『ハリー・ポッターと賢者の石』原作にあるのに映画では省略された出来事(小説との違い)
● フクロウの異常行動とマグルたちの違和感
原作では、ヴォルデモートの失脚によって魔法界に訪れた“奇跡”が、マグル(普通の人々)の世界にもじわじわと広がっていく様子が丁寧に描かれています。
朝の通勤ラッシュの中で、スーツ姿のマグルたちが空を見上げて戸惑っていたのは、ふだん夜行性であるはずのフクロウが、白昼堂々と大量に飛び回っていたから。新聞にも「イギリス中でフクロウが昼に活動」という記事が出て、人々のざわめきが強調されています。
また、ペチュニアが窓から見た猫は、新聞を読んでいるように見えたと原作にあり、つまりこれはマクゴナガル教授が猫の姿でダーズリー家を観察していたことの伏線でした。これらは「普通であること」を何よりも大事にしているダーズリー家の視点から描かれており、魔法世界とマグル世界の“壁”がゆっくりと揺らぎ始める、大切な前触れとして機能しています。
しかし映画では、この「異変の始まり」に関する演出は完全にカットされており、いきなり真夜中の街角にダンブルドアが現れるシーンから物語が始まります。原作のような不穏さと高揚感の入り混じる“序章のざわめき”は、映画では表現されていません。
● ダンブルドアがライターで街灯を消す(“パチネター”の描写)
原作では、ダンブルドアが「パチネター(Deluminator)」と呼ばれる魔法の道具を取り出し、街灯の明かりを一つひとつ吸い取るようにして消していく場面が描かれます。このとき、カチッという音や、灯りが玉のように吸い込まれる視覚的な描写がとても印象的で、静かな夜に魔法が滑り込んでくるような美しさがあります。
この「パチネター」はただの照明消しではなく、「魔法使いがマグルに目撃されないようにするための工夫」であり、後のシリーズでも重要な役割を果たす道具です。原作ではその名前・機能・音・意味合いまできっちり説明されます。
しかし映画では、ライターのような動作で一瞬だけ街灯が消されるだけで、「何が起きているのか」「なぜそうするのか」「これは何という道具なのか」という説明は一切省略されています。初めて観る人にとっては、あれが魔法道具であることすら伝わりません。
● マクゴナガルが猫の姿で丸一日観察していたという描写
原作では、マクゴナガル教授がダーズリー家の玄関前に“猫の姿で”座り込み、一日中通行人を眺めながら、ダーズリー一家の観察をしていたことがはっきり書かれています。とくにダーズリー氏が車で出勤し、帰宅するまでじっと見張っていたという描写は、彼女の責任感と用心深さを感じさせる大切なシーンです。
また、猫の姿でいる間、決して人間の言葉をしゃべることはできないため、もどかしさや忍耐強さも読み手に伝わってきます。彼女が「わざわざ猫に変身してまで一日張り込みをするほど、この夜が重要で、誰にも知られてはいけないのだ」という空気が流れています。
しかし映画では、ダンブルドアが到着すると、どこからともなく猫が現れてすぐに変身してしまうだけ。彼女がそれまで何時間もダーズリー家を見張っていたこと、その姿勢や使命感はすべて省略されています。
● ハリーのダーズリー家での扱われ方の詳細
原作では、ハリーの生活は読者の胸が痛むほど過酷です。服は全部ダドリーのおさがりで、ぶかぶかすぎてベルトで何重にも巻いて調節しないと歩けない。メガネは何度も壊されていて、レンズがセロテープで貼られている。誕生日は誰にも祝ってもらえないどころか、存在すら無視されている。
そして彼が寝ているのは「階段下の物置部屋」。ホコリだらけでクモの巣が張っており、ドアには“猫の出入り口”のような小さな通気穴がついています。そんな環境で育てられてきたハリーの孤独と不遇さが、原作では繊細に描かれています。
しかし映画では、これらの苦しみがさらっと流されてしまいます。たしかに物置部屋やセロテープの眼鏡は映りますが、彼がそれにどう傷ついてきたかまでは、描かれていません。ハリーの「どん底から始まる物語」という出発点の重さが、原作のようには伝わらない構成になっています。
● ハリーが学校でいじめられていた描写
原作では、ハリーは家庭だけでなく学校でも孤立しています。先生たちはダドリーに甘く、ハリーを面倒な子として扱っており、誰も味方になってくれません。ダドリーの取り巻きたちに毎日のように追いかけられ、ロッカーに押し込まれたり、靴を隠されたりしています。
こうした“外の世界”でもひどい扱いを受けていた描写は、ハリーが自分の人生を「価値のないもの」と思い込んでいる理由につながっていきます。でも映画では、このような学校でのいじめや冷遇は完全にカット。ダドリー以外の生徒との関係性も描かれません。
ハリーの心の深い傷は、映画だけでは半分も伝わらないのです。
● フィッグおばさんとその猫たちの話
アラビラ・フィッグおばさんは、ダーズリー夫妻が留守にするときにハリーを預けられる老婦人で、「猫の話ばかりしてくる退屈なおばさん」として登場します。彼女の家には猫が何匹もいて、ハリーは猫の写真や缶詰ばかり見せられる時間にうんざりしています。
この描写は単なるギャグではなく、「魔法界に近い存在が実は身近にいた」という伏線でもあります。のちに彼女がダンブルドア側の人間であるとわかるのは、『不死鳥の騎士団』以降ですが、最初から登場していたことに意味があるのです。
映画では彼女の存在そのものがカットされており、魔法界がマグル世界にひそかに根を張っている…という雰囲気は描かれません。
● ダドリーの友人ピアーズ・ポーリス
原作では、動物園での一件においてとても重要な役割を果たすのが、ダドリーの友人「ピアーズ・ポーリス」です。彼は細くてネズミのような顔をした少年で、ダドリーの取り巻きの一人。ハリーが蛇のガラスを「消してしまった」と疑われたとき、ピアーズは「俺、見た!あいつが蛇としゃべってた!」と真っ先にチクる役回りをします。
彼の存在は、ハリーが“理不尽に疑われる構造”をより現実味あるものにしており、さらにマグルの子どもにとっても「魔法に触れてしまった瞬間」の目撃者となっています。ピアーズは、この後の章では登場しないものの、「魔法がまだ知られていない時代の外部証人」として非常に重要です。
しかし映画ではピアーズは一切登場せず、動物園の場面ではハリー・ダドリー・ダーズリー夫妻のみに絞られています。そのため、事件の目撃者という「リアルな証拠」を持つ人物が存在しないまま、場面は過ぎていきます。
● ハリーが話しかけたら蛇が反応した細かい描写
原作では、動物園での蛇とのやり取りがじっくり描かれています。
ガラス越しにハリーが蛇を見ていると、ふいに蛇がまばたきします。するとハリーはふと「こんにちは」と声をかけ、それに蛇がまるで理解しているようにうなずいたり、再びまばたきしたりします。驚いたハリーが「君、今までどこで生まれたの?」と話しかけると、蛇はガラスに鼻先で「ブラジル」と書かれたプレートを示す。ハリーが笑って「分かるよ、檻の中は退屈だよね」と言うと、蛇はコクリと頷く。
そのやりとりは、静かだけどとてもあたたかく、ハリーが「初めて誰かとつながれた」と思えるような時間です。そしてそのあと、自然にガラスが消え、蛇は逃げ出していく。そしてその最後に、逃げながら振り返った蛇がハリーに向けて「ありがとう」とまばたきするのです。
この描写は、ハリーが「魔法に触れた最初の瞬間」であり、同時に「命のある者と心が通じ合った初めての経験」でもあります。孤独で抑圧されてきた少年が、言葉を話せないはずの蛇と心を通わせる…この場面が持つ詩的で静かな感動は、原作の名場面のひとつです。
しかし映画では、このやり取りが大幅に短縮されており、蛇がまばたきで「ありがとう」を伝える細かい演出もなくなっています。
● 手紙が家に届き始める異常現象
この章は、魔法界がハリーに「入学を知らせよう」とあらゆる手段で手紙を届けようとする描写が中心です。
最初は普通の封筒で届くものの、ダーズリー夫妻がすべて破ってしまうと、次の日には床下の隙間から滑り込んでくる。さらに壁の割れ目、ドアの隙間、窓の外…あらゆるところから封筒が飛び込んでくる。
封筒は羊皮紙に緑のインクで名前が書かれ、ロウで封印されたホグワーツの印章が押されています。その封筒が、何百枚と舞い込む光景は、まるで魔法が家の中に雪のように降ってきたかのように描かれます。しまいには、朝食の卵の殻の中にまで仕込まれていたり、暖炉から噴水のように吹き出してきたり。
こうした「魔法のユーモア」と「手紙の執念」が合わさったシーンは、原作ならではの味わいがあります。読んでいて思わず笑ってしまうと同時に、魔法界の強い意志と「君は選ばれた子なんだよ」というメッセージを感じさせます。
しかし映画では、この“手紙の攻撃”のバリエーションはかなり減っており、暖炉から噴き出す場面のみが印象的に扱われます。他の楽しい奇想天外なアイデアはすべてカットされています。
● ダーズリー一家が手紙から逃げてボート小屋に向かうまでの描写
原作では、ハリーがついに「手紙を読みたい!」と心から願ったその瞬間から、ダーズリー一家が狂ったように逃げ始めます。森を通り、山道を越え、ガソリンスタンドで地図を買い、羊の群れの間をすり抜けて進み、最終的に無人のボート小屋へとたどり着きます。そこには電気もない、寒さと風しかない場所でした。
ハリーはその移動中、何も説明されないまま車の中で小さな羊を数えて眠ろうとしたり、空腹でお腹を押さえたり、強風に肩をすくめたりして、まるで“物のように”扱われます。
こうした移動中の情景は、「この家族は、ハリーの存在を恐れすぎて、自分たちの生活すら捨てて逃げようとするほど異常だ」という印象を際立たせます。けれど映画では、この移動の描写がごっそり削られており、唐突に小屋にいるシーンへと飛んでしまいます。原作のような“逃げ惑う滑稽さ”や“空気の冷たさ”は伝わりません。
● ハグリッドが魔法でドアを破壊する場面の細かい演出
映画では、ドアがドーン!と吹き飛ばされてハグリッドが現れるインパクト重視の演出になっていますが、原作ではこの場面はもっと静かで、じわじわとした緊張感に満ちた描写がされています。
夜がふけ、雨が激しく打ちつける小屋の中で、寒さに震えながら誕生日を迎えるハリー。時計の針が12時を回った瞬間、「ドン、ドン、ドン」と、まるで山が動いたかのような重いノック音。ドアの蝶番がバリバリと音を立てながら、外からの力で少しずつゆがみ、ついに吹き飛ぶのです。
そのときのハリーの心情は、「これが悪夢の続きなのか、それとも何かが変わる瞬間なのか」も分からないほど混乱しており、まさに人生が変わる分岐点の描写として印象的です。映画では一瞬で終わるこの登場シーンも、原作では“予感”と“恐れ”と“希望”が混ざった長い時間として描かれます。
● ハグリッドが火をおこしてソーセージを焼く
原作では、ハグリッドはただの「突進型のおじさん」ではありません。小屋に入ってくるなり、手にしたピンク色の傘で炉に火を起こし、焼いたソーセージを鉄板に置きながら、飢えたハリーに「あったかいもんを食べな」と声をかける。
また、彼が作ってきたケーキには“Happy Birthday Harry”と手書きで書かれており、綴りが間違っていても(原作では”HaPee Birthdae”)それがかえって「誰かが初めて自分の誕生日を祝ってくれた」という事実に胸を打たれます。
こうした“ハグリッドの温かさ”は、魔法の力とはまた別の、優しさとしてしっかり描かれていて、ハリーにとっては人生初の「家族的な体験」になります。映画では、ソーセージや炉の火の描写がほぼ省略されているため、彼の優しさがやや見えにくくなっています。
● ハグリッドがダドリーに豚の尻尾を生やす場面の生々しさ
映画ではハグリッドが怒って傘をバシッと振り、ダドリーの尻に尻尾がポッと浮かぶ程度のあっさりとした描写ですが、原作ではもっと痛快かつコミカル、かつ“こわい”です。
怒りに燃えたハグリッドが、「お前には我慢ならねぇ」とダドリーに傘を向けて魔法をかけると、ダドリーのズボンが裂けて、青白い豚の尻尾がムクムクと伸び出してくる。悲鳴を上げながら部屋を転げまわるダドリー。ペチュニアがそれを見て気絶しそうになり、ヴァーノンが銃を構える。
この一連の場面は、ハリーが「自分を苦しめた一家がやり返される」快感と、「目の前で現実が音を立てて壊れていく」怖さを同時に感じるシーンになっており、非常に重要です。しかし映画ではこのインパクトが削られ、テンポ優先でサラッと処理されてしまっています。
● ニコラス・フラメルについてハグリッドが言いかけて止まる
これは原作を通して読む読者にとっては、非常に大事な伏線です。ハリーが「賢者の石」や「ヴォルデモート」について無邪気に質問したとき、ハグリッドは「えーと、あの人の名前はニコ…いや、こりゃ言えねぇ」と言いかけて口をつぐみます。
この「ニコ…」という一言が、のちにハリーたちが「ニコラス・フラメル」の名前を本で探し始めるきっかけになり、物語が「ただの冒険」から「真相探し」へと深まっていきます。原作ではこの言いかけと沈黙が“伏線”として強く印象づけられますが、映画ではこの場面そのものが存在せず、謎解きの導入がやや唐突に感じられます。
● ハリーが魔法界に初めて入るときの感動描写
原作で最も印象的な場面のひとつが、ハグリッドに連れられてダイアゴン横丁へ足を踏み入れる瞬間です。レンガの壁が動いて通路が開き、ハリーの目の前に、今まで見たこともない世界が広がる――魔法使いたちが行き交い、フクロウが鳴き、鍋や杖や呪文の本が店頭に山積みになっている。
ハリーはそのすべてに目を見張り、誰にも話しかけられないまま、ただただ「夢の中にいるようだ」と感じながら歩きます。見上げると、空にはドラゴンの皮でできたトランクが宙を舞い、遠くからは魔法薬の匂いが漂ってくる。人々は奇抜な帽子やローブを身にまとい、普通の世界の常識がここでは一切通じないことが、空気から伝わってきます。
でも映画では、この「初めて魔法界に足を踏み入れる瞬間」の驚きや喜びがかなり削られていて、ダイアゴン横丁は単なる“ファンタジーの通り”として映し出されるだけになっています。ハリーの内面のときめきや、魔法に触れたときの興奮が、十分に伝わってきません。
● オリバンダーがハリーに杖を選ばせるまでの試行錯誤
映画では、ハリーが数本試した後すぐに「運命の杖」に巡り合いますが、原作ではまったく違います。オリバンダーは「杖が魔法使いを選ぶ」と何度も強調しながら、棚からさまざまな木材・芯の種類・長さの違う杖を取り出し、次から次へと試させます。
「ふむ…ワシの羽根、29センチ、しなやか。さあ、振ってみて」と言われて振るたび、棚が爆発したり、紙が燃えたりする。オリバンダーはそのたびに、細い指であごをさすりながら「いや、違うな…これはどうだ」と続けます。この“探し求める儀式”こそが、ハリーにとって「自分が選ばれる側ではなく、初めて自分で選び取る瞬間」なのです。
最終的に“兄弟杖”にたどり着いた時、オリバンダーが語る「この杖の芯は、ヴォルデモートのものと同じフェニックスの羽根だ」という言葉が、ハリーの中に重く響きます。このやり取りは、運命の影を初めて感じさせる大切な場面であり、彼の葛藤の種を植え付ける瞬間でもあります。映画では、テンポよく数本試して“あたり”が出たような扱いになっており、深みが不足しています。
● ハリーが駅で立ち往生する描写
原作では、ハリーがホグワーツへの旅立ちを前にロンドンのキングズ・クロス駅にやってきます。でも、そこで完全に立ち尽くしてしまうのです。というのも、切符に書かれていた「9と3/4番線」という文字を見て、何をどうすればいいのかまったく分からなかったからです。
彼は9番線と10番線のあいだを行ったり来たりしながら、荷物を引きずって不安そうにきょろきょろします。まるで置いてけぼりにされた迷子のように。駅員に話しかけようとしても「そんな番線ないよ」と冷たく言われてしまい、さらに心細くなります。
この描写では、「魔法界への扉を前にしながら、それがどうしても開かない」という“はざまの感覚”が丁寧に描かれています。ハリーはここでも“誰にも助けを求められない孤独な少年”として描かれており、彼が「ウィーズリー家」という光を見つける直前の、不安と孤独の頂点でもあるのです。
しかし映画では、この部分がすっかり省略され、すぐにウィーズリー家と出会ってしまいます。ハリーの戸惑い、孤独、そこから救われる劇的な瞬間が、映画では十分に描かれていません。
● フレッドとジョージの言葉遊び
原作では、ウィーズリー一家との出会いもとてもにぎやかで温かく、双子のフレッドとジョージはひたすらふざけています。たとえば、フレッドが母親に「僕はフレッドだよ!」と言うと、ジョージが「ちがうよ、ママ、僕がフレッドだよ」とかぶせる。モリーは「もうやめて、あんたたちは本当にややこしい」と困りながら笑います。
この何気ないやりとりが「ウィーズリー家にはユーモアと愛がある」という印象を強く与えるだけでなく、ハリーにとって「家族ってこんなに温かくて楽しいものなのか」という気づきを与える瞬間でもあります。
また、ロンが「家族の中で末っ子であることの居心地の悪さ」や「兄たちと比べられる辛さ」をこっそり語る場面もあり、彼の心の中も垣間見えます。こうした“性格の輪郭”が明確に描かれていく中で、ハリーは自分がこれから「一緒に戦う仲間たち」と出会っていく期待を感じていきます。
映画では、双子のやりとりがほんの数秒に縮められており、家族のにぎやかさや親しみやすさが十分に伝わりません。
● ハーマイオニーが嘘をつくシーン(トロール事件後)
この場面は、原作ではとても重要な「友情の始まり」の瞬間です。
ハロウィーンの日、ハーマイオニーが一人で泣いていたトイレにトロールが入り込み、ハリーとロンが命がけで彼女を助けた出来事のあと、先生たちが駆けつけます。普通なら、勝手にトロールに近づいたハリーたちが厳しく罰せられるはずの場面。
でもハーマイオニーはそこで、「すべて私のせいなんです。私が一人で探検しようとしたから。ハリーとロンは、私を助けようとして追いかけてくれただけなんです」と嘘をつくのです。彼女はきっちりした性格で、ルールを破るのを嫌がるタイプ。でもこの時ばかりは、自分が罰を受けてもかまわないと思って、ハリーとロンをかばいます。
この嘘がなければ、三人は一緒に過ごすことはなかったかもしれない。原作ではこの直後に、「この夜を境に、三人は“気まずさを感じることがなくなった”」と記されていて、明確に友情の起点となっています。
映画でもトロールの場面はありますが、ハーマイオニーのセリフはかなり短縮されており、彼女の決断や優しさ、そこにある勇気の重みはあまり伝わってきません。
● スネイプ先生の授業の詳細と、彼の執拗な偏見
原作では、スネイプが初めて授業に登場する場面は、異様な緊張感に包まれています。教室の空気は重たく、スネイプが黒いローブをまとって音もなく入ってくると、生徒たちはぴたりと黙り、椅子にまっすぐ座り直す。彼は黒板も使わず、滑るような低い声で、まるで毒を吐くように喋ります。
スネイプはすぐにハリーにだけ異常な関心を向け、「君の名は…ポッター…有名人が我が教室に」と皮肉たっぷりに言います。そして唐突に「薬草マンダレイクの効果は?」「トランスの粉の材料は?」と専門的な質問を次々と浴びせ、ハリーが答えられないと、あざ笑うような態度を見せます。
これは“先生としてのいびり”というより、“個人への感情を授業に持ち込む”明確な偏見です。周囲の生徒たちも驚き、ロンが小声で怒るほどです。この場面は、スネイプという人物の「正しさよりも私情を優先する」性格を強烈に印象づける場面であり、ハリーとの長く苦しい関係の第一歩でもあります。
しかし映画では、質問シーンやクラスの空気感が一部のみ描かれ、スネイプのねっとりした敵意や、生徒間の反応、ハリーの戸惑いなどがほとんどカットされています。結果として、スネイプの人物像が「ただの怖い先生」程度にしか伝わらなくなっています。
● ネビルのポーション失敗と怪我
原作では、ネビル・ロングボトムが魔法薬の授業で爆発を起こし、腕に火傷を負って飛び跳ねるという描写があります。彼はポーションの材料を間違えて入れ、ぶくぶく泡が吹き出し、やがてガラス瓶が割れて大混乱。自分の腕に薬が飛び散ってしまい、ヒリヒリと腫れあがります。
そのときスネイプはどうしたかというと、まったく助けようとせず、冷たい声で「ポッターがいらんことを教えたせいだ」と言いがかりをつけ、手当もマダム・ポンフリーに丸投げする。クラス中が凍りつくような場面です。ネビルのドジっぷりと、それに対する周囲の反応、スネイプの冷酷さが一気に描かれるエピソードで、原作読者にとってはネビルへの同情と、スネイプへの違和感が深く刻まれます。
映画ではこの場面は丸ごとカットされていて、ネビルが「問題児」ではなく「背景の生徒」としてしか描かれていません。
● マルフォイの「決闘」への挑戦と裏切り
原作では、ドラコ・マルフォイがハリーに「真夜中の決闘」を挑む場面があります。クィディッチの飛行訓練でハリーが注目を浴びたことに腹を立てたマルフォイが、「今夜12時、トロフィー室で勝負だ」と言い放つ。ロンはすぐさま乗り気になりますが、ハーマイオニーは「校則違反よ!」と必死で止めようとする。
しかし、真夜中にハリーとロンがこっそり寮を抜け出して待っていると、マルフォイは現れない。実はこれ、「ハリーたちをおびき寄せて罰を受けさせるための罠」だったのです。これによって、マルフォイの卑怯さがはっきりと浮かび上がります。
同時に、フィルチ(管理人)とミセス・ノリス(猫)の巡回、そしてハリーたちがホグワーツの廊下を走り抜けて逃げ回る場面が、原作ではスリリングに描かれます。「トイレの中に隠れる」「扉の陰に息を潜める」「魔法で鍵を閉じようとする」など、ホグワーツの“夜の顔”が鮮明に映し出される章でもあります。
映画では、この夜の決闘エピソードそのものが完全に省略されているため、マルフォイの性格も、ハリーたちの友情も、この章における“夜の冒険”のワクワク感もすべて失われています。
● ハリーが禁じられた3階廊下に迷い込む経緯
この決闘の“待ちぼうけ”と“逃走劇”の途中、ハリーたちは偶然、禁じられている3階の廊下に入り込んでしまいます。原作では、逃げる最中にネビルも加わり、足をくじいてしまったネビルを支えながら走っている最中、扉を開けたらそこに…「三つ頭の犬(フラッフィー)」がいたのです。
特に印象的なのが、逃げ込んだ部屋の扉を閉めた直後、「床が濡れていて足元がすべる」「すぐに気づかずに奥へ進んでしまう」などの細かいディテール。フラッフィーが姿を現したときの「三つの頭が同時に牙をむく」描写や、「扉が閉まりかけた瞬間に一つの頭が噛みついてきた」など、緊迫感あふれるシーンとして描かれます。
ここでハリーは「犬の足元に何かがある」=「トラップドア」に気づき、初めて“何かが守られている”という疑念が芽生えます。つまりこの場面は、賢者の石の秘密にハリーが初めて接近する重要な第一歩なのです。
映画ではこの前段の逃走劇がないため、ハリーたちがなぜあの部屋に迷い込んだのかが描かれず、結果的に“突然犬が出てきた”ように見えてしまいます。
● ハーマイオニーが泣いてトイレに隠れる理由の詳細
原作では、ロンが「ハーマイオニーって、なんであんなに何でも知ってるんだよ。まるで先生と一緒じゃん。正直、うざい」とクラス中に聞こえる声で言い放ちます。その言葉を聞いたハーマイオニーは、何も言わずに教室を飛び出し、泣きながら女子トイレに閉じこもってしまいます。
ここでの描写は、彼女のプライドの高さや努力家としての一面と、その裏にある繊細な心がはっきりと描かれています。彼女はいつも正しくあろうとし、間違えないように努力していた。でもその“真面目さ”がクラスメートに拒絶されることで、「自分が嫌われている」という現実にぶつかる。そして誰にも見られない場所で泣く。とても人間らしい、切ない描写です。
映画ではこの「心が折れる瞬間」はほぼスキップされていて、彼女がなぜトイレにいたのかの背景が説明されません。視聴者には「たまたまそこにいた」程度にしか見えず、彼女の感情の深さがまったく伝わってきません。
● トロール騒動中の混乱ぶり
原作では、クィレルが「トロールが入りました!」と叫ぶと、ホグワーツ中が大混乱に陥ります。生徒たちは叫び声を上げながら寮に戻るように指示され、先生たちは走り回って安全確認を始める。
ハリーとロンは、ハーマイオニーがまだ女子トイレにいることを知ってしまい、自分たちの足でトロールを探しに向かいます。途中、廊下で通った部屋の扉がバタンと閉まる描写や、壁の向こうから響くうめき声、そしてトロールの巨大な影がカーブの先からぬっと現れるなど、サスペンス的な空気が濃密に描かれています。
そしてトロールとの対決では、ロンが混乱しながらもクラブを浮かせて打ち落とす場面、ハリーがその場でどう動くかを瞬時に判断する力など、「ただの小学生のいたずら」では済まされないスリルがあります。映画ではこれらの細かな導線や臨場感がかなりカットされ、シーンとしての迫力はあるものの、積み重ねによる緊張感は弱まっています。
● トロール戦後のハーマイオニーの嘘と関係改善の描写
トロールを撃退したあと、駆けつけた先生たちに対して、ハーマイオニーが毅然とこう言います。「私がトロールを探しに行ったの。自分が悪いの。ハリーとロンは、助けに来てくれただけ」――ここで、普段は規則を何よりも大事にしていたハーマイオニーが、“友情”のためにルールを破るのです。
この「嘘」は、彼女がハリーとロンに心を開いた瞬間であり、三人の関係が「ただのクラスメート」から「本当の仲間」へと変わる決定的な出来事です。原作では、このあとすぐに「この事件をきっかけに、三人が一緒にいても気まずさを感じなくなった」とナレーション的に語られ、それが三人組の“始まり”として印象づけられます。
映画でもトロール戦の後に仲良くなる流れはありますが、この嘘のセリフがごく短くまとめられており、ハーマイオニーの勇気と感情の変化が視聴者に深く伝わるようにはなっていません。
● ハリーが箒で飛ぶことに慣れていく描写
原作では、クィディッチの初試合に出るまでに、ハリーがどのようにして飛行術を練習し、箒を乗りこなしていったかが描かれます。木曜日の朝早く、マダム・フーチの目を盗んで一人で練習したり、ウッド(グリフィンドールのキャプテン)と一緒にグラウンドを走り回ってスニッチを探す訓練を積んでいきます。
また、空中でのバランス感覚や風の流れを読む力、急旋回のコツなど、実践的な指導の様子が丁寧に書かれており、「ただの才能」ではなく、「積み重ねた努力」で空を飛べるようになったことがわかります。
しかし映画では、この過程が省略されていて、ハリーはいきなり「選手として登場」し、いきなりスニッチを捕まえます。これでは彼の成長や努力が感じられず、運だけで勝ったような印象になってしまいます。
● ハーマイオニーがスネイプのローブに火をつける場面
試合中、ハリーの箒が異常に揺れ始める場面。原作ではハーマイオニーが双眼鏡で観察し、スネイプが何かを呟いていることに気づきます。彼女はすぐにスタンドを駆け下り、スネイプに忍び寄ってローブに火を放ちます。スネイプがあわてて火を消そうとする間に、ハリーは操縦を取り戻すのです。
このシーンでは、ハーマイオニーの機転と行動力、そして「危険が迫ったら黙っていられない性格」が強く出ており、彼女の内に秘めた勇気と判断力がはっきりと描かれます。また、ローブに火をつけるという選択には、スネイプを疑う彼女なりの警戒心と敵意がにじんでいます。
映画ではこの描写が簡略化され、ハーマイオニーがスネイプの後ろを走り回って何かをする様子しか描かれません。何をしたのかが分かりにくく、彼女の行動の意味が伝わりません。
● ハリーが何度も鏡の間に通い詰める描写
原作では、ハリーが「エリセドの鏡」に初めて出会った夜の描写が非常に美しく、かつ切なく描かれています。禁じられた本棚を探しに忍び込んだ夜、たまたま隠れるために入った小部屋に、その鏡はひっそりと置かれていました。鏡に映ったのは、ずっと会いたかったはずの「両親を含む家族の姿」――パパとママ、見知らぬ祖父母、そして笑顔で手を振るたくさんの親戚たち。
この瞬間の描写は、言葉にならない想いが波のように押し寄せてくる場面です。ハリーはその場から動けなくなり、ずっと鏡を見つめ続けます。そして翌晩、またその部屋へ行きます。次の夜も、またその次の夜も。ハリーは、まるで夢に取り憑かれたように、鏡の部屋に通い詰めるようになるのです。
原作では何度も繰り返される彼の行動が、「現実に存在しない愛」にすがる幼い心をリアルに描き出しています。そして、この鏡がただの魔法道具ではなく、“願いを見せる装置”であることが読者にも伝わってきます。
しかし映画では、ハリーが鏡を覗くのは1回きりです。両親の姿を見て涙ぐむ場面はあるものの、何度も通う執着、夢への依存、そしてその先にある“切り離し”の苦しみまでは描かれていません。
● ロンが鏡に映る自分に見惚れる詳細描写
原作では、ハリーがロンを鏡の部屋に連れて行くシーンがあります。ロンはそこに映った「首席バッジをつけた自分」「クィディッチのキャプテンとしてトロフィーを掲げている自分」を見て、目を輝かせます。兄たちに埋もれがちだった彼の中にある「特別になりたい」という願望が、鏡を通して読者に明かされます。
この描写は、ロンが単なる“お調子者の親友”ではなく、「家庭環境によるコンプレックス」と日々向き合っている少年だということを、静かに、けれどはっきりと示している重要な場面です。
ハリーが「家族への憧れ」を見ていたのに対し、ロンは「他人からの評価や成功」を願っていた――この対比こそが、二人の成長物語の原点でもあります。
しかし映画ではこの場面が完全にカットされ、ロンの内面に触れるチャンスが失われています。結果として、ロンの願望や複雑さが観客にはほとんど伝わらないまま、彼の存在は“友人ポジション”に固定されてしまいます。
● ダンブルドアの忠告の言葉の削除
原作では、ダンブルドアが鏡の間でハリーを見つけ、彼にこう語ります。「この鏡は、最も切望するものを映す。しかし、現実を見ずにそれを追い求める者は、やがて自分を見失うことになる」
そして彼は、「何が正しいことか、どう生きるべきかは、鏡では教えてくれない」とハリーに静かに告げます。この言葉は、ただの教訓ではなく、ハリーが「もう見られないはずの家族への執着」を自ら断ち切るための心の種になります。実際、彼はこのあと鏡を探すのをやめます。
これは、現実に生きるということの痛みと強さを伝える名場面です。しかし映画ではこのセリフがほぼ削除され、ダンブルドアとの会話もかなり簡略化されてしまっています。ダンブルドアが“導く存在”として語りかける、静かで重要な時間が描かれないのは非常に惜しい点です。
● 三人が本を使ってフラメルの正体を探す「探偵ごっこ」
原作では、ハリー・ロン・ハーマイオニーの三人が「賢者の石」の謎を追い始めますが、その第一歩が“ニコラス・フラメルの正体探し”です。図書館の禁書コーナーにこっそり入り、本を片っ端から調べたり、記憶をたどって思い出そうとしたり、まるで探偵のように作戦を立てます。
冬休みに入ってからも、三人は学校に残り、「クリスマスプレゼントより先にフラメルを見つけよう」と意気込む。ハーマイオニーが分厚い本を持って「これに載ってるかも」とか、ロンが「もう飽きてきたよ…でも気になる」とぼやきながらもページをめくる…そんな姿が、子どもたちが「自分の頭で謎を追う」知的なワクワクとして描かれます。
この「図書館を舞台にした捜索劇」は、彼らがただの受け身な生徒ではなく、“能動的に秘密に迫る存在”へと成長していく第一歩です。しかし映画ではこの探索のプロセスがほぼ省略され、ハーマイオニーが突然「フラメルって…このチョコのカードで見た!」とひらめくだけ。三人の探究心、試行錯誤、友情の積み重ねが描かれず、唐突感が否めません。
● ハグリッドがドラゴンの卵を手に入れて喜ぶ描写
原作では、ハグリッドが自分の小屋でこっそり巨大な黒い卵を抱えていて、それを見せびらかすシーンから始まります。彼は「どうやって手に入れたの?」と聞かれると、「飲み屋で知らない男とドラゴンの話で盛り上がってたら、向こうが賭けに負けて譲ってくれた」と嬉しそうに語ります。でもそれは明らかに怪しく、読者にも「あ、この人まんまと罠にかかってるな…」という不安が芽生えます。
そして彼は自分の椅子の上に卵を置いて、暖炉の火で温め、寝る前に子守唄を歌ってやったり、「もうすぐ孵るぞ」と満面の笑みを浮かべます。ハリーたちは内心「やばいって」と思いながらも、ハグリッドの無邪気な愛情に何も言えなくなる。この場面は、“大人でありながら、子ども以上にルールが守れないハグリッド”というキャラクターの本質をじわじわ伝えてきます。
映画ではノーバートの登場は一瞬で、「すでに孵っている」「秘密裏に育てている」という事後描写に近く、彼がドラゴンを育てる喜びや準備の過程はほぼ描かれていません。
● ドラゴンをチャーリーの友人に渡すための塔への大冒険
ハグリッドのドラゴンがどんどん大きくなっていき、咳き込んだ煙で小屋が真っ黒になったり、噛まれて怪我をしたりするころ、ついにハリーたちは「チャーリー(ロンの兄)に引き取ってもらおう」と決意します。原作では、この引き渡し作戦の準備もとても綿密で、封筒でやりとりをし、夜中に塔までノーバートを運び、空飛ぶホウキで来たチャーリーの友人たちに手渡す…というまさに“秘密任務”です。
ロンがノーバートに噛まれて手が腫れ上がり、マダム・ポンフリーに隠そうとして苦労したり、ドラゴンの大きさに四苦八苦しながらマントの下に隠して運ぶなど、細かい描写のすべてが“緊張と滑稽さ”に満ちています。特に印象的なのは、彼らがドラゴンの重みに耐えながら夜の階段をこっそり登っていく場面で、「見つかるかもしれない」「でも、今しかない」という背水の覚悟がにじみ出ています。
しかし映画ではこのドラゴン密輸作戦がまるごとカットされており、「ノーバートがどこかへ行った」という結果だけが語られるため、キャラたちの葛藤や努力、成長がほぼ描かれません。
● マルフォイに見られていたという事実と、それが罰につながる展開
原作では、塔での引き渡しに向かう途中、ハリーたちはマルフォイに尾行されていることに気づきません。そしてその後、見事に密告され、夜間外出の校則違反で厳しい罰を受けることになります。ネビルも偶然ついてきてしまい、一緒に罰則対象になるという“理不尽な巻き添え”も発生します。
この一連の流れは、「仲間を助けるための正しい行動だったとしても、ルールを破れば罰を受ける」という、ホグワーツの厳格な校風をよく表しています。また、マルフォイの「告げ口することで相手を苦しめる」という卑怯さも強調されます。
映画ではこの尾行・密告の流れが存在せず、「どうしてハリーたちが罰を受けるのか」があいまいになっています。そのため、次章の「禁じられた森での罰」が唐突に感じられてしまう構成になっています。
● ケンタウルスたちとの深い対話と世界観の拡がり
原作では、夜の罰則としてハグリッドに連れられ、ハリー・ハーマイオニー・ネビル・マルフォイの四人が「禁じられた森」に入ります。森の中では、ユニコーンの血が垂れた銀色の跡をたどりながら、何か“異常な存在”に追われる不気味な空気がずっと漂っています。
森の中で彼らは複数のケンタウルスと出会います。たとえばロナンは星を見上げて「火星は赤いな」と呟き、ベインは「人間が星を理解しようとするのは傲慢だ」と冷たく言い放ちます。このようなケンタウルスたちは、“人間とは異なる知性と価値観を持つ魔法生物”として深く描かれます。特に印象的なのは、彼らが「星に語らせよ」と言う場面。これは、「未来は決まっている」「自分たちはその流れに従うだけ」という宇宙観を象徴しています。
フィレンツェがハリーを背中に乗せて助け出すとき、他のケンタウルスたちは「人間の子どもを乗せるとは!それはケンタウルスの誇りを捨てた行為だ!」と怒る。この場面は、“異種族間の対立”や“誇りと使命感の衝突”を描いた、非常に深みのある対話シーンです。
しかし映画では、ケンタウルスはフィレンツェ一人しか登場せず、しかもセリフも極端に短縮されていて、彼らの文化や思想の違いはまったく表現されません。
● ネビルが罰則に参加していた事実
原作では、密告と無関係だったネビルも“間違って一緒にいた”というだけで罰則を受けることになります。この描写は、「ホグワーツでは何があってもルールが優先される」という厳格さを示すとともに、ネビルの“巻き込まれ体質”が浮き彫りになります。
さらにこの経験が、のちにネビルが成長していく上での“最初の恐怖体験”として重く残っていきます。しかし映画ではこのあたりの背景説明がなく、罰則メンバーが「ハリー・ハーマイオニー・ロン」に入れ替えられているため、ネビルの役割と存在感が削られています。
● スネイプが用意した「論理のパズル」が完全に削除された
この章で最大のカットは、「スネイプの罠の部屋」です。原作では、賢者の石へ向かう通路にはいくつもの仕掛けや守りの魔法があり、それぞれ違う先生が担当しています。映画でも一部の部屋(悪魔の罠、鍵、チェス盤)は描かれますが、スネイプが用意した“毒と炎のパズル”の部屋はまるごと削除されています。
この部屋では、テーブルの上に七つの小瓶が並べられていて、それぞれには「進む」「戻る」「毒」の効果が隠されています。壁には魔法では解けない、完全に“論理”だけで解かねばならない謎解きの詩が刻まれています。ハーマイオニーはこの場面で大活躍し、冷静に分析し、勇敢にも自分が毒のリスクを負ってハリーを先に進ませるという決断を下します。
この描写は、「勇気だけでなく、知性もまた試練を乗り越える力である」というメッセージを持っており、ハーマイオニーというキャラクターの魅力をまざまざと示す場面です。
しかし映画では、ハーマイオニーの活躍もスネイプの知的な罠も削られてしまい、彼女がただチェス盤のあとに「ここからはハリー、あなた一人で」と言って別れるだけの演出になっています。そのため、ハリーが仲間の力を借りてここまで来たことの重みや、仲間の知性と献身が伝わらなくなってしまっています。
● チェス盤の戦いの心理描写の削減
ロンが命をかけて「自分が犠牲にならなければ君たちは進めない」と言ってナイトの位置に入り、攻撃を受けて倒れる場面は映画にもあります。ただし原作ではこのシーンに至るまでの心理描写が非常に濃厚で、「これはただのゲームじゃない、負ければ死ぬかもしれない」という張りつめた空気の中、ロンが唯一、駒の動きと戦略を完全に読んでいたということが強調されます。
この場面は、普段は劣等感に苦しんでいたロンが、自分の得意分野で“命を救う役割”を果たすことで、ついに仲間の中での「価値」を証明する場面でもあります。
映画ではやや軽めに「ちょっとカッコいいことしたロン」程度に描かれてしまっているため、原作での彼の“成長の一歩”としての重みが失われています。
● クィレルが「トロールも自分が操った」と明かす場面の削除
ハリーが最後の部屋に入って、そこにいたのがスネイプではなくクィレルだったことが判明する、衝撃の場面。原作ではこのあとクィレルが、今までの出来事を一つ一つ振り返って「全部自分がやったんだよ」と冷たく笑いながら明かします。
とくに印象的なのは、あのハロウィーンの夜に侵入してきた巨大なトロールを自分が操っていたという暴露です。あのとき生徒たちがパニックになり、ハーマイオニーがトイレに閉じ込められ、ロンとハリーが命がけで助けたあの出来事――それすらも、「クィレルがヴォルデモートに忠誠を誓っていた証拠」だったのです。
映画ではこの告白の大半が省略されていて、観客が「あれもこれも実は仕組まれていた」と理解する余地が狭くなっています。原作でのこの場面は、まさに全てのピースがはまる瞬間として、とても重要です。
● 鏡の中の「ダンブルドアの援護」の描写が曖昧
原作では、ハリーが賢者の石を手に入れる場面で、「鏡の中に石を隠す」という仕組みが語られます。石は「それを持とうとしない者だけが手に入れられる」――これは、“純粋な心”だけが報われる”という深い魔法です。
さらに、クィレルが必死に鏡の中を見ても答えがわからず、ヴォルデモートが「見ろ!」と命令しても通じず、ハリーの中にある善の力が、彼らの邪悪な力に打ち勝っていくという描写が続きます。
このとき、原作では“ダンブルドアがちょうどこの瞬間に戻ってきていた”ことが示されます。彼が戻ってきた理由は、ハリーが“鏡の中で石を手に入れた”ときに、魔法の仕掛けで警告が発せられたから。そしてそれを察知して、すぐに舞い戻ってきたというのです。
この説明により、「ダンブルドアは何もかも放置していたわけではない」という信頼感が生まれ、同時に“人は最後の最後で自分自身の選択を試される”というテーマも深まります。
映画では、ダンブルドアが突然ふわっと現れてクィレルが消え、すべてが終わるという流れで、彼の知恵と関与の具体的な説明が欠けています。
● クィレルが灰になるまでの描写がより生々しく描かれている
原作では、ハリーがヴォルデモートの力を受けたクィレルと直接触れたとき、クィレルが燃えるように苦しみ、その肌が「炭のように黒く焼けて、ぼろぼろと剥がれていく」さまがリアルに描写されます。ハリーもその苦痛で気を失うほどで、勝利と引き換えに大きなダメージを受けたことがはっきりと伝わってきます。
映画では視覚的にインパクトを持たせるために、やや美化された演出(光に包まれ崩れ落ちる)になっており、原作にある“死の生々しさ”や“恐怖と対価”が薄れています。



