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はっくなび
『半額の恋、値引きのない心』|2ちゃん馴れ初め風エピソードまとめ
●登場人物
◆主人公「俺」
- 全編通して「俺」と表記
- 28歳。高校卒業後、10年近くフリーター生活
- 趣味はアニメ・ゲーム・プラモ・ネット掲示板
- 弁当屋の夜勤アルバイト歴6年(社交性ゼロ)
- 根暗で自虐癖が強く、会話が苦手(人と目を合わせられない)
- 就職を勧められて、最終的に食品関連の会社員に
- 嫁子との関わりで、徐々に人と繋がることを覚える
◆「嫁子」
- 年齢:推定25歳前後
- 3歳の娘を育てるシングルマザー
- 目を合わせずモジモジ、声が小さい、人を避けがち
◆娘「ちいちゃん」
- 3歳の女の子。言葉は少なめだが直感的に本質を突く
- 弁当屋のレジで「ありがとう」と笑ってくれる子
- 主人公が唯一、素直に微笑み返せる存在
◆脇役たち(舞台を彩る個性的な人物)
- 佐藤さん(店長/弁当屋)
元暴走族。愛妻家。見た目は怖いが優しい。俺の転職を後押し。 - 矢野(常連/警備員)
週6で夜食を買いに来る。「社会で傷ついた大人の代弁者」 - 中村(会社員/同期)
就職後の配属先で出会う。人付き合い上手でお節介。俺の成長を見守る。 - 嫁子の隣人・おばちゃん(地元住人)
口うるさいが本当は親切。嫁子の苦労を知っている。
「半額弁当と俺」
バイト先の弁当屋では、19時を過ぎると“戦い”が始まる。
パートのおばちゃんたちが惣菜に「半額」「3割引」と赤いシールを貼りはじめると、それを目当てに人々が無言で集まり、棚の前に並ぶ。俺はいつもその光景を、レジカウンターの影からぼんやり眺めていた。
客の中には、顔を見れば「また来たな」と分かる常連も多い。
早足で入り、唐揚げ弁当だけを手にしてすぐ消える会社員。
シールが貼られる直前から張り込む中年夫婦。
値引きの見切り品ばかり選ぶ、生活が透けて見える人々。
俺はそういう人たちに名前をつけて、心の中で分類している。
もちろん口には出さない。出せるわけがない。
俺は――オタクで、人間が怖くて、まともに人と目も合わせられない弁当屋の店員なんだから。
「……あの……これ、お願いします……」
その声が聞こえたとき、俺はいつもレジのボタンを押す手を止める。
小さくて、震えていて、どこか陰のある女性の声。
声の主は、毎日のように閉店間際に現れる母娘。
母親はフード付きのボロボロのパーカーに、すり減ったスニーカー。娘はまだ3歳くらいで、母親のスカートの裾にしがみついている。
「割引の……この弁当と、お茶……それだけ……です……」
目を合わせない。表情も読めない。けれどその手は、細くて、少し震えていた。
財布から小銭を数えるその姿を、俺は横目で見ながら、レジに金額を打ち込む。
「……○○円です」
いつもどおりの機械的な返答。俺はそれしかできない。
でも、その日――娘が俺を見上げて、小さく言った。
「おにいちゃん、ありがと」
……不意打ちすぎて、何も言い返せなかった。
でも、なぜか心の奥がくすぐったくて、視線を落としたまま「……どういたしまして」と小さく返していた。俺としては、精いっぱいだった。
その親子は毎日来た。決まって19時45分、閉店の15分前。
母親はいつもモジモジしていて、娘は逆に無邪気だった。
俺は話しかけられるのが苦手だったけど、なぜか彼女たちとは少しずつ言葉を交わせるようになっていった。
「今日も…雨、ですね……」
「……そうっすね」
「この弁当……昨日も、買って……」
「……知ってます。あ、いえ……」
「……ふふ」
笑った。嫁子が、俺の言い間違いに笑った。
それがなんか、悔しいような、嬉しいような――いや、気のせいだ。
俺は女に笑われるほど価値ある人間じゃない。
俺の名前は「俺」。
本当の名前なんて、ここではどうでもいい。
28歳。高校を卒業して以来、ずっとアルバイト。正社員になったことは一度もない。
オタク。陰キャ。キモいって言われたこと、何度もある。
ネット掲示板では人を煽るくせに、現実では店長に「声が小さい」って叱られてばかり。
でも、ここしか俺の居場所はない。
そんな俺の生活に、変化が起きるなんて思ってなかった。
ただの「半額弁当の客」が、まさか、俺の人生を変えるなんて。
その時はまだ、何も知らなかった。
ある日、いつものようにレジで立っていた俺は、後ろの物陰から話し声を聞いた。
「ねえ、あの女の人……いつも割引弁当しか買わないよね」
「うん、ちょっと貧乏くさ……いやいや、そんなこと言っちゃだめ」
「だって毎回あの格好だし。子どもかわいそうじゃん」
俺は無言で会計を続けていたけど、心の中でモヤモヤが募った。
――俺が言いたいのは、そういうことじゃない。
あの人は、ちゃんと「お金を払ってる」。誰よりも、丁寧に、感謝を込めて。
それだけで、十分なんだって。
何を偉そうに――俺だって、どん底の人間なのに。
でも、その日から少しずつ、俺は嫁子に対して、何か“守ってあげたくなる気持ち”を持つようになっていた。
数日後、大雨の日。
俺は傘を忘れて、店の裏口でぼんやり空を見ていた。
そのとき、嫁子とちいちゃんが、ずぶ濡れになって駆け込んできた。
フードの中から水が滴っていて、娘は「さむい」と小さく震えていた。
思わず、俺は手にしていた店のビニール傘を差し出した。
「……これ、使ってください。返さなくていいです」
嫁子は驚いたように俺を見た。
「で、でも……」
「いいです。俺も濡れてますし、どうせ帰るだけなんで……」
俺の声は震えていた。緊張と、情けなさで。
でも、嫁子はその傘を抱きしめて、はじめて真正面から、俺の目を見た。
「……ありがとう。ほんとに……ありがとう」
その言葉が、俺の胸に小さく突き刺さった。
俺は誰かに“ありがとう”と言われるために、生きていたのかもしれない。
そんなことを、思ってしまうほどに。
この日を境に、俺と嫁子の距離は、ほんの少しだけ縮まった。
だけどそれは、社会のどこにも居場所がない者同士の、ぎこちない共鳴に過ぎなかった。
俺たちが“恋”に落ちるには、まだまだ、たくさんの壁があった。
でも――この時、たしかに俺の中で何かが、動きはじめていた。
「同じ匂い」
俺の人生は、誰にも期待されないまま進んできた。
中学ではいじめられ、高校では空気みたいな存在で、卒業後は弁当屋に潜り込んで、ひたすらレジ打ち。
だから誰かと“つながる”ことに、期待なんてしていなかった。
でもあの親子――嫁子と、ちいちゃん――は違った。
あの2人には、「何か俺と同じ匂い」があった。
「……今日、雨じゃなくてよかったね」
ある日の閉店間際、いつものように嫁子がモジモジと話しかけてきた。
俺はドキリとして、視線を合わせられずに「……ああ、そうっすね」と答えた。
「ちいが、ね……“びよういん”って言って……今日は、髪、ちゃんとしてみた……」
見ると、たしかに彼女の髪はいつものようにボサボサじゃなかった。
丁寧に結んであって、横髪はピンで止められていた。
ヨレていたパーカーも、今日は黒いニットに替わっていた。
「……ああ、似合ってます。すごい……えーと、綺麗です」
自分でも驚くほど、自然に言葉が出ていた。
そして驚いたのは俺じゃない。嫁子だった。
「……わ、私なんか……汚いって、よく言われるから……」
「そんなこと、誰が言ったんですか?」
俺の声が少し強くなっていたのかもしれない。
でもそれは、自分にも言っていた。
“俺なんか”という言葉で、自分を殺してきた過去に向けた怒りだったのかもしれない。
嫁子は、小さく首を振った。
「……だれって、わけじゃないけど……雰囲気とか、空気とか、そういうの……わかっちゃう……」
ああ、わかる。わかるよ。
俺も、そうやって空気で人に嫌われてきたから。
次の日、俺は店の裏でいつもどおり納品のラベル貼りをしていた。
その時、レジ前で娘のちいちゃんが「まま、あれ、みてー」と指差していた。
指の先には、昨日から新しく入った「牛しぐれ弁当」が並んでいた。
嫁子は迷っていた。少し高い。でもちいちゃんは「しぐれ、たべたーい」と繰り返している。
俺はレジに立ちながら、その様子を横目で見ていた。
すると、嫁子は諦めたように、いつもの“198円弁当”を手に取った。
「ご、ごめんね……こっちにしようね……」
ちいちゃんは拗ねたように口をとがらせていた。
俺はその瞬間、ふと体が勝手に動いていた。
裏から「しぐれ弁当」を1つ持ってきて、何も言わずに値引きシールを貼り、レジに通した。
「……今日は、これ半額で出てたんで」
嫁子は驚いたように目を見開いた。
俺は目を合わせずに、値段を告げた。
「ほんとに……? いいの……?」
「大丈夫です。……お客さんに渡すタイミング、俺が決められるんで」
小さな嘘。でも、俺にできた最大限のやさしさだった。
それを嫁子がどう受け取ったのかは、分からない。
でも彼女は、ちいちゃんと顔を見合わせて、うれしそうに笑った。
その笑顔が、レジのディスプレイよりまぶしかった。
帰り際、嫁子が言った。
「……なんか、俺さんって……やさしいね」
その言葉に、俺の中で、何かがカチリと音を立てた。
俺は自分のことを「やさしい」なんて思ったことがなかった。
むしろ、他人の幸せをねたんで、見下して、バカにしてきた側だ。
そうやって、社会から逃げてきた。
でも――
「……やさしくなんか、ないですよ。俺はただ、逃げてきただけで」
そう返した俺に、嫁子は少しだけ笑った。
「……私も、似てる。逃げてきた……いっぱい……」
それだけの会話だった。
だけど、こんなにも静かで、それでいて心が近くなる言葉があるのかと、俺はその夜、なかなか眠れなかった。
それから数日、嫁子は少しずつ服装や髪型を整えるようになった。
口数もほんの少し増えた。
ちいちゃんも、俺に「ばいばーい!」と手を振るようになった。
気づけば、俺の中で“孤独”の温度が変わっていた。
ひとりでいるのは、気楽で楽だけど、ほんの少し「誰かとつながる」ってだけで、世界が違って見えるんだってことを、嫁子が教えてくれた。
俺はオタクで、社会不適合で、根暗で、卑屈で……
だけど、あの人が「ありがと」と言ってくれるだけで、少しだけ自分を肯定できるようになった。
その夜、店長の佐藤さんがふと、俺に言った。
「おまえさ、最近ちょっと顔つき変わってきたな」
「え……」
「なんか、ちゃんと“人間”に見えるっつーか。前は……アレだったからな」
「アレって……」
「干物みたいな顔してた。目が死んでて、背中が猫背で、全体的に“死体予備軍”だった」
……ひでえ。
でも俺は、笑っていた。
笑いながら、「ああ、確かに」と思っていた。
嫁子のことは、まだ“好き”なのか、自分でもよくわからない。
ただ、あの人が笑ってくれると、俺は生きていてもいいのかもしれないと思える。
俺たちは、社会から見たら「底辺」かもしれない。
でも、そんな底の中でも――人と人が、向き合うことはできるんだ。
それを、初めて教えてくれたのが、彼女だった。
「弁当屋から出る決意」
弁当屋の厨房には、揚げ物の匂いが染みついている。
油のはねる音、レンジのタイマー音、そして俺の小さな溜め息。
いつもの夜。いつもの光景。
だけど、俺の中には、確かに“いつもと違う感情”が芽生えていた。
それは、嫁子とちいちゃんが現れてから。
俺の世界に、初めて「他人」が入ってきた。
「おい、俺。おまえ、これからどうすんの?」
その日、いつものように仕込みを終えて、休憩室で缶コーヒーを飲んでいた俺に、店長の佐藤さんが突然言った。
「どうって……バイト、っすよ」
「バイト“だけ”で一生終える気か?」
そう言って、店長は煙草に火をつけた。
煙の向こうで、目が真剣だった。
「おまえ、最近ちょっと変わったよな。前はもっと目が死んでた。今はちょっと生きてる」
「……それ、褒めてます?」
「褒めてる。だから言うんだよ。ここにずっといても、何も変わらねえぞ」
……そんなこと、自分が一番分かってる。
でも怖いんだ。社会に出るのが。
俺みたいなクズが、ちゃんと働ける場所なんてあるのか?
「いや、でも……俺、コミュ障なんで……無理っすよ……」
「関係ねぇよ。誰だって最初は“使えねえ”んだ。使えるようになってくんだよ」
その言葉は、どこか俺の中の“逃げ場”を潰してくる。
「正社員とか……そういうの、俺には無理なんで」
「“俺には無理”って口癖、そろそろやめねえか? なんか、おまえさ……あの親子の前では、ちょっとカッコつけようとしてるだろ」
ズバリ言われて、思わずむせた。
佐藤さんはニヤッと笑った。
「……あの子と、付き合いたいんじゃねえの?」
「な、なっ……」
「図星だな。ほら、顔真っ赤」
鏡があったら、ぶん殴ってたかもしれない。
俺はそういう恋愛に向いてない。自分でも分かってる。
でも――
「……もし、そうだったら……ダメですかね」
そうつぶやいた俺を、佐藤さんはしばらく見つめてから、ふっと笑って言った。
「だったらなおさら、“ここ”にいるべきじゃねぇよ。あの子らと一緒に飯食って生きてくなら、“男”は背中見せなきゃだめだろ」
背中、か。
俺には、誰にも見せられる背中なんてなかった。
でも、ちいちゃんが「パパみたい」と言ってくれたあの日、心のどこかで――ちょっとだけ、見せたいと思ってしまったんだ。
その日の夜、嫁子は珍しく少し遅れて来た。
ちいちゃんは眠そうに母親にしがみついていて、嫁子の目は赤くなっていた。
「……遅くなっちゃって、ごめんなさい……ちいが、熱、出ちゃって……」
「……大丈夫ですか?」
「もう、下がったけど……病院代、けっこうかかって……今日は……おにぎり、だけに……」
俺はなにも言えなかった。
なにもしてあげられない自分が、腹立たしかった。
社会の役にも立てず、他人を助ける力もない。
こんな俺が、誰かと一緒に生きたいなんて――笑える話だ。
でも、店の裏口に立ち尽くす俺の背中に、嫁子がそっと声をかけた。
「……あの、俺さん……いつも、ありがとうございます」
「……」
「私……なんでだろ……ここに来るのが、すごく……救われるような、気がしてて……」
その声を聞いて、俺は心を決めた。
夜中、ネットで求人情報を開いた。
「未経験歓迎」「学歴不問」「研修あり」「食品会社」……
自分にできそうな仕事を探して、いくつかエントリーを送った。
履歴書なんて10年ぶりに書いた。字が震えて、情けなかった。
でも、俺は行動した。
嫁子とちいちゃんのために。
いや、違う――自分自身のために。
初めての面接は、ボロボロだった。
「えっと……その、あの……僕は、その……人と話すのが、苦手で……」
面接官の顔色が曇るのが、分かっていた。
でも、それでも俺は、「変わりたいです」と言った。
数日後、連絡が来た。
「一度、試用で来てみませんか?」
それだけの言葉に、泣きそうになった。
バイト終わり、俺は嫁子に初めて“報告”した。
「……俺、就職……決まりそうなんです」
嫁子は、驚いたように目を見開いた。
そして、ぽつりと笑った。
「……すごい、ですね……俺さん……がんばったんですね」
「……はい。嫁子さんの……おかげです」
「え?」
「……俺、嫁子さんとちいちゃんに出会って……初めて、“ちゃんと生きなきゃ”って思えたんです」
俺の告白に、嫁子は小さく息をのんで、うつむいた。
その頬が少し赤くなっていたのは、きっと気のせいじゃない。
「……俺も、がんばりますね。仕事も、子育ても……」
「一緒に、がんばりませんか?」
言ってしまった。
自分でも、信じられないくらい自然に。
嫁子は、涙を浮かべてうなずいた。
それが、俺たちの“始まり”だった。
まだ付き合ってるわけじゃない。
でも確かに、あの日から、俺の人生は弁当屋の外に動き始めた。
背中を見せられる男に、なりたいと思った。
「付き合う、ということ」
初めての出社日は、地獄だった。
社員証の写真を撮られるとき、手は震えるし、目線は泳ぐし、
「笑ってください」と言われて引きつった口元は、きっと死にかけの魚だったと思う。
オタクでコミュ障で、弁当屋から這い出た俺が、
ネクタイを締めて“会社員”を名乗ることになるなんて。
数か月前の俺が知ったら、爆笑して気絶するだろう。
「おつかれーっす、俺くん! 昨日またアニメ見てたでしょ?」
そう声をかけてくるのは、中村さん。
俺より2歳下の同期で、社交性の化け物みたいな人間。
最初はビビってたけど、いまは唯一“気軽に話せる存在”になった。
「……まぁ、ちょっと。今期のロボットものが」
「はいはい、どうせまた“スーツの肩のデカさ”で評価してるんでしょ」
「バレてる……」
「てか、マジで意外だったよ。俺くん、めちゃ仕事まじめだし。陰キャどころか、陰の中の陽だわ」
「……なにその例え……」
笑い合う。この会社に入って、はじめて「他人と笑う」時間が増えた。
でも、頭のどこかには、あの親子のことがずっとあった。
夜、久しぶりに弁当屋に顔を出した。
あの日の傘を返すように、少し照れながら、嫁子がレジに立っていた俺に話しかけた。
「……俺さん、やせましたね」
「え、わかります? 仕事で神経すり減らしてるんで……」
「でも……顔つきが変わったっていうか……なんか、ちゃんと“人”って感じ……」
「……や、それ褒めてます?」
2人で笑う。その距離は、もう前ほど遠くなかった。
ちいちゃんは「おにいちゃんおにいちゃん」と俺の袖を引っぱって、得意げに“しりとり”をはじめてきた。
「りんごー!」
「……ごりら」
「らっぱ!」
「ぱ……パトカー!」
「かーめ!」
嫁子がクスクス笑う横で、俺は本気で負けたくなくて必死になっていた。
そんなある日、思いきって、俺は嫁子を誘った。
「……あの、週末……時間、ありますか?」
「え……?」
「近くに、新しくできた公園があって。ちいちゃんと、散歩とか……」
「……いいんですか? 私なんかが……」
「俺が行きたいんです。嫁子さんと、ちいちゃんと……一緒に」
嫁子は、一瞬だけ何かを飲み込むように黙って――それから、うなずいた。
「……じゃあ、行きます」
その笑顔は、あの頃の“割引シールを探してた顔”とは、まるで別人だった。
日曜日、公園には少し風があった。
ちいちゃんが遊具を駆け回る横で、俺たちはベンチに座った。
「……こうして、外で座ってるだけで、なんか泣きそうになる」
嫁子がぽつりと呟いた。
「なんで?」
「ずっと、“こういう時間”がなかったから。子どもと一緒に、なにも心配せずに笑う時間」
「……俺も、同じです」
「え?」
「ずっと、誰かと一緒にいることが怖くて……でも、いまは……誰かがいてくれるって、すごいことなんだなって思えるんです」
嫁子が、俺の横顔を見ていた。
そして、静かに言った。
「……俺さん、手……出してもらえますか?」
「え、手?」
「……つなぎたいって思ったの、久しぶりで……」
俺は、おそるおそる、彼女の手をとった。
細くて、でもあったかかった。
「……これが、“付き合う”ってことなのかな」
そう言った俺に、嫁子は小さくうなずいた。
「……私、がんばって綺麗になります。……俺さんに、ふさわしいって思えるように」
「俺こそです。……ちゃんと、守れるような人になります」
こんな会話を、俺たちがする日が来るなんて。
信じられなかった。でも――嬉しかった。
付き合うって、すごく特別なことだと思ってた。
だけど本当は、ただ一緒にいて、お弁当食べたり、ちいちゃんの寝顔見たり、笑ったり泣いたり、そういう日常の積み重ねなんだってことを、俺はこの頃から、少しずつ理解し始めていた。
その帰り道。
ちいちゃんが眠って、俺の背中でぐっすりしていた。
嫁子が、少し照れながら、俺の袖を掴んだ。
「……ねえ、俺さん」
「はい」
「……これからも、家族みたいに、いてくれますか?」
俺は、何も迷わず言った。
「……家族になりましょう」
「壁と涙と、それでも」
俺たちは付き合い始めた。
でも、「付き合う」ってのは、ただ手をつないだり、公園でお弁当を食べたりすることだけじゃなかった。
現実はもっと……面倒で、しんどくて、逃げたくなる瞬間ばかりだった。
最初に壁が来たのは、俺の職場だった。
ある日、同僚の中村が、いつものようにランチ中に聞いてきた。
「なあ俺くん、彼女できたってマジ?」
「……うん、一応」
「へぇ~! どんな人? どこで出会ったの?」
その問いに、俺は答えられなかった。
「弁当屋で出会って、貧乏なシングルマザーと付き合ってます」――
そんな正直な言葉を、どうしても口に出せなかった。
「えっと、ちょっと前に知り合った人で……まあ、普通の人」
中村は深く追及しなかった。
でも、自分が“彼女を堂々と紹介できない”という事実に、情けなくなった。
俺はまだ、社会の目にビビっていた。
その数日後、俺はちいちゃんの保育園の送り迎えを手伝うことになった。
小さなカバンを持って、手をつないで歩くと、ちいちゃんはニコニコしながら話しかけてくる。
「おにいちゃん、きょうもえんそくだったの!」
「え、遠足!? それ今日だったのか、そっか……」
保育園に着くと、周囲のママたちが一斉にこちらを見る。
ヒソヒソ、ザワザワ。
俺はその視線に耐えられず、目をそらした。
「シングルマザーって聞いてたけど、あの人……再婚相手? でもなんか、冴えない感じ……」
「え、髪もボサボサだし……子どもかわいそう……」
声に出してはいない。だけど、目が語っていた。
“あの子の父親、あれなの?”という空気が、俺の喉に重くのしかかった。
俺は帰り道、言葉を選びながら、嫁子に聞いた。
「……ねえ、今まで、こういうの……ずっと耐えてきたの?」
「うん……慣れたよ、もう……」
「……ごめん。俺、なんか……情けない」
「なんで謝るの?」
「俺、あんな目で見られたの、久しぶりで……怖かったんだ。俺なんかじゃ、嫁子さんとちいちゃん、守れないかもって……」
そのとき、嫁子が泣いた。
声を出さず、ぽろぽろと。
「……私も、ずっとそうだったの。誰にも頼れなくて、誰にも受け入れてもらえなくて……
だから俺さんが、“守る”なんて言ってくれて……嬉しかった。でも、現実って……やっぱり、厳しいね……」
俺は何も言えなかった。
ただ、嫁子の手を強く握った。
その夜、俺は久しぶりに弁当屋の店長・佐藤さんに電話した。
「……俺、俺なんかが誰かを守るなんて、身の程知らずでしたかね」
「は? なに言ってんだ」
「やっぱ、無理なんすよ。俺じゃ、無理……」
「“俺じゃ無理”って言葉、まだ口癖かよ。おまえ、確かに大した奴じゃねえ。でもな、“誰かのために頑張ってみよう”ってやつは、誰よりも強えんだよ」
「でも……」
「おまえさ、あの女の子と笑い合ってる自分、嫌いか?」
「……嫌いじゃない、です……」
「だったら、逃げんな。泣かせたらぶっ飛ばすぞ。俺はおまえのこと、勝手に弟みたいに思ってんだからな」
……こんな、俺のことを思ってくれる人間が、いたんだ。
次の日。俺は嫁子に会いに行った。
ちいちゃんは、布団でお昼寝していて、静かな時間だった。
「嫁子さん、あの……俺、逃げようとしたんです」
「え……?」
「“俺なんかじゃダメだ”って、また思っちゃって。でも……俺、思い出したんです。あなたといるときの自分は、ちょっとだけ誇らしかった。
だから、ちゃんと向き合いたい。人の目が怖くても、偏見があっても……あなたと、ちいちゃんと、3人で生きたいって……」
嫁子は、何も言わなかった。
ただ、俺の胸に顔を埋めて、ぽつりとこぼした。
「……うれしい……わたしも、逃げない。俺さんが一緒にいてくれるなら……」
それが、俺たちが“ちゃんと家族になろう”と誓った夜だった。
現実は甘くない。
でも、誰かと一緒なら、ほんの少し前を向ける。
俺は、逃げないと決めた。
この手を、離さないと決めた。
俺たちは、ゆっくりだけど確実に、“家族”に向かって歩き出していた。
「結婚届と3人分の弁当」
俺は、朝の駅に立っていた。
スーツを着て、ネクタイを締めて、手には保温バッグ。
中には、今朝早く起きて作った、俺の弁当と――嫁子とちいちゃんの分もある。
3人分の、少し不格好な手作り弁当。
数年前の俺には、まるで想像もつかない光景だった。
ただ黙ってレジを打ち、アニメのフィギュアをネットで眺め、ひとりで部屋にこもっていた俺が――
いま、駅前の公園に向かって歩いている。
そこには、俺を“変えてくれた人たち”がいる。
思えば、あの頃の俺は「人に好かれる資格なんかない」と思っていた。
社会から爪はじきにされてきたし、自分の価値なんて、1ミリも信じてなかった。
でも、嫁子とちいちゃんが――俺の存在を“必要”としてくれた。
「パパみたい」って言われたとき、涙が出た。
「ありがとう」って言われたとき、心が揺れた。
誰かに“必要とされる”って、こんなにも大きな力をくれるんだ。
会社にも慣れ、雑務や営業補助を任されるようになってきた。
まだ不器用だけど、“俺なりの”働き方が見えてきた気がする。
先日は、後輩の面倒を見て「やさしい先輩」と呼ばれて、ちょっと照れた。
弁当屋の店長・佐藤さんは、今もたまに電話をくれる。
「で? ついにプロポーズすんのか?」
「はい……ちゃんと、言います」
「ったく、おせぇよ。でも……よくやったな、俺。誇りだよ」
その言葉に、涙がこみ上げた。
俺は、やっと“誰かの自慢になれる”自分になれたのかもしれない。
休日の昼、俺は3人分の弁当を持って、駅近くの小さな公園へ向かった。
芝生の上で、嫁子とちいちゃんが待っていた。
嫁子は、もう昔のようにヨレたパーカーなんて着ていなかった。
髪も整えられていて、細身のワンピースがよく似合っていた。
ちいちゃんは、にこにこしながら俺に手を振ってきた。
「おにいちゃん、きょうは“ピクニック”だね!」
「そうだな。今日は……大事な日だ」
3人で敷物を広げて、弁当を開く。
のり弁、たまごやき、唐揚げ、ウインナー――
ちいちゃんは「おいしー!」と声をあげ、嫁子は「ほんとに、俺さんが作ったの?」と笑う。
「……結婚、しませんか?」
自然に、その言葉が出た。
俺は、嫁子の目をまっすぐに見た。
手は震えていたけど、もう目はそらさなかった。
「……ちゃんと、これからも守りたい。俺はあなたたちと、家族になりたいんです」
沈黙。
ちいちゃんが、お弁当をモグモグしながら2人の顔を見ている。
そして、嫁子は――涙を浮かべながら、小さくうなずいた。
「……お願いします。私も……俺さんとなら、笑って生きていけそうな気がする」
「俺さんが……ちいのパパ、なってくれるなら……うれしい」
ちいちゃんも、満面の笑みで「やったー!!」と叫んで、唐揚げを落とした。
俺はそれを拾いながら、声を上げて笑った。
帰り道、嫁子が言った。
「……こんな未来が、来るなんて思わなかった。私……ずっと、消えたいって思ってたから」
「俺もですよ。ずっと、部屋の隅っこで人生終えると思ってた」
「でも……出会えたね」
「はい」
その会話に、意味なんていらなかった。
俺たちは、ちゃんと“生きて”いた。
夜、3人で書いた「婚姻届」。
ちいちゃんは自分の名前を書くスペースがないのに、「ちいも かく!」とペンを持って紙に落書きした。
俺はそれを見ながら、心の中でこう思った。
「こんな俺でも、“誰かと生きていい”って、信じていいんだな」
俺は、オタクで、コミュ障で、逃げ続けてきた人間だった。
でもいま、俺には「嫁子」と「ちいちゃん」がいる。
手作りの弁当と、笑い声と、少し未来の話ができる家庭がある。
誰にも認められなくていい。
この2人さえ、俺を必要としてくれるなら――それだけで、十分すぎる。
弁当屋で出会った、割引シールの向こう側にいた親子が、
俺の人生を“定価”に戻してくれた。
俺たちの人生は、もう“見切り品”なんかじゃない。
これからは、3人分の弁当を作って、3人分の未来を生きていく。
(完)