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はっくなび
迷子の子を拾った日
さむい風のなか、泣いていた
その日、仕事帰りの私は、駅前のロータリーで立ち止まっていた。
冬の夕方、冷たい風が吹いていた。通りすぎる人たちはコートの襟を立て、足早にホームへと向かっていく。
けれど、ひとりだけ、歩いていない子がいた。
小さなランドセルを背負った女の子。
顔を真っ赤にして、ぽろぽろと涙をこぼしている。鼻をすすって、だけど声を出すこともできないで。
「……どうしたの?」
私は声をかけながらしゃがみこんだ。(私には、こういう時、自然に声が出る。なぜだか子どもとだけは、うまく話せる)
女の子はびっくりしたように私を見上げた。でも逃げない。声も出さずに、じっと私を見てくる。
「おうちの人は?」
首を横にふる。涙が止まらない。
赤いほっぺ、冷たくなった指先、肩を震わせて立ち尽くす姿に、心が締めつけられる。
私はそっとマフラーを外して、彼女の肩にかけた。
「大丈夫。駅員さんに一緒に行こうね。きっと、すぐに会えるよ」
(子どもの不安は、大人の一言で変わる。そう思ってきた。でも、今の私は自分に言い聞かせていたのかもしれない)
彼女はようやく、小さく頷いた。
「ありがとう」と、あの人は言った
駅員さんに引き渡すと、そのまま警察に連絡されるとのことだった。私は一安心して、改札の方へ歩き始めた。
……でも、その数分後だった。
「すみません!」
少しだけ息を切らせて、男性が私の前に駆け寄ってきた。
「この子に……マフラー、貸してくれたの、あなたですか?」
彼は彼女の父親だった。黒いスーツに皺が入っていて、息も整っていない。相当、探し回っていたのだろう。
私は思わず「はい」と答えた。彼は深く頭を下げた。
「本当に……ありがとうございました。仕事が長引いてしまって……。目を離した隙に、娘が駅に向かってて……」
(ああ、この人、余裕がないんだ。でも、ちゃんと“感謝の言葉”は持っている)
そのとき、女の子が彼の手をぎゅっと握った。そして小さな声で言った。
「パパ、このひと、やさしかった」
「……そうか」
男性は一瞬だけ、私の方を見て、静かに笑った。
疲れているけど、どこか人懐っこいような、不器用なような、そんな笑顔だった。
「じゃあ、失礼します」
そのあと、私たちは名前も知らないまま、軽く会釈をして別れた。
マフラーは彼の手にあったが、それを返してもらおうとも思わなかった。
彼が娘を抱きしめるその腕の中に、私のマフラーが巻かれていたから。
(なんでだろう。もう、会うことはないってわかってるのに……)
けれど、私は知らなかった。
この日が、私の39年間の人生を、大きく変えていく始まりだったことを。
パパ、やさしいひとだよ
ふたたび、出会った場所
その日は、日曜日だった。
私はひとり、スーパーのレジに並んでいた。買いだめのつもりでいろいろ詰め込んだカゴが、重たく肩にのしかかっていた。
(今週も、誰とも話さずに終わりそう……)
そんなことを思いながら、セルフレジの画面を眺めていると――視界の端に、見覚えのある小さな後ろ姿が入ってきた。
ピンクのジャンパーに、つぎはぎのついた小さなリュック。
あのとき、駅前で泣いていた女の子。
「……あれ?」
思わず声が漏れてしまう。
彼女がくるりとこちらを見て、目を大きく見開いた。
「やさしいひと!」
(……びっくりした)
彼女は、スーパーの真ん中で、嬉しそうに手を振っていた。大声じゃないけど、はっきりとした声で。
その後ろから、買い物袋を提げた男性がやってくる。
やっぱり、あのときの――彼、だった。
彼も、こちらに気づいたようで、少し驚いた顔をしたあと、気まずそうに笑った。
「……あ、どうも。あのときは……本当に、ありがとうございました」
「いえ……こちらこそ、無事でよかったです」
(緊張した。こんなに偶然また会うなんて思わなかったから)
だけど、彼の隣で女の子が私の手を握った。小さな手が、私のコートの袖をきゅっと引っ張ってくる。
「また、あえたね」
その声が、まっすぐすぎて、私は言葉を失ってしまった。
まるで、当たり前のように言うんだ。そう――“また会えた”ことが、約束されてたみたいに。
名前を知らないのに
「近くにお住まいなんですか?」
彼が聞いてきた。私は軽くうなずいた。
「ええ、駅の裏のほうに……古いアパートなんですけど」
「あ、じゃあうちもわりと近いかもしれないです」
「そうなんですか」
(そうだったんだ。じゃあ、また会うかもしれない)
彼は、娘さんの頭を軽くなでた。
「こっちは娘です。……あ、俺、まだ自己紹介してませんでしたね」
(あ……そっか。名前、知らなかったんだ)
私は急に恥ずかしくなった。あんなに心配して、あんなに気持ちを動かされたのに、名前すら知らないなんて。
「私、〇〇って言います。福祉の施設で働いてます」
「福祉施設……すごいですね」
「そんな、全然……裏方なので」
彼は穏やかにうなずいた。
「俺は……会社員です。ちょっと事務寄りの仕事なんですけど。子どもができてからは定時ダッシュです」
娘さんは得意げに言った。
「パパ、まいにちつくってくれるの。ごはん」
「ちょっと変な味でも我慢してくれてるけどな」
彼は照れくさそうに笑った。
まっすぐな目が、刺さる
スーパーの店内の一角で、立ち話が続いた。
彼の話し方は、どこかぎこちない。だけど、娘への目線はやさしくて、誠実で――なにより、嘘がない。
「じゃあ、また……」
そう言って別れようとした時、娘さんが唐突に言った。
「ねえ、またいっしょにあそぼうよ」
彼があわてて「こら」と言う前に、私はつい笑ってしまった。
(……不思議だな。この子の言葉は、どれも刺さらない。あたたかくて、うれしい)
「そうだね。今度、またどこかで会えたら」
私はそう答えた。でも、彼女はきっぱりと言った。
「“またどこか”じゃないよ。“また”って、きめてあそぶの」
彼は深くため息をついて、「娘の強引なお願いで……すみません」と頭を下げた。
だけど、私のほうが、むしろ助けられていた。
(どうしてだろう……この子の言葉、まっすぐすぎて……泣きそうになる)
偶然が続く日々
ふたりによく会うようになった
それから――私たちは、よく出会うようになった。
決まっているわけではないのに、道の角で、駅の改札で、スーパーの棚越しに。
数日に一度、顔を合わせる。それも、娘さんがいるときばかりだった。
「ねえ、またいたよ、やさしいひと!」
(また……)
初めのうちは偶然だと思っていた。でも、何度も続くと、自然と「また今日もいるかも」と思ってしまう。
それが期待なのか、不安なのか、自分でもわからなかった。
私は福祉施設で働いている。朝は早く、帰りもまちまち。
ほとんど外を歩かず、決まった道だけを選んで暮らしていた。
だけど、ある日ふと気づいた。
(私……最近、違う道を通ってる)
たぶん、彼らに会えそうな道を、無意識に選んでいたのだと思う。
自分から誰かに会いたいと思ったのは――記憶にないくらい、久しぶりだった。
すこしずつ近づいていく
「こんにちはー!」
公園のベンチで休んでいたとき、後ろから声がした。振り向けば、娘さんと、彼がいた。
「こんにちは。あの、また……偶然ですね」
「……偶然っていうには、ちょっと多い気もしますけどね」
彼は苦笑しながら言った。その表情が、どこか照れていて、私も笑ってしまう。
「娘がですね……“やさしいひと”に会える公園って言って、毎週ここに来たがるんです」
「そうなんですか?」
「……たぶん、本人は偶然だと思ってない」
娘さんは、近くのブランコに走っていった。冬の風の中でも元気に跳ね回る姿を見ながら、私たちは並んでベンチに座った。
静かな時間だった。けれど、不思議と心地よかった。
「俺、誰かとこうやって並んで座るの、久しぶりです」
「そうですか……」
「職場と、家の往復で。娘が寝てから洗濯とか掃除して、気がついたら自分が寝落ちしてる」
(ああ、この人、すごく頑張ってる)
彼の話は飾り気がない。だけど、そのぶん、ひとつひとつが染み込んでくる。
“ありがとう”がたくさん言える人
「……一人で育ててきたんですか?」
「はい。元妻が離れたのが娘が1歳の頃で……。最初の1年は、もう、何もかもがぐちゃぐちゃで」
彼は笑った。でもその笑いには、疲れと、寂しさと、それでも前を向こうとする強さがあった。
「でも、この子がね、すごいんですよ。言葉覚えるの早くて、どんどん助けてくれて」
「娘さん、ほんとに明るくて、まっすぐですね」
「人を見る力は、俺よりずっとありますよ」
(……そうかもしれない。私のことも、“やさしいひと”って、彼女が言ってくれた)
「……でも、俺、感謝しきれないですね。周りに助けてもらってばっかりで。保育園の先生にも、ご近所の方にも……あなたにも」
そう言って、彼は真っ直ぐこちらを見た。
その目が、なんだかまぶしくて――私は目をそらしてしまった。
(やめて。そんなふうに見られると、泣きそうになる)
誰かに“感謝される”って、こんなに心が温かくなるものだっただろうか。
「また、会いましょうか」
ブランコから戻ってきた娘さんが言った。
「こんど、いっしょにピクニックしようよ!」
彼は「またか……」と苦笑したあと、私の顔をうかがった。
「……迷惑じゃなければ、またここで会えませんか。今度は、お弁当持ってきますんで」
私は、一瞬だけ躊躇した。でも、うなずいていた。
「……はい。私も、おにぎりくらいなら」
娘さんが飛び上がって喜んだ。
「やったー!じゃあ、やくそくだよ!」
小さな手が、私の手をぎゅっと握った。
(この子は、ほんとうにまっすぐだ)
私の心の中に、ずっと蓋をしていたものが、少しずつ開いていく音がした。
娘との距離
はじめての、三人ピクニック
その日は、ひさしぶりに雲ひとつない晴天だった。
公園の芝生には家族連れがたくさんいて、シートを広げて笑い声が飛び交っていた。
(こんなにたくさんの人の中で、私は何年ぶりに“家族”の形の中に入るんだろう)
私が着いたとき、すでに彼と娘さんはレジャーシートを敷いて待っていてくれた。
「おーい!」と手を振る声が、風に乗って届いた。
「こんにちは、来てくれてよかった」
「こんにちは……すみません、あんまりちゃんとしたものじゃないけど」
私はおにぎりを包んだタッパーを渡す。
彼はそれを受け取りながら「うわ、美味しそう!」と少しオーバーに喜んでみせてくれた。
(その言い方、嬉しいな。嘘でも、ちゃんと“嬉しい”って伝えてくれる人なんだ)
娘さんはさっそく私の隣に座り込んで、「はやくたべよー!」と弁当箱を広げ始めた。
彼が作ってきたのは、キャラ弁とまではいかないけれど、卵焼きとウインナーがキレイに並んだ手作り弁当だった。
「ほんとに毎朝これ、作ってるんですか?」
「いや、ピクニックのときだけです。普段は冷凍食品と格闘してます」
笑いながら言う彼に、娘さんがさらっと言った。
「でも、パパのごはんがいちばんだよ」
(その言葉、私が言われたら泣いちゃうかもしれない)
私は笑ったつもりだったけれど、喉の奥がじんわり熱くなった。
距離が、ちょっとずつ近くなる
お弁当を食べ終わったあと、娘さんは芝生のうえでシャボン玉を始めた。
風に乗って舞い上がる光の粒に、「きれい!」と何度も声をあげる。
私はそれを少し離れたベンチで見ていた。
でも、娘さんが走ってきて、私の手をとって言った。
「いっしょにふこう!」
小さなシャボン玉の筒を押しつけるように渡されて、私は笑ってしまった。
「ふーってしたら、たくさんでるよ」
彼もやってきて、しゃがみ込みながら笑う。
「この子、人見知りなんですけど……あなたには、最初からすごく懐いてるんです」
「そうなんですか?」
「多分、何か感じたんでしょうね。……この人は、大丈夫って」
彼の目がまっすぐだった。私は思わず、視線を外してしまった。
(そんなふうに言われると、信じたくなるから)
お母さんの話
ふいに、娘さんが私に言った。
「ママはね、しらないとこにいったの」
彼がはっとして、娘の肩にそっと手を置く。
「こら、それは……」
「だいじょうぶ。もうさみしくないから」
娘さんは空を見上げて、ふわりと笑った。
(そんな小さな子に、そんな言葉を言わせるほど……何を背負わせたんだろう)
「パパがね、いっしょうけんめい、ママのぶんもがんばってるの」
彼が少し照れたようにうつむいた。
「……すみません、こういう話までさせちゃって」
「いえ、むしろ……聞けてよかったです」
(知りたかった。あなたの家族のこと。娘さんが、どういう気持ちで生きてるのか)
私はそっと、娘さんの頭をなでた。
「ちゃんと、わかってるんだね。すごいね」
「うん。だって、パパのこと、だいすきだもん」
(……ああ、ほんとに、まっすぐな子だ)
さよならの時間
日が傾いて、帰りの時間になった。
公園の中の喧騒が、少しずつ夕暮れに飲まれていく。
「今日は、ありがとう。……ほんとに楽しかったです」
「こっちこそ、娘が大喜びでした」
彼は、娘さんの手を取りながら、ふと私に言った。
「……また、一緒に出かけられたら、嬉しいです」
私はうなずいた。
「はい。私も……嬉しいです」
娘さんが、最後に私の耳元でささやいた。
「つぎはね、パパのだいじなひとになってね」
(……どうしてそんな言葉を、こんなに自然に言えるの?)
言葉が出なかった。私はただ、微笑むしかなかった。
不器用なパパ
パパが、こわれそうだった
再会は、思いがけない形だった。
その日、私は珍しく夕方に早く仕事が終わって、駅ビルのカフェでひと休みしていた。
たまたま窓の外を見ると、階段の下で娘さんが泣いていた。
(えっ……どうして、ひとり?)
私は慌ててカフェを飛び出して、階段下まで駆け寄った。
「どうしたの!? 一人なの?」
「……パパが、こないの」
泣きじゃくる彼女の手をとりながら、私は必死で周囲を見回した。だけど、彼の姿はない。
(携帯番号……知らない。連絡もできない)
「いま、駅員さんに行こう。一緒に待っていよう」
(こんな小さな子を、こんな時間にひとりで……彼がそんなことをするなんて)
私はパニックに近い気持ちで、駅の窓口で事情を話し、娘さんと一緒に待合室で座っていた。
そして――20分後。
ボロボロの姿で、彼が駆け込んできた。顔は蒼白、息は荒く、スーツはしわだらけで、髪も乱れていた。
「娘っ!!」
彼女の名前を叫ぶ声が、駅の中に響いた。
私の隣で、娘さんがぴくりと体を震わせて立ち上がった。
「パパ……!」
次の瞬間、彼女は彼の胸に飛び込んでいた。
「ごめん、ごめん、ほんとにごめん……!」
彼は娘を抱きしめながら、何度も何度も謝っていた。
いっぱいいっぱいの、背中
「ほんとうに、申し訳ない……!」
私に向かって、彼は何度も頭を下げた。何度も、頭を下げて、言葉を探していた。
「娘が突然体調悪くなって、保育園から迎えに行って、そのまま駅で……手をつないでたはずなのに、ちょっと電話してる間に、いなくなってて……」
「……大丈夫ですよ。見つかってよかった」
私はようやく、そう返すことができた。胸が痛くて、たまらなかった。
(この人、限界だったんだ)
娘の顔も、彼の顔も、涙でぐしゃぐしゃだった。
私は思わず、彼の腕をそっと掴んだ。
「……私に、できること、ないですか?」
それは、たぶん無意識だった。
だけど、彼はハッとしたように、私を見た。
「……いいんですか」
「ええ、きっと……私にできること、あると思うから」
(私は、なにができるだろう。そんなこと、わからない。でも――なにかを、したかった)
いっしょに、ごはん
それから数日後。
「この間は……ほんとに助けてもらって」
彼から、夕方にLINEが来た。初めて番号を交換した日だった。
「お礼に、ごはんでもどうですか。娘も喜ぶと思うので」
迷ったけど、すぐに「はい」と返していた。
夕暮れ時、彼の家の近くの定食屋で落ち合った。
そこはこぢんまりとした家庭的な店で、畳の小上がりがあって、子どもにも優しい雰囲気だった。
「うちの娘、こう見えて魚派なんです」
「えっ、すごい。今どきの子ってみんな肉食かと」
「まあ、フライ限定ですけどね」
私たちは笑いながら注文し、娘さんは唐揚げ定食をもりもり食べていた。
(この子……ほんと、よく食べる)
彼女が食べ終えたころには、すっかり眠たそうになっていて、彼が抱きかかえて「少し寝かせますね」と言った。
小上がりの座布団に寝かせながら、彼は静かに言った。
「……ほんとは、いっぱいいっぱいでした。仕事も、育児も、うまくやってる“ふり”だけで」
「それでいいと思います。誰だって、ふりして生きてる」
「……あなたも?」
「はい。ずっと、そうです。人付き合いも、笑顔も、恋愛も……」
私の声が震えたのを、彼は気づいたのか、そっと聞いた。
「……つらかったんですか?」
「……いいえ。でも、“私なんか”って、ずっと思ってました」
そう口にして、気づいた。
(この人にだったら、話せるんだ。隠さなくていいんだ)
彼は、優しくうなずいた。
「俺も、何度も“こんな父親でいいのか”って思いましたよ。でも、娘が笑ってくれると、それだけで救われた」
「……娘さん、きっとあなたのこと、大好きです」
「うん。……だから、頑張れてます」
ふたりで、小さく笑った。娘は、すうすうと穏やかな寝息を立てていた。
第6章予告:好きになってはいけないと思った
私は、彼に惹かれていた。
だけど、彼は“娘のパパ”で、ひとりで立とうとしている人だった。
私は、自分の気持ちに気づきながらも――
「好きになってはいけない」と、何度も心の中でつぶやいた。
それは、私が昔から染みつかせていた“遠慮”の癖だった。
好きになってはいけないと思った
ふたりきりの時間が、こわかった
それからというもの、私たちは定期的に会うようになった。
彼の誘いは、いつも娘さんの口を借りてだった。
「また、ピクニックいこうよ」
「うちのパパ、オムライスうまいんだよ」
「今度、おうちにきてね」
(ずるいな、この子。……そんなこと言われたら、断れないよ)
でも、会うたびに、私は心の奥がざわざわしていた。
嬉しくて、楽しくて、幸せで――けれど、それと同じくらい、怖かった。
(私は、この人に、惹かれてる)
それに気づいてしまった瞬間、怖くて、会うたびに自分を抑えるようになった。
彼は誠実な人だ。娘さんを大切にして、真面目に働いて、他人にも気を遣える。
そんな人に私のような人間が惹かれるのは、場違いだと思った。
(恋なんて、もうしないって顔をしてたのに)
(しかも、あの子のお父さんなんだよ?)
自分を責めるように、心の中で問いかける。
そしてまた、会うたびに――笑って、泣きそうになる。
はじめて、嫉妬した
ある日、彼と娘さんと三人でファミレスに入ったときのことだった。
隣のテーブルに、彼の会社の後輩らしい若い女性が偶然座っていた。
「〇〇さん、こんにちは!」と明るく声をかけられた彼に、私は思わず目をそらしてしまった。
「一緒にいるのって……奥さん?」
「いえ、ちがいます。知人で……娘がお世話になってる方なんです」
(“知人”……)
いや、そうなんだけど、そうなんだけど……なぜか、胸がぎゅっと締めつけられる。
「いいですね~、三人でご飯なんて」
「いやいや、たまたまですって」
(たまたま……なのか。そっか)
彼女が去ったあと、私は黙っていた。
声をかけられても、うまく笑えなかった。
そのとき、娘さんが不思議そうに私を見た。
「どうしたの? さむい?」
「ううん、ちょっと考えごと」
「そっか。……でも、きょうも、たのしい?」
その一言で、私はこらえきれなくなり、思わず頷いて笑ってしまった。
「うん。楽しいよ。……ありがとうね」
(ああ、だめだ。もう私は、この親子に、どっぷり浸かってしまってる)
こんな感情、知らなかった
その夜、家に帰って、一人きりになった瞬間、私は布団の中で泣いた。
泣くなんて、いつぶりだっただろう。
誰かを思って、こんなにも苦しくなるなんて。
(会うたびに嬉しい。会うたびに切ない)
(でも、私の立場って、なんだろう? 私は……何者でもない)
あの子の母親でもない。彼の恋人でも、ない。
ただの“やさしい人”。それだけ。
(このままじゃ、いけない。でも、何をどうしたらいいのかわからない)
自己肯定感が低い私にとって、“好かれる資格”なんて、あるはずがなかった。
彼の隣に立てるような人間ではない――何度も、そう思い込んでいた。
だけど、感情は止められなかった。
彼が笑えば嬉しいし、娘さんが甘えてくれれば幸せだった。
(だったら……いっそ、全部忘れてしまえたら)
そう願ったのに、次の日も、私は彼らのことばかり考えていた。
でも、彼は気づいていた
それから数日後、彼からLINEが届いた。
《最近、元気ないように見えたので……何かあったのかなって。気のせいならごめんなさい》
私は数分間、画面を見つめたまま動けなかった。
(なんで、気づくの……? そんなとこ、やさしすぎるよ)
《ちょっと、考えごとしてました。でも、気づいてくれて……嬉しかったです》
そう返すのが精一杯だった。けれどその夜、彼からもう一通メッセージが来た。
《また会いませんか? 娘もきっと喜ぶので。あなたに会うと、笑顔が増えるんです》
(ずるいよ、それ)
私は泣きながら、スマホを抱きしめていた。
うちに来て
雨が降ってきた日
その日も、私はいつものように夕方の商店街を歩いていた。
空はどんよりとした灰色で、遠くから雷の音がかすかに聞こえる。
(あ、傘、持ってこなかった……)
職場帰り、駅へ向かう途中だった。あと数分で電車が来る――そう思った瞬間、ぽつぽつと雨粒が頬に落ちてきた。
そのとき、向こうのコンビニの前で、見覚えのある小さな傘がゆらゆらと揺れていた。
「あ……」
それは、娘さんだった。赤い長靴に、てるてる坊主の柄の傘。
その隣には、レジ袋を下げた彼が立っていた。
彼女が私を見つけて、手を振る。
「やさしいひとーっ!」
私は反射的に駆け寄った。
雨足はどんどん強くなり、あっという間に地面が濡れていった。
「こんな日に、偶然……」
「いや、今日は……たぶん偶然じゃないと思ってました」
彼がぽつりと、そんなことを言う。
(……どういう意味?)そう聞き返せなかった。
娘さんが小さな声で、私のコートの裾を引っ張った。
「きょうね、うちに、きて」
「え?」
「おうち、ちかいの。パパといっしょに、カレーつくるの」
彼は、少し照れくさそうに言った。
「よかったら、ですけど……雨も強くなってきたし、あったかいものでも一緒にどうかなって。無理にとは、もちろん……」
私は――うなずいていた。
(断れなかったんじゃない。私が、行きたかったんだ)
はじめて入った、あの人の生活
彼の部屋は、思ったよりも“生活感”があった。
綺麗にしてはあるけれど、ところどころに子どものおもちゃが転がっていて、冷蔵庫には娘さんの絵が貼られていた。
「わ、ごちゃごちゃですみません……」
「いえ、すごく、あったかいおうちですね」
玄関を入ってすぐに、ふわっと香ったのは――家庭の匂いだった。
私の部屋にはないもの。誰かと一緒に暮らしている、そんな空気。
娘さんは張り切ってキッチンに立ち、ミニサイズのエプロンを巻いていた。
「おにいちゃんのぶんも、にんじんきる!」
「こら、包丁はまだダメって言ったろ。……あなたも、どうぞ。コーヒー淹れますね」
(おにいちゃん……?)というツッコミは、胸にしまった。
私は、ソファの端に座って、キッチンのふたりを見つめていた。
(いいな……この時間。あたたかくて、笑い声があって、誰かと一緒に食卓を囲むって、こんなに胸が満たされるんだ)
「ママみたいになってほしい」
カレーが出来上がって、三人で並んで食卓に座った。
市販のルウに、子ども向けの甘口。だけど、玉ねぎと人参がたっぷり入っていて、ちゃんと手作りの味がした。
「おいしい……!」
「よかった。味だけは自信あるんです」
「ちがうよパパ、ママのよりおいしいよ!」
彼がぴたりと動きを止めた。
私も、少し息をのんだ。
「……そうだね。ありがとう」
それだけ言って、彼は笑った。
(この笑顔、どれだけの気持ちを抱えてるんだろう)
食後、娘さんは「つかれた~」と言いながら、ソファにごろんと横になった。
そのとき、ぽつりとつぶやいた。
「このひと、ママじゃないけど、ママみたいなにおいがする」
彼が少し目を見張ったあと、ゆっくりと娘にブランケットをかけてやる。
「……ごめん、変なこと言わせて」
「いえ、なんか、嬉しかったです」
私も、小さく笑ってしまった。
娘さんは目を閉じながら、こう言った。
「ねえ、パパ。こんどから、ずっといっしょにいたら?」
彼が返事をせずに私を見た。
その瞳は、まっすぐで――でも、戸惑っていた。
「あなたが、いてくれると」
帰り際、傘を差しながら家の前まで送ってくれた。
「今日は、ほんとに……助かりました。あの子が、あんなに笑ったの、久しぶりだった」
「いえ、私こそ。……楽しかったです」
雨は小降りになっていた。けれど、空気は冷たくて、少し肌寒かった。
「……あなたが、いてくれると、あの子が安心するんです」
「それは……私も、同じです」
お互い、黙り込んでしまった。
彼は、何か言いかけて、それを飲み込んだようだった。
「……また、来てくれますか」
「はい。何度でも」
私の答えは、震えていなかった。
(この人と、この子と、もっと一緒にいたい。もっと……近くにいたい)
恋よりも、信頼
ふたりだけの時間に
それは、ふとした平日だった。
「娘が風邪ひいちゃって……保育園、休ませてるんです」
昼過ぎ、彼から届いたLINEには、申し訳なさそうな顔文字が添えられていた。
《何か、必要なものあれば言ってください。仕事帰りに寄れます》
そう返信して、すぐに「本当にいいんですか?」という返事が来た。
それは、もう“遠慮”ではなかった。
私を頼ってくれていることが、嬉しかった。
その日の夜、彼の家に行くと、娘さんは高熱で寝込んでいた。
「ごめんなさい、こんなときに……」
「いえ。……心配だったので」
彼は、娘の額に冷えピタを貼り直しながら、少しだけ声を落とした。
「子どもが体調崩すと、やっぱり……怖くなるんですよ。もし、自分が何か間違ったことしてたらって」
私は、台所でおかゆを温めながら、彼の後ろ姿を見ていた。
(この人は、ひとりで、全部抱えてる)
言葉よりも、その背中が語っていた。
たった一言が、泣きそうになる
「ありがとう、来てくれて」
その一言が、なぜだか、ずっと聞きたかった言葉だった。
私はそっと彼の横に座り、ポットのお湯を注ぎながら、やわらかく微笑んだ。
「……私、あなたに頼られるの、嫌じゃないです」
彼は、一瞬、驚いたような顔をした。
「頼って……るんですかね、俺」
「はい。気づいてないかもしれないけど、すごく、頼ってくれてます」
彼は黙って、しばらく視線を落とした。
そして、言った。
「もし……今、誰かを信じてもいいって言われたら、あなたの顔が浮かぶと思います」
その言葉を聞いた瞬間、私は胸の奥が熱くなって、返事ができなかった。
(恋じゃない。恋なんかより、ずっと深いものを、この人はくれた)
告白なんて、いらなかった
その晩、娘さんが目を覚ました。まだ少し熱はあるけど、薄く笑ってくれた。
「……ごめんね、きょう、あそべなくて」
「ううん。また元気になったら、遊ぼうね」
「つぎは……いっしょに、プリンつくろ」
彼は、ふっと笑った。
「俺の出番、ないな……」
「パパは、つくってないときが、やさしいの」
私は思わず笑ってしまった。
「それって、褒めてるんですか?」
娘さんが真顔でうなずいた。
「うん。パパ、こまってるときのほうが、ちゃんと“ありがとう”っていうから」
彼は恥ずかしそうにうつむいた。
私は、そのやりとりがたまらなく愛しくて、胸がいっぱいになった。
(こんなふうに、家族って、できていくのかな)
「これからも、ずっといてくれたら」
帰り際、彼が玄関先で言った。
「……俺、あなたのこと、好きです」
それは、穏やかで、静かな告白だった。
でも、言葉の裏に、“覚悟”の重みがあった。
「……俺、もう、恋愛はいいやって思ってたんです。誰かと向き合うの、怖くて。娘を守ることで、精一杯で」
「……わかります。私も、恋愛って……いつも、逃げてきました」
「でも……あなたと会って、思ったんです。恋とか愛とかより、“信じられる人”がいることのほうが、何倍も大事だって」
彼の目は、まっすぐだった。
私はそのまなざしに、自然と涙がこぼれていた。
「……そんなふうに言ってくれて、ありがとうございます」
「これからも、ずっといてくれたら、嬉しいです。……娘と、俺と」
私は、声が出せなかった。
ただ、うなずいて、また泣いた。
その夜、帰り道の空には、うっすらと星が見えていた。
三人の新しい生活
朝が、ちがって見えた
春が近づいてきた。
風はまだ冷たいけれど、日差しにはやわらかいぬくもりが混じっていた。
私の朝が、変わった。
これまでは無音の部屋で目を覚まし、無言でコーヒーを淹れ、誰にも挨拶されないまま仕事へ向かう日々だった。
だけど今は――LINEの通知が鳴る。
「娘が“きょうの服、やさしいひとに見せたい!”って言ってます」
「俺の弁当も褒めてやってください。今日はちゃんと茶色以外も入れました」
(……たったそれだけのことで、胸が、あたたかくなる)
心に、毎日春の光が差し込むようになった。
自分の居場所が、初めて“誰かの中にある”と思えたから。
「おかえり」の声があるだけで
私たちは、“恋人”とは名乗らなかった。
でも、自然と、私の部屋に彼と娘が来るようになり、週の半分は一緒に夕食をとるようになった。
彼の娘さんは、どんどん“私の言葉”を真似するようになっていた。
「いただきますって言うと、しあわせが入ってくるんだよね?」
「“ありがとう”って言うと、あったかくなるんだって、やさしいひとが言ってた」
彼が言った。
「……あなたがうちに来てから、あの子、よく笑うようになりました」
「……私もです」
ある日、私が仕事でくたくたに疲れて帰ったときのこと。
玄関を開けると、彼と娘が夕飯を作ってくれていた。
「おかえりなさい」
「おかえりー!」
ただその声だけで、涙が出るほど嬉しかった。
“誰かが待っていてくれる”
それが、どれだけ人生を変えるか――私は今、知った。
ふたりじゃなく、三人で
彼が、ある夜こんなことを言った。
「俺ね、ずっと、“この子を守る”って決めてた。
でも今は、“一緒に育っていけたら”って思うようになった」
私はそれを聞いて、はじめて彼の手を握った。
自分から誰かの手を取ったのは、人生で初めてだった。
「私も……いっしょに、生きていきたいです。娘さんと、あなたと」
彼が、息をのんで、小さく笑った。
「嬉しいです。ほんとうに、嬉しい」
彼の娘さんが、布団の中から顔を出して言った。
「じゃあさ、パパとやさしいひとで、けっこんすればいいんだよ」
「こら、また急に……」
「だって、そうすれば“かぞく”でしょ?」
私は笑いながら、娘の額にそっと手を当てた。
「そうだね。“かぞく”って、約束できるものだよね」
(……私は、もう逃げない。恋愛じゃなくてもいい。この人たちと生きていく、それだけで)
誓いの言葉は、「もう、ひとりじゃない」
その春、私たちは役所に提出する書類を揃えた。
結婚式はしなかったけれど、3人で小さな誓いの会を開いた。
公園のベンチ、いつも集まっていた場所で。
彼が、娘の頭をなでながら言った。
「これから、3人で暮らします。困ったときも、悲しいときも、一緒にいるって、決めました」
「ずっと、笑えるようにがんばります。……よろしくね」
娘さんが、両手をひろげて私と彼の手をつないでくれた。
「もう、ひとりじゃないね!」
その言葉が、何よりの誓いになった。
私は、恋を知らないまま大人になったけど――
この日、人生でいちばんあたたかい愛を知った。
そして今
いま、私は39歳。
“福祉の仕事しか知らない私”だったけれど、今はもう“誰かの妻で、誰かの母になろうとしている私”でもある。
恋愛経験ゼロだった私が、
選ばれて、必要とされて、生まれ変わった。
すこし時間はかかったけれど、
心の奥にあった“誰かと生きていきたい”という願いは、ちゃんと叶った。
そして、毎日思う。
あのとき――駅前で泣いていた女の子に、声をかけてよかった。
完

