となりの席の嫁子さん|2ちゃん馴れ初め風物語まとめ【同僚・社内恋愛】

となりの席の嫁子さん|2ちゃん馴れ初め風物語まとめ

この馴れ初め話は著作権フリーで改変も自由・YouTubeの素材やSNSでご使用いただいても問題はありません。ただ以下のリンクを張っていただけたら幸いです。
はっくなび

『となりの席の嫁子さん』


【 登場人物】

● 主人公(俺)

  • 男性。25歳。都内の中堅IT企業勤務。
  • 極度のオタク。ジャンルはアニメ(ロボ・百合系)、TRPG、ソシャゲ課金勢。部屋に美少女フィギュア多数。
  • 他人とのコミュニケーションがとにかく苦手で、職場では「空気以下の存在」とされている。
  • 清潔感は「並」だが、ファッションは無頓着。ユニクロで全身を済ませる。
  • 心の声がめちゃくちゃ多く、分析過剰で自意識過剰。すぐに妄想し、自己嫌悪する。

● 嫁子(よめこ)

  • 女性。26歳。同じ会社の隣の部署の事務職。
  • 淡々と仕事をこなすが、よく笑う。雰囲気が柔らかくて話しかけやすいと評判。
  • 趣味は古いゲーム、レトロアニメ、レトロ喫茶めぐりなど、いわゆる「シブめのオタク」。
  • 実はかなりコミュ力が高く、周囲に合わせるのがうまい。ただし、自分をあまり表に出さない。
  • 主人公のことを「変わってて面白い」と思っている。徐々に好意を抱いていく。

● 高橋(たかはし)

  • 主人公の同僚(SE)。28歳。自称「リア充オタク」。
  • スポーツもオタク趣味もこなす、要領のいい男。
  • 主人公にとっては唯一話せる「社会に馴染んでるオタク」。
  • 時に背中を押してくれる重要人物。

● 美織(みおり)

  • 嫁子の親友。27歳。企画部所属。
  • やたらと面倒見がよく、嫁子をからかうのが好き。
  • 「お前らもう付き合っちゃえよ」係。空気を読まないが、実は気を使えるタイプ。

● 木村課長

  • 主人公の上司。46歳。無駄に声がデカい。
  • 空気は読めないが悪気はない。「最近の若者はよくわからん」が口癖。

沈黙の隣人

――職場のフロアには、いつも冷たい蛍光灯の明かりが満ちていた。

俺の名前は佐倉瞬(さくら・しゅん)、25歳、IT系中堅企業のSE。入社してもう3年目だというのに、俺は相変わらず「空気」としてこの場所に存在している。

毎朝、9時には席に着き、コーヒーを飲んで、PCを立ち上げて、淡々とプログラムコードを書く。昼休みも、誰とも話さずにコンビニ飯をデスクで食べ、ネットニュースと推しのVtuber配信を交互に眺める。それが俺の日常だった。

喋らなくて済むなら、それに越したことはない。

人の目を見て話すのが怖い。なにを言えばいいのか、いつもわからない。誰かの機嫌を損ねてしまうんじゃないか、笑われるんじゃないか、軽蔑されるんじゃないか――そんな妄想が頭の中で爆発的にふくらみ、結局「何も言わない」が最適解になる。

職場の同僚たちは俺のことを「無害系」「静かで優しい」とか適当にラベリングしているらしい。実際はただのコミュ障オタクだ。推しが喋ってると泣けるし、ゲームで推しの死亡ルートに入ると数日寝込む。

……まぁ、そんな俺の隣に、嫁子さんがいる。

「嫁子」はもちろんあだ名だ。本名は渡会(わたらい)美沙(みさ)さん。入社時の名簿で「嫁にしたいランキング1位」とか不名誉な投票されていた人で、俺が勝手に心の中で「嫁子」と呼んでるだけ。

ふわっとした髪。眼鏡。ベージュ系のカーディガン。物腰が柔らかく、誰とでも自然に話せる。だけど、不思議とその会話は深く踏み込まない。誰にでも合わせられるけど、自分を見せないタイプだ。そこがまた魅力だった。

でも俺は彼女と、ろくに言葉を交わしたことがない。

「おはようございます」「お疲れさまです」――その程度の儀式的なあいさつを、義務的に交わすだけ。

それで十分だった。いや、十分以上だった。毎日、隣に「嫁子さん」が座っている。ときどき咳払いや、キーボードを打つ音が聞こえる。その気配だけで俺は、奇跡のような安定を得られていた。

ところが。

その日、事件が起きた。

午後3時。俺はトイレ休憩から戻り、自席に座ろうとしたとき、何かがカサッと足元で音を立てた。黒いプラスチックの、小さな……USBメモリだった。

「……?」

拾い上げると、カバーに小さく「W.M」と書いてある。誰のだ?と思って隣を見ると、嫁子さんがPCに向かってカチャカチャしていた。

「あの……これ……落としませんでした?」

震える声だった。心臓が耳の裏で鳴っている。

嫁子さんは「ん?」と振り向き、俺の手元を見て「あっ」と声を上げた。

「あ、それ、私のです。ありがとうございます!」

微笑んで受け取る嫁子さん。

……眩しかった。笑顔が。

「すごく助かりました……実は、データ飛ばしちゃって。今朝、予備に取っといてよかった~って」

そう言って、嫁子さんはクスクス笑った。

俺はただ、こくこくと頷いた。必死に。

「……あ、そうだ。佐倉さんってアニメとか観ますか?」

唐突な質問だった。俺は目を丸くした。

「え……? あ……観ます。だいぶ……がっつりと……」

噛みまくった。

「じゃあ、このUSBに入ってるやつ、もしかして知ってるかも。『超重機ティルヴァーナ』って知ってます?」

…………知ってるどころの話じゃねぇよ。

俺の青春、ど真ん中。DVDボックス買った。ソシャゲに月3万突っ込んだ。イベントで転売ヤーと殴り合いそうになった。つまり、推しが尊い。

「あの……はい。……すごく、好きです」

震える声で、そう告げた。

嫁子さんの目が、ふわっと丸くなった。

「ええっ!マジで!? えー嬉しい!ていうか、語れる人いなかったんですよ!」

その言葉に、俺の中のなにかがパキッと音を立てて割れた。

「俺……推しは“ガイア機”のソフィ・ハルトです」

「私もっっ!!!」

「マジすか」

「マジです!」

USBを両手で大事に抱えた嫁子さんが、笑っていた。

それが――俺たちの、最初の会話だった。


推しジャンルが交差した

その日、俺は定時で帰れなかった。

仕事が立て込んでいたとか、バグが出たとか、そういう理由ではない。要するに、あの会話のあと、興奮して仕事が手につかなかったという情けないオチだった。

「推し、ソフィ・ハルトなんです!」

嫁子さんのあの言葉が、脳内で無限ループしている。

──共鳴した。完全に。初めて、職場で誰かと、オタク趣味で真正面から共鳴した瞬間だった。

「私もっっ!」

「マジです!」

これ、幻聴じゃないよな?夢じゃないよな?

終業後、誰もいないオフィスで頭を抱えて膝を抱えた男がいたら、それは俺です。うれしすぎて、混乱して、デスクに突っ伏したまま10分くらい動けなかった。

だが翌日、嫁子さんはいつもと変わらない様子で俺に挨拶をくれた。

「おはようございます、佐倉さん」

「お……おはようございます」

語尾が消えた。小動物並の声だった。

そんな俺に、嫁子さんは自然に話しかけてくれた。

「昨日、帰ってから思い出してニヤけちゃいました。ガイア機が推しなんて、めっちゃ話し合いそうで」

「い……いや、俺も……同じです……」

情けない。まともに喋れない自分が情けなさすぎて、今すぐ地面に埋まりたい。

でも、嫁子さんは気にしていない様子で笑ってくれる。

「よかったら、今度……ランチ休みに、ティルヴァーナの話しませんか? 同期の美織に話しても、“何それ?”って感じでさ」

――まじで、天使か?

その場で正座して土下座したかったけど、俺はせいいっぱい頷いた。

* * *

ランチ休み。会社の外に出る勇気はなかったので、休憩室のすみっこのテーブルで、俺と嫁子さんは並んでお弁当を広げていた。

嫁子さんのランチは、見た目もきれいな手作り弁当だった。卵焼きがハートの形をしている。デコ弁とかじゃない、さりげない女子力。強い。

俺のはファミマのからあげ弁当。悲しみが滲む。

「ガイア機の設定画、見たことあります? 未公開だったけど、先月のアニメ誌に掲載されてて……あ、よかったら見ます?」

そう言って、嫁子さんがタブレットを取り出した。

俺は、こくこくと頷きながら、彼女が差し出した画面をのぞき込む。

ガイア機ソフィの初期案。ラフの段階では、もっと凛々しい印象だった。

「初期は“姉御肌”設定だったらしいですね。でも途中から、内面の弱さを出す方向に変えられたとか」

「うん、たぶん7話の段階で修正が入ったんですよ。あの“自爆ボタン”のくだりで、明確に」

俺が言うと、嫁子さんが目を丸くした。

「わぁ……よく気づきましたね」

「いや……ずっと気になって、5周くらいしてるんで……」

「5周!? わたし、3周だけど負けたかも」

いつの間にか、俺の口からはスラスラと言葉が出ていた。

気づけば、オタクトークが止まらない。キャラ造形、声優、主題歌、最終話の賛否……話題は次々と流れていく。

緊張はしている。汗もかいてる。でも、なぜか怖くはなかった。

「ねえ、佐倉さんって……コミケ、行ったりするんですか?」

「……行きます。一般でですけど、ほぼ毎回」

「実は私も。あっちのサークル島の“機体解説本”とか読んでます?」

「……買いました。全巻」

「おおお!? 同志!」

嫁子さんが拍手した。俺は思わず笑ってしまった。職場で、こんなに自然に笑ったの、いつ以来だろう。

* * *

午後、デスクに戻ると高橋が声をかけてきた。

「……なんか、楽しそうだったな」

「……な、何が?」

「お前が“話してる”の初めて見たわ。あと、笑ってたぞ?」

高橋はニヤニヤしながら、コーヒーを啜っていた。

「ふーん。あの嫁子さん、オタクなんだな?」

「し、知らん。たぶん偶然……共通の趣味が……その……」

「いやいや、そういうの、始まるぞ。絶対始まるやつだぞ。マジで大事にしろよ?」

「なにがだよ……」

「お前みたいなガチコミュ障が、まともに会話できてた。すげえことだろ」

その一言が、じんわりと胸に響いた。

──俺でも、人と話せるんだ。

そんな風に、思ってしまった。

俺は少しだけ、顔を上げた。

USBを落としたのは偶然かもしれない。

でも、あのUSBを拾って、話しかけて、趣味が重なって、昼休みに笑いあったのは――すべて、俺が踏み出した一歩の結果だった。

わずか一歩。たったそれだけで、世界は変わった気がした。

次の一歩が、どれほど怖くても。俺は、もう少しだけ話してみたいと思った。

彼女のことを、もっと知りたいと思ってしまった。


距離、五十センチ

翌週の月曜、出社する足取りは明らかに軽かった。

いつもなら、月曜朝の通勤ラッシュは胃がひっくり返るほど苦痛だったはずだ。だけど今は、同じフロアで、同じ空気を吸いながら、同じ“推し”の話ができる人がそこにいる。

それだけで、駅の人混みにも耐えられた。

「おはようございます、佐倉さん」

「……お、おはようございます」

噛まずに言えた。それだけで、今日の自分に100点満点をあげたくなる。

嫁子さんは、白のブラウスにうすいブルーのカーディガン。髪はゆるく後ろで結ばれていた。いつも通りの服装なのに、妙に綺麗に見えた。たぶん気のせいじゃない。

午前中の仕事は、集中できたり、できなかったり。メールの送信ボタンを押したつもりで押してなかったり、Ctrl+Sを5回連打してたり。ソフィの新規グッズ情報がトレンドに入ってたせいもある。

だけど昼になって、あの人と向かい合うだけで、またスッと心が戻ってくる。

「ねえ、佐倉さん。次の祝日、空いてます?」

「え? あ、はい……特に予定は……」

「じゃあさ、“レトロアニメ原画展”って知ってます? 三鷹のギャラリーで、1週間だけやってるんですけど……」

嫁子さんは、言葉の切れ目に少しだけ間を置いた。

「……一緒に、行きませんか?」

俺の頭は一瞬フリーズして、次の瞬間にはフル回転していた。

“それって、デートなのか?”

いや違う、ただのイベント同行だ。でも女の子に誘われることなんて、人生で初めてだ。そもそも、この人とふたりで休日に出かけるって、俺にとっては一大事じゃないか。

「……い、いいんですか? 俺で……」

「え? うん、いいです。ていうか、佐倉さんと行きたいなって思って」

やばい。心臓が、なんか変なリズムで跳ねてる。

「……行きます。全力で、行きます」

「ふふっ。よかった」

そうして俺たちは、祝日に“ふたりで”出かける約束をした。

その会話の間、俺と嫁子さんの椅子の距離は――おそらく、五十センチくらい。

それでも、その距離が、信じられないほど近く感じた。

* * *

翌日から、職場の空気がちょっとだけ変わった。

「佐倉さん、なんか最近しゃべってるよね」

「嫁子ちゃんと? あのふたり、話合うのかなぁ」

そういう“ひそひそ”が耳に入ってくる。

正直、あまり気持ちいいものではなかった。でも、驚くほど俺は冷静だった。たぶん、それ以上に嬉しいことが心の中で大きすぎた。

「お前ら、もう付き合っちゃえば?」

昼休みに、嫁子さんと別れて席に戻ると、唐突にそんなセリフを投げかけられた。

振り向くと、例の高橋がいた。こいつは、ほんとに空気を読まない。

「な……なに言って……っ!?」

「いや~、だって見てるだけでニヤけるもん。なんか青春してんな~って感じ?」

「ちがっ……! そんなんじゃない!」

「はいはい。まぁ、気をつけろよ」

「なにをだよ……」

「嫁子さん、人気あるからさ。他の男に取られたら、たぶん、お前、泣くぞ?」

冗談めかして言ったその言葉が、妙に心に残った。

俺はその夜、寝つけなかった。

「……取られたら、って……そんな、俺なんかに……」

鏡に映る自分。地味で覇気がなく、なんのとりえもない。

でも、少しだけ自信が芽生えていた。

誰かと話すことを“楽しみ”だと思えたのは、生まれて初めてだったから。

* * *

その週の金曜、嫁子さんが体調を崩して午後から早退した。

「ちょっと寒気がして……すみません、お先に失礼します」

彼女はそう言って、軽く頭を下げて退室した。

……俺の席のとなりが、空いた。

五十センチの距離は、いまや“空白”になった。

誰も座っていない椅子。電源を落としたディスプレイ。置きっぱなしのマグカップ。

たったそれだけで、胸の奥が妙にさびしくなった。

あんなに、無関心を装っていたはずなのに。

あんなに、「空気」になろうとしていたのに。

「……あの人がいないと、つまんないな……」

気づけば、そんな言葉が口から漏れていた。


俺のことなんて

土曜日の朝。カーテンの隙間から差し込む光で目を覚ました。

いつもなら、寝起きにベッドの中でスマホを眺めながら、ニュースアプリ→推しのグッズ情報→二次創作タグ巡回という黄金ルートに入るのがルーティンだったけど、今日は違った。

今日は、嫁子さんと出かける日だった。

休日の外出。異性との二人きり。しかも俺から誘ったんじゃない。あの人から誘われた。

緊張で胃がギュッと縮んでいる。

出発まであと4時間あるのに、すでに汗ばんでいた。

――着ていく服がない。

自分でも驚くほど即座にクローゼットを閉じた。ユニクロの黒Tとジーンズしかない。いやそれでいい、とは思えない。

3日前、高橋に「出かけることになった」と話したら、真顔で「俺が服選んでやる」と言われ、無理やり休憩中に近所のショッピングモールへ連行された。

選ばれたのは白いシャツと、薄いベージュのジャケット、ネイビーのチノパン。今の俺には、ややオシャレに見える。

「これなら“無難”だし、“キモくない”。いちばん重要なのは“キモくない”ことな」

高橋の言葉が頭の中で再生された。耳が痛かったけど、正しかった。

俺は、今朝その服を慎重に着て、鏡の前で深呼吸をした。

「これが、俺の精一杯だ」

* * *

三鷹のギャラリー前。俺は予定より15分早く着いていた。

場所を間違えてないか、LINEを何度も見返す。通知はまだ来ない。そわそわして足元ばかり見ていたとき、ふわっと視界が明るくなった。

「お待たせしました」

声を聞いて顔を上げると、そこには白のブラウスに紺のスカートを合わせた嫁子さんが立っていた。やや透け感のあるカーディガンが風に揺れていた。

「……似合ってます」

「えっ?」

「……あ、あの、その……服、すごく」

「ありがとう。佐倉さんも、いつもと雰囲気違いますね。かっこいいですよ?」

一瞬、心臓が止まった。

脳内に警報が鳴る。
「女子に“かっこいい”って言われました!繰り返します、言われました!!」

全力で平静を装って、俺たちは並んでギャラリーに入った。

会場は想像よりずっと静かで、落ち着いた雰囲気だった。

古いアニメのセル画や原画、キャラクターの設定資料が壁一面に飾られていた。その中に、“ティルヴァーナ”のコーナーもあった。

「わぁ……あのバンクシーンの、原画ですね……!」

嫁子さんの声は、息を呑むように小さかった。

俺は、横から彼女の表情をそっと見た。

幸せそうだった。

その笑顔を見た瞬間、「来てよかった」と心の底から思った。

* * *

ギャラリーを出たあと、近くの喫茶店で休憩することになった。

レトロで重厚な木の扉、クラシックの流れる薄暗い店内。

カップから立ちのぼる湯気を見つめながら、嫁子さんがぽつりとつぶやいた。

「……こんなに趣味が合う人、初めてかも」

「……俺もです。というか、同じ会社にいたのに、ずっと話せなくて」

「ふふ。私も、最初はちょっと怖い人かなって思ってました」

「怖い……ですか?」

「ううん、なんていうか、静かすぎて。怒らせたら怖いのかなって。でも全然ちがった」

「……正直、誰とも関わりたくなかったんです。嫌われるのが怖くて」

「あー……わかるな、それ」

嫁子さんが、ちょっと切ない顔で笑った。

「実は、私もあんまり得意じゃないんです、人づきあい。だから“嫁子”とかって勝手に呼ばれてるの、すごくイヤで」

「……え」

俺は、コーヒーを口にしかけて止まった。

「し、知ってます……?」

「うん。なんかネットの会社掲示板に書かれてたんですよ。“渡会=嫁子”って。投票とか、ほんとくだらないって思った」

「……す、すみません」

「え?」

「……俺、心の中で……ずっとそう呼んでました」

沈黙。

終わった、と思った。

そりゃそうだ。最低だ。最悪だ。俺はまた誰かを傷つけた。

でも、ふっと肩を震わせて、嫁子さんが笑った。

「……佐倉さんが言うと、なんかちょっと、可愛いですね」

「……えっ?」

「だって、言いにくそうに謝るんだもん」

その笑顔に救われて、俺は思わず口元をゆるめた。

「……俺のことなんて、誰もちゃんと見てないって、ずっと思ってました。でも、あなたと話してると……」

「うん?」

「見てくれてる気がします。ちゃんと、存在していいんだなって」

少しだけ震える声だった。

でもそれでも、俺は伝えたかった。

こんな俺でも、誰かに受け止めてもらえるかもしれないって。

嫁子さんは、しばらく黙っていた。

でも、あたたかい声でこう返してくれた。

「……私も、そう思ってますよ」

その言葉だけで、胸がいっぱいになった。

こんな優しい人が、俺の隣にいる。

それだけで、もう泣きそうだった。


デート未満

「……あれ? この道、さっき通りませんでした?」

「うそっ……ほんとだ。えー、うそ、地図アプリちゃんと見てたのに!」

「あ、大丈夫です。こういうのも、なんか……楽しいです」

「あはは、優しい~」

――その日、俺たちは迷子になっていた。

原画展のあとは、近くの有名なレトロ喫茶に行こうと話していた。嫁子さんが以前から気になっていたという、創業50年の老舗だ。

でも、Googleマップの指示を信じすぎた結果、裏通りに迷い込み、レトロというよりただの廃ビル街を10分以上ぐるぐると回る羽目に。

けれど、不思議と焦りも苛立ちもなかった。

嫁子さんが笑いながら「方向音痴でごめん」と言ってくれて、俺も「こっちの道、舞台になりそうですね」と返すと、「わかるー、なんか90年代アニメ感ある」って一緒に盛り上がれた。

ああ、これ、すごく“心地いい”。

喋らなきゃ、と思わなくていい。気を使いすぎなくていい。
ただ、目の前の人と、自然に笑い合える。それだけで十分だった。

* * *

喫茶店に着いたのは、予定より30分遅れだった。

店内は、時間が止まったような空間だった。
木製のテーブル、ステンドグラスの窓、古い洋楽がかすかに流れていて、まるでアニメのワンシーンに迷い込んだような感覚だった。

「……ここ、思ってたよりずっと素敵」

「ですね……椅子の座り心地が昭和」

「わかる。落ち着く~……あっ、見て。“プリン・ア・ラ・モード”って書いてある!」

「え、それ注文します? 俺、コーヒーフロートいきます」

「最高じゃん。まったりしよう~」

席にメニューを広げながら、俺たちはまるで昔からの友人みたいに喋っていた。
いや、俺だけじゃない。嫁子さんも楽しそうだった。

顔を上げたとき、彼女がこちらを見て、ふっと目を細めた。

「佐倉さんって……」

「……はい?」

「最初、ほんとに何考えてるのかわかんなくて。怖いというか、近寄っちゃいけないのかなって思ってたんですよ」

「……それ、ちょっとショックです」

「ごめんごめん、でも、実際に話してみたら……こんなに優しくて、楽しくて、アニメ語らせたら止まらないとか、めちゃくちゃギャップあって」

「……よく言われます、というか、一回も言われたことないです」

「初めての人、ゲットだね」

小さく笑って、彼女はプリンをすくった。

照れくさくて、俺もコーヒーフロートのアイスに集中するふりをした。

けれど、心はずっと、あたたかかった。

* * *

帰り道。

夕暮れが街を淡く染め始めていた。住宅街の小道を、ふたりで並んで歩く。

ふと、彼女が足を止めた。

「……あのさ」

「はい?」

「今日、誘ってよかった?」

「……よかった、なんてレベルじゃないです。ほんとに、楽しかったです」

「……ふふ。よかった」

小さな沈黙が流れて、空気が少し変わった気がした。

そして――彼女が、ぽつりと言った。

「なんかね、“デート”って言うには微妙かもしれないけど……今日、すごく特別だった気がする」

「……俺も、です」

言葉が、胸の奥から自然に出てきた。

「“デート未満”とか、“友達以上”とか、そんなあいまいな言葉しか出てこないけど……」

「うん」

「それでも、今日みたいな時間を、また過ごせたらって……思います」

夕焼けのなか、嫁子さんは笑ってくれた。

「……また一緒にどこか行こうね」

「……はい」

そのとき、俺の心の中で、何かが確かに変わり始めていた。

誰かと過ごす時間が、こんなにも大切で、温かいものだとは思わなかった。

この感情に、まだ名前はつけられない。

でも、もう少しだけ、この人のそばにいたいと思った。

それは、きっと――恋の入口だった。


壁は壊せる

それから数日、職場での俺と嫁子さんの関係は、目に見えて変わっていた。

昼休みには自然に会話が始まるようになり、たまに隣同士でお菓子を交換したり、同じアニメの話で盛り上がったり。以前なら絶対にあり得なかった光景だ。

でも――怖かった。

「これがずっと続くなんて、どうせ思い込みだろ」
「そのうち、あっちが飽きる」
「俺のことなんて、やっぱり“変なオタク”って思ってるに決まってる」

そんな“声”が、俺の頭の中から離れなかった。

楽しい時間の裏で、じわじわと自己否定が広がっていった。

* * *

ある金曜日、定時後のオフィス。

嫁子さんが「今日は残業なんです」と言って、フロアに残っていた。俺もちょうどバグ対応で居残っていたので、空調が効きすぎた静かな部屋に、二人だけの時間が流れていた。

「……ねえ、佐倉さんって」

「はい……?」

「ずっと、自分のこと“価値がない”って思ってたりしない?」

不意打ちだった。

俺は思わず手を止めて、彼女を見た。

嫁子さんは、机に頬杖をつきながら、まっすぐ俺を見ていた。

「……え、なんで、そう思ったんですか」

「なんとなく、わかるから。私も、そうだったから」

「……」

「学生時代、クラスで輪に入れなくて。話しかけられると嬉しいのに、うまく返せなくて。だんだん自分から話すのもやめちゃって、最後は透明人間みたいだった」

その声には、飾り気がなかった。

「でもね、たったひとりでも、自分のこと見てくれてる人がいるってわかった瞬間……すごく、救われたんです」

「……」

「佐倉さんが、誰にも見られてないって思ってたなら、そんなことないですよ。私、ちゃんと見てます」

俺は――堪えきれなかった。

喉の奥が熱くなった。心が、少しずつ、ひび割れていくのがわかった。

「……俺、高校のとき……ひどいイジメにあってて」

口が勝手に動いていた。

「教室でも部活でも、居場所がなかった。自分のことを“存在しちゃいけない人間”って、ずっと思ってた」

「……」

「だから、大学に入って、就職して、誰とも関わらずに生きていければって、ずっと……それだけでいいって思ってた」

「……苦しかったね」

嫁子さんの声が、泣きたくなるほど優しかった。

「そんな風に思わなくていいって、言ってくれたの……初めてでした」

涙は出なかった。でも、何かが流れ出た。

心の奥にあった“壁”――人に見せたくなかった過去、弱さ、傷――それを、初めて誰かに触れられた気がした。

怖くなかった。

拒絶されると思っていた。軽蔑されると思っていた。
でも、彼女はそこにいて、否定しなかった。

「ありがとう、話してくれて」

「……はい」

「私は、佐倉さんのこと、好きですよ」

「……」

脳内が静かになった。
本当に静かだった。何のノイズもなかった。

好き、って。

俺みたいなやつに、そんな言葉を言ってくれる人がいるなんて。

「……俺も、あなたのこと……好きです」

やっと、それを言えた。

それはたった一言だったけど、心の奥で響いた。
壁が、音を立てて崩れていくような感覚だった。

* * *

帰り道、並んで歩くふたりの手が、ふと触れ合った。

逃げなかった。

俺は、彼女の手をそっと握った。

嫁子さんも、指をきゅっと返してくれた。

小さなぬくもりが、確かにそこにあった。


名前で呼ばせて

土曜日の昼下がり。
珍しく天気が良くて、風も涼しくて、空は澄みきっていた。

そんな日に俺は、嫁子さん――いや、渡会美沙さんと、駅前のカフェにいた。もう“嫁子”という心のあだ名で呼ぶのも、なんとなく違う気がしていた。

前の席で、美沙さんはアイスカフェラテを飲んでいた。

スプーンでかき混ぜながら、時おりカップの縁を見つめる仕草が、なんだか落ち着かないように見えた。

「……今日、ちょっと緊張してるかも」

先に口を開いたのは、美沙さんだった。

「……俺もです」

ふたりして笑う。
この空気も、もう何度目だろう。

職場では以前のように肩をすくめていた俺が、いまは彼女とこうして、休日にごく自然に時間を過ごしている。

話すことはたくさんあった。推しキャラの話、最近ハマってるゲーム、喫茶店の新作スイーツ――

でも今日は、少しだけ、それらとちがう話がしたかった。

* * *

「……渡会さん」

「……うん?」

「えっと……名前で、呼んでもいいですか」

スプーンがカップの中で小さく鳴った。

「……うん。いいよ」

「……美沙さん」

初めて、名前を口にした。

自分の声じゃないみたいだった。恥ずかしさと、くすぐったさと、どこか温かい確信。

美沙さんは、口元に手を添えて笑った。

「佐倉さんも、名前で呼んでいい?」

「えっ、あ、はい」

「……瞬くん、だよね?」

「……はい」

「じゃあ……瞬くん」

ふいに、目が合った。

その響きに、思わず鼓動が早くなった。

誰にも呼ばれたことのない、名前の響きだった。

親にも、友達にも、こんなふうに呼ばれた記憶はない。

「……なんか、ちょっと照れるね」

「ですね……」

でも、その照れくささが、いまはとても嬉しかった。

名前で呼ぶ。名前で呼ばれる。
それだけで、ふたりの距離はぐっと近づいた気がした。

* * *

「そういえばさ」

カフェを出て、公園のベンチに並んで座っていたとき、美沙さんが口を開いた。

「瞬くんってさ、“ちゃんと好きって言える人”なんだね」

「え……?」

「この前、あんなふうにまっすぐ言ってくれたの、びっくりした」

「……そんな、たいしたことじゃ」

「たいしたことだよ。言葉にするのって、すごく勇気がいるから」

「……でも、俺、言わないと……また“何も伝えられなかった人間”になる気がして」

「……うん」

「怖かったけど、美沙さんにだけは、ちゃんと伝えたかったんです」

ベンチの隣、彼女の手がそっと伸びてきた。

俺は、静かにその手を握った。

それはもう、自然なことのように感じられた。

「……こうしてると、あったかいね」

「……ですね」

夕方の風が、ふたりの間を優しく通り抜ける。

たくさん話した。
たくさん笑った。
たくさん迷って、悩んで、でも一歩踏み出した。

「瞬くん」

「……はい」

「……ちゃんと付き合おうか、私たち」

「……うん」

それは、照れくさくも、自然で、あたりまえみたいなやりとりだった。

でも、俺にとっては――
人生でいちばん、あたたかくて、嬉しい“告白”だった。

* * *

その夜、帰宅してからも、俺は夢のなかにいるみたいだった。

部屋には、相変わらずアニメグッズやフィギュアが並び、ソファの上には着っぱなしのパーカーが転がっている。けど、世界が違って見えた。

「名前で呼ばれるだけで、こんなに変わるんだな……」

スマホには、今日の写真と「楽しかったね、また会おうね」というLINE。

俺はスマホをそっと置いて、窓の外を見た。

変わったのは、たぶん、世界じゃない。

俺のほうだ。


オタクのままで、君の隣に

日曜日の朝。
俺の部屋には、知らない匂いがあった。

洗い立ての柔軟剤の香り。焼きたてのクロワッサンの匂い。
そして――美沙さんの髪の、ほのかなシャンプーの匂い。

台所から、トースターの「チーン」という音が聞こえた。

「……起きた? そろそろコーヒー淹れるね」

「……はい、今、起きました……」

寝ぼけ眼でリビングに出ると、美沙さんがエプロン姿で朝食を用意していた。

俺の部屋に、“生活”がある。

夢じゃなかった。

* * *

同棲を始めたのは、付き合い始めて3ヶ月後のことだった。

お互いひとり暮らしだったし、職場も同じフロアで生活リズムも近かった。
なにより「推し活を共有できる人と暮らすって最高かも」という共通のテンションで、自然と決まった。

引っ越し初日、段ボールの山の中に、俺の美少女フィギュアと彼女の古いゲーム機コレクションが混在していたのを見たとき、なにかが報われた気がした。

「これは押し入れじゃなくて、むしろディスプレイしようよ」

「いいんですか、こんなキモオタ感丸出しで……?」

「だって瞬くんらしいもん。私、そういうの隠してる人より、堂々としてる人の方がずっと好き」

その言葉に、俺は初めて“自分のオタク趣味”を否定せずに受け入れられた気がした。

「……じゃあ、俺も美沙さんの“時代を感じるゲーム機”たち、ちゃんと並べます」

「スーファミとドリキャスは外せないからね!」

そんな会話をしながら、棚にフィギュアとコントローラーを並べた。

あの日から、俺たちは一緒に暮らしている。

* * *

ある晩、ふたりで布団に入る前、美沙さんがふとつぶやいた。

「ねえ、瞬くんって、昔は“変わりたい”って思ってた?」

「……思ってた。すごく」

「でも今は?」

「……もう、変わらなくていいのかもって」

「うん、わたしもそう思う」

彼女は、俺の腕を抱きしめながら、小さく笑った。

「好きなものを好きって言える人って、すごいと思う。最初は怖がってたけど、私はそんな瞬くんに出会えて、よかったって思ってるよ」

「……ありがとう」

「それに、ふたりで推し活するのって、ほんと楽しい」

そう言いながら、美沙さんは先週完成した“同人誌の入稿データ”を思い出して笑っていた。

俺たちはついに、合同サークルを組んだのだ。

イベント当日、スペースの前に並ぶ行列を見て、美沙さんがそっと手を握ってきた。

「……すごいね、こんなに人来るなんて」

「いや、美沙さんの“技術解説本”が本命でしょ……俺の“推し尊い漫画”なんかオマケだって」

「どっちもセットじゃなきゃ出せなかったよ」

彼女の笑顔がまぶしかった。

俺の作品が、誰かに届いた。それを隣で見てくれる人がいる。
そして、同じ“好き”を並んで語ってくれる人がいる。

それが、こんなにも幸せなことだなんて、昔の俺は想像もしなかった。

* * *

日曜の夜。

俺たちはソファに座って、録画しておいたアニメを観ていた。

「やっぱソフィは神回多すぎる……」

「でも最新のオマケエピソード、泣いたよね。あの伏線回収、すごすぎた……」

「やばかった……叫んだ……」

「私も叫んだ」

気がつくと、ふたりで同時に声を出して笑っていた。

オタクのまま。
気取らず、飾らず、過去を無理に変えようともしない。

ただ、お互いの“好き”と“弱さ”を受け止めあって、隣にいる。

それが、俺たちの選んだ形だった。

そして今、この空間で、美沙さんが俺の隣にいてくれる。

それだけで、もう何もいらないと思った。