姿くらましって、どこでもできるんじゃないの?って思っちゃうよね

姿くらましって、どこでもできるんじゃないの?って思っちゃうよね

「できない場所がある」って、なんかズルくない?

『ハリー・ポッター』を読んでいると、「姿くらまし」がすごく便利な魔法に見えるよね。どこにでも一瞬で行けるし、逃げるときにも使えるし、敵からもサッと逃げられる。だけど、それってどこでも自由にできるわけじゃない。ホグワーツではできないって、ハーマイオニーもよく言ってたし、ダンブルドアもそのルールを大切にしてた。

でも、なんで「できない場所」があるんだろう?それって魔法のルール的におかしくない?って思うかもしれない。だけどそこには、ちゃんと理由があるんだよ。しかもその理由は、ただの設定じゃなくて、すごく大事な意味がこめられてる。


なぜホグワーツでは姿くらましができないの?

魔法の結界は、愛と恐れと知恵のバリア

ホグワーツはただの学校じゃないよね。魔法の歴史がギュッと詰まった、特別な場所。ここを守るために、歴代の校長たちが、ものすごく強い魔法の結界を張ってきたの。だから、外からも中からも「姿くらまし」ができない。これは「アンチ姿くらまし魔法(Anti-Apparition charm)」と呼ばれてて、ホグワーツ全体を包みこんでいるんだよ。

この魔法は、ただのセキュリティじゃない。生徒を守るための、信じる力と怖れの力。だって、もし自由に姿くらましができたら、スネイプみたいなスパイも簡単に出入りできるし、生徒が勝手に逃げちゃうかもしれない。危険から守るために、「できない」っていう制限があるの。これはちょっと母親が「ダメ!」っていうのと、ちょっと似てると思わない?


「呪いの子」でそれ、どうなってるの?

魔法は「できる」じゃなくて「どう使うか」

『ハリー・ポッターと呪いの子』では、時間移動や禁止された魔法の使用が問題になるよね。その中でも、「姿くらまし」に関してはあまり直接的には語られないけど、「制限」されてることが前提として物語が進んでる。

実際、ホグワーツへの出入りは依然として制限されていて、それを「破る」ことが物語のカギになるの。つまり、「できるけど、やっちゃいけない」「やろうとしたら、大きな代償がある」っていうルール。魔法は万能じゃないっていう世界観が、ここにも表れてるんだ。


作者が意図した「不自由さ」って、何のために?

魔法って、ただ便利な力じゃないんだよ

J.K.ローリングが描く魔法は、「なんでもできる」夢の力じゃなくて、「どう使うかで人が分かれる」ものなんだよね。だからこそ、「制限」や「不自由さ」がちゃんとあるの。姿くらましも、まさにその一つ。「逃げられる力」なのに、それをあえて使えないようにすることで、人の覚悟や信念が試される。

ハリーたちは、ホグワーツが「姿くらましできない場所」だからこそ、あの戦いに真正面から向き合わざるを得なかった。もし逃げられるなら、あんなに苦しい戦いに立ち向かえたかな?だから、「できない」という設定は、ハリーたちの成長を描くために、すごく意味があったと思うんだ。


「ファンタビ」では姿くらまし、自由じゃないの?

ニュートたちは、使う場所をすごく選んでる

『ファンタスティック・ビースト』では、大人の魔法使いたちがけっこう姿くらましを使ってるよね。ニュートもグリンデルバルドも、ピュンッと消えて現れる。でも、やっぱり使えない場所が出てくるの。

たとえば、魔法省の中や、ダンブルドアがいるホグワーツでは、やっぱり制限されてる描写がある。それってつまり、どれだけすごい魔法使いでも、「制限のある場所」では無理だってこと。魔法が強いとかじゃなくて、「どこでどう使うか」が大事なんだよね。

そして、ダンブルドアはその制限を逆に使って、罠を仕掛けたり、相手を閉じ込めたりするの。これは、魔法の使い方が「頭の良さ」や「経験」によって変わるっていう、ローリングらしい描き方だよね。


姿くらましができないって、逆にドラマを生んでたんだ

「逃げられない場所」に、物語の重みがあった

物語の中で一番グッとくる場面って、逃げられない中でどうするか、って場面だったと思わない?ホグワーツの戦いも、シリウスの死も、全部「すぐに逃げられない」「簡単に移動できない」状況だった。姿くらましが使えたら、あの感情の重さ、ぜんぶ吹き飛んじゃうよ。

だから、「姿くらましができない場所」っていうのは、物語に重みを与えるための仕掛けだったんだと思う。逃げずに向き合うこと、守るべき場所があること、魔法の限界があること。全部があってこそ、『ハリー・ポッター』の世界がリアルに感じられるようになってるんだよね。