【べらぼう】石燕先生(鳥山石燕)ってどんな人?生涯は?史実では?べらぼうではどうなる?
石燕先生は、今からおよそ300年ほど前の江戸時代、にぎやかな江戸の町で生まれました。子どものころから、何よりも絵を描くことが大好きで、紙と筆さえあれば、夢中になって線を引き、色を塗っていました。まわりの子どもたちが外で遊ぶ中でも、石燕先生は空想の中の生き物や、見たことのない風景を頭に思い描き、それを紙の上にうつしとることが楽しくてしかたがなかったのです。きっと、この頃から、後に多くの人を楽しませる才能が芽を出していたのでしょうね。
絵の先生から学んだこと
そんな絵好きの少年だった石燕先生は、やがて本格的に絵を学ぶため、絵の先生に弟子入りします。当時の江戸には、絵を教える師匠がたくさんいて、流派ごとに描き方や考え方が少しずつ違いました。石燕先生は、師匠から筆の持ち方や線の引き方だけでなく、「物の形をよく観察すること」「見えない心まで絵に表すこと」を教わりました。たとえば、ただ猫を描くのではなく、その猫が眠そうなのか、遊びたいのか、少し怒っているのかまで考えて描くのです。この学びが、のちに彼が妖怪を描くときの豊かな表情づくりにつながっていきます。
若いころの暮らしぶり
若いころの石燕先生は、決して裕福ではありませんでした。絵を描く仕事は人気のある人なら大きな収入になりますが、駆け出しのうちは生活も安定せず、道具代や紙代をどう工面するかで苦労することも多かったのです。それでも先生は、昼は絵の仕事や修行、夜は自分の作品作りに時間を使い、一歩ずつ腕を磨いていきました。お金よりも「もっと上手くなりたい」という思いが強かったのでしょう。その姿勢が、後に江戸中に名前が知られるきっかけになっていきます。
名前にこめられた意味
「石燕(せきえん)」という名前は、本名ではなく、絵を描く世界での名前、つまり雅号(がごう)と呼ばれる芸名のようなものです。江戸時代の絵師や文人は、作品にこの雅号を署名として書くのが習わしでした。石燕先生の「石」は堅くて動かない石のように芯を持つ心を、「燕」は空を自由に飛びまわるツバメのような軽やかさと優雅さを表しているといわれます。つまり、「しっかりとした心を持ちながら、自由な想像を羽ばたかせる人」という意味がこめられていたのかもしれません。この名前だけでも、先生の人柄や生き方が少し見えてくる気がします。
石燕先生と妖怪の絵
石燕先生といえば、やはり妖怪の絵で知られています。妖怪とは、人々の想像や昔話の中に登場する、不思議で少し怖く、でもどこか面白い存在のことです。当時の江戸でも、夜道での怪しい音や、山や川での不思議な出来事は、人々の間で「妖怪のしわざ」として語られていました。石燕先生は、その物語に出てくる妖怪たちを、ただの怖い姿ではなく、ちょっと笑える表情や、人間くさい仕草を加えて描きました。これによって、子どもから大人まで楽しめる絵になり、多くの人に愛されるようになったのです。
蔦屋重三郎と石燕先生のつながりは?直接的な関係の記録はない
現存する出版記録では、石燕先生の代表作(『画図百鬼夜行』『今昔百鬼拾遺』『百器徒然袋』など)は、蔦屋重三郎の版元からは出ていません。石燕の本は須原屋など別の書肆が版元を務めています。そのため、契約や共同制作といった直接の関わりは確認できません。
出版文化の中での間接的接点
蔦屋重三郎は天明期(1780年代)に江戸の出版界を牽引し、黄表紙(風刺やユーモアのある絵入り小説)や洒落本、美人画、戯画などを数多く世に出しました。この時期、石燕先生は晩年期に入り、妖怪画集を仕上げていました。二人は活動分野こそ違いましたが、共に「絵で町人を楽しませる」仕事をしており、同じ江戸の版元ネットワークの中で動いていたと考えられます。
共通する作風の精神
石燕先生の妖怪画は、ただ怖いだけでなく、人間社会への風刺や皮肉を込めた寓意的な作品が多く見られます。蔦屋重三郎が世に送り出した黄表紙や戯画にも、同じような風刺精神があります。たとえば山東京伝や恋川春町など、蔦屋の作家が描く奇抜な人物像は、石燕的な「見た目で人間性を象徴する」造形と通じる部分があります。
人脈の重なりの可能性
蔦屋が抱えていた絵師・作家の中には、石燕作品を目にして育った世代がいます。黄表紙や挿絵の世界では、版木彫師や摺師、版元を通じて絵師同士が間接的につながることが多く、石燕の妖怪画もそうした職人ネットワーク経由で蔦屋の周辺に届いていた可能性は高いです。
文化的な影響
まとめると、二人は直接の共同作業こそありませんが、
・江戸後期の町人向け娯楽文化を支えた存在
・風刺や洒落を絵で表現する精神
・同じ版元・職人ネットワーク内で活動
という三つの点で深く同時代的な関係にあります。石燕が築いた「見て楽しみ、考えて味わう絵」の感覚は、蔦屋が育てた作家や絵師にも間接的に受け継がれていったと考えられます。
喜多川歌麿との関係・直接的な人物交流の記録はなし
史料上、鳥山石燕と喜多川歌麿が直接会った、または共同で仕事をしたという確かな記録は残っていません。二人は生きた時期が一部重なりますが、石燕は1770年代後半〜1780年代が晩年期、歌麿はその頃まだ若手の絵師で、浮世絵の世界に入ったばかりでした。活動の場も、石燕は妖怪画や戯画の挿絵を中心とする読本・草双紙系、歌麿は錦絵(浮世絵版画)を主体とする美人画の分野で、制作環境が異なります。
共通する江戸の町文化
ただし、二人が作品を発表していた江戸の町は同じで、町人文化の盛り上がりや出版業界の発展を共有しています。江戸後期は、黄表紙や洒落本といった軽文学、そして浮世絵や挿絵入りの読本が爆発的に人気を集めた時代です。べらぼう(忘八)のような風刺的な妖怪画は、歌麿の洒落本挿絵や風俗画と同じく、「庶民がクスッと笑えるが、ちょっと皮肉もきいている」表現の系譜に属します。
出版を通じた間接的接点
石燕の『今昔百鬼拾遺』や『百器徒然袋』を出版した板元(出版社)の中には、黄表紙や浮世絵の版元も兼ねる商人がいました。歌麿の美人画や戯画も、同じく多くの黄表紙版元から刊行されています。したがって、二人は同じ版元の仕事場や版木彫師・摺師といった職人を通じて、間接的に情報や作風が交わっていた可能性はあります。
作風の比較
べらぼう(忘八)は、道徳を失った人間を「顔のない人物」として描く寓意的妖怪です。一方、歌麿も一部の戯画や風刺版画では、人間の外見を誇張したり、顔や表情を意図的に変形させることで社会批判を行いました。つまり、ジャンルは違っても、「見た目の変化=性格や内面の変化の象徴」という考え方において、二人の発想は共通しています。
文化的なつながりの位置づけ
直接の師弟関係や共同制作はなくても、石燕の妖怪画にある「風刺・寓意・笑いの混ざった町人向け表現」は、江戸の絵師たちに広く影響を与えており、その中に若き日の歌麿も含まれていた可能性があります。歌麿が活躍した黄表紙や戯画の世界は、石燕が培った「絵で語る風刺」の土壌の上に咲いたとも言えるのです。
石燕先生が妖怪を描くようになったきっかけ・怖いけれど面白い妖怪たち
石燕先生が本格的に妖怪を描きはじめたのは、人々の間で昔から語られてきた不思議な話に心をひかれたからです。妖怪というと、ただ怖い存在と思うかもしれませんが、江戸の人たちにとっては、ちょっと笑える話や、教えになるお話も多くありました。たとえば、人を驚かすけれど悪さはしない妖怪や、うっかりすると人間より優しい一面を見せる妖怪もいます。石燕先生は、その「怖さ」と「面白さ」の両方を紙の上で表そうとしたのです。
絵に出てくる不思議な動物や人
先生の妖怪絵には、人や動物が少し変わった姿になったものが多く出てきます。たとえば、古くなった道具が魂を持って動きだした「付喪神(つくもがみ)」や、長い首を伸ばす女性の妖怪「ろくろ首」などがそうです。これらは全部、昔から語り継がれたお話を元にしていますが、石燕先生は自分なりの工夫で、表情や服装、まわりの景色まで細かく描き込みました。そのため、見る人はただ「怖い」と思うだけでなく、「あれ、この妖怪は何を考えているんだろう?」と想像を広げられるのです。
妖怪の名前とお話
石燕先生の作品には、一つひとつの妖怪にちゃんと名前と短い説明がつけられています。当時は文字が読める人と読めない人がいましたが、絵と名前をあわせることで、誰でも「これは○○という妖怪なんだ」と覚えられる工夫がされていました。名前には、その妖怪の性格や出身地、登場するお話の雰囲気がこめられています。こうした丁寧な説明は、ただの絵を「物語の入り口」に変えてくれたのです。
子どもにもわかる妖怪の形
石燕先生の妖怪は、怖いけれど、子どもでも直視できるようなやわらかさがあります。目玉がぎょろっとしていても、どこか愛嬌があったり、動きが面白かったりするのです。これは、見る人が年齢や経験に関係なく楽しめるようにという先生の心づかいだったのでしょう。江戸の町では、子どもたちが友達同士で石燕先生の妖怪をまねして描いたり、お話を真似して語ったりしていたと言われています。
有名な画図百鬼夜行
そして、石燕先生の名を一気に広めたのが『画図百鬼夜行(がずひゃっきやこう)』という本です。この本は、たくさんの妖怪の絵とその説明を集めたもので、百鬼夜行というのは「百もの鬼や妖怪が夜の町を行進する」という意味の昔話からきています。読み手は、ページをめくるたびに新しい妖怪と出会える楽しさがあり、まるで夜の街角を探検している気分になります。この本は、江戸時代の人々にとって娯楽でありながら、妖怪文化を広める大きなきっかけにもなったのです。
本にのせたたくさんの妖怪たち・絵とお話
石燕先生が作った妖怪の本は、ただ絵を並べただけではありません。それぞれの妖怪の姿に合う背景や小物、動きが細かく描かれていて、見ている人がその場にいるような気持ちになれる工夫がありました。さらに、絵の横には短い説明文が添えられ、その妖怪の由来や性格がわかるようになっています。たとえば「水の中にすむ」「夜になると現れる」などの一言があるだけで、見る人の想像はぐっと広がるのです。
人々に人気だった理由
この本が江戸の町で人気になった理由のひとつは、「怖さ」と「面白さ」が絶妙に混ざっていたことです。当時は、妖怪話は子どもへのしつけや、大人の井戸端会議の話題として身近にありました。石燕先生は、それらを絵としてわかりやすく見せてくれたので、「あの話の妖怪はこういう姿だったんだ!」と多くの人が夢中になりました。また、絵が美しいだけでなく、どこか人間味のある妖怪たちが、町の人々の心をつかんだのです。
他にも作った本
『画図百鬼夜行』の成功のあとも、石燕先生は妖怪をテーマにした本をいくつも作りました。たとえば『今昔画図続百鬼』や『百器徒然袋』などがあります。これらは、前の本で描けなかった妖怪や、新しく思いついた姿を加えた続編のような存在です。時代や季節に合わせた妖怪も登場し、読む人は何度でも新鮮な驚きを味わえました。こうして石燕先生の妖怪世界はどんどん広がっていきました。
絵にこめられた遊び心
石燕先生の本には、よく見るとちょっとした遊び心が隠れています。背景に江戸の町の様子を忍ばせたり、別の妖怪がこっそり遠くに描かれていたりするのです。これに気づいた読者は「こんなところに!」と嬉しくなり、友達や家族に教え合ったそうです。こうした細かい仕掛けは、まるで宝探しのように本を楽しませてくれました。
時代を超える魅力
石燕先生の妖怪本は、江戸時代だけでなく、その後の時代にも読み継がれました。明治や大正、そして今の時代になっても、多くの人がこの絵を見て「面白い」「美しい」と感じています。形や色は古風でも、妖怪たちの表情やしぐさはとても生き生きしていて、まるで今もそこにいるかのようです。この普遍的な魅力こそ、石燕先生の作品が長く愛されてきた理由でしょう。
石燕先生と弟子たち・若い弟子に教えたこと
石燕先生は、絵を学びたいという若い人たちをたくさん受け入れていました。弟子たちは、最初は先生のそばで道具の準備や片付けをしながら、少しずつ絵の描き方を教わります。線の引き方、色の塗り方だけでなく、「どうすれば生きているように見える絵になるか」という大切な考え方も学びました。先生は、「形だけでなく心も描きなさい」とよく言っていたそうです。
絵のやり方や考え方
石燕先生の教えは、とても丁寧で、ただ真似をさせるだけではありませんでした。「この線は何を表しているのか」「なぜこの色にするのか」を一つひとつ説明し、弟子たちに考えさせました。たとえば妖怪の目を描くときも、「ただ大きく描けば怖くなるわけではない。少しのゆがみや視線の向きが大事なんだ」と、細かな工夫を伝えたのです。こうして弟子たちは、技術と一緒に絵の奥深さも身につけていきました。
弟子が有名になった話
先生のもとで学んだ弟子の中には、やがて自分の名前を世に広めた人もいました。中には、妖怪ではなく人物画や風景画で人気を得た弟子もいたそうです。石燕先生は、弟子が自分と違う道を進むことを喜び、「それぞれが自分の絵を見つけなさい」と背中を押しました。この器の大きさが、多くの弟子に慕われた理由でしょう。
弟子たちとの交流
弟子との関係は、ただの師匠と生徒ではなく、家族のような温かさがあったと言われます。仕事が終わると、先生と弟子は一緒に食事をしたり、季節の行事を楽しんだりしました。お花見やお祭りにも出かけ、そうした日常の中で弟子たちは絵のヒントを得ることもあったようです。先生は「絵は机の上だけで学ぶものではない」と考えていたのかもしれません。
教えるときのやさしさ
石燕先生は、決して厳しいだけの指導ではありませんでした。弟子が失敗しても怒鳴ることはなく、「もう一度やってみよう」と励ましながら直させました。うまく描けたときは、「いいところが出てきたね」と必ず褒めるのを忘れなかったそうです。このやさしさが、弟子たちに安心感を与え、のびのびと学べる環境をつくっていたのです。
江戸のくらしと石燕先生
石燕先生が暮らしていた江戸は、日本一の大きな町で、人も物も情報もあふれていました。町中には商人の店がずらりと並び、着物や食べ物、日用品まで何でも手に入ります。朝になると魚売りや野菜売りの声が通りに響き、夜には提灯の明かりが町を照らしました。そんな活気ある風景は、先生にとって絵の題材の宝庫であり、妖怪の背景にもさりげなく描き込まれていきました。
市場やお祭りのようす
江戸では、一年を通して大小さまざまなお祭りがありました。神社の境内や町の広場には屋台が並び、笛や太鼓の音が響きます。市場では、新鮮な魚や野菜だけでなく、珍しい薬や外国からの品物まで売られていました。石燕先生はこうした場所を歩きながら、人々の笑顔や活気、そして時折見える不思議な影を心の中に描きとめていたのです。そうした観察が、妖怪たちに生き生きとした表情を与えたのかもしれません。
町の人との関わり
先生は決して家にこもりきりではなく、町の人々との交流を大切にしていました。お茶屋や小さな食事処で世間話をしたり、商人や職人の仕事ぶりを見学したりすることもありました。ときには妖怪の話を町の人から聞き、それをもとに新しい絵を生み出すこともありました。こうした日々のやりとりが、先生の作品に江戸の人情や温かみを与えていたのです。
季節ごとの風景
江戸の四季ははっきりしていて、春は桜、夏は花火、秋は紅葉、冬は雪景色と、町の色合いも大きく変わりました。石燕先生は、妖怪の絵にも季節感を巧みに取り入れます。雪の中でじっと動かない妖怪や、夏の夕暮れに提灯を持って歩く姿など、見る人が「これは夏の夜だな」と感じられる情景が広がります。こうした描写は、江戸の人々にとって懐かしく、身近に感じられるものでした。
絵にえがかれた江戸の景色
先生の妖怪絵をよく見ると、背景に江戸の町並みや川の風景が描かれています。橋を渡る人々、川べりで遊ぶ子どもたち、行商の荷車などが、小さな部分にも丁寧に描かれているのです。これは単なる飾りではなく、「妖怪は遠い山奥だけでなく、私たちのすぐそばにもいる」という感覚を伝える工夫でした。こうして妖怪は、江戸の町に生きる人々の暮らしと自然に結びついていったのです。
妖怪のえがき方・顔や体の形を考える
石燕先生は、妖怪の顔や体を描くとき、まずその妖怪がどんな性格なのかを思い浮かべました。優しいのか、おこりっぽいのか、いたずら好きなのかによって、目や口の形、体の大きさを変えるのです。たとえば人をびっくりさせる妖怪なら、目をまん丸にして口を大きく開け、動きのあるポーズをとらせます。逆に静かに見ているだけの妖怪なら、じっと座っている姿や、長い袖で顔を少し隠した姿にしました。こうして一つひとつの妖怪が「生きているように」見えるよう工夫していたのです。
怖さとかわいさのバランス
江戸時代の人々にとって、妖怪は怖いだけの存在ではありませんでした。だからこそ石燕先生は、怖さとかわいさを上手に混ぜ合わせました。顔は少し不気味でも、服の柄やしぐさにどこか人間らしさを残したり、動物のような愛嬌を加えたりしました。これにより、子どもや女性も安心して楽しめる妖怪の姿になり、見る人の心に長く残る作品となったのです。
色のぬり方
色を塗るときも、石燕先生はとても細やかでした。妖怪の肌や服は、明るい色だけでなく、少し落ち着いた色や、にじむような色を重ねて塗ります。これにより、夜の薄暗い中に立っているような雰囲気や、古くからそこにいるかのような重みが出ます。特に水の中や森の妖怪は、青や緑をうすく重ねて、しっとりとした質感を表現しました。
細かい模様の描きこみ
石燕先生の絵をよく見ると、服の模様や持ち物、背景の草木まで細かく描き込まれています。小さな花の模様や、波の形、風でそよぐ草まで丁寧に描くことで、絵に深みが生まれました。こうした細かさは、絵をじっと眺めたくなる魅力のひとつで、「何度見ても新しい発見がある」と江戸の人々に喜ばれていました。
空想を形にする工夫
妖怪は実際には目で見ることができない存在です。だからこそ、石燕先生は人の話や昔の物語から想像をふくらませ、自分なりの形を考えました。時には動物の耳やしっぽ、人の手や足を組み合わせて、誰も見たことのない新しい姿を生み出しました。この自由な発想力こそが、先生の絵を他の誰とも違うものにし、今も多くの人を引きつけています。
石燕先生が乗りこえた困難・仕事が減った時代の苦労
どんなに人気のある絵師でも、ずっと仕事が多いわけではありません。時代の流れや景気の変化で、絵の注文が減ることもありました。石燕先生も、そんな時期を何度か経験しました。それでも、絵を描くことをやめることはありませんでした。新しい題材を考えたり、自分から人に会いに行って作品を見せたりして、次の仕事につなげようと努力を続けたのです。
体の不調や病とのたたかい
長い時間、机に向かって細かい絵を描く仕事は、体に負担がかかります。目の疲れや腰の痛み、時には病気で寝込むこともありました。それでも先生は、少し元気になるとまた筆を持ちました。病気の間に見た夢や聞いた話を、あとで絵にすることもあったといいます。つらい経験さえも作品に生かす姿勢は、本当に立派です。
生活費をかせぐための工夫
仕事が少ないときには、絵の教室を開いたり、小さな挿絵の仕事を引き受けたりして生活を支えました。時には、商人の注文で看板絵や店の広告用の絵を描くこともありました。こうした仕事は妖怪とは関係ないことも多かったのですが、それでも一枚一枚丁寧に仕上げました。どんな仕事でも手を抜かない姿勢が、信頼を生み、また新しい注文につながっていったのです。
世の中の流行の変化への対応
江戸の町では、流行はすぐに移り変わります。ある年は風景画が人気になり、またある年は役者絵や美人画が流行りました。石燕先生も、そうした変化に合わせて作品の内容や表現を工夫しました。流行に合わせるだけでなく、自分の得意な妖怪の世界に新しい風を入れ、古さを感じさせないよう努力したのです。
批判や誤解と向きあう姿勢
時には、「妖怪なんて子どもだましだ」という声や、「もっと現実的な絵を描くべきだ」という批判もありました。しかし石燕先生は、自分の信じる道を曲げませんでした。「妖怪は人の心や想像力の鏡だ」と考え、絵を通してその魅力を伝え続けたのです。批判を受けても怒ることなく、むしろ丁寧に話をして理解してもらおうとした姿は、多くの人の心を動かしました。
石燕先生の人柄・おだやかで落ちついた性格
石燕先生は、普段からあまり声を荒らげることがなく、落ち着いた話し方をする人だったそうです。慌てて行動するよりも、一つひとつを確かめながら進めるのが好きで、その性格は絵にも表れていました。細かい線や、柔らかな色づかいには、この落ち着きと丁寧さがにじんでいます。弟子や周りの人は、この穏やかな雰囲気に安心して相談ができたといいます。
弟子や仲間を大切にする心
先生は、自分の弟子や絵の仲間たちをとても大事にしました。忙しいときでも、弟子の作品を見てアドバイスをしたり、仲間の絵の展覧会に足を運んだりしました。誰かが困っているときは、できる限り助けようとし、そうした優しさは自然と人を集めました。人とのつながりを大事にする姿勢が、先生の周りにあたたかな空気を生んでいたのです。
絵を通じて人を楽しませる思い
石燕先生にとって、絵は単なる仕事ではなく、「見る人を楽しませるための贈り物」でした。妖怪の表情をちょっと面白くしたり、背景に遊び心を入れたりするのも、そのためです。「見た人が笑ったり、驚いたりしてくれたらうれしい」という気持ちで描いていたのでしょう。この思いが、作品から自然と伝わってきます。
新しいことをためす勇気
当時の絵師は、決まった描き方を守ることが多かったのですが、石燕先生は新しい工夫を取り入れることを恐れませんでした。妖怪の姿に今までなかった形を加えたり、色づかいを変えたりして、自分らしい絵を追求しました。こうした挑戦が、時代を超えて魅力が色あせない理由の一つになっています。
人との出会いを喜ぶ気持ち
先生は、人と会うことが好きでした。町で偶然出会った人とも気軽に話し、そこから新しい話や物語を知ることがありました。こうした出会いは、妖怪のアイデアにもつながります。「世の中には、自分の知らない面白い話がまだまだある」と信じていたのでしょう。出会いを喜び、それを作品に生かす姿は、とても魅力的です。
妖怪の文化と今・今も人気の妖怪たち
石燕先生が描いた妖怪の多くは、江戸時代だけでなく、今の時代にも知られています。「からかさお化け」や「ろくろ首」「ぬりかべ」などは、絵本やテレビでも見かけますよね。時代が変わっても人々の興味をひくのは、その妖怪たちが単なる怖い存在ではなく、どこか人間らしさや愛嬌を持っているからです。こうした性格づけは、石燕先生の絵の影響を色濃く受けています。
漫画やアニメに出る妖怪
現代では、漫画やアニメの中で妖怪が活躍する作品がたくさんあります。石燕先生の描いた妖怪は、形や特徴が参考にされることも多く、デザインの基礎になっている例もあります。たとえば、現代風に色を鮮やかにしたり、性格をユーモラスに変えたりして、新しい物語に登場しています。こうして妖怪は、世代や国を超えて親しまれる存在になっています。
昔の妖怪と今の妖怪のちがい
昔の妖怪は、人々の生活や自然の中の不思議な出来事から生まれました。夜道の音や古い家のきしみ、山や川の事故などを、妖怪のしわざとして語り継いだのです。一方、今の妖怪は、物語の中でより個性豊かに描かれ、友だちのように人と関わることもあります。怖さよりも可愛らしさや面白さを前面に出すことが多くなり、エンターテインメントとしての役割が大きくなっています。
海外の人が見る妖怪
最近では、海外でも日本の妖怪に興味を持つ人が増えています。観光地やイベントでは、妖怪をテーマにした展示やグッズが人気で、石燕先生の絵も英語や他の言葉に訳されて紹介されています。外国の人にとって、妖怪は日本の文化や歴史を感じられる不思議で魅力的な存在であり、美術としても高く評価されています。
子どもたちに伝えたい妖怪話
妖怪の話は、ただ怖がらせるだけではなく、自然や人との関わりを大切にする心を伝える役割もあります。石燕先生が描いた妖怪には、「いたずらをするとこうなるよ」という教えや、「大切にすれば幸せをくれる」という温かいメッセージも隠されています。だからこそ、今の子どもたちにも、昔の妖怪話を絵とともに伝えていくことは意味があると思います。
石燕先生から学べること・好きなことを続ける大切さ
石燕先生の人生で何よりも大きな力になったのは、「絵が好き」という気持ちでした。仕事が少ない時期や体調の悪い時でも、その思いを手放しませんでした。好きなことを続けることは簡単ではありませんが、続けることで自分の道が開け、作品が人の心に残るのだということを教えてくれます。
自分の世界を持つ強さ
世の中の流行や人の意見に流されず、自分の描きたい世界を大切にした石燕先生。その強さがあったからこそ、妖怪という独自の分野で多くの人に知られる存在になりました。「自分の世界」を持つことは、時には孤独ですが、それを貫くことで唯一無二の魅力が生まれるのです。
人とのつながりを大事にする
先生は、弟子や仲間、町の人々との交流を大切にしていました。そこから新しい発想や物語が生まれ、それが作品を豊かにしました。人とのつながりは、仕事だけでなく心の支えにもなります。どんな時代でも、信頼できる人との関係は大切にしたいものです。
新しい工夫をためす心
決まったやり方にとらわれず、新しい形や色を試みた石燕先生。失敗を恐れずに挑戦したからこそ、絵は時代を超えて魅力を持ち続けています。新しいことを試す勇気は、どんな分野でも成長につながる大切な力です。
後の世まで残る仕事
石燕先生の絵は、江戸時代から今まで、300年近くも人々に見られ、語られ続けています。これは、ひとつひとつの作品を丁寧に、心を込めて作り上げてきたからこそです。後の世まで残る仕事をするためには、時間や手間を惜しまない誠実さが必要なのだと感じさせられます。

