なかさんってだれ?
ドラマで出てくる豊臣秀吉・秀長の母の名前
NHK大河ドラマ『豊臣兄弟!』などで登場する「なかさん」は、豊臣秀吉と秀長の母親を指します。ドラマの設定名として「なか」と呼ばれ、坂井真紀さんが演じる役です
歴史の中の「なか」とは?
本当にいた母親の呼び名
歴史の記録では、秀吉と秀長の母についてははっきりした個人名は残っていませんが、当時の文献や後世の伝承では「仲(なか)」と呼ばれることがあります。彼女は尾張(現在の愛知県あたり)の農家の出身とされ、若くして夫を亡くし、子どもたちを育てたと伝わります
のちの呼び名「大政所(おおまんどころ)」
秀吉が出世して関白や天下人の地位を得ると、母は「大政所(おおまんどころ)」と呼ばれるようになります。これは摂政や関白の母に対して使われる敬称で、当時の立場にふさわしい呼び方です。呼び名は変わりますが、もともと「なか」と呼ばれた母親本人を指しています。
なかさんの生い立ちと役割
若くして夫を失い、子を育てた
伝承では、なかさんは若いころに夫を亡くし、一人で秀吉(藤吉郎)や秀長(小一郎)らを育てたといいます。家は貧しく、苦しい日々もあったでしょう。しかし、子どもたちがそれぞれ武士として成長する下地を作った大切な存在とされます
子どもたちの活躍を見守った立場
秀吉が織田家に仕えるようになると、なかさんは田舎から都へ呼ばれ、子どもの活躍を遠くから支えたと伝わります。秀長も弟として秀吉を支え、大きな役割を担うに至りました。なかさんはその基盤を作ったと考えられます。
ドラマでのなかさんの描かれ方
家族をまとめる温かい母
『豊臣兄弟!』では、なかさんは夫を早くに失い、女手ひとつで二男二女を育てる人物として描かれます。息子たちの出世を喜びつつも、とまどいや不安を抱えながらも温かく見守る役どころです
物語上の見どころ
ドラマでは、秀吉と秀長だけでなく、姉妹たちとの関わりや、家族全体の心の葛藤が描かれます。その中で母である「なかさん」は、子どもたちの判断や行動に影響を与える存在として大事に描かれます。
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大政所ってどんな人だったのか
名前は伝わっているけど、記録はとても少ない
豊臣秀吉の母として知られている「大政所(おおまんどころ)」という人物は、名前だけが伝わっていて、その生涯の多くは今でもはっきりとはわかっていない。現代では「仲(なか)」という名前で呼ばれることがあるけれど、これは江戸時代以降に語られた説話や軍記物、あるいは系図類に登場する名前であって、当時の一次資料にこの名前が明記されているわけではない。だから、彼女の本当の名前が仲だったのか、それとも別の呼び方だったのかは断定できない。
ただ、関白という高い位についた秀吉の母ということで、京都に呼ばれたあとには「大政所」という尊称で呼ばれるようになる。この呼び名は、もともと摂政や関白といった朝廷の高官の母に与えられる呼称で、秀吉の母親であるという立場に由来するもの。したがって、「大政所」というのは個人の名前ではなく、ある種の地位をあらわす言葉だった。
彼女が生まれたのは、戦国時代の中頃。生年には諸説あるが、永正年間(1504年から1521年ごろ)という説が最も有力とされることが多い。場所についても確実なことはわかっていないが、秀吉の出生地とされる尾張国愛知郡中村(現在の名古屋市中村区)周辺のどこかだったのではないかとされる。
農民の娘だったのか、それとも低い身分の武士の家だったのか。これもはっきりしない。ただ、秀吉がのちに語った身の上話や、周囲の証言などを総合すると、大政所が貧しい家の出だったことはほぼ確かだと見られている。つまり、当時としてはごく普通の一般庶民の娘だった可能性が高い。
戦国時代の農村では、女性も男と同じように野良仕事をこなし、家事も担い、家を支えていた。とくに夫が戦死したり、流行病で亡くなったりすることも多かった時代なので、女手ひとつで子どもを育てる母親も珍しくなかった。大政所もそうした時代に生まれ、家族の生活を支えながら、いくつもの困難を乗り越えて生きてきた女性だったと考えられる。
彼女が最初に結婚した相手については、「木下弥右衛門(やえもん)」という人物だったという話が伝わっている。ただし、この人物についても詳しい記録はない。弥右衛門がどんな仕事をしていたのか、どんな家の出だったのか、そういったことは今のところ分かっていない。ただ、尾張国の下級武士、もしくは百姓身分だったという説が一般的である。
この木下弥右衛門とのあいだに生まれたのが、のちの豊臣秀吉。幼名は日吉丸。史料によっては他にも「木下藤吉郎」などとも呼ばれていた。秀吉が後年語ったところによると、子どものころは非常に貧しく、ワラジを編んで売るような暮らしをしていたという。そうした話が事実だとすれば、大政所がどれだけ苦労して息子を育てたかは、想像に難くない。
弥右衛門が亡くなった時期もはっきりしない。ただ、秀吉が幼いころにはすでに父を亡くしていたという点から、大政所は比較的若いうちに未亡人となり、それ以後は女手ひとつで家族を支えたと見られる。こうした境遇に置かれた女性は当時の日本では特別な存在ではなかったが、そこから天下人の母となったのは、大政所だけである。
秀吉以外にも、弟の秀長や、姉の朝日姫など複数の子がいたとされている。これらの子どもたちがすべて同じ父を持つのか、それとも大政所が再婚して生まれた子なのか、という点についても説が分かれる。とくに秀長については、再婚相手との子であるという見方もあるが、確実な史料がないため、断定することはできない。
大政所が、夫を失ったあとも家を守り、子どもたちを育て続けたことはほぼ間違いない。そして、長男の秀吉が徐々に出世していくと、母もその人生に巻き込まれる形で、戦国の表舞台に現れるようになる。
大政所はいつ都に呼ばれたのか
息子・秀吉が出世したあと、京へ呼ばれる
大政所が都(京)に移ったのは、秀吉が織田信長の家臣として活躍し、のちに関白という高い地位に就いたあととされている。
秀吉は、信長の死後すぐに台頭し、天正11年(1583年)には賤ヶ岳の戦いで柴田勝家を破り、織田政権内での実権を事実上握る。そして天正13年(1585年)には、朝廷から正式に関白に任命される。
その頃になると、秀吉は自分の正当性や家の格式を高めるために、自分の出自や家族にも配慮を見せはじめる。
それまで尾張の田舎で暮らしていた母・大政所を、都にある立派な屋敷へと呼び寄せたのもこの時期である。
呼ばれた理由にはいくつかある。ひとつは、豊臣家が天皇家に仕える地位(関白)を得たことによって、母もその立場にふさわしい場所で暮らすべきだと考えられたから。
もうひとつは、戦国時代において「家」がとても大事にされていたこと。豊臣家の母が都にいないのは体裁が悪い。秀吉が政権の中で家の重みを示すためにも、母の存在は都にあった方がよかった。
当時の記録によれば、大政所が移り住んだのは、聚楽第やその近くの屋敷だったとされる。そこには多くの女中たちが仕えており、日々の世話をし、衣食住すべてが整えられていた。
それまで農村で暮らしてきた彼女にとっては、まったく別の世界だったはずである。
都での暮らしはどんなものだったのか
御殿に住み、家臣がつき、周囲から敬われた
大政所の暮らしは、秀吉が整えた政治体制の中で、家族として最高の待遇を受けていた。
関白の母ということで、周囲からは自然と「大政所」と呼ばれるようになり、それにふさわしい屋敷が用意された。
日常の身の回りの世話はすべて女中や奉公人が行い、必要な衣服や食事は豊臣家から支給された。
さらに、礼儀作法に通じた者が付き添い、客の応対や訪問者とのやりとりも支えていたという。
戦国の農村出身だった彼女にとって、こうした形式ばった暮らしはとても気疲れするものだったかもしれないが、秀吉にとっては、母の立場を守るために必要なことだった。
当時の記録や書状には、大政所が都に住んでいたことを前提としたやりとりがいくつか残っている。たとえば、徳川家康と秀吉の間で交わされた人質に関する話の中で、大政所が交渉の一部にかかわったとされることもある。
これは政治的な意味での象徴的な動きであり、大政所という存在が政治の道具としても扱われていたことを示している。
大政所はほんとうに人質になったのか
戦を避けるため、母を差し出すことになった
天正14年(1586年)、秀吉は全国統一を目指す中で、まだ従わない有力大名たちとのあいだで慎重な交渉を進めていた。その中でも、徳川家康との関係は重要だった。家康は東国の有力者で、織田信長が本能寺で倒れたあとも独自の勢力を保っていた。秀吉にとっては、力で潰すこともできたかもしれないが、それよりも天下統一後の政権安定を考えて、交渉による和解を優先した。
その交渉の中で、家康を京に上らせ、朝廷から官位を与えるという形で臣従させることが決まる。しかし家康の側からすれば、京に行くことはつまり、秀吉の勢力圏に足を踏み入れることになる。つまり命の保証がない。そこで、秀吉は自分の母である大政所を人質として家康のもとに預けるという形をとることで、家康の不安を取り除こうとした。
大政所はその年の9月頃、駿府(現在の静岡市)に向かい、しばらく徳川家の管理下に入った。これはまさに戦国時代特有の「人質」のかたちであり、身内を差し出して信頼を得るという方法だった。秀吉は自分の立場を明確にするために、もっとも大切な存在である母を使った。
なぜ母を差し出すという方法だったのか
兄弟や家臣ではなく、母が選ばれた理由がある
戦国の外交では、ふつう人質には子どもや弟、あるいは家臣を使うことが多かった。しかし、秀吉の場合は少し事情がちがっていた。弟の秀長は政権を支える重要な存在だったし、実子はまだ確たる後継者とは言えず、養子の秀次は政務経験が浅かった。つまり、家の信用を担保できるほどの存在ではなかった。
秀吉の家で、もっとも信頼され、そして相手にも認められていたのが母だった。
大政所は、出自こそ低いが、関白の母という身分を得たあとには、全国に知られる人物となっていた。その大政所が直接出向くというのは、秀吉がどれほど誠意をもって家康に従わせたいと考えていたかの証となる。
そして家康の側も、大政所の来訪を受け入れることで、あからさまな服従ではなく、面子を保ったうえでの合意ができる。大政所の存在があったからこそ、このときの政治的交渉は円滑に進んだとも言える。
人質としての生活はどんなものだったのか
大名のもてなしを受ける、形だけの人質だったとも言われている
当時の記録には、大政所が駿府にいたときの様子が詳しく残っているわけではないが、強制されたものというよりは、形式的な人質だったと考えられている。
高齢だったこともあり、武力で拘束されたのではなく、名目として家康の庇護のもとに滞在していたという形であった可能性が高い。
滞在中には、家康側から手厚いもてなしが行われたと伝わっており、実際には安全な環境が確保されていた。秀吉もその間、母のもとに定期的に物資や衣服を送り、母の生活が不便にならないよう気を配っていた。
このように、大政所の人質という出来事は、戦国時代のなかでもとても特別な例として知られている。女性が、しかも母親が、政略の場に出されることはあまり多くなく、それだけ彼女が重要な意味を持っていたことを示している。
大政所は晩年どうすごしたのか
都での静かな暮らしと、息子たちのそばで過ごす日々
大政所が人質としての役目を終えたあと、京に戻ってからは、秀吉の手で用意された屋敷で落ち着いた生活を送るようになる。
この屋敷は、当時の上級武士や貴族と同じくらいの格式をもっており、召使いや女中も多くつけられていた。食事や衣服、日用品などもすべて用意され、なにひとつ不自由のない暮らしができるように整えられていた。
秀吉は忙しい政務のあいまを縫って、母のもとをたびたび訪ねていたとされる。また、弟の秀長も都に上るたびに挨拶に訪れたという記録があり、大政所は二人の息子の姿を見ながら、安心して日々を過ごしていたようである。
彼女自身が政治に口を出すことはなかったが、豊臣家のなかで母としての立場は確固たるものとなっていた。誰もが敬意を払って接し、家中でも重要な存在として扱われていた。武家社会では、母という存在は家の根を支えるものとされており、大政所の存在はまさにその中心だった。
亡くなったのはいつだったのか
文禄元年(1592年)、都の屋敷で静かに亡くなる
大政所が亡くなったのは、文禄元年(1592年)の春である。季節は春とされ、日付は4月27日とも言われている。享年については明確な記録がないが、70歳代後半、あるいは80歳に近かったと推測されている。
亡くなる直前には、体調を崩していたとされ、秀吉はその看病のために多くの人を屋敷に送り込んでいる。秀吉自身も、母の容体が悪化したと聞くと、政務を一時止めてまで見舞ったという話も残っている。
死に際して、母のそばで何が語られたのかは記録にないが、当時の秀吉にとって、大政所の死は心の支えを失うような出来事だったことは間違いない。彼はその後、政務の場でもふさぎ込むような様子を見せることがあったとも言われている。
法名や呼び方について
天瑞院や春岩という名前で呼ばれるようになる
大政所が亡くなったあと、彼女には出家者としての名前、いわゆる法名(ほうみょう)が与えられた。
その名は「春岩(しゅんがん)」であり、院号は「天瑞院(てんずいいん)」とされた。正式には「天瑞院殿春岩大姉」という形で記録されることが多い。
この呼び方は、仏教の世界における戒名にあたるもので、死者に敬意を表すためのもの。高位の人物には「院殿」「大姉」などの尊称が加えられることが多く、大政所もその例にもれず、豊臣政権の母としてふさわしい形で名が整えられた。
このような名前は、仏式の葬儀が行われたこと、そして死後も高い扱いを受けていたことを示している。
どこに葬られたのか
京都の建仁寺、そして高野山にも供養塔がある
大政所の遺体は、京都の建仁寺(けんにんじ)に葬られたとされている。建仁寺は、京都の東山にある禅宗の名刹であり、秀吉の時代には豊臣家のゆかりの寺として知られていた。
さらに、和歌山県の高野山にも、大政所のための供養塔が建てられている。高野山は真言宗の総本山で、当時から多くの武将や貴族が自分や家族の菩提を弔うために墓を建てていた場所。
豊臣家も多くの石塔や墓を寄進しており、大政所の供養塔もそのひとつとされる。
秀吉は、母の死後もその存在を忘れることなく、各地で法要を行い、供養を続けた。母を敬う気持ちは、死んだあとにも変わらなかったということだろう。
大政所って、家の中でどんな人だったの?
ふたりの息子を支えた“母”というしっかりした土台
大政所という人は、表に出て政治に関わったわけではありません。しかし、秀吉や秀長の人生を支える「家の根っこ」のような存在でした。
秀吉は出世しても、どれだけ地位が上がっても、母のことをずっと大事にし続けています。
これは、ただの親子関係ではなく、秀吉にとって大政所が“気持ちの拠りどころ”だったからだと思われます。
また、家臣たちも「大政所さまに失礼のないように」と考えて行動していたといわれており、家の中では「誰もが頭を下げる人」だったのです。
武家社会では、家の母親がしっかりしていると家が安定するとされており、大政所はまさにその「安定」の中心にいたのだと思われます。
政治には関わっていなかったの?
表には出ないけれど、大事な場面ではしっかりと動いていた
大政所自身が政治の場に出て発言することはなかったようです。ただし、重要な時期に人質として動いたり、使者を受け入れたりと、“裏から支える”役割は確実に果たしていました。
たとえば、信長との関係が不安定だったころ、秀吉は母を人質として出すことで信頼を得ました。この行動があったからこそ、秀吉は軍を率いる立場になれたとも言われています。
また、京都に住むようになってからは、朝廷の関係者や公家が屋敷を訪ねてくることもあったとされ、大政所の存在そのものが「豊臣家はしっかりした家ですよ」と示すものになっていたのです。
家臣やまわりの人は、大政所のことをどう見ていたのか
優しくて、でも威厳のある人だったと伝わっている
直接の記録は少ないですが、家臣や女中たちの間では「大政所さまは、気さくで話しかけやすいけれど、芯がある方」と伝わっています。
なにかを決めるときには出すぎず、でも必要なときにはしっかり意見を言う。そういう“奥に力を持った人”だったようです。
たとえば、秀吉が調子に乗りすぎたときには「ほどほどになさい」と軽くたしなめるようなやり取りがあったという逸話もあります。
それを秀吉が怒ることもなく、「母に言われるとたしかにそうだな」と納得したという話も残っています。
大名の母という立場ながらも、気取ったり、権威をふりかざしたりしなかったことが、家中の人々から信頼されていた理由かもしれません。
豊臣家にとっての“大政所”という存在の重さ
家の“顔”であり、“安心の柱”だった
戦国の世では、家族や血筋というものがとても大切にされました。とくに、天下を取った家では「母親がどんな人か」ということまで、国中の人が気にするようになります。
大政所は、信長・家康・朝廷など、すべての相手から「豊臣家の母」として名が知られていました。
このことは、豊臣家にとっての信用力にもつながり、彼女の存在がまるで“家紋”のような役目を果たしていたとも言えます。
秀吉があれだけの地位にのぼりつめたあとも、母を大切に扱い、屋敷を与え、法要を欠かさず続けたのは、個人的な愛情だけではなく、「豊臣家の支え」という意味があったからです。
秀吉はどうして、あんなに母を大事にしたの?
ふたりにしかわからない“苦労の記憶”があった
秀吉が母・大政所をとても大切にしたのは、単なる親子愛だけではありません。
それは「一緒に乗り越えてきた貧しさや苦しさ」が、ふたりの間に強いきずなを生んでいたからだと思われます。
まだ藤吉郎と呼ばれていた少年のころ、秀吉の家はとても貧しく、働きに出ていた母もなかなか子どもをかまう余裕がなかったはずです。
そんな中でも、大政所は「人に迷惑をかけないように」「礼儀を忘れないように」といった育て方をしていたと考えられています。
その“心の育て方”があったからこそ、秀吉はどんなに出世しても、ふるまいを乱さず、目上の人への礼も忘れなかったのです。
母との距離が近かった秀吉の人柄
人のぬくもりに敏感だったからこそ、母を頼った
秀吉は、いわゆる「知略の人」であると同時に、「人の気持ちに敏感な人」でもありました。
家臣や町人に対して優しく接したり、相手の気持ちを読むのが上手だったりしたのは、母から教わった“気づかい”がもとにあるのではないかと考えられます。
大政所は、けっして口うるさいタイプではなかったとされますが、秀吉がくじけそうになった時や、不安を抱えた時には、そっと背中を支えるような存在だったようです。
戦場から送られた手紙にも、「母が元気でいてくれれば、それだけで力が出る」といった内容が多く見られ、秀吉にとって母は「戦う理由そのもの」だったとも言えます。
秀吉は母の死をどう受け止めたか
天下人になっても、息子の気持ちは変わらなかった
大政所が亡くなったのは、文禄元年(1592年)、京都の邸宅にてでした。
この時、秀吉は朝鮮出兵のことで忙しくしていたものの、母の死を聞いて深く嘆き、「しばらく何も手につかなかった」と言われています。
大政所の葬儀は、京都でとても大きく行われました。
これは「天下人の母」という形式のためだけではなく、秀吉自身の「母をしっかり送りたい」という強い思いが反映された形でした。
また、その後も大政所の供養は毎年欠かされず、秀吉は母を敬う姿勢を一切崩していません。
その様子は、まるで「生きているうちは甘えることができなかったけれど、だからこそ大切にする」というような、息子らしいやさしさを感じさせます。
おかあさんがいなくなったあと、家の中はどうなったの?
大政所がいたから、みんな落ち着いていられた
大政所が生きていたころ、豊臣家の中では、家族それぞれが多少の意見の違いや不満を持っていても、最終的には「母上の顔を立てて」と折り合いをつける空気がありました。
秀吉と淀殿(茶々)との間の緊張感や、秀吉と弟・秀長の意見の違いなども、「おかあさんが悲しむから」と落ち着いた形でおさまることが多かったようです。
つまり、大政所は“家庭の中の調整役”として、強い影響を持っていたのです。
でもその大政所が亡くなると、その「誰も逆らえないけれど、あたたかい調整役」がいなくなってしまいました。
大政所がいないと、秀吉はどう変わった?
叱ってくれる人がいなくなった不安と、迷い
大政所が亡くなってからの秀吉は、表面上は変わらないように見えて、実際は「だれも止められなくなった人」になっていったとも言われます。
たとえば、朝鮮への出兵を続けたことや、周囲の人々の声を聞きにくくなったことなどがそれにあたります。
それまでは、母に対して「やりすぎじゃないか?」と言われたくないから自重していたような部分が、遠慮なくなってしまったのです。
また、母を失って以降の秀吉の手紙や行動には、心細さや焦りのようなものもにじんでおり、「なにをしても満たされない」ような様子さえ見られました。
豊臣家の空気が変わってしまった理由
“あたりまえの安心”が消えてしまった家の中
大政所がいたころは、豊臣家にはどこか「家族っぽいあたたかさ」が残っていました。
それが失われたのは、大政所の死が「安心できる場所の消失」だったからだと考えられます。
秀長もすでに亡くなっており、秀吉のそばで心を許せる相手は、もはやほとんどいなかったとも言われます。
淀殿との関係も、「実の母」のような遠慮のなさややさしさはなく、政治的な立場の緊張をともなうものでした。
その結果、秀吉は「自分だけで国を守らなければならない」と思いつめてしまい、どんどん孤独になっていったのです。
おかあさんがいなくなってから、家の中で起きたこと
淀殿が前に出てくるようになった
大政所が亡くなってから、家の中で一番強い立場になったのは淀殿(よどどの)でした。
淀殿は秀吉の側室で、秀頼(ひでより)という息子の母親でもあります。
それまでは、大政所という“本当のおかあさん”がいたため、淀殿が自由にふるまうことには遠慮がありました。
でもその存在がいなくなったことで、淀殿は家の中でどんどん発言力を強めていきました。
家のことだけでなく、政治のことにも関わるようになり、「淀殿の家」という雰囲気が少しずつ広がっていきました。
家族のバランスがくずれていった理由
みんながそれぞれ自分の立場を守るようになった
大政所がいたころは、家族それぞれが「みんなで豊臣の家を守ろう」と同じ方向を向いていました。
でも、彼女がいなくなると、みんながそれぞれ「自分の役目を守ろう」として、バラバラになっていったように見えます。
たとえば、政治の場面では石田三成のような官僚タイプが前に出てきて、武将たちとの間に溝が生まれました。
また、徳川家康など他の大名たちも「秀吉のあとの世」を見すえて動き出しました。
家庭の中も、政治の中も、「一本の柱」がなくなって、不安定になっていったのです。
おかあさんがいないことで、秀吉の判断にも変化が
やさしく止めてくれる人が、いなかった
大政所が生きていたころ、秀吉は「母に恥ずかしくないようにふるまおう」と、無理を押さえていた部分がありました。
しかし、その歯止めがなくなってからは、秀吉の判断にも「やりすぎ」や「急ぎすぎ」が見られるようになりました。
特に、朝鮮出兵の長期化や、秀頼を守るための無理な後継ぎ準備は、「母のいない寂しさ」が影響していたと見る説もあります。
年齢的な衰えも重なり、「冷静な判断をしにくくなっていた」と言われることもあります。
おかあさんというだけじゃない、大政所の大きな存在
家族をつなぐ「心のよりどころ」だった
大政所(おおまんどころ)は、ただの「秀吉の母」という立場ではありませんでした。
彼女は、豊臣家の人たちが心の中で頼っていた、大きな安心のもとでした。
秀吉が天下人としてどれだけ偉くなっても、母の前ではただの「子ども」になれました。
家族みんなも、「大政所に恥ずかしくないようにしよう」と思い、争いをおさえたり、言いすぎを控えたりしていたのです。
家のなかでも、政治の場でも、強くてやさしい母の力があった
誰よりも信じられる人として、みんなにとって大切な存在だった
戦国時代という、裏切りや争いの多い時代でも、大政所のまわりには「疑い」や「争い」があまりありませんでした。
それは、彼女がいつもまっすぐで、人の気持ちをだいじにしたからです。
朝鮮にいた秀次に手紙を送ったときも、怒るのではなく心配し、「無理をしないように」と気づかっていました。
それを読んだ秀次が泣いた、という話もあります。
そんなふうに、「人の心にちゃんと寄りそうことができる母」として、豊臣の家を支えていたのです。
豊臣家のあとの世に、足りなかったもの
大政所のような「心で支える人」がいなくなった
秀吉の死後、豊臣家の中は対立や不信がふえ、やがて関ヶ原の戦いへと向かっていきました。
その過程で、「みんなを安心させ、気持ちをまとめる人」がいなかったことが、大きな原因のひとつだとも言われています。
もし大政所がもう少し生きていたら、また違った未来があったのではないか。
そんなふうに考える歴史家も少なくありません。
豊臣家にとって、「大政所の死」は、見えない柱を失うような出来事だったのです。