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はっくなび
「目立たない俺と、怖いあの人」
「俺」は、いわゆる“空気”だった。
毎日定時で仕事をこなす。上司に呼ばれればすぐ動くし、誰かのトラブルにもさっと対応する。でも、感謝されることはあまりない。俺が空気のように扱われてるのは、別に嫌じゃない。怒られないし、変に目立たない。そうやって平穏に働けるなら、それで十分だと思ってた。
ただ、そんな俺に、ほんの少しだけ懐いてくれる人がいた。
「おう、今日も残業か? 無理すんなよ」
設備管理の中井さんだ。年季の入った作業着に工具箱をぶら下げて、毎日構内を点検している。社員とはちょっと毛色が違うけど、何かと気さくに話しかけてくれる貴重な存在だった。
「はい、中井さんも気をつけて」
「ったく、若いのに真面目すぎるんだよお前は。…なあ、知ってるか?」
「え?」
「経営企画の彼女…あのキッツいやつ、最近よくお前のほう見てるぞ」
「……冗談やめてください」
「いやマジだって。俺の目に狂いはねぇ」
冗談だと思った。というか、冗談であってくれと願った。
——彼女、嫁子(仮)は、社内でも指折りの“恐れられキャラ”だった。
入社3年目にして、社長命令で新設された経営企画室のリーダーに抜擢された逸材。噂では、社長の直属指導をバッサリ切り返したとか。常に真っ直ぐな背筋、高身長、鋭い目つき。誰に対しても容赦のない物言い。何人も泣かせたという伝説すらある。
もちろん、俺とは住む世界が違うと思ってた。
その日、俺は残業をしていた。印刷トラブルの対応で時間を食い、気づけば22時を回っていた。
「はぁ……終わった……」
空調も落ち、事務所の明かりはまばら。静かなフロアを抜けて、帰り支度を整える。俺の一日は、これで終わるはずだった。
——エレベーターホールに向かう、まさにその時。
「チッ……まだいたのね」
冷たい声に、背筋が跳ねた。振り返ると、そこに嫁子がいた。スーツの上着を腕にかけ、鋭い目を俺に向けている。目が合った瞬間、何かを見透かされるようで心臓がズクンと鳴った。
「……あ、こんばんは」
精一杯の挨拶。それ以上、言葉が続かなかった。
「……乗るわよ」
「は、はい……」
俺は先に乗り、彼女が後からエレベーターに滑り込む。狭い箱の中に、俺と“社内で一番怖い女”がふたりきり。
「……」
「……」
何も話すことなんてない。沈黙が空気を支配する。
がくん。
エレベーターが、止まった。
「エレベーターが止まった。え?まさか…」
がくん。
エレベーターが、急に揺れて止まった。
「え?」
俺は一瞬、自分の足元がずれたような錯覚を覚えた。中吊り広告がわずかに揺れて、重い静寂の中で何かが変わったのを察した。
「……なに?」
嫁子の声も、少しだけ低くなった。彼女も何かを察していた。
「非常停止……ですかね」
俺はすぐに操作盤を見る。階数表示は“5”のまま、ピクリとも動かない。ドアの開閉ボタンを押しても反応はない。非常ボタンを押すと、数秒後、機械的なアナウンスが聞こえた。
「ただいま、点検中です。復旧まで、20分程度お待ちください」
——20分。
「……は?」
嫁子が眉をひそめた。
「冗談でしょ。今日の報告書、まだ終わってないのよ。20分も……」
「俺も……今日は早く帰るつもりだったんですけど」
少しだけ、冗談めかして言ってみた。が、彼女の目は氷のように冷たいままだ。
「……」
「……」
沈黙が、また訪れる。
俺の心臓はドクドクと早鐘を打っていた。閉じ込められたことよりも、目の前に嫁子がいるこの状況に、緊張して仕方なかった。
嫁子は壁に背を預け、腕を組んだ。脚を軽く組み替え、ふうとため息をつく。
「……あなた、名前なんだっけ?」
「え?」
「正確には、フルネームで。呼んだことなかったけど」
「……ええと……俺ですか?」
「ここに他に誰がいるの?」
鋭い目つきのまま、微かに口角が動いた。冗談めいたような、いや……ちょっとだけ“崩れた”表情。
「……あの、○○です」
「○○……ふーん。顔は覚えてたけど、名前、ようやく一致したわ」
「……ありがとうございます?」
なんとも返しづらい言葉だった。
でも、驚いた。あの嫁子が、俺の名前を覚えていたなんて。
—
「……あなた、ずっと静かよね」
ぽつり、と彼女が言った。何の前触れもなく、会話の切れ端を差し出すように。
「静か……ですか?」
「ええ。何年も見てるけど、誰かと騒いでるところ、見たことない。怒った顔も、笑った顔も」
「……」
「なのに、なぜか、気になるのよ」
俺は返す言葉を失った。
嫁子が……俺を「気になる」なんて。
「いつからかしらね……社内の誰よりも、あなたが何してるか、私、知ってるわよ」
「……どういう……」
「あなたのあの報告書、私が上に出す前に手直ししてるの、気づいてる?」
「……えっ」
「すごく丁寧で正確。でも、ちょっとだけ……言葉が足りない。だから、私はそれを整えてる。あなたの仕事が、上の目に止まるように」
「……」
言葉が出なかった。
「なのに、あなたは気づかないふりして、また同じように、丁寧に、黙って仕事してくる」
「……それは、俺……」
「私はね、黙って結果を出す人、好きよ」
「……」
彼女はうっすらと笑った。
非常灯の赤みがかった光が、彼女の顔を柔らかく照らしていた。いつもは鋭く見える目も、少しだけ丸くなって、睫毛の影が頬に落ちていた。
そのとき初めて、彼女が“人間”に見えた。
「……怖くないですか、俺」
「……逆でしょ。怖いのは私じゃない」
「いや、だって社内では……“社長より怖い”って……」
「その通りよ。でもね、私、昔から不器用なの」
彼女は壁にもたれたまま、少しだけ目を伏せた。
「本当は、もっと優しく、柔らかく人に接したい。でも、うまく言えないのよ。仕事だと割り切って、怖い顔すれば何とかなるから……そうやってたら、いつのまにか“怖い人”になってた」
「……」
「でもね。あなたと話すときだけは、少しだけ……自分に戻れる気がするの」
「……なんで、俺なんですか?」
「さあね。でも、あなたの“空気”みたいな存在感が、私には救いだったのかも」
—
がちゃん、と小さな音がして、エレベーターが再び動き出した。
「……あ」
「動いた」
階数表示が変わり、5→4→3とゆっくり降りていく。
「……短かったな」
「そうね。もっと話したかったけど」
—
1階に着いて、ドアが開く。
外の空気が、一気に押し寄せる。さっきまでの空間が幻だったように、嫁子はまた、いつもの“怖い彼女”の表情に戻っていた。
「……じゃあ」
「……はい」
何もなかったふうに、すれ違う。
けれどその瞬間——彼女は、小さく、微笑んだ。
「お疲れさま」
それが、俺の心に、刺さった。
「あの人からの、たった一行のメール」
翌朝。
いつものように朝7時過ぎに目を覚まし、携帯を手に取った。ニュースアプリの通知を流し見しながら、スワイプのついでにメールを確認する。何かのメルマガかと思った。けれど、そこにある送信者の名前を見た瞬間、指が止まった。
「……うそだろ」
経営企画室、嫁子。
それは、まぎれもなく、昨晩エレベーターで一緒に閉じ込められた“あの人”だった。
——件名:なし
——本文:「おはよう」
それだけ。たった一行。たった四文字。
だけど、その短さが、心臓に刺さった。
「……返信、どうする……?」
何を書けばいいのか分からなかった。「おはようございます」だけじゃ、味気ないか? でも変に長くしたら気持ち悪い? 悩みに悩んだ末、俺はシンプルに返した。
「おはようございます。昨日はありがとうございました」
送信。
すぐには返事が来なかった。けれど、なぜかそれで十分だった。俺の中に、昨晩の5分間がまだ熱を持って残っていた。
会社に着くと、総務前のロビーで佐々木さんに出くわした。
「○○さん、おはようございますー。昨日、閉じ込められたって本当ですか?」
「……ああ、うん。ちょっとだけね」
「えー、まさか嫁子さんと?」
「……うん、そう」
「うわぁ……濃い5分間だったでしょ」
ニヤニヤしている。やっぱり、情報通だった。誰にも言ってないのに、なぜかもう社内に知れ渡っている気配があった。
「なんで知ってるんですか……」
「いやー、だって中井さんが言ってたから。『○○と鬼神のツーショット、目撃された』って」
「……中井さん……」
「で、どうだったの? 嫁子さん、なんか言ってた?」
「いや……別に普通だったよ。いつも通り」
「ふーん……ま、でもね」
佐々木さんは、手元の書類を整理しながら、ふと真顔になった。
「嫁子さん、ほんとはすごく優しい人だよ」
「……え?」
「私、昔ちょっとだけ部署被ってたことあるの。でもね、ある時私がミスして落ち込んでたら……夜中、誰もいないときにそっと差し入れ置いてくれたの。何も言わずに。名前も書かずに」
「それ……嫁子さんが?」
「うん。で、次の日、普通に私を怒鳴ったの。いつも通りの顔で。でも分かった。ああ、この人、不器用なんだなって」
「……」
「○○さんも、あの人の“優しさ”に気づくタイプでしょ?」
「……どうだろうな」
言いながらも、心のどこかで納得している自分がいた。昨晩のあの目のやわらかさ、声のトーン、短く漏らした「私、不器用なの」——あれは、たしかに誰かに知ってほしかった“素顔”だった。
—
午前の仕事を淡々とこなす。だけど、どこか集中できない。
昼休み、社員食堂には行かずに、いつものように裏手のベンチに向かった。あそこは静かで、人も少なくて、俺の隠れ家みたいな場所だ。
いつものようにカップスープとおにぎりを広げたその時だった。
「……ここ、座ってもいい?」
驚いて顔を上げると、嫁子がいた。
「え……はい、もちろん」
スーツのジャケットを軽く脱ぎ、彼女は隣に腰を下ろした。周りに誰もいないのを確認してから、ふうっと小さく息を吐く。
「……あのね」
「はい」
「さっき、メール見た」
「え、ああ……」
「『ありがとうございました』って書いてたでしょ?」
「はい、えっと……変でした?」
「ううん。すごく……らしいな、って思った」
「……」
「あなたの言葉、いつも丁寧で、でもどこか遠慮がち。でも、そういうとこ、好きよ」
——“好きよ”。
また、その言葉だった。
「……なんか、今日の嫁子さん、やさしいですね」
「やめてよ。そういうの、照れる」
そう言って、彼女は少しだけ笑った。
—
しばらくの沈黙。鳥の鳴き声と、風の音だけが聞こえていた。
「ねえ」
「はい」
「私のこと、もう少し知ってみたい?」
俺は、少しだけ間を置いて、うなずいた。
「はい。知りたいです」
彼女は頷き、まっすぐな目で俺を見た。あの鋭かった目が、今はただ、真剣に“こちら”を見ている。
「……よかった」
—
その日の午後、社内のあちこちで噂が広まり始めていた。
「ねえ、経企の嫁子さんが……○○くんと昼休み一緒にいたんだけど」
「まさか、あの鬼と……?」
「しかもあのベンチ! あのベンチは……“静かに語らう場所”で有名じゃん!」
「うそでしょ、俺もう無理……世界が崩れる……」
—
でも、俺にはもうそんな噂はどうでもよかった。
5分間の“あの密室”が、確かに今の距離を作ってくれていると、わかっていたから。
昼休み、ふたりきりのベンチが続くようになった」
それからというもの、昼休みになると嫁子が“あのベンチ”にやってくるようになった。
最初は週に1回だった。けれど、次第にそれが週2になり、週3になり……気づけば、ほぼ毎日隣に座っている。
——社内の裏庭にある、小さな木陰のベンチ。
喧騒から離れて、誰にも気づかれないような場所。鳥の声と風の音だけが届くそこは、静かで、ゆっくり話すにはちょうどよかった。
「今日の社長、ウザかったわ……」
「また無茶な指示ですか?」
「“この数字で行けるよね?”って、こっちの分析無視して通してきたの。何が“行ける”よ……根拠ないくせに」
「……俺が裏資料作りましょうか」
「え?」
「数字の妥当性、もうちょっと裏で補強すれば、通りやすいと思います」
「……ほんと、あなたって……」
嫁子はカップスープのスプーンをくるくる回しながら、ふっと笑った。
「ほんと、助かる」
彼女の笑顔を、見慣れてきた。
以前は“鋭利な刃”みたいだったその目が、いまはよく笑うようになった。誰かの目があるときは、相変わらず鋭い顔だけど、この場所だけは違う。
—
「……なんで、ここに座ってくれるんですか?」
ふと、聞いてみた。
「え?」
「だって、嫁子さんみたいな人が、俺みたいな“空気”と一緒に昼食なんて……」
「“空気”って、またそれ言うの?」
「いや……だって、俺なんか特に特徴ないし」
「あるわよ」
彼女はスプーンを置いて、こちらに向き直る。
「あなたの目、ちゃんと相手を見てる。言葉にしないけど、行動で返してくれる。静かだけど、逃げない」
「……」
「あなたみたいな人、今の職場には少ないの」
その言葉が、じわりと胸に沁みた。
—
「……じゃあ、逆に聞いていいですか?」
「なに?」
「なんで、そんなに誰にでも厳しくしてるんですか?」
「それ……聞く?」
「気になってたんで」
彼女は、少し黙った。
視線をスープに落とし、カップの底を見つめるようにしてから、小さく言った。
「うち、兄がいたの」
「……え?」
「4歳上。ずっと一緒に育った。すごく優しくて、でも弱くて。私が怒られたら、兄が代わりに泣いてたくらい」
「……」
「でもね、兄が会社でいじめられて、精神病んで、退職して、家に引きこもって……ある日、居なくなった」
「……」
「見つかったのは、近くの川。すぐには信じられなかった。でも、遺書には“もっと強くなりたかった”って書いてあった」
風の音が止んだような気がした。
「だから、私は“強く”なった。誰にも負けないように、泣かないように、自分を守るために」
「……」
「でも本当は、守りたかったの。兄を。誰かを」
—
俺は、気づいたら彼女の手を取っていた。
「……ごめんなさい、なんか、変な話して」
「いえ……俺、聞けてよかったです」
彼女の手は細く、少しだけ冷たかった。
—
その日の午後、俺の机の端に、メモが一枚置かれていた。
《今度の休みに、どこか行かない?》
直筆。癖のあるきれいな字だった。
—
その夜。
設備管理の中井さんが、俺の机の脇でニヤリと笑っていた。
「おいおい、噂ほんとか? “鬼の嫁子”と○○が付き合ってるって?」
「……まだ、そういうんじゃないですけど」
「ふーん……でも、あの人があんな柔らかい顔してるの、初めて見たぞ」
「……え?」
「いつも鋼みたいにピシッとしてるのに、お前の隣にいるときだけ、ほんのり色がついてる」
「……」
「お前、いい空気持ってんな。そういうの、大事にしろよ」
—
「……はい」
俺は、静かに答えた。
「初めての休日デート、なんてことない1日が特別だった」
日曜日の朝。
俺は、いつもの時間より2時間も早く目が覚めてしまった。目覚ましよりも先に、胸の鼓動が鳴っていた。理由はひとつ。
今日は、嫁子と初めての休日デートだった。
—
待ち合わせは午前10時、駅前のカフェの前。
約束より10分早く着いてしまった俺は、スマホをいじるふりをしながら何度も周囲を見渡していた。
スーツではなく、私服の嫁子。
いったいどんな服装で来るんだろう。想像がつかなかった。普段は無機質な黒かネイビーのパンツスーツばかりで、そこに“柔らかさ”を感じることはなかった。でも、たった一通のメモから始まったこの日を、俺は心の奥でずっと楽しみにしていた。
—
そして——
「あ……」
歩道の向こうに、見慣れない姿が見えた。
白のロングカーディガン。淡いベージュのワンピース。髪はいつも後ろで束ねていたのに、今日はおろしていた。風にゆれる髪が、やけに柔らかく見えた。
「……お待たせ」
「……いえっ」
俺の声が、妙に裏返った。
「私服、似合ってますね」
「ありがとう。……そっちも、思ったより普通で安心した」
「え、どういう意味ですか」
「普段地味だから、すごい奇抜な趣味だったらどうしようかと」
「そんなに信用ないですか、俺……」
「ふふ、冗談」
嫁子が笑った。
ほんの少しだけ赤くなった頬が、普段の鋭い印象とはまるで違っていた。
—
まずは駅前の喫茶店で、軽くブランチ。
2人ともコーヒーが好きだと分かったのは、意外な共通点だった。
「ここ、学生の頃から来てるの。店主の親父さんがこだわりすごくて、豆の説明を10分くらいしてくるのが難点だけど……」
「……うん、確かに長かったですね」
「でも、美味しいでしょ?」
「はい。あの温度、完璧でした」
「あ、分かってくれた? ちょっと感動した」
—
そのあと、俺たちはショッピングモールを歩いた。
何か買うわけでもなく、服や雑貨を見て、ふざけて試着して、笑って。
「このメガネ、似合いすぎて犯罪じゃない?」
「失礼だな。嫁子さんの“マダム帽子”もすごかったですよ」
「やばい、あれで歩いてたら捕まるね」
何度も、笑い合った。
—
午後3時を回った頃。
ふたりでベンチに座って、アイスクリームを食べていた。
「……ほんとに、普通の一日ですね」
「うん。でも、なんか……特別な感じがする」
「俺もです」
嫁子が、少しだけ黙ったあと、小さくつぶやいた。
「こういうの……ひさしぶり」
「……?」
「誰かと、休日を一緒に過ごすの。仕事以外で、誰かと話すの」
—
彼女はカップの底を見ながら、ぽつりぽつりと話し始めた。
「昔、すごく仲の良かった友達がいたの。就職してからも連絡取り合ってたけど、私が経営企画に入って……忙しくなって……それっきり」
「……」
「みんな、“怖い女”には、近づかないようにするものよ。だから今日、こうして隣にいてくれるのが、ちょっと不思議」
「……不思議でも、俺はここにいますよ」
「……そっか」
—
夕暮れ時。
川沿いをゆっくり歩いていると、空が少しずつ赤く染まり始めていた。
「きれい」
「……はい」
風が吹くたびに、嫁子の髪がふわりと揺れて、そこに夕日が差し込んだ。
「……あのさ」
「はい」
「私と、ちゃんと……付き合ってみる?」
その言葉に、風が一瞬止まったように感じた。
「……はい」
即答だった。
「俺も、ずっとそう思ってました」
彼女は微笑んだ。きっと、これまで見た中でいちばんやわらかい笑顔だった。
—
帰り道、別れ際。
「じゃあ、また明日」
「……社内では今まで通りでいいの?」
「うん。それが一番自然。……でも」
「でも?」
「“また会おうね”って気持ちは、ちゃんと伝えてほしいな」
「……分かりました」
嫁子が、最後にそっと言った。
「じゃあ、またあのベンチで」
—
あの日の夕焼けは、今でも忘れられない。
それは、俺にとって初めての“ちゃんとした恋人の顔をした嫁子”だった。
「社内に広がる噂と、ふたりの決めた“線”」
月曜日の朝。
会社の空気は、どこかザワザワしていた。
机に向かうと、隣の席の総務・佐藤さんが、ひとことも話しかけてこないのに、何度も俺をチラ見している。向かいの若手社員が、パソコンの画面を見て笑いながら何かを囁き合っているのも気になった。
——ああ、これは完全にバレてる。
週末、嫁子とデートしていた姿を、誰かに見られていたのだ。
心当たりは多すぎた。カフェ、ショッピングモール、川沿いのベンチ。誰がいてもおかしくなかった。
——ただ、俺たちは別に“隠していた”わけじゃない。
でも、あの嫁子が“誰かと親しげに歩いていた”というだけで、社内は小さなパニックになる。
「おい、○○……マジなの?」
背後から小声で話しかけてきたのは、同期の営業・田所だった。
「なにが?」
「嫁子さんと……デートしてたって、聞いたぞ?」
「……たぶん、それは本当だよ」
「……マジで? え、え、ほんとに?」
「落ち着け」
「いや……すごくない? あの人、社内の誰にも興味なさそうだったのに……てか、社内の人間みんな“怖い”って思ってたのに……」
「……まあ、怖くはないよ。少なくとも、俺にとっては」
「……ヒュー! やべえ……○○が言うと、なんかかっこいいな……!」
—
午前10時。
会議室に呼ばれた資料提出のタイミングで、俺は嫁子と一瞬だけ目が合った。
でも、嫁子はいつもの“経企のエース”の顔をしていた。スーツ姿で無表情。背筋を真っ直ぐに伸ばし、資料を指先でピッと整えている。
「……では、数字の根拠について、補足します」
低く通る声。完璧なロジック。誰も反論できない、冷静な支配力。
でも俺は知っている。
この人が、昨日はアイスのカップを一緒にのぞき込んで「溶けすぎた」って笑っていたことを。
—
昼休み。
俺はまた“あのベンチ”に向かった。社内の目はどうあれ、そこが俺たちの“中間地点”だった。
すでに嫁子が座っていた。今日はスープではなく、コンビニのサンドイッチを片手に持っていた。
「……ごめん、やっぱり噂になってる」
「うん、聞いた。受付の佐々木さん経由で」
「なんであの人そんなに早いんですかね……」
「情報屋だから」
「マフィアみたいな言い方しないでください」
ふたりで笑いあう。その時間が、すごく大切に感じられた。
—
「ねえ」
「はい?」
「……もう、言っちゃう?」
「何を?」
「付き合ってるって」
俺は少しだけ黙った。
「……まだ早い気もしますけど、隠してるのも、もう限界ですね」
「でしょ? 私、もう疲れた。昨日、佐々木さんに“好きな人、できたんです”ってぽろっと言っちゃったし」
「え、それ……言ったんですか?」
「うん。そしたら“ですよね!”って叫ばれた。ビビった」
「バレバレだったんですね……」
—
俺たちは顔を見合わせて、もう一度笑った。
「でもね、社内の反応なんてどうでもいいの。問題は“私たちがどうあるか”だと思ってる」
「……そうですね」
「私は、自分を曲げないで生きてきた。怖いって言われてもいい。無愛想って思われてもいい。でも、あなたの前だけは、ちょっと柔らかくてもいいって思えた」
「……俺もです」
—
風が通り抜けて、桜の葉がちらちらと舞った。まだ春の手前の季節だった。
—
その週の金曜日。
社内掲示板の端に、1枚の手書きのメモが貼られた。
《ご報告:経営企画室および総務部より、お付き合いを始めました(私たち)
業務に支障はございませんので、今後ともよろしくお願いいたします。
質問等は受け付けません》
——署名はなかった。でも誰が書いたかは明白だった。
—
その日、総務フロアは静かな歓声と、震える笑いに包まれた。
「うそだろ……鬼の心に春が来た……」
「○○さん、あんたマジで人間じゃないって……」
「総務部長が拍手してたの見た? まじで……映画の世界……」
—
俺と嫁子は、いつも通り働いた。
でも、ふたりの間にある“透明な線”は、確かに無くなっていた。
「嫁子が、誰かに“甘える”ことを覚えた日」
あの日以来、嫁子は少しだけ変わった。
もともと、彼女は人に頼らない。弱音も吐かない。何かあっても、すべて自分で処理して、誰にも隙を見せずに完結させる。だからこそ“恐れられていた”のだと、今ならわかる。
でも、ある金曜の夜。残業が終わった俺がロッカーで着替えをしていると、スマホが震えた。
——件名:なし
——本文:「ちょっとだけ話せる? …今夜は、ちょっとしんどい」
その一文に、俺はすぐ返事を打った。
「います。裏の喫煙所で待ってます」
—
会社のビルの裏。照明の届かない、小さな喫煙所。
俺がいつものパイプ椅子に腰をかけて待っていると、ヒールの音が静かに近づいてきた。
「……来てくれて、ありがとう」
「こちらこそ、呼んでくれてありがとうございます」
嫁子は、ジャケットのボタンを外したまま、隣に腰を下ろした。珍しく、スーツの襟が少し乱れていた。
「……今日、社長に怒鳴られたの」
「え?」
「“こんな資料じゃ、企画を通せるわけがない”って、目の前で突き返された。部長もいたのに、私だけが責められた」
「……それは……」
「もちろん、内容の詰めが甘かったのは事実。でも、私の部下が初めて作った企画だったの。だから、あえてそのまま出したの。育てたくて」
「……」
「でも、そういう“思い”って、通じないのね。上にとっては、“誰が書いたか”じゃなくて、“誰が通すか”しか見てない」
—
嫁子は、煙草に手を伸ばした……が、迷った末に引っ込めた。
「……私さ」
「はい」
「なんで頑張ってるんだろう、って思ったの。なんのために、こんなに張り詰めて、怖がられて、孤立して……。でもね」
彼女は、俺の肩に、ぽつりと頭を預けた。
「今夜だけは、あなたに甘えてもいい?」
「もちろんです」
「……ありがとう」
それきり、しばらく無言だった。
俺の肩に嫁子の頭が乗ったまま、時計の秒針だけが進んでいく音が聞こえていた。
—
それからの嫁子は、少しずつ変化を見せた。
部下に対して、「ありがとう」と言うようになった。以前なら黙って赤ペンで修正していた資料に、付箋で「ここ、すごく良かった」とコメントを添えるようになった。
「……最近の嫁子さん、丸くなったね」
と社内で囁かれるようになった。けれど、彼女の仕事の質は、以前と変わらず完璧だった。いや、それ以上に“人が動きやすくなる空気”を作るようになっていた。
「○○が……そういうふうに私に接してくれたからよ」
ふたりきりのベンチで、彼女は照れくさそうにそう言った。
—
ある日、彼女は少しだけそわそわしながら俺にこう言った。
「……今夜、うち来ない?」
「え?」
「別に深い意味じゃない。ごはん、作ったから。一緒に食べたら、少しは元気になるかなって思って」
「それ、十分深い意味ありますよ」
「やっぱやめる」
「行きます行きます、今すぐ」
—
彼女の部屋は意外にもこぢんまりとして、整理された清潔な空間だった。
「そんな見ないで。大したもんじゃないから」
「いや、普通に……すごく“暮らしてる”って感じがして」
「は? どういうことそれ」
「なんか“ちゃんと自分で生活してる人の部屋”って感じです」
「……あ、それ、嬉しいかも」
嫁子がエプロン姿で台所に立ち、フライパンを振る姿は、会社で見る彼女とはまるで別人だった。
食卓には、唐揚げと春雨サラダ、味噌汁に、ほかほかの白いごはん。
「……うまい……」
「でしょう?」
「なんでこんなに完璧なんですか」
「完璧じゃないわよ。ただ、昔から“自分で自分を満たす”って習慣があるだけ」
「……でも今は」
「うん、“誰かと食べる”って、すごくいいね」
—
帰り際、玄関で靴を履こうとしたとき、彼女がぽつりと言った。
「……あなたがいてくれて、よかった」
「こちらこそ」
「……私、仕事は得意だけど、人間関係はほんと苦手だった。でも、○○にだけは……“弱くて、面倒な自分”を見せてもいいって思える」
「それが、嬉しいです」
「……これからも、そうしていい?」
「ずっと、そうしてください」
—
ドアの向こう、夜の風が吹いていた。
嫁子の微笑みは、どこか安心しきった子どものようで、それがとても愛しかった。
「式は挙げずに、社内で報告だけした日」
——それは、突然だった。
「ねえ」
昼休みのベンチ、いつもの場所で。
嫁子が、紙パックの紅茶を飲みながら、ふいに切り出した。
「私たち、もうそろそろ結婚してもいいんじゃない?」
「……え?」
「なんか……あんまり区切りつけないまま、ずっと続いてるでしょ? 私たち」
「うん、まぁ……そうですね」
「籍だけ入れよっか。式もドレスもなし。誰も呼ばなくていい。だけど、ちゃんと“お互いの人”になりたい」
彼女の言葉は、いつも通りストレートだった。照れも曖昧さもない。でも、ちゃんとあたたかくて、嘘がない。
「……俺も、そう思ってました」
「ほんと?」
「ほんとです。俺も……そろそろ、“ちゃんと守れる人”になりたいと思ってた」
彼女は、うっすらと目を細めて言った。
「じゃあ、決まりね」
—
その週の金曜日。市役所にふたりで行った。
必要書類は全部、嫁子が事前に揃えてくれていた。記入漏れも一切なく、提出はものの10分で済んだ。
「……あっけないな」
「うん。でも、私、こういう簡潔なの好き」
「ドレスとか、ほんとにいいんですか?」
「だって、似合わないでしょ。私がフリフリとか」
「……いや、たぶん……めちゃくちゃ似合うと思います」
「……バカ」
でもその“バカ”には、照れ笑いがついていた。
—
問題は、社内報告だった。
ふたりとも会社員。同じ会社。しかも、経営企画室のエースと、目立たない“空気社員”。
普通なら部署を移すとか、異動を申請するとか、結婚報告には段取りがあるはずだった。
けれど嫁子は、その日も淡々としていた。
—
週明けの朝。俺たちは部長にだけ、先に報告した。
「は?」
部長は3回瞬きをして、次に言った。
「まさか……ほんとに? いや……ほんとに?」
「はい。ご迷惑おかけすることはないようにします」
「いやいや、迷惑とかじゃなくて……いや、うん……おめでとうございます、ほんとに。ちょっと、飲み込めてないけど……」
—
そしてその日の午後、俺たちは社内掲示板に、再び1枚の紙を貼った。
《ご報告》
このたび、私たちふたりは入籍いたしました。
式などは予定しておりませんが、今後とも変わらず業務に励んでまいります。
引き続き、ご指導・ご支援のほど、よろしくお願い申し上げます。
※質問は受け付けません。
(ふたりのサインなし)
——社内、騒然。
—
「うそだろ!?」
「“付き合ってる”はギリ理解できたけど、“結婚”は……まじかよ……」
「……てか、鬼と空気が夫婦になったら……最強じゃね?」
「この社内の人間関係図、破壊された……」
—
受付の佐々木さんは、手で口を押さえながら呟いた。
「でも、なんか……すごく“しっくり”来るのよね……怖いくらい」
—
総務の佐藤さんは、給湯室で紅茶を入れながらぽつりと言った。
「……嫁子さん、最近ほんと表情やわらかくなったもん。○○くんと話してるとき、すごく“普通の女の子”って感じだったし」
—
仕事帰り。
中井さんが構内点検から戻る途中、俺に声をかけてきた。
「おう、新婚くん」
「……はい」
「なあ、あの人、見違えたぞ。“鋼”が“春”になったって感じだ」
「うまいこと言いますね」
「でもな、ひとつ言わせてもらう」
「……なんですか」
「お前さんのそういう“空気っぷり”、そのまま続けろ。誰かのそばにいるってのは、目立つことじゃねえ。寄り添って、同じ空気になることだ」
「……はい」
—
夜。
嫁子が俺の部屋に来て、床に座ってストレッチしながらテレビを観ていた。
会社の顔でもなく、経営企画のエースでもない、ただの「嫁子」として。
「俺さ」
「ん?」
「気づいたら、一番怖い女に、一番甘えられてる」
「ふふ、気づくの遅いわよ」
—
その夜、嫁子が俺の肩に頭を乗せながら、こう言った。
「……私、ちゃんと“誰かと生きてる”って初めて思えてる」
「……俺も、初めてです」
「あなたでよかった。ほんとに」
—
部屋の灯りは消えていたけれど、心の中は、ちゃんとあたたかかった。
誰にも見えない場所で、誰かを信じて寄り添う——
それだけで、人は変われるんだと思った。
「エレベーターの5分間が、全部を変えた」
ある朝、出社してエレベーターホールに立った時、俺はふと足を止めた。
——あの日、ここで、嫁子とふたりきりになった。
静まり返った箱の中、非常灯だけが灯る空間。
ただの密室だったその場所が、今では自分の人生を変えた「始まりの場所」に見えていた。
エレベーターが開く。
中は、誰もいなかった。
乗り込んで「閉」ボタンを押す。何階に行くわけでもなく、ただ少しだけ、あのときの空気を思い出してみたかった。
ふわりと動き出した瞬間——
「おはよう」
すっと誰かが滑り込んできた。
——嫁子だった。
「……おはようございます」
「今朝、静かね」
「はい。たまには、こういうのもいいですね」
彼女は、俺の横に立って、鏡越しにこちらを見た。
「覚えてる?」
「え?」
「このエレベーター。止まったときのこと」
「……忘れるわけないですよ」
「私ね、あのときほんとは……“怖かった”の。機械が止まったからじゃない。あなたとふたりきりになるのが」
「え……?」
「だって、気づいてたの。あなたのこと、前から見てた自分に」
「……」
「でも、あなたが私を見てくれるなんて思ってなかった。“結果を出すだけの女”を、誰も好いてなんかくれないって、思ってたのよ」
「俺は、最初から……」
「うん、知ってる」
彼女は、少しだけ俺に寄り添った。
「その“静けさ”に救われたの。誰かを睨みつける必要もなく、勝ち負けもなく、ただ、呼吸を合わせてくれる存在。それがあなたで……だから私は、今ここにいられる」
エレベーターが止まる。1階。
ドアが開いても、俺たちは動かなかった。
「……ねえ」
「はい」
「この箱の中で、もう一度言わせて。ちゃんと」
「……なんでしょう」
嫁子が、まっすぐ俺を見て、言った。
「ありがとう。あなたが、いてくれてよかった」
—
そして俺も、答えた。
「……こちらこそ。あなたが、俺を見つけてくれて、ありがとう」
—
それからの日々は、決して派手じゃない。
朝、同じ空気を吸って、仕事に向かい、帰ってきて、ただ隣にいる。それだけ。
でもその“当たり前”の連続が、どれほど特別かを、俺たちは知っている。
—
受付の佐々木さんが、ふと俺にこう言った。
「ねえ、なんか最近……嫁子さん、楽しそうだね」
「……そう見えますか?」
「うん。なんかこう……鋭いのはそのままなんだけど、奥の方に“やさしさ”が透けてるっていうか」
「……それ、言ったら怒られますよ」
「いいじゃん、怒られても。そのぶん、甘えてくれるでしょ?」
「……はい。俺、いま一番、甘えられてます」
—
総務フロアでは今も、“エレベーター伝説”が語り継がれているらしい。
「空気社員と鬼の女王が、5分間閉じ込められて、結婚までしたんだってさ」
「社内ミステリーの金字塔だよね」
「でも、羨ましいかも。逃げられない空間で、本音が出て……気持ちが通じるって、なんか、ロマンあるよなあ」
—
そしていま、俺は言える。
あの日、逃げ場のない空間で、俺たちはやっと“誰かと向き合う”ということを知った。
嫁子は、“強さ”の裏側に“寂しさ”を隠していた。
俺は、“空気”のように誰にも期待されないことを、安定だと誤解していた。
——でも、心を解いたのは、たった5分間の“沈黙”だった。
言葉じゃなく、目線でもなく。
ただ“逃げないこと”が、ふたりの距離を変えた。
—
いま、あのとき止まったエレベーターが、俺たちにとって何だったのか——答えは、はっきりしている。
あれは、始まりだった。
この先、何があっても、きっと思い出すだろう。
ふたりで閉じ込められた、あの狭い空間で
嫁子が小さく言った、あの言葉。
「あなた、影が薄いのに……気になるのよ」
それが、すべての始まりだった。