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はっくなび
なんか変なのが来た
こんな女、初めて見た
その朝、俺はコーヒーの缶を片手に、いつもの通り出社した。35歳、係長。事務職歴12年、目立たず怒られず、ただ流されるように働いてきた俺にとって、会社は“空気になる場所”だった。
「おはようございます」
通りすがりに聞こえる挨拶に、軽く頭を下げる。顔も名前も知らない若手社員の声だった。俺は自分が「存在感の薄い係長」だと自覚してる。飲み会ではいつも会計係、上司には雑に扱われ、後輩からも特に慕われない。強く主張したり、怒鳴ったりするのが苦手なんだ。俺にとって平穏はすべてだった。
でも、その平穏は壊れた。
「……っす。今日から、よろしくっす!」
社内の空気が止まったような気がした。新入社員の紹介。隣の席に座ったその女は、名札を逆につけていた。金髪のプリン頭に、すっぴんで赤らんだ顔。上下はスウェットっぽい服装で、まるで夜中のコンビニにいる女のようだった。
「服、アレで来たの?」「あれ、本当に新入社員?」「子持ちらしいよ、シングル」
小声の囁きが社内を飛び交う。隣の村田さんが、明らかに口角を引きつらせてる。
「○○さん。あの子……見た?」
「……ああ」
俺は見たくなくても、目の前の席だった。見た目だけじゃない。挨拶の仕方、名札、資料を逆に綴じて提出するミス。しかもコピー機の前で紙詰まりを起こして慌ててるのを見たとき、俺は思った。
(こりゃ、早々に辞めるな)
そう思ったのに──。
上司の無茶ぶり
「おい、○○。あの新入り、面倒見とけ」
部長が唐突に俺の方を向いた。コーヒーを飲みかけていた口が止まる。
「は、俺っすか?」
「誰がいい?村田か?」
「……いえ。分かりました」
(お前の方がマシだと思われてるってことだろ)
村田さんが冷たい目でこっちを見ていた。たぶん、あの子を“雑に扱っていい相手”だと思ってる。俺も……正直、最初はそうだった。
だって、昼休みに弁当を開いたあの子、食べる前に手を合わせながら言ったんだ。
「いただきまーす、の前に、うちの子も食べてるかな〜とか思っちゃうっす」
「……は?」
「保育園っす。今、カレーの時間っす。あそこ、たまに人参デカくて……」
何の話をしてるんだよ。ていうか、普通そんなこと、初日で言う?
俺は苦笑するしかなかった。
ミスの山と、そのときの顔
午後、彼女は経費の申請フォーマットを間違えて提出した。しかも、金額の単位が“万円”じゃなく“円”で入っていたから、部長に思いきり怒鳴られた。
「こんな書類、社会人以前に人としておかしいだろ!」
「……す、すみませんっす……」
彼女は顔を真っ赤にして、頭を下げたまま動けなかった。その肩が、少し震えていたのを俺は見てしまった。
(泣く寸前だな)
別に同情したわけじゃない。でも、たぶん、ああいうのを「人の弱いところ」って言うんだろう。俺も昔、初めて上司に怒られた日、トイレの個室で鼻をすすった。似た匂いがしたんだ。
「……ちょっと深呼吸してから、出直せばいいよ。俺、後でフォロー入れとくから」
「……っす。ありが……っす」
その日、彼女は誰とも目を合わせずに帰っていった。だけどその夜、俺のスマホにLINEが届いた。
「すみません。がんばりたいです」
メッセージには、こんな言葉があった。
「○○さん、今日はすみませんでした。たくさんミスして、自分でも嫌になりました。でも……がんばりたいです。よろしくお願いしますっす」
LINEの文面は不器用で、句読点も変だったけど、気持ちだけは真っ直ぐだった。
(ああ、辞める気はないんだ)
それだけで、少し安心した。理由は分からないけど、心が静かに動いた気がした。
(……俺も、昔はそう思ってたっけな)
そして次の日から、ほんの少しだけ彼女の表情に変化が出てきた。きっちり髪を結ぶようになって、服装もカジュアルスーツっぽいものに変わっていた。言葉遣いも丁寧になり始めた。
俺がそれを意識して見ていたことに、気づいたのはもう少し後の話だ。
変わろうとする人を、見たことあるか
少しずつ、変わり始めた
その日から、彼女は目に見えて変わっていった。
朝、出社した時の第一声が違った。前は「おはようっす」だったのが、今は小さな声で、
「おはようございます……」
と、しっかり敬語になっていた。もちろん、語尾はまだ不安定だったけど、それでも俺にはそれが努力に見えた。
そして、名札はもう裏返っていなかった。
「お、今日は間違ってないな」
「……はい。昨日、帰るとき確認して、朝もう一回確認して……」
そう言って、少しだけ笑った。正直、あの顔は意外だった。前はずっと無表情で、少しでも注意されると眉を寄せてたのに、今はちょっと柔らかくなってた。
「あの……迷惑、ですよね」
「何が?」
「私……なんか、全部ダメっすから。見てて、疲れるでしょ」
その言葉に、俺はちょっと黙った。でも、答えないといけないと思った。
「まあ……確かに、疲れるときはある。でも、それって“頑張ってる人”見てるときに起きる疲れだから、嫌な意味じゃない」
「……そういうの、言ってくれる人いなかったっす」
その一言に、俺は少し胸が詰まった。
村田さんの視線
ただ、周囲の目は冷たかった。特に村田さん。
「○○さん、最近あの子に甘くないですか?」
「別に、甘くしてるつもりはないけど……」
「私、最初に言いましたよね?あの子、問題ありますよ」
「……そうかもしれないけど、見てて変わってる部分もあるんだよ」
「ふうん……」
村田さんは鼻で笑って、それきり話さなくなった。たぶん、俺が“身内びいき”してるように見えたんだろう。
でも、俺には分かってた。変わろうとしてる人間は、時間がかかるけど、絶対に違う何かを見せてくれるってこと。
遅刻の朝
事件が起きたのは、金曜日の朝だった。
始業時間の5分前、嫁子の姿がなかった。俺は「まあ、また電車の遅延か何かだろう」と思っていた。でも──始業10分後、スマホに通知が来た。
「すみません、娘が熱出しました。今、病院行ってます。あとで出社したいです。すみません、ほんとにすみません。」
その文面は、明らかに動揺していた。
(子ども、か……)
俺には子どもはいないし、結婚もしてない。だけど、なんとなく、彼女が今どんな顔でスマホを握ってるのかが想像できた。
「来れるときに来ればいいから。気をつけて」
そう返信すると、すぐに「ありがとうございますっす」とだけ返ってきた。
午後2時頃、彼女は息を切らせて出社した。
「すみません!ご迷惑を……」
「落ち着けって。大丈夫だから」
「娘、熱下がったんす。でも、ギャン泣きして……『ママ、行かないで』って……」
そう言って、彼女は口を噛んだ。泣きそうな顔。でも泣かない。その姿を見て、俺は少し心を打たれた。
「……頑張ってるんだな、お前」
「……はい。娘のためにも、ちゃんとした人になりたいっす」
その言葉が、俺の胸に残った。
ひとりじゃないって思わせたくて
それから、俺は彼女と昼食を取るようになった。最初は偶然を装って、同じタイミングで休憩室に行っていたけど、やがて自然に隣に座るようになった。
「今日のお弁当、冷食ばっかですけど、よかったら」
「……いただく。俺、味見担当だから」
「それ、地味にうれしいっす」
笑ったその顔が、日に日に柔らかくなっていった。
そして、ある日。
「いつか……娘に、ちゃんとしたお母さんだったって、言えるようになりたいっす」
その呟きに、俺は返せる言葉がなかった。
でも、心の中で「そのままでいいんじゃないか」と、少しだけ思った。
子どもがいるって、なんだろう
ある昼休みの会話
「○○さん、子どもって、好きっすか?」
昼休み、いつものようにコンビニ弁当を並べていると、嫁子が急にそんなことを聞いてきた。弁当のフタを外しかけていた手が止まる。
「……どうだろうな。嫌いじゃないけど、縁がなかったからな」
「そっか。私、正直、子ども苦手だったんすよ」
「え? それなのに?」
「うちの娘が生まれるまでは、“絶対向いてない”って思ってたっす。でも、今は……」
彼女の目が、ふっと遠くを見るように細められる。ちょうど窓から光が差し込んでいて、あの無防備な表情がまぶしく見えた。
「今は、この子のためなら何でもできるって思う。情けないけど、それくらいしか……自分の価値がないって思っちゃうんす」
「そんなことないよ。……お前、努力してんじゃん。ちゃんと」
「努力で帳消しにならないこと、いっぱいあるっすよ。あの子、たまに“パパは?”って聞いてくるんす。あたし……答えられないっす」
そこから、会話は止まった。
俺はただ黙って、弁当のから揚げを口に運んだ。味はしなかった。
娘との出会い
そんなある日、会社帰りにスマホを見ていたら、嫁子からLINEが来た。
「保育園のお迎え、早くなったんで、一緒に行きませんか?」
一瞬、意味が分からなかった。
「え、一緒に?」
「はいっす。いつも“娘に会ってみたい”って顔してるから」
そんな顔してたか?と思いながらも、断る理由もなく、俺は「いいよ」とだけ返した。
保育園の前。まだ日が落ちきっていない夕方。門の前に立つと、子どもたちの声が聞こえてきた。高くて、無邪気で、少しだけ騒がしくて、懐かしい音だった。
「ママー!!」
一人の小さな女の子が、駆けてきた。金色がかってふわふわした髪。小さなリュックを背負って、膝にすり寄るように嫁子の足に抱きついた。
「娘っす。3歳っす。名前、聞かないでくださいね、ちょっとキラキラネームなんで……」
娘は俺を見上げると、ちょっとだけ首を傾げた。
「ママ、このひと、だれ?」
「会社のひとだよー。やさしいひとだよ」
「やさしい……?」
「うん。ママが泣きそうなときに、お水くれるひと」
俺は思わず笑ってしまった。
「それは評価基準として、だいぶ低いな」
娘はふくれっ面になりながらも、なぜか俺の手を握ってきた。
「ママ、ね。笑ってるとき、かわいいよね」
その言葉が、まっすぐ胸に刺さった。
言葉の重さと、あどけなさと。小さな手のぬくもりと。
俺は何も言えなかった。
保育園の先生との出会い
その帰り道。保育園の門のところで、先生らしき女性が声をかけてきた。
「あの……もしかして、パパさんですか?」
「いえ、違います。ただの同僚で……」
「あっ、すみません。でも娘さん、嬉しそうでしたよ。“ママが笑ってた”って、いつもそう言ってくれるんです」
「そう……ですか」
その先生の名札には「園田」と書かれていた。年齢は俺と同じくらいか少し上か。清潔感のあるベージュのエプロンと、優しい目元が印象的だった。
「○○ちゃん、ママがちょっと不器用なところもあるけど、本当に大好きなんですよ。私、それ見てて、ちょっと泣きそうになるときあります」
「……そうですか。ありがとうございます」
俺は頭を下げた。
子どもって、すごいな。何も知らないようで、全部見てる。
そして、俺よりずっとちゃんと人の顔を見てる。
その帰り道に思ったこと
その日の帰り道、駅まで歩きながら、俺は嫁子に聞いた。
「……子ども、育てるのって、大変だろ?」
「……うん。寝れないし、泣かれるし、怒りすぎて自己嫌悪もするし。でも……」
「でも?」
「たまに、報われるっす。あの子が笑ったときだけ、“ママやっててよかったな”って思えるっす」
その言葉に、俺は何も返せなかった。
ただ、心の中で、何かが音を立てて崩れていくのを感じていた。
それはきっと、「俺の人生はこんなもんだ」というあきらめだった。
あの子は、俺の前でだけ笑う
週明けの出社
週明けの月曜日。オフィスの空気はどこか重かった。みんなが休みボケのまま、PCの電源を入れる音だけが響く。
そんな中、俺はあることに気づいた。
「……おはようございます」
嫁子の声が、はっきりしていた。前は“つぶやき”だった挨拶が、ちゃんと耳に届くようになっていた。服装も落ち着いたブラウスとパンツ。金髪プリンも、だいぶ暗い色に染め直されていた。
「髪、染めた?」
「はいっす。……子どもに“ママ、バナナみたい”って言われて」
思わず吹き出した。
「そりゃ……たしかに、黄色かったな」
「今は、ナス色っす」
「いや、そこまで紫じゃないけどな」
そんなやり取りが、周囲の空気を少しだけ緩めた気がした。村田さんも、何か言いたそうにこちらを見ていたけど、黙って仕事に戻った。
不思議だったのは、嫁子が職場ではまだ“おっかなびっくり”な態度なのに、俺と話すときだけは、やたらとくだけた口調になることだった。
俺の前でだけ、素に戻る。
それが、なんとなく……嬉しかった。
小さなLINEのやり取り
その日の夜、帰宅後にスマホを見ると、嫁子からまたLINEが届いていた。
「○○さん、今日、ありがとうございました。やっぱり“素のままでいい人”って、会社には少ないっすね」
返信を打ちながら、俺はふと考えた。
(俺って、素でいい相手なのか?)
けど、それ以上深く考えたら、自分が怖くなりそうだったので、とりあえず「おつかれ。俺も話しやすいよ」とだけ返した。
すると、すぐに既読がついて、5分後にもう一通。
「会社の中で、あたしだけじゃなく、○○さんも浮いてますよね。でも、浮いてる人同士って、なんか……沈まなくて済む気がするっす」
変な言葉だけど、なぜか刺さった。
“沈まなくて済む”──
俺が今までに感じたことのない、あたたかさだった。
ふたりで食べた、ただのパン
ある日、仕事が長引いて、帰りが遅くなった。
嫁子も残業していた。娘は園田先生が一時預かりをしてくれているらしく、彼女も少しだけ余裕がある顔をしていた。
「今日、晩ごはん、パンだけっす」
「それ、飯か?」
「高級なやつっすよ、セブンのフランスパン」
俺は笑って、「俺も買うわ」と言って、一緒にコンビニへ行った。
会社の近くの公園のベンチに座って、フランスパンをかじる。お互い、背広のまま、紙袋を広げて、黙ってパンを噛んだ。
「なんか……いいっすね、これ」
「何が?」
「こんなふうに、だれかと普通のことするの。何年ぶりかなって思って」
「……そんなに、普通が遠かったのか」
「はいっす。毎日、“ちゃんとしなきゃ”って思って、でも全然ちゃんとできなくて。保育園の先生にも、会社にも、申し訳ないことばっかで……」
「俺も似たようなもんだ。ちゃんとしようとすると、逆にうまくいかなくなる。だから、どっちでもいいって思ってた」
「……それ、めっちゃ分かるっす」
嫁子が、パンの端を口に入れて、もぐもぐと笑った。
その笑い方は、どこにも媚びてなくて、泣きそうにも見えて、でも強がってるわけでもなかった。
俺は、思った。
(この笑い方を知ってるの、今のところ俺だけじゃないか)
それが、なんか誇らしかった。
「ママの笑い方、知ってる?」
後日、保育園の帰り際、娘が俺に向かって言った。
「おじちゃん、ママが笑ってるとき、知ってる?」
「……うん。知ってるかも」
「わたしも、ママの笑い、好き。笑ってるときだけ、おうち、明るいよ」
たった3歳の言葉。けど、俺には十分すぎるほど、深かった。
家って、明るさって、そういうことで出来てるんだなって思った。
笑ってるときだけ、家族が家族になる。
俺はその光景に、少しだけ自分もいたくなった。
あの子の願い、俺より大人だった
忙しい日の昼下がり
金曜日。締め作業とトラブル対応で、事務所は朝から殺気立っていた。
コピー機は紙詰まり、経費処理は突き返され、電話は鳴りっぱなし。普段物静かな俺も、正直ちょっとイライラしていた。そんな中で──
「○○さんっ、これの合計、3,000円オーバーしてたっす……すみません、またやらかしました……」
「……確認した?」
「したつもり、だったんす。でも、前の分の伝票……」
「もういい。後で俺が直すから、戻って」
少しきつい口調になった。嫁子は、ビクッと肩を震わせて、それでも「すみません」とだけ言って席に戻った。
周りは気づかないフリをしてるけど、俺は見ていた。彼女がモニターの向こうで、唇をぎゅっと噛んで、震える手でマウスを握り直しているのを。
(……俺、何やってんだ)
イライラをぶつける相手、間違えてるじゃないか。
昼休み、弁当を持って屋上に出た。少し遅れて、嫁子もやってきた。いつもなら「食べますか?」とおかずを差し出してくる彼女が、今日は無言だった。
風が少し強くて、紙ナプキンが飛びそうになった。
「……ごめん。さっき、言い方キツかった」
「……あたしこそ、すみませんっす。怒られるの、慣れてるつもりだったけど、○○さんに言われると、ちょっと、きついっすね」
「それ、ありがたいな。……信頼されてるって思っていいか?」
「……はい。思ってほしいっす」
そう言って、ようやく彼女の目が、まっすぐ俺を見た。
いつか、子どもに言いたい
そのあと、しばらく沈黙が続いた。俺が弁当の焼きそばをすすっていると、ぽつりと嫁子がつぶやいた。
「いつか……娘に、ちゃんと話せる日が来たらいいなって思うっす」
「何を?」
「“ママ、がんばってたよ”って言える人がいたってこと。……ちゃんと見ててくれて、応援してくれて、一緒にしんどいときも乗り越えてくれたって」
俺は箸を止めた。
「俺のこと……?」
「はいっす。まだ、勝手に思ってるだけだけど。でも、○○さんがいたから、辞めずにいられてるっす。……あたし、ひとりだったら、たぶんとっくに折れてた」
その言葉は、あまりにも真っ直ぐで、俺の胸を刺した。
言葉が出なかった。だから、黙ってお茶を渡した。
彼女はそれを受け取り、手のひらで缶を包みながら、うっすらと笑った。
「……いつか、娘にも“こんな人と出会った”って、胸張って言えるように、なりたいっす」
俺はそのとき、ふとした疑問が浮かんだ。
(俺は、誰に胸を張れる人生を生きてきただろうか?)
……答えは、なかった。
村田さんの違和感
その日の夕方、部署内での会話のなかで、村田さんがぽろっと言った。
「○○さんって、最近あの子と仲良すぎない?」
「……別に、普通のフォローしてるだけだよ」
「ふーん。でも、“お似合い”とか、みんな言ってるよ?」
「……言ってないだろ」
「言ってるの。“係長が、あのシンママに引っかかった”って」
その言葉に、思わず眉が動いた。怒りというより、胸の奥に氷のかけらを入れられたような感覚だった。
(世間って、そう見んのか)
……だけど、じゃあそれがどうした。
俺は、俺にしか見えないものを見てる。
夜のメッセージ
その夜、帰宅してから嫁子にLINEを送った。
「いつか、娘さんに言えるような人間になれるよう、俺も頑張るよ」
数分後、返ってきた短い返信。
「……もう、なってるっす。ちゃんと」
その文字を見て、スマホを置いた俺は、天井を見上げた。
……泣きそうだった。
あの子の笑顔に、名前をつけたくなった
休日の誘い
土曜日の朝。スマホの通知が鳴った。
「○○さん、今日、お暇っすか?」
嫁子からだった。珍しく敬語じゃなく、軽いノリ。
「娘と公園に行く予定なんすけど、よかったら一緒にどうっすか?ベンチで見てるだけでも」
……断る理由は、なかった。
少し迷ってから、「いいよ」とだけ返すと、すぐにスタンプが返ってきた。ぴょんぴょん跳ねてるウサギのキャラ。こんなの送ってくるやつだったっけ、と少し笑った。
待ち合わせは、区立の大きな公園。午後1時。
着いてすぐ、俺は遠くから手を振る小さな影を見つけた。
「おじちゃーん!!」
娘だった。ピンクの帽子を深くかぶって、両手にシャボン玉の道具を持っていた。
嫁子が、ゆっくりと歩いて近づいてきた。今日はスウェットじゃない。白いTシャツに、薄いピンクのカーディガン。髪もきちんとまとめていた。
「……えらい変身だな」
「休日仕様っす。娘のために」
「俺のためじゃないのか?」
「……ちょっとだけは、あるっす」
顔を赤らめながら、娘に背中を押されるように、ベンチへ案内された。
「ママ、座ってていいよ。わたし、シャボン玉やる!」
「じゃあ、○○さんと見てるね」
「ふたりで? じゃあ、手、つないでて」
娘が無邪気に笑う。
思わず、俺と嫁子は顔を見合わせて、笑ってしまった。
「無茶ぶりっすね……」
「そういう年頃だな」
でも、あの一言が妙に効いた。
“ふたりで手をつないでて”──
どこか、俺の中の何かを、遠慮なくくすぐってきた。
ふたりきりのベンチ
シャボン玉が風に乗って、空に舞っていく。小さな歓声。小さな手の拍手。
「……こんなの、夢みたいっすね」
「何が?」
「こうして、ふたりで娘を見てる感じ。家族っぽいっていうか」
「……いいと思うよ、そういうの」
「……いいっすか?」
「うん。俺は、好きだな。こういう時間」
しばらく沈黙が続いた。
そのあと、嫁子がポツリとこぼした。
「娘、昨日言ってたっす。“おじちゃんと遊んだら、ママの声、優しくなる”って」
「……へえ」
「わたし、そんな変わってたのかな……自分じゃ分かんなくて。でも、○○さんといると、変な力が抜けるんす」
「そうかもな。俺も、素で話せるの、お前くらいだ」
「……うれしいっす」
その言葉に、ふたりとも自然に笑った。
俺は、その横顔を見ながら、こんなことを思った。
(家族って、作るもんなんだな。選ぶもんなんだな)
血のつながりより、気持ちのつながりの方が、ずっとリアルだった。
娘がこぼした一言
遊び疲れた娘が、ベンチでウトウトしていた。嫁子の膝枕の上、手は俺の指を握っていた。
「ママ、今日、いっぱい笑ってた」
「そうだね」
「ママ、○○さんがいると、かわいくなるね」
その一言に、嫁子の肩がぴくっと動いた。
「……ほら、寝なさい」
「うん……。○○さん、ママのこと、好き?」
「……」
不意打ちだった。
嫁子も目を見開いたまま、こっちを向いた。俺は、一瞬返事に迷ったが──
「……好きだよ。大事だと思ってる」
「やったー……」
そう言って、娘は目を閉じた。
まるで確認作業のようだった。
嫁子は、俺の顔をまっすぐ見て、少しだけ、震えた声で言った。
「……今の、ほんとっすか」
「……ほんとだよ」
すると彼女は、娘の髪を撫でながら、小さく微笑んでこう言った。
「……あたしの人生、ほんのちょっと、救われたかもしれないっす」
俺は、答えなかった。
けれど、答えはもう、伝わっていたと思う。
ケーキを焼いて、やっと気づいた
娘の誕生日が近づいていた
「来週、娘の誕生日なんす。……4歳っす」
昼休み、コーヒーを飲みながら、嫁子がぽつりと話した。
オフィスの隅、いつものようにふたり並んでいるのが当たり前になっていた頃だった。
「そっか。もう4歳か」
「そうなんす。もう、おしゃまさんで。最近、わたしのスマホ勝手に使って、LINEのスタンプ送ったり……“○○さんに送ったの〜”とか言ってるっす」
「あれ、お前じゃなかったのか?」
「違うっす! あれ、犬の変な踊るスタンプ……」
ふたりで吹き出したあと、少しだけ沈黙が流れた。
「……今年、プレゼント買えるかわかんないっす。保育園の延長代が意外と高くて」
「……ケーキは?」
「それは作ろうかと。でも、ぶっちゃけ時間ないっす。帰ってから生地混ぜてると、あの子寝ちゃうし……」
その言葉を聞いたあと、俺は黙ってコーヒーを飲み干した。
(そうか、ケーキか)
俺が、その週末を“決めた”のは、その瞬間だった。
人生で初めてケーキを焼いた日
その土曜、俺はスーパーでスポンジケーキの素と、生クリームと、缶詰の桃を買った。
「なにやってんだ俺」と何度も思ったが、手は止まらなかった。
料理は嫌いじゃないが、スイーツとなると勝手が違う。卵白の泡立て、手がつりそうになりながらも、ハンドミキサーは意地で使わなかった。
キッチンは粉だらけ。生クリームは壁に飛んだ。
でも、なんとか形になった「いびつな丸いケーキ」が、冷蔵庫で冷えていくのを見て、ふと胸が熱くなった。
(俺、なんでこんなことしてんだ)
答えは、もう明白だった。
あの子が笑ってくれるのが、嬉しかった。
あの子の“ありがとう”が、自分の居場所になるような気がした。
小さな誕生日会
日曜日、嫁子から「来ませんか?」とLINEが来た。
「今日、うちで誕生日会します。狭いっすけど、よかったら」
「ケーキ、作ったんだ。持ってく」
「……は?」
「自作。初めて」
「う、うそっす。ほんとに……?」
「見たら笑うなよ」
「……絶対泣く気がする」
そのとおりだった。
アパートの2階。嫁子と娘が笑顔で迎えてくれた。
狭いダイニングテーブルに、ハンバーグとナポリタンと、紙皿と紙コップ。そして、俺のケーキを置いた。
娘は目をまんまるくして、「これ、○○さんが作ったの!?」と叫んだ。
「うん。形はいびつだけどな」
「すごーい!おいしそー!!……ママ、これ、ママ泣いちゃうやつだね」
「……ほんとに泣きそうっす」
嫁子は、手で口元を押さえて、必死で涙をこらえていた。
「こんなの……、誰かが娘のために……初めてっす……」
「……大したもんじゃない。でも、お前と娘のためなら、また作るよ」
その瞬間だった。
嫁子が、テーブル越しに俺の手を握った。
小さく震えていた。目元が赤くて、でも笑っていた。
「……俺でいい?」
俺のその言葉に、彼女は、小さくうなずいた。
「はいっす……もう十分っす……ほんとに……」
その横で娘が、「やったー!おじちゃんパパになるー?」と叫んでいた。
嫁子は、それを聞いて吹き出しながらも──ずっと手を離さなかった。
「家族写真、撮りたいっす」
食後、娘が描いた絵を持ってきた。
「これ、ママと○○さんと、わたし! おうちの前で撮ったやつ〜のマネ!」
そこには、3人が笑っている簡単な絵が描かれていた。
嫁子が、ぽつりと呟いた。
「……式とか、ドレスとか、いらないっす。でも、写真は残したいっす。保育園の前で、家族写真。……それだけでいい」
俺は、しっかりとうなずいた。
「それ、最高の結婚式だな」
写真に写った“俺たちの今”
招待状じゃなく、園のおたより
保育園からの“おたより”は、いつも冷蔵庫にマグネットで貼られている。
その紙を見ながら、嫁子が言った。
「来週の金曜、保育園で“親子の日”あるんす。参加できるの、保護者ひとりまでなんすけど……」
「行ってほしいのか?」
「……はい。娘が“パパも来たらいいのにね〜”って言ってて……」
少し照れたように視線を逸らす嫁子に、俺はただ一言だけ返した。
「行くよ。当たり前だろ」
その瞬間、彼女の顔に浮かんだのは、どんな言葉よりもまっすぐな“安心”だった。
「……ありがとうっす」
はじめての「父親」の顔
当日、俺はスーツではなく、無地のシャツにジャケットを羽織った。
正直、緊張していた。
園に到着すると、子どもたちが楽しそうに遊ぶ声が響いていた。
娘が走ってきて、俺の足に飛びついた。
「○○さん、来てくれたーー!!」
「来るって言っただろ」
「ママが“来てくれるかなあ”って心配してたよ?」
「ほんとっす。来なかったら、娘に泣かれるとこでした」
「泣くのお前かもしれないだろ」
「それは否定できないっす」
ふたりで笑っていると、園の先生──園田さんが声をかけてきた。
「○○ちゃん、本当に楽しみにしてたんですよ。“パパじゃないけど、パパみたいな人がくる”って」
「……そう言ってたんですか?」
「ええ。○○さんが来てくれて、本当によかったです」
先生の柔らかい声に、俺は深くうなずいた。
そう──パパじゃない。でも、“パパみたいな人”であることを、娘が認めてくれていた。
それだけで、胸がいっぱいになった。
写真を撮るという行為
「じゃあ、写真撮りますね〜!」
カメラを構えた園田先生の声が響く。
俺、嫁子、娘。3人で並んで、しゃがんで、娘を真ん中にして。
「ママ、もっと近くに!」
「はいっす。○○さんも、もっとこっち!」
自然と、肩が触れ合った。手が重なった。
そして──
「はい、チーズ!」
シャッターの音が、静かに鳴った。
その一瞬だけ、世界が止まったようだった。
空は晴れていた。
娘の笑顔が太陽みたいだった。
嫁子の目元がほんのり赤くて、でもきれいに笑っていた。
俺の手の中には、小さな手と、少し震えてる手が重なっていた。
あのときの写真が、何よりも“答え”だった。
俺たちは──たしかに、もう家族だった。
帰り道の会話
園を出たあと、嫁子がぽつりとつぶやいた。
「……あの写真、いつか娘が大人になったら、見せたいっす」
「そうだな。いい写真だった」
「私……ずっと、“いつか”ばっか言ってたけど、今日、やっと“今”がちょっとだけ好きになれたっす」
「……そっか。俺もだよ」
そのまま、手をつないで歩いた。
誰かに見られても、何を言われても、どうでもよかった。
「○○さん、いつかじゃなくて、これからもずっと一緒にいてくれますか?」
その問いに、俺は迷わずこう答えた。
「当たり前だろ。……お前の“今”を、一緒に作るって決めたんだから」
嫁子が、泣き笑いみたいな顔で、ぎゅっと俺の手を握った。
その手の温かさが、俺の過去のすべてを、そっと包んでくれた気がした。
式は挙げなくても、誓えた日
書類一枚のことだったけど
婚姻届。役所で出す、ただの紙。
だけど、あの紙を目の前に出されたとき、俺は思わずまじまじと見てしまった。
「……俺の名前、字、汚いな」
「いや、娘の名前が読みづらいから、おあいこっす」
嫁子がそう言って笑った。
二人並んで記入したそれは、文字ばかりで、でも今までで一番“重い”紙だった。
ハンコを押す手が震えた。
戸籍がどうとか、手続きがどうとか、そんなことより──
(本当に、この人と家族になるんだ)
そう思った瞬間、背筋がすっと伸びた。
「届け、出すの、今日じゃなくてもいいっすよ?プレッシャーになってたら」
「いや……今日がいい。今日がいいって、思ってる」
「……うれしいっす」
それだけで、十分だった。
大きな式も、指輪もなかったけれど──
手を取り合って、歩き出す「今」を誓えた。
家族写真、もう一枚
婚姻届を出したその日の夕方。
俺たちは、保育園に寄った。前に撮った家族写真を受け取るため。
「これです」
園田先生が、封筒を渡してくれた。開いて中を見た瞬間──
嫁子が、小さく息をのんだ。
「……ちゃんと、家族に見えるっすね」
「見えるじゃなくて、なったんだろ?」
「……はいっす」
娘がそのとき、俺のシャツを引っぱってこう言った。
「今度、また写真とろうね!」
「うん。何回でも撮ろうな」
写真なんて、昔は嫌いだった。
でも今は違う。
誰かと写ることが、こんなに“幸せの形”になるなんて、知らなかった。
何気ない日常が、全部宝物になった
結婚してすぐ、暮らしが劇的に変わったわけじゃない。
嫁子は相変わらず朝バタバタして、娘は牛乳こぼして怒られて、俺は弁当箱洗い忘れて叱られる。
でも──
「ママ、今日も“○○さん”のこと好きだった?」
「うん。今日も、ちゃんと好きだったよ」
そんな会話が、ふつうに交わされる家になった。
疲れて帰っても、誰かが「おかえり」って言ってくれる。
失敗しても、「ドンマイ」って笑ってくれる。
テレビを見ながら笑い合う。
寝る前に、絵本を読んで、一緒に寝落ちする。
それが、何よりの贅沢だった。
最後に、ふたりで話したこと
ある夜。
娘が寝たあと、リビングのソファで並んで座っていたとき。
嫁子が、急にぽつりと言った。
「○○さんと会ったとき、最初、絶対うまくいかないって思ってたっす」
「俺も。お前、名札逆だったからな」
「ひどいっす。でも……あのとき、ちゃんと声かけてくれて、よかった。ほんとに」
「いや……あれ、たぶん俺の方が救われてたよ。お前が、誰にも頼らないで泣きそうな顔してたから──俺、そばにいたくなったんだ」
「……そうっすか」
嫁子が、俺の肩に頭を寄せた。
「この先も、泣くことあると思う。でも、“いっしょに泣いてくれる人”がいるってだけで、違うっすね」
「……俺も、そう思うよ」
窓の外では、雨がぽつぽつ降っていた。
でもその音さえ、今は心地よかった。
手の中には、あたたかい手があった。
もう、ひとりじゃなかった。
おわりに
俺は、ただの係長だった。
ただの“空気”だった。
でも、初日でミスばかりしてた女が、俺の人生に現れて、
気づけば、「家族」になっていた。
誰かのために頑張ること。
支えること、頼られること。
全部、人生に必要だったんだと、今なら言える。
――俺でよかったか?
その問いは、もう聞かない。
だって、毎日の「ありがとう」と「おかえり」で、答えはもう、もらってる。
完