恋愛経験ゼロの私が、社内の怖い先輩と結婚するまで【結婚したい・婚活・出会い馴れ初めエピソード】

恋愛経験ゼロの私が、社内の怖い先輩と結婚するまで【結婚したい・婚活・出会い馴れ初めエピソード】

この馴れ初め話は著作権フリーで改変も自由・YouTubeの素材やSNSでご使用いただいても問題はありません。ただ以下のリンクを張っていただけたら幸いです。
はっくなび

なんにもない毎日

私のこと:なにもない私の話

私は、33歳。経理部で働いています。
毎日ひたすらExcelのセルを埋めて、数字を揃えて、提出するだけの仕事。
正確さだけが求められるこの仕事は、ミスをしない限り誰にも何も言われません。
だからこそ、私にとっては居心地がいい。

社内では静かで無表情な人、と思われているようで、話しかけてくる人はほとんどいません。
休憩時間も一人。
昼休みは会議室の端っこでおにぎり。
誰かと目を合わせるのが怖くて、いつも下を向いています。
恋愛なんて…そういうものに自分が関わるなんて、考えたこともありません。
中学の頃に「暗い」と言われ、高校では話しかけられず、大学では誰とも連絡先を交換しなかった。
だから今も、友達はいません。

でも、不思議と寂しくはないんです。
むしろこの“無色透明な毎日”が、私にはちょうどいい。
感情が大きく揺れることがないし、目立つこともない。
平和で、波風の立たない毎日。
そう思っていました。
…あの日、彼と話すまでは。

旦那くんのこと:怖い人だと思っていた

旦那くんは、営業部の人です。
私は“旦那くん”なんて呼べる距離じゃないし、実際、最初は名前も知りませんでした。
ただ、社内でよく聞く噂がありました。

「○○さん(彼)は、社内で一番怖い」
「無愛想だし、目が合うと背筋が凍る」
「後輩にも笑わないらしい」

正直、私も最初はそう思っていました。
廊下ですれ違ったとき、目が合っただけで鼓動が速くなって、すぐに目をそらした。
顔が整っていて、背が高くて、スーツが似合っていて、それで無表情だから、余計に近づきがたかった。

でも、その“怖さ”は、ちょっと違う意味だったんです。
あれは、誤解だったんです。
だって本当は彼――

(人のことをちゃんと見ている人だった)

気づくのは、少しずつ。
そして、気づいてしまったあと、私はもう、元の“無色透明”な毎日には戻れなくなっていました。


資料室の小さな事故

それは静かな午後のことだった

月末が近づいてくると、経理部は少しだけ忙しくなる。
その日も私は、会議資料を過去分から引っ張り出すために、資料室へ向かっていた。

誰も使っていない時間帯だったから、照明は自動で点いた。
古い棚の奥に目当てのファイルがあった。
脚立を少し引き出して、よいしょ、と登って手を伸ばす。
でもちょっとだけ届かなくて、つま先でバランスをとって……

「——あっ」

ガサッ。

その瞬間、積んであった古い箱が、足元に落ちてきた。
私の右足の甲をかすめて、そのまま床へ。

すごく静かで、すごく恥ずかしい沈黙

(誰もいないと思っていたのに)

「……大丈夫ですか?」

その声は、後ろからだった。
低くて、乾いた感じの男の人の声。
ふいに鼓動が早くなった。

振り返ると、そこには彼がいた。

(……なんで、いるの?)

資料室のドア近くに立って、じっとこちらを見ていた。
目が合って、すぐに逸らしたのは、もちろん私の方だった。

「すみません……」

咄嗟に謝った。何が「すみません」なのか、自分でもよく分からない。
でも、何か言わずにはいられなかった。恥ずかしくて、情けなくて、声が震えた。

彼は、そんな私をじっと見て、それから近づいてきた。

「足、痛いですか?」

「……大丈夫です」

(そう言ったけど、本当はちょっと痛かった)

彼は黙ってしゃがんで、床に落ちた資料箱を拾って棚に戻した。
その所作が、とても静かで、落ち着いていて、不思議と安心感があった。

「怖い人」は、意外と優しかった

「危ないんで……脚立、使うときは気をつけてください」

「……はい」

彼の手は、大きくて、指が細かった。
そして何より、声がやさしかった。

怖い人だと思っていたけど、それは違った。
目が合ったとき、彼はほんの少しだけ、眉を下げた。
それは、怒っているのではなくて……たぶん、心配している表情だった。

(——え?)

一瞬、混乱した。
「私を、心配してくれてる?」って。
誰かに、そんな目を向けられたのは、いつ以来だったか思い出せない。

「資料、どれですか?」

「え?」

「探してたやつ」

彼はもう一度私の目を見て、すぐに棚の方に視線を戻した。

「……あ、はい。2019年の第一四半期の会議資料で……えっと、青い背表紙の……」

「これ?」

スッと彼が差し出したファイルが、まさに私が探していたものだった。

「……それ、です」

「どうぞ」

(どうして、こんなにスムーズに……?)

私が苦戦していたのに、彼は迷いもなく、必要なものを見つけてくれた。
やっぱり、ちゃんと“見てる”人なんだ……そう思った。

ほんの少し、色がついた日

資料室を出るとき、私は思わず彼の背中を見送った。

(背が高いな……)

そんな当たり前のことを思ってしまうくらい、頭がぼんやりしていた。
無表情で、無口で、怖い人。そう思っていた人が、あんなふうに静かに優しくしてくれるなんて。

私の毎日に、少しだけ“色”がついた気がした。
淡くて、小さな色。
でも、それは確かに、心の奥にぽつんと灯った。

(また、会えるかな……)

そんなことを考えている自分がいるなんて、夢にも思わなかった。
でも、あの瞬間、確かに私は——

“彼”を見た。

そして、彼に“見られた”と感じた。


かばってくれた背中

小さな入力ミスが、大きな問題に

月曜の朝、社内はなんとなく空気が重かった。
週末明けで皆がエンジンをかけられずにいる感じ。
そんな中、私はひとり、静かに業務開始していた。

でもその日、私はやらかしてしまった。
先週締めた請求データのうち、ひとつだけ消費税の入力ミス。
たった「1」の打ち間違い。
けれどそれは、得意先への請求書に反映されてしまい、営業部にクレームが入った。

「誰が処理したの?」「これ、チェックどうなってんの?」

声を荒げてきたのは営業部の係長。
私の名前を聞いた途端、嫌な沈黙が落ちた。

「……あの子、またか」

(……またって、そんなにミスしてないのに)

私は立ち尽くしたまま、何も言えなかった。
言い訳なんてできないし、責任は確かに私にある。
でも、それでも胸がぎゅっと締めつけられるように痛かった。

「すぐに訂正して、再送しといて。営業がどれだけ謝ってるか、分かってる?」

係長のその言葉に、もう謝るしかなかった。

「申し訳ありません……すぐに対応します」

声が震えた。
あの資料室の出来事から数日、また彼に会うこともないまま。
私はやっぱり、ただの“地味でミスの多い経理”のままだった。

不意に割って入った声

「彼女のせいにするのは、ちょっと違うと思いますけど」

そのときだった。
背後から聞こえたその低い声に、私ははっと振り返った。

彼がそこにいた。
旦那くんが。

「この件、もともとの計上期限が急に変わったのが原因です。
それを営業側がちゃんと共有していなかった。
それで急がせて、チェックを一任したのもそちらですよね?」

(え……)

空気が、止まった。
係長が一瞬だけ口を開いたまま動けず、私も頭が真っ白になった。

「責任をなすりつけてないで、部内での連携も見直してください。
それが“チーム”でしょ?」

旦那くんは、きっぱりとそう言った。

かばう、というよりも、事実を淡々と正している感じ。
でもその背中は、まるで私を前に守る盾のように感じられた。

はじめて知った「味方」の存在

(なんで……)

彼は私のことなんて、覚えていないと思ってた。
資料室のあの日のことだって、きっとただの偶然だったと。
でも、目の前の彼は確かに、私のことを見ていてくれた。
ひとりで謝り続けるしかなかった私に、はじめて“味方”が現れた。

「……ありがとうございます」

小さな声だった。
でも、彼はちゃんと聞こえたみたいで、こっちをちらりと見て、ほんの少しだけ頷いた。

(その一瞬の仕草が、信じられないほど、うれしかった)

怖い人じゃない。
私のことをちゃんと見て、言葉で守ってくれる人。

心臓がドクンドクンと騒がしかった。
口には出さないけど、私の中で何かが確実に変わりはじめていた。

その背中が、ずっと焼きついた

彼が立ち去ったあとも、私はしばらく席に戻れなかった。
目の前のPC画面が、全然頭に入ってこない。

(なんで、あんなふうに言ってくれたんだろう)

それがずっと頭から離れなかった。
ミスをかばってもらえた、というより……
“私という存在”をはじめて肯定された気がした。

彼の背中は大きくて、頼もしくて。
それが、心の底から羨ましくて、そしてどこか、温かかった。


残業と沈黙

ふたりしかいないフロア

月末が近づくと、経理部はいつもより残業が増える。
その日は、取引先の急な締切変更で、私ひとりが居残りになっていた。

パチパチとキーボードを打つ音だけが、広いフロアに響く。
時計はもう20時を過ぎていた。
社内の照明は一部しか点いておらず、蛍光灯の光が妙に冷たく感じる。

(もう少しで終わるから、頑張ろう)

誰に言い聞かせるわけでもなく、自分の中だけでそうつぶやいた。
孤独は慣れているはずだった。
けれど、資料室の出来事や、かばってくれたあの瞬間が頭から離れず、心のどこかがざわざわしていた。

「……まだいたんですね」

後ろから聞こえたその声に、全身がビクッとなった。

まさか。——また彼だ。

旦那くんが、会議資料を片手に、経理のフロアに入ってきた。
もう誰もいないはずのオフィスに、彼の足音が静かに響く。

「……え、あ、はい……すみません」

(なんで謝ってるんだろう私……)

「謝ることじゃないです」

その言い方は、冷たいようで、でも妙にやさしい音だった。
彼は窓際の席に座り、自分のノートパソコンを開く。

(営業も、残業してるんだ……)

でも、こんな時間に来るなんて。
なんだか、ちょっとだけ、期待してしまいそうになる。

音だけが、ふたりを繋いでいた

20分ほど、無言のまま時間が過ぎた。
私のタイピング音と、彼のタッチパッドを操作する音だけが交互に響く。
それなのに、不思議と息苦しくはなかった。

ふと、私は目の端で彼の動きを見てしまった。
真剣な顔。少し口を引き結んで、資料を確認している。
髪の毛が少し乱れて、でもそれすら凛として見えた。

(こんな近くにいるのに、なんでこんなに遠く感じるんだろう)

でも、距離はたしかに——昨日より近くなっていた。

「……あの、前は、ありがとうございました」

勇気を振り絞って言ったその言葉に、彼はピタリと手を止めた。

「あの件?」

「はい。あの時、助けていただいて……」

言葉に詰まりそうになった。
でも、彼は私の方を見て、ゆっくりと小さくうなずいた。

「……当然のことです」

それだけ言って、また画面に視線を戻した。
でもその口元が、ほんの少し、やわらかくなっていた気がした。

(……うれしい)

声に出さなくても、胸が熱くなった。
もっと話したい。けど、何を話していいのかわからない。

その沈黙さえも、悪くなかった。

コーヒーの湯気と、ふたりの間の距離

しばらくして、彼が席を立った。
給湯室の方へ歩いて行く。

数分後、彼は紙コップを2つ持って戻ってきた。
無言のまま、そのうちのひとつを私のデスクに置いた。

「ブラックです。苦手じゃなければ」

「……ありがとうございます」

コーヒーの香りがふわっと立ち上った。
湯気の向こうで、彼の表情は相変わらず静かだった。

でも、その行動が、言葉よりずっと大きな意味を持っていた。
私の存在を、見てくれている。
ちゃんと、ここにいると、認めてくれている。

コーヒーをひと口飲むと、苦みが舌に残って、それでも心が温かくなる。

(この味、ずっと覚えていたいな)

そんなことを思ったのは、はじめてだった。

静かな夜の、その小さな奇跡

21時を過ぎて、作業を終えてPCを閉じた。
彼もちょうど同じタイミングで立ち上がる。

「一緒に、出ますか」

そう言われて、私は一瞬だけフリーズした。

「……はい」

それだけのことなのに、心臓が跳ねた。
ビルのエレベーターを降りるとき、彼とふたりきり。

何も話さなかった。
でも、エントランスの自動ドアをくぐるとき、彼が小さく言った。

「お疲れさまでした」

「……お疲れさまでした」

その夜、私はなかなか眠れなかった。
心臓がずっと、ドキドキと波を打っていた。
まるで、ずっと乾いていた場所に、小さな雫が落ちたような——そんな夜だった。


無言の傘

雨の日は、少しだけ苦手

金曜日の夕方。
いつもより少し遅れて上がることになった私は、玄関を出た瞬間に思わず立ち尽くした。

「……降ってる」

空はすっかり暗くなっていて、雨がしとしとと静かに降っていた。
天気予報、ちゃんと見てなかった。
傘なんて、当然持っていない。

エントランスの柱の下に身を寄せながら、携帯の天気アプリを開く。
1時間は止まなさそうだった。
傘を買うか、濡れて走るか……迷った末に、ため息をひとつ。

(まぁ、少しくらい濡れても……)

覚悟を決めて一歩踏み出そうとしたその時——

「……これ、使います?」

後ろから、声がした。

(まさか、って思っても……やっぱり)

振り返ると、そこにいたのは彼だった。
黒いビニール傘を手にして、私のほうに差し出していた。

「え……い、いいです。私、なんとかなるんで」

「無理に濡れる必要、あります?」

その声は、驚くほど自然だった。
淡々としているのに、言葉の奥にちゃんと“気遣い”があった。

「でも、それ……」

「もう1本、ロッカーにあります」

彼は言い切るようにそう言って、傘をぐいっと私の手に押し当てた。

(……優しい)

でも、なぜかその優しさに泣きたくなる。
誰かに差し出される“当たり前のやさしさ”に、慣れていない私は——何も言えなくなってしまった。

「ありがとうございます……」

やっとの思いでそれだけ言うと、彼はほんの少しだけ口元をゆるめた。
笑った、というより、“許してくれた”みたいな表情だった。

雨の中で、心が揺れた

彼と並んで歩く、帰り道。
無言のままなのに、なぜか音がたくさん聴こえた。

傘に落ちる雨粒の音、濡れたアスファルトを踏む音。
そして、心の中で鳴り響く、胸のドクドクという音。

(近い……)

肩がほんの少し、触れるか触れないかの距離。
私の持っていた傘を、彼が何気なく少しこちらに寄せてくれていた。

「この辺、道悪いから、こっち側のほうがいいですよ」

「え……」

「靴、濡れるでしょ」

(見てたんだ、私の靴……)

まさか。
誰も気にしないような、地味なパンプスなのに。

心の奥が、じんわりと温かくなる。
「見てくれている」——その事実が、胸に刺さるようにうれしかった。

「……優しいんですね」

気づいたら、口に出してしまっていた。

彼は少しだけ驚いた顔をしたあと、すぐに視線を前に戻した。

「……そうですか?」

「……はい」

(少なくとも、私には)

小さな声だったけど、それでもちゃんと伝わってほしかった。

彼はそれには答えなかったけど、代わりにぽつりとつぶやいた。

「……俺、人に誤解されること多くて」

「……え?」

「無口だし、感情ないって思われてるみたいです」

「……そんなこと、ないです」

思わず、言っていた。

(あなたはちゃんと、やさしいです)

「そう言ってくれる人、はじめてです」

そう言って、彼はふっと笑った。
ほんの一瞬だったけど、それは確かに“笑顔”だった。

胸が、きゅっと鳴った。
この人のことを、もっと知りたい——そう、思ってしまった。

傘がつなぐ距離の中で

駅の手前で、彼は立ち止まった。

「ここで。俺、こっちなんで」

「……あ、はい」

名残惜しさを感じたのは、私だけじゃなかったと信じたい。

「傘、次会ったときでいいです」

「……はい」

その“次”があると、彼が信じてくれていることに、また胸が温かくなった。

「気をつけて」

「……あなたも」

そして、彼は雨の中へ、もうひとつの傘を広げて歩き出した。
背中は、やっぱり大きくて、でももう“怖く”はなかった。

傘の中で、私の心は静かに震えていた。
それはたぶん、恋のはじまりだった。


異動のうわさ

少しずつ近くなっていたのに

それは、なんの前触れもなく聞こえてきた——
社内にふわふわと浮かぶ、根拠のない“うわさ”。

「営業の○○さん(彼)、来月から本社に異動するらしいよ」

「え、東京の本社? 課長に昇進で?」

「うん、優秀だもんね。まあ、あの人無口だけど、数字は出してるし」

コーヒーを入れに行った給湯室で、総務の人たちが話していた。
背筋に、冷たいものが走った。

(異動……?)

あの人が。
彼が、いなくなる?

それだけで、息が詰まりそうになった。
急いで戻ったデスクでも、まるで作業が頭に入ってこなかった。

(今、ようやく……)

彼との距離が、少しずつ近くなってきたところだったのに。
雨の日の傘。無言の優しさ。笑った横顔。

全部、胸の奥でまだ“ほやほや”の感情だった。
やっと見え始めた、知らなかった一面。
知らないまま、終わるなんて——

(やだ)

たった一言が、胸に浮かんだ。

直接は聞けないくせに、気になってしかたない

その日以降、私は彼の姿を探すようになってしまった。
廊下、エレベーター、会議室前。
目に入るだけで、心が落ち着くことに気づいてしまったから。

でも、不思議と彼は以前よりもさらに無口になっていた。
廊下ですれ違っても、「お疲れさまです」と小さく言うだけ。
いつも通り、静かで、距離を詰めようとも離れようともしない。

(うわさが本当なら、あと数週間で……)

私は何も知らないまま、また元の“透明”な存在に戻ってしまうんじゃないか。
そんな恐怖ばかりが、胸を締めつけた。

声をかけたい。
聞いてみたい。
「異動するんですか?」って。

でも——

(聞いたら、ただの“興味本位”に思われるかもしれない)

それが怖くて、言葉にならなかった。
黙ったまま、時間だけが過ぎていった。

まさか、あの人が「私の名前」を……

金曜日の終業後。
珍しく経理部に電話がかかってきた。
しかも内線だった。

「……経理部、○○です」

「……あの。営業部の○○ですけど」

一瞬で心臓が跳ねた。

「はい……?」

「先日の資料、1点だけ確認したいんですが。今、少し時間ありますか?」

「……あ、はい。すぐに伺います」

電話を切ったあと、なぜか手が震えていた。
(用事はそれだけ……?)と疑いながらも、資料を片手に営業部へ向かった。

彼はひとりで席にいた。
部内はほぼ無人で、机に向かっていた彼が、私に気づいて立ち上がった。

「これ、すみません。ここの小数点以下、再確認してもらえると……」

「……はい、わかりました」

「助かります」

沈黙が落ちた。

でも、そのあと。

彼は少し視線を落としながら、ぽつりと言った。

「……異動、あるかもしれません」

一瞬、時間が止まった。

「え……?」

「まだ正式じゃないんですが。たぶん来月、本社です」

言葉が、喉につかえた。
どう答えたらいいか、わからなかった。

(やっぱり、あのうわさ……本当だったんだ)

「そう、なんですね……」

なんとかそれだけ言うと、彼は静かにうなずいた。

「……行きたくないんですけどね、本当は」

「え?」

「……こっちに、残りたい理由があるんです」

彼はそう言って、まっすぐ私を見た。

心臓が、悲鳴のように高鳴った。
まさか、それが——私のこと?

「……すみません、変なこと言いましたね」

彼は照れ隠しのように、少しだけ目をそらした。

でも、その瞬間、私ははっきりとわかった。

この気持ちが、恋だと。

この人に、心を向けていると。

——そして、彼も。

私を“ただの経理の地味な人”としてではなく、ちゃんと“私”として見てくれていると。


「困るな」って言葉

聞こえた、ほんとの気持ち

異動の話を聞いてから数日。
彼とは特に何も話さないまま、でも頭の中ではずっと彼の声が響いていた。

——「こっちに、残りたい理由があるんです」

(あれは、どういう意味だったんだろう)

言葉の真意を知るのが怖いのに、知りたくてたまらなかった。
そして、ある日の夕方。
また残業になった帰り際、エレベーターの前で彼と偶然会った。

「……一緒に、帰ります?」

彼からそう言われたのは、はじめてだった。

(この“一緒に”って、どういう意味なのかな……)

そんな疑問が頭をめぐるけれど、口に出せるわけもなく、私はただうなずいた。

「はい」

ふたりきりのエレベーター。
静かに下がっていくその密閉された空間が、胸の鼓動をやけに大きくさせる。

地上階についた頃には、もう口が渇いていた。

駅までの道が、やけに短い

「……最近、どうですか」

彼のその質問は、あまりにも唐突だった。

「えっと……普通です。相変わらず、ミスしないようにだけ頑張ってます」

そう答えると、彼は少しだけ歩くスピードを落とした。

「……無理してないですか」

「……え?」

「もっと自分を責める人かと思ってました。最初は」

その言葉に、思わず足が止まりそうになった。

「でも……見てたら、ちゃんと努力してるの分かりました。数字のチェックとか、帳票の整理とか」

彼はまっすぐ前を見たまま、続けた。

「それに、残業のとき、静かに頑張ってるのも。誰にも気づかれないところで、ちゃんと仕事してるの、俺、知ってます」

(なんでそんなに……)

そのやさしさが、うれしすぎて、苦しかった。

「……ありがとうございます」

声が少し、震えていたかもしれない。

彼は歩きながら、ぽつりとつぶやいた。

「……異動、正式に決まりました。来月からです」

「あ……そう、ですか」

とうとう、来てしまった。
心のどこかで「決まらないで」って願っていた。
その願いが、やっぱり通じなかったことに、喉の奥が詰まる。

「……困るな」

「え?」

「あなたに、そう思われたら……俺、困ります」

(なに、それ……)

彼の顔を見ようとしたけれど、すぐに顔を逸らされた。

「俺、言葉にするのが苦手で……でも、ずっと言おうと思ってました。
あなたのこと、気になってました。……いや、今も、です」

心臓が、ぎゅっとつかまれたみたいに痛かった。
でもそれは、苦しさじゃなくて——うれしさで。

「……私もです」

やっと、言えた。

彼が足を止めた。
そして、ふたりだけの夜道に、しばし沈黙が落ちる。

でも、その沈黙は怖くなかった。
風の音、車の音、すべてが遠くに聞こえるくらい、彼と私の世界だけが“ここにあった”。

「そっか……」

彼はそう言って、すごく、すごく小さく笑った。

「……困るな」

「……それ、二回目です」

「うん。でも、ほんとに困ってるから」

(うれしそうに“困る”なんて、反則すぎる)

その笑顔が、私の心を完全に溶かした。

ふたりの距離は、もう“知らないふり”できない

帰り道、手がかすかに触れた。
私はとっさに引っ込めかけたけど、彼がゆっくり、その手を重ねてきた。

「嫌だったら、言ってください」

「……嫌じゃないです」

(むしろ、これ以上ないくらい、うれしいです)

初めて触れる彼の手は、少しだけ冷たくて、それでも包み込まれるような安心感があった。

それが、私の“はじめて”だった。

——手を繋ぐなんて、こんなに心が震えるものなんだ。
そう、思った。

勇気と告白

会えなくなる前に、ちゃんと伝えたい

異動まで、あと1週間。
彼との会話は少しずつ増えてきたけれど、私はずっと、ある気持ちを胸に抱えたままだった。

——「私は、あなたが好きです」

たったその一言が、どうしても言えなかった。

彼の優しさに、彼の笑顔に、何度も心が揺れて。
でも、口に出すことが怖かった。

(私なんかが、好きになっていいのかな)

ずっと、自信がなかった。
恋愛なんてしたことがなくて、うまく笑うことも、甘えることも知らない。
ただ、心が彼を追いかけてる。
それだけは確かだった。

(伝えないまま、離れたら……後悔する)

震える手で、携帯のメモアプリを開いた。
何度も何度も書いては消してきた言葉を、もう一度だけ書き直した。

「明日、少しだけお時間いただけませんか」

送信ボタンを押す指が、びっしょりと汗ばんでいた。

すぐに既読がついて、数分後——短く返ってきた。

「わかりました」

それだけの文字に、胸が締めつけられるほどの重さを感じた。

(ちゃんと伝えよう。ちゃんと、“わたし”の言葉で)

薄曇りの空の下で

土曜日。
社内の近くの公園に、彼と待ち合わせをした。

営業ビルの裏手にあるその小さな広場は、花壇とベンチがぽつんとあるだけの場所。
曇り空に光が少し滲んでいて、風が心地よかった。

彼は、いつも通りの表情でベンチに座っていた。
気取った服装ではなく、スーツのジャケットを脱いだだけのシンプルな格好。

でも、私の目にはその姿が、何よりも格好よく映った。

「待たせましたか……?」

「ううん。今来たところです」

ほんとうは、10分前からずっと来てた。
それでも、なんとなく嘘をつきたくなった。
気持ちが揺れすぎて、彼の目を直視できなかった。

ベンチに並んで座ると、あのときの“無言の残業”を思い出した。
だけど今日は、伝えなきゃいけない。

深呼吸をひとつ。
そして、もうひとつ。
覚悟を決めて、私は彼の方を向いた。

「好きです」と言うまで

「……あの」

「うん?」

彼は、いつもの静かな目で私を見ていた。
その視線に、胸がぎゅっと縮まる。

「私……今まで、恋愛したことなくて。
誰かを好きになるって、どういうことか、よくわからなかったんです。
でも、あなたと話すようになってから……心がすごく動くようになって……」

(言って、ちゃんと伝えて)

「一緒にいられる時間が、毎日少しずつ大切になっていって……気づいたら、ずっと、あなたのことを考えるようになってて……」

喉が詰まりそうだった。
でも、逃げたくなかった。

「……私、あなたのことが、好きです」

静かに、でもしっかりと伝えた。
自分でも驚くくらい、言葉は震えていなかった。

彼は、すぐに答えなかった。
でもその沈黙は、どこかあたたかかった。

そして、ゆっくりと返してくれた。

「……俺も、です」

「え……?」

「俺も、恋愛に慣れてなくて、何をどうすればいいのか、ずっと分からなかった。
でも、あなたと話すようになってから、会社に来るのが少しずつ楽しみになって……
自分がこんなふうに人を気にするなんて、思わなかった」

その目は、まっすぐだった。
彼は、まるで言葉を確かめるように、丁寧に続けてくれた。

「だから……異動前にちゃんと言いたかった。
あなたのことが、好きです。
——俺に、もう少し時間をください。
離れても、ちゃんと繋がっていたい。もっと、ちゃんとあなたを知りたい」

その言葉に、涙が込み上げてきた。

(こんな私を、こんなふうに言ってくれる人がいるなんて)

私は、声にならないまま、何度も何度もうなずいた。

そして、そっと彼が手を差し出してきた。
私はそれを、何の迷いもなく、握った。

彼の手はあの夜と同じ。少し冷たくて、でもしっかりとあたたかかった。

「これからも、よろしくお願いします」

「……こちらこそ」

(こんなに幸せな“はじめて”があるなんて、知らなかった)

——こうして、私たちは“両想い”になった。