「農業体験に来た都会の女」|2ちゃん馴れ初め風エピソードまとめ【田舎感動系】

この馴れ初め話は著作権フリーで改変も自由・YouTubeの素材やSNSでご使用いただいても問題はありません。ただ以下のリンクを張っていただけたら幸いです。
はっくなび

なんでこんな田舎に来たんだろ

登場人物紹介:今の俺と、この町について

俺は農業を始めて10年目になる。30代に入って久しいが、人付き合いはどうにも苦手で、正直なところ、この町の空と土、そしてネット以外と会話らしい会話をする機会はほとんどない。

朝は4時半に起き、まずは天気を確認する。スマホを開いても、通知は農業アプリばかり。ニュースも天気予報も、見るのは地域設定した範囲のみ。SNSはやらない。誰とも繋がりたくないからだ。掲示板文化で育ったせいか、誰かに「どうでもいい自分の写真を見てほしい」と思ったことは一度もない。

この町は山と川に囲まれた盆地にある。春は霧が立ちこめ、夏は虫がうるさい。秋は黄金色の稲穂が風に揺れ、冬はしんと静まり返る。そんな季節の変化を、十年、ひとりで味わってきた。

俺の作る野菜は、町の直売所でそこそこ売れている。都会からの注文もちらほらある。だけど、人前で「うまいですね」と言われても、どう返したらいいかわからない。褒められても、なぜか胸がざわつく。そんな自分が面倒で、必要最低限しか人と話さないようになった。

俺の名前はここでは書かない。どうせこの物語では、俺はずっと「俺」のままだ。それでいいと思っている。

役場の人間:おせっかい杉本と、ツアーの話

町役場には、杉本という男がいる。50代半ば、やたら声がでかくて、地元でも「おせっかいジジイ」で通っている。だが、悪い人間ではない。むしろ、口は悪いが面倒見はいい方だ。

この杉本、最近は「農業体験ツアー」なるものにご執心で、都会の若者を田舎に呼び寄せる企画に夢中だ。

「〇〇(俺)、また人手欲しいって言ってたろ? いい子が来るぞ、今週末!」

俺は無言で鍬を止めた。朝露がまだ残る土をならしていた手を止め、杉本の顔を見る。

「またかよ。前のやつ、朝から『虫が出た!』って騒いで、昼前に帰ったじゃないですか」

「いや、今回はちょっと違うんだって。OLさんらしいけど、えらく疲れてる感じでな。なんというか、お前と似てる」

「俺、そんなに疲れて見えるか?」

「いや、根っこがな。あの子、たぶんこういう田舎の土とか水に飢えてる顔してたんだよ。見るからに、現代の都会疲れってやつ」

俺は返事をせず、また鍬を握った。土の感触の方が、杉本の声よりずっと落ち着く。

「ま、会ってみればわかるさ。ほんとに良い子なら…どうだ? 嫁にでも…な?」

冗談めかして言う杉本に、俺は一切笑わず、ただ一言だけ返した。

「やめてください。迷惑です」

農業体験当日:彼女がやってきた

土曜日の朝、町の役場前に小さなバスが停まった。定員10人も乗ればいっぱいになるマイクロバスに、若者たちが乗っていた。

スーツケースは高級ブランドのものばかり。足元は真新しいスニーカーか、ファッション性だけのブーツ。見た目からして「農業体験」ではなく「映えスポット巡り」感がにじみ出ていた。

中に、一人だけ違う空気を纏った女がいた。

髪はやや乱れ、化粧も薄い。肩にかけたバッグは高そうなのに、手元には絆創膏が三箇所。目の下にはくっきりとクマがあり、背筋を伸ばして立っているのに、どこか「疲れた」という文字がにじみ出ていた。

それが、あとに俺の人生を変える「嫁子」だった。

杉本が後ろから小声で言った。

「おい、あの子だよ。たぶん合うぞ、お前と」

「俺、人間と“合う”っていう概念に向いてません」

「バカ、お前はな、話せば悪くないんだって。会話の仕方が悪いだけで」

そう言われても、俺にはわからなかった。だから何も言わず、荷台の軽トラに向かった。

「〇〇さん、でしたっけ?」

背後から声がかかった。柔らかく、でも芯のある声。

振り返ると、さっきの女――嫁子がいた。スーツケースを引きながら、俺の方をまっすぐ見ていた。

「今日からお世話になります。…あの、こっちでの農業体験、初めてなんですけど」

「……靴、汚れても大丈夫ですか?」

俺はそう聞いた。挨拶もなく、ぶっきらぼうに。でも、それが精一杯の「警告」だった。

嫁子は少し驚いた顔をした後、すぐにふっと笑った。

「大丈夫です。というか…汚れたいかもしれません。ちょっと、都会のきれいなものに、疲れちゃってて」

その言葉は、妙に心に引っかかった。

俺は荷台にスコップと軍手を積みながら、初めて相手に興味を持った。

「そっか。じゃあ、山道走りますんで、揺れますよ。捕まっててください」

そう言って軽トラに乗り込むと、嫁子も無言で助手席に乗った。窓の外には、まだ朝靄が残っていて、山の稜線がぼんやりと白く霞んでいた。

彼女は窓の外を見ながら、ぽつりとつぶやいた。

「…なんか、懐かしい匂いがしますね。こういう空気、何年ぶりだろう」

俺は、何も返さなかった。

けれど、不思議と気まずくはなかった。


なんで黙ってるの? でも落ち着くね

畑に到着:無言の車中と朝の霧

軽トラは、山のくねった道を15分ほど走って、俺の畑の手前で止まった。助手席の嫁子は、何も言わずに車窓の外を見つめ続けていた。

途中、道路脇をカモシカが横切ったり、霧の切れ間から棚田が覗いたりもしたけど、特別な反応はない。ただ、目を細めて、何かを探しているような顔をしていた。

「……ここです」

俺が言うと、嫁子は軽くうなずいた。そしてゆっくりとドアを開けて降りた。

土のにおい、濡れた草の匂い、少し肌寒い朝の空気。

彼女は目を閉じて深く息を吸い込んだ。

「うわ…本当に、空気が違うんですね。肺がびっくりしてます」

「すぐ慣れます。朝露もあるんで、足元は気をつけてください」

田んぼと畑に挟まれた細道を、俺が先に歩き、嫁子はその後ろを静かについてきた。スニーカーの裏にはすぐに泥がつき、何度かよろけたけど、文句は一切言わない。

他の参加者が「虫がいる!」「暑い!」「ぬかるむ!」と、口を開けば愚痴ばかりだった中で、この沈黙は異質だった。

それでいて、息苦しくなかった。

畑に着くと、朝の仕事をそのまま再開した。トマトの枝の支柱を直し、芽欠きをして、地面に落ちた葉を拾う。俺は一言もしゃべらずに作業に没頭した。

だが、気づくと隣に嫁子がしゃがんで、俺の動きをじっと見ていた。

「この枝、どうして切っちゃうんですか?」

「下葉を残すと風通しが悪くなるんで。病気になるから」

「へぇ……ちゃんと理由があるんですね。なんとなくじゃないんだ」

「全部そうですよ。全部理由がないと、作物は育ちません」

彼女は、うんうんと頷いたあと、切られた枝を手に取り、静かに観察していた。茎の断面、葉の形、触った感触。

「この“疲れた”みたいな匂い、嫌いじゃないな……」

俺は手を止め、少しだけ驚いた。

この“疲れた”みたいな匂い。それは、多くの都会人が「臭い」と切り捨てる言葉だった。

だが、彼女は違った。

「この辺に、しゃがんでると落ち着く。都会だとしゃがむ場所もないんで」

「……確かに、コンビニ前でしゃがんだら怒られそうですね」

「ふふ。やってみたくなりますね、逆に」

そう言って、彼女は畝の間に膝をついた。手を土に当て、まるでその下に眠っているものを感じようとしているかのようだった。

俺は、その姿を見ていた。

この人は、本当に、何かを探しに来たのかもしれない――そう思った。

昼休み:簡易ベンチとおにぎり

昼になると、俺は納屋の前にある簡易ベンチに腰を下ろした。嫁子にも座るように勧めると、少し躊躇いながらも横に座った。

「お弁当、持ってきました。一応、マニュアルに書いてあったんで」

そう言って出してきたのは、コンビニで買ったおにぎりが2個。だが、表面のフィルムには、小さなシールが貼られていた。「梅干し→」「鮭←」と、手書きの矢印が。

「それ、自分で貼ったんですか?」

「はい。いつもどっちがどっちかわからなくて、失敗するのが嫌なんですよ」

「……わかります」

俺の昼飯は、昨晩炊いた玄米で握った味噌おにぎりと、切り干し大根の煮物。嫁子はそれを見て「わぁ、手作り…」と目を丸くした。

「料理、されるんですね」

「一人暮らしなんで。買うより安いし、畑の野菜も余るんで」

「すごいな……東京だと、家にキッチンはあるのに、ほとんど使ったことなくて」

「俺は、料理してない方が落ち着かないです」

会話は少ないけれど、不思議と続いた。言葉が必要最小限で済む。どちらかが沈黙しても、すぐに間を埋めようとしない。

嫁子は、静かな人だった。でも、心の奥では何かが沸騰しているような熱があった。

そしてその熱は、俺の胸の中に、ゆっくりと沁みこんでくるようだった。

午後の作業:無言のまま、隣にいること

午後は、ニンジンの間引きと収穫。地面に膝をついて、葉を引き抜きながら、形のいいものだけを選り分けていく。

その作業を、嫁子も手伝ってくれた。

はじめは手つきがぎこちなかったが、次第に慣れてきたようで、二人で並んで収穫するペースが揃ってきた。

「この子、足が曲がってますね」

「それはダメです。出荷できない。捨てるか、家で食べる用です」

「じゃあこれ…私が引っこ抜いた記念に、もらってもいいですか?」

「どうぞ。曲がってても味は一緒なんで」

彼女は嬉しそうに、そのニンジンをエコバッグに入れた。曲がって、少し土のついた、まっすぐじゃないけど、どこか愛嬌のある形。

「私も、こういうのが好きかもしれません」

その言葉に、俺は少しだけ笑った。けど、彼女は気づいていなかったようだ。

日が傾きかけた頃、俺たちはようやく道具を納屋に戻し終えた。手は土で真っ黒、靴も膝も泥だらけ。でも嫁子は、一度も文句を言わなかった。

手を洗いながら、ふと彼女がぽつりと言った。

「……なんか、無言でも大丈夫な人って、初めてかもしれません」

俺は、言葉を探したが、何も出てこなかった。代わりに、小さくうなずいた。

そしてその沈黙を、彼女も受け取ってくれたようだった。


疲れてるけど、こういう疲れなら嫌じゃない

夕方、沈む太陽と落ちる音

午後5時を回る頃、畑は一気に静けさを増す。山に日が落ちるのは早い。夕陽は背後の杉林に隠れはじめ、土の色も影の濃淡で変わっていく。

収穫したニンジンとトマト、間引いた葉ものをトレイにまとめて軽トラに積む頃には、体の節々に重みが染みてくる。

嫁子も、さすがに疲れたのか、小さく息をつきながら水を飲んでいた。泥が跳ねたTシャツ、ひざには乾いた泥、腕には日焼けの跡。朝の都会的な姿は、もう影も形もなかった。

「今日はありがとうございました。明日もまた、お邪魔してもいいですか?」

俺は、一瞬何を言えばいいのか迷った。普通は「体験」って、一日で十分疲れて、もういいって顔をする。それが当然だった。

「……好きにすれば」

そう答えるのが精いっぱいだった。

でも、嫁子はそれでも微笑んでくれた。歯を見せない、遠慮がちな笑顔。けれど、どこか安心したような顔だった。

軽トラに乗り込み、役場まで送りながら、俺はチラリと助手席を見た。彼女はまっすぐ前を見ていたが、さっきより頬の力が抜けていた。

「どうですか、疲れました?」

「疲れましたけど……嫌な疲れじゃないですね。都会でずっと感じてたのと、まったく違う」

「どう違うんですか?」

「……向こうでは、朝から晩までスマホ見て、メールに追われて、予定に追われて。それでも“何もしてない気がする”んです」

「無駄になる疲れ、って感じですか」

「そう、それ。こっちは……あんなに動いたのに、“ちゃんと今日、生きた”って感じがして」

俺はその言葉に、ちょっとだけ救われた気がした。

この場所が、誰かにとって「救い」になるかもしれない。そう思ったのは、初めてだった。

杉本の茶々:またお前に押しつけて悪かったな?

役場に戻ると、杉本が待ち構えていた。ニヤニヤした顔で、俺たちが降りてくるのを見ていた。

「おう、どうだった〇〇。もう嫁子さんに惚れたか?」

「やめてください。俺はそういうの、向いてません」

「向いてない奴ほど、案外そういう縁が来たりするもんだぞ?」

俺は返事をしなかった。けれど、嫁子が後ろからくすっと笑うのが聞こえた。

「……冗談ですよ」と、杉本が手を挙げて引っ込んでいく。

嫁子はそのあと、杉本を見送った後に、俺の方を向いた。

「でも、杉本さんって、きっと本気で言ってる気がします」

「俺は、あの人の“善意”が一番怖いです」

「……ふふ、なんかわかる気がします」

二人とも笑った。小さく、短く。でも確かに、それは“笑った”という空気だった。

宿のロビーで:嫁子のひとことが刺さる

嫁子は町の小さな旅館に泊まっていた。木造二階建て、温泉なんてないけど、素泊まりで安くて静かな宿。ロビーのソファに腰かけた彼女は、チェックイン前にひと息ついていた。

俺は、そのまま帰るつもりだったが、つい足が止まってしまった。

「都会、好きですか?」

唐突に嫁子がそう聞いてきた。俺は一瞬、何のことかわからなかった。

「……別に、嫌いじゃないですけど。行く理由がないだけです」

「私は……ずっと好きだったと思ってました。ビルとか、ネオンとか、カフェとか。でも気づいたら、“全部うるさい”って思ってました」

「うるさい、ですか」

「音も、言葉も、人の目も……自分自身の思考さえも」

彼女の声には、どこか自嘲のような響きがあった。過去に、自分で気づかないうちに張り詰めていたもの。それに耐えかねてここへ来たのだと、俺にはわかる気がした。

「俺も、街に行くと同じこと感じます。頭の中まで騒がしくなる。だからここにいるんです」

「……似てますね、私たち」

俺はその言葉に、少し戸惑った。でも否定はしなかった。

「また、明日も来てもいいですか?」

「どうぞ。朝は6時半から作業です」

「じゃあ、朝ごはん前に行きます」

彼女は立ち上がり、深く頭を下げた。まるで、ただの挨拶じゃなく、「ここに来させてくれてありがとう」とでも言うような、そんな礼だった。

俺は軽く会釈して、宿を後にした。

夜道を歩きながら、珍しく空を見上げた。雲の切れ間から星が見えた。

この町の星空なんて、何百回も見てるはずなのに。

その晩の星は、妙に澄んで見えた。


ネット詳しいんですね。2ちゃんって…今もあるんですか?

朝焼けの畑:無言で始まり、ゆっくり目が合う

次の日も、俺はいつも通り4時半に目を覚ました。空が明るくなる前に、湯を沸かし、簡単な味噌汁とおにぎりを用意して、少しずつ朝の準備を進める。

日課の一つである、畑の見回りをしていると、6時20分。まだ朝霧が残る中、遠くから足音が聞こえた。

振り返ると、昨日と同じTシャツ姿に、今度は泥汚れ対策を少し施した嫁子が立っていた。リュックサックのポケットには軍手。スニーカーはすでに泥の色が染み込んでいた。

「おはようございます。もう始めてるんですね」

「……こっちはいつも通りなんで」

「いいですね、“いつも通り”があるって」

その言葉に、俺は小さくうなずくだけにとどめた。

今朝は、畑の隅にあるナスの手入れと、ミニトマトの棚修正が作業内容だ。作業を説明する間、嫁子は頷きながらも、口元を少し緩めていた。

「わたし、昔から不器用なんですけど、何かを“まっすぐ支える”作業って、少し好きかもです」

トマトの棚に支柱を立て、紐で茎を結んでいく。まっすぐ、真上に、重力に逆らうように。

俺はそれを聞いて、何となく彼女の言葉を繰り返した。

「……まっすぐ、支える、か。たぶん俺も、それでギリギリ生きてます」

嫁子は、チラッとこちらを見た。そして、ほんの少し笑った。

午後の休憩:ネットの話から、俺の過去へ

日差しが強くなってきた昼前、作業を切り上げて日陰に戻った。畑の一角にある、トタン屋根の下。木のパレットを重ねたベンチに腰を下ろし、水筒を渡す。

「……助かります。熱中症で倒れたら、せっかく田舎来たのに洒落にならない」

「そうですね、杉本さんが張り切って救急車呼ぶでしょう」

「ふふっ……たしかに」

少し汗を拭いた後、嫁子は自分のスマホを手に取り、画面を眺めたまま呟いた。

「ネットが遅いですね、ここ。4Gって、まだあったんだ…」

「田舎は“まだある”の宝庫です。俺は今でも2ちゃんの過去ログ読むぐらいなんで」

「え、2ちゃんって……今もあるんですか?」

「今は『5ちゃん』とか呼ばれてますけど、昔のスレとか、まとめとか、好きなんで」

「懐かしい…。大学の頃、深夜に友達と『VIP』見て笑ってました。あと、『喪女』とかも」

「……通ですね」

思わず、言葉に出ていた。

まさか、この目の前の女性が、ネットの片隅に棲むような文化に触れていたとは思わなかった。

「昔は、ネットの向こうに“誰かがいる”ってことが、ちょっと嬉しかったんですよね。顔も知らない誰かが、自分と同じような夜を過ごしてるって」

「俺も、そう思ってました。今のSNSは“誰かに見せる”のが中心で、“見えない誰かと並んでる”って感覚がないです」

「それ、すごくわかります」

その瞬間、俺たちは確かに“並んでいた”。

言葉だけでなく、感覚や記憶、孤独の種類までもが重なっていた。

ふたりだけの作業:静かで、意味のある午後

午後からは、畑の東側の区画で間引き作業。俺はニンジンや大根を植えたばかりの小さな苗を見ながら、土を指でほぐしていた。

隣で嫁子も黙々と作業している。時折、小さな虫が跳ねると、「おおっ」と驚きつつも、動じる様子はない。

「虫、平気なんですか?」

「平気ってほどじゃないですけど、もう“ここで生きてるんだな”って思えば、なんか許せます」

「……なんか、それ、深いですね」

「“共存”って、理屈じゃないんですよね。感情のほうが早く決める」

また、言葉が響いた。

この人は、会話を繋げるためじゃなく、何かをちゃんと“伝えよう”としてくれている。それが、わかる。

沈黙が続いても、何も気まずくない。むしろ、その沈黙の奥で何かが育っているような時間だった。

帰り道:「黙ってても、ここにいていいなら」

作業を終えた後、再び軽トラで嫁子を宿に送った。

助手席に乗る彼女は、作業着のまま。髪に少しだけ乾いた土がついていたが、本人は気にしていない様子だった。

「……ここ、もっと長く居ちゃダメですかね?」

「杉本さんに言えば、短期移住の制度とかあるはずです」

「そういう制度じゃなくて、なんというか、“勝手にいちゃだめかな”って」

言葉がとても真っ直ぐで、俺は咄嗟に答えられなかった。

「黙ってても、ここにいていいって思える場所が、今はここしかないんです」

その言葉の“重さ”に、俺は何も言えなかった。

ただ、うなずくことだけはできた。

宿の前で彼女が降りるとき、俺は運転席に座ったまま、ふと聞いてみた。

「明日も、来るんですか?」

「……はい。来ます。だって、話さなくても“通じる”って思ったの、たぶん初めてだから」

そう言って、彼女は静かに笑った。

その笑顔が、夕暮れの光に滲んで見えた。


夕方になると、黙って収穫。言葉はいらない

夕方の畑は、誰の声もない

数日が過ぎた。

農業体験は、もともと三泊四日のプログラムだったが、他の参加者は皆、三日目を迎える頃には顔に疲れと飽きが混ざっていた。朝の集合にも遅れがちになり、「日焼けしたくない」「Wi-Fiがない」と小言が増え、スマホばかりいじっていた。

一方、嫁子は変わらなかった。

毎朝、きちんと長袖シャツを着て、水筒を手に畑に現れた。軍手をつけ、軽く会釈し、黙って横に並んで作業を始める。

その沈黙は、最初こそ奇妙に思えたが、今はむしろ自然だった。

特に夕方、日が傾き始める時間帯は格別だった。

影が長くなり、風の音が強くなる。葉の擦れる音や、遠くで鳴く鳥の声が、どこか懐かしく響く。そんな中、二人で並んで黙々と収穫をする。

会話はない。でも、呼吸のテンポや手の動きは揃っていた。

俺が一列の大根を抜けば、嫁子は隣の列の人参を間引く。俺が収穫カゴを持ち上げると、嫁子はそれに葉物を重ねてくる。

互いに見ない。話さない。けれど、それがちょうどいい。

「この時間、好きです」

嫁子がぽつりと呟いた。

「暑さもやわらいで、静かで。なんか、自分の中も静かになれる気がして」

俺は言葉を選びながら、ゆっくりと返した。

「都会にいると、“自分”ってずっと喋り続けてる感じがしますよね。ここにいると、それがようやく黙るというか」

「……そう。それです。誰にも見られてない時間って、こんなに貴重なんだって」

沈黙を肯定できる相手。それは、今までの人生でほとんど出会わなかった。

そして、こうして並んでいるだけで、救われる気がする時間があることも、初めて知った。

作業のあと:落ちた実を拾う手の温度

その日の作業も終わり、片付けをしていた時だった。

トマト棚の下に、熟れすぎて落ちた実がいくつかあった。

俺が手を伸ばして拾おうとしたとき、嫁子も同じタイミングでしゃがんだ。

指先が、かすかに触れた。

あ、と小さく声が重なったが、どちらも言葉にはならなかった。

嫁子はトマトを拾い、掌にそっと包んで見せた。

「……こんなに赤いのに、もう商品じゃないんですね」

「熟れすぎると、運搬中に潰れるし、見た目も悪いんで」

「でも、味はきっと、一番甘いんじゃないですか?」

「……そうですね。実際、熟れすぎたやつの方が、味は濃いです」

嫁子は、それを持ち帰り用のビニール袋にそっと入れた。

「なんか……自分と似てるなって、ちょっと思いました」

「似てる?」

「見た目は悪いし、傷もあるけど、内側は甘いかもしれないって。……自信ないですけど」

俺は、返す言葉が見つからなかった。

ただ、そのトマトが、妙にきれいに見えた。太陽の光を受けて、まるで宝石のような艶を放っていた。

杉本の茶々、再び:「ほんとに住み着くかもな、あの子」

その日の夕方、直売所に出荷しに行くと、杉本がまた声をかけてきた。

「お前んとこに行ってるあのOL、なかなかやるな。朝から晩まで黙って作業してて、文句一つ言わないってさ」

「……人見知りなんじゃないですか」

「いや、俺には笑って話してくれたぞ?」

俺は何も言わずに、出荷リストに目を落とした。

杉本は、俺の肩を軽く叩いて言った。

「ほんとに住み着くかもな、あの子」

「……勝手に言っててください」

「お前さ、昔からそうだけど、少しは素直になってもバチ当たらんぞ」

「それは、杉本さんみたいな人間だけです」

「ははっ、そりゃそうだ!」

笑いながら去っていく背中を見て、俺は深く息をついた。

ふと、嫁子のあの言葉が脳裏によぎった。

——「黙ってても、ここにいていいって思える場所が、今はここしかないんです」

あの言葉は、決して軽いものじゃなかった。

小さな共同作業:夕飯の一品を一緒に

その晩、嫁子が「今日のトマト、使っていいですか?」と連絡をくれた。俺は「どうぞ」とだけ返した。

20分後、宿の小さな炊事場からLINEが来た。

「加熱しすぎたら、潰れちゃいました。でも、ソースっぽくなりました」

写真には、茶碗に盛られたトマトと玉ねぎの煮びたし。添えてあるのは、昼に収穫したばかりのピーマン。

俺は、それを見てスマホを置いた。

——そういうのを、嬉しいって思うんだな。

それが、不思議だった。

そして俺は、次の日の朝、自分の畑でとっておきのとうもろこしを採る準備をはじめていた。

「甘いよ、これは。……今日、一緒に食おうか」

口には出さなかったけれど、心の中で、そう言っていた。


東京、帰らなくてもいいかな

朝の匂いと、とうもろこしの蒸気

その日、俺は夜明けと同時にとうもろこし畑へ向かった。

この品種は「ゆめみずき」という、糖度が高く、皮も薄い自信作だった。畑の一角、他の作物と離して植えていたのは、自分の朝食用だったからだ。

今日はそれを、ふたりで食うと、昨日から決めていた。

まだ朝露が残るうちに、数本だけを選んで収穫する。根本から丁寧に折り、外皮を残したまま蒸し器に入れた。薪の火でゆっくり湯気を立てると、とうもろこしの甘い香りが空気に混ざっていった。

6時半。予定通り、嫁子が畑に現れた。

「おはようございます。……いい匂いしますね?」

「蒸してます。朝飯がわりに」

「朝から、こんな贅沢な匂いを嗅げるなんて、昨日の疲れ吹き飛びますね」

俺は一言「食いますか」と言い、蒸し器の蓋を開けた。

湯気の向こうに、黄金色の実が露わになる。まるで宝石のような粒が、縦に整列している。

「うわぁ……綺麗……」

嫁子が、自然と小さな声を漏らした。

俺は、皮ごと渡した。

「そのままむいて、かじってください」

彼女は両手で皮を剥き、ためらいがちに一口食べた。

……シャクッ。

小さな音がしたあと、目を見開き、すぐに微笑んだ。

「甘っ……なにこれ、砂糖入ってます?」

「入ってません。これが本物です」

「……やばい、東京に帰りたくなくなってきた」

それは、冗談めかしていたけど、目は笑っていなかった。

静かで、でも決意のようなものが、その声に滲んでいた。

俺は、「そうですか」とだけ返した。

けれど、その言葉の“重さ”を、はっきりと受け止めていた。

町役場へ:短期移住という選択肢

午前中の作業を終えたあと、嫁子は珍しく自分から申し出てきた。

「ちょっと、役場に寄ってもいいですか? 相談したいことがあって」

俺は軽トラを出し、黙って頷いた。

町役場は平屋の古い建物だ。昔ながらのガラス引き戸を開けると、杉本がカウンターに座っていた。

「あれ、嫁子さん、どうしたの? 〇〇に何かされたか?」

「ち、違いますってば!」

嫁子が苦笑しながら手を振る。

「……あの、ここって“短期移住”の制度、まだありますか?」

杉本は、急に真面目な顔になる。

「……あるけど、どうした? 本気で考えてんのか?」

「ちょっと、まだわかりません。でも、東京に戻るより、今のここのほうが“生きてる”って感じがしてて」

杉本は少し驚いた顔で、次に俺の顔を見た。俺は何も言わず、ただ視線を外した。

「なるほどな。じゃあ資料持ってくるわ。仮住居とか、支援金とかあるから。住民票移さなくても、3か月までなら対応できる制度だ」

「ありがとうございます」

その背筋の伸びた姿勢を見て、俺は少し、胸が締めつけられるような気持ちになった。

——本当に、この町に住むかもしれない。

いや、もう半分、決めてるんだ。

だとしたら、俺はどうする?

この沈黙に慣れた日々が、これからも続くのなら。

……悪くない。

むしろ、それを望んでしまっている自分がいた。

畑の夕暮れ:二人だけの時間に、言葉はいらない

役場から戻ったあとも、ふたりで畑に出た。

午後は豆類の手入れと雑草抜き。重労働はないが、地味で根気がいる作業だ。

沈黙が長く続いた。風の音だけが耳を通り過ぎ、葉が擦れる音が優しく響いた。

夕方、日が落ちる直前。

嫁子が、ふと立ち上がった。手に草を持ったまま、夕陽の方向を見た。

「……こんな時間、東京にはなかったな」

「……?」

「毎日がせわしなくて、太陽のことなんて気にしたことなかった。でも、ここに来てから、“日が暮れる”ってちゃんと感じるようになったんです」

俺は、草を抜く手を止めた。

「……日が沈む時間を意識できると、ちゃんと“生きてる”って実感湧くんですよね」

「そうかも」

「こんなふうに、静かで、ゆっくりで、自分で息してる感じが、久しぶりで」

そして一歩こちらに向き直った嫁子は、まっすぐ目を見て言った。

「だから、ここに残ること、決めました」

空気が止まったような気がした。

俺は、ただ小さく頷いた。

「……わかりました」

それだけしか、言えなかった。

けれど、きっとそれで良かったんだと思う。

彼女が“ここにいる”と決めたなら、もう言葉は多くいらなかった。

夜、宿からの連絡:「明日から、手伝っていいですか?」

その夜、LINEに短いメッセージが届いた。

「杉本さんから住まいの紹介を受けました。明日から、朝から晩まで、お手伝いしてもいいですか?」

俺は、即座に返信した。

「歓迎します。雨でも来ますか?」

数秒後、既読になり、すぐに返事がきた。

「はい。雨も、ここの匂いになるなら、好きです」

その言葉に、俺はスマホを置いた。

そして、静かな夜の中、風の音を聞きながら、初めてこう思った。

——ひとりで生きることが“普通”だったはずなのに、

——“ふたり”が、こんなに自然になるなんて。

その夜は、月が少しだけ明るく見えた。


春になって、嫁子が横にいるのが当たり前になった

朝が静かにやってくる、ふたりの時間

冬は短く、けれど厳しかった。畑が霜で覆われる朝は、空気が張りつめ、地面を踏む音さえも冷たく響いた。

嫁子は、その寒さのなかでも一日も休まず畑に通った。

体験ツアーを終え、正式に短期移住者として町に登録された後、古い平屋の空き家を紹介され、最低限の生活用品を揃えてそこに住みはじめた。

俺の家とは歩いて7分ほどの距離。朝6時半に門を開けると、畑の角を曲がってくる嫁子の姿が見えるのが、いつの間にか“当たり前”になっていた。

彼女は朝からしゃべらない。俺も話しかけない。

代わりに、道具の配置や苗の運搬で自然と分担ができていく。鍬を手渡すタイミング、バケツを出す位置、雑草をまとめる流れ。全部、言葉じゃなく、日々の繰り返しから編み出されていた。

その“黙っていても成り立つ関係”に、どこかほっとするような、落ち着く気持ちがあった。

春の芽吹きとともに、畑は賑やかになっていく。

新しい苗が並び、地面はほんのりと温み、空にはカエルの声が聞こえるようになる。

嫁子は、防寒着を脱ぎ捨て、軽い作業着に着替え、少しずつ日焼けを始めていた。

「日に焼けるのが怖かったはずなんですけどね」と笑って言った顔が、俺の脳裏にやけに残った。

日常という名の“ふたりの暮らし”

昼休みには、彼女が作ってくる手弁当が並ぶようになった。

最初は「食べきれなかったおかずを持ってきました」程度だったのが、今ではふたり分のごはんと味噌汁が揃っている。

「今日の味噌汁は、昨日の間引き大根です」

「副菜のきんぴら、昨日残ってたゴボウでしょ?」

「バレました?」

そんなやりとりが、日課のように交わされる。

味のことは何も言わないが、俺は毎回、最後の一粒まで食べていた。それを見て嫁子は、何も言わずに水筒のお茶をすすっていた。

昼食のあとの短い休憩時間、ふたり並んで空を仰いだ。

その沈黙の中で、季節の移ろいが風と一緒に肌を通り抜けていくのを、俺たちは確かに感じていた。

「ここの風は、優しいですね」

「……そうですか?」

「うん。東京の風は、ビルの隙間を吹き抜ける感じがして、ちょっと痛かった。でも、ここは違う。空気そのものが柔らかい」

風の柔らかさを語る女と、それを黙って聞く俺。

不思議なことに、それが自然だった。

彼女はもう、都会から来た“客”ではなかった。

すっかり“ここにいる人”になっていた。

杉本の茶々、三たび:「もう“家族”みたいなもんだな」

春のある日、俺と嫁子は直売所に出荷に行った。

彼女が手書きで作った商品ラベルは「〇〇農園」という名がつけられていたが、下に小さく「嫁子作」と添えられていた。

それを見た客が「可愛い名前ですね」と言うと、嫁子は少し照れながら「夫の…じゃなくて、“相棒”の名前です」と答えていた。

俺はそのとき、なぜか息の仕方を少し忘れた。

杉本がまたしても現れ、後ろから声をかけた。

「お前ら、もう“家族”みたいなもんだな」

「違います」

「嘘つけ。お前、彼女にだけは声のトーンが柔らかいもんな」

「……気のせいです」

「ほー。じゃあ、あの“とうもろこし事件”は? 嬉しそうに自分で蒸してたって噂聞いたぞ?」

「誰が言ってたんですか、それ」

「町内会のおばちゃん達、もう知ってるぞ。“嫁子ちゃん、ほんといい子だね”って評判だ」

嫁子は少し離れたところで野菜を並べていたが、きっと聞こえていただろう。

それでも、振り返らずに並べ続けていた。耳が、わずかに赤かった。

俺は、杉本に小声で言った。

「……あの人に余計なこと言わないでください。静かに暮らしてるんで」

「わかったわかった。……でも、そろそろ“籍”とか、考えとけよ」

「勝手に話を進めるなって言ってるでしょうが」

「おう、冗談だよ。……今は、な」

そう言って、杉本は笑いながら立ち去っていった。

俺はため息をつきながら、隣でトマトを並べていた嫁子をチラと見た。

彼女は気づかぬふりをしていたが、唇の端が、ほんの少しだけ上がっていた。

夜、平屋の家で:「ここが“帰る場所”になってた」

春の終わりごろ。

仕事を終えた夕方、俺は少しだけ遠回りして、嫁子の住む平屋の前を通った。

玄関前に、小さな鉢植えが並んでいた。ツツジ、アイビー、そして畑から持ってきたミニトマトの苗。

網戸越しに、台所から包丁の音が聞こえていた。

その音が、やけに心地よかった。

ポケットのスマホが鳴った。

「今日は夕飯、多めに炊いてしまいました。よかったら、どうぞ」

返信せずに、そのままチャイムを鳴らした。

「……いらっしゃい。ちゃんとごはんあるよ」

台所でエプロンを着けた嫁子が、振り返らずに言った。

その背中を見ながら、俺は言葉を探した。

そして、しばらくしてようやく絞り出した。

「……“ただいま”って、言っていいですか?」

嫁子は、まな板の上の包丁を置き、ゆっくりこちらを振り返った。

「……はい。“おかえりなさい”って言わせてください」

その夜、食卓には、湯気の立つ味噌汁と、炊きたてのご飯と、間引いた小松菜の煮浸しが並んでいた。

外では、カエルの声がやさしく響いていた。

そして、俺の心のなかでも、ようやく“家に帰る”音が響いていた。


俺が風邪で倒れた日、無言で横にいてくれた

春の終わり、気が緩んだころに

5月の終わり。畑の春作もいよいよ佳境で、夏野菜の苗の定植が続き、毎日が忙しかった。

連日の作業で疲れが溜まり、しかも天気は急に崩れたり、朝と昼の寒暖差も大きい。

そのせいか、ある朝、俺は布団から起き上がれなかった。

頭が熱く、喉は腫れて声が出ない。目が霞み、世界が遠く感じた。

「風邪なんて、何年ぶりだろう……」

そう呟こうとしたが、声がかすれて出なかった。

スマホを手に取り、嫁子に一言だけメッセージを送った。

「すみません、今日は休ませてください」

すぐに既読がつき、「わかりました」と返ってきた。それだけだった。

けれど、不思議と不安はなかった。

俺は、そのままもう一度布団に潜り込み、浅い眠りに落ちた。

コンコン、と小さな音がして

次に目が覚めたのは、昼を少し過ぎた頃だった。

外の光がうっすらとカーテン越しに差し込み、静かな部屋に「コンコン」と控えめなノックが響いた。

扉を開ける力もない。だが、しばらくすると、そっと玄関の戸が引かれる音がして、スリッパの足音が静かに近づいてきた。

「……すみません、勝手に入っちゃいました」

聞き慣れた、落ち着いた声。

嫁子だった。

俺は布団の中から、かすかに目を開けて彼女を見た。

「……なんで」

「朝の返信、なんだか変だったから。あと、私、なんか嫌だったんです。〇〇さんが“ひとりで倒れてる”って状況」

そう言って、彼女は台所に向かった。

しばらくして、鍋の音、包丁の音、水が沸く音が聞こえてきた。

「にんじんと玉ねぎ、冷蔵庫にあったから、お粥作ってます。梅干しも、直売所のやつ、買ってきました」

声は穏やかで、流れるように日常の延長線上だった。

その日、俺は一言も話さなかった。

けれど、嫁子はずっと隣にいた。

台所と寝室を往復し、熱を測り、濡れタオルを替え、お粥を小さな茶碗によそって差し出した。

「……熱、高いですね。でも、ちゃんと汗かいてるから、大丈夫」

そう言いながら、彼女は俺の額に手を当てた。

その手は、驚くほど冷たくて、やさしかった。

「……“帰る場所”、私が欲しかったと思ってたけど、もしかしたら〇〇さんも、そうだったのかもって」

俺は、声にならない返事をすることしかできなかった。

でも、確かに心の奥が震えていた。

暗くなる部屋、言葉のいらない時間

夕方になり、部屋の中が少しずつ暗くなった。

カーテンを閉めずにいたから、西日が障子の格子を通して淡く広がり、嫁子の横顔を照らしていた。

俺は布団に入ったまま、それをぼんやりと眺めていた。

「〇〇さんって、強い人だと思ってました。でも、たぶん違う」

「本当は、すごく繊細で、だからこそ誰にも頼らずにいたのかなって。だから……私も無理に何か言うつもりはないです」

そう言って、彼女は、ただそばにいた。

何も言わず、椅子に座り、時々水を差し出し、時々そっと笑う。

その時間が、心の中のざわつきを落ち着けていった。

俺は、ようやく一言だけ、声にならない声でつぶやいた。

「……ありがとう」

それだけ。

それで、充分だった。

朝、目覚めると空気が違っていた

次の日の朝。

まだ体は重かったが、熱は下がっていた。額に触れると、ひんやりとしたタオルが置いてあり、枕元には、夜のうちに交換された水のペットボトルが置いてあった。

隣の部屋には誰もいなかった。

けれど、炊飯器の中にあたたかい白米が残されていた。

冷蔵庫には、ゆでた卵と刻んだ大根の漬物が小さな器に入っていた。

そして、テーブルの上にはメモが一枚。

「今日も畑は大丈夫です。焦らず、ゆっくり治してください。
嫁子より」

その文字を見たとき、胸の奥がじんわりと熱くなった。

俺は誰にも“お願い”なんてしたことがなかった。

でも、初めて「誰かに頼っていい」と思えた。

そして、頼った先が彼女だったことが、なによりも救いだった。

杉本に会った日:「帰る場所って、案外人なのかもな」

数日後、熱が完全に引いた俺は、久しぶりに直売所に顔を出した。

杉本が、俺の顔を見るなり言った。

「生きてたか。あの子、心配してたぞ。毎日、“様子どう?”って聞いてきた」

「……世話になりました」

「ま、倒れて初めてわかることもあるさ。強がりってのは、ひとりでいる時は盾になるけど、人が来ると邪魔になる」

俺は、何も言い返せなかった。

杉本は、野菜の段ボールを積みながらぼそりと呟いた。

「帰る場所って、家のことかと思ってたけどな。……案外、“人”なのかもな」

そうかもしれない。

それを、俺は初めて実感として理解していた。

そして、帰る場所に“いてくれた”嫁子の存在が、今の俺を支えていた。


入籍は、ひっそりと

雨上がりの畑で、「一緒にいる理由」

六月の空は、朝から重たく灰色をしていた。

しとしとと降っていた雨がようやく上がった午後、畑の土はまだ湿っていたが、俺と嫁子はいつも通り、収穫作業をしていた。

トマトの葉に残った雨粒がきらめき、風に揺れて落ちるたび、肌にひやりと当たる。

「あ。びしょぬれです」

「……濡れてもいい服で来てるでしょ」

「まあ、たしかに。でも靴下まで染みてるのは、ちょっと切ないです」

そんな他愛のない会話すら、今では日々の風景のようだった。

黙々と、ふたり並んでトマトを摘んでいたそのとき、不意に嫁子がぽつりと呟いた。

「……ねえ、〇〇さん」

「ん?」

「なんで、結婚って“する”って言うんですかね。……“なる”じゃなくて」

俺は、その問いに少し驚いて手を止めた。

嫁子は続ける。

「この暮らしって、たぶん誰から見ても、もう“夫婦”っぽいでしょ。でも、そういう紙がないと“そうじゃない”って扱われるの、ちょっと変だなって」

「……法律がそう作ってるからじゃないですか」

「まあ、そうなんだけど」

しばらく沈黙があった。

それでも彼女は、遠くを見つめたまま、静かに言った。

「……でも、なんかこう、“してあげる”とか“もらう”とか、“手続き”じゃなくて、ただ“なる”ものだったら、もっと素直に言えたのにって思って」

俺は、その言葉を、胸の深いところで受け取った。

そして言った。

「……じゃあ、“なる”ってことにしましょうか。別に誰に言わなくても、俺とあなたがそう思ってるなら」

「うん。そう思ってくれてるなら、それだけで、いいです」

そのあと、彼女は少し照れたように笑った。

「でも、一応、紙にも書きます? お互いの老後のために」

「……それは、まあ、合理的ですね」

「ふふっ、らしい」

土の匂いが混ざった空気の中で、そんなやりとりが自然にできることが、何よりも温かかった。

杉本が言った。「黙っててもわかってた」

次の日、俺たちは町役場へ行った。

入籍のための書類は、あらかじめ嫁子が準備してくれていた。名前の欄には、丁寧な文字で俺の名前と彼女の名前が並んでいた。

証人欄には、ひとりだけ。

—— 杉本。

役場のカウンター越しに顔を見せた杉本は、俺たちが書類を差し出すと、まじまじと目を細めた。

「……ああ、ようやくか」

「何がですか」

「お前らが一緒にいたいって気持ち、最初から見えてたよ。特に言葉がなかったのが逆にね。……黙ってる方が信頼できるってあるんだな」

嫁子は笑った。

「ほんとに、おせっかいですね」

「おう、役場の人間ってのは、そういうもんだ。あとで町報に小さく載せとくか?」

「やめてください」

「冗談だよ。静かに祝うさ」

そう言って、杉本はいつもの調子で書類に印を押した。

それだけだった。

誰にも知らせず、花も指輪も式もない。
でも、それで充分だった。

ふたりでここにいることは、もうとっくに“決まっていた”ことだったから。

帰り道、「家」があった

帰り道、俺は軽トラではなく、ふたりで歩いて帰ることを選んだ。

山のふもとから家までの道、歩いて15分。田んぼのあぜ道にはカエルの声が響き、午後の光が田に反射してまぶしかった。

嫁子は、何も言わなかった。けれど、ときどき草の匂いを吸い込みながら、小さく目を閉じていた。

「……ほんとに、この空気が好きになったんです」

「そうですか」

「うん。あの頃は、都会の匂いしかしなかったから。焦げたコンクリートと排気ガスと……疲れた自分の匂い。全部、今はもう思い出せないぐらい」

俺は黙って歩いた。

風が、心地よかった。

やがて、ふたりの住む家の屋根が見えた。

嫁子が、ふと立ち止まった。

「“帰る場所”って、家のことじゃないんですね」

「……じゃあ、何ですか?」

「あなたがいるところ」

その言葉に、俺は少しだけ顔を逸らした。
でも、心の中は、穏やかに満ちていた。

その日から、俺たちは名実ともに“家族”になった。

誰に知られるでもなく、祝福されるでもなく。
でも、世界のどこかで、誰かの暮らしが確かに“結ばれる”ということは、
きっと、それだけで尊いことだと知った。

そして、今も、夕暮れには土の匂いがする

夏の畑は、ますます忙しくなってきた。

けれど、俺たちは相変わらず、朝に黙って並び、夕方に黙って収穫をする。

嫁子は、泥まみれになりながら笑い、疲れた顔で味噌汁をすすり、そして眠る。

俺は、それを見て、なんでもない日々を守ることを心から大事に思った。

田舎の畑に、都市の片隅から来た女が根を下ろし、
黙して語らず、けれど誰よりも確かに“ここにいる”。

そんな暮らしの先にある静かな愛が、確かにこの土の匂いと共に根づいていた。


完結