生まれた。

(俺なんかが、この人に近づいてもいいのか……)

でも――あの「うるさい」と笑った顔が、頭の中で、また浮かんだ。

“あれ”があるなら、きっとまだ、間に合うかもしれない。


子供と俺、なぜか相性がいい

また土曜日に、彼女が現れた

「……また、来てる」

午前10時。
俺は自分の席でコーヒーを啜りながら、静かに呟いた。

隣の会議室のドアが、今日も少し開いている。

その中から、聞こえてくるのは、あの小さな笑い声。

「ママ、ペンかして〜」
「それ油性。使っちゃだめ」
「ゆせいって、なにー?」
「落ちないやつ」

変わらず淡々と答える彼女と、遠慮なく絡む子どもの声。

そして、会議室の外に、ぽてぽてと小さな足音が近づいてきた。

「あっ、おじちゃーん!」

(やっぱり来たか……)


さっそく席に、ちょこん

子どもは、当たり前のように俺の横の椅子に座った。

しかも、前よりも堂々と。

「ねーねー、今日なにしてるの?」

「えーっとね、今は……数字をまとめてるんだよ」

「また数字? このまえもだったじゃん」

「そうなんだけど、今度は違う数字なの」

「なんでー?」

「なんで……って言われても……(無限ループ入った)」

でも、不思議と嫌じゃなかった。

俺は、子どもの隣に座っている自分を、自然に受け入れていた。


ホチキスとおえかきと

「これなに? つよそう!」

「あ、それホチキスね」

「ほちきすー? やってみたい!」

「ああ、でも指挟まないようにね。ここ持って、こうやって──バチンって」

「おおおーーー!! たのしー!」

その瞬間の笑顔が、まぶしいくらいだった。

次に出てきたのは、付箋とボールペン。

「おえかきするー!」

「じゃあ、この青いのあげる」

「かお、かいてー」

「顔? こんな感じかな……」

ニコニコ顔の似顔絵を描くと、子どもはそれを持って立ち上がった。

「ママにみせるー!」

そしてまた、ぽてぽてと走っていった。

(ああ……なごむ)

なんだろう、俺って……意外と子どもと相性、いいのか?


嫁子が言った、一言が

昼前、彼女が子どもを迎えに来た。

「あの……すみません、また……」

「全然、大丈夫です。むしろ助かってます」

俺がそう言うと、彼女は一瞬きょとんとした。

それから、少しだけ目を伏せて、ぽつりと。

「……あなたのところ、気に入ってるみたいです。あの子」

「え……そうなんですか?」

「はい。家でも“おじちゃんにホチキス教えてもらった”って」

(あれ……? ちょっと、嬉しいかも)

「たぶん、なついてます」

「……そう、ですか(なんでか分かんないけど、嬉しいな)」

「……お騒がせしました」

彼女は、ほんの少しだけ口角を上げた。
まるで、俺の胸の奥をトンと叩いてくるような、やさしい仕草だった。


その日から、少しずつ変わった

子どもが俺の席に来るのが当たり前になった。

ホチキス、紙飛行機、簡単なお絵描き。

「今日もいるー?」と、朝から聞かれるようになって。

俺がトイレに行って帰ってくると、もう椅子に座って待ってる。

「あ、きたきた〜。おそーい」

「……いや、トイレだよ」

「ずっとまってたよ?」

「ほんの3分くらいだと思うけど……(なにこの距離感)」

俺は、完全に“おじちゃんポジション”として定着していた。


社内で噂になったりして

「なあ、あの子、○○さんの子どもだろ? お前、よく面倒見てるな」

「え、いや……たまたまですよ」

「たまたまってレベルじゃないだろ。なんか……仲良さそうだし」

「え、そう見えます?」

「見える見える。“子どもに好かれる系男子”って感じ」

(なにその分類……)

でも――そうやって周囲から見られることが、なぜか嫌じゃなかった。

むしろ、ちょっと誇らしかった。

彼女の子どもに、俺はちゃんと“認められてる”。

それが、自信につながっていた。


そしてある日、彼女がぽつりと

「……すみません、また任せっきりで」

「いえ、俺も楽しいんで」

彼女は、少しだけ黙って、窓の外を見た。

それから、小さな声で、呟くように。

「……あの子、父親いないんです」

「……」

「だから、誰かに甘えると、止まらなくなる」

「……そう、だったんですね」

彼女の横顔は、いつものように静かだった。

でもその言葉の奥には、たくさんの思いが詰まっていた。

俺は、なんて答えればいいかわからなかったけど――

「……じゃあ、俺、ちょっと甘えられる係ってことで」

そう言ったら、彼女はふっと笑った。

「……お願いします」


二人で笑う、そんな時間

その日も、彼は隣にいた

「おじちゃーん、これ、みてー!」

俺の机の上に置かれたのは、付箋でつくった“ぺらぺらのロボット”。

「すごいなー、これ自分で作ったの?」

「うん! おじちゃんとまえやったやつ、覚えてた!」

「そうか、それはすごいな(意外と覚えてるもんなんだな……)」

もう、子どもが俺のところに来るのは当たり前になっていた。

嫁子も、特に何も言わなくなった。

「遊ばせてて、すみません」

「いえ、俺も気が紛れて助かってます」

そんなやり取りも、今ではすっかり日常の一部だった。


子どもと“ふざけた時間”

その日、彼はなぜかテンションが高かった。

「うおー! ロボットがレーザーでやっつけるぞー!」

「おじちゃんがロボットね!」

「えっ、俺が!?」

「『がおー!』って言って!」

「がおー!」

「『うわー、やられたー!』も!」

「うわー、やられたー!」

(なにやってんだ俺……)

まわりに誰もいないのをいいことに、子どものペースに引きずり込まれていた。

資料作成? グラフ分析?
そんなものは、今この瞬間、完全に忘却の彼方だった。


振り返ると、彼女が見ていた

「……あ」

声が出た。

ふと目をやると、嫁子がドアの前に立っていた。

コーヒーカップを手にしたまま、じっとこちらを見ている。

完全に見られていた。ロボットごっこの全部を。

(うわ……やっちまった……)

顔から火が出そうだった。

子どもと全力でふざける30代男性、堂々と目撃される。

彼女は無表情のまま、ゆっくり近づいてきた。

(うわあああ……なんか言われる……)

でも――予想は裏切られた。


目尻が、ふっとゆるんだ

「……意外と、世話焼きなんですね」

(……え?)

「ちょっと、驚きました」

「い、いや……あの、その……暇だったんで……」

「ふふっ」

彼女が、笑った。

はっきりと。

口角が、確かに上がっていた。

いつもと違う表情だった。

柔らかくて、あたたかくて、優しい。

(……あれ? 俺、今、息止まってた?)

なんてことない一言と、その笑顔で、俺の胸はバクバクだった。


俺から話しかけた、はじめて

「……あの」

「はい?」

「その、普段は……あまり、笑わないですよね?」

「そうですね。あまり」

「……今日の、笑った顔。すごく……いいと思います(言っちゃった……!)」

彼女は目を見開いて――それから視線を逸らした。

「……ありがとうございます。そんな風に言われたの、久しぶりです」

その言い方が、どこか遠くを見てるようで、少しだけ寂しそうだった。

(誰も、言ってなかったのか……この人に)

きっと彼女は、“そういうの”を受け取ることに慣れていないんだろう。

褒められたり、甘えられたり。

俺は、自然に口を開いていた。

「また、笑ってくださいね。……できれば、俺の前でも」

彼女は、目を細めて、小さく頷いた。


子どもが言った、なんでもないけど大事なこと

「ママ〜、おじちゃん、やさしいよねー」

「そう?」

「うん。おうちにいたら、たのしいのにねー」

「……」

「ねー、ママー」

そのとき、彼女がほんのわずかに目を伏せた。

すぐに表情は戻ったけど、確かに何か、胸の奥が揺れたようだった。

「そんなこと言ったら、迷惑よ」

「えー? なんでー?」

「おじちゃんにも、生活があるの」

「せいかつってなにー?」

「……むずかしい言葉だったね」

子どもと母親の、そのなんでもないやり取りに、俺はどうしようもなく惹かれていた。

“家族”って、こういうものなのかもしれないって、思った。


ふたりで、笑った時間

その日、嫁子は午後の時間を俺のデスクの横で過ごした。

「このグラフ、面白い傾向ですね」

「え? あ、そうですか?(分析は得意なんだな)」

「もう少し縦軸いじってみても良さそうです」

「なるほど……(仕事の話だけど、距離近いな……)」

隣にいるだけで、心が落ち着いた。

そして子どもが椅子に座って、足をぶらぶらさせながら歌を口ずさむ。

「パパパパ〜、パパになって〜」

「え?」

「それ、どこで覚えたの?」

「テレビ!」

子どもはケラケラと笑っていた。

俺と嫁子は、顔を見合わせて――

思わず、同時に、笑った。

その時間が、たまらなく心地よかった。


残業のあとに三人で食べた夜

誰もいないオフィスに残された三人

その日も、俺たちは残っていた。

夜のオフィスは、昼間とはまったく別の顔を見せる。

照明は半分落とされて、空調の音だけが響いている。

「……終わらないですね、この見積り」

「ですね……すみません、時間かかって」

「いえ、こちらこそ。私が連れてきた資料のせいで遅くなってますから」

隣の会議室には、例の子どもがうとうとしていた。

時計の針は、もうすぐ21時になろうとしている。

(子どもに、こんな時間まで……)

気になって、ふと嫁子に聞いてしまった。

「……夕飯、まだですよね?」

「はい。帰ったら何か、と思ってましたが……たぶん寝てしまうと思います」

「……」

「いつもこうなんです。すみません、ぐずってご迷惑を──」

「……よかったら、寄ってきません?」

彼女が言いかけた言葉を、俺が遮った。

「ファミレス。近くの。……まだ、やってると思うので」

彼女は、一瞬驚いた顔をしてから、小さく頷いた。


ファミレスの、ちいさなテーブル

ファミレスの店内は空いていて、窓際の席に通された。

「わーい! ごはん〜!」

子どもはすっかり目が覚めて、メニューに顔を埋めていた。

「ハンバーグ! ポテト! ジュース! あとー……」

「全部は無理よ」

「えー! おじちゃんがいいっていったら?」

「……どうしようかなぁ……(笑)」

俺のそんな返しに、嫁子がくすっと笑う。

(また、笑ってくれた)

それが、自然で、すごく嬉しかった。

注文を終えて、飲み物を取りに行く途中、嫁子が小さな声で言った。

「……ありがとうございます」

「いえ、俺が言い出したことですし」

「でも……嬉しかったです。なんというか、普通の感じが」

「普通、ですか?」

「はい……“ただの夜ごはん”って、こういう感じだったなって。忘れてたけど」

それが、胸にじんと響いた。


カレーとポテトと、くだらない話

子どもがはしゃぎながらポテトを食べている。

俺はチーズカレー、嫁子は和風ハンバーグ。

「……俺、子どもとこうやって外食するの、はじめてかもしれません」

「そうなんですか?」

「友達の子とかとも、あんまり縁がなくて」

「ふふ、初体験ですね」

「ええ、でも……悪くないです。むしろ、楽しいです」

「……それは、うちの子が話し好きだからかも」

「たしかに(笑) ずっと喋ってますよね」

「ねー! おじちゃん、カレーくさい!」

「うわ、急に失礼な!?」

「くさくておいしそうって意味〜!」

俺と嫁子は、思わず笑ってしまった。

くだらない、でも愛しい時間だった。


子どもが寝たあと、残ったふたり

食後、子どもはソファ席に体を預けて、すぐに寝てしまった。

「……よく寝ますね」

「いっぱいしゃべったので」

「おかげで、僕もだいぶ笑いました」

「……」

「……ほんと、よく頑張ってるんですね。ひとりで」

彼女はその言葉に、ゆっくりと視線を落とした。

「頑張らないと、止まっちゃいそうで」

「止まったら……どうなります?」

「……わかりません。たぶん、泣くと思います」

「泣いたら、俺が拭きます」

思わず、そう言っていた。

彼女は驚いたように俺を見た。

「……今、さらっと言いましたね」

「はい、さらっと。……じゃないと、言えなかったです」

「……ずるいです」

そう言って、彼女は――微笑んだ。

それは、これまでで一番、自然な笑顔だった。


夜道を、三人で歩く

ファミレスを出た帰り道。

子どもを抱っこしながら、彼女は少しだけ言葉少なだった。

「重たくなりましたね、だいぶ」

「もうすぐ四歳ですか?」

「はい。早いものです」

「……なんか、今日、楽しかったです」

「私もです。ほんとに、久しぶりでした」

「こんなふうに、三人でごはん行ったり、笑ったり……またできたらいいなって、思ってます」

彼女は、一歩立ち止まって、こちらを見た。

「……ほんとに、いいんですか?」

「はい。俺でよければ、いくらでも」

彼女は、うつむいて――

「じゃあ、また今度」

小さな声でそう言って、歩き出した。

俺は、その背中を追いながら、胸の中にほんのり火が灯った気がした。


春、やさしい風の日

春の風が、街をそっと撫でていた。

朝の空気は少しだけひんやりしていて、それでもどこかやわらかく、鼻先にほんのり花の匂いを感じる。

その日、俺はスーツを着ていた。
スーツといっても、式典用のようなちょっときれいなやつ。

鏡の前でネクタイを締め直して、ふっと息を吐く。

(……緊張するな)

向かう先は、保育園の入園式。
あの子の、新しい始まりの日だった。

そして、俺は――彼女から「一緒に来てほしい」と言われていた。


保育園の門の前で

時間より少し早く着いた門の前で、俺は彼女と子どもを待っていた。

背筋を伸ばして、どこか落ち着かないまま、スーツの袖を何度も引き直す。

「……おまたせしました」

振り返ると、彼女がそこにいた。
明るいベージュのコートに、控えめなピンクのスカート。
そして隣には、ちょっと照れくさそうな顔をした子ども。

「おじちゃーん、みてー! くつピカピカ!」

「おお、ほんとだ。ピッカピカだな。かっこいいぞ」

「えへへ〜! きょうからぼく、ようちえんせい!」

「おう、頼もしいな。がんばれよ」

その言葉に、彼は胸を張った。

そしてその横で、彼女がそっと言った。

「……ありがとうございます。本当に、今日来てくれて」

「当然です。誘ってもらえて、光栄です」

「……こういう日に、一緒に並んでくれる人がいるって……幸せなんですね」

その言葉の重さに、思わず胸が詰まった。


式が始まり、子どもが名前を呼ばれる

小さな椅子、小さな声、小さな手の拍手。

「○○くん、おめでとうございます」

「はーい!」

彼は元気よく返事して立ち上がった。

その姿に、俺と彼女は顔を見合わせ、自然に笑った。

入園式って、こんなにじんわり心にくるものなんだなと、実感する。

大きなイベントじゃない。

けど、この小さな積み重ねが、人生にとっては大きな一歩なんだって、そんな気がした。

式のあいだ中、俺の手の中で、彼女の指先がふるふると震えていた。

何も言わなかったけど、その手を、そっと包んで握った。

彼女は一瞬だけ驚いて――けれどすぐ、握り返してくれた。


終わったあと、桜の木の下で

式が終わり、園庭の桜の木の下で、三人で写真を撮った。

「もっとこっち〜、おじちゃんうつってない〜」

「わかったわかった、ほら、真ん中来い」

「まんなか〜!」

彼を真ん中にして、三人並んでシャッターを切る。

カシャ、という音と同時に、俺の心にも一枚、何かが焼き付いた気がした。

(これが、家族ってやつなのかもしれない)

そう、自然に思えた。

そして彼女が、ふと子どもの頭を撫でながら言った。

「ここまで……よく一人で頑張ったね」

その言葉は、子どもに向けたものだったけど、たぶん自分にも言っていた。

俺は、もう黙っていられなかった。


小さな手を前にして

「……ごめんなさい。突然かもしれないですけど」

彼女が驚いてこちらを見る。

子どもは、しゃがんで砂をいじっていた。

俺は、その横に膝をついて、ふたりを見上げた。

「俺……あなたのそばにいたいです」

「……」

「これからも、一緒に笑って、ごはん食べて、朝を迎えて。そんな日々を……三人で、作っていきたい」

「……そんな、急に……」

「わかってます。迷惑かもしれない。でも、あの子が、俺に“またあそぼう”って言ってくれた日から、ずっと思ってたんです」

「……」

「あなたが母親として、ひとりで頑張ってる姿を見て、俺も力になりたいって。……思ったんです」

手を伸ばす。

彼女は、驚きながらも――その手を、しっかりと握り返した。

そして、口元をゆるめて、ぽつりと。

「……じゃあ、一緒に、がんばってください」

その言葉に、俺の胸の奥が、熱くなった。


手のひらのあたたかさ

ふと、もう片方の手に、小さな手が重なった。

子どもが、俺と彼女の手の上に、そっと自分の手を置いたのだ。

「おじちゃんも、ママと、ぼくと、いっしょ?」

「ああ、そうだ。三人で、一緒に行こう」

「やったー!」

彼は両手を広げて笑った。

それを見て、彼女も、俺も、自然と笑った。

その笑顔のまま、三人で手をつないで、保育園をあとにした。

桜の花びらが、三人の頭上に、ふわふわと舞っていた。