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はっくなび
だれとも話せない、ふつうの毎日
なんでもない私の、ちいさな世界
私の毎日は、まるで鉛筆で描いた下書きのように、ぼやけた輪郭のまま過ぎていく。
28歳。中小企業の経理事務。入社して5年が経った。社内では「いつも静かで、笑ってる人」と思われている。たぶん。
「お疲れさまです」
「はい、こちらです」
「よろしくお願いします」
会話といえるのは、その程度。雑談になると、何も話せない。声は出せるのに、何も言葉が出てこない。無理やり言葉を探そうとすると、頭が真っ白になる。笑顔でごまかすのが、癖になっていた。
仕事は、得意というより「間違えないように何度も確認する」ことだけでやってきた。残業はあまりないし、上司も口うるさくない。淡々と入力し、電卓を叩き、書類をまとめる。そんな日々。誰とも深く関わらず、誰にも嫌われず、目立たず、波風立てず。
でも、ふとしたときに思う。
(このままずっと、こんな感じなのかな)
恋愛?結婚?
そんなの、無理だ。
誰かに好かれても、気持ちを返す言葉を持っていない。
誰かを好きになっても、伝える勇気なんて、どこにもない。
私は、いつも沈黙してしまう。
それが、私のすべてだった。
自分だけの、ちいさな楽しみ
休みの日は、家にいることが多い。
鉛筆で静物画を描いたり、レターセットを眺めたりする時間が好きだ。絵は、人に見せたことがない。描いたものはノートに閉じたまま、引き出しの奥にしまってある。誰かに評価されるのが怖いから。
古いレターセットは、駅前の文房具屋の片隅で売っている昭和レトロなものや、誰かが集めていた中古品をネットで探して手に入れる。手紙を書くことはないけど、封筒の色合いや紙の質感、時代を感じるイラストが、心を落ち着けてくれる。
誰かと話さなくてもいい世界。
言葉がなくても、意味を持つ世界。
それが、私の逃げ場だった。
そして、彼のこと
営業部にいる「旦那くん」とは、もともと接点がなかった。明るくて、社交的で、みんなの中心にいる人。私とは真逆の人。笑顔が自然で、誰にでも気さくで、話すテンポがよくて。
私は、彼のような人を見ると、(ああ、まぶしいな)といつも思っていた。
まぶしくて、まるで太陽みたいで、でも自分には絶対に届かない遠さを感じる存在。
名前を覚えられるのも遅かった。人の名前を覚えるのも、人の輪に入るのも、苦手だったから。彼がたまにフロアを移動してきても、私はうつむいて書類に目を落とすふりをしていた。
(関わらないでいよう)
(どうせ、私なんか)
(気を遣わせるだけ)
そう思っていた。
でも、それは――壊された。
あの、静かな昼下がり。
壊れた電卓と、何も言わずに差し出された、彼の「手」によって。
こわれた電卓と、だまって置かれたやさしさ
きっかけなんて、ほんとに小さいことだった
その日は、朝からどこか落ち着かなかった。
空は快晴。まぶしい光がデスクに差し込んでいたのに、私の胸の奥は、なんだかもやがかかったように重かった。
そんな中、午前中の帳簿をまとめていたときのことだった。
「……あれ?」
何度も押しても、反応がない。
数字の桁が変わらない。
ボタンが引っかかるような、変な感触。
(壊れた……)
私の相棒のような電卓が、突然、息をしなくなった。
焦って裏ぶたを開けてみたけれど、電池もちゃんと入ってる。とくに壊れた形跡は見当たらないのに、液晶がうんともすんとも言わない。
(どうしよう……)
思考が真っ白になった。
このあとの請求入力は山ほどある。電卓なしでは、どうにもならない。予備もなかった。
でも誰にも頼れなかった。
「貸してください」と言う一言が、どうしても出てこなかった。
喉の奥に、鉄の塊がつっかえているみたいで、声にならなかった。
パニックにはならなかったけど、ずっと「どうしよう」と心のなかで繰り返して、ひたすら自分の机を見つめていた。
そして、ふと――
机のすぐ横に、無言で差し出された「手」があった。
黙って置かれた電卓
その人は、何も言わずに、私の机にそっと電卓を置いた。
見上げると、そこに立っていたのは――彼、だった。
営業部の先輩。「旦那くん」。
「壊れた?」
「……うん。使って」
たったそれだけ。
本当に、たったそれだけのやりとりだった。
でもその声は、静かで、落ち着いていて。
無理に笑わせようともしなければ、気を遣ったような声色でもなかった。
まるで、朝の風みたいに自然で、優しかった。
私は、反射的に小さくうなずいた。
(ありがとう……)と言いたかったけど、言葉にはできなかった。
代わりに、ぎこちなく笑った。
それが、精一杯だった。
彼は、なにも言わずに微笑んで、そのまま立ち去っていった。
誰にも気づかれない、ほんの数秒の出来事。
でも――その電卓の「重み」が、ずっと指先に残っていた。
あとから気づいた「変化」
それから数日、電卓は私の手元にあった。
彼は取り返そうともしなかったし、私も何も言えなかった。
でもその間、ふとしたときに彼と目が合うようになった。
フロアの向こう側から、ちらっと私を見て、小さく笑うことが何度かあった。
私はそのたびに、すぐに視線を落とした。
(……なんで、私なんかに)
理由なんて、わからなかった。
けれど確かに、少しだけ、何かが変わり始めていた。
気づけば私は、彼がフロアを歩いてくる音に気づくようになっていた。
そしてある日。
返さなきゃと思って、意を決して、彼のデスクまで歩いた。
「これ……ありがとうございました」
やっと声に出せた。
けれど、彼は笑って首を振った。
「気にしなくていいよ。まだ使ってていいし、予備あるから」
「……でも」
(本当は返したくない、なんて思ってしまっていた)
彼は、軽く笑って言った。
「じゃあ、これから“たまに貸す”ってことで」
その言葉が、なぜか、うれしかった。
私はまた、うまく笑えなかったけれど――心のどこかが、少しだけ、あたたかくなった。
沈黙に、付き合ってくれる人
それからも、私は相変わらず無口だった。
でも、彼は違った。
沈黙してしまう私に、気まずそうな顔を一切見せなかった。
会話をつなげようと無理をせず、静かに微笑むだけ。
あるいは、ちょっと冗談めかした一言を言って、さっと離れていく。
その距離感が、ありがたかった。
(この人……沈黙が平気なんだ)
はじめてだった。
「無言でも、いっしょにいてくれる人」を感じたのは。
おかし、そっと置かれてた
無言のやりとりが、こわくなかった
いつからだったのか、自分でもよく覚えていない。
ある朝、出社して机に座ると、書類トレイの隅に、小さなお菓子がひとつ、置かれていた。
丸くて、個包装されたラムネのようなお菓子。
メモも何もない。ただ、ちょこんと置かれているだけ。
(え? これ……)
少し戸惑いながらも、机の下に隠すようにしてそっと取った。
誰が置いたのか、まったくわからない。
けれど、なんとなく、わかっていた。
その日の昼。いつも通り、私は自分の席でお弁当を開け、彼は向かいの島でにぎやかに後輩たちと笑っていた。
ふと、視線が合った。
彼は、目を細めて小さく笑っただけで、何も言わなかった。
(……やっぱり、そうだ)
私はうつむいて、お菓子をそっとポケットにしまった。
誰にも気づかれないように。
それが、最初だった。
言葉がいらない会話
それから、週に一度くらいの頻度で、お菓子は置かれるようになった。
ラムネ、ミニチョコ、キャンディ、ちいさなクッキー。
すべて個包装で、手のひらに収まるくらいのサイズ。
メモも言葉も、いっさいない。
ただ、決まって朝、席に着くと、ひとつだけ。
彼は、なにも言ってこない。
私も、なにも言えなかった。
でも、それがちょうどよかった。
(なにも言わなくていいって、こんなに楽なんだ……)
言葉にするのが苦手な私にとって、これはまるで「だいじょうぶだよ」と伝えてくれているようだった。
彼の声も、表情もないその「やりとり」が、いつのまにか、私の心にすっと染み込んでいた。
笑った顔を見たかった
ある日の昼、私はひとり、社内の給湯室でお茶を入れていた。
そこに、偶然彼が入ってきた。
「お、いい香り。緑茶?」
「……はい」
(なぜか、いつもより声が出た気がした)
「ねえ、今日のって、さくらんぼ味だった?」
一瞬、なにを言われたのか理解できず、首をかしげると――
彼が、にやっと笑った。
「お菓子。そろそろ感想くらい聞きたいなーって」
私は、思わず吹き出しそうになって――
口元を手でおさえて、肩を震わせた。
自分でも驚いた。
誰かと、こんなふうに笑ったの、いつぶりだろう。
「……おいしかった、です」
その一言が、ようやく声になった。
彼は少しだけ目を見開いたあと、ほっとしたように笑った。
「よかった。それ、選ぶの地味に時間かかるんだよね」
その会話が、たった数十秒のことだったのに、胸の奥に小さな灯が灯ったような気がした。
(この人、私の笑った顔が見たかったのかな)
その日一日、気づけば頬がずっと熱くて、頭がぼーっとしていた。
気づけば「待っている」
次の日、私は早く出社した。
7時台の電車に乗って、誰もいないフロアへ。
誰に頼まれたわけでもないし、業務があるわけでもなかった。
ただ、彼より早く出社してみたかった。
(……お菓子、ないかもしれない)
そう思いながら机に向かうと――
あった。
いつも通り、ちいさなチョコレートが、書類トレイの端に。
私の胸の奥が、ぎゅっとなった。
(……あ)
これまで、自分の心の動きに無関心だった私が、ようやく気づいた。
(この人のこと、気にしてる……)
誰かに心を動かされるなんて、思ってもみなかった。
沈黙ばかりだった私が、いま――
ほんの一粒のチョコレートに、笑っている。
しずかな おひるごはんのじかん
きっかけは、コンビニ袋の音だった
「おーい、お弁当忘れてるよー!」
お昼休憩が始まる少し前。
私は、静かに席を立って自分のロッカーへ向かっていた。
でも戻ってくると、私の席の横で、彼が片手にコンビニ袋をぶらさげて待っていた。
「……?」
私が問いかけるように首をかしげると、彼は照れくさそうに笑った。
「今日、食堂混んでたからさ。たまには、ここで一緒にどうかなって」
その言葉に、心臓が、どくん、と大きな音を立てた。
胸の奥で火が灯るような感じ。うまく言葉にはできなかった。
(……一緒に、食べる……?)
いつも私は、自分の席でひとりで食べていた。
社内の人たちはグループで食堂や休憩室を使うけれど、私はその輪に入れなかった。
「……はい」
言えた。その一言が、まるで小さな冒険だった。
しゃべらない、でも落ち着く
私の机を挟んで、ふたり。
彼はコンビニのおにぎりと唐揚げ、私は手作りのお弁当。
特別なものは何もない、普通の昼食。でも――
不思議なほど、居心地がよかった。
「この卵焼き、きれいだね。自分で作った?」
「……はい。甘めが、好きで」
(なぜか、言葉がちゃんと出てきた)
彼は、おにぎりの海苔を器用に剥がしながら、笑ってうなずいた。
「甘い卵焼き、わかる。うちの母ちゃんもそうだった。しょっぱいのより、お弁当って感じする」
私は、小さく笑った。
静かだけど、沈黙が怖くなかった。
ふたりとも、もくもくとごはんを食べて、でも視線が合うと、どちらからともなく微笑む。
その空気が、やさしくて、あたたかくて――
(こういうの、幸せっていうのかな)
食べ終わっても、いたかった
食事が終わったあと、私は箸をそっと弁当箱にしまいながら、彼の横顔を見た。
目元にある笑い皺が、少しだけ揺れていた。
「……あの」
言葉が、喉の奥から出てきた。
でも続ける勇気が、なかった。
彼は私の方を見て、すぐに空気を察したのか、優しく笑った。
「また、一緒に食べよっか」
「……はい」
(言わなくても、わかってくれる)
そんな気がした。
たったそれだけのやりとりなのに、涙が出そうなくらい、うれしかった。
沈黙のあと、ふたりが笑った
「……あ、そういえば」
彼が急に思い出したように声を出した。
「最近さ、俺の席にチョコ置いてあるんだよね。なんか、お返しみたいなやつ。心当たりある?」
私の心臓が跳ね上がった。
(……ばれてる……!?)
お菓子をもらってばかりじゃ申し訳なくて、少し前から、そっと小さなお菓子を返していた。もちろん、誰にも見つからないように。
「……ちが、います」
「そう? なんかさ、同じラムネとか、クマのクッキーとか……そっくりなんだよねぇ」
じーっと、私を見つめてくる。
目が合って、慌てて目をそらした。
でも、彼はすぐにいたずらっぽく笑った。
「ま、いいけどね。返し返されると、また返したくなるじゃん?」
(ああ、やっぱり――気づいてた)
でも、そのやりとりが、うれしくてたまらなかった。
はじめての「ありがとう」が言えた日
朝のカップ、ふたつ並んだ
その日は、寒い雨の朝だった。
空はどんよりと暗く、ビルの窓にしずくが斜めに叩きつけていた。
濡れたコートを脱いで席に着いたとき、身体も心も、少し冷えていた。
(今日は、誰とも話したくない……)
そう思ってうつむいたままパソコンを立ち上げていたら、斜め前から、あの声が聞こえた。
「おはよう。寒かったね」
私が顔を上げるよりも早く、デスクの端に、紙カップがそっと置かれた。
中には、ホットココア。
「お砂糖、なし。たぶん、好きそうな味」
そう言って、彼はもう片方の手に持ったコーヒーを一口すすると、照れたように笑った。
(……なにも言えなかった)
ありがとう、って言いたいのに、また喉がつまってしまった。
でも、両手でそのカップを包んだとき、指先からじんわり温かさが広がって、
胸の奥に、何かが溶けていくのを感じた。
ココアの甘さと、涙のにおい
その日、午前中の仕事はうまくいかなかった。
ファイル名を間違え、数字の桁をひとつずらし、同じ伝票を二重に処理してしまった。
上司には「珍しいね」と笑われたけれど、自分の中では、小さな自信が崩れる音がしていた。
(ああ、やっぱり私なんか……)
お昼休みも食欲が湧かず、自席に戻ってコンビニサンドを開くだけで精一杯だった。
そんなときだった。
横から、そっと差し出された袋があった。
「あのさ。これ、もらいもの。甘いの好きだって言ってたでしょ」
見れば、それはかわいいパッケージの焼き菓子だった。
封を開けると、さくらんぼジャムの香りがふわっと広がった。
「あ、でも無理しなくていいよ。今日、なんか元気ない?」
その言葉が、胸の奥をそっと突いた。
私は、小さくうなずいた。
(もう……だめかも)
喉の奥が、つんと痛くなった。
声を出そうとした瞬間、涙が一粒、ほろりと落ちた。
彼は何も言わず、ただそばにいた。
視線を逸らさず、逃げず、黙っていてくれた。
その沈黙が、どれほど優しかったか。
はじめて出た、たったひとこと
私は、涙を手の甲でぬぐって、小さく、でも確かに口を開いた。
「……ありがとう」
その瞬間、彼の目が、わずかに見開かれた。
そして、すぐに柔らかく、深く、うれしそうに笑った。
「……やっと聞けた」
「……ごめんなさい。今まで、言えなくて」
「ううん、そんなの気にしてないよ。でも、言ってもらえると……やっぱり、うれしい」
その言葉に、また涙がこぼれそうになった。
でも今度は、泣きたくなかった。
だから私は、がんばって、もう一度言った。
「ありがとう……いつも、ありがとう、ございます」
心からの気持ちだった。
それをようやく「音」にできたことが、信じられないくらい、うれしかった。
ことばは、ちゃんと届くんだ
言葉にできるって、こんなにも世界が変わるんだ。
「ありがとう」と言ったあと、彼が見せたあの笑顔。
それを見た瞬間、私は気づいた。
(こんなふうに、気持ちって伝わるんだ)
黙っていても分かってくれる人はいる。
でも、ひとことだけでも声にすることで、その優しさにもっとちゃんと返せるんだって。
私は、少しだけ変われた気がした。
そして心のどこかで――
(もっと、この人と話してみたい)
そう思っていた。
さくらの きのしたで、まってたひと
季節が、やさしく背中を押してきた
春になった。
年度の切り替えで、社内は少しそわそわしていた。新入社員が入り、会議室はざわざわと賑やかで、廊下にも新しい顔が増えた。
私はというと、相変わらず、自分の席で静かに仕事をしていた。
でも少しだけ、変わったことがあった。
彼と、よく目が合うようになった。
「また一緒にお昼食べよう」と言われるようになった。
お菓子のやりとりが、ふたりだけの“秘密”みたいになった。
誰にも気づかれない小さなことばかり。
でも、私の心の中では、確かな変化だった。
そして、ある日の午後――
ふいに、彼がこう言った。
「会社の近くにさ、桜がすごくきれいな公園あるの、知ってる?」
私は、小さく首を横に振った。
「今ちょうど満開だから、ちょっとだけ寄ってみる?今日、定時で上がれそうだし」
(……え? ふたりで?)
一瞬、息が止まるくらい驚いた。
でも、胸のどこかがふわっと暖かくなった。
そして私は、小さくうなずいた。
桜が、ふたりを照らしてた
会社から歩いて5分ほどの小さな公園。
ビルに囲まれたその場所に、驚くほど大きな桜の木が何本も咲き誇っていた。
風が吹くたびに、花びらがひらひらと舞い落ちて、地面を淡いピンク色に染めていた。
「わぁ……」
自然に、声がこぼれた。
「でしょ?ここ、意外と知られてなくて、穴場なんだよ」
彼の声は、いつもより少し小さくて、優しかった。
ベンチにふたり並んで座った。
まだ少し肌寒かったけど、春の光と、彼の隣にいる時間が、私をそっと包んでくれた。
沈黙が、ぜんぜんこわくなかった
しばらく、ふたりとも無言だった。
でも、それが苦じゃなかった。
桜の花びらが舞う音すら聞こえてきそうな静けさの中で、私はそっと彼の横顔を見た。
少しだけ、まぶしそうに目を細めて、遠くを見つめていた。
その表情が、なぜかとても、安心できた。
「……きれい、ですね」
「うん。来年も、見に来ようね」
(え……?)
彼はすぐに続けなかった。
私は、その言葉の意味を反芻するように胸の中で転がした。
「……来年も……?」
「うん。ひとりで見るより、誰かと見たほうが、やっぱりきれいに感じるんだよ。……変かな」
私は、ゆっくり首を横に振った。
(変じゃない。私も、そう思った)
でも、それを言葉にはできなかった。
代わりに私は、ポケットから取り出したひとつの包みを、彼にそっと差し出した。
小さな、桜色のキャンディ。
先週末、文具屋で偶然見つけたレトロな包みの、昔懐かしい味。
「……ありがとう」
彼が、うれしそうに微笑んだ。
その笑顔に、胸がきゅうっとなった。
わたしの“あしあと”が、ここにある
公園を出るとき、彼が言った。
「そういえば、今日。ちょっと待ってたんだよ。来てくれるかどうか、ちょっとドキドキした」
「……待ってた?」
「うん。君は、急に来なくなったりしそうだから」
私は思わず笑ってしまった。
(そうか、私……“来るかどうか”を気にされる存在なんだ)
いままで、自分の存在が誰かの“予定”に入るなんて、思ったことがなかった。
それだけで、世界が少し違って見えた。
そして、彼の横にいたその時間が、私にとって――
“忘れられない春”になった。
わたしが 泣いてたとき、 みてくれたひと
誰にも見られたくなかった、あの日の涙
その日は、どうしても気持ちが沈んでいた。
仕事で大きなミスをしてしまったわけじゃない。
怒られたわけでもない。
でも、小さなことが積み重なって、自分のなかで崩れてしまった。
パソコンの更新に失敗して、ファイルが一瞬消えかけた。
誰かの雑談に答えられなくて、変な空気にしてしまった。
「また黙ってるね」って、軽い一言が心に刺さった。
(……やっぱり、私なんか)
気づかれないように、給湯室に逃げ込んだ。
誰も来ない午後の隅っこ。
紙コップに入れた白湯を両手で握って、私は、そっと目を閉じた。
そして、静かに泣いた。
涙が頬を伝う感覚を、久しぶりに感じた。
ずっと張り詰めていた糸が、ぷつんと切れてしまったみたいだった。
誰にも見つからないように、そっと、泣いた。
……はずだった。
「見たよ」なんて、言わなかった人
その日の夕方。
私は気づかないふりをして、何事もなかったようにデスクへ戻った。
でも、彼の席に視線を向けると、なぜかそこに“空気の違い”を感じた。
彼は、何も言わなかった。
けれど、私のことをじっと見ていた。
そして、優しく、あたたかく、まるでなにもなかったように笑った。
その笑顔が――あまりにもやさしくて、
ああ、見られていたんだって、すぐにわかった。
(でも、「泣いてたね」って言わなかった)
(気づいてたのに、黙っててくれた)
それが、なにより嬉しかった。
ひとことも言わず、ただ横にいてくれた
帰りのタイムカードを押すとき、彼が声をかけてきた。
「今日、疲れた?」
私は、ほんのすこしだけ頷いた。
すると彼は、それ以上何も聞かなかった。
「じゃあさ、ちょっとだけ、歩かない?」
その提案に、私はことばを出せなかった。
でも、気づいたら彼の隣を歩いていた。
会社から5分ほどの、いつもの桜の公園。
もう花は散っていたけれど、地面には薄く桜の花びらが残っていた。
ふたりで、ベンチに腰かける。
沈黙。
だけど、その沈黙はとても心地よくて、
私は、ひとつ深呼吸をして、そっと言った。
「……ごめんなさい」
「なにが?」
「……泣いてたの、気づかせちゃって」
すると彼は、すぐに言った。
「気づかせたんじゃなくて、気づかれたんだよ。俺が、見てただけ」
「……」
「でも、見てただけじゃなくてさ。隣にいたかった。何もできなかったけど、ちゃんと見てた」
その言葉が、胸に深く、染み込んでいった。
「見てる」って、こんなにあったかいんだ
誰かが自分を「見てくれている」。
それは、こんなにも安心することだったんだ。
私はずっと、「見られたくない」と思って生きてきた。
失敗も、沈黙も、涙も――すべて隠して、笑顔だけ見せていた。
でも、彼は「見ていてくれる」人だった。
無理に笑わせようとせず、沈黙を壊そうともせず、
ただ静かに、そばにいて、見てくれていた。
私は、その瞬間、心の底から思った。
(……この人のこと、好きかもしれない)
それは、すとんと胸に落ちるような、静かな実感だった。
激しくもなく、ドラマチックでもないけれど、
確かに「好き」だと、そう思った。
「すきだよ」より ずっとおもたい ことば
告白は、ぜんぜんロマンチックじゃなかった
春が終わろうとしていた。
桜の季節が過ぎ、新緑がまぶしくなりはじめた頃、彼との距離は、ほとんど隣だった。
けれど、私はまだ、はっきりとした言葉を受け取っていなかった。
「好きです」とも、「付き合ってください」とも、言われていない。
でも、彼の目はいつも私を見てくれていたし、
私も、彼の笑顔に応えようと、少しずつ言葉を増やしていた。
そんなある日。
仕事終わりの帰り道、彼がぽつりとこう言った。
「なあ。君って、“告白”って必要?」
私は、びっくりして顔を上げた。
でも、すぐに首を小さく横に振った。
「……たぶん、どっちでも。言われなくても、伝わることもある、から」
「だよね」
彼は笑って、でもどこか、真剣な目をしていた。
「じゃあさ。ちゃんと言っても、いい?」
私は、何も言えなかった。
でも心臓が、どくん、どくんと鳴っていた。
「好き」なんて、言わなかった
彼は、少し間をあけてから言った。
「……一緒にいると、落ち着くんだ。君が黙ってても、それが逆に安心する」
「……」
「誰かと一緒にいて、“静か”が心地いいって、今まで思ったことなかった」
「……わたしは、ただ、うまく話せないだけで……」
「それがいいんだよ。言葉じゃないところが、たくさん伝わってくるから」
私は、言葉を失った。
(そんなふうに……思ってくれてたんだ)
彼は、続けた。
「昔さ、妹が話せなかった時期があったんだ。心の病気で、声を出すのが怖かったみたいで。でも、俺は言葉がなくても、妹の気持ちがなんとなくわかったんだよ」
「……」
「それに似てるんだ。君といると、ちゃんと“届いてる”って思える。無理に話さなくていいって思える」
涙が出そうになった。
彼は、私の“無言”を、受け入れてくれるだけじゃなくて、
その静けさの中に、“気持ち”を見つけてくれていた。
わたしの沈黙は、「信頼」だった
「……ねぇ」
思わず、口が開いた。
「わたし、言葉がうまく出ないの、ずっと恥ずかしくて。誰にも、見せたくなかった」
彼は頷いた。
「うん。知ってるよ。でもさ、それってさ――」
「うん?」
「信頼してる相手にだけ、黙っていられるってことでもあると思うよ」
「……え?」
「緊張する相手には、沈黙って怖いじゃん。でもさ、安心してるからこそ、黙ってられるんじゃないかなって。君は、俺に“気を許してる”ってことじゃない?」
(そんなふうに思ったこと、一度もなかった)
沈黙は「逃げ」だと思ってた。
でも、彼の前で黙っていられるのは――
たしかに、心から安心している証だった。
私は、やっと、笑った。
小さな、小さな声で。
「……わたし、あなたの前だと、泣いても、黙っても、こわくないです」
彼は、やさしく笑った。
そして、まっすぐに私を見て言った。
「……ずっと一緒にいたいと思ってる。もし、それが“好き”って意味なら、俺はずっと、好きだったよ」
ふたりだけの、ことばじゃない約束
「返事は、急がなくていいから」
彼はそう言って、手を振って帰っていった。
だけど私は、その背中を見送りながら、心の中でつぶやいていた。
(返事なら、もう決まってるよ)
「好きです」とは言えなかった。
でも、彼の手の温かさも、見つめるまなざしも、全部――答えになっていた。
あの夜。
風がやさしく吹いて、街灯が静かに灯っていた。
言葉の少ない、ふたりの間に生まれた約束。
それは、「すきだよ」なんかよりも、ずっとずっと、重くてあたたかいものだった。
けっこんしきで よんだ、わたしの てがみ
きれいなドレス、ふわふわのスカート
式場の控室。
鏡の中に映る自分が、まるで知らない人みたいだった。
真っ白なドレスに、ふわりと揺れるレースのベール。
髪も、プロの美容師さんに整えてもらって、いつもよりずっと“誰かに見られる顔”になっていた。
私は、鏡に向かって深呼吸した。
(大丈夫。ちゃんと、伝えよう)
目の前に置かれた、一枚の便箋。
古いレターセットの中でも、とっておきの一枚に書いた、手紙。
今日、これを読む。
皆の前で、声に出す。
それは、私にとって――人生で一番大きな一歩だった。
みんなが見てる前で、はじめて話した
式は、滞りなく進んでいた。
緊張はしていたけれど、彼と目が合うたびに、心が落ち着いていくのがわかった。
「新婦から、新郎への手紙を読み上げていただきます」
司会者の声に、会場が静まり返る。
私は、小さな紙を両手で握りしめて、マイクの前に立った。
――会場の全員が、私を見ていた。
でも、その中で、彼のまなざしだけは、最初から最後まで、変わらなかった。
私は、震える声で、読み始めた。
「声に、してみます」
『きいてください。
私は、言葉にするのがずっと苦手でした。』
『好きとか、ありがとうとか、ごめんなさいとか。
頭の中にはあるのに、声にしようとすると、怖くて、苦しくて。
沈黙だけが、私の安心できる場所でした。』
『そんな私に、あなたは――沈黙のまま、寄り添ってくれました。』
『「話さなくてもいいよ」と言ってくれて、
私の笑顔を見て、「今、うれしい?」って聞いてくれて、
何も言わないで、私の涙を見てくれました。』
『あなたの前では、泣けました。
あなたの前では、笑えました。
あなたの前では、少しずつ、言葉が生まれました。』
『“言葉がなくても伝わる”って、あなたが教えてくれた。
でも今日は――声に、してみます。』
私はそこで、いったん深呼吸をして、マイクから目を離し、彼の方を見た。
彼は、目を細めて笑っていた。
あのときと同じ、あの最初に電卓をくれた日の、あの笑顔で。
私は――やっと、言えた。
「……あなたのことが、大好きです」
ことばにしたからこそ、伝わるもの
式が終わって、みんなが笑っている中。
彼がそっと私に近づいてきて、耳元でささやいた。
「今日の“ありがとう”、一生忘れないよ」
「……うん」
私はうなずいて、彼の手を握った。
誰かと静かに、でも確かに、気持ちを伝え合えるということ。
沈黙が続いても、そこに“ぬくもり”があること。
そして、勇気を出して言葉にしたとき――その重さとあたたかさを、もっと深く実感できること。
言葉が苦手だった私にとって、これはきっと、人生でいちばん大きな贈り物だった。
そして、これからも――
私たちの毎日は、きっと、これからも静かだ。
朝の「おはよう」も、夜の「おやすみ」も、ときどき小さな沈黙に包まれている。
でもそれでいい。
その静けさのなかにあるのは、昔とちがって、
“こわさ”ではなく、“信頼”と“安心”。
そしてきっと、これから先もずっと――
わたしは、あなたと、
ことばがなくても、笑っていけると思います。
(完)

