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はっくなび
なんかもう、全部めんどくさい
だるい日、めんどい空気、やる気ゼロの会場
その日は梅雨の晴れ間だった。少し蒸し暑くて、空は白くかすんでいた。
俺は32歳。独身、彼女なし、趣味は2ちゃんのまとめ読み。仕事はそこそこだが、出世意欲はない。服は全部ワークマン、休みの日は昼過ぎまで寝てる。正直、婚活なんて自分には縁がないと思ってた。
でも、その朝。電話が鳴って、母親が怒鳴った。
「いい加減にして!あんた、もう誰でもいいから嫁もらって!」
断る理由もエネルギーもなくて、気づいたら会場にいた。町の公民館を改装した、なんとも言えない空間。照明は蛍光灯で、長テーブルと折りたたみ椅子。壁際には茶菓子と冷たい麦茶が置かれてた。
「こちら、今日初めての方ですね〜」と、やたら元気な受付の女性。
返事もせずに頷いて、リストバンドを受け取る。番号は「27」。何の意味もなさそうな番号に見えた。
「この子、ほんとに無気力なんだけど良い子よ〜」という声
しばらくして、席に通された。四角いテーブルの一番端っこ。対面にはまだ誰もいない。
「ここに来てくださーい」と仲介のおばさん。妙に明るい。
そして、彼女を連れてきた。
長い黒髪が少しボサボサ。アイメイクは薄いのに、クマが濃い。
あろうことか、彼女はテーブルに肘をついて、うつらうつらしていた。
俺が座ると、ゆっくりと目を開けた。でも、焦った様子もない。ただ、ぼんやりと視線を漂わせてた。
仲介婆が口を開く。
「この子ね、親に無理やり連れてこられたらしくて…ほんと、やる気ゼロなんだけど、根はいい子なのよ」
「……」
俺は何も返せなかった。ただ、心の中で「ああ、同じだ」と思った。
こっちだって、母親に怒鳴られて、イヤイヤ来たんだ。
この空気、この無理矢理さ、なんかもう笑えてきた。
目も合わないままの、沈黙の10分
時間が経っても、彼女はほとんど喋らなかった。
俺も喋らなかった。何を話せばいいのか、わからなかった。会話が目的の場なのに、沈黙だけが続いた。
でも、なぜか居心地が悪くなかった。
うるさく話しかけられるより、無言のまま過ごせる方がずっと楽だった。
10分くらい経っただろうか。ふと、俺が声をかけた。
「ここ、空いてますよ」
彼女は少し驚いたように俺を見た。目が合ったのは、それが初めてだった。
「……はい」
小さく頷いて、また視線を逸らした。
まつげが少し長い。皮膚は白いけど、疲れてるのがすぐわかる。
「眠いんです」から始まった会話
数分後、ぽつりと、彼女が言った。
「眠いんです」
俺は思わず笑った。
「わかる。俺も今すぐ帰りたい」
それが、最初のちゃんとした会話だった。
嘘も飾りもない、ただの本音だった。
彼女の口角が、ほんの少しだけ上がったように見えた。
しゃべらないのに落ち着くって何?
だんだん言葉が減らなくなった
婚活イベントって、もっとこう……積極的に自己アピールとか、明るく話すとか、そういう場かと思ってた。
でも、彼女は違った。ずっと静かだった。話しかけても反応がゆっくりで、でも妙に嘘がない。
「このイベント、何回目ですか?」と俺が聞くと、
「……初めて。っていうか、親が勝手に申し込んだだけで」
と言ったあと、すぐ麦茶を飲んだ。うつむいたまま、続ける。
「家、今ちょっとゴチャゴチャしてて。逃げる場所ないから、来た」
その言葉に、なぜか胸がチクリとした。
「俺も、親が勝手に申し込んだ」
そう返すと、彼女は顔を上げた。そして、初めてちゃんとこっちを見た。
「……仲間だね」
それが、彼女の初めての笑顔だった。
笑顔といっても、にっこりじゃない。ほんのり、口元がゆるむ感じ。
でも、それだけでずいぶん印象が変わった。
「気疲れしないって、こういうこと?」
時間が経つにつれて、ぽつりぽつりと話すようになった。
趣味も性格もよくわからない。でも、無理に聞こうとも思わなかった。
「なんか……うるさくないって、いいね」と彼女。
「俺も。気を使わないでいられるの、久しぶりかも」
静かな時間が続いていたけど、それが気まずくないことに、ふと気づいた。
むしろ、落ち着く。しゃべらなくても、安心できる。
そんな相手に出会ったの、初めてだった。
仲介婆が、再びやってきた。
「あら〜、話しやすそうねぇ。ほら、連絡先、交換しといて? この子、連絡返すの遅いけど、悪気ないのよ〜」
俺と彼女は顔を見合わせた。
彼女は一瞬だけ眉をひそめたけど、文句は言わなかった。ただ、スマホを取り出して、小さく「……いいですよ」と言った。
俺も自分のスマホを出して、QRコードを読み込んだ。
LINEの友だちリストに、彼女の名前が追加された。
本名は……ここでは書かない。
でもその名前が、俺のスマホにあるだけで、少しだけ現実味が増した。
解散のとき、「またね」とは言わなかった
イベントが終わるとき、司会の人がマイクで「今日はありがとうございました〜!」と締めくくった。
他の参加者たちは、名残惜しそうに会話していたり、すでに帰る準備をしていたりした。
俺たちは、席を立つタイミングもなんとなく一緒だった。
でも「また会いましょう」なんて誰も言わなかった。
出口の自動ドアの前で、彼女が立ち止まって、少しだけ振り返った。
「……今日は、ありがとう」
それだけ言って、外へ出て行った。
日が傾いて、街路樹の影が伸びていた。彼女の背中は、小さく見えた。
LINEの通知だけが、ちょっと楽しみ
最初のメッセージは3日後だった
婚活の帰り道、スマホを見ても、彼女からのメッセージはなかった。
まあ、そんなもんかと思った。あの会場でもほとんど話してないし、連絡先を交換したのもほぼ仲介婆の強制だった。
けど、3日後。仕事から帰って、缶ビールを開けたところでLINEが鳴った。
「こんばんは。覚えてますか?」
たったそれだけの一文に、なぜか胸がザワついた。
文章は丁寧なのに、ちょっと眠そうな声が聞こえてきそうだった。
俺は、わざとそっけなく返した。
「うん。眠そうだった人でしょ」
既読がついたのは1時間後。
そのあと、また一文。
「はい。今日も眠いです」
俺は笑ってしまった。
それから、ぽつぽつとやりとりが始まった。毎日ではない。お互いに返信のペースは遅かった。
でも、なぜかその通知だけは、気になるようになった。
「話すの疲れるけど、あなたとはちょっと違う」
ある日、彼女がぽつりと送ってきた。
「仕事、行くだけで疲れます。帰ってきて誰とも話したくないのに、なぜかあなたには返しちゃう。不思議ですね」
それを読んで、ちょっとだけ胸が温かくなった。
「俺も。LINEとか苦手なのに、なんか自然に送ってる」
送った後に、少しだけ照れた。
文章で照れるって、よくわからない感覚だった。
でも、すぐに返事が来た。
「……なんか、それ、ちょっと嬉しいかもです」
スマホの画面を見ながら、気づけばにやけていた。
会ってないのに、気になる存在
数週間、俺たちは会わなかった。会おうとも言わなかった。
けど、不思議とその距離が心地よかった。
会ってないのに、誰よりも近く感じるって、変な話だと思う。
けど、彼女の一言一言が、自分の中で静かに響いていた。
彼女の文章は、短くて、ちょっとだけ抜けてて、でも素直だった。
「今日はコンビニでアイス買いました」とか、「雨、やだですね」とか、ただの日常をつぶやくような内容だった。
それに対して俺も、素直に返していた。
「アイス、俺も買った」「雨は家にこもる口実になるね」
そこには気を遣う言葉も、駆け引きもなかった。
ただ、ありのままの言葉だけが、行ったり来たりしていた。
「ちょっと会ってみますか?」
ある夜、彼女からのLINEが届いた。
「ずっと画面の中だけだと、よくわからなくなってきました。
……よかったら、ちょっと会ってみますか?」
その文を見たとき、指が止まった。
心臓が一回だけ、変な打ち方をした。
俺はすぐには返せなかった。でも、スマホを握ったまま、考えた。
あの眠そうな女の子と、また話せるかもしれない。
無言でもいい。会えるかもしれない。
「いいよ。都合のいい日、教えて」
そう送って、返事を待った。
初めてのデート、なのに気まずくない
ファミレスの片隅、知らないはずの安心感
待ち合わせは、彼女の指定で近所のファミレスになった。
「駅前の〇〇デニ。あそこなら、静かで眠くなれるから」
そう言って送ってきたLINEが、やっぱり少しおかしくて笑った。
当日、先に着いた俺は2人席を取り、メニューを見ずに水を飲んでいた。
5分後、スニーカーの足音と、カラカラという軽いドアの音。
「……来ました」
彼女は、やっぱり眠そうだった。薄い灰色のパーカーに、ほつれたジーンズ。髪は一つに結んでいて、前髪が少しだけ曲がっていた。
「……久しぶり」
「うん。あ、そこ、座っていいよ」
彼女はこくりとうなずいて、椅子に腰を下ろした。座った瞬間、背中をふうっと預けて、目を閉じた。
「……やっぱり落ち着く」
「ここ、デート場所としては地味だよね」
「むしろちょうどいいです。人、少ないし、店員さんも干渉してこないし」
彼女の口数は多くなかったけど、無理に会話を引き延ばそうとしないところが、逆にありがたかった。
無言の時間が、やけに心地いい
注文はハンバーグとドリンクバー。
彼女はアイスティーを3杯おかわりした。俺はコーンスープばかり飲んでいた。
ふと、彼女がポツリと漏らす。
「……前に付き合った人に、『もっと明るくなれ』って言われて、すごく疲れたことがあるんです」
その声は小さかった。少し震えていた。
「明るいって、なんなんですかね。笑ってるふりするの、うまくなりたくないのに」
俺はしばらく黙って、それからスープのカップを置いて言った。
「俺は、あんたが笑ってないときの方が、安心する」
「……それ、ほめてます?」
「うん。たぶん」
彼女はふっと目を細めた。
それが、本当に笑っている顔だった。
「……じゃあ、私は黙ってていいんだ」
「うん。俺も、うるさい人苦手だから」
黙ってるのに、安心する。
隣にいるのに、気を張らない。
そんな経験は、俺の人生で初めてだった。
「安心して寝ていい人なんて、いなかった」
デザートに入る頃、彼女がちょっとだけ身を寄せた。
「……誰かと一緒に寝て、安心したのなんて、子どものとき以来です」
「え、寝るの前提で話してない?」
「違います違います、そうじゃなくて……たとえば、実家にいたころも、部屋のドア閉めて、鍵かけて寝てたんです」
少し間を空けて、彼女が言う。
「でも、あなたと話してると、目を閉じても平気だなって、思えてくる」
その言葉は、俺の胸に静かに刺さった。
きっと彼女は、ずっと誰にも安心させてもらえなかったんだろう。
「じゃあ、俺がいても平気な人で、いようか」
彼女は、うなずいた。顔は赤かった。
でも、それ以上は何も言わなかった。俺も言わなかった。
ただ、隣に座っている時間が、何よりも大事だった。
だらしない関係、でもちゃんと大事だった
会わない日も、少しだけ日常が変わった
それからも、会う頻度は高くなかった。
月に1回くらい、ふらっとファミレスで落ち合って、2時間くらいぼーっとして、帰る。
それだけ。
でも、LINEのやりとりは少しずつ増えた。
朝、「おはよう」じゃなくて、「寝坊した」「雨だるい」「昼ごはんカロリーメイト」そんな、くだらない報告。
俺も似たようなことを返していた。
「上司がうざい」「缶コーヒー忘れた」「腹減ったのに会議終わらん」
まるで誰かに向けてつぶやくような会話だったけど、それが俺たちにはちょうどよかった。
「じゃあ、うち来る?」
3回目のファミレス帰り、駅の前で彼女が言った。
「……あの、今日はもう帰るの面倒なので、うち来ます?」
誘われたというより、生活の一部に吸い込まれたようだった。
「え、いいの?」
「はい。部屋、汚いけど。今さら隠しても仕方ないし」
俺は一瞬迷って、それからうなずいた。
「じゃあ、お邪魔します」
彼女のアパートは、木造の2階建て。
薄暗い階段を上がって、鍵を開ける音がやけに響いた。
部屋の中は、確かに散らかっていた。
洗濯物がソファに置かれたまま。コンビニ袋が玄関に。床には読みかけの漫画が数冊。
でも、それが嫌じゃなかった。
むしろ、「これがこの人の暮らしなんだ」と思えたことが、少しうれしかった。
「ここ、座っててください。飲み物……麦茶しかないですけど」
「麦茶、好きです」
「うそだ」
「いや、ほんと。あの会場でも飲んでたじゃん」
「……そうでしたっけ」
笑いながら、彼女は冷蔵庫を開けた。
「誰でもいい」って言われてきた俺が、今ここにいる理由
その日は何もなかった。ただ、隣に座って、テレビをぼんやり見て、彼女が途中で寝てしまった。
ソファに軽く横になる彼女。小さな寝息。
俺はそれを見て、なぜか泣きそうになった。
誰でもいい、って言われてきた。
誰でもいいなら、なんで俺がこんなに不安だった? なんで期待した?
でも今は違う。
「この人だから」って思える理由が、ひとつずつ増えていっている。
彼女は目を閉じたまま、ふにゃっと笑ってつぶやいた。
「……横にいるのに、安心するって、変ですね」
俺も、ソファの端っこでうなずいた。
「変じゃないよ。俺も、同じこと思ってた」
そのときは、それで十分だった。
大事なことは、いつも言葉の外にある。
ちゃんとしてない。でも、それがちょうどよかった
気づけば、当たり前のように「一緒にいた」
それから、自然と彼女の部屋に行く回数が増えた。
週末になると、連絡もせずにコンビニ袋を持って訪ねるようになってた。
「また来たの?」って顔をしながら、彼女はいつもドアを開けてくれた。
「今日は何食べます?」
「冷凍うどんと、レトルトのカレーがある」
「それ、昨日も食べましたよね」
「同じでもいいじゃん」
ソファに座ってテレビを見て、うどんを一緒にすする。
食べ終わったら、無言で片付けて、漫画読んだり、昼寝したり。
デートっていう感じではなかった。でも、気を使わない関係が居心地よかった。
何もしてないのに、隣にいるだけでホッとする。
彼女もそうだったのか、ある日ぼそっとこう言った。
「これ、ちゃんとしてない付き合い方ですかね」
「ちゃんとしてるの基準、誰が決めるの?」
「……誰でもないけど、なんかほら、普通はご飯とかデートとか、写真撮ってSNSとか……」
「俺ら、写真一枚も撮ってないな」
「うん。でも、それがちょうどいい気がする」
俺は、そっと彼女の頭に手を置いた。
「ちょうどいい」って言葉が、こんなにあたたかく感じたのは初めてだった。
両家の顔合わせもなく、ただ自然に暮らし始めた
ある日、仕事が早く終わって、彼女の部屋に行くと、彼女が言った。
「……もうここに、住みません?」
「え?」
「なんかもう、あなたが来るのが前提で部屋片づけてるし、冷蔵庫もそれっぽくしてるし、だったら最初から住んでもらったほうが効率いい」
「……効率の話?」
「ちょっと照れ隠しです」
俺は笑って、それから真面目に言った。
「住んだら、ずっと一緒にいられるけど、うるさいときもあるよ?」
「うるさくないから平気」
その返事があまりにも即答だったので、俺はなぜか泣きそうになった。
それから数日後、俺は自分の部屋を引き払って、彼女の部屋に越した。
正式な挨拶も、顔合わせもなかった。
母親には電話で伝えただけだ。
「……あんた、ほんとに結婚する気あんの?」
「うん。でも、結婚ってより一緒に住んでるって感じ」
「誰でもいいって言ったけど、ほんとに誰か選べるようになったのね」
その言葉の向こうで、母が泣いたような気がした。
でも俺は、電話を切ったあと、真顔でコンビニへ行き、冷凍ピザを買った。
夕飯はそのピザを2人で分けた。
彼女は黙って食べて、そして言った。
「……こういうのが、一番好きかも」
「ピザ?」
「うん。あと、隣に人がいるのに気疲れしないってやつ」
その言葉を、何度も思い返した。
指輪も式もないけど、それでもいい
ある朝、起きたら「家族」になってた気がした
その日も、特別なことはなかった。
朝、俺が先に目を覚まして、カーテンの隙間から差す光で目を細めて、となりを見ると、彼女が寝ていた。
うつぶせで、片腕だけ投げ出して、少し髪が顔にかかっていた。
その寝顔を見ていたら、ふと思った。
「あ、もうこれ、家族だな」って。
籍を入れたわけじゃない。
指輪もない。親にも挨拶してない。
でも、生活のすべてが彼女の隣にあることに、何の疑問も違和感もなかった。
そっと起き上がって、台所でお湯を沸かした。
麦茶を作りながら、彼女が飲む分のコップを2つ並べた。
これももう、当たり前の習慣になっていた。
彼女が目をこすりながら起きてきた。
「……おはようございます」
「はい、おはよう」
「麦茶ある?」
「ある。冷やしてる」
彼女は黙ってうなずき、コップを取り出してごくごく飲んだ。
それからソファに腰を落ち着けて、毛布を羽織ってこう言った。
「……なんか、ずっと一緒にいたいって、思うことがあるんですけど、これって依存ですかね?」
「うーん。俺は、嬉しいけど」
「……ですよね」
照れくさそうに目をそらす彼女を見て、俺は言った。
「でも俺、お前がいないと、多分だめになる。だから、お互いさまってことで」
「……そっちのが重い」
「そうかな?」
「そう。でも、嫌じゃない」
そう言って彼女は、ソファに寝転がり、俺の方へ手を伸ばしてきた。
「結婚って、紙のこと?」と彼女は言った
その夜、布団に並んで寝転びながら、ぽつりと彼女が言った。
「結婚って、紙のこと?」
「うん、紙。あと、手続き。あと、親への挨拶と、保険証と、場合によっては式と……」
「うわ、めんどくさ……」
「だよな」
「でも、今こうやって一緒に寝てるのは、もう結婚みたいなもんだよね」
「俺はそう思ってるよ」
「じゃあもう、それでいいや。わざわざ届け出すほどじゃないかも」
「親、うるさいかもしれないけどな」
「うちも。でも、もう疲れるのやなんですよ。誰にも気使いたくない」
「うん」
しばらくの沈黙のあと、俺は布団の中で彼女の手を探して、そっと握った。
「誰でもいいって言われてたけど、俺はお前がいいと思ってる」
言った瞬間、変な静けさが降りた。
彼女は何も返さなかった。
でも、手をぎゅっと握り返してきた。
そのまましばらくしてから、布団の中でかすれた声が聞こえた。
「……それ、ずるいですよ」
「何が?」
「泣いちゃうから、ずるい」
俺は何も言わなかった。
ただ、そのまま彼女の背中に手をまわして、そっと引き寄せた。
その夜、俺たちは言葉を交わさずに、ただ静かに眠った。
安心して眠れる誰かがいる夜は、ほんとに、人生にそう何度もない。
普通じゃないけど、ちゃんと幸せ
曖昧な日々が続くこと、それが答えだった
それからの暮らしは、何も変わらなかった。
届けも出さないし、写真も撮らない。記念日も祝わない。
でも、毎朝彼女が目をこすって起きて、俺が麦茶を出して、夜は一緒に寝る。
特別なイベントがなくても、何も不満はなかった。
むしろ、「何もない」が、こんなに安心するとは思ってなかった。
ある日、コンビニでレジを待っていたとき。
彼女がポツリと言った。
「……こういう日がずっと続いたらいいなって、最近よく思います」
「うん、俺も」
「でも、なんかフラグっぽくてこわいですよね」
「フラグ立てんな。こっちはもう、何の起伏もない人生を送りたいんだよ」
「……いいな、それ。平坦な人生。めっちゃ憧れる」
会話はそんな調子だった。
まるで特別じゃない。でも、彼女の一言一言が、俺の中にちゃんと残った。
仲介婆から届いたメッセージ
ある日、スマホに知らない番号からのメッセージが届いた。
「この前の婚活会でお会いした、○○です。ご縁はありましたか?」
仲介婆だった。
「まあ、なんというか、ゆるく一緒に暮らしてます」
そう返信すると、すぐに返事が来た。
「よかった〜!あの子、ほんとに人と話すのが苦手だったから、気楽にいられる相手と出会えて安心しました!」
その文を彼女に見せると、彼女はむすっとして言った。
「……あの人、余計なことしか言わない」
「でも、あんたのこと、ずっと気にしてたみたいよ」
「……それは、ちょっとだけ嬉しいかも」
その日は、二人でレトルトのシチューを食べた。
テレビでは天気予報が流れていて、「明日は冷える」と言っていた。
俺たちは毛布にくるまりながら、寒さよりも「一緒にいること」が嬉しくて、笑った。
彼女の寝顔を見ながら、ふと思った
夜。
彼女は早く寝てしまった。俺は、横でスマホをいじっていたけど、ふと手を止めた。
寝顔を見ると、相変わらず眉が少し寄っていて、口が半開きだった。
でも、不思議とその顔に、ものすごく救われるような気がした。
「誰でもいい」と言われ続けてきた俺が、
「この人だけは嫌じゃない」と思えた日があって、
そこから少しずつ、選び方が変わっていった。
「誰かに選ばれる」ってことより、
「自分が誰かをちゃんと選ぶ」ってことの方が、ずっと意味があるんじゃないか。
彼女は寝返りを打って、俺の方に手を伸ばした。
ぎゅっとは掴まない。ただ、俺のシャツの裾を軽くつまむだけ。
でもそれが、何よりも強い気持ちを伝えているように思えた。
「……お前がいいよ」
声に出さずにそう思った。
この日々が、ずっと続いていくといい。特別じゃなくていい。ただ、俺たちらしく。
誰でもいいって言われてた俺が、誰かを選んだ日
式もない、指輪もない、でも胸を張って言えること
ある日、職場の同僚にこう言われた。
「お前、最近機嫌いいな。彼女できたの?」
俺は一瞬だけ返事に迷った。でも、はっきりとこう答えた。
「うん。……一緒に暮らしてる。結婚とか、そういう手続きはしてないけど、たぶん、もう家族みたいなもんだと思う」
同僚は、ぽかんとしながらも、少し笑って言った。
「なんだよ、それ。でも、らしいな。無理に形だけ整えるより、そっちのがずっといいかもな」
俺はその言葉を聞いて、ほんの少しだけ、肩の力が抜けた気がした。
そうだ。俺は、選んだんだ。
誰でもいい、じゃない。誰かじゃなきゃ、もうダメなんだ。
彼女が俺の隣にいてくれることが、何よりの日常で、なによりの幸せなんだ。
小さな夜の、ささやかな「確認」
その夜、いつものように一緒に夕飯を食べて、テレビを見て、麦茶を飲んで。
ベッドに入ってから、彼女がぽつりと聞いてきた。
「……ねえ、あのさ」
「うん?」
「私たち、なんなんでしょうね」
俺はすぐに答えた。
「俺にとっては、家族だと思ってる」
「籍、入れてないのに?」
「うん。入れたって、喧嘩ばっかりする人もいるし、入れなくても、こうやって一緒にいる人もいる」
「……私は、いまのままでいいと思ってるけど、あなたが不安になるなら、ちゃんと籍入れてもいいですよ」
「不安じゃないよ」
「ほんとに?」
俺は少しだけ身を起こして、彼女の顔を見た。
ぼんやりとした電気の光の中で、彼女の目はちゃんとこちらを見ていた。
「ほんとに。……だって俺、選んだから。誰でもいいって言われてたけど、俺はちゃんと選んだ。お前がいいって思ってる」
その瞬間、彼女の目が潤んだ。
何も言わずに、ただ、そっと目を伏せた。
「ずるいです、それ。……泣くじゃないですか」
「泣いていいんだよ」
「……泣いていいなら、ちょっとだけ、もらいます」
彼女は顔をうずめて、少しだけ震えた声で「ありがとう」と言った。
その夜、俺たちは何も誓っていない。指輪もしていない。
でも、なによりも大きな「確認」をした気がした。
「選ぶ」ってことの重さを、初めてちゃんと理解した。
そして、変わらない朝が来る
朝。
またいつものように、彼女が「おはようございます」と眠そうに起きてくる。
「麦茶ある?」
「ある。冷やしてる」
「優秀」
「ありがと」
何も変わらない会話。何も変わらない風景。
だけど、その一つ一つが、とても確かなものだった。
婚活の会場で、端っこで寝てたあの女。
目も合わなかった。名前すら、最初はどうでもよかった。
でも今は——
「誰でもいい」って言われた俺が、心から「お前がいい」と言える人になった。
そしてその選び方は、きっと誰よりもまっすぐで、嘘がなくて、ちゃんと幸せだった。
― 完 ―