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はっくなび
「共感しました」たった一言に泣きそうになった
ひとりぼっちが、日常になっていた
私、35歳。職業は広告デザイン会社のデザイナー。
一応、それなりに実績もあるし、仕事がなくて困ることはない。社内でも「あの人に頼めば、いい感じに仕上げてくれる」とは言われている。だけど、仲良しの同僚がいるかと聞かれたら、即答で「いない」。
ランチはいつもひとり、会議も「ふーん」で流し、飲み会は即欠席。社内LINEの既読もつけないまま、トイレの鏡越しに「私って浮いてるな」と思ってしまう。
小さい頃から「地味だね」って言われてきた。
中学では「ノート取るの早いね」で終わり、高校では「真面目だよね」で片づけられた。恋愛なんて縁がなかったし、自分を好きになってくれる誰かがこの世界に存在するなんて、思ってもみなかった。
でも、だからこそ、誰にも見られていない“場所”が欲しかった。
名前も顔も出さなくていい、私の小さな逃げ場所。
それが「空色とわたし」という名前の、匿名SNSアカウントだった。
投稿するのは、詩と、空の写真。
「雲って、優しい顔して怒ってるみたい」「今日の青は、悲しみが混ざった青だった」――そんな言葉を添えて、夕焼けの写真や、雨上がりの空を載せる。
いいねは多くても10個くらい。コメントはほぼない。
だけど、何百人もの喧騒の中でひとりでいるよりも、誰にも届かない言葉をそっと置いていくこの場所が、私にとっての救いだった。
「共感しました」そのひと言が、胸に刺さった
その日、私はいつものように、深夜に空の写真を投稿した。
台風が過ぎた次の日、ビルの隙間から覗いた夕方の光。
「綺麗なのに、どこか寂しい空。
私みたい。ずっと、誰にも見られないでいる。」
誰にも届かなくてもいい。そんなつもりで投稿したのに、30分後に通知が鳴った。
“カフェの読書家さんがあなたの投稿に返信しました:
『共感しました。あなたの言葉に、涙が出そうでした。』”
……それだけ、だった。
でも、私はスマホを持ったまま、しばらく動けなかった。
あの言葉は、まるで、心の一番奥の扉をノックしてきた。
(……共感、してくれた? 私の、言葉に?)
心臓が、ぽん、と跳ねる。
そのたった一言が、胸の奥に染み込んで、静かに涙がこぼれた。
私は、泣いていた。知らない人の優しい一言で。
タイムライン越しに、そっと話す誰か
「カフェの読書家」さんのプロフィールには、こんな風に書いてあった。
本とコーヒーと、雨音が好きです。
人の心に寄り添える言葉を書きたいと思っています。
投稿内容は、読んだ本の感想や、短いエッセイ、たまにカフェの窓から撮った景色。
どれも、やわらかい語り口で、読むだけで肩の力が抜けるようだった。
まるで、膝にブランケットを掛けてくれるような文章だった。
私は、彼の言葉を遡って読んだ。
そして、ふとした投稿に、心が釘付けになった。
誰にも言えない孤独って、ありますよね。
自分でさえ気づいてなかった気持ちを、ふとした瞬間に思い出すことがあります。
(……この人、私と同じ場所にいる気がする)
気づけば、彼の投稿に「いいね」を連打していた。
「共感してくれて、ありがとうございました。あなたの言葉も、とても優しいと思いました」
――私が初めて、彼に返信をしたのは、それから2日後のことだった。
スマホの画面越しで、私は震えていた。
知らない誰かと心をつなごうとするのが、こんなに怖くて、でも温かいものだなんて。
返信は、夜中に届いた。
「こちらこそ。
あなたの投稿は、空の写真だけじゃなくて、言葉がとても綺麗です。
気持ちが伝わってきて、何度も読み返しました」
画面を見た瞬間、心がじわっと温かくなった。
(私の言葉が、届いたんだ……)
こんなふうに思えたのは、いつ以来だろう。
名前も顔も知らない人なのに、安心した
不思議だった。
名前も知らない、顔も知らない、声も聞いたことのない人なのに――
彼の言葉は、妙に安心できた。
無理に明るくしようとしないところ。
私の投稿を「映えてる」とか言わず、ちゃんと意味をくみ取ってくれるところ。
誰かと話して、「自分を演じなくていい」と思えたのは、彼が初めてだった。
私たちは、投稿のリプライ欄で、ゆっくりとやりとりを重ねていった。
空のこと、詩のこと、最近読んだ本の話――
でも、一番うれしかったのは、彼が「あなたの言葉、誰かを救ってると思います」と言ってくれたこと。
(そんなふうに言われたの、生まれて初めてかもしれない)
胸の奥が、きゅうっと締めつけられる。
だけど、それは苦しさじゃなくて、あたたかさだった。
そして私は、密かに願ってしまった。
(もっと、話していたい。
この人の言葉に、もっと触れていたい)
その夜、空にはひときわ星が輝いていた。
まるで、誰にも見えなかった私の存在を、ぽつんと照らしてくれているように。
タイムライン越しに知る優しさ
名前も、顔も、知らないのに
「こんばんは。今日は、雨でしたね」
彼から、そんな返信が届いた。
投稿に直接ではなく、私のタイムラインにポツンとぶら下がるように。
「雨の匂い、嫌いじゃないです」
「私は、雨音が好きです。ひとりでいるのに、誰かと一緒にいるみたいで」
画面の向こうで、彼がふと笑っている気がした。
それだけで、心が軽くなる。
(どうしてだろう……こんなふうに、誰かと話すのって、昔は怖かったのに)
自分の言葉に、価値がないと思ってた。
話せば話すほど、黙っていればよかったって後悔していた。
でも、彼は違った。
一つひとつの言葉をすくい上げて、傷つけないように返してくれた。
たとえば――
「空色さん(私のアカウント名)、写真に写る空って、いつも少しだけ哀しそうですね」
「……うん。嬉しくても、どこか哀しい感じの空が好きなんです」
「きっと、それがあなたの“優しさ”だと思いますよ」
(……優しさ、か。そんなふうに言ってもらえたの、初めて)
その夜、私は枕を抱いて泣いた。
嬉しくて。信じられなくて。どうしてこの人、私なんかの投稿にこんなふうに優しくしてくれるんだろうって。
リプライ欄だけで続いた、ゆるやかな関係
リプライ欄で続くやりとりは、不思議と心地よかった。
変に馴れ馴れしくなるでもなく、急に距離を詰めてくるわけでもない。
何気ない言葉を交わしながら、まるで毎晩、同じベンチに座って話しているような感覚だった。
「今日は、雲が分厚かったですね」
「はい。でも、あのグレーが、かえって安心します」
「わかります。感情が、外に表れなくてすみますよね」
(この人、本当に……わかってる)
私が一言、つぶやいただけで、言葉の奥の感情まで察してくれる。
まるで――
心に寄り添う、プロの聞き手みたいだった。
それもそのはず。彼の職業は「公務員」としか書いてなかったけど、きっと誰かの相談を聞いたり、人と接する仕事をしてるのかもしれない。
いや、もしかしたら、私と同じで「ひとりぼっちの時間」に詳しい人なのかも。
詩のひとことに、長文で返してくれた彼
ある日、私は思い切って、少し重たい詩を投稿した。
「何かを期待してしまった日ほど、夜が冷たく感じる
願ったことを、後悔してしまう夜が、一番つらい」
フォロワー数も少ないし、誰も気に留めないだろうと思っていた。
けれど、彼は違った。
その詩に対して、彼は長いリプライをくれた。
「期待って、難しいですよね。
何かを求めること自体が、すでに自分を苦しめてることもある。
でも、願わずにいられない夜もあると思うんです。
僕は、その“願ってしまうあなた”が、すごく健気で美しいと思いました」
(……そんなふうに、感じてくれる人がいるんだ)
誰にも見せたくなかった心の中が、ふわっと抱きしめられたようだった。
「……ありがとう」
私は、震える指で短く返事を打った。
たったそれだけでも、今の私には精一杯だった。
そして――その夜、私は彼のアカウントを「通知オン」にした。
彼の言葉が、来るたびに心が跳ねる。
それが、日々の静かな楽しみになった。
彼の投稿に、どんどん惹かれていった
彼のタイムラインは、言葉の宝石箱みたいだった。
「一杯のコーヒーに、救われる朝がある」
「本の中の誰かが、自分の代わりに泣いてくれた気がした」
「気づかれない優しさこそが、いちばん強い優しさかもしれない」
一文一文が、胸にすっと入ってきて、少しだけ呼吸が楽になる。
私は、無意識に何度も読み返していた。
まるで、彼の投稿に、心が“依存”してしまっているようだった。
(……でも、いいや。依存でも、今は)
誰にも頼れなかった人生で、初めて“この人と話したい”と思える人ができた。
それが、どんなに大きなことか、私は噛みしめるように実感していた。
「よかったら、DMでも話しませんか?」という誘い
その日の夜も、私たちはリプライ欄で、ゆるやかな会話を交わしていた。
すると、彼がふと、こう言った。
「よかったら、DMでも話しませんか?
もちろん、無理しなくて大丈夫です」
スマホを持つ手が震えた。
(……来た。ついに、来た)
怖かった。でも、すごく嬉しかった。
それまでの私だったら、絶対に断っていた。
でも、彼だったら……と思えた。
「……はい。私も、もっと話してみたいです」
そう、返信していた。
心臓が、バクバクと鳴っていた。
でも、同時に、胸の奥でふわっと何かが咲いた気がした。
(これって……もしかして、“恋”なのかな)
初めてのDM、緊張と喜びと
小さな封筒を開けるような気持ちで
DMって、こんなに緊張するものだったっけ。
それまでのやりとりは、すべてタイムラインの中だった。誰もが見られる場所で、ふわりとした言葉を交わす。まるで駅のベンチに座って、時折会話するような感覚。
でも、DMは違った。
扉をひとつ閉めて、ふたりきりになる場所。
そのドアノブを回すのが、こんなにも勇気のいることだとは思わなかった。
「こんばんは。DM、ありがとうございます」
私の最初の言葉は、それだけだった。
画面をじっと見つめながら、何度も打ち直して、たった10文字の文章に数分かけた。
(変じゃないかな。重たくないかな。うれしいって伝えたいけど、がっついてるって思われたらどうしよう……)
でも、数分後に返ってきた彼の返信は、そんな私の緊張をすっとほどいてくれるものだった。
「こちらこそ、ありがとうございます。
こうして、少し静かな場所でお話できるのが、なんだか不思議で、でも嬉しいです」
(……やっぱり、この人、すごく優しい)
画面の向こうで、ゆっくりと微笑む顔が見えるようだった。
その一文だけで、胸の奥のもやもやがすっと消えていく。
まるで、あたたかいハーブティーを差し出されたみたいに。
小さな会話が、心を満たしていく
そこからの会話は、本当にささいなことばかりだった。
「今日のお昼、職場近くのパン屋さんが新メニュー出してて」
「わ、パン好きです。どんなのだったんですか?」
「紫芋とクリームチーズのパンで……甘じょっぱくて最高でした」
(うん、こういう話、したかった。何でもないことを、ただ誰かと分け合いたかった)
それが、とても愛おしく感じた。
私は言葉を選ぶのが苦手だ。
LINEのグループチャットでも、すぐ既読だけつけて閉じてしまう。
社内でも「返信が冷たい」「そっけない」って言われたことがある。
だけど、彼とのDMは違った。
「“うん”っていうだけで、安心します。無理に言葉を増やさなくても、ちゃんと伝わってきますよ」
そんな風に言ってくれた。
(……初めて、私の“無口”が否定されなかった)
それが、嬉しくてたまらなかった。
言葉にできない気持ちが、少しずつ形を持ち始めているのを感じた。
まるで、冬の間ずっと眠っていた種が、土の中で音もなく目を覚ますように。
夜のDMは、心の深いところで話せる
不思議なことに、夜になると、心が自然と開いていく。
会社では仮面をかぶって過ごし、電車の中では空気のような存在であり続け、家に帰れば冷蔵庫の音しかしない部屋――。
でも、その夜だけは、違った。
スマホの画面に、彼の名前がある。それだけで、部屋の空気が変わる。
「空色さんって、夜の空が好きなんですか?」
「うん。静かで、誰にも見つからない気がするから」
「僕も、夜のほうが本音を言いやすいです。
たぶん、誰にも聞かれてないと思えるから、かな」
(ああ、この人も、私と同じなんだ)
画面越しの小さな世界で、同じ“静けさ”を生きてきた人と、ようやく出会えた気がした。
心を開くって、声を張り上げることじゃない。
ただ、安心して“無防備でいられる場所”を見つけること。
そして、私は今、それを見つけようとしているのかもしれない。
いつの間にか、スマホを握って眠っていた
そんなやりとりを続けていたら、いつの間にか夜中の2時になっていた。
「そろそろ、寝なきゃですね」
「ですね。明日もお仕事、ですか?」
「はい。ちょっと忙しい一日になりそうです」
(あ、このまま終わっちゃうの、寂しいな……)
すると、次のメッセージが届いた。
「でも、今日DMして、本当によかったです。
このまま、おやすみって言える相手がいるって、すごく幸せなことですね」
画面の明かりが、涙で少し滲んだ。
「私もです。……おやすみなさい」
送信ボタンを押したあと、私はスマホを胸に抱きしめた。
そのまま、電気も消さずに眠ってしまっていた。
目が覚めたのは朝6時。
握りしめたままのスマホが、ほんのりとあたたかかった。
(夢じゃなかったんだ。ちゃんと、誰かと話してたんだ)
それが、何よりの救いだった。
そして私は、初めて気づいた。
心を通わせるって、きっとこういうことだ。
大きなことじゃない。誰にも見えない場所で、静かに芽吹く小さなやりとり。
それが、私の毎日を、少しずつ変えていく。
オフ会の誘いに震えながらOKした日
「いつか、会えたらいいですね」
その夜も、私たちはDMで他愛ない話を続けていた。
「今日は少し早く帰れたので、近所のカフェで本を読んでました」
「いいですね。どんな本を読んでたんですか?」
「川上弘美さんの短編集です。静かだけど、心がざわっとするような話でした」
「……あ、それ、私も前に読みました」
「本当ですか? なんだか、嬉しいです」
(こんな風に、共通点があると、もっと話していたくなる)
そう思っていた矢先、彼のDMにこんなひとことが添えられた。
「いつか、直接話せたらいいなって、最近思ってるんです」
……その瞬間、胸の奥がぎゅっと締めつけられた。
(……“会う”? 今、そう言った?)
私の心が、ぐらりと大きく揺れる。
もちろん、彼が嫌な言い方をしたわけじゃない。
むしろ、優しさと配慮に満ちていた。
でも、“会う”という言葉は、思った以上に重たく響いた。
だって私は、自己肯定感が地面より低い人間だ。
写真でさえ、極力自分の顔を出さず、リアルの私を知られたら、きっと幻滅されてしまう。
画面越しの私は、ある意味“加工された私”だった。
だけど、それでも――
「私も、そう思ってました。少し、怖いけど……会ってみたいです」
私は、そう返信していた。
自分の手が、かすかに震えているのがわかる。
でも、その震えは、恐怖と同時に、期待の入り混じった揺れだった。
まるで、誰かと手をつなぐ前の、あのほんの一瞬のためらいみたいに。
初めての「オフ会」の予定を決めるまで
「じゃあ……来月の最初の土曜日とか、いかがですか?」
彼からの提案は、とても丁寧だった。
急かすわけでもなく、「もし無理なら、遠慮なく」と付け加えてくれていた。
(……大丈夫、ちゃんと準備すれば)
私はカレンダーを確認しながら、何度もため息をついた。
服はどうしよう。髪は? 化粧? 話題?
会った瞬間、無言になってしまったら? 写真と違うって思われたら? もしも、彼が思ってたような人じゃなかったら?
でも、そんな不安を吹き飛ばすように、彼がこう言ってくれた。
「無理に着飾らなくていいですよ。僕は、空色さんと話すことが目的なので。
服もメイクも、自然体がいちばん素敵です」
その言葉を読んだ瞬間――胸の奥が、じわっと熱くなった。
(どうして……この人は、こんなに優しくできるんだろう)
私は深呼吸して、スマホを握りしめた。
「はい。その日、大丈夫です。よろしくお願いします」
そう送ったあと、ソファに倒れ込み、天井を見上げてしばらく動けなかった。
こめかみがドクドクと鳴っていて、胸がふわふわして、でも何より、泣きそうになるほど、嬉しかった。
「自分から“会う”って言っていい関係があるなんて」
(人生で、思ってもみなかった)
会う場所は「駅前のカフェ」に
彼は、待ち合わせ場所に駅前のカフェを提案してくれた。
「小さな書店の隣にある、静かなカフェなんです。
何度か行ったことがあるので、空色さんにも安心してもらえるかなと」
(気遣いが細やかで、泣きそう……)
一見するとさりげない文面だけど、そこには私への配慮がいくつも込められていた。
・人の少ない場所で、緊張が和らぐように
・知ってる場所だから、安心できるように
・初対面でも、沈黙が怖くないように
そういう心づかいを“言葉にせず”に伝えてくる彼のやり方が、私はとても好きだった。
そして、約束の日が近づくにつれて、私は少しずつ変わり始めていた。
会社でも、「少し雰囲気変わった?」と何人かに声をかけられた。
自分でも気づいていた。
鏡の中の自分が、前よりほんの少し柔らかい顔をしていることに。
理由は一つ。
「会いたい人がいる」という、奇跡のような事実が、私を変えていた。
「わたしが、わたしを嫌いじゃない日」が来た
約束の前日。私は髪を少し整え、服を選びながら思った。
(私、こんなふうに“自分に手をかけたい”と思ったの、いつ以来だろう)
誰に見られなくてもいいと思っていた。
何も望まず、ただ、無難に日々が過ぎていけばそれでいいと。
傷つかないかわりに、何も手に入らない日々に、私は慣れすぎていた。
だけど今は――違う。
「この人と会える」
その小さな希望が、私に“生きてる意味”を思い出させてくれていた。
そして、久しぶりに、こう思えた。
(明日、ちゃんと笑えたらいいな)
初対面、でもすぐに分かった「彼」
カフェの入口で、深呼吸を三回
約束の日、私は少しだけ早く駅に着いた。
地下鉄から上がってくると、午後の空は優しい薄曇りだった。
日差しがまぶしすぎず、風がやわらかくて、まるで「大丈夫だよ」と背中を押してくれているようだった。
(それでも、心臓はすごい音してる)
スマホの画面を見て、時刻を確認する。約束の時間の10分前。
彼からは「着いたら、メッセージくださいね」と言われていたけれど、私はまだ送れずにいた。
カフェの前まで来て、扉の前で立ち尽くす。
ガラスの向こうには、数人の客。静かに本を読んでいる男性の背中も見える。
(……いるかもしれない。あの中に)
頭の中で何度も想像してきた初対面。
けれど現実にその瞬間が来ると、足がまったく動かない。
私は思わず、その場で深呼吸を三回。
手のひらの汗を、スカートのすそでぬぐう。
(だめだ、これ以上悩んでたら逃げちゃう)
意を決してスマホを取り出し、震える指でメッセージを打つ。
「こんにちは。今、カフェの前に着きました」
送信を押した瞬間、すぐに“既読”がつく。
数秒後――
「僕も、すぐそこにいます。
入口の近くの席で、黒いシャツを着ていますね」
(あっ……)
私は、そっと顔を上げる。
視線の先、ガラスの向こう――
黒いシャツの男性が、こちらを見て、やわらかく微笑んだ。
それだけで、胸が熱くなった。
(わかった。この人だって、すぐにわかった)
「はじめまして」なのに、懐かしい
扉を開けた瞬間、カフェの鈴がちいさく鳴った。
その音に反応するように、彼がすっと立ち上がる。
「空色さん……ですよね?」
「……はい。はじめまして」
言葉にすると、すごく不思議な気持ちだった。
初めて見る顔なのに、ずっと話してきた人。
はじめまして、なのに、もう何度も言葉を交わしてきたような安心感。
彼の顔は――想像していたよりも、やわらかくて静かな印象だった。
目元にはほんの少し疲れがあるけど、眉の角度も、口元の形も、すごく丁寧に整えられていて、会話の端々からにじむ“誠実”がそのまま表情になったような人だった。
「お会いできて、嬉しいです」
「……こちらこそ。緊張してて、変じゃないですか、私」
(うっかり言ってしまった。こういう時、私はつい、自分を下げた言葉ばかり言ってしまう)
でも、彼は優しく笑って、こう返してくれた。
「いえ、とても自然で、安心しました。
空色さん、想像してたより……ずっと綺麗な人でした」
その言葉に、思わず息が止まった。
「……そんなこと、ないです。むしろ……」
「ありますよ。僕は、そう思いました。
会えて、本当に、よかったです」
(……だめだ、泣きそう)
まさか、初対面でそんなふうに言ってもらえるなんて思っていなかった。
自分の容姿に自信なんてない。ずっと「地味で暗い」と思ってきた。
けれど今、彼の目には、私が“綺麗”に見えている。
それが、たまらなく嬉しかった。
一緒に飲んだコーヒーが、あたたかかった
席につくと、メニューの端にあった「季節のブレンド」が目に入る。
「これ、おすすめですよ。酸味が控えめで、優しい味です」
「じゃあ、私もそれにします」
注文を終えると、カップが来るまでの数分が、少しだけ気まずかった。
……けど、不思議と沈黙が怖くなかった。
彼は、テーブルの縁に両手を軽く置いて、姿勢を崩さず、微笑みを絶やさなかった。
まるで、「ここにいてくれて、ありがとう」とその存在だけで伝えてくれているような雰囲気。
(なんていうか、空気がやわらかい……)
カップが届いて、ふたりで一口飲んだあと、彼がふと笑って言った。
「こうして並んでコーヒーを飲んでるのが、ちょっと夢みたいですね」
「……ですね。私、まだ信じられないかも」
「でも、現実ですよ。隣に、空色さんがいる。
それだけで、なんだかすごく、幸せです」
(ああ、もう、だめだ)
心のどこかが、ぽたぽたと音を立てて溶けていく気がした。
こんなに大事にされる言葉を、私は生まれて初めてもらっているのかもしれない。
「私……会えて、よかったです。本当に」
「僕もです。想像してた以上に、今日という日が、特別になりました」
カップの中のコーヒーは、驚くほどあたたかかった。
それはたぶん、心がほどけたから。
「緊張は……してますか?」
「してます。ずっと、してます。でも……それ以上に、今は、嬉しいです」
彼は笑って、言った。
「それなら、よかった。僕も、ずっと嬉しいですから」
(ああ、やっぱり……この人に会えて、よかった)
その確信は、静かに、でも強く私の中に根を下ろしていった。
無言の時間も、心地よかった
沈黙が、怖くなかった
コーヒーを一口ずつ飲みながら、私たちはぽつぽつと話を続けた。
「このカフェ、本当に静かですね」
「そうなんです。初めて来た時、“ここなら自分の声を出せる”って思えたんです」
「……わかる気がします」
(私も、“声を出しても邪魔じゃない場所”を探してた)
天井は高く、木の柱が並び、奥には本棚が設えてある。
観葉植物の緑がそこかしこに配置されていて、空間に優しい影を作っていた。
誰かが静かに笑っていても、誰もそれを咎めないような、そんな包容力があった。
けれど、ふとした拍子に、会話が途切れることがある。
普通なら――気まずい。
(なにか話さなきゃ)(沈黙って、嫌われてるみたいに思われない?)
いつもそう考えて、無理に話題を探してしまう。
だけど、この時は違った。
彼は、窓の外を見ながら、コーヒーをひとくち。
私は、ゆっくりと目の前のカップに視線を落としながら、手の温度を感じる。
それだけで、充分だった。
無理に何かを埋めようとしない。
沈黙の中に、ちゃんと“優しさ”があった。
(……これ、初めての感覚かも)
「話さなくても、大丈夫だって思えるのって、すごいことですね」
私がそっと口にすると、彼は微笑んで頷いた。
「はい。まさに、そう感じてました。
僕、沈黙が怖くなくなったのって、大人になってからでも数えるほどしかないんです」
「……私もです」
(だからこそ、今日のこの時間が、かけがえのないものに感じられる)
彼の仕草ひとつひとつが、やさしかった
彼は、話す時に必ず一拍おいてから口を開いた。
何気ない言葉の奥に、相手を想う時間が詰まっているのがわかった。
「こうして、ゆっくり誰かと向き合うこと自体、久しぶりかもしれません」
「……私も。普段は、誰かと話すときって“早く終わらせたい”って思っちゃって」
「無理しなくていい相手がいるって、貴重ですね」
彼がそう言ったとき、ふと、私の目が潤んだ。
(そうだ……“無理しなくていい”って、こんなに救われる言葉だったんだ)
彼はそれに気づいたのか、そっと声を落として、目を細めてくれた。
「ゆっくり、深呼吸しましょうか。……大丈夫ですよ」
(そんなふうに言われたら、もう、だめだよ)
声にならない思いが、涙になって目の奥をつついてくる。
でも私は泣かなかった。
泣かずに、ただ、彼の声を聞いていた。
あたたかくて、優しくて、安心できる――
まるで、昔読んだ童話の中の“森の中の灯り”みたいだった。
「もっと一緒にいたい」と思った午後
ふと時計を見ると、約束の時間からすでに2時間が過ぎていた。
でも、それでもまだ話し足りなかった。
(このまま帰ったら、きっと寂しくなる)
「よかったら、もう少し……お店を出てから、散歩でもしませんか」
そう言ったのは、彼だった。
驚いた。でも、すぐに嬉しくなった。
「はい、ぜひ」
私たちは並んでカフェを出た。
外に出ると、午後の陽射しは柔らかく、雲がちょうどいい具合に空を隠していた。
駅前から少し離れた並木道を、言葉少なに歩いた。
隣に誰かがいるというだけで、景色が少し違って見える。
葉の色も、風の音も、車の通る音も――全部が少しだけ優しくなったような気がした。
「……なんだか、今日の空、いいですね」
「はい。たぶん、記憶に残る空になります」
「僕も、同じこと思ってました」
ふたりの歩幅は、自然と合っていた。
足音のリズムも、歩く速さも、無理に合わせたわけじゃないのに、不思議とぴったりだった。
(ああ、やっぱり、この人に会えてよかった)
そう思った瞬間、彼が足を止めて、少し照れたように言った。
「次も、また会ってくれますか?」
私は、言葉が出なかった。
でも、うなずいた。
何度も、何度もうなずいた。
「……もちろん、です。私のほうこそ、会いたいです」
彼は笑った。
(その笑顔が、何よりうれしかった)
そしてその日の夜、家に帰った私は、スマホを見つめながら、心の奥に静かに思った。
(もう少し、自分を好きになってもいいのかもしれない)
自分の作品を初めて見せた日
「見せても大丈夫かな」って思ったのは、初めてだった
それは、二度目の再会から少し経ったころだった。
彼とは、それからも定期的に会っていた。月に一度、短い時間でも。
どの時間も、温かくて、静かで、思い出しただけで胸がじんわりするような時間だった。
彼は話し上手というわけではないけれど、聞き方がうまかった。
うなずき方とか、目線の合わせ方とか、言葉の選び方――どれもが丁寧で、誠実で、私に「このままでいていい」と思わせてくれた。
そんなある日、私たちは小さな公園のベンチに座っていた。
風が心地よくて、周りには子どもの笑い声が遠くに響いていた。
私はふと、持っていたバッグから、小さなノートを取り出した。
(……見せてみようかな)
それは、私が日々書き溜めていた詩のノートだった。
誰にも見せたことのない、SNSにも載せていない、完全に“自分だけの言葉”たち。
いつか誰かに読んでほしい――でも、怖い。
笑われたら、バカにされたら、冷たい目で「意味わかんない」って言われたら……。
だけど、その日、私はそっと言った。
「……あのね、ちょっとだけ、見てほしいものがあるんです」
彼は驚いたように目を丸くして、すぐに頷いた。
「もちろん。……空色さんの、言葉ですか?」
「うん。あの、SNSに載せてないやつ。……誰にも見せてないの」
(言ってから、心臓が変な音を立てた)
でも彼は、そっとノートを受け取ると、まるで宝物を触るような手つきで、ゆっくりとページをめくっていった。
一枚一枚、言葉に向き合ってくれた
風がノートのページをめくりそうになるたび、彼は手でそっと押さえた。
字がにじんでいるところを見て、笑わずに、じっと目をとめてくれた。
「……すごく、深いですね」
「……ほんとに、そう思う?」
「はい。読むたびに、胸の中に“あるある”って感じが、ふっとわいてくるんです。
なんていうか、“誰かの気持ち”ってより、“僕の気持ち”として読めるというか……」
(え、そんなふうに、言ってくれるの……?)
私は、驚きで言葉が出なかった。
「この詩とか、すごく好きです」
彼が指さしたのは、こんな短い一節だった。
“強がるって、
いつも心が震えてる証拠なのに
それに気づく人は、少ない。”
「……これ、誰かに言われたかった言葉でした」
彼がそう言って、ほんの少し、目を伏せた。
(……読んでくれてる。ちゃんと、心で読んでくれてる)
嬉しかった。もう、それは“泣きたい”を超えていた。
「ありがとう。なんか、すごく……うれしい」
「こちらこそ。こんなに心を込めて書いたものを、見せてくれてありがとうございます」
彼の声が、深くてやさしかった。
その一言だけで、数年間、自分の言葉を出すのが怖かった日々が報われた気がした。
「あなたの言葉は、人を救ってる」
「空色さんの言葉は、いつもそうなんです」
「……え?」
「ふわっとしてるようで、芯があって。
柔らかくて、でもしっかり心に刺さってきて。
きっと、誰かが一人で泣いてるときに届いたら……その人、救われると思う」
(……ああ、もうだめだ)
その瞬間、私は目の前がぼやけるのを止められなかった。
涙が溢れた。声も出さずに、ただぽろぽろと落ちていく。
「……どうして、そんなに……やさしいの?」
「優しくなんて、できてないですよ。でも、
空色さんの言葉を読んでたら、自然とそうしたくなるんです。
あなたが、きっと、誰よりも“誰かの心”に丁寧だから」
私の両手が、小刻みに震えていた。
でも、その手をそっと握ってくれた彼の手は、あたたかくて、確かだった。
「……私、こんなふうに、言ってもらえたの、はじめて」
「僕も、誰かの言葉にこんなに心を動かされたの、はじめてです」
ふたりの間に、風が吹いた。
ノートのページが一枚、ひらりと風にめくられる。
その音が、まるで小さな拍手のように聞こえた。
(ああ、この人に出会えて、ほんとうによかった)
言葉を見せるって、心の一番柔らかいところを見せること。
それを、こんなふうに大切に受け取ってくれる人が、現実にいるなんて。
私は、もう一度深く息を吸って、はっきりと言った。
「また、書いてきてもいい……?」
「もちろんです。……僕は、ずっと、読みたいです」
そのやりとりだけで、世界が少し違って見えた。
夕方の空は、やさしいオレンジ色だった。
まるで、誰かが「そのままで、いいんだよ」と言ってくれているように。
「大切にしたい人ができた」
「会いたい」が、自然に湧いてくるようになった
季節が少しずつ移り変わっていく頃、私たちの関係も、ゆるやかに深まっていった。
会うたびに、「話したいこと」が増えていた。
そして、不思議と「話さなくても安心できる」時間も、どんどん長くなっていった。
「じゃあ、また来月くらいに」
そう約束して別れたあとでも、帰り道にふと思ってしまう。
(……明日も、会えたらいいのに)
以前の私なら、「誰かに会いたい」と思うこと自体が怖かった。
期待するぶんだけ、傷つく。
連絡が来なかったら落ち込んで、勝手に「私は嫌われたんだ」って決めつけていた。
でも、彼は違った。
LINEの返信は必ず丁寧で、遅れるときは必ず理由を添えてくれた。
私の言葉に、毎回きちんとリアクションがあって、既読スルーで不安にさせるようなこともなかった。
彼の優しさは、誇張されていなかった。
ただ、自然で、当たり前のように、私を大切にしてくれた。
その積み重ねが、私の心の奥に、あたたかい“信頼”を育てていた。
(この人なら……この人となら)
気づけば、そんな思いが日に日に強くなっていた。
カフェの会話で出た、一つの言葉
その日も、いつものように落ち着いたカフェで、ふたり並んで本を読んでいた。
私は詩集を。彼は小説を。
しばらく無言で過ごしたあと、ふと彼がカップを置き、私を見て言った。
「……空色さんは、将来どうなりたいと思いますか?」
「え?」
「いや、急にごめんなさい。なんとなく……聞きたくなって」
私はしばらく黙ったあと、こう答えた。
「……穏やかで、静かな場所で、好きなことをして暮らしていたい」
「どんな好きなこと?」
「詩を書いたり、写真を撮ったり……小さな作品集とか、作ってみたいなって」
そう言ってから、少し恥ずかしくなった。
(……子どもみたいな夢、って思われたらどうしよう)
けれど彼は、目を細めて微笑んだ。
「すごく素敵な夢ですね。……なんか、空色さんらしい」
「……ほんとに、そう思う?」
「思います。
もしそれが実現したら……きっと、僕も読んでると思う」
(……うれしい)
それだけじゃなくて、胸の奥に何かがじわっと広がる。
(この人のそばで、その夢を見られたら……)
そう思ってしまった自分に、驚いた。
そして、その日。
彼が、いつになく真剣な表情で、こんなふうに言った。
「空色さん。……僕、大切にしたい人ができました」
心臓が、どくんと跳ねた。
彼は、私を見つめて、ゆっくりと言葉を続けた。
「それが、あなたです。
あなたの言葉や表情や、静かなやさしさが、
気づいたら、僕の中で、すごく大きな存在になっていました」
私は、言葉が出なかった。
ただ、顔が熱くなって、手のひらが震えて、視界がぼやけて。
だけど、確かにその言葉は、私の胸のいちばん深い場所に届いていた。
「……わたしも、あなたがいてくれて、ほんとうに、救われてきました」
「ありがとうございます。
だから……今はまだ、付き合うとか、急がなくていい。
でも、いつかあなたにとって、“一緒にいてもいい人”になりたいって、思ってます」
その誠実さに、私はただ、うなずくことしかできなかった。
その夜、初めて日記に「好き」と書いた
家に帰ってから、私はノートを開いた。
今まで誰にも見せなかった日記帳。
その1ページに、こう書いた。
今日、私の人生が少し変わった気がする。
“大切にしたい”って、誰かに言ってもらえた。
あんな優しい顔で、まっすぐ言ってくれる人が、この世界にいるなんて。私も、ちゃんと“好き”になっていたんだと思う。
うまく言えないけど――
あの人といると、自分を嫌いじゃなくて済む。
涙がぽたりと、文字の上に落ちた。
でも、それは悲しさじゃなくて、嬉しさの涙だった。
(私も、大切にしたい。あの人の時間も、言葉も、笑顔も)
恋って、こんなふうに芽生えるんだ。
誰かを“好き”になることが、
“自分を好きになれるようにしてくれる”ことだなんて。
私は、その夜、しっかり毛布をかけて、深く深く眠った。
スマホ越しではなく、隣で「好き」と言ってくれた
ずっと、触れたくて触れられなかった言葉
それは、少し肌寒い春の終わりだった。
淡いピンクの花がまだかすかに残っていて、でも空気にはどこか初夏の匂いが混ざっている、そんな季節。
私たちは、その日、静かな川沿いの遊歩道を歩いていた。
少し前までは「並んで歩く」こと自体が緊張だったのに、今では肩がふと触れても、自然に笑い合えるようになっていた。
「……今日は、風が気持ちいいね」
「ですね。空色さんの好きな“静かな日”って感じがします」
「うん。今日みたいな空を見ると、なんだか、“大丈夫”って思える」
ふたりで並んで、黙って空を見上げた。
雲はゆっくり流れていて、それがまるで“ふたりの時間”そのもののようだった。
なにも起こらないけれど、確かに続いている、穏やかな流れ。
その中で私は、ふと問いかけた。
「……あのさ。わたしたちって、今……どういう関係なんだろうね」
自分でもびっくりするくらい、率直だった。
彼は驚いたように私を見たあと、少しだけ笑って、言った。
「それ、実は……僕も、ちゃんと話したかったことです」
そして彼は、ベンチに腰掛けるように促した。
私は彼の隣に座り、心臓の鼓動が徐々に速くなるのを感じながら、手を膝の上でぎゅっと握った。
「言葉でちゃんと伝えたいんです」
「空色さんは、
僕にとって、ただ優しい人とか、ただ話しやすい人じゃなくて……」
彼の声は、風にまぎれないように、ゆっくりと落ち着いていた。
「一緒にいると、ちゃんと呼吸ができる人。
何も飾らずに、自分でいていいって思える人です」
「……うん」
(わたしも、あなたの隣にいると、自分を嫌わずにいられる)
彼は、ほんの少し躊躇してから、まっすぐに私の目を見て、言った。
「好きです。空色さんが、好きです」
その瞬間、空がぱあっと開けたように感じた。
季節の風が頬をなでていく中で、彼のその声だけが、胸の中に鮮やかに響いた。
私は、すぐに返事ができなかった。
だって、長いあいだ、誰かに“好き”なんて言われたことがなかった。
そんな日が、私の人生に来るなんて、思ってなかった。
でも、逃げたくはなかった。
「……ありがとう。
わたしも、あなたと出会ってから、少しずつ、自分のことを信じられるようになった。
それって、たぶん――あなたが、わたしを好きになってくれたからだと思う」
「……うん」
彼が、静かに頷く。
「だから……わたしも、好きです。あなたが、好きです」
涙が出そうだったけど、ぐっとこらえた。
この瞬間を、きちんと目に焼き付けておきたかった。
(スマホ越しじゃなくて、ちゃんと“この距離”で言えた)
彼が、そっと手を差し出してくれた。
私はその手を、少し震えながら握った。
あたたかくて、しっかりしていて、
それは、言葉以上にまっすぐに、私の心に届いた。
名前じゃない、心でつながる関係
その帰り道、私たちはずっと手をつないで歩いた。
言葉はあまり交わさなかった。
でも、それでよかった。
風の音、川のせせらぎ、彼の歩幅と、手のぬくもり。
それが、全部“会話”だった。
SNSで出会って、匿名のまま始まったふたり。
本名を知らなくても、顔も知らないままでも、
こんなふうに心は重なるんだ、と知った。
そしていま――
画面の向こうじゃなくて、現実の景色の中で、
私はこの人と、ちゃんと向き合って生きている。
「次は、空色さんの好きな写真スポット、教えてください」
「……うん。
あなたと行きたい場所、たくさんあるんだ」
彼は笑って、強く手を握り返してくれた。
その感触は、これからの私を、ずっと支えてくれる気がした。
おわりに
「自己肯定感が低い私が、SNSでつながった彼と心を通わせた記録」
この物語は、静かに孤独を生きていた“わたし”が、
画面越しの言葉から、現実の温もりを知っていく過程を描いたものでした。
誰にも見えない場所で芽吹くやさしさ。
誰にも言えなかった本音に、そっと寄り添ってくれる誰かの存在。
それは、私にとって“恋”であると同時に、“救い”そのものでした。
これを読んでくださったあなたが、
もし誰かの言葉に救われた記憶を持っていたなら、
きっと、もうすでに“つながり”の中にいるのかもしれません。
ここまで、お付き合いくださり本当にありがとうございました。

