自己肯定感が低い私が、雨の日に偶然出会った彼と【結婚したい・婚活・出会い馴れ初めエピソード】

自己肯定感が低い私が、雨の日に偶然出会った彼と

この馴れ初め話は著作権フリーで改変も自由・YouTubeの素材やSNSでご使用いただいても問題はありません。ただ以下のリンクを張っていただけたら幸いです。
はっくなび

濡れた髪と、優しい声

だれにも期待されていないと思っていた

(私、38歳。契約社員。なんの取り柄もないまま、もうすぐ40歳になる)

そんなことを考えていた。いつもよりちょっと強い雨が降っていた、平日の夕方。
その日、私はスーパーの袋を持って、傘もささず、ただとぼとぼと歩いていた。駅から自宅までの道、たかが10分ちょっとなのに、急にざーっと降り出した雨で、もうびしょびしょだった。

「ついてないなあ」
そんな独り言も、誰にも聞かれないと思ってた。

髪の先からしずくが落ちて、首元がじんわり冷たくなる。
重たくなった紙袋の取っ手が、指に食い込んで痛い。でも、それを言う相手も、気にかけてくれる人も、いない。

私は、そういう人生を選んできたつもりだった。――いや、選ばされたんだと思っていた。
あの日あの教室で、笑ったクラスメイトの顔が、今でもふいに浮かんでくる。
人に興味を持たれたくない。見られたくない。覚えられたくない。
ただ、目立たずに静かに、今日を終えたいだけ。

(……それでも、誰かに傘を差し出されるなんて、思ってなかった)

「もしよかったら、使ってください。濡れすぎてますよ」

声をかけられたのは、角の古書店の前だった。
見上げると、傘が差し出されていて、向こうに男の人がいた。優しい声、低くて穏やかな話し方。

「……え、あの、大丈夫です」
(反射的に断ってしまった。だって、そういうの、慣れてない)

「それ、本当に大丈夫ですか? お荷物、重そうですし……」
「……」

私は黙った。言い返せなかった。彼の目が、どこか知ってるようなまなざしをしていた。
強く押してくるわけでもなく、ただ、本当に私のことを気遣ってくれているように思えた。

(あれ……どうしよう。なんで、こんな親切にされてるんだろう)

「僕、店、すぐそこなので。戻るだけなんです。この傘、よかったら使ってください」
そう言って、傘を半ば無理やり私の手に持たせると、彼はにこっと笑った。

「じゃ、気をつけて帰ってくださいね」
そう言い残して、彼はお店の中に戻っていった。私は、何も言えないまま、その傘を持って立ち尽くしていた。


傘の中に残ってたのは、匂いとあたたかさ

家に着いたのは、それから数分後だった。
その傘には、かすかに本のような匂いが残っていて、それがなんだか懐かしかった。

(本の匂い……)

私は読書が好きだ。でも、人前ではあまりそういうことを言わない。
本を読んでると変わった目で見られることもあるし、「何読んでるの?」って聞かれて、タイトルを言ってもピンとこない顔をされるのが、怖かった。

でも、その匂いがあっただけで、少し心が落ち着いた。

(優しい人だったな……)

私は、そういうのに慣れていない。
優しくされた記憶は、小さい頃にしかない。
あとは、ずっと、どこかで避けられてきた気がする。
職場も、同じ。誰かと親しくなることも、求められてない気がしていた。

私は契約社員で、事務の仕事をしている。淡々と、言われたことをこなすだけ。休憩時間は一人で過ごす。声をかけてくれる同僚もいない。必要最低限のことしか話さない。
でも、それでいいと思ってた。いや、それで「やっと傷つかずに済む」と思ってた。

(……なのに、今日の人は)

知らない人だった。名前も、なにも知らない。
でも、傘を差し出されたときのあのまなざしだけは、忘れられなかった。


翌日、返しに行くと決めた

その夜、私は寝る前に傘を何度も見た。
黒くて、細身で、どこか古風なデザインだった。骨組みが少しだけ歪んでいて、持ち手に擦れたあとがあった。

「返さなきゃ……」
(そうだよね、返さなきゃ。借りっぱなしは失礼だし)

でも、ただ返すだけじゃなくて、もう一度、あの人の顔を見たい。
――そう思った。

こんな気持ちは、久しぶりだった。
中学生の頃、図書室で見かけた男の子のことを、ふと思い出す。
その人と話したことはないけれど、同じ本を読んでいたときに、少しだけ心が震えた。
(あのときと、ちょっと似てる)


登場人物紹介

私(38歳・契約社員)

地元の中小企業で、事務の契約社員として働いている。
人と関わるのが苦手で、昼休みはいつも屋上の片隅でお弁当を食べている。
服装は地味で、目立たない色ばかり選んでしまう。
趣味は100円ショップで材料を買って小物を作ること。
あとは、雨の音を録音して、自分だけの「静かな音楽」を作るのが密かな癒し。

過去にいじめられた経験から、人と心の距離を縮めることに強い恐れがある。
一度も人を信じきれたことがなく、誰かの言葉を素直に受け取ることが難しい。
恋愛経験もほとんどなく、自分に誰かが好意を持ってくれるなどとは思っていない。
それでも、どこかで誰かに「優しくされたい」と思う気持ちを、心の奥にずっと抱えている。

旦那くん(40歳・古書店の店主)

名前もまだ知らない。
家の近所にある、小さな古本屋の店主。
いつも穏やかで、ゆったりとした口調。年下にも敬語を使う丁寧な人。

初めて会ったのは、雨の日の夕方。
私が濡れて歩いていたとき、黙って傘を差し出してくれた。
「大丈夫ですか」と、静かに、でも確かに気にかけてくれた人。

見た目は少し古風で、いつもシャツにカーディガン。
本の世界に生きているような、物静かな雰囲気。
でも、その目の奥には、どこか強い光があるように見えた。
――まるで、私のことを見つけてくれたような目だった。


初めて踏み入れた古書店の匂い

朝からそわそわしてた

「傘、返さなきゃな」

そう思いながら、職場でもずっと心ここにあらずだった。
いつもは時間ぴったりに席を立つけど、その日は15分も早く着替えて、定時ちょうどに出た。職場の誰にも挨拶せず、小走りで駅へ向かう自分がいた。

(こんなこと、久しぶりすぎる……)

少しだけ髪型も整えた。コンビニで見かけたリップクリームを買って、ほんのすこしだけ唇に塗ってみた。
こんな自分、誰にも見られたくないようで、誰かに見てほしいような。
そんな曖昧な気持ちを持ったまま、昨日と同じ道を歩いた。

雨は降っていなかったけど、地面はまだしっとり濡れていた。空気に、昨日と同じ匂いが残っていた。

(このへんだったよね)

と、見覚えのある小さな軒先が目に入った。
あった。古書店。

木の扉に、手書きの看板。「雨読堂(うどくどう)」と書いてある。丸みのある文字で、どこか親しみやすい。
扉の隣には、少し色褪せた本が並べられていて、雨に濡れないようにビニールがかけられていた。

(入って、いいのかな……)

躊躇した。なんでもない古書店。でも、私には異世界みたいだった。
このドアの向こうに、あの人がいると思うと、胸がきゅうっとする。
だけど、逃げたくない気持ちが勝った。昨日の傘のあたたかさを思い出したから。

私は、そっと、扉を押した。


本の匂いと、静かな空気

「……いらっしゃいませ」

鈴の音がチリンと鳴って、奥から彼の声がした。
一歩入っただけで、空気が違った。
本の匂い。古紙の甘くて、少しだけ埃の混じった、懐かしいような匂い。
図書室を思い出す。静かで、少し薄暗くて、でも安心できるあの空間。

「昨日……傘、ありがとうございました」

私の声は、緊張でかすれていた。
彼は、奥の机から顔を出して、すぐに目を細めて笑った。

「いえいえ、大丈夫でしたか? 昨日、あれだけ濡れてらしたから、ちょっと気になってました」

(……ほんとうに、気にしてくれてたんだ)

私は、両手で傘を差し出した。

「これ……お返しします。ありがとうございました。あのとき、すごく……助かりました」
「よかった。無事で。傘、ありがとうございます。あ、でもこれ、骨が少し曲がってますよ? 途中で風、強かったですか?」

そう言って、傘の骨組みを軽く指でなぞった彼の仕草が、やさしかった。
叱るでもなく、気にするでもなく、「大丈夫ですよ」と言いたげな表情。
私は思わず口をつぐんで、うつむいた。

「……もしかして、濡れたまま……家まで?」
「はい、あの、すみません、私、使い慣れてなくて……」

(あ、また変なこと言った。私、何言ってるんだろう)

「そうでしたか。でも、それならまた今度、新しい傘を貸しますよ」
「えっ」
「……このお店、雨の日ってお客さん少ないんです。でも、傘を返しに来てくれる人って、珍しいですから」

彼の目が、まっすぐこちらを見ていた。
私は、たぶん、顔が真っ赤だった。


「もし、よかったら」

「ちょっとお茶でもどうですか? 雨の日にお茶を飲むの、けっこういいんですよ」

「……えっ?」

(え、ここで?)

驚いてきょろきょろすると、確かにカウンターの奥に小さなポットとカップが並んでいた。
本棚の隙間に、小さな丸テーブルがあって、そこに湯気が立っているのが見えた。

「もちろん、無理にとは言いませんけど。よかったら、少し、あたたまっていってください」
「……じゃ、じゃあ、少しだけ……」

私の声は小さかったけど、彼は大きくうなずいた。


小さなテーブル、ふたりだけの空間

彼は紅茶を淹れてくれた。ミルクを入れてくれたティーカップが、手に持つととても温かかった。

「すみません……あの、私、人と話すの、ちょっと苦手で……」
(ごまかしてるみたいだけど、本当のこと。でも、こんなこと言うの、勇気がいった)

「大丈夫ですよ。僕、しゃべりすぎるのも苦手ですから」
彼はそう言って、笑った。

(この人……ほんとうに、変わってる)

だって、普通は、そういう私みたいな人に、興味持ったりしないのに。
黙ってる私に、無理に話題をふることもなく、静かな時間が流れた。
ティーカップを口に運ぶたび、心の中の硬くなったものが、すこしずつ解けていく気がした。


「このお店……ずっとやってるんですか?」

勇気を出して、ひとつ質問してみた。
彼は、うんと頷いて、

「祖父の代からです。僕はまだ10年目ですけど」
「すごいですね……」
「いえ、たいしたことないです。儲けもないし、地味なお店ですよ」
「でも……落ち着きます」
「ほんとうですか?」

彼がそう言って、ふと見せた横顔が、少し嬉しそうだった。
私は、うなずいた。(うん、ほんとうに、そう思った)


名前も、まだ知らない

そのまま数十分、ふたりで静かに紅茶を飲んだ。
彼は本の話を少しだけしてくれた。
好きな作家の話、昔読んだ本の思い出。
私はただ「うん」「へぇ」と相槌を打つだけだったけど、彼はそれで十分だと言ってくれた。

「……なんか、ほっとしますね。あなたと話してると」
「え……」
「強がらなくていいというか。静かな時間、ちゃんと楽しんでくれる人、久しぶりで」
「…………」
(私も……同じ気持ちです)

けれど、その言葉を飲み込んだ。
まだ言うには早すぎると思ってしまった。

「じゃ、また……傘、ありがとうございました」
「いえ、こちらこそ。あの、またいつでも、来てください」

(その言葉に、うれしさが込み上げた)

名前も知らない。でも、また会える気がした。


「お好きな作家、ありますか?」

翌週の雨、私はまた扉を開けた

それは、思っていたよりずっと早く降ってきた。
一週間も経っていなかった。けれど、私はもう、あの匂いが恋しくなっていた。

(……雨だ。行ってもいいのかな)

迷って、立ち止まって、傘の先で水たまりをつついた。
胸の奥が、そわそわして落ち着かない。
だけど気がつくと、足はもう駅のほうではなく、あの古書店のある道を選んでいた。

「雨読堂」

扉の横に、またビニールに包まれた文庫が並んでいた。
何気なく目に入ったタイトルに、なぜだか懐かしい気持ちになる。

私は、深呼吸をひとつして、また、あの鈴の音を鳴らした。

「いらっしゃいませ」
彼の声だった。少し、驚いたような顔。でもすぐに、微笑んでくれた。

「雨、強くなってきましたね」
「はい……。あの、来ても……よかったですか?」
(ほんとうは、すごく不安だった)

「もちろんです。よく来てくださいました」
そう言って、彼が手を止めて私を見てくれる。

胸の奥で、なにかがすっと溶ける感じがした。


本棚のあいだを歩く

この前は気づかなかったけれど、このお店、奥が深い。
背の低い木の本棚が迷路のように並んでいて、本の山に囲まれるような空間があった。

彼は私を案内しながら、一冊の本を手に取ってこう聞いてきた。

「お好きな作家、ありますか?」

その言葉に、一瞬、答えに詰まった。

(ある。でも、どう答えればいいんだろう)

「……あの、少しだけ、恥ずかしいです」
「どうしてですか?」
「知られてない作家さんが、好きで……あまり人に話したことないんです」
「それ、僕にとっては最高の話です」

彼の目がきらっと光った。冗談ではなく、心から楽しそうにそう言ってくれた。

「じゃあ……村瀬すずって、作家さん知ってますか?」

思いきって口に出した名前。誰に言っても「知らない」と返されるマイナーなエッセイ作家だった。

彼は一瞬考えて、こう言った。

「『灯りのない部屋でも読める話』の人、ですよね」

「……え、知ってるんですか?」

(まさか、知ってるとは思わなかった)

「ええ。短い章で、でも、言葉が胸にずっと残るんですよね。声に出して読んでみたくなるような」

「……すごい、嬉しいです……」
(うまく言えないけど、こんなふうにわかってもらえたの、初めて)

それだけで、心の中の石が、音を立てて崩れていく感じがした。


本を通じて、何かが通じた

「僕、こう見えて、本屋やってるけど、本読むの遅いんです」
「え?」
「一行一行が気になっちゃって。気づいたら戻って読んでたりして。だから、一冊読むのにすごく時間がかかる」

「……それ、わかります。私も、そうです」

「ほんとですか? じゃあ、いつか本を一緒に読んで感想を話したいですね」
「……そんなこと、できるんでしょうか」
(自分なんかが、そんな時間をもらえるのかな)

「できますよ。たとえば、ここで同じ本を読んで、1日1章ずつとか」

彼の声が、本気だった。冗談じゃなくて、本当に私との時間を想像してくれてる声だった。

「……そんな日が来たら、きっと、いいですね」

ようやくそう言えたのは、彼のまなざしが真っすぐで、怖くなかったからだった。


その日は、雨があがるまで

「雨、止みそうですね」

彼がカーテンの隙間から外を見た。
確かに、いつのまにか、屋根を叩く音が小さくなっていた。

「まだもう少し、大丈夫そうです」
「もうちょっと……いてもいいですか?」
「もちろんです」

そして私は、いつの間にかテーブルの本をめくっていた。
表紙を見ただけで胸が躍るような一冊だった。
彼はそれを見て、にこにこと言った。

「その本、僕も好きです」
「……よかった」
「なんでですか?」

「……一緒のものが好きって、うれしいんです。自分が選んだものを、誰かが好きだって言ってくれるのって……」

(それって、自分が認められたような気がして)

「わかります。僕も、そういうの、すごく大事にしてます」

彼の手が、そっと本のページを押さえてくれる。ふたりでその一文を読んで、同じところで笑った。


名前を、まだ知らないまま

「……あの、今さらなんですけど」

彼が少し笑いながら言った。

「まだ、お名前、聞いてなかったですよね」
「……え、あ、はい。えっと……」

(声が震える。どうして、こんなことで緊張するの)

「……私は、○○です(※実名非表示)」
「○○さん。素敵なお名前ですね」
「いえ……そんなこと……」

「僕は、古書店の店主です」
「それは、もう知ってます」
「名前は……○○です」
「……あ、同い年くらい、ですか?」

「40になったところです。あなたは……」
「38です。もうすぐ……40です」

(そのとき、不思議と安心した)

年齢の近さも、言葉のやさしさも、全部、温かい雨のようだった。


その日の帰り道

外に出たとき、雨はほとんど止んでいた。
私は彼から小さな紙袋を受け取っていた。中には、彼が「お好きそう」と言ってくれた本が一冊。

「返さなくていいですから。読んでみてください」

「……ありがとうございます。大事にします」

私の手が、ほんの少しだけ彼の指に触れた。
その瞬間、胸の奥が、ぽんと音を立てた気がした。


静かなやりとりが日課になって

週に一度の「通う理由」

(いつの間にか、週に一度、あのお店に通っている)

そんなことに気づいたのは、3週目の金曜日だった。
決めたわけじゃないのに、私は同じ時間に、同じように駅から曲がって「雨読堂」へ向かっていた。

扉を開けると、あの懐かしい鈴の音が鳴る。
彼が、笑って「こんにちは」と言ってくれる。
それだけで、胸の奥がじんわりあたたかくなるのだった。

(こんなに静かに、こんなに自然に人と関われる場所があったなんて)

彼はいつも、同じテンポで、同じようにやさしく話しかけてくれる。
私が話したいときは応じてくれるし、黙って本を眺めているときは、そっとしておいてくれる。

――それが、すごく、ちょうどよかった。


「今日は、この本を読みました」

いつの間にか、私たちは交換日記みたいに、「最近読んだ本の話」をするようになっていた。
長い会話ではない。でも、一冊の感想を交わすだけで、心がふわっと軽くなる。

「この短編、なんか、昔の夢の話みたいで……読んでて泣きそうになりました」
「夢が続いているような文章でしたよね。僕も、最後の一行で、しばらくページを閉じられませんでした」

たとえばそんなふうに。
たとえば、「この言葉、すごく好きだった」と彼が言った一文を、私はそっとノートに書き写したりする。

本の感想を通して、自分のことを少しずつ言葉にする。
そんなこと、今までなかった。


声を出して笑う日が来るなんて

ある日、彼が文庫の裏表紙を読み上げながら、「これはすごいですよ」と小さく笑った。

「“心の傷には、レモネードと猫が効く”って、帯に書いてあるんです」
「……えっ、それは……」
「なんか、嘘みたいですけど、でも、ちょっと効きそうな気もしません?」

私は思わず吹き出してしまった。
笑ってしまって、自分で驚いた。
職場でも、誰かと話すときでも、私は「笑う」というより「困ったように笑う」ことばかりだったのに。

(あ、今の、ほんとうに笑ったな……)

彼も笑っていて、けれど私の顔を見て、ちょっとだけまじめな顔になった。

「……なんだか、今の笑顔、すごく良かったです」
「……えっ」
「いえ、無理に笑ってないっていうか。素の笑い、って感じがして」
「…………」

胸の奥が、ぎゅっとなった。
たったそれだけの言葉だったのに、私はその夜、何度も思い出してしまった。


繰り返しの中で変わること

いつも同じ場所、同じ時間に通っても、話す内容は少しずつ変わっていった。
彼が読むジャンルが変わったり、私が初めて読む作家に挑戦したり。
そのたびに、言葉がすこしずつ近づく。

「○○さんは、登場人物のなかで誰に一番共感しましたか?」
「えっと……たぶん、あの、逃げ出す女性です」
「どうしてですか?」
「……ほんとうは逃げたくないのに、逃げるしかなかった感じが、わかる気がして」

「僕は、逃げるっていうのも、すごく勇気のいる行動だと思ってるんです。立ち向かうより、難しいとき、ありますから」

私は、その言葉に、はっとした。
(そうか。逃げるって、悪いことじゃないのかもしれない)

彼は、そうやって、私の中に新しい視点を置いてくれる人だった。


彼のことが、少しずつわかってきた

ある日、閉店間際に少し長く話す時間があって、彼の家族の話になった。
「両親は早くに亡くなっていて、今はひとりです」と彼は言った。

「それで、本屋を?」
「ええ、祖父のあとを継ぎました。本が好きというより、“ここ”が好きだったので」

私は、静かにうなずいた。
(この空間に彼が愛情を持っているのが、伝わってきてた)

「○○さんは、休日は何をしてるんですか?」
「……えっと、DIYとか、あと……雨の音を録音したり」

「雨の音?」

少し意外そうに笑ったけど、否定するような笑いじゃなかった。

「不思議と、落ち着くんです。録音して、イヤホンで聞いて……なんとなく、そうしてると、頭が空っぽになって」

「いいですね。すごく“あなたらしい”です」
「え……“らしい”……?」

「はい。なんだか、静かで、でも確かに存在してる感じ」

(そんなふうに言われたの、初めてだった)

誰にも気づかれたくないのに、ほんとうは「誰かにちゃんと見てほしい」と思っていた。
その願いを、彼は当たり前のように叶えてくれていた。


名前で呼ばれることの重さ

帰り際、彼がふいに私の名前を呼んだ。

「○○さん、今日は来てくれて、うれしかったです」

たったそれだけなのに、その日一日が報われたような気持ちになった。
「来てくれた」「うれしい」――その言葉に、私は存在を許された気がした。

(私は、ここにいていい)


帰り道に、空を見上げた

お店を出たあと、空に薄く月が見えていた。
雲の切れ間から、ぽっかりと、にじんだような光がのぞいていた。

私は、歩きながら心のなかでそっとつぶやいた。

(今日も、話せてよかった。笑えてよかった。名前を呼んでもらえてよかった)

自分を「よかった」と思える日が、こんなにも静かに増えていく。
それは、私にとって、奇跡に近い日々だった。


昔の私の話を、泣かずにできた日

なぜか、話したくなった

(こんな話、誰にも言ったことがなかった)

でも、あの静かな時間と、変わらないやさしい声に包まれていると、ふいに、何かがほどけていく。
それは、彼の「聞く姿勢」が、とても自然だったから。
「話して」とも「教えて」とも言わない。
でも、もし言えば、きっとちゃんと最後まで聞いてくれる――そう思える空気が、そこにはあった。

「……私、中学生の頃に、ちょっと……いじめられてて」
カップの底を見つめながら、私は、ぽつりと言った。

彼は、何も言わなかった。
でも、驚いた顔も、眉をひそめることもなかった。

「それで、あんまり……人と話すの、得意じゃなくなったんです」
「……」
「人の顔色とか、声のトーンとか、細かいところばっかり気になって……いつのまにか、笑い方とか、呼吸のタイミングまで不安になって……」

(ここまで話せたのは初めてだった)

「だから、大人になっても、誰かと話すのが、こわいままなんです」

それを言い切ったあと、私は目を伏せた。

(やっぱり、変に思われたかな……)

けれど、彼の声は、いつも通りだった。


「怖いままでも、いいと思います」

「……僕も、こわがりなんです」

彼は、ほんの少し笑いながら言った。

「人と関わるの、向いてないなって、よく思います」
「え……そんなふうに見えません」
「たぶん、お店という“距離感”がちょうどいいからです。お客さんと話すときも、時間や空間に“区切り”があると、安心できるんです」

(その感覚、わかる……)

「怖いままでも、いいと思いますよ。怖がってる自分のまま、人とつながれたら、それはすごく“誠実な関係”だと思うんです」

誠実――という言葉が、私の中に静かに降りてきた。

(誠実、って、こんなに静かでやさしい響きだったんだ……)

私は目を閉じて、少し深呼吸をした。
今、自分の心がふわっと軽くなっていくのを、ちゃんと感じた。


思い出が、やさしくなった

「たとえば、誰にも話せなかった話を、話してもいいと思えるような人に、出会えたら……」
「……」
「それって、ものすごく、すごいことですよね」

彼の言葉は、私が言えなかった気持ちを、なぜかちゃんと先に言ってくれる。

「私は……ずっと、恥ずかしい過去だって思ってました。思い出すのもイヤで……でも、今は少しだけ、思い出がやさしくなったような気がして」

「○○さんの中に、“やさしい目”を持っている人がいるからだと思いますよ」

(そんなこと、言われたことない……)

涙が、こぼれそうになった。でも、こぼれなかった。

泣かずに、自分のことを話せた日。
それは、自分をちょっとだけ「許せた日」だった。


「話せてよかったです」

彼が、静かにお茶を差し出してくれた。
湯気がゆらゆらと立ち上がって、どこかで心の緊張を溶かしていく。

「……○○さん、話せてよかったです」
「……はい、私も。聞いてくれて、ありがとうございました」
「いいえ、こちらこそです」
「……不思議です。あんな話、誰にも言えなかったのに、今は……なんか、ちょっとだけ、気持ちいいです」

「それ、きっと“信じてくれそうな人”に出会えたからじゃないですか?」

彼のその言葉が、まっすぐ胸に届いた。
私は、静かにうなずいた。


帰り道、傘をさしながら

その日も、帰るころには雨が降っていた。
でも、私はうれしかった。
この雨の中で、私は誰かと繋がれたから。

傘のなかで、小さく声に出してみた。

「ありがとう、って、ちゃんと伝えられたな……」

心のなかが、ぽっと明るくなる。
帰り道の街灯が、少しにじんで見えた。


次の一歩が、きっと待ってる

家に帰って、録音していた雨音を聞いた。
しとしと、やわらかい音。
まるで、今日の気持ちを包んでくれるような、そんな優しいリズムだった。

私はノートを開いて、こう書いた。

今日、初めて、自分の話を泣かずにできた。
聞いてくれる人がいるって、すごいことなんだなって思った。

そしてその下に、彼からもらった言葉を丁寧に書き写した。

「怖いままでも、いいと思いますよ」

何度も読み返して、ページを閉じた。

(また、あの店に行こう)

そう思えたのが、何よりの変化だった。


「僕、あなたの話もっと聞きたい」

いつもと同じはずなのに、違っていた日

「こんにちは」

その日も、私は変わらず木の扉を開け、店に入った。
鈴の音。古紙の匂い。いつもの空気。

でも、彼の「こんにちは」が、少しだけ特別に聞こえた。

「○○さん、来てくれると、やっぱり嬉しいです」

その一言に、私は思わずうつむいた。

(なんでだろう。たった一言なのに、心がぎゅっとなる)

「今日も、雨ですね」
「……ええ。でも、ここに来ると、それがうれしくなります」

その言葉を、初めて自然に口にできた。
私の中に、ちゃんと「この場所が好き」という気持ちが育っているのを、感じた。


本の話じゃない話が、増えてきた

「今日は……仕事、忙しかったですか?」

彼がふいに、そんなことを聞いてきた。
少しだけ驚いた。でも、それは自然な会話だった。

「はい。ちょっと、書類が多くて。でも……ここに来られると思ったら、がんばれました」

彼はうれしそうに笑って、あたたかい紅茶を差し出してくれた。

「じゃあ、今日の紅茶は“がんばった人用”です」

「え……そんなの、あるんですか?」
「ありますよ。勝手に、そういう気持ちで淹れました」
「……なんか、すごく効きそうです」

私が笑うと、彼も笑った。
こんなやり取りができるようになった自分に、少し驚いていた。


「○○さんの話、もっと聞きたいんです」

そのあと、彼はふとまじめな顔になった。
湯気の向こうで、少しだけまぶたを伏せるようにして、静かにこう言った。

「○○さん、前に……昔のこと、少し話してくれましたよね」

「……はい」

「僕、あのとき、ちゃんと聞けてよかったって思ってます。……でも、もし、よかったら……もっと、聞かせてほしいです」

(……え)

心臓が、ドクンと跳ねた。

「もっと、って……」

「○○さんのこと、知りたいです。……強引だったら、すみません。でも……本の話もすてきだけど、あなたの話も、とても大事に思えるから」

「…………」

すぐに返事はできなかった。
でも、私の中で、なにかが確かに震えていた。
過去を話すときの“こわさ”が、彼の言葉にすこしずつとかされていくのを感じた。


「じゃあ、ちょっとだけ……いいですか?」

彼の目を見て、私はうなずいた。
そして、少しずつ言葉を探すように、話しはじめた。

「中学のとき……私、“喋り方が変”って、すごくからかわれてて」
「……」
「それ以来、人と話すとき、自分の声が変に聞こえるんです。だから、好きな人ができても、自分から話しかけるのが怖くて」

彼は、黙って聞いていた。
言葉の合間に、小さくうなずきながら。

「高校では、少しマシになったけど、“地味な子”ってずっと呼ばれてました。名前で呼ばれるより、“地味”って呼ばれるほうが多くて……それに、慣れてしまって」

「…………」

「今も……誰かに“○○さん”って呼ばれると、すごくうれしいのに、どこかで信じられない自分がいて……」
「……○○さん」

彼が、そっと名前を呼んだ。

「……あなたは、“地味”なんかじゃありません。
静かだけど、優しくて、細やかで、ちゃんと人のことを考えてる。僕は、それがすごく好きです」

その言葉に、私の中で何かが崩れて、静かに涙がこぼれた。

(あ……泣いてる)

前は話しても泣かなかったのに、今は泣ける。
それは、ちゃんと安心できる場所で、自分を出せている証だと思った。


「……すみません、泣くつもりじゃなかったのに」

「いえ、泣いてくれて、うれしいです」
「え……どうして……?」
「だって、ちゃんと僕に見せてくれてるってことじゃないですか?」

その言葉に、また涙がこぼれた。
でも、恥ずかしくはなかった。
彼の前では、泣くことが“弱さ”じゃなく、“信頼”に変わっていた。


沈黙すら、心地よかった

しばらくふたりで黙って、紅茶を飲んだ。
その沈黙すら、あたたかかった。

(こんなに静かなのに、満たされてるなんて)

何も言わなくても、ちゃんと伝わる。
そんな関係が、現実にあるなんて思っていなかった。


「また、聞かせてくださいね」

帰り際、彼がそっと言った。

「○○さんのこと、もっと知りたいって、ずっと思ってました。
……焦らなくていいので、また、聞かせてくださいね」

私は、小さく笑ってうなずいた。

「……はい。今度は、泣かずに、話せるかもしれません」

「泣いても、全然いいですよ」

そのやさしさに、胸がきゅっとした。


夜、自分の声を録音してみた

その夜、私は初めて、自分の声をスマホで録音して聞いてみた。
ちょっと震えてる声。少しこもってるけど、落ち着いたトーン。

(……これが、私の声)

「話してくれて、ありがとう」

そのときの彼の声を思い出しながら、自分の声を、もう一度だけ聞いた。

(……悪くないかもしれない)

そう思えたのは、人生で初めてだった。


一緒に閉店作業をする日が増えて

「このあと、少しだけ手伝いませんか?」

それは、雨の止みかけた夕方のことだった。
いつものように、紅茶を飲みながら短い感想を交わし、本棚を眺め、少しだけ笑ったあと。
帰ろうと立ち上がった私に、彼がそっと声をかけてきた。

「このあと、ちょっとだけ手伝ってもらえませんか?」

「……え? 何を、ですか?」
「閉店の準備です。棚に戻す本をまとめたり、外の看板を片づけたり……たいしたことじゃないんですけど」
「わ、わたしでよければ……」

(なんでだろう、うれしい)

頼られたのが、うれしかった。
彼に必要とされることが、こんなに胸をあたためるなんて、知らなかった。


雨読堂の「裏側」

閉店準備は、静かだった。
でも、それは退屈な静けさじゃなくて、まるで演奏前の音合わせのような心地よさがあった。

本棚に戻す数冊の文庫、閉じたレジの棚、そっとかけるカーテン。
彼の動きに合わせて、私も手を動かした。
そして、ふたりで小さな作業をこなすたびに、呼吸がぴたりと合っていくのを感じた。

「この店って……夜になると、より落ち着きますね」
「ええ、夜の静けさが、本とよく合うんです。音が全部、やさしく聞こえる気がして」

(この人は、ほんとうに“音”のことをよく聴く人なんだ)

私の“雨音録音”を笑わなかった理由が、今ならわかる気がした。


「ここ、昔は祖父が弾き語りしてたんですよ」

レジ奥の小さなスペースを指差しながら、彼が言った。

「昔、祖父がギターを弾いて、店内で詩の朗読とかやってたみたいで」
「……えっ、詩の朗読?」
「そうなんです。毎週土曜に“詩と音の会”とかいうのをやってて」

「すごい……そんな雰囲気、今も残ってます」
「そう言ってもらえると、うれしいですね」

彼の目が、どこか遠くを見ていた。
その目は、思い出を丁寧に愛している人の目だった。

「僕も、最初は“店番だけ”で精一杯だったんです。でも……こうやって話せる誰かができると、“また違うお店になるんだな”って思います」
「……違うお店?」

「ええ。空気が、やわらかくなるんです。誰かと一緒にいると」

その“誰か”に自分が含まれていることが、何よりもうれしかった。


「この本、○○さんに似てると思ったんです」

棚の片隅に置いてあった一冊の詩集を、彼が手に取った。

「この本、○○さんに似てると思って」
「……え?」

(似てる、って……)

「静かで、やさしくて。でも、よく読むと、すごく強い言葉が隠れてる」

私は、本をそっと受け取った。
表紙は草原の絵。作者名も知らない。
でも、ページをめくると、そこにいたのは“誰にも気づかれずに咲いている花”のような詩たちだった。

(……こんなふうに、思ってくれてたんだ)

涙が出そうになったけど、がまんした。
その代わり、そっと微笑んで、彼に言った。

「こんな本、初めて見ました。でも、好きになれそうです」
「よかった。僕も、そんなふうに思ってました」


雨の音と、ドアを閉める音

「じゃあ、これで今日は閉店です」

彼がカウンターの灯りを落とす。
薄暗い店内に、雨の音がまた浮かび上がってきた。

「……この音、好きなんです」
「え?」
「本を読み終えたあとに聞く、静かな雨音」

(この人の感性が、本当に好きだ)

私はそっとドアを閉め、外の傘立てから自分の傘を取った。

「また、手伝ってもいいですか?」
「もちろん。○○さんとだと、片づけも楽しいです」

その言葉だけで、次の一週間が楽しみになるなんて、想像もしなかった。


帰り道、靴の音がうれしかった

濡れたアスファルトを踏みしめる靴音が、いつもより弾んでいた。
私は、心の中で彼の言葉を繰り返していた。

「静かで、やさしくて。でも、よく読むと、すごく強い言葉が隠れてる」

それは、誰も知らなかった私を、彼だけが見つけてくれたような言葉だった。

私はその夜、雨音の録音をせず、ただ耳を澄ましてベランダで静かに座っていた。
雨が、やさしく心を撫でてくれる音がした。


壊れた傘と、二人分のカバー

予報になかった雨

その日、空はずっと明るかった。
仕事帰り、私は傘を持たずに出てきた。
まさか、あんな急な雨に降られるなんて、思いもしなかった。

パラ、パラ……
道の向こうから、にわかに雨粒が降り始め、気づいた頃にはもう、逃げるには遅すぎるほど本降りになっていた。

(うそ……今日に限って傘、ない……)

私は自販機の屋根に避難して、途方に暮れた。
スマホで天気を調べても、あと一時間は止みそうにない。
せっかく早く終わった仕事、立ち寄るつもりだった古書店。
でも、この雨じゃどうしようもない。

(……行きたいのに)

そう思っていると、不意に、後ろから声がした。

「お困りですか?」

振り向くと、見慣れた人影が、片手に傘を差して立っていた。


「あれ……○○さん?」

「○○さん……ですよね?」

彼だった。
いつものシャツとカーディガン。濡れているのが惜しいくらい、落ち着いた色合い。
でも、表情はあいかわらず、やわらかくて、どこか申し訳なさそうな笑みだった。

「お仕事、早く終わったんですか?」
「はい。ちょっと……寄り道しようかなって」
「そしたら、降られちゃいましたか」

彼が小さく笑って、傘を少し差し出した。

「よかったら、ご一緒にどうですか?」
「……え、でも……」
「僕も今、買い物がてら出てきたところですし。お店までは近いので」

私は迷った。でも、傘の中に、あの落ち着いた匂いを感じて、自然と足が動いた。


小さな傘に、ふたりで入る

(狭い……)

ふたりで入るには、決して大きいとは言えない傘だった。
肩と肩が、かすかに触れる距離。
私は思わず少し体を縮こまらせたけれど、彼が傘の角度を自分側に寄せて、私が濡れないようにしてくれた。

「濡れてませんか?」
「だ、大丈夫です……」
(この距離、近い……)

雨の音が、少し遠くに聞こえる。
世界が、傘の中だけになったみたいだった。

彼の呼吸の音、歩くときの靴の音、私の心臓の音――
全部が、やけに近くに感じられた。

「……不思議ですね」
「何がですか?」
「雨に降られたのに、嬉しいって思ったの、初めてかもしれません」
「……僕もです」

ふたりとも、少し照れたように笑った。


店に着くころ、傘が壊れた

お店のすぐ手前、風が急に強く吹いた。
バサッと音がして、傘の骨がひとつ、ぐにゃりと曲がった。

「あっ……」

彼の手が止まった。私も傘を支えきれず、肩が濡れた。

「ごめんなさい……僕、しっかり持ってなかったかも」
「いえ……私のせいです。私が、少し傾いてしまって……」

(なんでこんなことで、悲しくなるんだろう)

でも彼は、まったく気にした様子もなく、壊れた傘をたたんでこう言った。

「じゃあ、もう少しだけ、一緒に濡れちゃいましょうか」

「……え?」

「それでも、一緒にいると雨がちょっとだけ気にならなくなるって、今日知ったので」

私の胸の奥で、また何かが強く鳴った。


「ふたりで濡れるの、悪くないですね」

お店に着いて、タオルを貸してくれた。
髪から落ちる水滴をぬぐいながら、彼が静かに言った。

「○○さんって、濡れてても怒らなさそうな顔してますね」
「え……それって、変ですか?」
「いえ、逆です。静かな強さがあるっていうか……無理に平気そうな顔してるんじゃなくて、本当に“このくらい大丈夫”って思ってる感じ」

「……それ、よく言われます」

「きっと、長い間、自分で自分を守ってきたからですね」

その一言に、私は一瞬、言葉を失った。

(……見透かされてる気がした)

でも、それが嫌じゃなかった。
むしろ、ようやくわかってくれる人に会えた気がして、少しだけ目頭が熱くなった。


「壊れた傘、どうします?」

彼が、そっと問いかけてきた。

「……修理、できますか?」
「たぶん、難しいです。でも……たとえば、飾りに使うとか」

「飾り……?」
「お店の壁にかけて、“雨の日の出会い”ってタグつけて飾ろうかなって」

私は思わず笑ってしまった。

「そんなの、誰が見るんですか?」
「僕と○○さんです」
「……じゃあ、いいですね、それ」

彼と私だけの記念のような、壊れた傘。
それが「失くす」じゃなく「残す」ものになる――それだけで、胸があたたかくなった。


心に残ったのは、濡れた肩じゃなくて

その日、帰り道は雨が上がっていた。
けれど、私の心の中では、ずっとやさしい雨が降っていた。

ぬれた肩も、壊れた傘も、冷たくなったスカートの裾も。
全部が、ふたりで過ごしたかけがえのない時間になっていた。

「ひとりじゃ濡れるだけだった雨が、
ふたりで濡れたら、こんなにも記憶になるなんて――」

私は、そう思いながら、そっと空を見上げた。

 


プロポーズされた場所は、最初の雨の日と同じだった

予報どおりの雨

朝から空はどんよりとしていた。
その日は日曜。私は仕事もなく、久しぶりにゆっくりと起きた。
カーテンを開けると、窓の外には灰色の空。そして、静かに、細く降り出していた雨。

(……あの日も、こうだった)

思い返せばすべては、雨から始まった。
スーパーの帰り道。ずぶ濡れになって、ただうつむいていたあの日。
差し出された一本の傘と、あの優しい声。

「使ってください。濡れすぎてますよ」

私の世界に、あんなふうに誰かが踏み込んでくるなんて、夢にも思わなかった。

それが今や、彼の店の鍵を預かるほどになり、夕方には一緒に棚を拭き、時にはお茶の準備を任され、そして――

「今日、少しだけ、早めに来られますか?」

昨夜、そんなメッセージが届いていた。

理由は書かれていなかったけど、私はすぐに「はい」とだけ返した。
なんとなく、胸の奥がそわそわしていた。
何かが起こる――そんな予感だけが、雨の匂いとともに胸をくすぐっていた。


店には入らず、角を曲がったところで

「今日は……こちらです」

待ち合わせた店の前。
私を見た彼は、いつもより少し緊張した表情をしていた。

「少しだけ、歩いてもいいですか?」

彼は傘を開いて、いつものように“ふたり分”の空間を作ってくれた。
そして、その傘の中に、私は自然と身を寄せた。

私たちは、あのときと同じ道を歩いた。
角を曲がり、古書店の前を通り過ぎ、そして、自販機のある路地へ。

「……ここ、覚えてますか?」

「もちろんです。私が……困ってた場所」

「僕が……傘を差し出した場所、ですね」

彼が少しだけ、笑った。


「あのとき、話しかけた理由は……」

「……あのとき、○○さんが歩いてるのが見えて。
でも、ただ通り過ぎようとしてて。
顔も、伏せたままで」

「……はい」

「でも、不思議だったんです。傘を差したいっていうよりも……
“そのまま濡れててほしくない”って思ったんです。
……ああ、変ですね、言い方が」

「……ううん、変じゃないです」

「もし、声をかけていなかったら、って思うと……今でも、ちょっと、怖いです」

彼が傘の中で、そっと私の手を探すようにして、ふれた。
冷たくもなく、熱くもなく、ちょうどいい温度の手だった。


「○○さんと出会ってから、変わりました」

「僕は、あまり人に深く関わらないようにしてきたんです。
それが楽だったし、お店もそういう“静かな空間”でありたいと思ってた」

「……うん」

「でも、○○さんが来るようになって……棚を整える音も、ページをめくる音も、紅茶を注ぐ音も、全部が違って聞こえたんです」

「…………」

「あなたといる時間が、僕の毎日の“意味”になりました。
静かだけど、たしかに動いている。
……そんな時間を、これからも一緒に生きていきたいです」

私の呼吸が、ふと止まった。
彼の目は、まっすぐ私を見ていた。
逃げない、隠さない、真剣な目だった。


「結婚、してくれませんか?」

その言葉は、とても静かだった。
でも、雷のように胸に響いた。

「○○さんと、雨の音を聞きながら暮らしたい。
同じ本を読んで、感想を言い合って、夜には紅茶を淹れて。
休日には、録音した雨音を流しながら、ただ、並んで座っていたい」

(……夢みたい)

こんなにも、私を“そのまま”愛してくれる人が、ほんとうにいるなんて。
壊れた傘を捨てなかったように。
静かな性格も、涙の跡も、声の揺れも、全部を「いい」と言ってくれる人。

私は、ゆっくりとうなずいた。

「……はい。私も、同じ夢を見たいです」


ふたり分の傘の下で

彼の目が潤んでいた。
でも、それを拭おうともせず、ただ私を見つめたまま、小さく笑った。

「ありがとう、○○さん」

「こちらこそ……ありがとう」

傘の中で、ふたりの距離がすっと縮まった。
肩がふれ、額がふれ、そしてそっと、唇が重なった。

初めてのキスだった。
でも、不思議と、初めてじゃない気がした。
ずっと、心が触れ合ってきたから――そんな気がした。


雨は、止みかけていた

プロポーズを受けたその場所。
最初に出会った、あの雨の路地。

空を見上げると、雲の隙間から、ほんの少しだけ光が差していた。
まるで祝福のように、静かに、ゆっくりと。

「また雨が降ったら、ここに来ましょうか」
「うん。初心に帰る場所として……」
「そして、いつか、傘がなくても歩けるふたりになれたらいいですね」

「……でも、私はきっと、ずっと傘の中にいたいな」
「じゃあ、僕もずっとその中にいます」

ふたり分の傘。
それは、これから先の人生をともに歩いていく“約束の屋根”になった。


エピローグ

あれから半年後――
私は、彼と一緒に“雨読堂”のレジに立っている。
店の奥には、今もあの日の壊れた傘が飾られている。

その横に、小さな手書きのプレート。

「この傘が、ふたりの話の始まりでした」

今日も外は雨。
でも、私の心は、晴れた日よりも、うんとあたたかい。