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はっくなび
「公園のベンチで、君に会った日から」|2ちゃん馴れ初め風エピソードまとめ登場人物
● 主人公「俺」
- 年齢:30代前半
- 性格:卑屈・ネガティブ・根暗・人と関わるのが苦手
- 趣味:2ちゃんねるを延々と読むこと、ネットで愚痴をこぼすこと
- 現状:ブラック企業で心をすり減らし、上司とのトラブルで退職。今は無職。
- 習慣:毎日同じ時間、公園で一人ベンチに座って過ごす
● 相手「嫁子」
- 年齢:20代後半~30代前半
- 外見:出会ったときは化粧っ気もなく服装も適当。疲れきっているが整った顔立ち
- 性格:控えめで少し気弱。けれど娘の前では強くあろうとする。
- 状況:2歳の娘を育てるシングルマザー。過去の話は多くを語らないが、何かから逃げてきたような雰囲気。
- 変化:主人公との交流を経て、心にゆとりが生まれ、少しずつ垢抜けていく。
● 娘(愛称:「ちい」)
- 年齢:2歳
- 特徴:無邪気で好奇心旺盛だが、人見知り。だが「俺」にはなぜか懐く
- 存在感:物語の癒しであり、緩衝材でもあり、橋渡し的役割を果たす
● その他の登場人物(
- 古株のホームレス(仮名:タケさん)…公園のベンチ仲間。人生の達人。
- 嫁子の職場の同僚(仮名:田村さん)…何気なく背中を押す人物。
- 主人公の元上司(回想・再登場)…自己肯定感を打ち砕いた元凶。
- 保育士(仮名:さや先生)…ちいの保育園の先生。親子の絆の象徴。
壊れた時計と、公園の午後
――気がついたら、またベンチにいた。
時間の感覚はとっくにおかしくなっている。起きて、飯食って、なんとなくPC開いて、くだらないまとめサイトを何本か読んで、ふと気づけば昼を過ぎている。そこから足が勝手に向かうのは、近所の市営公園だ。
ベンチの木肌は冷たくて、ちょっとだけ湿っぽい。背もたれにもたれかかると、ギシ、と地味な音がする。けれどもう慣れた。なんなら、そのギシ音が聞こえないと落ち着かないまである。俺は今日もここにいる。誰に求められてるわけでもないのに、日課のように。無職三週間目。もう笑うしかない。
前の会社を辞めた理由は簡単だ。上司とぶつかった。それだけ。でもそれだけが、すべてだった。たかがメールの誤送信で、客先に怒鳴りこまれ、なぜか俺だけが吊るされ、丸一日謝罪メールと土下座の電話。疲れて「やってらんねえな」って思った瞬間、目の前の景色がモノクロに変わったような気がした。そっから、なにもかも、どうでもよくなった。
「働く意味ってなんだよ」
そう呟きながらも、俺の指はスマホで『社畜 末路』とか『無職 再就職率』とかを検索してる。自分でも情けないと思う。でも、なんだろう。ちょっとした自傷行為みたいなもんでさ、自分のことを追い込むことで「まだマシ」って思いたいだけなんだ。
そのときだった。
砂場の方から、ふと笑い声が聞こえた。甲高くて、小さくて、でも妙に耳に残る。俺は顔を上げる。
ひとりの女の子が、ブランコのチェーンに手をかけてぶら下がっていた。歳は……たぶん、2歳か3歳くらい。服はピンクのワンピース。小さなリュックには、アンパンマンの顔がでかでかと刺繍されてる。
「……誰もいねぇじゃん」
周りを見渡したけど、近くに保護者の姿はない。公園のベンチは俺以外に一人。少し離れた位置で、項垂れるように座っている女性が見えた。髪は乱れていて、顔色も悪くて、マスクでほとんど隠れていたけど、その姿勢だけで「もう限界です」と語っているようだった。
ああ、あの子の母親か。
そう思ったとき、女の子が靴を片方脱いで、砂場の縁に足を取られて、グラッと体勢を崩した。
俺の体が勝手に動いてた。
「おっと、危ない!」
間一髪、転ぶ前に抱きとめる。軽い。こんなに軽いもんか。子どもって。
「だいじょうぶ……?」
女の子は、ポカンとしていたけど、すぐに「うん」とうなずいて、小さく笑った。その笑顔が、なんだか脳にこびりつく。あったかくて、でも切なくて。俺なんかがこんな子に触れていいのかって思って、手を離した。
「ちいっ……!ちいーっ!!」
母親らしき女性が、ようやく気づいたように駆け寄ってきた。近くで見ると、やっぱり疲れてる。目元にクマ、爪もボロボロ。でも、綺麗な顔立ちだった。鼻筋がすっと通ってて、髪を整えればモデルみたいになりそうなのに、今はただ「しんどい」の塊みたいだった。
「すみません!ほんとすみません……!」
「いや、俺が勝手に……。あの、怪我とかは……」
「ちい、ありがとう言って。おじちゃんに……」
おじちゃん、か。
まあ、そうだな。もうお兄さんじゃないよな、俺。
「ありがと、おじちゃん!」
無邪気な声に、俺はなぜか固まった。ありがとうなんて、いつ以来、言われたろう。
それが、最初の出会いだった。
それから、また日々が流れる。
無職な俺にとって、時間だけは腐るほどあった。そして気づくと、また同じ時間、同じ公園の同じベンチに座っていた。まるで、壊れた時計の針が、毎日決まった時間だけ動くみたいに。
そして――
再び、あの親子に出会った。
名前も知らない、けれど気になる
――それから三日。もしかしたら四日だったかもしれない。
また、同じ時間にあの親子が現れた。
小さな女の子――たしか「ちい」って呼ばれてた。ちいは相変わらずアンパンマンのリュックを背負ってて、今日はやたらとテンションが高い。スキップみたいなステップで滑り台に突進してった。足元が危なっかしい。前も見てない。
俺は、またベンチにいた。昨日もいたし、たぶん明日もいる。
でもその日は、なんだかちょっとだけ、座り方が違っていた。
姿勢を正してた。スマホも見てなかった。
嫁子(まだ名前も知らない)は、ちいが遊びだすと、またベンチに座って下を向いた。
でも、ふと俺に気づくと、小さく会釈した。
……会釈、されたぞ?
なんか久しぶりだった、人間にちゃんと会釈されたの。
スーパーのレジ係ですら、俺の顔なんて見てこないのに。
俺はあたふたしながら、ぎこちなく頭を下げ返した。
「おじちゃーん!」
ちいがこっちを見て、手を振った。
その瞬間、嫁子の顔がハッとして、ちいに小声で何か言った。
たぶん「こら、やめなさい」的なやつ。でも、ちいは笑ってた。
不思議と、俺は嫌な気分にならなかった。
昔なら「子どもが苦手なんで」って目を逸らしたはずだ。
けど、なんでか分からないけど、ちいの顔を見てると、妙に落ち着く。
「……あの、先日はありがとうございました」
嫁子が、俺のベンチに近づいてきた。正直、ちょっとびびった。
「あ、いや、全然、大したことしてないんで」
「いえ、ほんとに……。あの子、すぐどっか行っちゃうから、私……気を張ってなきゃなのに、気が抜けてて……」
小声で、途切れ途切れに話すその声は、なんていうか、壊れたシャワーみたいだった。一定じゃないし、急に止まりそう。でも、そのたびに必死で続けようとしてるのがわかった。
「ちいって、呼んでましたよね。かわいい名前ですね」
自分でも意外だった。俺がそんな言葉を口にするなんて。
たぶん、嫁子も驚いてた。けど、少しだけ笑って、うなずいた。
「……ちい、って呼ばせてるだけで、ほんとは違うんです。もっと長い名前なんですけど、あの子、自分で言えなくて」
「へえ……。でも、似合ってますよ。ちいちゃん」
「……ありがとうございます」
沈黙が落ちた。でも、重たくなかった。
なんか、ゆるい風が間を埋めてくれてるような感じ。
俺は、この沈黙を壊すのが惜しくて、何も言えなかった。
ちいがまたブランコに走っていくのを、二人で並んで見ていた。
まるで夫婦みたいだな、とか思った自分を、心の中で蹴った。
なに勝手に距離感つめてんだよ。自意識過剰か。馬鹿か俺は。
「……いつもこの時間に来てるんですか?」
俺は、なるべく自然を装って尋ねた。実際、俺が気になってたのはそこだった。
また会えるのか。それだけが、どうしようもなく知りたかった。
嫁子は少し首をかしげたあと、うなずいた。
「……仕事が終わるの、だいたいお昼なんです。それで、ちいが『公園いく!』って……。でも、ほんとは帰ってお昼寝してくれると助かるんですけどね」
「はは、それでも付き合ってあげるんですね。えらい」
「えらくないです……。ほんとは、私が休みたいだけなんです」
その言葉に、俺は少しだけ胸をつかれた。
たぶん、俺と同じだ。疲れてて、何も考えたくなくて。
だから、空があって、誰にも邪魔されない場所に逃げてくる。
「ここ、いいですよね。……なにもないから」
「……はい」
俺たちは、それ以上なにも言わなかった。
ただ、ちいの笑い声が遠くから響いていた。
帰り際、ちいがまた俺に手を振ってくれた。
「ばいばーい、おじちゃん!」って。
嫁子は恥ずかしそうに会釈して、小さく「すみません」と言ったけど、
俺は「いえ、また」とだけ言って、手を振り返した。
――また、ってなんだよ。
また会いたいのか?
誰に?あの子に? それとも、母親のほうに?
自分に問うても、答えは出なかった。
ただ一つだけ分かったのは、
その日、家に帰っても、まとめサイトを開く気にはなれなかったこと。
俺の中の時計が、ほんの少しだけ、動いた気がした。
会話が増えて、季節が変わった
あれから、気づけば一ヶ月以上が経っていた。
公園に通うのが「日課」から「約束」になったような感覚。
あの親子と会うたびに、ちょっとだけ自分がまともな人間に戻った気がした。
もちろん、相変わらず仕事はしていない。履歴書は送るふりだけして、空メールで自分を納得させていた。けれど、それでも――誰かに「会いに行く」理由がある日々は、どこか救いだった。
嫁子とも、少しずつ話すようになっていた。
最初の頃は、ほんの二言三言だったのが、今では天気の話、ちいの好きなアニメの話、仕事の愚痴なんかもポロッと出てくるようになった。
とはいえ、俺はあいかわらずネガティブなままだ。会話の最中に、自分の言葉が余計だったんじゃないかと反省する癖も抜けない。嫁子が沈黙すると「うわ、またやった……」と心の中で何度も頭を抱える。
だけど不思議と、嫁子はそれを気にする様子はなかった。
俺が何を言っても、ちゃんと受け止めて、時に笑ってくれた。
それが、すごく新鮮だった。
「ちい、今日も帰りたくないって言いだすんですよ」
「いや、それはちいの定番パターンになってますね」
「でも、ほんとに帰らないと私の体力が……。昨日なんて、お風呂入ったまま寝てました」
「それ……溺れませんでしたか?」
「ちょっと危なかったです……」
そう言って笑った嫁子の顔は、最初に出会った頃とは違っていた。
頬にうっすら血色が戻っていて、目元に力がある。
化粧はしていないけど、髪をきちんと結っていた。
「……今日、なんか印象違いますね」
「あ、やっぱり分かります? ……髪、切ったんです」
「……似合ってます」
言ってから、死ぬほど恥ずかしくなった。
でも、嫁子は顔を赤くしながら「ありがとうございます」と返してくれた。
なんだこれ、青春か。俺30過ぎてんぞ。
でも、心の奥のほうがくすぐったくて、どうしようもなかった。
その日は、嫁子が作った手作りおにぎりをもらった。
ちいが「おじちゃんの分も!」って渡してくれた。
嬉しさよりも、申し訳なさが勝った。けど、それでも断れなかった。
中身は梅と昆布。ちょっとだけ、涙が出そうになった。
「……俺も、今度なんか作ってきますね」
「えっ……!」
「たぶん、コンビニの冷食チンするだけですけど」
「ふふ、楽しみにしてます」
それを聞いて、ちいが「やったー!」と飛び跳ねた。
家に帰って、冷蔵庫を開ける。
腐りかけの卵と、パックの納豆しかない。
でも、その日俺はスーパーに行った。久しぶりに、ちゃんと買い物した。
弁当箱も、100均で買った。ちょっと恥ずかしかったけど、別にいい。
誰に見栄を張る必要もないんだから。
次の日、俺は唐揚げと卵焼きを詰めた簡単な弁当を持っていった。
白いご飯の上に、のりで顔を描いたやつ。
最初は自分で「小学生かよ」と自嘲したけど、嫁子は笑ってくれた。
ちいは「かわいい!」って言って、唐揚げを真っ先にかじった。
その日、ベンチにひとりの男が座っていた。
服はボロボロ、髪は白髪混じり。目は細く、無口そうな雰囲気。
俺が何気なく挨拶すると、彼はコクンとうなずいた。
「最近、あの子たち、よく来るようになったな」
「……え、あ、はい」
「いいことだ。ああいう子たちは、陽だまりみたいなもんだからな」
「陽だまり……」
「お前も、少しずつあったまってきてるよ」
そう言って、タケさん(後にそう呼ぶようになる)は、また黙った。
その言葉が、ずっと胸に残った。
季節は変わっていた。
いつの間にか、空気がやわらかくなって、風に春の匂いが混じっていた。
俺は、あの冬の自分と、少しだけ違っていた。
最初の告白と、最後の拒絶
春が本格的に訪れ、ベンチの背に差し込む陽射しがじんわりと暖かくなってきた頃。
俺は、少しずつだが確実に、自分の生活に「色」が戻ってきていることを感じていた。
履歴書も送るようになった。受かる気はないけど、書類をプリントするだけで、前よりはマシだと思えるようになった。
スマホを見る時間も減った。代わりに、毎日ちいと話す時間が増えた。
嫁子も、前より冗談を言うようになっていた。
前は顔を伏せて小さく笑うだけだったのが、最近は口元を緩めて、ちゃんと笑い声が出るようになっていた。
それだけで、俺は胸の中が満たされていった。
――そろそろ、ちゃんと伝えよう。
そう思ったのは、唐突だった。
きっかけがあったわけじゃない。ただ、ある日の帰り際、ちいが俺の手をぎゅっと握って「パパだったらいいのに」と言った。
冗談交じりだったのか、本気だったのか、分からない。
でも、その言葉が、心の中に根を下ろして離れなかった。
俺はその日、いつもより少しだけおしゃれなシャツを着た。
朝から鏡の前で整髪料をいじくって、普段は絶対履かない革靴を履いた。自分でも笑えてくる。でも、そうせずにはいられなかった。
公園につくと、ちいは俺の姿を見つけて、笑いながら走ってきた。
嫁子も、少し遠くから気づいたように手を振った。
弁当を広げて、他愛ない会話をしながら、何度もタイミングを見計らう。
言おうとしては飲み込み、ちいの声に助けられたふりをしてごまかし……を何度も繰り返して。
ようやく、ちいが昼寝を始めた午後。
ベンチの右側に座った嫁子の肩に、少しだけ陽が差していた。
「……あのさ」
自然に出たわけじゃない。むしろ、口の中がカラカラだった。
でも、もう引き返せなかった。
「俺さ、最近……ちょっとだけ、頑張れてるの、たぶん……嫁子さんのおかげ、なんだよね」
嫁子は、きょとんとした顔でこっちを見た。
俺は、視線を逸らさずに続けた。
「毎日、ちいに会うのも嬉しいし、嫁子さんと話すのが、楽しくて……。こんな俺でも、人と関わってていいのかなって、思えるようになった」
「……」
「だから、あの……俺、嫁子さんのこと、好きです」
しばらく、沈黙が流れた。
その沈黙が、どれほど冷たく、重かったか。
少し前まで春の風だったはずの空気が、一瞬にして冬に逆戻りした気がした。
嫁子は、俺の方を見ていなかった。
うつむいて、何かをこらえるように唇を噛んでいた。
「……そんなの、困ります」
小さな声だった。でも、はっきりと聞こえた。
「私、そんな余裕ないんです。仕事もギリギリ、育児もギリギリ。やっと今日を生きてるだけで精一杯なんです」
「……ごめん」
「違うんです、謝らないでください。……私の方が、ごめんなさい」
「……」
「俺さん、優しいから。ちいにもよくしてくれて……。でも、だからこそ、私は……怖いです。期待されたり、応えなきゃいけないって思うのが……もう、しんどいんです」
そう言って、嫁子は泣きそうな顔をしていた。
でも、涙はこぼれなかった。
代わりに、顔を伏せたまま、ちいをそっと抱きかかえた。
「今日は、帰ります。……ごめんなさい」
何度も「ごめんなさい」を繰り返しながら、嫁子はちいを連れて去っていった。
俺は、何もできなかった。立ち上がることも、呼び止めることも。
ベンチだけが、俺を置き去りにして残った。
帰り道、スマホを開く。
昔みたいに、また2ちゃんのまとめを読み始めた。
スレタイは「人生終了した奴集まれ」「無職のまま30代突入したけど質問ある?」みたいな、救いのないやつばかり。
だけど、なぜか、どれもピンとこなかった。
俺はたしかに今、傷ついてる。
でも、それが、ただの絶望とは違うこともわかってた。
その夜、俺のポストに、一枚の紙が入っていた。
ちいの描いた、俺の似顔絵。
ぐちゃぐちゃのクレヨンで描かれたそれには、大きな笑顔があって、
隅には、ひらがなで「おじちゃんありがとう」と書いてあった。
泣きたくなった。
けど、それ以上に、もう一度、会いたいと思った。
俺はまた、あの公園に行こうと思った。
明日も、あさっても、その先も。
会えるか分からなくても。
あのベンチに、誰もいなくても。
それでも、俺は――
誰かを、ちゃんと好きになれた自分を、もう一度信じてみたかった。
心に残った日々のかけら
それから、十日が経った。
あの日から、嫁子は姿を見せなかった。
ちいの絵だけが、ポストに残されたまま、俺の部屋の壁にピンでとめられている。
朝起きても、昼がきても、夜になっても、
心のどこかがぽっかりと空いたままだった。
公園のベンチには通い続けた。
日差しが強くなり、ベンチの座面も熱を持つようになった。
ちいの声もしない、嫁子の気配もしないベンチは、ただ静かで、寂しかった。
スマホの通知は鳴らなかった。
連絡先は知っている。でも、自分からは送れなかった。
あの日、あれだけの拒絶をされたあとで、もう迷惑にはなりたくなかった。
だけど――
心の中には、あの人の表情が、ずっと残っていた。
「私、そんな余裕ないんです」
その言葉は、今なら少しだけ分かる気がする。
きっと、あれは拒絶じゃなかった。
誰かの好意を受け止めきれないことが、どれほど苦しいかを、俺は分かっていなかった。
俺は、またベンチに座った。
ポケットから、折りたたんだ履歴書を取り出して、じっと見る。
名前も、職歴も、空白が多すぎて、笑えるような紙切れ。
でも、それでも俺は、ちゃんと書いた。それが初めてだった。
そのときだった。
ポケットの中でスマホが震えた。
通知は、メールだった。差出人は――嫁子。
胸が跳ねた。思わず息が止まった。
震える指で、メールを開く。
件名:お久しぶりです
本文:
こんにちは。あれから、公園に行くのを避けてしまっていて、ごめんなさい。
ちいは、毎日「おじちゃんに会いたい」と言っています。
あのとき、ちゃんと話せなくてごめんなさい。
あの言葉を言ったあと、私もずっと後悔していました。
でも、ひとつだけ、今はちゃんと伝えたいことがあります。
もし、よければ、またお会いしたいです。
ベンチの場所、明日の午後、行きます。
よかったら――そのときに、また話せませんか?
メールを読み終えたあと、俺はベンチの背にもたれながら、しばらく動けなかった。
頭の中が真っ白で、でも、心はぎゅうっと温かくなっていた。
そして、次の日。
俺はシャツを着替えて、髪を整えて、また公園に向かった。
ベンチには、先に嫁子がいた。
ちいは、少し遠くで遊んでいた。俺を見つけると、にこーっと笑って手を振った。
「……久しぶりです」
嫁子はそう言って、目を伏せた。
「うん。久しぶり」
「……あの、急に会いたいなんて言って、すみません」
「ううん、来てくれて、嬉しいよ」
二人の間に、風が吹いた。
春の終わりの、やわらかい風だった。
「前に、ああいうふうに言ってしまって……本当に、申し訳なかったです」
「ううん。俺のほうこそ……急ぎすぎた。勝手だった」
「……でもね」
嫁子は顔を上げて、俺を見た。
前よりも、少しだけ目元がすっきりしていた。
「もう一回……ちゃんと向き合いたいって、思いました。あなたと」
俺は、返す言葉が見つからなかった。
胸がいっぱいになって、呼吸がうまくできなかった。
「ちいも、あなたに会いたがってて……。それを聞いたときに、私、自分が何を怖がってたのか、やっと気づいたんです」
「……なにを?」
「誰かに優しくされることが、こわかったんです。
誰かに頼ってしまったら、また失うんじゃないかって」
嫁子の声が震えていた。
でも、ちゃんと前を向いていた。
「私、まだ余裕はないです。仕事も、育児も、毎日必死です。
でも、それでも……あなたの隣に、いられたらって思ったんです。
強くならなくてもいいなら。ちゃんと、弱いままでいられるなら」
俺はうなずいた。言葉よりも先に、心が頷いていた。
「……俺も、強くない。でも、となりにいたい。ちゃんと、向き合いたい」
嫁子は、小さく笑った。
その笑顔は、あの日見た、疲れ切った彼女の面影を、完全に塗り替えていた。
ちいが走ってきた。「おじちゃーん!」と叫びながら。
そして、俺の足に抱きついた。
「また会えたー! もう帰っちゃだめだよ?」
俺はしゃがんで、ちいの頭をなでた。
「うん、帰らないよ。ずっと、いるから」
ベンチの上に、あのときの唐揚げ弁当が思い浮かんだ。
ぎこちないのり弁。
それでも、また作ろうと思えた。
ここから始めたいと思えた。
ささやかな式と、ちゃんとした未来
それからの日々は、急に加速していった。
嫁子とは毎日のように会った。
以前と違って、公園だけじゃない。駅の近くのファミレスで夕飯を食べたり、ちいを保育園に迎えに行ったり。
嫁子の家に行くようになったのは、ほんの自然な流れだった。
決して広くはない、でも温かみのある部屋。
生活感が溢れていて、どこか懐かしい匂いがした。
ちいの描いた絵が冷蔵庫にマグネットで貼られていて、洗濯物が片付かない日もあったけど、それが、愛おしかった。
「ここ、俺も掃除しよっか?」
「えっ?いいんですか?」
「俺、無職だから。働かない代わりに、せめて役には立ちたい」
「……ありがとう」
そのやりとりが、少しずつ、生活に馴染んでいった。
ある日、嫁子がぽつりと呟いた。
「私ね、もう一回、ちゃんと“幸せ”になっていいのかなって、思えるようになってきたんです」
その言葉を聞いて、俺は心の奥がぐっと熱くなった。
「いいに決まってるよ。てか、俺もなりたいから、一緒に、ってことで」
「ふふ……欲張りですね」
「でしょ」
同棲を始めたのは、それからすぐだった。
役所に届けを出すわけじゃなかった。荷物を少しずつ運んで、俺の部屋を引き払って、いつのまにか一緒に住んでいた。
ちいは「おじちゃんがいると楽しい!」と毎日言ってくれた。
寝る前に読む絵本の時間が、俺の一番好きな時間になった。
そして、ある日――俺は、就職が決まった。
小さな会社だったけれど、面接官がちゃんと話を聞いてくれて、俺の空白の時間も否定しなかった。
「また一からでいいです」と言ってくれた言葉に、救われた。
家に帰って、報告したときの嫁子の顔は、今でも忘れられない。
「えっ……ほんとに?!」
「うん、来月から。正社員で」
「すごい……!すごいですよ、ほんとに……!」
泣き出しそうな嫁子の横で、ちいが「ぱぱ!ぱぱ!」と叫んだ。
俺は反射的に笑って、「違う違う、まだそうじゃないから」と訂正したけど――心のどこかで、それが一番うれしかった。
俺は決めた。
この人たちと、ちゃんと生きていきたい。
もう逃げない。もう、自分を嫌いなままにしない。
だから、ある日、嫁子の前に小さな箱を置いた。
「……それって」
「指輪。高いもんじゃない。めちゃくちゃ地味だし、サイズも合ってるか分からないけど……」
「俺と、結婚してください。ちいも一緒に、家族になろう」
嫁子は目を潤ませながら、うなずいた。
「はい……こちらこそ、よろしくお願いします」
結婚式は挙げなかった。
入籍も、後回しになった。
でもそれでよかった。
ある日、公園のベンチに三人で座った。
あの日と同じ時間、同じ光景。
でも、俺たちは、ちゃんと繋がっていた。
「ここが、はじまりだったんだよね」
「うん……あのとき、ちいがひとりで遊んでた」
「俺は無職で、終わってた」
「私も、壊れかけてた」
「……でも、終わってなかったんだな」
ちいがベンチの上で跳ねた。
「ぱぱー!ままー!写真とろー!」
そう言って、俺のスマホを勝手に起動して、カメラを構えた。
タイマーでシャッターを切るとき、俺と嫁子は顔を見合わせて、同時に笑った。
「なんか、ちゃんとしてるな」
「うん。ちゃんとしてるね」
俺たちは、ささやかな式をしたわけじゃない。
でも、こうして笑い合えたこの瞬間が、俺にとっての誓いだった。
逃げてばかりいた俺が、今はここにいる。
居場所は、誰かがくれるものじゃなかった。
誰かと一緒に作っていくものだった。
あの日、公園のベンチで壊れた時計のように止まっていた俺の人生は、
ようやく――ちゃんと、動き始めた。