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はっくなび
なんかあの子、目を合わせてこないんだよな
俺は、いわゆる“影の者”だった。
会社でのポジションは営業補佐。派手なことはしないし、成果を上げるタイプでもない。資料まとめやスケジュール確認、時々お客様へのお茶出しをするだけ。営業の花形たちがバンバン契約を取ってくるのを、後ろで黙ってサポートするのが日課だ。
「お前さ、たまには営業同行とか興味ないの?」と聞かれたことがある。
(いや、ない……。こっちにはこっちの世界があるんで)
そう思ってはいたけど、言葉にすることはなかった。2ちゃんとラノベ、それに深夜アニメが俺の全てだった。話しかけられるのも嫌いじゃないけど、できれば静かにしていたい。存在感がないって言われるのは、むしろ褒め言葉だ。
そんな俺が、部署で唯一気になる存在。それが“嫁子”だった。
新卒で庶務に入ってきた女の子。小柄で、目立たない。いつも黒っぽい服で、マスクは常に装備。下向いて歩いてて、誰かと目を合わせることなんてまずない。
最初は正直、何考えてんだか分かんなかった。仕事はミスだらけだし、メモを取っても読めない文字で、吉田さんにしょっちゅう「お前、呪いでも書いてんの?」って言われてた。
「ちょっと変わった子だよなぁ」
「声、聞いたことあるか?」
「マジで影薄くてビビるわ」
そんな会話が、たまに昼休みに出るくらい。
でも、なんか気になる。
俺と同じ“喋らない側”の人間なのに、やたら警戒心が強い。いや、もしかしてそれって…単に“コミュ障”なだけか?(親近感?)
ある日、総務の吉田さんが言った。
「ねぇ、あんたあの子のこと、ちょっと気にしてるでしょ?」
「えっ、いや、別に……」
「ふーん。あの子、ああ見えて漫画好きっぽいよ? ほら、あのシュレックみたいなトートバッグにアニメ缶バッジついてたし」
(マジか)
その日から、俺は嫁子のトートバッグをこっそり観察するようになった。
でもな、ついてるバッジ、全部キャラデフォルメで読めないんだよな……。
俺の知らないジャンルか?それとも“女オタク”特有のやつか? まさか…腐女子…?
(いやいや、そんなまさか…)
え、今の……嫁子、だよな?
その日、俺は外回りで池袋に寄っていた。営業部の先輩が急遽キャンセルになって、代わりに俺が資料を届けることになったからだ。昼過ぎ、汗ばんだシャツの襟を引っ張りながら、目的のビルの近くでふと時計を見る。
(……このまま直帰でも文句言われないよな)
ふと足が勝手に曲がる。
そう、池袋東口――アニメイト通り。俺にとっては“聖地”だ。
(あそこだけは、俺でいられる場所)
ラノベ、アニメ、フィギュア、薄い本……。
“俺たち”の戦場が揃ってる。
8階の同人フロアに向かう途中、エスカレーターのすれ違いざまに視界の端で止まるものがあった。
(……あの後ろ姿、なんか見覚え……?)
ロングスカート。黒のサマーカーディガン。アイボリーの帽子。白いマスク。だが、その服装の違和感よりも、手に持っていたのは――
腐女子向けのBL新刊だった。
(え、嘘だろ……今、あれ持ってたの……?)
まさかと思いながら、そっと近づいて、横顔を見た。
目元しか見えない。でも、その目は……、職場で一度も俺と合わなかった、あの、下を向いてばかりの――
(……嫁子、だ)
信じられなかった。普段の彼女からは想像もできない雰囲気。
少しアイシャドウを入れて、薄くリップもしている。ナチュラルだけど、明らかに“女の顔”だった。
服もオシャレで、何より本を読むその手元が、すごく……楽しそうだった。
彼女は全然、俺に気づいていない。
いや、多分気づかないフリをしてる。こっちを一瞥もしないまま、立ち読みを続けている。
俺はそっとその場を離れた。
(何見てんだ、俺……)
階段を下りながら、鼓動がやけに早い。
(俺、あいつの“素”を見たんじゃないか?)
そう思ったら、やたら喉が渇いた。
翌日。会社に戻ると、嫁子は――まるで別人のように“俺を見た”。
あの人目を合わせない嫁子が、廊下ですれ違いざまに俺の顔をちらっと見たんだ。
「……っ」
俺も思わず視線をそらした。けど、その一瞬で確信した。
(やっぱ昨日の、あれ……絶対、嫁子だよな)
そして昼休み。弁当を食べながらパソコンをいじっていると、俺の席に“それ”はやってきた。
「……あの」
目の前に、マスク姿の嫁子が立っていた。
「き、昨日は……その……見なかったことにしてください……」
小さな声で、でも確かにそう言った。
(バレてた……!)
「あ、ああ……わかった」
「ほんと、ほんとに、誰にも言わないでください……」
そう言って、頭を下げた彼女の目は、どこか恥ずかしそうで、でもどこか嬉しそうだった。
(いや、気のせいか……?)
「……あの、LINEとか……してますか?」
「え? あ、うん」
「じゃ、じゃあ……その、ID、教えてくれたら……あの、助かります……その……本の話とか、できたら……」
(本の話……って、BL……?)
それが、俺と嫁子の初めての“本当の会話”だった。
LINEって、こんなに面白かったっけ?
「……じゃあ、これ、俺のID」
スマホの画面を見せながら、ぎこちなくそう伝えた。
嫁子は何度も頷きながら、手元のスマホを両手で握っていた。操作もたどたどしい。
(ほんとに機械弱いんだな……)
そう思いながら、でもなぜかその様子が、ちょっと微笑ましく感じた。
「……登録、できました」
「お、おう」
「……あの、じゃあ……お昼休み終わったら、送ってみます」
そう言ってぺこっと頭を下げて、嫁子は小走りで戻っていった。
俺はしばらく固まったまま、スマホを持った手だけがじんわり熱かった。
午後の業務が始まって30分。スマホが微かに震えた。
《昨日のこと、本当にすみませんでした……でも、気づいてもらえてちょっと嬉しかったです》
そこからは、はやかった。
最初は「腐女子の世界に偏見ありませんか?」「俺もラノベとアニメ好きだから気にしない」と、短いメッセージの応酬。
そのうち嫁子のトーンが少しずつ変わっていった。
言葉遣いがほぐれて、スタンプも使うようになった。
好きな作品、好きなカップリング、推しのセリフ。
送られてくる文字の行間に、どこか興奮と喜びがにじんでいた。
(あれ……この子、こんなに喋るんだ)
俺は衝撃だった。
職場で見た嫁子は、常に小声でうつむき加減。
話しかけても「はい」「すみません」しか言わない。
でも、LINEの嫁子は違った。
《ちなみに、アニメだと“◯◯×△△”が一番刺さりました……わかりますか?》
《あ、もし興味なかったらスルーしてください! ほんとすみません!》
《でも、あなたもあの作品好きって言ってたから、つい……》
(いや、わかる。俺も“◯◯×△△”派だ)
俺は夢中で返した。語彙力を削りながら、熱をこめて、文字に込めた。
好きなものを語り合えることが、こんなにも楽しいとは思わなかった。
翌週。社内でちょっとした変化が起きた。
「嫁子ちゃん、最近よく喋るようになったよな」
「なんか、動きもスムーズっていうか……前より落ち着いてない?」
「メモもちゃんと読める字になってる!奇跡!」
吉田さんが俺の机の前でニヤニヤしていた。
「なーんか、あんた絡んでる?」
「いや、なんで……」
「ふーん。嫁子ちゃんのマスク越しの顔、最近よく笑ってるよ?」
その言葉に、俺の心臓が一瞬止まる。
(そりゃあ……LINEで毎晩2時間以上話してたら、ちょっとは変わるかもな)
しかも、嫁子は時折、俺にしかわからないネタを小声でつぶやくようになった。
「今日の会議、まるで“本丸の刀剣男士たちの集会”みたいですね」
(……笑っちまったじゃねぇか)
いつのまにか俺の一日が、“嫁子からの通知音”を待つ日々になっていた。
週末。いつものようにLINEをしていた夜。
《あの、来週末……池袋でアニメの展示やってるの、知ってますか?》
《あの作品の原画展なんですけど……行く予定ありますか?》
《もしよかったら……ですけど、一緒に……行きませんか?》
俺は一瞬、息をのんだ。
「……リアルで会うってことか……」
スマホの光に照らされた部屋の中で、俺はずっと心臓の音を聞いていた。
池袋のあの階段で、また会った
週末。俺は朝から、落ち着かなかった。
いつもなら、休日は部屋にこもってアニメ三昧。昼過ぎにカップラーメン食べて、夜は録画してた番組を消化して終わる。
でも今日の俺は違う。
髪は整えて、シャツも一応アイロンをかけた。靴も軽く磨いて、出かける30分前から玄関で立っていた。
「……変だな」
(ただの展示会。オタク同士、現地集合現地解散。会話して、グッズ見て、それで終わり)
……なのに、なんでこんなに緊張してるんだ。
池袋駅。人が多すぎて、くらくらする。
待ち合わせはアニメイト横の階段前、12時。
時計を見て、まだ10分ある。人の流れの隅に立って、深呼吸をした。
「……あの」
振り返ると、そこにいたのは――あの日と同じ、池袋の“嫁子”だった。
けど、あの日より少しラフな格好。
オフホワイトのブラウスに、ラベンダー色のカーディガン。膝丈のスカートに、トートバッグには缶バッジが一個だけ。
それでも――眩しかった。
あの会社で見ていた、マスクに隠れていた地味な女の子とは別人。
でも、目元だけは同じで、それがなんか、安心した。
「……待ちました?」
「いや、今来たとこ」
(うわ、テンプレ……)
「今日は、ありがとうございます」
「こっちこそ。展示、楽しみにしてたから」
自然と並んで歩きながら、アニメイト8階の展示会場へ向かう。
入場列はそこそこ長かったけど、不思議と会話は途切れなかった。
「この原画……すごいですね。トーン処理まで、手でやってるんですね」
「わかる。しかもここの影、あの名シーンの構図だ」
「わあ、これ……“△△くんが泣く”回のやつじゃないですか?」
「あ、もうそこ言っちゃう?」
(思いっきり盛り上がってる……俺たち)
嫁子は興奮すると、すぐ語尾が高くなる。
そして早口になって、手をぱたぱたさせる。
それが、やたら可愛くて――
(……え、俺、今“可愛い”って思った?)
グッズ売り場。俺は財布を手にしながら、こっそり嫁子の様子を見ていた。
「あっ……このキーホルダー……でも、ちょっと高い……」
(迷ってる顔も、オタクっぽいな……)
俺はふっと笑って、自分の分と一緒にそれをレジに持って行った。
「えっ!?ちょ、ちょっと、なんで……!」
「別に。さっき俺が語りすぎたお詫び」
「そんな……!ありがとうございます……」
嬉しそうにキーホルダーを手にして、ぎゅっとバッグにしまい込んだ嫁子の横顔は、まるで“普通の女の子”だった。
「……俺さ、ちょっと意外だったよ」
「何が……ですか?」
「嫁子が、こんなに楽しそうに喋るなんて」
「……私もです。自分が、こんなに喋るとは思ってなかったです」
沈黙。
でもその沈黙は、苦しくなかった。
混雑した池袋の中で、俺たちはぽつんと立っていたけど、何かがちゃんと繋がっているような気がした。
帰り際。駅の改札口で、嫁子が立ち止まった。
「……今日は、ほんとに楽しかったです」
「俺も。展示もだけど、嫁子と一緒だったのが……なんか、よかった」
「……あの、もし……よかったら、また……来月の即売会、一緒に……行けたら」
「うん。行こう」
嫁子は少し目を伏せて、でも笑った。
「……その前に、今度、会社の近くで……ごはん、どうですか?」
「それって、もしかして……デート的なやつ?」
「ちょっと……ちょっとだけ、です」
(……俺、マジで今、人生でいちばん心臓バクバクしてる)
ふたりで食べた社食のカレーが、意外と美味かった
平日の昼休み。
会社の食堂――通称「社食」は、いつも混んでいる。
だけどその日、俺は少し早めに席を取って、周囲をチラチラ見ながら、誰かを待っていた。
「……遅れてすみません」
(来た……)
トレイを両手で持って、少しだけうつむいてる嫁子がいた。
けどその顔には、前よりもずっと穏やかな空気があった。
「今日は、カレーにしてみました」
「俺も。ちょっと辛いやつ」
ふたりで並んで食べる社食のカレー。
話題は、もちろん昨日見たアニメの話から。
「昨日の回、作画すごかったですよね」
「いや、あれ背景美術やばすぎ。あんな街灯の光、再現できるの反則」
「……あ、ちょっとだけ、泣きました」
「え、それマジ? 俺も……ちょっと」
(なんで、こんなに自然に喋れるんだろうな)
前までは、昼休みは完全に「ソロ活」だった俺たち。
なのに今は、まわりの騒がしさが気にならないくらい、ふたりの時間が心地いい。
「……あの」
「ん?」
「この前、展示会……ありがとうございました。キーホルダー、机に飾ってます」
そう言って照れくさそうに笑った嫁子の目が、じんわり潤んで見えた。
(ああ、こっちも照れるだろ……)
「よかったらさ、またどっか行こうか」
「行きたいです……あ、あの……私、実は地方の即売会も、ちょっと興味あって……」
「え、それって……地方遠征ってやつ?」
「はい……あの、コミケよりマニアックだけど、雰囲気が良くて……行ったことないけど、夢で……」
(それ……一緒に行けたら、俺、死んでもいいかも)
午後のデスク。
俺がいつものようにパワポをいじってると、隣の部署から吉田さんがやってきた。
「ちょっとアンタ、最近ニヤニヤしてんじゃないの」
「してません」
「嘘つけ。嫁子ちゃんと社食で笑ってたじゃん。あの子、誰とも喋れなかったのにさ」
「……まあ、ちょっと話すようになってきた感じです」
「ふぅん……で? 進展は?」
「……いや、別に」
「つまんないわね。あの子、アンタには気を許してるみたいだし、押せばイケるって、これ確信よ」
(いや、押すとかじゃなくて……)
けど吉田さんの言葉が、俺の中でじわじわ効いてくる。
嫁子の言葉、仕草、視線。
それらが、全部「俺にだけ向けられている」気がして――
(……俺、恋してんのか?)
気づいてしまったら、もう戻れなかった。
その夜。
いつものようにLINEでやり取りしていたとき、嫁子がふいに送ってきた。
《あの……すごく言いにくいんですけど、実は私、会社の人には絶対言えない趣味があって……》
《……でも、あなたには話してもいいかなって思えてます》
続けて、画像が届いた。
写っていたのは――
ぎっしり並んだBL同人誌の本棚。ジャンルは広く、マイナー作品のカップリング名がタグで分類されていた。
《……引きましたか?》
(……いや、むしろ感動した)
《引くわけない。俺も、オタクとして生きてきたし、こんなに正直に趣味を話してくれる人、初めてだ》
そのあと、ポン、と送られてきたスタンプ。
泣き顔で「ありがとう」って出てるウサギだった。
眠る前。俺は、ベッドの上で天井を見ていた。
(こんな日が来るなんて、思ってなかった)
会社で目も合わせなかった女の子と、こんなにも心を通わせるなんて。
俺の人生、変わってきてるのかもしれない。
そして、スマホが震えた。
もう一通、嫁子からのLINE。
《……私、リアルで好きになった人って、あなたが初めてかもしれません》
画面がにじんで、よく見えなかった。
けど俺は、確かに笑っていた。
本気で好きになった人が、目の前にいた
それから数日。
俺たちは、ほぼ毎晩LINEを続けていた。
業務中には、嫁子がそっとポストイットに「今夜は9時から」と書いて俺の机に貼っていく。
それが、ふたりだけの小さな合図になっていた。
(こんな関係、学生の頃にもなかったな)
会社では、あいかわらず嫁子は物静かで、他人とほとんど会話をしない。
でも、俺のことだけは、目を見て話すようになった。
資料を渡すとき、すこしだけ手が触れて、「……あ」って顔をする、その微妙な間。
それが、なんとも言えず――愛おしかった。
ある金曜の夜。
俺はついに、決意した。
(ちゃんと、この気持ちを伝えよう)
自分から告白なんて、人生で一度もしたことがない。
好きだった子は何人かいた。でも、どうせフラれるだろうって、諦めてきた。
けど、嫁子は違った。
嫁子は、俺にだけ“素の顔”を見せてくれる。
あの池袋での姿も、社食での笑顔も、LINEで熱く語ってくれるときも。
全部、“俺にしか見せない顔”だった。
(だったら、伝えないのは逆に失礼だろ)
その日は仕事が早く終わった。
俺は、会社の近くのファミレスに先に着いて、窓際の席でコーラを飲みながら待っていた。
そして、嫁子がやってきた。
淡いブルーのシャツワンピース。ちょっと巻いた髪。
それだけで、なんか特別に見えた。
「……遅くなって、すみません」
「いや、大丈夫。こっちも今来たとこ」
(またテンプレ……でも、ほんとに今来た)
席についた嫁子は、どこかソワソワしていた。
カトラリーを指で揃えたり、グラスの水を少しずつ飲んだり。
俺も緊張で、メニューすら頭に入ってこない。
「……あのさ」
「はい……?」
「ちょっと、話したいことがあるんだ」
一瞬、空気が止まった。
嫁子がグラスを持つ手を、そっと止めた。
「……俺、ずっとひとりでオタクやってきて……正直、誰かと“好き”を共有するの、諦めてた」
「でも……嫁子と話してると、楽しくて。展示も、ごはんも、LINEも、どれも全部……本当に嬉しくて」
嫁子は、何も言わず、俺を見ていた。
今まででいちばん、まっすぐに。
「俺……たぶん、じゃなくて、確実に、好きなんだ。……嫁子のこと」
「……」
その沈黙が怖かった。
答えが返ってこない数秒間が、永遠に感じた。
けれど、嫁子は小さく震えながら、唇を開いた。
「……私も、ずっと、同じことを言おうとしてました」
「でも、こんな趣味持ってる私なんて、誰かに好かれるなんて思ってなかった」
「……でも、あなたは、私のことを見てくれて、ちゃんと話してくれて……」
「こんなに、嬉しかったこと、初めてでした」
言いながら、嫁子の目から、ぽろっと涙がこぼれた。
(泣いてる……嬉し泣きか?)
俺は、自然と手を伸ばして、嫁子の指に触れた。
「俺、嫁子の趣味、全部受け止めるよ」
「ほんとですか……? あの、本棚の一番下にある“年齢制限アリのやつ”も……?」
「……うん、さすがに表紙は袋に入れような」
ふたりで小さく笑った。
その笑い声が、あたたかくて、確かなものだった。
その帰り道。
夜の風が少し涼しくなっていた。
「……この関係、ちゃんとしたいと思ってるんだ」
「……はい」
「俺たち、付き合おう。ちゃんと、恋人として」
「……よろしくお願いします」
池袋で見かけた“あの嫁子”は、もう目の前にいなかった。
そこにいたのは、俺の気持ちに応えてくれる、ちゃんと“好きになった相手”だった。
オタク部屋を“ふたり”で掃除した日
付き合い始めた――とは言っても、俺たちは“派手なデート”とか“手をつないで公園散歩”とか、そういうカップル的なことはあまりしていない。
「お互いに干渉しすぎない関係が理想です……」
「わかる、心の距離感って大事」
「でも、LINEは毎日したいです……」
「それもわかる」
そんなふうに、ゆるく、でもちゃんと“本気”の関係が、俺たちの日常になった。
それでも、確実に世界は変わっていた。
たとえば、ある休日。
「……その、うちに来ませんか? 見せたいものがあって」
嫁子からそう言われて、ドキドキしながら足を運んだ。
(……もしかして、これが“お泊まりイベント”ってやつか?)
そう思ったが、違った。
「すみません、ちょっと片付いてなくて……」
そう言って通されたのは、6畳のワンルーム。
中には、壁一面の本棚。ジャンル別に並んだ同人誌。ラミネートされたポスター。
ぬいぐるみが整列されたベッド。薄型モニターの前に、積まれたアクリルスタンド。
(……想像の5倍、本気だった)
「……これが私の“城”です」
そう言って恥ずかしそうにうつむく嫁子。
でも、その目にはどこか誇りが宿っていた。
「いや、すごい……マジで、すごい。好きなものに囲まれてるって、羨ましい」
「……私、この空間がなかったら、社会に出られなかったかもです」
「わかる。俺も、自分の部屋なかったら、今の自分崩れてたと思う」
そう言い合いながら、ふたりで棚を眺めて、ポスターの角度を直しながら語った。
あのカップリングがどれだけ尊いか、アニメの何話で沼に落ちたか。
2時間があっという間に過ぎた。
「……今度、俺んち来る?」
そう提案すると、嫁子は一瞬戸惑った表情を見せたが、すぐに頷いた。
そして、その週末。
我が“オタクの巣”に、嫁子がやってきた。
「……こっちは、ゲーム系なんですね」
「そう。あと、なろう系も多い。ごっちゃになってるけど」
「整理……してもいいですか?」
「え、いや、別にいいけど……」
「これとか、作者別で分けた方が取り出しやすいですよ?」
(……あれ、俺の部屋が、嫁子に支配されていく)
けど不思議と、嫌じゃなかった。
本棚を一緒に並べ替えて、ホコリを払って、並びを調整して、順番に整えていく作業。
汗をかいて、ちょっと笑って、たまに指が触れて。
「……こうやって、ふたりで何かするの、いいですね」
「うん、オタク的共同作業って感じ」
(ああ、俺は今、“生活”してるんだな)
ただ“好き”なだけじゃなくて、日常を共有していく心地よさ。
それが、じわじわと俺の中にしみ込んでいった。
帰り際。
玄関で嫁子が少しだけ立ち止まった。
「……私、昔から“リアルの恋愛”って、無理だと思ってました」
「人と距離とるのが怖くて、誰かに好かれることも、信じられなかった」
「でも、あなたといると……少しだけ、怖くなくなるんです」
俺は言葉に詰まった。
なにをどう返せばいいのか、しばらく分からなかった。
だから、そっと手を取った。
初めて、ちゃんと手を繋いだ。
「……俺も、同じだよ」
嫁子は小さくうなずいて、それから――少しだけ、体を寄せた。
(それが、俺たちの“初めてのキス”だった)
吉田さんが、ニヤけながら祝福してきた
それからの毎日が、なんだか少しずつ変わっていった。
変化は静かだけど、確かに“何かが始まっている”気配だった。
職場でも、嫁子は以前より明るくなった。
といっても、誰とでも喋るようになったわけじゃない。
けれど――
「お疲れさまです」
「あ、はい、これ、回覧板です」
「ありがとうございます」
そんなふうに、きちんと目を見て、普通の会話ができるようになっていた。
それだけで、周囲の社員たちはちょっとザワついてた。
「あれ? 嫁子ちゃんって、こんなに話せたっけ?」
「急に成長した感あるな」
「いや、あの子、目が優しくなってね?」
(うん、まあ、俺もそう思う)
そしてある日、吉田さんに呼び止められた。
コピー機の前で、めっちゃニヤけた顔で。
「ちょっと、アンタ」
「……なんすか」
「付き合ってるでしょ」
「……は?」
「ごまかすな。あの子の変化、あんたのせいじゃなきゃ説明つかんのよ」
(さすが……鋭すぎる)
「まあ……その、そういう感じです」
「ははっ、やっぱり! おめでとう。いや~見抜いた私の人間観察力、やっぱ無敵」
「そんなに言わないでくださいって……」
「いいじゃん。幸せそうで」
吉田さんは、意外にも――というか、想像以上にあたたかく、そして静かに祝福してくれた。
「アンタみたいなオタクくんが、ちゃんと誰かと心つなげてるって、希望だよね」
「……俺、なんすか、それ」
「ほら、嫁子ちゃん、ずっと“透明人間”だったのに、今じゃちゃんと“生きてる人間”の顔してる。いい男、捕まえたってことよ」
(……不意に、泣きそうになった)
その夜。
嫁子とLINEをしていたとき、ふとその話をした。
《吉田さんに、バレました》
《……やっぱり!吉田さん、絶対気づいてると思ってました……》
《でも、「いい男捕まえたな」って言ってたよ》
《えっ……!? そんな……それ、私のこと、ちゃんと認めてくれてるってことですよね……?》
スタンプが5連投される。
よく見たら、全部泣き笑いのウサギだった。
《なんか、泣きそうです》
それを読んでるこっちまで、胸がいっぱいになった。
そして週末。
池袋のアニメイトで、またあの“書店員のお姉さん”に会った。
「いらっしゃいませ~。……あ、またおふたりですね?」
「……あ、覚えてます?」
「ええ。あのとき、彼女、めっちゃ焦った顔してたのに、今は……ね」
お姉さんは、にやっと笑った。
「いいですね。趣味が合うって、最強ですよ」
「……そうですね。ほんと、そう思います」
帰り道。
嫁子が、ふと呟いた。
「私、夢みたいです。まさか、自分が“誰かと幸せになれる”って思わなかったから」
「……俺もだよ。お互い、奇跡だな」
「これからも、ずっと、趣味の話しながら生きていきたいです」
「うん。好きな作品が終わっても、一緒に追いかけられる関係でいよう」
「じゃあ……その、もし“次のステージ”に進んでも……」
「“次のステージ”?」
「えっと……同棲とか、結婚とか、そういうの……」
(おいおい……急に、そんな話)
でも、俺は自然に、頷いていた。
「うん。俺も、そう思ってた」
(この人となら、“一緒の人生”って言える気がする)
オタクふたり、オタクのままで結婚した
それから――一年後。
「……そろそろ、ちゃんとケジメつけませんか?」
ある日の晩、いつものように嫁子と俺の部屋でアニメを観ていたとき、不意に彼女が言った。
「けじめ?」
「はい……同棲も始めて、荷物も一緒になって……でも、私、ちゃんと“あなたの隣にいる理由”を名乗りたいんです」
(……ああ、そうか。これは、“プロポーズ”されてるんだ)
指輪なんてないし、ロマンチックな演出もない。
だけど、これ以上に心に刺さる言葉があるだろうか。
「……じゃあ、俺からも言わせて」
俺は手を取って、深呼吸して、目を見て言った。
「結婚しよう。これからも、ずっとふたりで“推し事”して、“好き”を語り合って、生きていこう」
嫁子は、ゆっくりと頷いた。
何も言わず、涙だけがポロポロこぼれて、でもその顔は、間違いなく笑っていた。
式は挙げなかった。
家族にだけ報告して、小さな届けを区役所に出しただけ。
でもその帰り、ふたりで池袋に寄った。
例のアニメイトビル。思い出の場所。あの日のすれ違いから、すべてが始まった。
「……ここ、やっぱり聖地ですね」
「うん。俺たちの原点」
階段前で、ふたりで写真を撮った。
嫁子は、今ではマスクも外してる。笑顔もすっかり自然になった。
でも、推しへの熱意だけは、当時とまったく変わっていない。
新居の一角には、“ふたりのオタク部屋”がある。
本棚には、彼女のBL本も俺のラノベも、仲良く並んでる。
棚の上にはアクスタとぬいぐるみが共存し、壁にはポスターが共演してる。
ある日、遊びに来た吉田さんが言った。
「なんだこれ、すごい……戦場かと思ったら、愛の巣だったわ」
「褒めてます?」
「もちろん。最高じゃん、こんなに趣味全開の部屋、正々堂々と晒せる夫婦なんて」
夜。
ふたりでベッドに横になりながら、スマホの画面を一緒に覗く。
「……この新作、アニメ化するらしいです」
「マジ? じゃあ、原作読み直さないと」
「1巻からもう一度……うふふ、また語り合えますね」
(変わらないな、俺たち)
ただ、少し違うのは、“誰にも知られたくなかった趣味”が、今では“誰よりも分かち合いたい大切なもの”になったこと。
それを許してくれたのが、嫁子だった。
最後にひとつ、俺はどうしても言っておきたいことがある。
あの日――
池袋でBL本を抱えていたあの女の子が、今、俺の嫁です。
オタク同士、ありのままで出会って、ぶつかって、笑い合って、恋をして、結婚しました。
そしてたぶん、これからもずっと――
“地味なオタク夫婦”として、生きていきます。
一緒に泣いて、一緒に萌えて、老いていくまで。
ありがとう、嫁子。
あなたが“素顔”を見せてくれた、あの日から、俺の人生は変わったんだ。
──完──
