猫と嫁子と僕|2ちゃん馴れ初め風エピソードまとめ【まったり系馴れ初め】

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はっくなび

『春の縁側、猫と嫁子と』|2ちゃん馴れ初め風エピソードまとめ

  • 名前は最後まで出さない一人称「俺」視点。
  • 年齢は30代半ば。中年一歩手前。
  • 元IT企業勤務の独身オタク。根暗。社畜→退職。
  • 過労で倒れ、そのまま都会を離れて田舎へ移住。
  • 空き家バンクで購入した古民家に住んでいる。
  • 趣味はアニメ・ラノベ・フィギュア収集・PC自作・ゲーム。
  • コミュ障で人付き合いに臆病。
  • だが内面は意外と優しく真面目。誠実。
  • 亡き祖母の遺産と株の配当で生活は安定。

嫁子

  • 年齢:主人公と同年代~やや年下(30前後)
  • 職業:田舎の小さな雑貨店・パート勤務
  • 性格:控えめ・優しいが芯は強い
  • 幼い娘(5歳)と二人暮らし。シングルマザー。
  • 過去:元夫にDVを受け、逃げるように田舎へ移住。
  • 地元の人とのつながりは浅く、孤立ぎみ。
  • 家事が得意。だが他人を頼るのが苦手。

■ 子ども:女の子(仮名:こはる)

  • 年齢:5歳
  • 人懐っこい性格。笑顔が愛らしい。
  • 保育園児。お絵描きと動物が好き。
  • 父親の記憶はほぼないが、夢で泣くことがある。
  • 主人公になつくことで徐々に「家族」の雰囲気が。

■ その他の登場人物(個性あり)

  • 地元の八百屋の親父(口は悪いが世話焼き)
  • 保育園の園長先生(おっとりだが鋭い観察眼)
  • 主人公にPC修理を頼む若夫婦(都会からの移住組)
  • 近所の老婆(嫁子の事情を知っていたが黙っていた)
  • 主人公の元同僚(時折メールで近況を送ってくる)

第一章「逃避」

三月の終わり、まだ肌寒さの残る田舎道を、俺は小さな軽トラで走っていた。助手席には段ボール、後部には生活用品と数体のフィギュア。都会から六時間近くかけて、やっとの思いでたどり着いたこの村が、俺の“新しい生活”の舞台になる。

最初に断っておくが、俺は根っからのオタクだ。二次元の美少女を崇拝し、三次元には興味がないと公言してきたし、そもそもコミュ障すぎて人間関係からは常に距離を取って生きてきた。中高大、そして社会人と、常に「余計な会話をせずに済む仕事」ばかり選んできたつもりだ。

なのに、そんな俺がなぜ突然、こんな山奥の古民家に引っ越してきたのか。

理由は単純。人生に疲れ果てたからだ。

IT企業で働いていた俺は、数年前から典型的な「燃え尽き症候群」に陥っていた。開発スケジュールの過密さ、終わらないバグ修正、無限のクライアント会議。気がつけば毎日コンビニ飯、布団に入っても3時間で目が覚める。金だけは貯まっていくが、使う気力も湧かない。休日はベッドでソシャゲをぼんやり眺めるだけ。そんな生活が数年続いて、ある日突然、俺は会社のトイレで倒れた。

救急搬送され、過労と診断された。その夜、会社からの連絡は一切なかった。

「なんでここまでして働いてんだろ、俺……」

ベッドの上でそうつぶやいた瞬間、自分の中で何かが切れた。退職届を出し、数ヶ月後には祖母が遺した田舎の古民家を買い取り、すべてを捨てて移住した。

何もない村。コンビニもない。携帯の電波も弱い。だけど、春風が気持ちいい。ウグイスが鳴く。縁側に座っているだけで、どこか心がゆるむ。

「……まあ、こんなもんか」

引っ越し初日の夜、電球の明かりに照らされながら、一人でカップラーメンをすすった。湯気が眼鏡を曇らせる。傍らでは、通販で買った抱き枕がぽつんと転がっていた。

笑ってしまうほど、寂しかった。

けど、同時に不思議と心地よかった。誰も俺に話しかけない。誰も詮索しない。時間がゆっくり流れていく。誰とも話さずにいられる日々。これが俺の求めていた「自由」なのかもしれない。

数日後、村の雑貨屋に行くため、坂道を下っていると、近くの神社の前で子どもが一人、地面にしゃがみこんでいた。ピンクの帽子に、スモック姿。幼稚園児だろうか。

手に持っていたのは、黒と白の猫だった。だっこされながら、猫は目を細めてうとうとしている。

「……おお……猫か……」

猫は好きだ。昔飼っていたし、アニメでも猫耳キャラは大好物だ。

俺が立ち止まると、女の子がこちらに気づいた。

「おじちゃん、にゃんこ、なでてもいいよ?」

「お……おじちゃん……」

俺はたじろいだ。いまの俺は確かにスウェット姿で髪もボサボサ。世間的にはおじちゃんかもしれないが、さすがに面と向かって言われるとダメージがでかい。

「お兄さん、って言ってもらえると……うれしい、かな……」

「……お兄さん、なでてもいいよ」

なんて律儀な。俺はそっと猫の頭をなでた。柔らかい毛並み。子どもと猫。田舎の春。絵に描いたような平和なワンシーン。

「……君の猫?」

「ううん、ちがう。でも、毎日ここにいるの」

そうか、地域猫か。飼い主のいない、でも皆に可愛がられている猫。昔、祖母の家にもそういう猫がいた。思い出すと少し胸が痛んだ。

「お名前は?」

「こはる」

猫の名前かと思ったが、女の子は胸に付けていた名札を指さした。

『こはる』

そっちか。自分の名前を名乗るの、えらいな。

「俺は……まあ、あんまり名乗ることもないんだけどな。うーん……“おにーさん”でいいか」

「……おにーさん、へんな顔」

「それは言わないお約束だぞ……」

こはるはくすくすと笑った。なぜか、心があたたかくなった。

その日以来、俺はときどき神社の猫とこはるを見かけるようになった。

話しかけられると、少し戸惑う。でも、こはるの無邪気な笑顔に、俺は心を開かされていった。いつしか、こはるの母親――“嫁子”とも出会うことになるとは、このときの俺はまだ知らない。

いや、正確には、その日も嫁子は近くにいたのだ。神社の鳥居の影で、こはるを静かに見守る、痩せた女性の姿があったことを、俺はあとになって思い出す。

そのまなざしには、どこか影があった。どこか、俺と似たような、壊れた人間の気配があった。

だがそれは、まだ少し先の話。

この日、俺は猫をなでて、こはるに笑われて、ひとり寂しく帰路についた。

けれどその夜、不思議と心はほんの少し、あたたかくなっていたのだった。


第二章「縁側の出会い」

その日は、よく晴れていた。

軒下から見える庭の梅が咲き始め、縁側に座っているだけで春の香りが漂ってくる。鳥の声、風に揺れる木の音、虫の声すらない静けさが心地よかった。

「……俺、マジで引きこもり向きだな……」

湯呑の緑茶を啜りながら、つぶやいた。テレビも音楽も要らない。ただ、静けさだけが欲しかった。

――と、そのとき。

「こんにちはー!」

玄関側のほうから、小さな声が響いた。ぴょこん、と顔をのぞかせたのは、あの子――こはるだった。

「……お、おう、こんにちは」

いつのまに来たのか。相変わらず、ピンクの帽子が似合う。

「にゃんこ、ここにいたから、ついてきた!」

縁側の下には、確かに猫が丸くなっていた。気づけばもう、この家に住みついている。

「……あ、入っちゃ、だめか?」

こはるはちょっと不安げな目をした。玄関からちゃんと靴を脱いであがってきているらしい。

「いや……まあ、別にいいけど……」

戸惑いながらも、俺は奥から箱入りのクッキーを持ってきて、小皿に並べて出した。

「お菓子、食べる?」

「食べる!」

満面の笑み。こっちがちょっと照れるほどの無邪気さだ。猫を膝にのせたこはるは、クッキーをひとつ口に入れて「おいしー!」と叫んだ。

「おにーさん、一人で住んでるの?」

「……まあ、そんなとこだな」

「お友だち、いないの?」

「……まあ、そうだな……」

聞かれるたびにダメージがじわじわ来る質問だが、なぜか腹が立たない。こはるに悪気はないと分かっているし、それに――。

「でも、にゃんこと一緒だし、さびしくないんだ?」

「……いや、ちょっとさびしいかも」

正直に言ってしまった。

こはるは、俺の膝の猫をじっと見つめてから、小さくうなずいた。

「……じゃあ、わたしが、お友だちになってあげるね!」

「……ありがとう」

不覚にも、目頭がじんとした。

それから数分後。

「こはるー!!」

遠くから女性の声が響いた。振り向くと、麦わら帽子をかぶったスリムな女性が、こちらに向かって走ってきていた。

「まったく、どこ行ってたの……!」

そして俺を見た瞬間、女性ははっと息を飲んだ。

「……す、すみません、この子が……ご迷惑を……」

目元には軽くクマがあり、頬は少しこけている。だが、決してやつれた印象ではなく、むしろ静かで品のある雰囲気があった。淡いグレーのワンピース、シンプルな布バッグ。どこか都会的で、田舎の空気に少し浮いているように見える。

「いえ……別に迷惑ってほどじゃ……」

思わず目を逸らしてしまった。こういう、綺麗で大人びた女性と話すのが、一番苦手だ。

「……よかった。お怪我もなかったようで……」

女性は俺の目を見ずに、深く頭を下げた。まっすぐな礼儀に、逆に恐縮してしまう。

「……あの……こはるの母です。嫁子(※仮称)といいます……」

「あ、はい。ど、どうも……あの……俺は……えーと……」

名乗ろうとして、やめた。

本名を言いたくなかったわけじゃない。ただ、なんとなく、そういう空気じゃなかった。

「……このへんに越してきたばかりで……まだ、誰にも挨拶してなくて……すいません……」

「いえ……あの、私も……こはるとふたり暮らしで、あまり、ご近所とも……」

そう言って、女性は小さく笑った。どこか陰のある笑みだった。気まずい沈黙が数秒流れた。

そのとき、こはるが割って入った。

「ママー! おにーさん、クッキーくれたの!」

「そう……ありがとう……」

「いや……その、たまたま、あって……」

「こんど、なにかお礼をさせてください」

「え、あ、いや、ほんとに、そんな、いいですって……!」

一気に動悸が上がる。女性と二言三言交わしただけで、こんなにも疲れるなんて……やっぱり俺は人付き合いに向いていない。

だが、不思議と、彼女の表情が脳裏に焼きついた。

笑顔が、どこか寂しげだったからだ。まるで――俺みたいに。

その夜。

縁側で猫と一緒に寝転びながら、俺は思った。

「……嫁子さん、か……」

こはるが人懐っこいのは、おそらく母親の努力と優しさの影響だろう。けれど、その母親のほうは……何かを必死で隠しているように見えた。

あの目の奥にあった、わずかな“影”。

それが何かを知るのは、まだずっと先のことだ。

だが、この日――俺の孤独な日常に、ひとつの“関係”が芽を出し始めたのは間違いなかった。

春の縁側に座って、知らぬ間に心の風景が、少しだけ変わり始めていた。


第三章「小さなやり取り」

こはるは、それから毎日のようにうちへ遊びに来るようになった。

最初のうちは猫を追ってくるだけだったが、そのうち、俺が縁側で麦茶を飲んでいると「おじゃましまーす!」と元気よく玄関を開けるようになった。

「こはる、今日も来たんか」

「うん! にゃんこもいるよ! それとね、お絵かき持ってきたの!」

そう言って、バッグの中からくしゃくしゃのコピー用紙を取り出す。そこには俺と思われる人物と猫とこはるが描かれていた。

「……俺、こんな髪ボサボサ?」

「うん! でも、にゃんこはかわいく描けたよ!」

「……そっちは納得」

こはるは縁側に座って、俺の横で絵を並べ、麦茶を飲み、猫と一緒に昼寝をする。俺の生活が、少しずつ“誰かの気配”で彩られていくのを、当初の俺は警戒半分、戸惑い半分で受け入れていた。

ある日、こはるが麦チョコの小袋を差し出してきた。

「ママが“ありがとうのチョコ”って」

「……ありがとうって、なんの?」

「んーっと、あそんでくれて、って」

たったそれだけの言葉に、なぜか胸の奥がふっと温かくなった。

数日後、その「ママ本人」――嫁子が、縁側まで来た。

白いエプロン姿に、淡い緑色のカーディガン。ごくシンプルな服装なのに、妙に清潔感があった。

「……いつも、こはるが……お世話になってます」

「あ、いや……俺は何も……」

嫁子は視線を落としながら、小さなタッパーを差し出した。

「おすそわけ……きのう煮た、ふきと筍です。お口に合えば……」

俺は思わず受け取った。まだほんのり温かい。

「……こんなの、もらっていいんですか」

「こはるが“おにーさんにあげたい”って。……わたしも、感謝してるんです。あの子、楽しそうに“今日は○○したよ”って話すから」

「○○……って、何したっけな……」

「猫をなでた、とか……クッキー食べた、とか、なんですけど」

嫁子はふっと小さく笑った。わずかに緊張の抜けたその笑顔が、思いのほか柔らかくて、俺は少しだけ息を詰めた。

「……ありがとうございます」

「……いえ」

沈黙が流れる。

でも、不思議と、嫌な沈黙じゃなかった。

その日以来、嫁子はときどき、ふきや卵焼きや、焼き菓子などを「こはるがどうしても、って言うから」と言って持ってくるようになった。

もちろん、俺がそれを全部食べるたびに「これはプロの味では……?」と心の中で驚いていたのは言うまでもない。

ある日、こはるが泣きながら駆け込んできた。

「ママとケンカしたの!」

どうやら、外に出ちゃダメって言われたのに勝手に出てきたらしい。

「でも、にゃんこに会いたかったの!」

「……そうか」

「おにーさんも、ママに怒られたことある?」

「うーん……そういう人、いないからな……」

「そっか。……でも、やっぱりママに会いたい」

「だったら、ちゃんと“ごめんなさい”してこい。猫も待ってるし、俺もいるから」

「……うん」

その日、こはるは泣きはらした顔で嫁子に手を引かれて帰っていった。

夕方、ポストに小さな封筒が入っていた。中には「ありがとう」の文字と、猫と俺とこはるの絵。少しだけ、俺の髪が整って描かれていた。

その日から、俺は少しだけ生活を変えた。

縁側のクッションをひとつ増やした。お絵描き用の紙とクレヨンも百均で揃えた。日曜の昼には、簡単なホットケーキを焼いた。

嫁子が、お礼と称して庭の草むしりを手伝ってくれるようにもなった。無口な俺と、口数少なめな嫁子が並んで草を抜いている光景は、傍目には妙に滑稽かもしれないが、どこか――しっくりきていた。

人間は、変わるものなんだな、と思った。

ほんの少しのやり取りが、こんなにも心をゆるめていくなんて。

「……俺は今、たぶん……誰かとつながってる」

ぼそっと、縁側でつぶやいたとき、横で丸まっていた猫が「にゃあ」と鳴いた。

まるで、肯定してくれたみたいだった。


第四章「崩れた日常」

春の雨がしとしとと降り続くある朝、俺はいつものように縁側で猫と過ごしていた。外では鳥の声もなく、庭の新芽が雨粒をまとって重たげに揺れている。そんな静かな時間に、遠くからかすかな泣き声が聞こえてきた。

「――おにーさん、助けて……」

振り向くと、こはるが玄関先で肩を震わせていた。頬は赤く熱を帯び、目は涙で腫れている。傍らの嫁子は、手にハンカチを握りしめ、声を上げずに涙をこらえていた。

「こはる、大丈夫か?」

俺は慌てて立ち上がり、腕を差し出した。こはるはさっと飛びついてきて、そのまま俺の胸にうずくまった。

「熱があるの……ぼく、しんどい……」

嫁子は苦しげに唇を噛み、俺の背をそっと叩いた。

「すぐ、病院へ連れて行きます……ごめんなさい、おにーさん……」

「いいんだ、すぐ行こう」

俺は傘を取って玄関に戻り、こはるを抱えたまま荷物をまとめた。熱で汗ばんだ髪、細い手足、普段の無邪気さはどこへやら、今はただ弱々しい園児に戻っている。

車を走らせること十五分、最寄りの診療所に滑り込んだ。待合室にはほかに患者がおらず、静まり返っていた。看護師が飛んできて、こはるの体温を測る。

「お熱は38.5度ですね。念のため血液検査をしましょう。お母さんもお父さんも付き添ってくださいね」

嫁子は深く頷き、俺を見る。初めて交わす視線は、どこか頼りなさと申し訳なさで揺れていた。

「すみません……私、急に……」

「気にしないでくれ。俺もびっくりしたし」

俺は自然に笑いかけたつもりだったが、嫁子は小さく息をついた。こはるは診察台の上でじっとしていられず、俺の胸にしがみついている。

やがて医師が現れ、血液を採取しながら軽く声をかけた。

「お父さん、お母さん、心配ですね。こはるちゃんは軽いウイルス性の風邪でしょう。点滴は不要です。あとは安静と水分補給、解熱剤で様子を見ましょう。念のため一晩はお預かりしますね」

「えっ……一晩ですか?」

嫁子の眉がぴくりと動いた。母親として当然の反応だろう。俺は咄嗟に医師に尋ねた。

「自宅で看られないほどの症状ではないですか?」

医師は首を振った。

「大丈夫ですが、保育園の規則上、熱が下がるまで通園できないので、念のためこちらでお預かりします。明日朝、お迎えに来てください」

嫁子は歯を食いしばり、懐から小さな財布を取り出したが、俺が先に動いた。

「代わりに支払います」

不意の申し出に嫁子は目を見開き、一瞬戸惑ったが、すぐに俯いた。

「……ありがとうございます。でも、私が――」

「いいよ。急なことだから。俺にできることだから」

軽く手を握ると、嫁子は小さく頷いた。受付で手続きを済ませ、俺は雨の中、車を出して帰路についた。

家に戻ると、縁側で猫が俺を待っていた。濡れた傘を片手に、俺は猫を抱き上げ、ぽつりと呟いた。

「……大変な一日だったな、猫」

猫はぐるりと顔をこすりつけて「にゃあ」と答えたように鳴いた。俺は不意に涙がこみ上げ、振り払うように猫を撫でた。

その夜、俺はほとんど寝られなかった。嫁子とこはるのことが気掛かりで、窓の外を見るたびに胸が締め付けられた。深夜、スマホに保育所からの短い連絡が入った。

「こはるちゃん、すやすや寝ています。発熱も落ち着きました。明朝のお迎え、お待ちしております」

その一文で、俺の胸のあたりがじんわりと温かくなった。何もできないままでも、こうして気にかけるだけで、誰かの支えになれるのかもしれない。

翌朝、雨が上がり、庭の新緑がきらりと光っていた。俺は早めに家を出て、こはるを迎えに行った。院内の待合室で、嫁子と再会する。

嫁子の頬は前夜より少しふっくらし、目の下のクマも薄れていた。こはるはまだ眠そうな目をこすりながら、俺を見ると満面の笑みを浮かべた。

「おにーさん、おはよう!」

「おはよう、こはる。よく頑張ったな」

俺は両手を広げ、こはるを優しく抱きしめた。こはるは「うん……」と小さく返事をした。

嫁子は視線を外しながら、ぽつりと言った。

「……いろいろ、追い詰められてたんです。前の夫に……暴力を振るわれて、毎日が恐怖でした。子どもを守りたくて逃げてきたけど、病気のときは余計に不安で……」

その告白はあまりにも静かで、しかし重く、俺の胸に響いた。俺は黙って頷き、言葉を選びながら答えた。

「大丈夫だ。ここには俺がいる。嫌な思いをさせないように、俺が守るから」

嫁子は驚いたように俺を見つめ、そして小さく目を閉じて涙をこぼした。俺はその背中にそっと手を置いた。

「これからも、なにがあっても一緒にいよう」

小さな家族は、壊れた日常の中で、初めて強く「絆」を確かめ合ったのだった。


第五章「俺という居場所」

こはるが熱を出したあの日から、俺たちの関係は少しずつ、だけど確実に変わり始めた。

「……おにーさん、今日も、いてくれてありがとう」

こはるがそう言ったのは、縁側でいつものように麦茶を飲みながら、猫をなでていたときだった。

「そっちこそ、毎日来てくれてありがとう、だよ」

「……だって、おにーさんといると、ママも笑うんだもん」

「……そうか?」

「うん。にこーってするの。ママ、あんまり笑わないから」

その日から、俺は毎朝、台所に小さなお弁当を用意するようになった。

最初は自分のためだった。冷蔵庫にあった卵とウインナーと、冷凍唐揚げ。適当に詰めて縁側で食べていたら、ある日こはるが言った。

「これ、かわいい! ママに見せたい!」

その翌日、嫁子がほんのり顔を赤くしながらこう言った。

「おにーさんの卵焼き、こはるが“まーまのおべんとうみたい!”って……ふふっ」

笑ったのは、そのときだけだったけど、それでも俺の心には、静かに残った。

それからは、時折こはるの分も一緒に詰めるようになり、嫁子がそれに気づいて、夕方におかずを“お返し”としてくれるようになった。

「……お弁当、ありがとうございます。……ほんとに、助かってます」

そう言いながら渡されたのは、ハンバーグ入りのタッパーと、丁寧にラップされた小さなグラタン。俺は内心「お店出せるんじゃないか?」と感動していたが、言葉にはしなかった。そういうことを素直に言うのは、まだ照れくさくて、俺には難しかった。

庭の雑草が増えてきたころ、嫁子がふいにこう言った。

「もし、草むしりとか……ご迷惑でなければ……一緒にやらせてもらえませんか?」

「いや、むしろ……ありがたいくらいです」

「……よかった」

日曜の朝、俺たちは並んでしゃがみ込み、無言で草を抜いた。

嫁子は何も言わず、ただ静かに手を動かしながら、ときどき目を細めてこはるの姿を追っていた。

こはるは庭の隅で猫と転がりながら、花の冠を作っていた。時折、「できたー!」と叫んでは、こちらに駆け寄ってくる。

俺の頭に、ぽすっとそれを乗せながら、得意げに笑う。

「おにーさん、プリンセス!」

「……いや、プリンスじゃなくて?」

「ちがうの、まほうのおひめさま!」

「……まあ、いいか……」

そう言いながら俺が笑うと、嫁子が「ふふっ」と小さく笑った。

ある日、保育園の先生が言ったらしい。

「こはるちゃん、最近とても明るくなりましたね。前よりずっと楽しそうで、よく笑うようになったって、みんな話してますよ」

嫁子がその話をしてくれたとき、うつむいたまま、こう言った。

「……私、母親として……ちゃんとできてるのかなって、ずっと悩んでたんです。こはるにまで、私の不安や怖さを移してしまってるんじゃないかって」

「……そうかもしれない。でも、俺から見たら、十分に頑張ってると思う。いや、むしろ頑張りすぎてるくらい」

「……」

「たまには誰かに頼ったって、いいんじゃないですか?」

俺のその言葉に、嫁子はしばらく黙っていた。

やがて、少しだけ顔を上げ、目を合わせてきた。

「……頼って、いいんですか? 私が?」

「うん。俺でよければ」

「……じゃあ、お言葉に甘えて……おにーさんの家の縁側、もう少しだけ、借りててもいいですか?」

「……もちろん。むしろ、そっちから来てもらえると、俺の心が保つ」

冗談めかして言うと、嫁子はくすっと笑いながら、小さく「じゃあ、ずっといさせてもらいます」と言った。

その声が、とても優しくて、穏やかで。

俺はこのとき初めて気づいた。

この家に“誰かがいること”が、こんなにも温かいなんて――。

縁側に嫁子とこはると猫。昼下がり、春の風に吹かれながら、三人と一匹でうたた寝をした。

誰にも見せられない顔で、俺は心の底から、思った。

「……ああ、俺にも、帰る場所ができたんだな」

自虐まみれで、失敗だらけで、いつも何かから逃げてばかりだった俺にも。
こうして、小さな誰かの“居場所”になることで、俺自身が“誰かの帰る場所”になれたんだと、初めて、静かに実感した。


第六章「春、満ちる」

四月の終わり、村では小さな春祭りが開かれた。

田んぼの神様に豊作を願う行事で、神社の境内には紅白の幕が張られ、手作りの屋台と地元の野菜が並ぶ。子どもたちは浴衣を着て走り回り、大人たちは笑いながら酒を酌み交わす――そんな、素朴であたたかい風景。

「おにーさん、いっしょにいこ!」

こはるが満面の笑みで手を引いてくる。ピンクの浴衣に、黄色い帯。髪は嫁子に結ってもらったのか、ふんわりと横にまとめられていた。

「……いいのか? 俺、こういうの……ほんと苦手で」

「だいじょうぶ! おにーさん、ママのこと守ってるから、つよいし!」

その一言で、俺は何も言えなくなった。

嫁子は少し遅れて現れた。落ち着いた薄紫の浴衣に、小さな花柄。いつもは地味な服装しか見なかったぶん、思わず息をのんだ。

「……似合ってます」

「……ありがとうございます」

互いに少し照れながらも、三人で神社の坂を上る。こはるはうきうきと先を歩き、俺と嫁子は並んで歩いた。

境内には、見慣れた村人たちの顔。こはるが「こんにちはー!」と元気に挨拶するたび、皆が「かわいいねぇ」と目を細める。

「あれ? こはるちゃん、今日はパパとママも一緒かい?」

八百屋の親父がニヤリと笑いながら声をかけた瞬間、場が一瞬止まった。

嫁子は凍りついたように目を伏せ、俺はどう返していいかわからなかった。

「……おにーさんは、おともだちなの!」

こはるがそう言って、俺の手をぎゅっと握った。

「でも、こはるね……ほんとは、パパだったらいいのになーって、おもうの」

その言葉は、あまりにも真っ直ぐすぎて、胸が痛くなった。

嫁子の肩がぴくりと震え、俺は咄嗟にこはるの頭をなでた。

「ありがとう。でもな、パパになるっていうのは、すっごくすっごく大事なことなんだ。だから、ちゃんと話し合って、ちゃんと決めなきゃいけないんだよ」

「うん……でも、こはるは、まちたい。がまんする!」

涙目でそう言うこはるに、俺は「えらいな」と心から思った。

祭の帰り道、嫁子はずっと無言だった。こはるは疲れたのか、俺の背中でぐっすり寝ていた。

静かな道。虫の声。遠くで花火が鳴った。

「……ごめんなさい」

ぽつりと、嫁子が言った。

「本当は、こんな風に他人を頼るつもりじゃなかったんです。誰かに期待したら、また裏切られるんじゃないかって……だから、ずっと一人で頑張ろうって決めてたのに……」

「……うん」

「でも、気づいたら……あなたに、甘えてました。こはるだけじゃなく、私まで」

その声は震えていた。俺は背中で眠るこはるの体温を感じながら、静かに言った。

「俺は、逃げてきたんだ。都会も、仕事も、人間関係も、全部から。だから、正直言って、偉そうなことは何も言えない。でも……」

言葉を切って、夜空を見上げた。

「でも、逃げた先で、君とこはるに会って、“逃げたままでも生きていい”って、そう思えた。俺も……甘えてるよ。君たちに」

嫁子はその場で足を止め、そっと頭を下げた。

「……ありがとう」

その一言に、どれだけの想いが詰まっていたのか。俺には全部はわからなかったけど、それでも――少しだけ、わかった気がした。

家に戻ると、縁側には猫が待っていた。こはるを布団に寝かせ、俺たちは静かに並んで座った。

風がやさしく吹いていた。縁側の木目がぬくもりを伝えてくる。

「……ここに、いていいですか?」

嫁子が小さな声で聞いてきた。

「ずっと?」

「……ずっと」

俺は、黙って頷いた。

その夜、月はまるで、俺たちの答えを祝福するように、優しく照っていた。


第七章「縁側にて」

春の終わり、空気はやわらかく、光はあたたかかった。庭には小さなタンポポとつくしが顔をのぞかせ、縁側の木の床は陽射しを吸い込んで、ぽかぽかと背中を押してくれるようだった。

縁側に座った俺の隣には、嫁子。そして、膝の上にはこはる。猫はいつものように陽だまりで丸くなっている。

「……おにーさん、こはるのパパにならないの?」

唐突にこはるが言った。小さな手が俺のシャツをつかんだ。

「……なれたら、うれしいよ」

「……こはる、ほんとは、ずーっとまえから、そう思ってたの」

俺はそっとこはるの頭をなでた。柔らかい髪が指に絡む。そのとき、嫁子が視線を落としながら、小さな声で言った。

「……わたし、あの日……この家の縁側で、こはるが無邪気に笑って、猫がのびてて……あなたがぼーっとしてるのを見たとき……」

「……うん」

「この人となら、“ふつうの毎日”を取り戻せるかもしれないって、初めて思えたんです」

「……そっか」

「でも、迷惑かなって。過去のこともあるし……私なんかが甘えていいのかなって。ずっと、そればかり考えてました」

「……俺もだよ。こんな俺に、誰かと暮らす資格なんてあるのかって、ずっと思ってた」

お互い、自信のない人間だった。傷ついた過去をひきずり、人を信じることに臆病で、自分を責めて、誰かに頼ることを避けてきた。

だからこそ、今、ここにこうして並んでいることが――どれだけ奇跡みたいなことか、よくわかっていた。

「……俺さ。最初、この家に引っ越してきたとき、“一人で生きていくしかない”って思ってた。誰にも迷惑かけずに、猫とだけ静かに暮らして、老後にひっそり消えればいいって」

「……わかります。私も、同じように思ってたから」

こはるは俺の膝でうとうとしている。スースーという寝息が小さく聞こえる。俺は、その子をそっと包むようにしながら、口を開いた。

「でも、気づいたんだ。誰かがそばにいるって、それだけで、人間って強くなれるって」

嫁子が、目を細めた。ほんのり涙が浮かんでいたけど、笑っていた。

「……ここに、いさせてください。こはると一緒に。……あなたと、一緒に」

俺は何も言わず、頷いた。言葉はいらなかった。

その日から、家の中に布団が増えた。子ども用の椅子、ぬいぐるみ、洗濯物の量も、笑い声も増えた。

俺は相変わらず人付き合いが苦手で、オタクで、自虐まみれのままだ。でも、そんな自分を「そのままでいい」と思ってくれる人たちが、今、すぐ隣にいる。

「ただいま」と言えば「おかえり」が返ってくる。
お茶を入れれば「ありがとう」と声が返る。
眠る前、「おやすみ」と言えば、誰かのぬくもりが返ってくる。

それが、俺にとっての“家族”だった。

春の終わり、縁側で猫がひなたぼっこをしている。こはるは絵を描き、嫁子は静かに洗濯物を干している。

俺は縁側に座り、ただそれを眺めている。

どこかで鳥が鳴く。風が庭の花を揺らす。
こんな何でもない日々が、どれほどかけがえのないものか。

「……これからも、ずっと一緒にいよう」

俺は誰にともなく呟いた。
その声を聞いて、猫が小さく「にゃあ」と鳴いた。

まるで「わかってるよ」とでも言うように。

春の縁側には、今日も小さな幸せが、満ちていた。


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