無職男と疲れたシングルマザー|2ちゃん馴れ初め風エピソードまとめ【人生の立て直し】

この馴れ初め話は著作権フリーで改変も自由・YouTubeの素材やSNSでご使用いただいても問題はありません。ただ以下のリンクを張っていただけたら幸いです。
はっくなび

孤独な公園、砂場の端っこで無職三ヶ月目のルーティン

三ヶ月前に会社を辞めた。理由を聞かれるたびに適当に答えるけど、ほんとは「何もかもどうでもよくなったから」だ。上司の説教、同期の出世、後輩のタメ口、深夜の帰宅。全部、吐きそうだった。
気づいたら会社のトイレで嘔吐してて、その帰り道、スマホのメモに「辞表、いつ出す?」って打ってた。
それが答えだった。あの瞬間、俺の中の何かがぽっきり折れた。

それからは、なんとなく近所の公園に通うのが日課になった。2ちゃんに張りついては、世界のすべてに文句をつける。コーヒー片手に、今日も同じベンチ。背もたれのない、硬くて冷たい、あのベンチ。俺の特等席だ。

目の前には、いつも砂場。あの親子が、必ずいる。

「毎日いるのよ、あの人」――余計な声

女は、いつもベンチにうなだれて座ってる。スマホをじっと見ているか、娘が砂場で遊んでるのを眺めながら、うとうとしている。
服はくたびれてて、ジャージにパーカーみたいな格好が多い。目の下には深くクマがある。
でも、その顔を見てると、なぜか胸が痛む。

娘は、何も喋らない。無言で、ずっと砂を手でなぞってる。たまに、両手で山を作っては崩してる。
遊具には見向きもしない。俺がいることにすら、興味なさそうだ。
それでも、ふと目が合うと、なんとも言えないまっすぐな目をする。

「毎日いるのよ、あの人。シングルマザーなんですって」
聞こえてきたのは、斜め後ろに座っていた近所のばあちゃんの声だ。
「旦那さん、逃げたらしいわよ。かわいそうにねぇ。娘ちゃん、あんなに小さいのに…」
まるで井戸端会議のつもりなのか、俺にも話しかけてきた。
「ねえ、あなたも毎日ここね?あの子と話したことある?」
「ないです」
「ふぅん。あなたも暇そうねえ」
余計なお世話である。

小さなきっかけは、音を立てて崩れた

その日は少し風が強かった。砂場の砂がぱらぱらと舞って、娘の目の中に入ったのか、突然泣き出した。
泣き声は小さいけど、はっきりとした悲鳴だった。女はベンチから飛び起きたけど、娘にたどりつく前に、俺が動いていた。

「大丈夫か?」

反射だった。膝をついて、ポケットのティッシュで顔を拭こうとした。
娘は俺の顔をじっと見て、少しだけ目を細めた。それから、くしゅんとくしゃみをした。
ああ、なんか、こんな子供っぽいくしゃみ、久しぶりに聞いたな。

「……ありがとうございます」

小さな声が聞こえた。振り返ると、あの女が立っていた。
目元は疲れたままだったけど、申し訳なさそうに眉を下げて、俺に頭を下げた。
「…すみません、本当に。ありがとうございます」
「いえ、あの、たいしたことじゃ……」

何を言ってるんだ、俺は。
心臓がやけにうるさい。
まともな会話、何日ぶりだろうか。いや、何週間? 何ヶ月?

「…怪我はないみたいで、よかったですね」

そう絞り出すのがやっとだった。

名前を知らない親子と俺

それから何日か、状況は微妙に変わっていった。
女は、俺の方を見て小さく会釈するようになった。俺もそれに、ぎこちない頭の下げ方で応える。
娘は相変わらず喋らないが、近づいてきては、俺の靴のそばで砂をいじるようになった。
ある日なんて、俺の足元に小さな山を作っていた。あれは、遊んでくれていたのだろうか。

女が言った。「…すみません。最近、助かってます」
「え、いや、俺は何も……」
「いえ、娘が。人と関わるの、ずっと避けてて。でも、なんだか……あなたには平気みたいで」

なぜ俺なんだ。俺なんて、仕事もなくて、ただの無職で、
ネットの中で文句ばっかり言ってる、クズだぞ?

でも、彼女の言葉は、まるで胸の奥に温かい火を灯したみたいだった。

ひと口の弁当と、止まっていた時間。はじまりは、ひと口の唐揚げ

その日も公園の砂場で、俺はいつものように座ってた。
あの親子も来ていた。いつもの時間、いつもの位置。
女は、相変わらずボロいトートバッグを横に置いて、娘が砂をいじるのを見ていた。
俺が飲みかけのペットボトルを口に運んだとき、ふいに彼女が言った。

「……よかったら、どうぞ」

そう言って差し出されたのは、コンビニの唐揚げが3つだけ並んだタッパーだった。
「…えっ」
「作りすぎたんです。冷凍のやつですけど」
「いや、あの、俺……」
「うちの子、食べるの下手で。余るんです、いつも」
小さな声。けど、まっすぐだった。

断れなかった。というか、ありがたかった。
誰かと何かを一緒に食べるなんて、どれくらいぶりだったか。
母親の命日以来かもしれない。
俺はその唐揚げを、まるで祈るみたいに口に入れた。

「うまいっす」

反射だった。でも、うまかった。
なんでもない冷凍食品が、涙が出そうなほど、あたたかかった。

「あの人、お父さんじゃないのよ」――近所の声

また、ばあちゃんがしゃしゃり出てくる。

「最近、仲良くなったの?あんたたち」
「いえ、別に」
「ふぅん。でも娘ちゃん、前よりよく笑ってるじゃない。あの人、お父さんじゃないのよ」

またその話か。
俺は何も聞いてないし、詮索するつもりもない。

「旦那に逃げられたらしいわよ。養育費もゼロ。生活大変なんですって」

ばあちゃんは声を潜めるつもりもなく言う。
本人がすぐそこにいるのに。
だけど、女はうつむいてスマホを見ているふりをしていた。
娘は相変わらず、黙って砂をいじっていた。

俺は何も言えなかった。ただ、唐揚げの味を、もう一度思い出していた。

名前も聞かず、弁当を分け合うようになる

その日を境に、俺たちは少しずつ「共有」を始めた。
女はタッパーに入れた小さな弁当をときどき差し出してくれた。
俺は家にあるスナック菓子や、買いすぎたパンなんかを差し出した。

「栄養偏ってそうですね」
「うるさいっす。独り暮らし歴10年なんで」

軽口をたたくようになったのも、少し後からだった。
娘も、俺の横で食パンをちぎって食べたり、唐揚げをじっと見つめたりしていた。
口数はない。けれど、静かな距離感が、なぜか落ち着いた。

「なんで……公園、毎日来るんですか?」
「娘が、家じゃ落ち着かなくて。部屋狭いし、テレビも壊れてて」
「…ああ」
「それに、わたし……無職です。いま」
「……俺もです」

思わず笑った。
ふたりの笑い声に、娘がびくっとしてこちらを見た。
そして、ぽつりとひとこと。「あは」

少しずつ、時計の針が動き出す

家に帰って、布団に寝転びながら思った。
なんだろう、この感じ。
公園で弁当をもらって、子供と並んで砂をいじって。
俺の人生に、こんな「日常」ってあったっけ?

2ちゃんを開いても、いつものスレに興味が持てなかった。
「俺、やばいな。完全に公園で“幸せ”感じてるんだけど」
冗談のつもりで書き込んだけど、レスは冷たかった。

——「病院行け」「こどおじ乙」

画面を閉じて、深呼吸した。
たしかに、俺はやばいかもしれない。
でも、「やばい」って、もしかしたら「変わってきてる」ってことかもしれない。

「…ちょっと、働くか」

つぶやいた。
重い腰を上げて、求人サイトを開いた。
スーツはカビ臭いし、職歴もやばい。でも、何かが動き出していた。

変わる景色、止まる鼓動。化粧をした、ただそれだけなのに

その日、公園に向かう道すがら、俺はコンビニでアンパンを買っていた。
「昨日あの子、ジャムパン食ってたな」と思い出して、無意識に選んでた。
こういうの、なんか、キモいな……って思いながらも、レジに並んだ。

公園に着いて、いつものベンチに座ろうとしたとき、俺は息を呑んだ。

そこにいたのは――

まるで別人だった。

嫁子。
目の下のクマはコンシーラーで隠されて、薄くベージュのリップを塗っていた。
髪は軽く結ばれて、前髪がきちんと整えられていた。
服は……今までのジャージじゃない。春色のブラウスと、やや古びたけど形のきれいなロングスカート。

「あ……」としか言えなかった。

彼女は少しだけ戸惑った顔で、「あの……変ですか」と聞いてきた。

「いや、全然。あの、すごい、なんか……」

言葉が出なかった。喉が、すごく乾いていた。

なんでこんなにドキドキしてんだ、俺。
女の人が化粧したくらいで、なに慌ててんだよ。
そんなの、今までだって職場に山ほどいたじゃないか。

……でも、あんなふうに「人に見られるための努力」をした彼女を見るのは、初めてだった。

小さくなる俺、遠ざかる視線

彼女は軽く目をそらした。
娘ちゃんはいつもと同じように砂を触っていたけど、今日はなぜか、手に持ったスコップを俺に差し出してきた。

「……これ、どうぞ、って言ってるんだと思います」
「え、あ、うん……」

ぎこちなくスコップを受け取って、俺は砂をいじりながら、ずっと彼女の横顔を盗み見ていた。
不思議だった。こんなに距離が近いのに、急に遠くなった気がした。

「……今日は、面接、行ったんです」
「えっ」
「ハローワークで紹介されたところ、まあ、落ちましたけど」

そう言って、微笑んだ。
すごくきれいな笑い方だった。
だけど、それを見て、俺はなぜか胸がぎゅっと苦しくなった。

「……なんか、すごいですね」
「何がですか」
「俺、まだ、履歴書出す勇気もなくて……」

本音だった。
公園ではえらそうにバイト探してる風を装ってたけど、結局、どこにも出してなかった。
怖かった。履歴書に空白があるのも、自分の経歴がスカスカなことも。
そしてそれ以上に、面接官の目が。
「なぜ辞めたの?」「なぜ何もしていないの?」「どうして?」

そんな質問の刃に、自分が耐えられる気がしなかった。

「あなたがいると、助かるんです」

「……私も、怖かったです。でも、最近……少し頑張ろうって思えるようになったんです」

「なんで?」と聞くと、彼女は俺の目を見ずに、ぽつりと呟いた。

「……あなたがいると、助かるんです」

風が吹いた。
ベンチの背もたれにかけたシャツがめくれて、肩に触れた。
俺は思わず視線を落とした。

助かってる? 俺が?
何もしてない。
弁当をもらって、砂いじりして、冗談言ってるだけだ。

なのに……。

その言葉に、心の奥の冷たい場所が、静かに解けていった。

近所のばあちゃんが、初めて黙った

その帰り道、ばあちゃんがまた声をかけてきた。
「今日はきれいにしてたわね、あの人」
「……ええ、まあ」

「ねえ、あの子……最近よく笑うようになったの、気づいた?」

その言葉に、俺は返事ができなかった。
ばあちゃんは続けた。

「娘ちゃんだけじゃないわよ。あの人も、顔つきが変わってきたの。あなたのおかげなんじゃない?」

そう言ったあと、ばあちゃんは珍しく静かになった。
その背中を見送りながら、俺は自分のポケットの中をぎゅっと握りしめていた。

握っていたのは、折り目のついた求人広告の切り抜きだった。
コンビニバイト。時給980円。深夜帯。

「……出してみるか」

つぶやいた声は、たしかに、少しだけ前を向いていた。


雨音のなか、静かに重なった手雨の日のベンチに、二人だけ

梅雨入り間近の空は、灰色のまま膨らんで、じとじとした湿気を連れてきていた。
予報は曇りだったのに、午後三時を過ぎたころ、ぽつりぽつりと冷たい粒が落ちてきた。

公園は、空っぽだった。

遊具に水たまりができて、誰もいない砂場は、うっすらと湿っている。
そんな中で、俺は例のベンチにいた。傘をさして、フードをかぶって、ただじっと。
理由はない。ただ、行かずにはいられなかった。

そして、彼女は来た。

「……こんな天気なのに、いるんですね」

見慣れたパーカーのフードの下に、少しだけ整えられた前髪がのぞいていた。
手には、娘の小さな黄色い傘。今日は預けてきたらしい。

「……なんで、来たんですか?」

思わず聞いてしまった。

彼女は、少しだけ笑った。

「あなたが、いそうな気がしたんです」

たったそれだけなのに、息が詰まりそうだった。
なんでもないひとことが、こんなに胸にくるのか。

雨は強くなっていた。ベンチの上にはもう、小さな水たまりができていた。

「あなたじゃなきゃダメかも」――答えのない言葉

しばらく、何も話さなかった。
ただ、肩が少し触れたまま、二人で傘を半分ずつ分け合っていた。

「……わたし、ずっと怖かったんです」

突然、彼女が口を開いた。
「誰かと話すのも、人と関わるのも、信じるのも。全部、怖かった」
「でも……あなたと話すようになって、なんか、少しずつ……その、怖くなくなったんです」

その声は、震えていた。

「……でも、怖いままなんです。すごく、怖いんです。これ以上、あなたがいなくなったらって思うと……」

彼女は俺を見ずに、膝の上で手を握っていた。

「……あなたじゃなきゃ、ダメかも」

そう言ったとき、彼女は泣いていなかった。
でも、その声には、ずっと溜めてきた涙がつまっていた。
俺は思わず、手を伸ばしていた。

「……俺も、です」

そう言って、彼女の手に触れた。

雨音の中で、彼女ははっとして俺を見た。
次の瞬間、そっと、指が絡んだ。

傘の中、ふたりの手が、静かに重なった。

すこしずつ、ひとつずつ

その日から、何かが変わった。
言葉にしなくても、通じることが増えていった。
彼女は日によって娘を預けたり、連れてきたりしながら、就活に動き出した。
俺も、例のコンビニに履歴書を持っていった。緊張しすぎて、汗で用紙がしわしわになったけど、どうにか提出した。

採用の電話が来たとき、俺は久しぶりに「ありがとう」と言った。

夜勤のバイトはキツかったけど、朝焼けを見るたびに思った。
俺、ちゃんと生きてる。

公園に行く回数は減った。でも、そのたびに、彼女と娘はいた。
手作りの弁当があって、アンパンがあって、ジャムパンがあって。

娘は少しだけ、おしゃべりするようになった。
「おにーちゃん、はたらいてるの?」って聞かれた日には、照れて泣きそうになった。

彼女は、いつも笑っていた。
あの目の下のクマは、まだある。けど、それすらも「生活の証」みたいに見えた。

「家族」という言葉の予感

夏が近づいたある日、俺たちは公園の外を歩いていた。
娘が片手にシャボン玉の容器を持っていて、風がふわりと泡を飛ばしていた。

彼女がぽつりと言った。

「……今、すごく普通で、幸せです」

「普通」って、こんなにも大切なんだと思った。
何の事件もなく、誰かと並んで歩いて、帰る場所があって、誰かに名前を呼ばれて。

そしてその帰り道、彼女が言った。

「……私たち、家族、って言っていいんですかね?」

俺は、うまく答えられなかった。
でも、心の中で、はっきり「はい」って聞こえた気がした。

プリントアウトされた紙と、震える手

「……あとは、これに記入すれば終わりです」
役所の窓口で、彼女は白い紙を差し出した。
婚姻届。
たった一枚、でも、重さはとんでもなかった。

娘はその間、ベンチでお気に入りのぬいぐるみと遊んでいた。
今日の天気は快晴。空が青くて、信じられないほど穏やかだった。

「……本当に、これでいいんですか?」
彼女は俺を見た。緊張で少し笑っていたけど、目は本気だった。
「俺でいいのか、って聞き返したいんですけど」
「わたしも、同じです」
「じゃあ、おあいこってことで」
そう言って、二人で笑った。

だけど、俺の手は正直だった。震えていた。
ペンを握る手。名前を書くだけなのに、まるで心臓が直接指先に来ているみたいだった。

「……緊張してます?」
「いや、あの、はい。めっちゃ」
「でも、逃げるなら今ですよ?」
「いや、絶対逃げません」

はっきりそう言えたことが、少しだけ自信になった。

初めて自分で選んだスーツ

その日のために、俺はスーツを買った。
ユニクロでもなく、リサイクルでもなく、きちんとした店で、ちゃんと採寸してもらった。
人生で初めて、自分のためだけに選んだスーツ。

黒じゃない。濃いネイビーの、少しだけ光沢のあるやつ。
店員さんが「爽やかですよ」って言ってくれたけど、俺の顔はどう考えてもくたびれた30代の無職明けだ。
それでも、「これがいい」と思ったのは、そのスーツを着て、彼女の横に並びたかったから。

鏡の前でネクタイを締めるとき、ふと母親のことを思い出した。
生きてたら、どんな顔しただろうか。
公園で出会った女と、子連れで、籍を入れる。
そう聞いたら、きっと、何も言わずに笑ってくれたと思う。
うちの母は、そういう人だった。

「……家族ですね、私たち」

役所の受付で、すべての手続きが終わったとき。
係員が「おめでとうございます」と小さく言ってくれた。
彼女はその瞬間、小さく「はい」と答えて、泣きそうな顔で笑った。

外に出たら、風が吹いていた。
秋の気配が近づいていて、でも陽の光はまだ柔らかかった。

娘が「だっこ」と小さな声で言った。
彼女は膝を折って、抱き上げた。
そして、俺の方を向いて、こう言った。

「……家族ですね、私たち」

その言葉が、まるで魔法だった。
俺は胸がいっぱいになって、言葉が出なかった。
ただ、「うん」とだけ、声にならない声でうなずいた。

帰り道、手をつないだ

駅前までの道を、三人で歩いた。
娘は俺と彼女の間に立って、手をつないだ。
小さな手。暖かい手。
この手を守っていくのが、自分の役目なんだって、自然に思った。

「……こんな未来、想像してました?」
「全然。でも、今はそれでいいかなって」

彼女はふっと笑った。

俺は、心の中でひとつだけ思った。
あの日、砂場で泣いてたあの子に、手を差し伸べなかったら、
今、こうして笑ってる彼女も、手をつないで歩いてる娘も、
俺の人生にはいなかった。

あの瞬間、俺の人生は確かに変わったんだ。

引っ越しは段ボールと笑い声と

小さなアパート。築30年、2DK、風呂は狭くて換気が悪いけど、陽当たりはまあまあ。
この部屋に、俺たちは越してきた。

嫁子の部屋は駅から遠く、壁も薄くて、上の階の足音がうるさかった。
引っ越しの理由を聞くと、「娘が夜泣きしづらそうなところがいい」と言った。

家賃を折半するために、俺は夜勤バイトのシフトを増やした。
自分で自分を褒めてやりたくなるくらい、働いた。
朝5時に帰ってきて、娘を保育園に送って、眠るのは昼過ぎ。
それでも、帰ってきたときの「おかえりなさい」があるだけで、体は動いた。

段ボールを開けながら、俺たちはたくさん笑った。
古いCD、小学校のときの作文、よれたパーカー、未使用の哺乳瓶――
どれも、彼女の過去だった。
「全部捨てようと思ってたのに」と笑う顔が、泣き顔みたいで、胸が苦しかった。

小さなケンカ、大きな溜息

でも、現実は甘くない。

共同生活を始めた途端、俺たちはたびたび言い合うようになった。
娘が夜中に泣くと、俺は寝不足で不機嫌になった。
ゴミ出しを忘れると、彼女は黙り込んだ。
生活リズムのズレ、疲れ、余裕のなさ。
それぞれの「限界」を、静かにぶつけ合っていた。

ある日、俺が深夜のバイトから帰ってきて、冷蔵庫を開けると、晩飯がなかった。
俺はムッとして、ひとりでカップラーメンを作った。

「……言ってくれれば作ったのに」
「いつも作ってたじゃん」
「疲れてたんです。たまには気づいてほしいです」
「……そういうの、ちゃんと言ってよ」
「言わないと伝わらないですか?」

冷たい空気が流れた。
俺たちは黙り込んだ。
部屋の隅で、娘がぬいぐるみを抱えてこちらを見ていた。

あの目を、俺は忘れない。
泣いてるわけじゃなかった。怒ってるわけでもない。
ただ、幼いながらに「何かが壊れている」と分かっていた目だった。

その夜、俺は娘が寝たあとで土下座する勢いで謝った。
「ごめん。俺、父親向いてないかもしれない」
「わたしも、母親やってる自信なんてないです」
小さな声だった。でも、その言葉で、俺は少しだけ、救われた。

初めての『おとうさん』

ある朝、俺が娘を保育園に連れて行こうとしたとき。
玄関で靴を履きながら、娘がぽつんと言った。

「おとうさん、くつ、さかさまだよ」

……固まった。
心臓がドンと鳴った。

「な、なんて言った?」
「おとうさん。くつ、これ、ぎゃくだよ」

彼女は台所でお弁当を詰めながら、何も言わなかった。
でも、背中が小刻みに震えていた。

娘にとって、俺はもう「よく遊ぶお兄ちゃん」じゃなかった。
いつの間にか、「家にいる人」でもなくなってた。
娘の中で、確かに「おとうさん」になっていた。

その言葉に、俺は息が止まりそうになった。
そして、涙が出そうになった。

父になるということ

「父親って、何ですかね」

ある夜、彼女に聞いてみた。
布団の中で、娘がすやすや寝息を立てていた。
「なんでしょうね。わたしも、母親が何か、まだわかってないです」
「でも、娘はあなたを『おとうさん』って言いました」
「……うん」

それだけで、十分だと思った。
完璧じゃなくても、イラついたり、喧嘩したり、足りないところがあっても。
それでも毎日そばにいて、ただ、生きて、一緒に笑ってる。

それが、たぶん、「家族」ってやつなんだ。

あの日、砂場で出会わなければ

娘の七歳の誕生日

その日、リビングには風船が浮かび、テーブルの上には彼女が朝から焼いたケーキが並んでいた。
「ごちそうじゃないけど、手づくりってことで許して」
そう言いながら、彼女は少しだけ誇らしそうに笑った。

娘は、嬉しそうにケーキを見つめていた。
「ろうそく7本。おとうさん、火つけて」
そう言われてライターを持つ手が、思わず震えた。
火を灯すだけなのに、心臓がやたらとうるさい。

娘は今、元気に小学校に通っている。
人見知りだったのが嘘みたいに、友達ができて、毎日たくさん喋る。
「今日ね、○○ちゃんと喧嘩した。でも仲直りした」
「先生、ちょっと怒るけど、いい人」

俺は仕事を変えた。
バイトから正社員になり、配送の仕事をしている。
決して楽ではない。むしろキツい。
でも、玄関で「いってらっしゃい」「おかえりなさい」がある。それだけで、がんばれる。

彼女は今、パートで保育園の給食補助をしている。
人と話すのが苦手だったはずなのに、最近では「ママ友とランチ行ってくる」とか言い出す。
そんな姿を見るたび、胸が熱くなる。

近所のばあちゃんは、言った

ある日、公園の前を通ったとき、久しぶりにあのばあちゃんに会った。

「あら、お父さんになった人じゃない」
「……やめてくださいよ、恥ずかしい」
「でもね、ほんと、あんた変わったわよ。最初に見たとき、人生終わってそうだったもの」

ぐうの音も出なかった。

「娘ちゃんも、明るくなって。お母さんも綺麗になった。あんたが、あの家族を照らしたのね」

俺は言葉に詰まって、ただ会釈だけした。
でもその言葉が、静かに胸に染みていった。

俺が誰かの役に立った――
生きてて、よかったなと、素直に思えた。

「最初に会った日のこと、覚えてる?」

その夜、食器を洗いながら彼女が言った。

「最初に会った日のこと、覚えてる?」

「覚えてる。砂場で娘ちゃんが泣いて……君が、謝ってきた」

「うん。私、覚えてる。
あのときね、ほんとは誰にも声かけてほしくなかった。
でも、あなたが『大丈夫?』って聞いてくれて、
……なんか、すごく安心したの」

「俺も。あの時、君にありがとうって言われたの、忘れられなかった」
「他人だったのにね」
「他人だったな」

笑いながら、でも目の奥が熱くなるのが分かった。

「でも、今は家族」

「うん、家族」

それは、口にするたびに、現実になる言葉だった。

あの日の砂場へ

ある晴れた休日、俺たちは公園に出かけた。
娘のリクエストだった。
「砂場、また行きたい。おとうさんといっしょに山作るの」

あの日と同じ場所。
俺はしゃがんで、小さな手と一緒に砂を掘った。

彼女はベンチに座って、それを見ていた。
目の下のクマは、もううっすらとしか残っていなかった。

「……おとうさん、見て! 高いでしょ!」

「おお、すごいな。お城みたいだ」

「これは、わたしたちの家なの」

そのひとことに、何も言えなかった。
喉の奥が詰まって、ただ「うん」とうなずいた。

そうだな。
俺たちは、あの日ここで“出会った”んだ。
偶然だった。でも、あれは運命だった。
砂の城をきっかけに、3人の人生が、ひとつになった。

そしてこれからも

「……これからも、ちゃんと手をつなごうね」
夜、娘が寝たあとに、彼女が言った。

「怒ったり、泣いたり、喧嘩したりしても、絶対に手は離さないって約束」
「うん、約束する」

手を差し出すと、彼女はそっと自分の指を重ねてきた。

あの日、砂場で伸ばした手と同じだった。
あの日、俺を救った「ありがとう」の声と、同じだった。

これからも、俺たちは、歩いていく。
どんな日も、どんな季節も――

他人だった俺とお前が、確かに、家族になったんだ。

 

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